世界史講義録
  



第92回  ドイツの統一


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ドイツの統一
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 ドイツの統一について見てみましょう。
 ドイツでは、ナポレオンによってつくられたライン同盟が、1815年ウィーン会議で解体されてドイツ連邦ができました。35君主国と4つの自由市によって構成されていて、統一国家としての実態はない。
 これに対して、民族主義の立場からひとつのドイツを求める学生や市民の運動が起きてくるのです。現実問題としても、35の国に分かれているのは非常に不便。
 江戸時代の日本を想像してもらったらよいのですが、江戸時代の藩がそれぞれ別の国になっているのが当時のドイツと考えたらよい。徳川幕府はまがりなりにも中央政府としての役割を持っていましたが、ドイツ連邦には、徳川幕府に当たるような権力はない。それぞれの領邦は全く別の国。これは非常に不便なことで、経済的にはどんどんドイツはひとつに結びついてくるのに、たとえばミュンヘンからベルリンまで旅するだけで、いくつもの国境を通らなければならない。商品を運べば、国境を通過するたびに関税をとられる。

 ドイツ経済が発展していくためには、ドイツの統一が是非とも必要なことは誰の目にも明らかでした。

 そこで1833年、プロイセンが中心となってドイツ関税同盟が結成された。これに加わった国どうしで関税をなくし、自由貿易による経済発展をめざしたものです。
 プロイセンは国が二つの地域に分かれている。ベルリン含む東の領土と、ライン川ぞいの西の領土があって、その中間には別の国があるわけ。だから、プロイセンを行き来するのに、他国を通らなくてはならなかったわけで、関税同盟を必要としたのはよくわかる。また、プロイセンはドイツ連邦の中ではオーストリアにつぐ第二の大国で、他の小国を従わせるだけの実力があったので、いつか自国が中心となってドイツを統一したいと考えていた。だから、1848年二月革命の時に、フランクフルト国民議会によるドイツ皇帝推戴を拒否したのでした。

 さて、イタリア王国が成立したのと同じ1861年に、新しいプロイセン国王が即位した。ヴィルヘルム1世です。この人は、いよいよドイツ統一に乗り出します。サルディニアのヴィットーリオ=エマヌエーレ2世がカヴールを首相にしたのと同じように、ヴィルヘルム1世が、ドイツ統一のために首相に任命したのがビスマスク。19世紀後半のヨーロッパを代表する大政治家となる人物。
 ビスマルクがドイツ統一のためにとった有名な政策が「鉄血政策」。鉄は兵器、血は兵士をあらわす。要するに、軍事力を強化して、征服によってドイツを統一するぞと宣言した。そして、着々と軍備を整えていきます。
 プロイセンが武力によるドイツ統一を考えるとき、障害になるのがオーストリアです。オーストリアはドイツ連邦を構成する最大の国でありながら、オーストリア帝国として、ハンガリー、ベーメンなど他民族も支配している大国。しかも、それらの地域を切り離すことはないと宣言している。だから、ドイツを統一するためにはオーストリアを排除しなければならない。オーストリアと戦って勝利できなければ、ドイツ統一は不可能です。
 プロイセンは軍備を増強しているが、それでもオーストリアに勝てるかどうかは、ビスマルクにとって心配だった。そんなことをビスマルクが思い悩んでいる時、1864年に、ドイツ連邦とデンマークのあいだで領土紛争が起こります。ユトレヒト半島の付け根の場所にあるシュレスヴィヒ・ホルシュタインという地方の帰属をめぐってデンマークとドイツ連邦諸国が戦争をした。デンマーク戦争という。
 この戦争がおこると、ビスマルクはオーストリアを誘って共同出兵した。デンマークからシュレスヴィヒ・ホルシュタインを奪ってプロイセンとオーストリアで分けようじゃないかというのです。両国が協力すればデンマークは敵ではない。オーストリアは、喜んで誘いにのって出兵した。戦争に勝利して、シュレスヴィヒはプロイセンが、ホルシュタインはオーストリアが獲得した。
 ビスマルクがすごいのが、デンマーク戦争でオーストリアを誘った真の目的です。ビスマルクにとって、ドイツ統一のためにオーストリアと将来戦うのは確実。しかし、その前にオーストリア軍の実力を知っておきたかったのです。戦争は博打ではない。勝てるかどうかわからないけど、行ってしまえ!では、首相として失格でしょう。勝利を確実にするために、プロイセンは敵を知りたかった。共同作戦で戦争をすれば、手に取るようにオーストリア軍の内部事情がわかるのです。装備、指揮系統、指揮官の能力、兵士の士気、こういうことがみんなわかる。そのための共同出兵でした。オーストリアは、そんなことには気づかずに、領土を拡大して喜んでいる。その間に、ビスマルクはオーストリア軍の実態をしっかり研究した。装備から用兵までナポレオン戦争時代からほとんど進歩していない。これなら勝てると踏んだ。

 そして1866年、オーストリアと戦争に踏み切ります。これが普墺戦争。普はプロイセン、墺はオーストリアのことです。わずか7週間で勝負がついた。プロイセンの圧勝でした。
 この戦争で、プロイセン軍は実戦ではじめて後装式ライフル銃を使っています。弾丸を銃の後ろから装填する銃です。後装式だと、腹ばいになったまま弾丸を装填できるので、攻撃には有利です。後装式ライフル銃の存在は、ヨーロッパ各国に知られているのですが、実戦に使えるか疑問視されていて、どの国も取り入れていなかった。プロイセンだけが、正式に軍隊に採用していたのです。一方、オーストリア軍は先込め式を使っていて、これは火縄銃と同じで、銃の先から弾丸を詰める。
 新しい武器をどんどん取り入れるのがプロイセン軍の強さのもと。鉄道や電信などもフル活用して戦争にあたりました。単なる軍事力の違いというより、工業力や国の姿勢が根本的にちがっていたのです。

 勝利ののち、プロイセンはドイツ連邦を解体して、翌1867年、オーストリアを排除して北ドイツ連邦を結成しました。
 この北ドイツ連邦は、22の領邦が参加した連邦ですが、事実上プロイセンが支配します。ただ、オーストリアに近い立場をとる南ドイツのいくつかの領邦はこれに加わっていませんから、まだ完全なドイツ統一とは言えない。また、北ドイツ連邦も連邦国家ですから、各領邦国家はまだ残っていて、軍事的な圧力で統一をすすめるプロイセンのやり方に納得しているわけではない。北ドイツ連邦の中は、まだバラバラなわけです。
 北ドイツ連邦の中味を一体感のあるものにまとめ上げ、ついでに北ドイツ連邦にまだ参加していない南ドイツの領邦を取り込むために、ビスマルクはもう一度戦争をやろうと考えた。より強大な外部の敵と戦うことによって、ばらばらな内部をまとめようという考えです。そして、ちょうど手頃な相手がすぐ隣にいました。フランスです。

 フランスは、ナポレオン3世の統治下です。ビスマルクはフランスと戦争をする口実を作るために、ナポレオン3世を怒らせて外交関係をわざとこじらせる。ビスマルクは、国王の電報の改竄までして、ドイツじゅうにフランスに対する敵愾心をあおります。ついにナポレオン3世は、ビスマルクの挑発に乗ってしまって、1870年、フランスとドイツの戦争が始まります。ドイツとの戦争なのですが、実質的にドイツの中心はプロイセンなので、この戦争を普仏戦争といっています。
 戦争が始まると、バイエルンなど北ドイツ連邦に参加していない領邦もドイツ=プロイセン軍とともに戦争に参加しました。ビスマルクの思うつぼです。
 戦争そのものは、ドイツ軍の連戦連勝でフランス領内に攻め込みます。焦ったナポレオン3世は、おじさんの真似をして、自ら指揮を執るために前線に出かけた。でも、ナポレオン3世には、将軍としての経験もカリスマもありません。セダンという場所で、ドイツ軍に包囲されて、8万のフランス軍とともに降伏して、捕虜になってしまった。皇帝自身が捕虜になってしまったのですから、もうフランス軍はなすすべがない。そのまま、ドイツ軍は進軍をつづけてパリを包囲した。
 1871年1月、ナポレオン3世が捕虜になったあとパリで成立したフランスの臨時政府は、ドイツに降伏し、普仏戦争は終結。

 わずか半年間の戦争でしたが、この戦争でドイツはプロイセンを中心にがっちり団結し、1871年1月、ドイツ帝国の成立が宣言されました。プロイセン国王ヴィルヘルム1世が、初代ドイツ皇帝に即位したわけですが、その戴冠式がおこなわれたのが、ヴェルサイユ宮殿です。ヴェルサイユはフランス・ブルボン朝の栄光の宮殿。わざわざ、伝統あるフランスの宮殿で戴冠式をやるというのは、フランス人にとってはこの上のない侮辱ですね。だいたい、即位式をおこなったときは、ドイツ軍はまだパリ包囲中で、戦争がつづいているのです。まさしく、ドイツ帝国は戦場から生まれたのです。これは、ビスマルクの描いたシナリオ通りの展開でしょう。
 この戴冠式の絵は有名で、資料集にも載っていますね。左側の壇上に立っているのがヴィルヘルム1世。右側に白い服を着て目立っているのが帝国宰相になったビスマルク。臣下でありながら、絵全体の中心にいる。かれの果たした役割と立場を象徴していますね。

 ドイツは、戦争には勝ったがフランスを支配し統治するつもりははじめからありません。あくまで、戦争を通じてドイツ統一を完成することが目的。だから、講和条約を結び、戦後処理が片づくと、フランスから撤退しました。
 講和条約で、ドイツはフランスから多額の賠償金と、アルザス・ロレーヌという二つの地方を獲得しています。アルザス・ロレーヌを奪われたことは、フランスのドイツに対する深い恨みの元となり、この地方の帰属問題は第二次大戦まで尾を引くことになるので注意しておいてください。

 ドイツ帝国の性格を簡単に見ておきます。
 政治制度は立憲君主制。皇帝の権限は大きく、それに較べて、議会の権限はあまり大きくはない。
 連邦制は維持されて、各領邦はまだ残されています。連邦制の伝統は根強くて、現在でもドイツの正式名称はドイツ「連邦」共和国といい、かつての領邦である州の権限が強いようです。
 帝国政府の要職は、ユンカー身分の者が占めました。ユンカーというのは、プロイセンの地主貴族です。ビスマルクもユンカー出身。かれらがドイツ帝国を事実上仕切っている。

 オーストリアは、ドイツ帝国からははずされて、まったく別の国家になります。今でもオーストリアはドイツとは別の国ですね。でも、オーストリア人というのはドイツ民族で言語もドイツ語です。もしもの話ですが、普墺戦争でオーストリアが勝っていれば、ウィーンがドイツの首都で、ドイツとは別にプロイセンという国が現在あったかもしれない。そういう意味で、1860年代は、ドイツという国民国家がどういう形で作られていくかという分かれ道の時代だったのです。

 ちなみに1860年代は、ドイツだけではなく、いくつかの国でも大きな転換期です。
 1861年には、自由主義的改革をめざすロシアで農奴解放令がでる。
 同じ1861年に、イタリアが統一されイタリア王国が成立。
 また、アメリカ合衆国で南北戦争が始まるのも1861年。
 日本で徳川幕府が倒れ明治政府が成立したのが1868年。
 そして1871年にドイツ帝国成立。

 この時期に近代的な国家づくりをはじめたかどうかが、のちの運命を分けるようです。1860年代に、中央集権的近代国家をめざした国は、やがて帝国主義国として他国に勢力を伸ばし、それに遅れた国や地域は植民地か半植民地になってしまう。日本の明治維新は、ぎりぎりセーフで、間に合ったわけです。

 明治新政府は、国づくりの参考にするために、さかんに欧米の制度を吸収します。明治憲法を制定するのに、伊藤博文が一番参考にしたのがドイツです。国家建設の時期もほとんど同じだし、封建的な分裂状態から中央集権国家をつくりあげるという状況もそっくりなので、参考にしたのは当然。伊藤はヨーロッパ各国の制度を調査するのですが、イギリスは議会政治が成熟していて一から始める日本の参考にならない、フランスは人民の力が強く革命ばかり起こしているのでモデルにするのは危険だと考えた。一方ドイツは、状況も似ているし皇帝の権限が強い立憲君主制なので、天皇を中心とする国家を考えていた伊藤の構想にピッタリ合ったのでしょう。
 伊藤はビスマルクにも会っていて、このヨーロッパを代表する大政治家にかなり影響されたようです。日本のビスマルクになろうと思っていたのではないかな。
 伊藤が中心になって作った憲法は1889年、大日本帝国憲法として発布されるのですが、和田英作という人がその式典の絵を書いている。これは、日本史の資料集などによくのっているのですが、ドイツ皇帝戴冠式の絵と構図がそっくりなんです。真似ていると思いますね。

 統一後のビスマルクの課題は、ドイツ帝国の内政の整備です。
 これは、3つだけ覚えておけばいい。文化闘争、社会主義鎮圧法、社会政策の3つです。
 文化闘争は、1871年から80年までつづくビスマルクによるカトリック勢力への弾圧のことをいう。南ドイツに多いカトリック教徒が中央党という政党を結成して、ビスマルクの政策に抵抗したのが原因。
 社会主義鎮圧法。1878年に制定された。社会主義運動や労働運動を弾圧する法律で、ドイツ社会主義労働者党という社会主義政党が勢力を伸ばしてきたのに対して作られた。
 社会政策は、労働者など民衆の不満をやわらげるためにおこなわれた政策。具体的には、災害保険、疾病保険、養老保険などを実施しました。社会主義鎮圧法がムチとすれば、こちらはアメです。

 統一以後のドイツは急速に工業化がすすみ、イギリス、フランスにつづく大国に成長していきました。

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オーストリアの動向
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 1866年の普墺戦争で敗北したオーストリアは、北ドイツ連邦から排除され、翌1867年にオーストリア=ハンガリー帝国として国を再編成します。
 ハンガリーに住むマジャール人は、以前からオーストリアからの独立を求めていた。このマジャール人の要求を受け入れる形で、オーストリアはマジャール人の自治を認めハンガリー王国が成立します。ただし、ハンガリー国王はオーストリア皇帝が兼ねる。なんだか、ごまかしのようですが、これでハンガリーはオーストリアと対等の国となった。そして、国名がオーストリア=ハンガリー帝国となりました。一人の国王に統治される二つの王国の集合体です。
 オーストリア支配下には、現在のチェコやスロヴァキアなどスラブ系民族が住む地域がたくさんあった。これらのスラブ系住民が、「なんでマジャール人だけやねん」と思うのは当然で、これ以後、スラブ系民族の自治権要求が活発化します。スラブ系民族は、オスマン帝国にも多く住んでいて、国境を越えてスラブ人どうしの連帯意識、政治意識が高まってきました。これを、パン=スラブ主義という。
 スラブ人の国であるロシアが、このパン=スラブ主義を利用して、自国の影響力をオーストリアやオスマン帝国に強めようと考えるのは、南下政策からして当然の成り行き。このパン=スラブ主義がやがてヨーロッパ政治の重大問題に発展していくことになりますから、注意しておいて下さい。



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結構広い時代をカバーしていますが、ウィーン体制以後のヨーロッパ全体の流れをつかむには適している。


第92回 ドイツの統一 おわり

こんな話を授業でした

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