日 本 橋
(にほん ばし)

 全長 : 49.1 m  全幅 : 27.3 m  構造 : 2スパン 石造 アーチ橋  完成 : 明治44年 (1911)
 区間 : 中央区 日本橋 1丁目 <==> 中央区 日本橋 室町 1丁目  (中央通り)


『日本橋』 (上流側より)

『日本橋』 (下流側より)
 
【日本橋】
『日本橋(にほん ばし)』 は、中央区日本橋 と 日本橋室町 の間で、
東京の中心部を走る 「中央通り」 が 「日本橋川」 を渡る橋である。
日本の道路の起点となる 「日本国道路元標」 が設置されている橋でもあり、
その名の通り、日本を代表する橋 であるといえよう。
この 『日本橋』 は江戸時代の初期から現在に至るまで、日本の道路の原点であるばかりか、
日本の国土整備計画の根幹をなす橋であったといっても過言ではない。

【橋の創架と橋名の由来】
『日本橋』 が初めて架設されたのは、徳川幕府が開かれた慶長 8年(1603) と伝えられている。
橋名の由来には、「丸太の二本橋」 であったからという説もあるようだが、
架設の翌年には 「五街道」 の起点として定められていることから、
「丸太の二本橋」 説よりは
「日本の中心をなす橋」 で 『日本橋』 と命名された という説に説得力がある。
まあ、いずれにしてもこれらは推測でしかないが・・・。
この、「道路の起点」 の制定によって、『日本橋』 は名実ともに日本の中心となっていく。

【擬宝珠】
寛永年間の初期 (1624〜30年代) には、擬宝珠(ぎぼし) を冠した立派な橋が架けられており、
古い資料には、『日本橋』 や周辺の賑わいを描いたものが数多く残っている。
「擬宝珠」 とは、橋の欄干の柱に被せる金属製の帽子のようなもので、
当時はその橋の 「格」 を表すものであったという。
皇居の内濠に架かる 『平川橋』 などには今も残されているが、
この 擬宝珠 付きの橋は、江戸の頃にもそう多くはなかったようである。

【陸運 ・ 水運】
この 『日本橋』 一帯は、五街道の起点として 「陸路の中心」 であったと同時に、
江戸湊から江戸中心部へと物資を運ぶ 「日本橋川」 との接点でもあり、
「水運の中心」 としても賑わった場所である。
従って、この辺りには大小様々な問屋や小売商が立地しており、
白壁・黒壁の大きな蔵もたくさん並んでいたという。

【現在の日本橋】
現在の 『日本橋』 は、明治44年(1911) に当時の 東京市 によって架けられたもので、
石造の重厚感溢れる2連アーチ橋である。
「日本国道路元標」 が設置される橋であり、
東京の中心、日本の中心 となる橋として恥かしくないものにするため、
計画段階から様々な論議がなされたようであるが、
最終的に石造のアーチ橋に決定した。

【歴史と風格】
このアーチ橋は 花崗岩(かこうがん) の 御影石(みかげいし) で出来ており、
その堂々とした風格は、1世紀近い時を経た現在でも、
見る人、渡る人に感動を与えてくれる。
青銅製の橋灯にある装飾の 「麒麟(きりん)」 の像は東京の繁栄を、
そして「獅子(しし)」 の像は守護を表しているという。
また、親柱の橋名の文字は、晩年の 徳川慶喜 (徳川15代将軍) の筆によるものだそうで、
その年数以上の歴史を感じさせてくれる橋である。

【道路元標】
昭和47年(1972)、橋の中央 (車道の中心部) に埋め込まれた 「日本国道路元標」 のプレートは、
時の総理大臣 佐藤栄作氏 が書いたものであるが、
普段は交通量が多くて見られないため、
「元標の広場」 にそのレプリカ(複製) が設置してある。
また、「日本国道路元標」 の真上、首都高速道路の高架部分には、
高速道路用の 「道路元標」? も設置されている。

【重要文化財】
この 『日本橋』 は、大正12年(1923)の関東大震災にも崩れることなく、
幾度かの補修を受けながら今日に至っている。
最近では平成10年(1998) に、橋灯や装飾品の補修が行われた。
そして、翌平成11年 5月には、その技術的・構造的価値や意匠的価値の高さが認められ、
国の重要文化財に指定されている。


石造の柱の上に素晴らしい彫刻を配置した親柱

親柱に飾られている 「獅子」 の像

親柱・中柱に同調させたデザインの橋灯

親柱よりさらに大きく天を突くような中柱

中柱に装飾されているのは 「麒麟」 の像

2頭の 「麒麟」 が各々橋詰方向を向いている

重厚感のある石造の欄干

歩道部も石張りだが補修を望みたい

徳川慶喜の筆による橋名盤
【徳川慶喜】
徳川幕府最後の将軍 徳川慶喜 は、天保 8年(1837)に水戸藩主 徳川斉昭の七男として小石川の水戸藩上屋敷で生まれ、幼名を 「松平 七郎麿」 と称した。その後、弘化4年(1847)に御三卿の 「一橋家」 を相続し、徳川慶喜 を名乗る。慶応 2年(1866) 8月に 「徳川宗家(本家)」 を相続後、同年12月 5日、徳川家15代将軍に任命される。翌慶応 3年10月には 「大政奉還」 を迎え、徳川幕府に終止符が打たれる。
慶応 4年4月、慶喜 は謹慎のため上野寛永寺より水戸へ出発。同年 9月には 「明治」 と改元された。その後 慶喜 は静岡に移り、明治30年に東京に戻っている。大正 2年(1913)11月22日、77才にて死去。
『日本橋』 の橋名盤の文字は、慶喜 の晩年の筆であると思われる。

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