世界史講義録
  



第77回  アメリカ独立革命


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13植民地の特徴
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 本国イギリスは13植民地に対してどういう支配をしていたのか。
 実は、イギリス本国政府は、アメリカに成立した13植民地に対して無関心でした。植民地の人たちの生活に、規制や干渉をくわえることはなかった。税金も取らないのです。そのかわり、政府としてのサービスもしません。ほったらかしです。
 だから、植民地の住民は、政府を頼りにせず、全部自分たちでやらなければならなかった。そのため、早い段階から植民地で議会が成立します。一番はやいものが1619年のヴァージニア植民地議会。
 政治的にも、自主自立、自助努力が植民地の人たちの当然の生活態度になる。自由な気風が尊ばれるようになる。イギリスの一部でありながら、イギリスとは違った文化風土が生まれはじめていたのです。

 産業も徐々に発達してきます。
 北部の植民地では、商工業が発達する。農業は自営農民が主流となります。
 南部の植民地では、プランテーションが発達する。気候にあった商品作物として、タバコ、綿花の大規模栽培がおこなわれました。これらの農作物は、多くの人手を必要とした。そのために、労働力不足を補うために、南部では奴隷制度が発達した。奴隷はアフリカから連れてこられた黒人たちです。おなじ、イギリスの植民地でも北部はプランテーションがありませんから、奴隷制もなかった。ここは注意しておいてください。

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独立戦争
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 1754年から63年まで、フレンチ・インディアン戦争が北アメリカでおこなわれた。イギリスとフランスの戦争です。ヨーロッパでは七年戦争がおこなわれていた時期です。
 この戦争の原因は北アメリカの領土の奪い合い。フレンチ・インディアン戦争という名前は、フランスがアメリカ・インディアンと同盟を結んで、共同でイギリスと戦ったところからついた。アメリカ・インディアンたちにとってみれば、土地を奪うイギリスの植民者は憎いですが、フランスは毛皮交易などを目的に植民地を経営していたから、利害の対立はない。フランスと同盟を結んでイギリスと戦うのもうなずけます。

 フレンチ・インディアン戦争は、イギリスの勝利で終わる。勝ったイギリスはパリ条約でミシシッピ川以東のルイジアナ地方を獲得した。これでフランスの勢力は北アメリカからなくなりました。
 この戦争では、13植民地の人々も当然イギリス側として戦った。そして、イギリスが勝って、内陸部のフランス領がイギリス領になったのですから、大喜びでした。さらに、内陸部を開拓して、農地をひろげることができるからです。

 ところが、1763年、イギリス王は新しくイギリス領になったルイジアナ地方を国王の直轄地として、13植民地人が入植することを禁止した。13植民地と、国王直轄地とのあいだに引かれた境界線を「国王宣言線」といいます。
 13植民地は、この国王宣言線に対して反発した。フレンチ・インディアン戦争で戦ったのは何のためか、ということです。これが、13植民地とイギリス本国政府との最初のいきちがいです。

 その2年後、1765年、イギリス本国政府は13植民地に対して、印紙法という法律を施行しようとした。これは、植民地で発行されるすべての印刷物に課税しようというものでした。フレンチ・インディアン戦争での戦費を植民地人に負担させるのがこの税金の目的でした。
 植民地の側からすれば、入植地が拡大したわけでもないのに、金だけ取ろうというのは本国政府は勝手すぎる。しかも、それまで13植民地は、税金を払わなくてもよかったのです。税金なしというのは、一見うらやましいように思いますが、植民地人は納税の義務がないかわりに、参政権もなかったのです。植民地に住んでいても、国籍はイギリス人です。ところが、イギリスの国会議員を選ぶ権利がなかった。参政権をあたえられないままに、納税だけを迫られたので、13植民地は猛反発した。このときの植民地側のスローガンは有名です。「代表なくして課税なし」代表というのは、自分たちが選ぶ国会議員のことですね。
 イギリス政府は植民地の猛反対で、印紙法を廃止しまが、このあとも似たような法律を制定していきます。その中で、再び、植民地側の猛反発を受けたのが、1773年の茶法です。

 茶法は、イギリス東インド会社の茶しか、13植民地での販売を認めないという法律。植民地人は、この法律にひどく反発しました。当時お茶はイギリス人にとって国民飲料になっていた。国民飲料というのは、その国の人たちにとって食事の時に絶対欠かせない飲み物です。一昔まえの日本だったら緑茶。今は、ウーロン茶とかナントカ茶とか、缶やペットボトルで売り出されて、いろいろなお茶を飲むようになっているけれど、少し前までは緑茶だけだったと思う。真夏の麦茶は別としてね。
 イギリスでは、東インド会社が中国から茶を輸入して以来、お茶がアッという間に国民の間に広がった。もちろん紅茶です。これがなかったら、食事もできない。生活必需品です。だから、茶法は植民地の人たちにとって、イギリス本国の強引なやり方の象徴となりました。

 そこで、本国政府のやり方に腹を立てた一部の過激な植民地の人々が、ボストンの港に入港した東インド会社の貿易船にのりこんで、積み荷の茶を海に投げ捨てた。これが、1773年ボストン茶会事件です。この事件は、アメリカで切手になっていて、この絵はそれを拡大したものです。事件は夜におきた。植民地の人たちがボートに乗って貿易船に近づいています。何のつもりだったのかよくわかりませんが、インディアンに変装している。そして、海に箱を投げていますね。茶箱です。海面にプカプカ浮いている。9万ドル分の茶がパーになった。

 これは、事件としては実にささやかなものですが、植民地人が本国に対して、実力行使をしたという点で、画期的だったのです。植民地人たちの反抗心に火をつけた。アメリカ独立の歴史の出発点となった。アメリカ人にとっては記念すべき事件なのですね。
 資料集には、現在のボストン港の様子があります。観光客が、船から箱を海に投げ捨てるアトラクションに参加しているところ。
 それから、現在のアメリカ人はあまり紅茶を飲まない。アメリカの国民飲料はといえば、アメリカンコーヒー。実は、アメリカンコーヒーは、「イギリスの紅茶なんか飲んでられるかい」と茶法に反発した植民地人たちが、紅茶の代用品として飲み始めたのです。コーヒーは、濃すぎて何杯も飲めない。紅茶に近づけようと、シャビシャビに薄めたのです。 どちらかというと、わたしはあまり好きじゃない。喫茶店でアメリカンコーヒーを飲んでも、コーヒー飲んだ気がしないです。

 それはともかく、こうなった以上は本国イギリス政府との対立はさけられない。そこで対応策を練るために13植民地の代表者が集まって会議を開いた。これが第一回大陸会議(1774)。それまで、13植民地はそれぞれの成立事情、成立時期がちがっていたから、お互いの連絡はなくてバラバラだった。しかし、本国との対立が実力行使までに発展したのでお互い協力しましょうと言うことで開かれたのです。開催地はフィラデルフィア。のちに独立後最初の首都になる。映画の『ロッキー』の舞台になっている。
 この大陸会議という名称が、大きいでしょ。名前だけ聞いているとアメリカ大陸の全ての地域が参加しているように感じてしまいます。でも、参加しているのは北米東海岸に細長く連なるイギリス13植民地のみです。アメリカに住み着いた植民地人たちは、自分たちの住んでいるところが世界の中心だ、みたいな発想があるんでしょうね。メジャーリーグの優勝決定戦を「ワールドシリーズ」という。メジャーリーグに参加しているのは、アメリカとカナダだけですよ。それで、「ワールド」。中南米を無視して「大陸会議」といっている発想と同じですね。

 この段階で、イギリスから独立しようと考えている植民地人が多数派ではなかった。ところが、翌1775年、イギリス本国から派遣された軍隊と、植民地人の民兵の間で戦闘がはじまってしまった。アメリカ独立戦争の開始です。戦争という既成事実に引っ張られるかたちで、こうなったら独立するしかないか、という世論があとから生まれてきました。
 独立戦争がはじまったときに、植民地人口は約250万人。このうち、王党派、イギリス国王に忠誠を尽くすという人たちですが、これが30万。独立をめざす愛国派が80万、中立派が120万でした。このときに独立の世論を盛り上げたのが、トマス=ペインの発行したパンフレット『コモン・センス』でした。常識、という意味ですね。植民地の権利を守らないイギリス本国から独立するのが常識だ、という中身です。これが、12万冊発行されたという。単純計算で20人に一人がこのパンフレットを手に入れたことになる。今の日本なら600万冊。大ベストセラーです。

 実際に戦争がはじまってしまえば、行き着くこところまで行くしかなくなる。とりあえず、植民地側は植民地軍を編成した。司令官に選ばれたのがワシントンです。フレンチ=インディアン戦争での活躍を買われたのです。ワシントン率いる植民地軍の兵力は1万2000人。そのうち、ぬかるみでも歩ける長靴を履いていたのが900人。小銃をもっていたのが三人に一人だったという。あとは、サンダル履きだったり、農具を武器にしている。軍隊というよりは農民一揆です。もちろん、ほとんどの兵士は、きちんとした軍事訓練を受けていない。素人集団です。
 対するイギリス軍は兵力3万。当然こちらはプロ集団です。

 兵力も装備も訓練も劣る植民地軍はどういう戦いをしたか。負けない戦いをする。正面からぶつかったら負けるのはわかりきっていますから、イギリス軍が、休息したり、山間の狭い道を分散して通過したりする時をねらって攻撃を仕掛けます。相手が向かってきたら一目散に逃げる。植民地軍は地の利がありますから、それを最大限利用して戦ったわけです。こういう戦いを散兵戦という。ワシントンは、植民地軍をよくまとめて負けない戦いをつづけます。

 しかし、これでは負けはしないが、勝つこともできない。植民地がイギリス本国と戦いつづけるためには、他国の援助が絶対必要でした。そこで、ヨーロッパでも有名なフランクリンがフランスなどで外交活動をおこなった。植民地への援助を要請するためです。フランスは当時絶対王政の時代。貴族たちがサロンで政治の流れをつくっていく。洗練されたフランス貴族から見ると、アメリカ大陸の植民地人というだけで、どんな粗野な人間だろうかと興味津々なのです。フランクリンはそういう期待に応えるために、わざと田舎臭い、野暮ったい恰好、熊の毛皮を身につけたりして社交界に出入りした。話も面白いし、サービス精神旺盛だから、フランクリンはフランス社交界で引っ張りだこの人気者になった。
 そんな努力のかいがあって、ヨーロッパ諸国は次第に植民地を支援するようになる。
 ヨーロッパから義勇兵として植民地に来たのがフランスのラファイエット、ポーランドのコシューシコ。ワシントンの副官として活躍します。かれらは、のちにフランス史、ポーランド史でも、それぞれ活躍しますからしっかり覚えておくこと。
 フランスは1778年に、正式に参戦して、アメリカに軍隊を派遣します。フレンチ=インディアン戦争の復讐です。スペイン、オランダもイギリスに宣戦する。また、1780年、ロシアがプロイセン、ポルトガルなどを誘って武装中立同盟を結成してイギリスに敵対します。
 これらの動きは、植民地の独立を応援したいというよりは、イギリスにダメージを与えたいという各国の思わくから出ています。国際的な反イギリスの動きが、植民地の独立戦争を有利にしました。

 植民地側が1776年に発表したのが『独立宣言』。「われわれは、自明の真理として、すべての人は平等に造られ、造物主によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付与され、そのなかに生命、自由および幸福の追求のふくまれることを信じる。」からはじまる歴史的文書です。
 内容的には、基本的人権、革命権、平等・生命・自由・幸福追求の権利などをうたっていて、イギリスの思想家ロックの社会契約説の影響を強く受けています。
 独立宣言が独立戦争の最中に出されたのは、ヨーロッパ諸国の援助を得るために自分たちの独立の正統性と、イギリスの暴虐ぶりをアピールするという目的がありました。この宣言で、国名をUnited States of Americaとしました。

 起草者は複数いますが、中心となったのがトマス=ジェファーソン。フランクリンも起草者の一人です。資料集の絵が、起草者たちが独立宣言に署名をしているところ。

 独立宣言の中身は非常に立派で、「すべての人は平等」と書いてあるのですが、奴隷制度のことをどう考えていたのか。ここでいう「すべての人」の中には黒人奴隷やインディアンは入っていません。独立できても黒人奴隷やインディアンに自分たちと同じ権利を与える気は全然なかった。
 実は、独立宣言を中心になって書いたトマス=ジェファーソンは、奴隷制度の廃止を考えていました。かれが最初に書いた宣言の原稿には、そのことがはっきりと書かれています。ところが、起草委員は複数いるので、ジェファーソンが原稿を見せると、「奴隷制廃止に触れるのはちょっとやばいんじゃないの?」という意見が出てくるのですね。
 植民地側の指導者たちの中には、奴隷をもっている人も当然たくさんいるから。たとえば、軍司令官ワシントンは何百人もの奴隷をもって農園を経営している。奴隷制廃止なんていったら、へそを曲げるでしょ。それでは、独立戦争を戦えない。結局、ジェファーソンの原稿から奴隷制度に触れた部分は削除されたのです。
 ジェファーソンの逸話を紹介しておきます。ジェファーソンは妻を亡くしたあと、自分の身の回りの世話をしていた黒人奴隷の女性と関係を持った。もちろんジェファーソンが所有している奴隷ですよ。で、その黒人女性との間に子どもももうけています。こういうことは、結構一般的だったらしいけれど、ジェファーソンは自分の体験から奴隷問題を真剣に考えたのでしょうね。ちなみにジェファーソンは、のちに合衆国の第三代大統領になっています。

 戦争は、1781年のヨークタウンの戦いで、アメリカ・フランス連合軍の勝利が決定的となる。ちなみに、このときの兵力が、アメリカ軍8800人、フランス軍7000人。
 その後、1783年、パリ条約で、イギリスは正式にアメリカ合衆国の独立を承認しました。

 1787年、合衆国憲法が制定。特徴として、人民主権、三権分立、連邦制を覚えておく。
 合衆国は、自然に出来上がった国ではなくて、植民地の人たちがどういう国にしようかと、議論しながら作った国です。最新の政治学説を取り入れて理想の国づくりをめざした。三権分立はフランスの思想家モンテスキューが専制政治を防止するための方法として唱えたものです。現代世界で、先進資本主義国はほとんど三権分立を採用しているほど広がっているシステムですが、合衆国がその最初だったのです。
 連邦制。独立前の13の植民地が独立後は州となります。州の独立性を重視し、州の連合体が合衆国だという考え方です。国名のUnited States of Americaに反映されているでしょ。アメリカ合衆国、と一般的には訳していますが、意味的には「合州国」の方があっていますね。
 建国当初は、中央政府と、州政府の力関係をどうするかは、大きな論争になりました。独立前の13植民地は、バラバラに自由にやっていたので、中央政府には大きな権限をもたせずに、州の独自性を尊重しようというのが、建国当初の方針でした。
 今でも、アメリカでは州ごとに法律が違う、警察も違う。州軍という州の軍隊もあります。州の警察は、州の中でしか活動できない。たとえば、A州で殺人事件を起こした犯人がB州に逃げると、A州の警察はもう捜査しません。B州の警察は、自分の管轄で起こった事件ではないので犯人を捕まえない。これでは、犯罪やりほうだいです。それで、州をこえて犯罪捜査をおこなえる警察として作られたのが連邦警察、FBIというやつです。


 初代大統領になったのが、独立戦争の英雄ワシントン。ワシントンに関してはこんな逸話がある。独立が決定し、どんな国をつくるかというときに、一部の軍人グループがワシントンを国王にしようと考えた。で、故郷の農園に帰っているワシントンの所に出かけて、王様になって下さいと頼んだという。もし、ここでワシントンが首を縦に振っていたら、アメリカは合衆国でなくて、アメリカ王国になっていたかも知れない。ワシントンは軍司令官で軍を掌握しているのだから、かれがその気になれば何だってできた。
 ところが、ここがワシントンの偉いところですが、「これからは王様の時代ではない」と断った。ワシントンが王様になるのを拒否したら、ほかに候補者はいません。そこで、選挙で国家元首を選ぶことにした。大統領です。やっぱりワシントンが選ばれたのですが。
 さて、ワシントンが大統領になったのですが、まわりの役人や、議員たちは大統領に対してどう呼びかけていいかわからない。ヨーロッパでは王に対して「選ばれし陛下」とか「いと高き仁慈深き御方」とか、ややこしい呼びかけをする。呼び方に困ったので、本人に聞いてみた。「どのようにお呼びしたらよろしいでしょうか?」ワシントン「ミスター・プレジデントでいいよ」日本語に訳したら、「大統領さん」くらいの感じでしょうか。親しまれる大統領の伝統が、ここから生まれた。大統領就任は1789年。肖像画のワシントンが手に持っているのが、新しく建設する首都の設計図です。かれの名前をつけて、これが、現在の首都ワシントンになりました。

 プリントの最後につけてあるのが建国当初のアメリカ合衆国の国旗です。星の数が13、縞の数も13。独立当初の州の数を表しています。その後、中西部に領土が拡大して、新しい州が増えるたびに、星の数は増やされていきました。だから、時期によって星の数が違う。こういう国旗も珍しいね。州というものを重視していることがわかります。

第77回 アメリカ独立革命 おわり

こんな話を授業でした

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