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新・夜話:童話「ごん狐」の悲劇と情報社会


青空文庫 「ごん狐」(全文が読める)


●新美南吉の童話「ごん狐」のあらすじ

(起)小さい頃、村の茂平爺さんから聞いた話。昔、村近くの中山という処に小城があった。少し離れた山の中に、「ゴン狐」という孤独な小狐がいて、シダの一杯茂った森の中の穴に住んでいた。夜でも昼でも村へ出てきて、いたずらばかりした。畑へ入り芋を堀り散らしたり、干した菜種がらに火をつけたり、百姓家の裏手に吊しているトンガラシをむしりとったり。ある秋、二、三日雨が続いた間、ゴンは外へも出られず穴の中にしゃがんでいたが、雨があがるとほっとして穴から出て、村の小川の堤まで来た。兵十が、腰まで水にひたりながら、魚をとる網をゆすぶって、網からびくの中へウナギやキスを入れていた。それから、何をさがしにか川上の方へかけていった。兵十がいなくなると、ゴンはびくのそばへかけつけ、ちょいといたずらがしたくなり、中の魚をつかみ出しては、下手の川の中へポンポン投げ込んだ。最後に太いウナギをつかみにかかるが、ぬるぬると滑り抜けるので、ウナギの頭を口に咥えた。ウナギは、キュッと言ってゴンの首へ巻き付いた。その途端に兵十が、向うから「うわ、盗人狐め」とどなりたてた。ゴンはびっくりして飛び上がり、一所懸命に逃げた。ほら穴の近くでウナギの頭を?み砕き、やっとはずした。

(承)まもなく、兵十の母親が死んだのを知った。あのウナギは、一人息子の兵十が病気の母に食べさせようとしていたのかと悟ったゴンは、悪いことをしてしまったと後悔し、何とかお詫びをしたいと思った。そこで、イワシ売りの籠からこっそりイワシを抜き取り、ゴンそれを兵十の家の縁側に置いた。イワシ売りは、売物のイワシが兵十の所にあるのを見て、さては兵十が盗んだものと思い、ゴン天秤棒で兵十をなぐり大怪我を負わす。「ゴン狐」のゴンは、自分がしたことが、思いもかけず兵十を傷つけてしまったので、何としても償いをしなければならないと、それからは毎日、森でクリやマツタケを拾って、それをこっそりと兵十の家へ届けるのだった。

(転)月の良い晩、ゴンはブラブラ遊びに出かけた。中山の城の下を通って少し行くと、細道の向うから誰かが来る。話声はだんだん近くなり、それは兵十と百姓の加助だった。兵十が加助に「おっ母が死んでからは、誰だか知らんが、俺にクリやマツタケなんかを毎日毎日くれるんだ」と話していた。吉兵衛という百姓の法事の帰り道、加助が「さっきの話は、きっとそりゃあ神さまのしわざだぞ」と言う。兵十はびっくりして、加助の顔を見る。加助は「俺はあれからずっと考えていたが、どうもそりゃ人間じゃない、神さまだ、神さまが、お前がたった一人になったのをあわれに思わっしゃって、いろんなものを恵んで下さるんだよ」と言うので、兵十も「そうかなあ」と答える。加助は神さまに礼を言うのが良いと言い、兵十も頷く。それを聞いて、ゴンはつまらないなと思った。俺がクリやマツタケを持っていっているのに、俺には礼をいわないで、神さまにお礼をいうんじゃあ、引き合わないなあと思った。

(結)そのあくる日もゴンは、栗をもって兵十の家へ出かけた。兵十は物置で縄をなっていた。それでゴンは家の裏口から、こっそり中へ入った。そのとき兵十は、ふと顔をあげた。狐が家の中へ入ったではないか。こないだ、ウナギを盗みやがったあのゴン狐めが、またいたずらをしに来たな。兵十は立ちあがって、納屋にかけてある火縄銃をとり火薬をつめた。足音をしのばせて近かより、戸口を出ようとするゴンをドンと撃った。ゴンはばたりと倒れた。兵十はかけよって来た。家の中を見ると、土間に栗がかためて置いてあるのが目についた。兵十は、びっくりしてゴンに目を落した。「ゴン、お前だったのか。いつも栗をくれたのは」。ゴンは、ぐったりと目をつぶったまま頷いた。兵十は火縄銃をパタリと落した。青い煙が、まだ筒口から細く出ていた。


1.孤独

孤独の語源は、老子の「老いて子無きを独と曰ひ、 幼くして父無きを孤と曰ふ」が語源で、年老いて子供がいないのが「独」、幼くして父親がいないのが「孤」とされる。小狐ゴンは、山の中の穴に住む独りぼっちの狐で、父も子も居ない。遊ぶ相手もおらず、イタズラする事で気を紛らしていたのだろうか。余計に誰からの相手されず、迷惑のたねになっている。孤独故に、コミュニケーションを取る方法がない。

現代の日常は、情報手段が溢れかえる程の情報化社会となっている。人は人と接しなくても、会話しなくても、情報を得て孤独でも生活出来る。ネット通販で買物出来るし、テレビや新聞がなくても社会の動向を知る事が可能で、必ずしも人と接触する必要はない。しかし、そこにはもはや、暖かい心の繋がりはながりは存在しない。コミュニケーションの最高の手段はスキンシップだと言われるように、互いに接触する事で親近感を抱く。会話し、共に食事をし、共に酒を汲むかわす。昔は口コミ以外の情報手段がほとんどなかったから、好むと好まざるにかかわらずスキンシップを取らざるを得なかった。高度情報化社会は必ずしも人を連帯させるとは言えず、逆の現象も起こる。お年寄りのアパートでの一人暮し、誰に看取られる事なく死んでいく孤独死。それもまた情報化社会の一面である。直接会う、スキンシップを取る、本来動物が群れをなす基本要素が無くなりつつある。

2.コミュニケーションの疎通の要因

小狐ゴンの結末は、読み手の心を激しく揺り動かす。孤独なゴンは、以前の悪戯を悔いて償いに献身するが、相手の心には通じない。そして、そのまま悲劇の結末を迎える。通じないだけでなく、逆に誤解されていた。銃で撃たれた後、ようやく相手はゴンの気持ちが分かるが、それをゴンが知ったのは撃たれた後だった。「ゴンの善行」の情報は兵十には正確には届かない。何故か?狐が人間の言葉を話せないからと云う、情報伝達方法だけの問題ではない。

3.情報のフィルタリング

情報には解釈が入り込む事が多い。兵十は知り合いの加助の話「神さまが、お前がたった一人になったのをあわれに思わっしゃって、いろんなものを恵んで下さるんだよ」と言う情報解釈に納得してしまう。加助の解釈は、情報のフィルタリング(情報の濾過)と呼ばれるものだ。他の可能性を排除してしまう。解釈には主観が入るが、これはなかなか避けようがない。兵十は加助の解釈に納得し、神様に感謝する気持ちになった。それを聞いて、ゴンは落胆する。「俺には礼をいわないで、神さまにお礼をいうんじゃあ、引き合わない」と思う。ゴンには償い行為を認めて欲しい気持ちがあった訳だ。見返りを求めているのではないが、善意を知って欲しいと思った。

4.情報の非対称性

ゴンは情報秘匿を行っているわけではない。最初はイワシ売りの籠からイワシを盗んで兵十の家の縁側に置いている。いつかは兵十も気づくだろうとの思いがあったのではないか?しかし、これは逆に兵十に迷惑をかけてしまった。盗みの汚名を着せた事になったからだ。予想しない事であったので、今度こそ何としても償いをしなければならないと、毎日クリやマツタケを拾ってこっそりと兵十の家へ届けた。今度はこっそりとであるから、気が付いて貰う事は期待していないようだが、やはり神様のお陰と言われると落胆する。人知れずの善意であったが、やはり気づいて欲しい。ゴンは自分のしている事は十分承知しているが、兵十には情報がほとんどない。情報の非対称性だが、これは社会では非常に多い、いやいやほとんど全部かも知れない。量子論でも、対称性の破れがある。この世は非対称に成立し、時間の矢も逆戻りしない。すべての人に真相が行き渡るなどあり得ない。


5.非言語コミュニケーション

永禄12年(1570)織田信長は、越前の朝倉義景討伐に3万の大軍を率いて京を発し若狭に入った。天筒山城と金ヶ崎城を降し、木ノ目峠を越えようとしていた時、浅井長政に嫁いだ妹の市から陣中見舞いと称して、信長の好物の小豆が届けられた。小豆が入った袋は、何故か両端を結んであり書状はなかった。信長はしばらく手に取って見ていたが、ハッと気付く…浅井長政が謀叛で退路を絶ち、 朝倉と前後から挟撃しようとしていると。信長軍は袋の中の小豆、前後を固く閉ざされていて脱出出来ない状況を暗示している。これは非言語コミュニケーション(ノンバーバル・コミュニケーション) の典型だ。兵十は縁側にイワシが置いてあるのを見ていた。そのイワシは、ゴンがイワシ売りの籠から盗んだものだった事で、兵十はイワシ売りから大怪我を負わされているので、これは神が恵んだものではないと気が付く筈だ。その翌日から、今度はイワシではなく森にあるクリとマツタケが裏口の土間に置かれるようになったので、同じ者の行為と推測する(非言語コミュニケーションの理解)事も可能ではなかったか?それを神の仕業だと思い込んだ。また、狐が裏口から何も持たず出てきたのを見て、先に土間や家の中を(荒らされていないか)確認すべきではなかったか?

この童話は、異種間動物のコミュニケーションの疎通による悲劇を描いているが、背景には人間同士の触れあいの問題が隠されている。童話に共通するもので、狐の言葉や考えが描かれていて擬人化されている。童話自体が、読み手に考えさせる効果を持つので(明確な結論はあえて書かれていない)、この悲劇的な物語から、何を掴むのかが問われている。イエスのたとえ話も同じであった。


6.話題になった小学生の読書感想文

話題になった小学生の読書感想文の要点は、「やった事への報いは必ず受けるものだ」「こそこそした罪滅しは、身勝手で自己満足でしかない、撃たれて当たり前」と言うものだった。この考えは因果応報、信賞必罰(功績ある者は必ず賞し、罪過ある者は必ず罰する、賞罰を厳格にすること)の考えに基づいている限り、妥当かもしれないが、生きる者同士の共感や共鳴は欠如している。現代では応報思想が蔓延していて、親自体が子にそういう教育をしているのかも知れない。共感の欠如はサイコパスに繋がる(参照)。

(パール・バック)一人で生きようとする者が、人生で成功する事はない。他人の心と通じないと、心は枯れてしまう。自分の考えだけを聞き、他人からインスピレーションを得なければ、心はしぼんでしまう。

7.隠れた善行

社会の中で「善行をしたい」と思う人は少数ながらいる。6の小学生の自己満足発言は、「善行を行う」事は、他人から善人と見られたいか、自分で善人であると思いたいかであり、いずれにしても善行をする事で自分が満足したい人間だと言っている。どんな善行をしても、この自己満足があるかぎり、自己愛のためがあり、純粋に他者のためではなく、偽善的な行為と言えるかもしれないし、また自己満足の要素を全くなくす事は難しい。しかし、人間の行う善行が偽善かもしれないとしても、どこが悪いのだろうか?「偽善者にはなりたくない、だから何もしない」は、最悪の考えで、結局何もしないという欺瞞に満ちた詭弁である。

(マタイ福音書6:1-4)自分の正しさを、見られるために人の前で行わないよう注意せよ。そうしないなら、父から義とされないであろう。ゆえに、施しをする時は、偽善者達が人に褒められるため、会堂や町の中で、自分の前でラッパを吹きならすな。アーメン、彼らはその報いをすでに受けてしまっている。施しをする場合、右の手のする事を左の手に知らせるな。それは、あなたの施しが隠されるためである。そうすれば、隠れた事を見ている父は、義としてくれるであろう。

イエスは善行をしたり貧者に施しをする事自体、否定しない。むしろ「偽善者になりたくないから」と善行から逃げる人間に対して、「隠れたところで善行をしろ、そうすれば偽善者にならずに済む」と勧めている。

8.悲劇から学ぶことは多い

失敗や悲劇は、当然望んでやったことではない。仏教で言う縁起だが、原因があって結果がある。何でも運が悪かったと結論付けられるものでもない。失敗や悲劇から学ぶことが多いのは、そこから得られるものが将来に繋がるからだ。何故、失敗や悲劇が起こったのかを追求しなければならない。繰り返される悲劇の原因は「無関心」にある。


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