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資料:マグダラとガリラヤ湖、女性像、婚約と結婚


1.マグダラの町

古代には2つのマグダラの名の町があったとタルムードには記されている。その一つがガリラヤ湖畔のティベリアの北6キロに位置し、もう一つはMagdala Gadar、東のヤムルーク川のガダラ付近であるが、前者が有名である。また、マグダラの古称に2つの候補がある。一つは、ヘブライ語の「マガダン」で、アラム語ではヘブライ語の「n」が「l」に取って代わる事があるので、マガダンがマグダラになったのかもしれない。もう一つはヘブライ語の「ミグダール(塔の意味)」から派生したアラム語で、「ミグダル」「マジダル」「マグダラ」と変化していくようで、こちらの方が有力のようだ。最良のギリシャ語写本のマルコ福音書では、同じ地域が「ダルマヌタ」と呼ばれている。一応、統一してマグダラと呼ぶのが一般的になっている。町の遺跡場所はキルベト・マジダル(ミグダル)と呼ばれる。ティベリアからガリラヤ湖に南北に延びる街道と、西の丘陵地から下る街道の分岐点に近く、戦略的に重要である事から、紀元1世紀頃の塔(ミグダル)の廃墟は、ゲネサレの平原の南の入口を守る位置にあった事を示唆している。タルムードには「ミグダル・ヌナイヤ(Migdal Nunaiya)」とあり、意味は「魚の塔、あるいは漁夫の塔」であり、こちらは魚を乾燥させる塔があった事を連想させる。紀元1世紀、ギリシア人はこの町を、その豊かな漁業からギリシャ語で「タリケア(Tarichaea)」と呼んだ。漁師の町として発展していたので、塩魚(タリコス)を生産する町「塩魚の町=タリケア」と呼んだようで、魚の加工技術で有名であった事を示唆している。亜麻の織物や染色でも知られていて、ゲネサレト平原での小麦や果実も収穫され、裕福な町であった。ユダヤ戦争時は、指揮官ヨセフスが要塞として利用した。

ガリラヤ湖で獲れる魚の中で、「アムヌン(母なる魚)」と言うガリラヤ湖固有の魚がたくさん取れて、それを塩漬け乾燥させ、ローマにも輸出されている。食物としての栄養豊富で消化の良い食物である魚は、大量に生産されて安価であった。かつてのエジプト人にもヘブライ人にも重要な食品であった。出エジプトを果たしたが荒野で彷徨う集団は、エジプトで自分たちの食べていた魚を熱望していた(民数記11:5)。エルサレムの門に「魚の門」と呼ばれる門があったが(ダマスコ門)、その近くに魚の市場があった事を示唆している(歴代誌上33:14)。ネヘミヤ時代には、ティルス人が安息日でもエルサレムで魚を売っていた(ネヘニヤ記13:16)。この魚の学名はクロミス・シモニス、黒鯛に似た魚でガリラヤの特産品である。白身は淡白な味わいで、鯛を彷彿とさせる。淡水魚なので寄生虫がいる危険性があり、必ず加熱される。一般に焼いたり、塩で処理して乾燥させていた。多くの場合パンに添えて食べるが、パンの奇跡物語の魚もこれであっただろう。福音書の復活の後のイエスも、炭火で焼いた魚を食べている風景が描写されている。ガリラヤ湖周囲では、朝食はパンと焼いた魚が多かったかもしれない。後年この魚は、シモンのスズメダイとも呼ばれた。シモとはペテロのことで、キリスト教は通称「ペテロの魚」と呼ぶ(マタイ福音書の記述、銀貨を咥えた魚の伝説に基づいて)。現代でもこの魚は輸出品であり冷凍にされて欧米のレストランに送られている。

伝承では、この漁師町は退廃の町とも呼ばれている。実際、遊女がいたことを示唆している。娼婦は貧乏な町には存在し得ない、それは買う事が出来る者がいないからである。マグダラの人口は紀元1世紀には、推定一万人を超えていただろう。大都市ではないが、小都市と言って良い。マグダラ(ミグダル)で、1世紀のものと推定されるシナゴーグが発見されたのは2009年。その後発掘が進められる中で、ロゼッタ模様のモザイクや、トーラーを置いたと見られるテーブルなどが発見された。七つに分かれた燭台「メノーラー」が刻み込まれたレリーフもあった。イスラエル紙『ハアレッツ』は、ユダヤ教徒と共に最初期のユダヤ人キリスト者が礼拝していた、との見方も出て来た、と報じている。発掘された遺物の中には紀元29年の貨幣もあった。シナゴーグは40年から50年の間に改築され、放棄されたのは遅くとも68年のユダヤ戦争までのことと見られる。イエスの十字架は最近の研究で紀元33年4月3日とされていることから、改めてイエス・キリストもこのシナゴーグに立ち寄られたのでは、との推測も成り立つ。ただ発掘に関係したメキシコ・アナフアク大学のマルセラ・ザパタ研究員は「イエスの時代、またその前後にシナゴーグが本来のシナゴーグとして使われていたことは確か」としながらも、イエスが足を踏み入れたという考古学的な証拠はない、と言う。一方『マグダラ・センター』所長のフアン・マリア・ソラナ神父は「キリスト者としては、イエスがそこにおられただろう、ということを疑うわけにはゆかない」と語っている。




2.ガリラヤ湖

(1)ガリラヤ湖

イスラエル2番目の大きさの湖で淡水湖、周囲53キロメートル、南北21キロメートル、東西13キロメートル、166平方キロメートルの面積を持ち、最大深度は43m、海抜マイナス213m。ローマ帝国統治時代に用いられた呼び名は「ティベリア湖」。伝統的には「キネレトの海(ヤム・キネレット)」「ガリラヤの海」など「海」と呼ばれるが、純粋な淡水湖である。形が竪琴に似ているので、ヘブライ語の「キノル(竪琴)」から「ヤム・キネレト(注1)」となったようだ。ルカ福音書は「ゲネサレト湖」とも呼ぶが、ゲネサレトとは湖の西側にある平原地帯の名。ガリラヤ湖の水は、地下水とヨルダン川によって得られている。ガリラヤ湖はアフリカとアラビアのプレートの境界であるヨルダン大峡谷帯という谷にあり、長期にわたって地震と火山活動の影響を受けてきた。このため周辺には火成岩や玄武岩が多い。ガリラヤ湖は谷底にあり、東西を高地に挟まれた形になっているため、しばしば強烈な風が湖に吹きつけてくる。周辺は古代から交通の要衝であった。エジプトとヨーロッパを結んでいたマリス街道と呼ばれる道筋に位置していたため、その周辺にはギリシア人やハスモン朝の人々、あるいはローマ人たちが都市を築き栄華を誇った。それらの都市の中で有名なものにガダラ、ヒッポス、ティベリアなどがあった。歴史家ヨセフスは、「この地域では自然の造形のすばらしさに心打たれずにはおれない・・・湖で常時230艘もの漁船が活動するほど漁が盛んだ」と伝えている。当時、湖の周辺にはいくつもの町村が存在し、湖の上を多くの船が行き来していた。

注1)キネレトはナフタリの防衛都市で(ヨシュア記19:32,35)、カファルナウムから南西へ3キロ離れた塚の上にあり、考古学ではガリラヤ湖北西部を見渡せるキルベト・エル・オレーメ(テル・キンネロト)と同定されている。エジプトのカルナックの神殿のレリーフに、トトメス3世(前16世紀頃)が征服したカナン人都市の一覧の中にキネレトがある。「キネレト全土」という表現は、肥沃なゲネサレの平原を指すと考えられる。キネレト湖は約束の地の境界の一つとされていた(民数記34:11)、アモリ人オグの王国の西の境界の一部で、後にガドの部族の西の境界となっていた。

(2)ガリラヤの歴史

ガリラヤの名前は、ヘブライ語ガーリール(周辺)に由来し、辺境の地を意味する。繁栄を築いたソロモンによるイスラエル王国も、王の死後南北に分裂した。ガリラヤを含む北イスラエルも、その後アッシリアの勢力下に置かれてしまう(ユダヤ人の離散)。この時、メギド(ガリラヤ)とサマリアに分けられ、サマリアは属州としてアッシリア人との融合と異教徒の宗教の導入が行われ、メギドはフェニキアと合わせて属州となった。イザヤ書の9章に「暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。 先にゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが、後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは、栄光を受ける」の一文がある。BC732年頃のアッシリアと北イスラエル王国・シリア同盟とのシリヤ・エフライム戦争で、アッシリアが勝利しガリラヤが併合された背景で書かれている。

南ユダ王国もバビロニアにより滅ぼされ、バビロン捕囚の時代を迎えるが、ペルシャ時代になると、祖父の地への帰還を許され、再度イスラエル民族の土地を守れるようになった。彼らは民族の独自性とユダヤ教を必死に守ろうと努めた。一方ガリラヤは、アッシリア、バビロニア、ペルシャ、ヘレニズム諸王朝と時代を経ても、それぞれの属州としてしか存在せず、忘れられた地として顧みられなかった。しかも、ヘレニズム王朝時代にはギリシャ風のポリス(都市)が作られ、ヘレニズム化にさらされた。こうした流れから、南のユダヤから見れば、ガリラヤは異邦人の地という風潮が生まれたに違いない。ガリラヤがエルサレム地方と歴史を共にするようになるのは、マカベヤ王朝以降、ヘロデ大王の死までの1世紀に限られる。この時代に、ガリラヤはユダヤ化され、あるいはユダヤ人の流入が行われた。しかし、南のような完全なユダヤ民族・ユダヤ教徒にはなり得なかった。ヘロデ大王の時代には、ガリラヤはローマ帝国への税、ヘロデ王への税、エルサレム神殿政治への神殿税の三重苦があったと言われるが、さらにその中間搾取階級があらゆる策略を弄して搾取したので、農民は次第に零落して奴隷に落ちた者も出現し、巷には乞食があふれ、飢えて死んだ者が街道に満ちていたと伝えられる。

(3)ガリラヤの町村

ガリラヤの大都市について色々と調べてみたが、

  • セッフォリス(現在はチポリ)は、前述ページのようにユダの反乱で破壊される以前の州都で、後に再建されギリシャ風の都市になって劇場の遺跡も残っている。
  • ティベリアはヘロデ・アンティパスが新規に建てた城塞都市で、AD20年当時の州都として有名。現在はすぐ南のハマスと合体して都市になっている。
  • ガバラは候補場所が2つあるが(一つは?マークを付けています)、ヨセフスが第3の都市と呼んだ所で、ユダヤ戦役であっけなくローマに陥落させられた。

この3つが大都市と思われる。デカポリスのスキュトポリスも大都市だった。ヨセフスは、ユダヤ戦役の時はユダヤ側の指揮官で、ギスカラのヨハネ(熱心党)とガバラで衝突した後、ヨタパタでローマ軍に投降している。なおギスカラは、ラテン語聖書訳者のヒエロニムスによればパウロの両親の出身地であったようだ。ガリラヤにどのくらい町や村があったのかは正確には分からないが、小さい集落を含めると約200前後程度あったと推定される。

ガリラヤ湖の北岸に福音書に登場するベッサイダは、ヘロデ・アンティパスの領地のガリラヤではなくフィリポの領地になったが、元々は小さな漁村で、フィリポが領主になった後に、すぐ近く(600m前後?)に城壁を巡らしたギリシャ化されたユダヤ人国際都市を築いて、名前をローマ皇帝にちなんでユリアス(ジュリアス)と付けた。ベッサイダの村はそのまま残っていたようで、こちらでパンの奇跡の伝説が作られたと思われる(ルカはベッサイダと名前を記述している)。ユリアスの都市については、聖書に記述もない。赤字のガムラとアルベルは、町ではなく断崖がある山で、洞窟があり、そこが熱心党(後のゼロデ党)の隠れ家になっていた。イエスは熱心党の運動が盛んな地域の真っ只中にいた事になる。地図で見ると一目で分かるが、ガリラヤは異民族のフェニキアやデカポリス、ヘレニズム化されたフィリポの領地、純粋なユダヤ人とは見なされなかったサマリアの周辺地域に囲まれていた。マルコ福音書は、ガリラヤ湖周辺地域だけを(特に北部ガリラヤ湖畔)中心に記述しているので、他の町や村は名前が登場しない。イエスは2年以上はガリラヤで宣教していたと想像するから、かなりの町や村に出向いたのは間違いない。なお、地図には載せていないが、ナザレの西近くにベツレヘムという村がある(こちらが本当のヨセフの実家ではないかと考える人もあるが、明確な根拠がない)。

福音書に共通するのは、イエスがカファルナウム(カペルナウム)に居を構えた事だ。カファルナウムの地理的位置を衛星写真の鳥瞰図で見ると、ガリラヤ湖の北部に位置している事が分かる。カファルナウム(Capernaum)はヘブライ語の「クファル・ナウム(Kefer Nachum 、慰めの村)」から来ていると言われるが、旧約には出てこない。ヨセフスの記述によれば、ギリシャ語「Kapharnaum」からきたと言う。BC150~AD750年の間は確実に住民がいたようで、エルサレム、アッコ、ダマスコを経てバビロンに至る中継地点としては重要であった。エルサレムからはおよそ120km、歩いて3日間の距離にある。マタイはこの町を、イエスの「自分の町」と記述している。北北西の湖岸にあり、すぐ東にはヘルモン山から湧き出たヨルダン川の水が湖に流れ込んでいる。湖岸付近にはユーカリの樹が生え出て、濃い緑の葉影が白い敷石に陰影をなし、北に広がった平野の奥には丘陵地帯が控え、マタイの山上の垂訓の舞台であったかもしれない「美しの山(Mount of Beauty)」には草花が咲き乱れていただろう。カファルナウムの湖岸から左側を眺めると、ゴラン高原の緑の斜面と麓の小さな村が点在し、右側を見ると西に広がったゲネサレト平原が霞んで見え、南側と言えば湖しかなく、晴れた日は終日陽光が差込む、美しい自然に囲まれた村だった。遺跡から、この村がガリラヤ湖の漁村であり、オリーブ畑・とうもろこし畑・小麦畑などがある農村であった事が分かる。東のヨルダン川を境にしてアンティパスとフィリポの領地が接していて、カファルナウムを通る道はダマスコにも通じ、物流中継地点として関税を徴収する徴税所があった。恐らくすぐ近くの周辺の地には、重要な中継地点を守るためにローマ兵が駐留し、ヘロデ・アンティパスの役人も住んでいたと思われる。「アルファイの子レビが収税所にすわっている(マルコ2章14)」。「病気をしている息子を持つ役人がカファルナウムにいた(ヨハネ4章46)」。

カファルナウムの西隣には、タブハ(Tagbha はアラブ語名で、他の呼び名としてはヘプタゴン、ヨセフスによれば近くの村の名前のカファルナウムを用いている)という町もある。本来、タブハは「7つの泉」を意味し、最大の泉は「エン・ヌルの泉」と呼ばれた。27度の鉱泉水が湧き出てガリラヤ湖へ注ぎ込んでいたので、冬場でも魚の集まる漁場となっていて、ペトロたちも漁師もこの場所を漁場としていただろう。また果物の収穫の豊かな熱帯の楽園とも呼ばれた。現在この町にはパンの奇跡の教会が建てられている。ヨセフスは、ガリラヤの小さな村でも1万5千人以上はいたと記述しているが、実際は最盛期(4世紀)のビザンチン時代でも1500人であったと言う記録から、イエスの時代は1000人未満の小さな村と推定される。ちなみに、イエス時代のガリラヤの総人口を推定すると、18万人前後は住んでいたと思われる。紀元前の人口調査では十数万人前後であったから(昔読んだ本の資料の記憶からのおおよその数字)、当時としては人口飽和状態と言えるかもしれない。香川県と同程度の広さで、丘陵地帯が多い事から考えても、かなりの密集である。

注2)1世紀のユダヤ人の推定総人口は、Theodor Mommsen の概算によれば420万人(パレスティナ本国70万人、エジプト100万人、シリア100万人、その他の地域170万人)。


3.紀元1世紀の女性像

当時のユダヤ人社会では、女性の地位は現代人が思うほど低くはなかった。自分の財産を売買する権利があり契約も出来た。女性は子供を育て、家を守るだけではなかった。紀元前数世紀から、ユダヤ教の会堂(シナゴーグ)はユダヤ人の生活に必須であったが、シナゴーグでの礼拝には女性も参加していたし、宗教的務めも果たしていた。第二神殿時代からは、女子も読み書きを学び、トーラーも学んでいた。学校に入る事も出来た。律法を熟知していなければ、生活そのものが出来なかったからだ。幼いころから母親や祖母から学んでいた。ルカ福音書1章で、エリザベツに対するマリヤの返事の中で、ダビデの言葉を繰り返している事からも明らかだろう。紀元1世紀のユダヤ人社会でも、現代と同様に、女性の容姿の美しさは大切だった。考古学発掘からは、当時でも、棒状のアイシャドー、化粧パウダーの箱、香水瓶などの化粧用品、彫刻入りの櫛、装飾付きヘアネットも一般的だった事が分かっているし、宝石も好んでいた。イヤリングやネックレスや指輪など多種多様であった。しかし、現代のように外見だけを気にするのとは異なり、内面の美しさも問われた。家庭生活は地域社会との繋がりが大変強く、女性の働きは重要であった。妻として、母として、女性として、人として、また公的な事も多かった。ヘブライ語「ミシュパハ」は家族を表す言葉だが、祖父母、叔父、叔母、いとこ、時にはそれ以上も含まれた。一家の長は父であるが、生活の土台を支えたのが母であった。だから結婚は重要であり、結婚式の行列と葬列が道で出合うなら、結婚式の列がいつも先に進むようにとラビは教えている。そして、ヘブライ語には独身を意味する単語はない。

しかし、建前と本音は違う。実際は家父長制度が重んじられ、律法も解釈が必要となって、男性に都合の良い解釈になっていただろう。イエスが悪霊だとの噂が立つと、イエスの母と親族が引き取りに出向いたが、イエスから拒絶され、イエスの周囲にいる人々をイエスは家族と呼んだ。富んだ家族はある程度幸せな生活を送れたかも知れないが、貧しい者はそうはいかなかった。母はためらいもなく自分の女の子を遊女として売っていた。寡婦の財産を横領する親族もいた事も福音書のたとえ話からうかがえる。適齢期になっても結婚しない者は、ユダヤの会衆とは認められなかった。イエスが「大飯くらいの大酒飲み」と揶揄されたのは、律法に違反する者の象徴であり、独身でいたことを非難する言葉であった。


4.ユダヤ人の婚約と結婚

ユダヤ教では結婚の制度を神聖なものとして重んじ、結婚誓約式(婚約)をヘブライ語でキドゥシン(婚約の意)と言い、それはカドシュ(聖)という語源に由来する事からも分かる。旧約聖書に「生めよ、増えよ、地に満てよ(創世記1:28)」と書かれているので、結婚は神の計画を成就する道と言われる。ユダヤ人の生活を描いた作品では「屋根の上のバイオリン弾き(1971年アメリカ)」が有名だ。ユダヤ教のミッシェナーには(ユダヤ教指導者・ラビのモーセ五書・トーラーに関する註解)、ナシーム(Nashim) という7編構成の結婚と離婚、誓約に対する作法とナジル人の法に関係する事が書かれている。律法では、ユダヤ人はユダヤ人(後には母親がユダヤ人か改宗者でも認められる)としか結婚出来ない。結婚に関しては、キドゥシンとケトゥボットが律法の規定にあり、それに沿って行われる。

  • イェバモット(Yevamot)未亡人に義務付けられた義理の兄弟との婚姻に関連した、ユダヤの法レビラート婚(申命記25:5-10)などについて。
  • ケトゥボット(Ketubot、結婚契約書)と処女、初夜権、夫婦間の義務について。
  • ネダリーム(Nedarim)様々な種類の誓約(ネダリーム)と法的責任について。
  • ナジール(Nazir)ナジル人の誓約とナジル人について(民数記6)。
  • ソター(Sotah)姦通罪が疑われた女性に対するソターの儀式(民数記5)、その他。
  • ギッティン(Gittin)離婚とその他の文書の概念について。
  • キドゥシン(Kiddushin)結婚の最初の段階(正式な婚約)とユダヤの家系の法について。

(1)婚約

結婚には、二つの段階がある。最初はエルシンまたはキドゥシンと呼ばれる「婚約期間」。友人・隣人が証人として集まり、両家が顔を合わせ、二人が一つの杯を分ち合って飲み、婚約の儀式とする。この瞬間からユダヤ教においては、結婚した夫婦と同様に見なされ、互いに完全な献身と貞節が求められる。ゆえに婚約破棄は、離婚と同じ手続きになった。当時は、一旦婚約が確定すると男性は実家に戻り、結婚式に備えた。伝統的には一年後に式が持たれる事になっていた。畑を耕し、作物が植えられ、父の家に妻を受け入れる部屋が作られる。花嫁を迎えるために万全の配慮と取り組みがなされ、細心の注意が払われた。

(2)結婚式と披露宴

当日は、新郎は花嫁を迎える準備に専念し、新婦は新郎が迎えに来るのを待ちながら断食をする。女性は必ず結婚式の前にミクベ(沐浴場)に浸かる。花嫁衣装が用意され、花嫁介添人は準備を整え、夜に到着した場合に備えてランプの手入れとタイマツを用意した。水曜日の夕方から夜に、新郎が新婦の家に迎えに行く。花嫁と介添人たちは、通りから新郎と結婚を祝う仲間たちの音を聞くと、花嫁は素早くベールをまとい、花婿に会うために通りへ案内される。この時、介添人達はタイマツにランプで火を付けて盛大な明かりを灯して行きく。大きな音とお祭り騒ぎで、花嫁は輿のようなものに乗せら、一行は結婚式が既に始まっている新郎の家まで進む。

結婚式は通常、ユダヤ教のラビにより執り行われる。結婚式の前半では、「ケトゥバ(Ketubah、文書の意)」と呼ばれる結婚契約書が作成される。契約書にはすでに離婚の時に支払う金額が書いてあり、後でこれはラビにより読み上げられる。契約書に署名すると、花婿は花嫁の顔のベールを覆う(創世記のヤコブの結婚、ラケルと偽ってレアと結婚された逸話から出来た)。花嫁が聖別され、花婿のものとなったという事を示すしぐさと言われる。署名が終わると花婿は、彼の父親と花嫁の父親に、花嫁も両者の母親に伴われて、4本の柱が立てられた天幕「フッパ(Huppah、天蓋)」の下に入る。二人の新しい「天幕」としての新しい家庭を表す。そこで花婿と花嫁はラビの挨拶を受ける。ラビがぶどう酒を祝福し、二人に飲ませ、次に花婿は花嫁の右手の人差し指に指輪をはめながら「見よ、モーセとイスラエルの律法にしたがい、この指輪によってあなたは私のために聖化された」と唱える。ラビは「契約書(ケトゥバ)」を朗読し、花婿がそれを花嫁に手渡す。これで結婚の手続きが完了し、結婚式の後半部では、ラビが再びぶどう酒を祝福し、「結婚の祝福(Shevah brakhot)」として聖書の引用である頌栄を唱えて、二人に与える。新郎と新婦は、この二杯目のぶどう酒をこれから共にする生活の象徴として分かち合って飲む。締めくくりに、花婿はコップを踏み砕く習慣も出来た(喜びの後で地に足のついた生活を始めるという意味が込められている)。これで式は終了。

次の段階はニスインと呼ばれ、一週間にわたって近隣住民と祝う「結婚披露宴」。結婚の祝宴は、地域社会にとって重要な儀式。そのため、結婚式への出席は守るべき義務で、皆が祝辞を述べることが求められた。タルムードには、結婚披露宴に関する箇所が何十とあり、披露宴の中で踊られる踊りの種類と長さに関することまで書かれている。式の途中でグラスを割る習慣があるが、これは冷静な瞬間を持つ事や、ユダヤ民族の苦難を忘れない事などを意味した。花嫁が貧しくて結婚式や必要な衣装を揃えられない時は、地域社会がそれを提供した。1世紀のユダヤ人社会では地域ぐるみで支える責任があったのだ。


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