このコーナーのTOP ホーム  イエスの生涯とパウロの生涯の電子書籍

資料:イエスの結婚、エッセネ人とファリサイ人


1.イエスの結婚

イエスが一度は結婚していた事は、ほぼ間違いない。当時は、男子はおよそ十八歳前後で妻帯していた。不具者や独身の男は、厳密に言えば、正式なイスラエルの会衆とは認められなかった。ましてや、ラビ(教師)と呼ばれる者は妻帯者に限られた。イエスは、ファリサイ派のものからもラビと呼ばれていたので、一度は結婚した事は疑いようがない。もし独身で居たなら、それに対する非難は激しいものがあり、福音書にも記されたであろう。おそらく妻帯したが、直ぐに亡くなってしまい、以降は再婚していない。マルコ福音書にある復活問答や、姦淫に対する考えなどからも、再婚はあり得ないと思われる。マグダラのマリアは親族扱い(イエスの十字架死から三日目に墓を訪れるのは親族に限られる)されていたが、結婚した形跡はない。あくまでも親族扱いだが、周囲からマグダラのマリアは、イエスの心の伴侶と思われていたのかも知れない。その可能性はあると考える。


2.エッセネ派

(1)クムランの施設

死海北西部の沿岸近くのワディ・クムランの川縁で発見された死海文書は、どのような集団の人々が残した蔵書だったのかを調査する目的で、1951年から1956年まで5回にわたりR・ド・フォー神父を中心としてキルベト・クムランの発掘が行われた。発掘調査は遺跡、周辺の墓地、死海沿岸のオアシスであったアイン・フェシュカの住居跡、写本断片が発見された洞窟などであった。なお、発掘された写本は、最終的にイスラエル政府に買上げられ、エルサレムのイスラエル博物館に隣接する「写本の殿堂」に収められている。

クムランの遺跡(居住施設)はワディと洞窟群に面する泥灰地の台地に建てられていた。この地は古代においては「塩の町」(ヨシュア記15)であったと考えられている。紀元前7世紀のヨシヤの時代には砦がつくられたが、バビロニアによりユダ王国が滅ぼされて以来放置されていた古い砦跡に建てられた。この遺跡は、発掘の結果3層に及んでいた事が分かった。最も古い層は前2世紀に遡れる。紀元前31年の地震で施設は破壊されてしまい(破壊された痕跡も見つかっている)、一時エルサレムのシオン山付近の施設に移り住んでいたが、ヘロデ王死後アケラオス領主の時代(紀元後4年以降)に再建され元の地に戻った、この時代の層が第二層。第三層は紀元後68年のユダヤ人の反乱の際ローマ軍により完全に滅ぼされた後、ローマの守備兵が20年間占拠し、宗団に属した人々は南に逃れ、2.5km離れたアイン・フェシュカに住むようになり、そこで穀物栽培やなめし皮などを作って生計を立てたようだ。


イエス時代前後の存在した宗団の遺跡

中央部分に塔が建っていて、すぐ傍に主要門がある。図を見て分かるように治水設備が非常に整っていて、死海の沿岸を考えると納得出来る(地層の塩分濃度が高い)。北側の貯水池で濾過した水を南西部まで勾配を利用して引いている。食堂の奥に部屋があり、そこから陶器の食器などが多数見つかっていて、南西部に陶器製作所で作っていたようだ。畜舎には、羊、山羊、牛などがいたと思われるが、肉食も行っていた事が分かる。ただし、祭壇がなく犠牲獣を捧げる事は行っていない。また、この施設とは別に羊皮紙を作る施設も見つかっている。膨大な写本を羊皮紙に残しているので、自前で作っていた事が分かり、写経は中央部の2階の部屋で行っていたようだ(1階よりも採光が十分ある)。集会所も2階部分にあった。塔は堅固に造られた二階建てで、地階は小部屋に分かれていたが、外部へはのぞき窓しかない。この塔はあまりにも小さいので、軍事用に造られたものではない。階上へは内部に木製の螺旋階段があったらしい。2階の南側に出口があって、テラスに出られるようになっていたと思われる。図から判断すると、この施設は村落でもなく、通常の住居でもなく、倉庫や作業場に比べて居住区は小さいので、ここの施設の常住者は多くて数十名程度だったのではないかとも考えられる。それ以外の集団の人々は施設の周囲の天幕に住んでいたのかもしれない。沐浴を頻繁に実践していたようで、また共同で食事を行っていた事から、ここはエッセネ派の修道院的宗教的施設だったと思われる。

注:フラヴィウス・ヨセフスの記述)イエス死後あまり期間を経ていない西暦37年頃、エルサレムの祭司系の子として生まれた。西暦66~70年の第一次ユダヤ戦争にローマ軍と戦い、ガリラヤで交戦中に投降してローマ側についた。その時、ローマの将軍に将来皇帝になるであろうと予見し、後にそれが実現したためローマ皇帝の家族とされ、フラヴィウス家の歴史家として迎え入れられた。彼はローマで「ユダヤ戦記」、「ユダヤ古代誌」などユダヤの歴史を書いて残した。神殿崩壊後、同胞ユダヤ人から裏切り者と言われたことに対して、ユダヤの歴史を延々と書き続けたとも言われる。その中には歴史的に信頼性の高い記事が多くあり、新約時代のユダヤ民族を知る上での貴重な資料とされている。ヨセフスは西暦100年前後頃亡くなったと伝わる。彼の著作の中には、エッセネ派について詳細に言及している箇所があり、これもエッセネ派を間接的に知る資料となった。ヨセフス自身、エッセネ派の入会志願期を1年ほど体験したとも伝えられている。このヨセフスの記述と、キルベト・クムランの発掘調査の結果や死海文書(クムラン宗団が残した写本群)の記述を比較すると、非常に類似点が多い事が分かる。

(2)エッセネ派の特徴

(貞潔と清貧)自らを光の子(共同体の成員をそう呼ぶ)として、自分達の間では他のユダヤ人以上に強い相互愛を有するとし、闇の子ら(成員以外の人)に対しては「憎む」集団とする。快楽を悪として退け、節制を重んじ、情念におぼれないことを徳とみなす。淫らな目をもって歩むことなく、「偽りの霊」による「淫らな霊によっておこされる忌むべき行動と不浄の勤めによる汚れた道」を警戒する。結婚を蔑視するが、結婚を全面的に否定するものではない。「わたしは邪な霊をもって妬むことなく、わたしの魂が不法の富を欲する事もありません」と書いているように、彼らは富を警戒し、清貧を重んじていた。貧しい者もなく富める者もなく、皆が兄弟のように一つの財産を有する。共同体の道徳観念は非常に高く、エジプトの哲学者フィロンが述べているように、病人や老人は共同体の資金で完全に保護され養われる。このような相互扶助は、異国に囚われた人、身寄りの無い孤児にも及ぶ。

禁欲主義が嵩じていささか女性蔑視の傾向があるように感じられるが、これは次のような事が要因かもしれない。福音書の中でイエスに離縁について質問が出ている事から見て、当時すでに離婚が多かったと思われる。マグダラのマリアの出身地・マグダラは港町だが、当時は何故か富と頽廃の町と言われていた。頽廃とは、おそらく風俗的歓楽街のようなものがあったと想像するが、実際南に5kmのところにはヘロデ・アンティパスが造ったローマ風城壁都市ティベリアがあり、陸路でも1時間半、船なら数十分以内の距離であり、何らかのそういう欲望の需要を担っていたのではないか。これは女性に帰す問題ではない筈だが、当時の女性蔑視の社会情勢から出た発想である事に違いない。社会風俗に関して言えば、エルサレムもすでにヘレニズム化していたであろうから、性に関しては乱れも有ったと考えるのが妥当か。ヨセフスによれば、彼らは皮膚を乾いた状態を保ち白衣をまとっていたとあるので、清さの証としての白衣を汚す油っけは嫌ったとも思える。しかし、もっと深い意味もあるのかも・・・ヨハネ黙示録19章では、小羊(メシア)の婚礼の宴に招かれる民は白い麻の衣をまとっている。一方、死海写本「戦いの書」では、聖戦における戦士の「戦いの衣」が白い衣にあたる。また、ヨハネ黙示録14章ある「童貞の者たち」という記述があるが、クムラン宗団でも終末の聖戦に備えるために童貞が重んじられていた。この宗団の肉体および霊的「潔め」に関連していると推察するが、「女に触れたものは身を汚している」という思考は、終末聖戦の戦士に相応しくないと考えたのかもしれない。

(共同生活)彼らは他の町々にも住んだ。町に住んでいることを前提としてのハラハー(行為規範、聖書の律法部分に対する注釈書、タルムードに示されるユダヤ教の慣例法規)があり、その場所は「宿営」と言われた。彼らは、内においても外に向いても敬虔と聖さと正義を身につけていて、「神を愛し美徳を愛し人を愛する」の三つを生活の規範としている。彼らは各地に多く居住していていた事が分かる。人数は各地合わせて4000~5000人とも言われた。遺跡の墓から女性や子供の遺骨から、結婚していた分派があった事が分かるが、おそらくキルべト・クムランの地は宗教施設本部と考えると、ここに住んでいた者達は模範的・指導的修道者のような感じなのかもしれない。ヨセフスによれば、彼らの持ち物はすべて、他所から来る同心者にも同様に提供されており、彼らは会った事が無い人々の所でも知合いであるかのように入る。彼らは旅をするとき、強盗を警戒して武装(短剣か?)する以外には何も持たずに行く(マルコ福音書5章では、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くようにとの類似点)。町ごとに特に来客のために教団の係りが指名され、衣類そのほか必要なものを差し出す。衣服や靴はボロボロになって身につけられなくなるまで取り替えることが許されない。彼らは互いに売買いせず相互交換を行い、それが出来ない場合でも、支障なく彼らはどの望む相手からでも物をもらうことができる、とある。

(洗礼ときよめ)クムランの重要な祭儀の一つが、聖なる水による「きよめ」。彼らはエルサレムを汚れた祭儀を行う所と嫌悪し、そこで行われる神殿祭儀は古い契約とみなし、自分達は「新しい契約」(恩恵と悔い改めの契約と呼んでいたようだ)に入るものと考え、入会者は新しい契約に入る為に水の洗礼を必要とした。洗礼の水自体重要な働きと意味を持ち、肉体と霊をきよめる為に欠かせないもので、このきよめもいくつも段階を経て、繰り返し行われる、特にペンテコステの日()を洗礼日としていたようだ。この時代、儀式的きよめはイスラエル全般に見られ、沐浴場があちこちにあったが、クムランのきよめは、更に極端に強調されていて、聖霊による肉体と霊魂の清浄により、はじめて完全に「きよめ」られると考える。彼らが、祭儀を重んじたのは、罪の赦しの贖いを最重要視していたからだろう。この罪の赦しを更に徹底させるために求めたものは、自分自身を霊的な犠牲として神に捧げる「完全なる道」だった。ゆえに、割礼さえも「心の前の皮と堅いうなじ」に施すべきものとなった(宗規要覧Ⅴ5)。

注:ペンテコステ)歴史的にはギリシャ語のペンテコステ(50番目の意)に由来し、本来はユダヤ教の祭日シャブオット(Shavuot)のギリシャ語訳。シャブオットは過越祭の50日後に祝われる祭り(五旬節とか五旬祭とも呼ばれる)であり、もともとは春にえられる最初の収穫に感謝する農業祭でした。シャブオットがキリスト教徒によって聖霊降臨の出来事と結び付けられ、後者が重視されたことから、宗教上は収穫感謝の意味は失われた。

(エッセネ人の集団)ヨセフスの記述では、エッセネ人の集団として他にもあり、生活態度や習慣、規律を他の者たちと同じ考えだが、結婚については異なる立場を取っている(在家信奉者も含めて、かなり分派があったと思われる)。実際に、結婚しない者は人生の最も重要な部分、つまり種の発展を断っており、皆が同じ思いなら、種族は早急に消え失せると考える。しかし、彼らは結婚相手を3年間試し3回身を清め、出産ができると証明されれば、妻として迎える。妊娠した妻とは同衾せず、結婚するのが快楽のためではなく、子を産む必要性のためと考えている。沐浴は、女子は衣で身を覆って行い、男子は腰巻をつけて行う。これがこの集団の習慣であると。いくつかの分派があったようで、各地に集団が住んでいて、エリコにも施設があった事が遺跡で分かっているが、かなりの町や村などで4000人以上いたと考えられている。サマリアやシリアのダマスコにもあったようで、古代の著作家の大プリニウス、アレキサンドリアのフィロン、プルーサのディオ、ヘゲシップス、ローマのヒッポリトゥスなどがエッセネ派に言及しているから、ローマ帝国内でも広く知られた集団だった。


3.ファリサイ派

(1)歴史背景

イスラエルは、ダビデ・ソロモン王時代に統一国家として繁栄したが、その後王国は南北に分裂し、紀元前8世紀にはアッシリアの侵攻により北イスラエル王国が滅亡、紀元前6世紀初めにはバビロニアにより南ユダ王国も崩壊してしまう。民族の多くはバビロニアに捕囚民として連れ去られ国家を失う。メソポタミアに強制移住された後に、ユダヤ教はバビロニアの宗教の影響を受け(天地創造物語、占星術、バビロニア知恵文学など)、ペルシャの宗教のテーマも幾つかが採りいれられた(善悪二元論、光と闇の二元世界、最後の審判、死者の復活など)。紀元前後のクムラン宗団やファリサイ派において、こうしたメソポタミアやペルシャの影響の存在が認められる。紀元前6世紀末になると、ペルシャが近東全域を支配するようになり、それによってイスラエル民族は帰還を赦されたが、戻ったのは民族の一部に過ぎず、多くはメソポタミアの地に留まり子孫を残した(離散民:ディアスポラの始まり)が、アレキサンダー大王とそれに続くセレウコス朝時代になると、ディアスポラは広大なヘレニズム支配地にも移り住むようになり、パレスティナに住むイスラエル民を遥かに凌駕する人数が各地に広がった。ディアスポラは土地では少数民族であったが、特権的地位を享受しユダヤ人共同体を組織した。一方、パレスティナに戻ったユダヤ民は宗教改革を行い第二神殿を築いたが、セレウコス朝による急速なヘレニズム化に抵抗し、民族のアイデンティティと独自のユダヤ教を守ろうとして、マカバイ戦争が起こり、ついにユダヤ民族国家としてのハスモン朝が成立した。ヒルカノス1世時代の領土拡張政策によりダビデ王国を上回る領土を得て、紀元前100年前後にはガリラヤ地方もユダヤ化された。

(2)ハスモン朝時代のサドカイ派・ファリサイ派・エッセネ派の分裂

ハスモン朝時代、王が大祭司を兼ねるようになるが、政治情勢の不安定さから、律法を法的秩序の基本として前面に適応する事がなかったために、紀元前2世紀中頃までには敬虔な在家信徒(ハシディーム)であるユダヤ人はファリサイ派を結成し、すでに王権に結びついていた祭祀主義で特権的集団サドカイ派(祭司系)から分かれた。紀元前2世紀末頃、同様にサドカイ派の特権におぼれ、神殿税から得る富に執着し、政治的な妥協の姿勢に反抗した一部祭司が離脱し、荒野に共同体を結成してエッセネ派と呼ばれるようになった。発足当時、ファリサイ派は中下層民に支持を受けたが、この教派の特色は、ユダヤ教の儀式の遵守・預言者の書の研究・宗教改革を行ったエズラ時代以来のトーラー研究の重視などが上げられる。ハシディームというのは、周囲の人々の汚れから自分を隔てて、律法の解釈に厳格に従うという誓いを立てた人々を指すが、成文律法(モーセ五書)を自分たちの宗教の基盤として正当と認めただけでなく、それを背景に拡大して古い規範を新しい状況に当てはめ、律法をより柔軟に比喩的に解釈した。その解釈は暗唱によって口伝されたので、口伝律法と言われた。また、彼らは選択の自由と予定説の結合、死者の復活、来世における報いや罰の裁きを信じていた。当時のヘレニズム化に危機感を持った人々は、自分たちの宗教の擁護に熱心な唯一のグループと見えたハシディーム派に心を寄せるようになり、結集して大きなグループとなったのがファリサイ派。偽りの思想という世の汚れから離れようとしたので、「分離された」という意味のヘブライ語のパールスを語源とするペルシームと呼ばれ、ギリシャ語でファリサイ(パリサイ)と書かれた。

しかし、こうした分裂は互いの主義主張解釈の違いを明確にし極めてセクト的になって行く。学者の考えによれば、ファリサイ派はまさに17世紀のピューリタン(清教徒)に似ているとまで言われる。それは、ピューリタンが町の人間であり、彼らから見て田舎の者たちは迷信的で道徳についていい加減であったと言う点である・・・実際ファリサイ派は「地の民(アム・ハ・アレツ)」をあからさまに軽蔑し、地の民は宗教的にも道徳的にも義務を怠っていると見做していたと。ガリラヤはまさに地の民の地であった訳だ。また紀元前後からの急展開した政治情勢と経済情勢がファリサイ派の律法解釈に大きな影を落とした事、こうした点がイエスのファリサイ派批判に見られる。

(3)サドカイ派とファリサイ派の対立点

ラビ文献では、ある口伝律法(慣習法)のハラカがモーセに遡るのか(モーセが成文律法と共に神から受け取ったものか)、それとも成文律法に対する後代の解釈に基づくものなのか、という論争がしばしばあった。ハラカに対する聖書(主としてトーラー)の根拠を無理にでも探し出そうとしながら、一方では伝統が聖書と並んで同等の権威あるというラビ的ユダヤ教の相矛盾する立揚が生まれて、次第に口伝律法の権威と重要性を主張するグループ(ファリサイ派)が現れた。ファリサイ派とサドカイ派の分裂と対立点は、口伝律法と成文律法の問題でもあった(ファリサイ派が口伝律法を重視するのに対して、サドカイ派がファリサイ派の口伝律法を認めず、成文律法のみを認めたと言われる)。実際はサドカイ派も慣習法を持っていたと思われ、両派におけるトーラーの具体的な解釈と、両派の認める慣習法の相違点が問題であった。ヨセフスは『ユダヤ古代誌』で、サドカイ派は書かれた律法すなわちトーラーのみを遵守すると伝えているから、当時サドカイ派は表向き成文律法(聖書)のみを標榜していたのかもしれない。紀元70年の神殿崩壊以後、サドカイ派は歴史の舞台から姿を隠し、ユダヤ教の主流となったファリサイ派のラビ的聖書解釈と慣習法とが、「口伝律法」を完成させていった。

(4)ファリサイ派および律法学者

ハスモン朝のヒルカヌス(前135~104年)は、辣腕の王であり軍人であったために領土拡張(イドマヤ、ナバテヤ、ペレア、サマリア、ガリラヤなど)を行ったが、紀元前93年にパリサイ派のラビたちが彼の怒りを買い、またサドカイ派の指導者も後押しもあり、パリサイ派のラビ達を追放した。紀元前91年頃、ヒルカヌスと息子のアンティゴノス及びアリストブロスが死去し、第三子アレクサンドロス・ヤンネウスが即位。アレクサンドロス・ヤンネウスは熱心なサドカイ派だったが、彼の妻だったサロメ・アレクサンドラはファリサイ派である義理の弟、シモン・ベン・シェタハを、サドカイ派が支配的であったサンヘドリンに任命するよう強く勧め、シモン・ベン・シェタハは長い年月をかけてサドカイ派に対する優位を獲得し、ファリサイ派の自分の弟子たちをサンヘドリンに任命するようになる。こうしてファリサイ派はサドカイ派に対する一大勢力となった。

ファリサイ派には、後に二つの流れ(ズゴスとして最後の第5代目のヒレルとシャンマイ由来)が生まれ、それが敬虔で穏健なヒレル派と、厳格で行動的なシャンマイ派。この二人の考え方を示す伝説的逸話・・・ある日、シャンマイのところに異邦人がやってきて門の前で一本足で立ち、「私が一本足でここに立っている間にユダヤ教とは何かを教えて下さい。もし教えて下さればユダヤ教に改宗します」と叫ぶと、シャンマイは彼を棒で追い払った。懲りないその異邦人は今度はヒレルの門の前で一本足で立ち、同じことを叫んだ。するとヒレルはにっこり笑い「自分にしてほしくないことは人になさぬのが良い。このことが分かればユダヤ教をすべて理解したことになる。後はその解釈に過ぎぬのだから」と答えた・・・このヒレルの言葉は後に福音書にも採りいれられ、キリスト教で黄金律と呼ばれる事になった。シャンマイ派は熱心党との繋がりが深く、ヘロデ党やローマとは敵対していたと考えられ、またサドカイ派(イエス時代ではアンナスやカイアファス)も特にシャンマイ派を危険視していたようだ。イエス時代のヒレル派の指導者はガマリエル一世(ヒレルの孫)で、使徒言行録の彼の発言はやや穏健な立場を保っている事が伺える。彼の弟子ヨハナン・ベン・ザッカイは紀元70年に崩壊直前のエルサレムを脱出し、ヤムニアにユダヤ議会を創設して、恩師の息子ガマリエル二世をその議長に立てた。福音書からは、ヒレル派の議員の中に秘かにイエスに心を寄せていたニコデモとアリマタヤのヨセフがいた事が記されている。ガマリエル門下には、パウロ(旧名サウロ)もいた。サドカイ派は神殿を中心にして富と権力を誇っていたが、ファリサイ派は各地のシナゴグ(会堂)を拠点に、民衆に律法などを教える法律・教育面を完全に掌握して民衆に非常に大きな影響力を持った。

彼らは元来、手工業者の階層によって構成されたもので、自発的に律法を熱心に学ぶ人たちであったが、それが高じて専門家となったのがファリサイ派の律法学者(元来はもっと古い時代からラビを指して、いつしか律法学者と呼ばれていた)。後には会堂で教育を受けた者が律法学者に弟子入りして、それがまた律法学者になる制度が出来上がった。イエスが何故ファリサイ派を非難したのかは、ヘロデ大王からその死後のパレスティナの政治情勢と経済的側面および宗教的解釈の変遷を考えなければ容易に理解できないもので、単に律法至上主義という言葉では語り切れない。マタイ福音書では、ファリサイ派は言う事は言うが自らは何もなさない偽善者と非難してますが、実際は彼らを偽善者とは言い難く、重要視して言った事は実践した・・・その行った事に問題があったと考えている。


前← TOP →次