世界史講義録
  



第69回  大西洋ネットワーク・商業覇権の移動

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大西洋の三角貿易
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 ヨーロッパは、アフリカ・アメリカ大陸とはどのような貿易をおこなっていったのか。

 それが、三角貿易とよばれるものです。

 アメリカ大陸と西インド諸島ではヨーロッパからの入植者がサトウキビを栽培する。綿花を栽培する。タバコを栽培する。金・銀を採掘する。労働力となったのは、アフリカ大陸からつれてこられた奴隷たちです。生産した商品はヨーロッパに輸出される。
 ヨーロッパは、工業製品、銃などの武器、綿織物やガラス工芸品などの雑貨をアフリカに輸出します。アフリカでもギニア湾に面した地域が中心です。
 アフリカが輸出するのが奴隷です。ヨーロッパ商人は雑貨を売って、奴隷を買い、アメリカ大陸に運ぶ。こうして、三角貿易は完成です。

 三角貿易の影響について。
 奴隷貿易で一番活躍したのがイギリスです。とくにリバプールの商人が有名。このおかげで、イギリスは資本を蓄積して工業化をおこなっていく。

 アメリカでは三角貿易の結果、農業のモノカルチャー化がすすんだ。モノカルチャーとは、単一種の作物しか栽培しないことです。だから、その作物が値崩れすると、モノカルチャー経済の国はいっぺんに経済が破綻します。

 奴隷の供給源になってしまったアフリカは、社会に破壊的な影響がでた。16世紀後半から19世紀初頭までで一千万人以上のアフリカ人が奴隷として連れ去られたという。もっと多い数字をあげる人もいます。人間がいなくなったら、その社会が発展するはずがありません。現在、アフリカは貧困で苦しんでいますが、奴隷貿易によるダメージがつづいていると考えていいかもしれない。
 ヨーロッパからやって来た奴隷商人たちは、どうやって奴隷を集めたのか。白人たちが奴隷狩りをしたというイメージを持っている人がいるかもしれませんが、そういうことはまずなかった。白人商人たちが、アフリカの港に入港すると、現地の奴隷商人たちがすでに奴隷を取りそろえて待っているのでです。アフリカ人の奴隷商人がいて、彼らは奥地に入って違う部族の村を襲ったりして奴隷を狩り集めてくるんだ。ベニン王国など、奴隷貿易で繁栄した国が成立したりもします。

 資料集に「アフリカ西海岸の風景」という絵がのっていますね。これは、アフリカの港にやってきたヨーロッパの奴隷商人が、アフリカの奴隷商人から奴隷を買っているシーン。左端のところに帆が見える。これが奴隷船です。沖合にも停泊しています。真ん中に白人と、黒人グループが向かい合っている。これは、下に寝かされている奴隷の値段を交渉している。よく見ると、この奴隷の口を無理矢理こじ開けている白人がいます。歯茎を調べて健康状態を見ようとしているんです。あまり健康じゃなかったら値切ろうというわけだ。左では、買い取られた女性の奴隷が腕に焼きゴテをあてられている。牛と同じですね。右の向こうの方からは、何人もの女性達が歩かされています。丸太棒に数人づつ首をくくりつけられて、横一列に並んでいるね。よく見ると、泣き叫んでいる。奥地からさらわれて、奴隷市が立っているこの港に、今連れてこられた、という雰囲気です。左の奥には、鞭で打たれている奴隷が見えます。奴隷船にのせられているところでしょうか。

 こうして集められた奴隷たちは、アメリカ大陸や西インド諸島に運ばれるのですが、この奴隷船が地獄でした。教科書、資料集には、奴隷船の内部構造が載っていますね。ぎっしり黒く描かれているのが奴隷です。一回の航海で、できるだけ多く運べるように、船の内部を低い天井で仕切って奴隷を横に寝かせています。逃亡や反抗をさせないように、全員の足首が鎖でつながっていました。男女とも頭は剃られ、全裸です。腕には会社のブランドマークが焼き付けられている。
 トイレはどこにあるかというと、ないでしょ。ただ、ワンフロアに二個か三個のバケツが、オマルがわりに用意してあった。ただ、バケツの所まで行くには、自分とつながっている何人もの人たちを引きずっていかなければならないので、事実上オマルを使うことはできなかった。どうするかというと、しかたなく横になったまま、垂れ流しです。奴隷にされた人たちは、船に乗せられて出向した段階で恐怖の最高潮です。しかも、トイレさえ人間らしくできなくて、もう生きる望みはなくしている。
 自殺をはかる者もいたといいます。ただ、死ぬための手段がない。どうするかというと、朝晩に食事があたえられるのですが、それを食べない。食べないと死んでしまう。奴隷商人としては、商品に死なれては困りますから、食べようとしない奴隷に無理矢理食べさせます。どんなものかはわかりませんが、マウスオープナーという道具があって、これで食べない奴隷の口を強引にこじ開けて、流動食を流し込んだ。
 大西洋を横断するのにだいたい40日から70日かかった。船の中は、衛生状態が最悪ですから、伝染病、衰弱などで、奴隷たちはどんどん死んでいきます。死亡率は8%から25%。かなり幅があるが、だいたい6人に1人の割合で死んでしまうと考えたらいい。

 大西洋の真ん中で奴隷船が他の船とすれ違いますね。姿が見えなくても奴隷船が近くにいるとすぐにわかったという。理由は悪臭です。数キロ先まで、悪臭が漂っていた。なるほどな、という感じですね。
 もう一つ有名なエピソード。奴隷船がすすむ後にはいつも、鮫の群れがついて泳いでいたんという。なぜかわかりますか?奴隷が死ぬでしょ。するとその死体は船からポーンと海に捨てられる。毎日毎日、死体が捨てられる。それをねらって鮫の大群が集まってくるんだ。なんだか、すさまじい光景です。

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商業覇権の移動
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 海外貿易で富を蓄えた最初の国はスペインでしたが、オランダ独立の頃からスペインは衰える。17世紀前半はオランダが商業覇権をにぎります。中継貿易と加工工業で繁栄し、アムステルダムはヨーロッパ金融の中心となる。イギリスも海外貿易に乗り出しますが、オランダにはかなわなかった。1623年、アンボイナ事件でオランダに負けていましたね。

 ところが、ピューリタン革命、名誉革命くらいから、イギリスは急速に力をつけてオランダをしのぐようになってくる。クロムウェルが制定した航海法はオランダを標的にしたものでしたね。航海法が原因で1652年から英蘭戦争がはじまります。この戦争で商業覇権が、オランダからイギリスへ移る。たとえば、北アメリカではオランダが建設した植民地ニューネーデルラントが1644年にはイギリス領になる。のちに、ここにあったニューアムステルダムという町が、ニューヨークと名前を変えて発展する事になる。

 アジアでは、モルッカ諸島からしめだされたイギリス東インド会社は、しかたなしにインドで貿易をはじめますが、これが大当たり。インドの綿織物をイギリスにもっていったら、爆発的な人気をよんだ。今では、綿の布なんて珍しくも何ともありませんが、木綿というのは、軽くて、手触りが柔らかくてあたたかい。しかも白くて清潔感がある。手軽に染めることもできるし、好きな模様をプリントできる。これは、それまで一般的だった毛織物にはなかった特色です。人気がでるのもわかるね。香料貿易はオランダに取られましたが、インド綿布の貿易でイギリス東インド会社は莫大な利潤を得るようになった。やがて、綿織物を自国で安くできないかということで、産業革命がはじまるのですが、これは後の話。

 オランダにかわってイギリスが覇権をにぎるのが17世紀後半ですが、このイギリスのライバルとして、登場してくるのがフランスです。ルイ14世時代以来、積極的な重商主義政策をとって、各地でイギリス勢力と衝突した。これを第二次英仏百年戦争(1689〜1815)という。
 ヨーロッパで戦争がおこると、それにあわせて北米大陸でイギリスとフランスが戦った。
箇条書きでいきます。
 1689〜97、ヨーロッパで、ファルツ継承戦争。北米で、ウィリアム王戦争。
 1702〜13、ヨーロッパで、スペイン継承戦争。北米で、アン女王戦争。
 1744〜48、ヨーロッパで、オーストリア継承戦争。北米で、ジョージ王戦争。
 1755〜63、ヨーロッパで、七年戦争。北米で、フレンチ=インディアン戦争。
これらの戦争を通じて、イギリスはフランスから植民地を奪い、北アメリカ大陸の支配権を確立していきました。戦争の名前は、戦争時のイギリス王の名前です。フレンチ=インディアン戦争は違いますが。

 フランスはインドにも進出していて、1757年、インドでイギリス、フランスが戦いました。プラッシーの戦いという。これも、イギリスが勝つ。これ以後イギリスは本格的なインド支配をはじめることになる、重要な戦いです。

 フランスとの百年間の抗争は、イギリスの勝利で終わる。これ以後、イギリスが世界経済の中心となっていく。20世紀になってアメリカ合衆国が台頭するまで、この状態はつづきました。

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まとめ
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 ヨーロッパの商業覇権の移り変わりと、政治体制を確認しておきます。

 16世紀、商業覇権はスペインにある。カルロス1世、フェリペ2世の時代です。政治的には絶対主義がここからはじまります。経済政策は重商主義です。

 16世紀末。オランダがスペインから独立戦争をはじめる。国内産業の発展がなかったスペインはそのまま没落し、オランダが商業覇権をにぎります。ポルトガルもスペインと同じ運命をたどる。

 オランダの独立を助けたイギリスはエリザベス1世以後、政治は絶対主義でしたが、17世紀半ば、ピューリタン革命、名誉革命で絶対主義は終わった。かわりに市民階級が権力をにぎる。このあたりから、イギリスは急速に力を伸ばし、オランダを追い抜いて、覇権を握ります。
 フランスは、絶対主義の絶頂期ですが、イギリスに対抗して重商主義政策をとる。アメリカやアジアでイギリス、フランスがしのぎを削っているときに、ようやく中央集権的な国家をつくりはじめるのが、ロシアのピョートル1世。18世紀前半の人でした。

 18世紀後半になって、イギリス、フランスの先進的な部分を取り入れて、国家改造をはかったのが、プロイセン、オーストリアの啓蒙専制君主といわれる人たち。フリードリヒ2世やヨーゼフ2世でした。プロイセン出身でロシア皇帝となったエカチェリーナ2世も、啓蒙専制君主として政治改革をします。
 これらの国々は、イギリスやフランスのように海外に進出できるような地理的な条件がなかったこと、国内産業が未発達だったので、穀物を西ヨーロッパに輸出することで、貿易を成り立たせようとした。安い穀物を生産するために、農民に対しては抑圧的になる。海外貿易で富を得て、市民階級が発言力を増すイギリス、フランスとは、反対の政治風土が生まれていきます。

第69回 大西洋ネットワーク・商業覇権の移動 おわり

こんな話を授業でした

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