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新・夜話:聖書にもあるナバテア王国の謎の解明


1.聖書にも出てくるナバテア王国

新約聖書「使徒言行録」やパウロ書簡に登場するパウロは、ダマスコで回心した後、誰にも相談もせずアラビアに行った事が記されている。もしかしたら、知合いや縁戚関係者がいたのか、あるいはすでにエッセネ派系キリスト教徒がいたのか不明だが、何らかのツテはあったと思われる。

(ガラテヤ信徒への手紙1章16-17)異邦人の間に宣教するため、御子を私に啓示して下さった時、血肉に相談もせず、また先輩使徒に会うためにエルサレムにも上らず、アラビヤに出て行った。それから再びダマスコに帰った。

パウロの行ったアラビアとは。この記述だけではどこを指すのか分からないが、後の書簡からナバテア王国のペトラ付近ではないかと考えられる。何故ならば

(コリント信徒への手紙2・11:32-33)ダマスコでアレタス王の代官が、私を捕えるためにダマスコ人の町を監視していたが、その時わたしは窓から町の城壁づたいに、かごでつり降ろされて、彼の手からのがれた。

上記のように、ダマスコまで逃げたパウロを、ナバテア国アレタス王の代官が追ってきた事がパウロの書簡に書かれている。パウロは、アレタス王の支配下のナバテア王国において、彼の性格から考えて、早速布教活動を行なったのではないかと推測する。それがナバテア王国の秩序を乱すものとして、アレタス王(アレタス四世)の怒りに触れたのだろう 。おまけに当時は、ユダヤとナバテアとはガリラヤ領主のヘロデ・アンティパスの離婚問題で対立関係(戦争でアンティパスは敗れた)にあった。


2.ペトラ遺跡とナバテア王国

ナバテア人とは、現在のイエメン辺りに住んでいた遊牧民で、紀元前5〜6世紀頃の大干ばつにが原因で北上して、ペトラに都を築いたそうです。紀元前2世紀前半、現ヨルダン付近に栄えてナバテア国と呼ばれた。写真は、映画「インディ・ジョーンズ最後の聖戦」の撮影場所にもなったことで有名になった、ナバテア人の要塞都市の遺跡。

メソポタミア・アラビア〜地中海間の隊商路を掌握した騎馬隊を有する民族であったが、ローマ帝国の進出でその勢力下での友好国となった。ローマ皇帝アウグストゥスは、勢力下においてユダヤとナバテアとの友好のために、ガリラヤ領主のヘロデ・アンティパスとナバテア国のアレタス四世の娘とを結婚させた。ところが、ヘロデ・アンティパスは異母弟のフィリポの妻のヘロデヤと結婚(重婚)する。福音書に書かれているように、この再婚を洗礼者ヨハネが非難して、ヨハネはマケラスの牢獄に繋がれ斬首されている。だから、パウロが潜入した当時、ユダヤとナバテアとの関係が相当悪化していたと考えられる。

ナバテア人は当時の地中海東部で広く使われていたアラム語(ヘブライ語の一種)を話していたとされる。文字としては、フェニキアのアルファベットを少し崩した(現在のアラビア語の祖先である)ナバテア文字を使用していた。また、ペトラやマダイン・サリの周囲では南アラビア文字と呼ばれる文字が数多く発見されているが、南アラビア文字というのは前5世紀頃に使用されていた文字なので、なぜナバテアに伝わったのか良く分かっていないようだ。以前は、ナバテア国は失われた幻の国と言われていた。しかし何故、不毛の沙漠地帯に繁栄した王国が出来たのかは良く分かっていなかった。しかし、最近の研究から、その謎が解けた。


3.古代都市ペトラの発展の基礎は棚田による大規模農耕

http://www.sciencenewsline.com/news/2013010220250030.html
SciensNewsLine、January 2, 2013.

シンシナティ大学のクリスチャン・クロークを含む考古学者による国際研究チームは、ブラウン大学ペトラ考古学プロジェクト(BUPAP)のスーザン・アルコック教授の指導下で、古代都市ペトラにおける大規模な水管理と農産物生産の成功に関わる新しい調査を行っている。高解像度の衛星画像、optically stimulated luminescence (OSL) 、土壌の年代測定など様々な技術を活用することにより、研究チームは、イエス時代である紀元1世紀(約2000年前)に、都市の北部に大規模な棚田(terrace farming)とダムの建設が始まった事を示す証拠を発見した。これまでの仮説では、こうした建設は鉄器時代(BC1200〜300)に始まったと考えられている。これらの開発は、2世紀の初頭まで勢力を誇っていた古代ナバテア人によって進められたものと見られている。

棚田による穀物、ぶどう、また恐らくオリーブの生産に成功した事で、それまで人を寄せ付けなかった乾燥した風景が続くペトラの周辺地域に緑が広がる農地ができた。この棚田による農業は3世紀に渡って順調に、そして広範囲に渡って推移した。表面の土壌、他の地域との比較データなどによる調査の結果、この農業形態は、最初のミレニアムの終わり(AD800〜1000年)までは続いていた事が判った。古代ペトラにおける大規模農業は、現代においては乾燥した大地が広がるこの地における、古代文明における土地管理戦略の成功を示すものとなるだろうと、研究チームは述べている。


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