VIゼミエッセイ集

謎の魅力         
〜〜私を引き付けるもの〜〜
ベートーヴェン弦楽四重奏曲第15番第3楽章の演奏を比べる〜
スメタナ弦楽四重奏団とズスケ弦楽四重奏団

英文4年 内田由紀 2000年5月26日提出

 クラシック音楽というものとはほとんど無縁の生活をしてきた私にとって、そのフレ−ズを口ずさむということは想像以上に難しかった。「これが主旋律だ」と信用して、ある音を追い掛けていたのに、気が付くとそれはいつのまにか違う音に取って代られている。なんだか裏切られたような気さえする。
 普段私が好んで聴いている音楽はこんなふうに私を裏切ったりはしない。たとえいくつかの音が重なっていたとしても、それらの音はみな同じ方向を向いている。だから聴いている私もそれを追いかけやすいのだ。だが、弦楽四重奏曲一五番第三楽章に流れる四つの音はそれぞれがまったく違った方向に向かってふわふわと飛んでいってしまい、追いかけても追いかけてもそれをつかむことができない、といった感じなのだ。
 そして一ヵ月後、ズスケ弦楽四重奏団による演奏が録音されたテ−プをわたされた。曲のフレ−ズさえまともに歌えない私が、二つの楽団の演奏を聞き分けることなどできるのか、ましてその善し悪しを言うことなどできるのかという思いが頭の中を駆け巡り、最初このテ−プをかけることをためらってしまった。だが、とにかく聴いてみないことにはどうにもならないと思い、おそるおそるテ−プをかけた。その数秒後に耳に入ってきた音楽に私は思わず「あれっ」という驚きの声を漏らしてしまった。私が一ヵ月かけても馴染むことのできなかった曲と同じ曲にもかかわらず、それは意外にもすんなりと私のなかに入ってきたのである。いったいなぜこのようなことが起こったのであろうか。これは私にとってうれしい裏切りである。前回の課題であるスメタナ弦楽四重奏団による演奏では、特に前半部分ステレオがおかしくなってしまったのではないかと思うほど、静かでゆっくりとしたテンポで曲が流れていた。それが私がこの曲に馴染めない原因のひとつだった。それに対し今回の演奏では、私が普段聴いている音楽に比べれば速いとは言えないが、それでも前回の演奏よりは速いテンポで演奏されていたのである。
 また、この曲は私を眠りに誘うものでもあった。おそらくつかみきれない音を追うことを諦めた私に、低すぎるのではないかと思われるほどの音程が追い打ちをかけたのであろう。しかし、今回の演奏ではその音も前回よりも高くなっていたために眠気が私を襲うこともなかった。ただ高いというだけではなく、ひとつひとつの音がはっきりと聞こえた。スメタナ弦楽四重奏団の演奏では霧がかかっていていてぼやっとしかわからなかったものが今やっと霧が晴れ、はっきりとその姿を現したように感じられた。
 このふたつの楽団による演奏を人間にたとえるなら、前者はすでにその人生の大半を過ごした隠居の身の人間、そして後者は現役であちこちに飛び回っている若者といったところであろうか。とにかく、ズスケ弦楽四重奏団による演奏に対し、明るく生き生きとしているという好印象を抱いたのである。
 ところが、このわかりやすさは今度は私に「飽き」という気持ちをもたらしてしまった。一週間この演奏を聴き続けるうちに、スメタナ弦楽四重奏団の演奏では一ヵ月かけても曲の概要さえつかむことができなかったのに、クラシック音楽に対して全くの無知である私でさえなんとなくこの曲の骨組みを把握できた気がした。それがわかってしまうと、もうこれ以上この曲を理解しようという努力をしなくなってしまったのである。それなら一ヵ月間、悪戦苦闘したスメタナ弦楽四重奏団の演奏に対してもきっと同じ気持ちを抱くのだろうと考えて、もう一度その演奏を聴きなおしてみた。ところがその演奏は再び私の予想を大きくくつがえすものであった。とらえることができたと思っていた音は、糸の切れた凧のように再び私の手から離れていってしまった。とはいっても、一ヵ月間聴き続けたおかげでどうにかそれをとらえなおすことができる。だが、少しでも気を抜くとまた離れていってしまう。十七分ちかくもの間、ずっとこれの繰り返しで、曲に飽きたなどと言っている暇はないのだ。こうして注意して曲を聴いているために、小さな変化にも気が付くことができる。例えば、同じ穏やかな部分でも曲の頭で演奏されるそれと、曲の合間で演奏されるそれとでは微妙に違うことがわかる。また、クライマックスとでも言うべき部分がそれまでの穏やかさと対照されて際立つのである。その他にも聴くたびに新しい発見があった。
 この曲のなかの「謎」は最初私をそこから遠ざけるものであったにもかかわらず、知らないうちに私をこの曲に引き付けるものへと変化していたのである。私にとってはわけのわからないものであるこの弦楽四重奏曲を一ヵ月間も飽きずに聴き続けることができたのは、他ならぬこの「謎」のおかげであった。
 文学に対しても同じことが言える。私たちがある作品に対して興味を持つのは、それが「謎」をもっているからである。「謎」がなくなったということは、その作品を研究し尽くしたということを指すのではなく、その作品に対する興味を失ったことを意味するのである。だから、音楽に対しても文学に対しても、また私たちの世界すべてに対して「謎」を持ち続ける必要があるのだと思う。