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資料:ユダヤ教の儀式上の沐浴場、ローマの風呂事情


1.ユダヤ教の儀式上の沐浴場(ミクヴェ)

エルサレムの神殿の山の発掘調査では、紀元1世紀頃の100ケ所の儀式上の浴槽や沐浴場が発見されている。裕福な人々や祭司の家族が住んでいた居住区でも見つかっていて、ほとんどの家に私設の儀式上の浴槽があった事が分かった。長方形の岩をくりぬいた水槽か、地面を掘った内側にレンガがや石を敷き詰めて漆喰で塗り固められていて、複数の水路により雨水が貯まるようになっていた。水の深さは1m以上で、しゃがめば全身が浸かれる。出入りに使う階段の片側は、汚れた状態にある人が沐浴をする時の浴槽もあった。沐浴はユダヤ教の儀式上の浄めのために用いられた。モーセの律法では、民が霊的にも身体的にも浄くあるように記されていて、身を浄めるに体に水を浴び、自分の衣服を洗う必要があるとされた(レビ記11:28、申命記23:10)。祭司やレビ人は、祭壇に近づく前に手と足を洗わなければ、死ぬことになると記された(出エジプト記30:17-21)。紀元1世紀には、祭司の浄めに関する規定をユダヤ人全員に広げた。タルムードによれば、この頃には、沐浴する人は全身を水に浸さなければならなかった。どんな小さな町にも、共同沐浴場はあった。現代でも、超正統派と呼ばれる熱心なユダヤ教徒は、安息日や祭りの日の前にミクヴェに身体を浸すという古い習慣を守っている。

エン・カリム村(エルサレム近郊)外れの個人の住宅のリフォーム中に、居間のマットの下に隠された木製のドアが古代の沐浴場に通じているのが発見された。イスラエル考古庁考古学者は、「沐浴場はほぼ完全な姿を保っており、3.5m×2.4m×1.8m(深さ)と非常に大規模なものだ。岩を切り込んで造成されており、その造成にあたってはハラーハー中にある浄めに関する法規定が注意深く遵守されていた。階段が、身を浸すプールの底部に通じていた。第二神殿時代(紀元1世紀)に年代同定される陶器片、そして、66-70年(第一次ユダヤ戦争)期における破壊の痕跡かもしれない火災跡が、沐浴場内側で見つかった。さらに、第二神殿時代の石の器の断片も発見されている。当時石の器は広く使われていたが、それは、石が汚されることがなく、浄いままの状態であるからだ」と語った。


2.ローマ帝国時代の風呂事情(テルマエ・ロマエ)

テルマエ(またはバルネア)は、古代ローマの公衆浴場の事である。古代ローマの多くの都市には、少なくとも1つ以上の公衆浴場があり、社会生活の中心になっていた。古代ローマ人にとって入浴は非常に重要で、彼らは1日のうち数時間をそこで過ごし、時には1日中いることもあった。裕福なローマ人は、奴隷を伴ってやってきて、料金を支払った後、裸になり、熱い床から足を守るためにサンダルだけを履いた。奴隷は主人のタオルを運び、飲み物を取ってくる。入浴前に運動、例えばランニング、軽いウェイトリフティング、レスリング、水泳などを行い、その後、奴隷が主人の身体にオイルを塗り、(木製または骨製の)肌かき器で汚れと共にオイルを落とした。公衆浴場は基本的に3種類の部屋、カルダリウム(高温浴室)、テピダリウム(微温浴室)、フリギダリウム(冷浴室)を中心に建設されていた。時には蒸気風呂のスダトリウムやラコニクム(サウナに近い)があった。今で言う、巨大レジャーセンターのような施設である。


●フリギダリウム

フリギダリウムには水風呂があり、水泳用プールでもあったことを示している。この部屋の風呂は白い大理石製で、周囲も2段の大理石の階段になっていた。

●テピダリウム

暖かい風呂で汗を流したいと思った入浴者は、フリギダリウムからテピダリウムへ向かう。ポンペイの浴場では、テピダリウムにお湯をはった浴槽はないが、熱い空気で適度に熱せられており、その先にあるカルダリウムの熱さと外気温との急激な変化を防止する役目があった。

●カルダリウム

床暖房システムの一種であるハイポコーストで熱した非常に高温多湿の部屋である。公衆浴場の中でも最も高温の部屋で、お湯をはった湯船があり、時にはサウナのように汗を流すラコニクムもあった。浴場の利用者は、オリーブ・オイルで身体を洗浄し、肌かき器を使って余分なオリーブ・オイルを取り除いた。欧米では、体育館やスパにある床が暖かい部屋をカルダリウムと呼ぶ。

●ナブルスの石鹸

シェケムは後にシカルという名になり、現在ではナブルスと呼ばれている。250年前頃からオリーブ石鹸で有名である。2000年前には、灰汁とオリーブオイルで固めた石鹸があった(出土品にある)。ローマでは灰汁と動物の脂で固めた石鹸があった。高価であったので、庶民は鉱物質のソーダや、灰汁を使っていた。


3.イエスの語る「信(ピスティス」(マルコ福音書の解釈より)

●人間側が信仰しただけでは駄目だ。「神の信」を持たなければならないと、イエスは言う。

人間側が率先して出来ない神の選びがあり、その者が「神の信(神の人に対する忠実さ)」の対象にならなければならない。そして、その者は祈りをきちんと行える。その祈りは神に届き、実現不可能と思われることも起こりえる。神の信(ピスティス)を持つとは、神がその者に対して、忠実であると言う態度を持ってくれる取ってくれると言うことになる。願いが実際その通りではないかも知れないが、祈った事はすでに生じていると考える。

「立ち上がって、海に飛び込め」と言っても、山に全く変化が生じない「事態」が表面的には続くかもしれない。そうであっても、イエスはそれを「識別しない」と言うのだから、「立ち上がって、海に飛び込め」という言葉は、実現しているという態度をとるべきだとなる。すぐには実現しないのかもしれないが、「言葉通りの事の実現」に力点があるのではなく、「神の忠実さをもつ者」イエスが、この言葉を述べたこと自体に力点がある。表面的に観察できる事態がどのようなものであれ、対応する事態はもう生じている、と考えるべきだ。終末の出来事は今でも未来の事であるが、このような出来事が「まだ生じていない出来事」ではなく、「生じていること」「現実になっている」と考えるべきだとされる。この立場に立つ者は、現在において未来を生きている者だと言える。イエスのきわめて特異な人間観である。



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