世界史講義録
  

第54回  大航海時代1


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大航海時代の条件
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 スペイン、ポルトガルをはじめとする西欧の国々が、大西洋やインド洋に進出していった時代を大航海時代といっています。15世紀の末から16世紀のはじめまでをおおざっぱに呼ぶ言い方です。ヨーロッパ人が世界に拡大していく最初ですね。

 大航海時代が始まった理由を見ていきましょう。

 まず、スペインやポルトガルがどういう国だったかということです。この二カ国は当時出来たてほやほやの国でした。両国があるイベリア半島は8世紀初め以来イスラム勢力の支配下にあった。フランスとの国境地帯に住むキリスト教徒の領主たちが少しずつイスラム勢力から領土を奪い取っていきました。これをレコンキスタ、再征服運動といいましたね。この戦いで生まれたのがポルトガルとスペインでした。
 イベリア半島最後のイスラム教国グラナダ王国がスペインによって滅亡したのが1492年、コロンブスがスペインの援助でアメリカに到達したのが同じ年ですから、イスラム教徒と戦争しながら大航海を援助していたわけです。つまり、この時期のスペイン、ポルトガルには猛烈な領土拡大への意欲があった。もっともっと、より広く、より遠くへというわけです。
 イスラム教徒と戦うなかで養われた、キリスト教を広げようという宗教的な熱意も背景にあったようです。

 さらに、この両国は王室の権力強化のために財源を求めていた。海に囲まれたイベリア半島ですから、海上貿易に目を付けた。当時一番儲かるのが香辛料貿易だった。
 香辛料は軽くて輸送しやすいうえ高価で取引された。当時のヨーロッパでは同じ重さの銀と交換されたというから超高級品です。しかも人気商品でよく売れた。このころヨーロッパ人は香辛料なしではすまない食生活になっていたのです。

 ちょっと、食生活の話をしておきましょう。ヨーロッパは緯度が高く、寒冷な地域でもともと農業生産にあまり向いているところではなかった。だから、小麦などの穀物栽培以外に豚や牛などの家畜も多く飼っているわけです。これらの家畜はだいたい、森や休耕地で放し飼い。まるまると肥えた秋に屠殺します。肉は干し肉、薫製など保存のために加工もしますが、多くは塩漬けにして樽の中につけておく。これをちびちびと長い冬の間に食べつなぐわけです。いくら冬は寒いと入っても、肉は傷んでくる。やがて腐りかけた肉なども食べることになる。これが臭い。しかし、我慢して食べていたわけだ。
 十字軍などをきっかけに東方の産物であるコショウをヨーロッパ人は知る。これを腐りかけた肉にかければ臭みが見事に消える。一度コショウの味を知るとなしではすまないようになってきます。

 地中海交易圏でイタリア商人がイスラム商人から輸入した重要な商品が香辛料だったのです。この香辛料はどこで生産されていたのか。コショウはインド西海岸のマラバール海岸や、ジャワ、スマトラ、マライ半島で作られていた。クローヴ(ちょうじ)、ナツメグはインドネシアのモルッカ諸島周辺でしか栽培されていませんでした。
 いずれにしても、ヨーロッパからは遙かに遠いアジアです。これらの香辛料はインド商人、アラビア商人、そして、イタリア商人と多くの仲買人を経て運ばれますから、ヨーロッパでの末端価格は驚くほど高くなるのです。コショウを扱うヨーロッパの小売商人は風や息で吹き飛ばないように窓を閉め切りマスクをして慎重に量り売りをした。絵を見ると化学の実験で薬品を扱っているようですね。

 ポルトガル、スペインが香辛料貿易をおこなおうとしたときには地中海交易はイタリア商人に独占されていたので、別のルートでインドに直接到達する方法を探すことになったのです。直接インドまで行ければ仲介商人なしだから利益は莫大になるはずです。

 ちょうどこの時期に羅針盤の改良が行われたり、地球球体説もとなえられるようになり、遠洋航海への技術的な裏付けも整ってきました。

 マルコ=ポーロの「世界の記述(東方見聞録)」が大いに読まれてアジアへの関心も高まっていました。コロンブスの読んだマルコ=ポーロの本が残っているのですが、余白にたくさん書き込みがある。ジパングまで何キロ、なんてね。
 こういう関心の高まりと、インドとの直接貿易の欲望が相まって大航海時代が幕開ける。

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インドへ
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 大航海時代のさきがけとなった人物はエンリケ航海王子(1394〜1460)です。この人はポルトガルの王子。ヨーロッパ中から腕利きの船乗りを集めてアフリカ沿岸の探検航海を指揮した人です。だから、航海王子というあだ名で呼ばれていますが、本人は船酔いがひどくて船には乗らなかったようです。

 エンリケ航海王子の時代は、実はまだ船で直接インドに行けるとは考えられていなかった。エンリケ時代に信じられていたプトレマイオス世界地図を載せておきましたが、世界はこんな形だと考えられていたんですね。ヨーロッパの海岸線は、まあ正確です。アフリカ北岸も、アラビア半島もそれなりの形をしているね。ところがペルシア湾より東は明らかに想像で書いてある。一番東のキタイというのは中国のことです。遼帝国の契丹がなまって当時のヨーロッパ人にはこう呼ばれていました。

 注目はアフリカ南端。これが東に湾曲していてキタイの南に接続しています。インド洋は完全に閉じた海として描かれていることを確認してください。
 もし、実際このような地形ならいくら航路を開拓してもインドには絶対に行けない。これが、エンリケ航海王子時代の常識です。

 ならばエンリケはなんのために探検航海を指揮したのか。意識としては、レコンキスタの延長で、アフリカにあるイスラム教徒の拠点を攻撃しようとしたのが最初の動機らしい。
 さらに、単純にアフリカ西海岸を探求したかったということもあったのでしょう。しかし、これが後のインド航路開拓への基礎づくりになる。

 エンリケ時代の探検航海は今の常識からすると実にゆっくりとしか進みません。たとえば北緯26度、ボジャドール岬というところがあるのですが、ここを超えるのに12年もかかっている。
 時間がかかった理由の一つは船乗りたちがビビっていることです。ボジャドール岬まで来ると赤道も近い。どんどん熱くなる。それ以上南下すると、海はぐつぐつと煮え立っていて、船も人も一瞬にして燃え尽きてしまう、と信じられていた。その証拠にここまでくると沿岸の人々はみんな真っ黒な皮膚をしているではないか、というんですね。
 こういう船乗りたちを脅したり励ましたりしながら航海する時代でした。

 もう一つは当時の航法にある。当時はまだ近海航法という航海方法をとっていました。これは簡単にいえば常に陸地が見えるところを航海するのです。陸地が見えなくなると不安でしょ。嵐にもまれて沿岸から流され、悪天候が続いて星も見えない日がつづくとちゃんと港に帰れるかパニックになってしまいます。だから、陸地沿いを行く。

 ところがこの航法は案外危険。陸地が見えるということは水深が浅い。沿岸には島も暗礁もたくさんある。つまり、座礁して沈没してしまう可能性が結構高いのです。
 座礁の危険があるのなら遠洋に出てグルッと遠回りに迂回すればいいんですが、それがなかなかできなかった時代だったのです。

 やがて、遠海航法が確立されて、船乗りたちはコンパスを見ながら大胆に沖合を航海するようになります。これは、まず何百キロも西へ直進する。十分な沖合いに出たら今度は進路を真南に変えて直進、予定の距離を進んだら今度は西へ向かって直進する。この間コンパスで常に方位を確認していく。遠回りのようですが、沿岸を水深を探りながら進むよりもよほど早く目標まで到達できたようです。

 エンリケ航海王子が死んだあともポルトガルはアフリカ沿岸探検をつづけます。
 また、アラビア半島など陸上ルートの探索からインド洋は閉じた海でなく、大西洋とつながっているらしいことがわかる。こうなると、インド航路が実現可能になります。まずは、アフリカの南端を確認しなければインド洋に入れない。南端探しが航海者の目標になる。

 1488年、アフリカ南端に最初に到達したのがバルトロメウ=ディアスです。
 ディアスはアフリカ沿岸を南下していて嵐に巻き込まれるのです。13日間漂流して嵐が収まってみると、船は東に向かって走っていることに気がつく。アフリカ大陸があれば東に進めばぶつかるはずですから、ディアスは、ひょっとしたらと考えた。北上してみると北につづくアフリカ東海岸があった。嵐にもまれているうちに南端をまわっていたのです。
 ディアスはこのままインドまで行ってしまいたかったのですが、船員たちが抵抗した。わけのわからないところへ行きたくない、命のあるうちに帰りたいというわけだ。仕方なく多数決をしたらディアス以外全員帰還を希望したので引き返すことになった。帰りの航海で、はじめてアフリカ南端を確認した。行きは嵐で何がなんだかわからないうちに通過していましたからね。このアフリカ南端の岬に付けられた名前が「嵐の岬」。岬を見ながらディアスは泣き叫んでいたらしい。航海を続けられなかった悔し泣きです。

 ポルトガルに帰還したディアスは熱狂的な歓迎を受けます。何しろアフリカ南端を確認し、インドへの航路の存在を実証したんですから。宮廷では航海の経過報告がおこなわれ、その席にはのちにアメリカへ到達することになるコロンブスもいたそうです。「嵐の岬」はのちにポルトガル王によって「希望の岬」と改名されました。喜望峰ですね。

 ポルトガルが実際にインドに到達するのは、この10年後です。1498年、インド航路を開拓したのがヴァスコ=ダ=ガマです。ガマの船が到達したのがインドの西海岸の港町カリカット。この町の名前は覚えておくこと。

 実はガマは、喜望峰をまわったのち、アフリカの東海岸で港に立ち寄りながらインドに向かった。アフリカの東海岸というのはインド洋を囲む商業圏の一部で、イスラム商人やインド商人がいて貿易をしている。ガマはそんなイスラム商人をアフリカ東海岸で雇い入れて、あとはかれを水先案内人としてインドに向かったのです。

 カリカットに到達すると、思ったとおり街には香辛料があふれている。これを仕入れてヨーロッパにもって帰れば大もうけ間違いなしです。
 ガマは早速、カリカットの太守に挨拶にいきました。宮殿に行くと、太守は金や宝石をちりばめた天蓋つきのソファに寝そべって、ビンロウジの実をつまんでは種を金の杯にペッペッと吐いている。ガマが見たこともないような贅沢な暮らしをしているのです。ポルトガルとインドの圧倒的な富の差を見せつけられることになった。
 太守が「何のようか?」と聞くと、ガマは「自分はポルトガルの大王から使わされた使節である。ポルトガルは偉大で豊かな国である、キリスト教の王を探しに来たのであって金銀が目的ではありません。でもついでに、貿易も許されたい。親善のしるしにポルトガル王より閣下にお土産もございます。」と、まあ、一通りの挨拶をした。太守は、「そのお土産とかを持って参れ。」と、楽しみに身を乗り出すのですが、運ばれてきたのがポルトガルの民芸品や毛皮、毛織物、雑貨品程度のもの。太守は、この程度のものはそこいらの田舎商人でも持ってくるわ、と非常に不機嫌になったという。ヨーロッパの経済なんてまだまだたいした事はないのですね。

 それでも、貿易は許されて、ガマの一行は、ポルトガルから運んできたヨーロッパの商品を何とか売りさばいて、香辛料を買い付けた。ただし、ガマたちの商品はインドではたいした値打ちはないので、散々に買い叩かれてわずかな香辛料しか買えなかったようです。 ともかく取引終了して、ガマはまたカリカット太守にいとまごいに行くのですが、この時に商業税と港の使用料を請求された。ところが、ガマは資金を全部香辛料の買い付けに使ってしまって、税金と使用料を払う余裕がないの。そこでどうしたかというと、税金未納のままに出港を強行してしてしまった。踏み倒して逃げたわけだ。
 ポルトガル国王の使節としては実に恥ずかしくみっともない去り際だね。

 ところが、ポルトガルに帰還するとカリカットで仕入れた香辛料は60倍の値段で売れて大もうけ。直接取引きは、やはり儲かるんですね。

 これ以後、ポルトガル政府は次々と貿易船をインドに送り莫大な利益を得ることになります。

 ガマの航海について、付け加えておきます。
 ガマはインドまで簡単に往復したみたいに話ましたが、やはり遠洋航海は命がけなのです。ガマたちの一行は、リスボンを出港するときは170名の船員がいたのですが、帰ってきたのはたったの44名。あとの船員は死んでしまっているのです。原因は壊血病。ビタミンC不足で起きる病気です。長い航海で船員たちは新鮮な野菜や果物を食べられないから、必ずといっていいほど壊血病にかかった。関節が膨張し歯茎から血が流れ出して止まらなくなる。やがて死んでしまうんです。ガマの航海では、ガマの弟も参加しているんですが、この人も死んでいる。大航海時代の船員たちにはつきものの病気でした。

 だから、この時代の船乗りというのは本当の意味で命知らずのならず者だったんですね。そういうならず者の船乗りたちを統率する船長というのは、ならず者の大親分です。ディアスにしても、ガマにしても、とんでもなく怖い人たちだったと思う。
 こんなに死亡率の高い航海に参加する理由は何かというと、無事に帰ったときの報酬の大きさです。一攫千金を夢見る連中が海に出て行った。それでも絶対確実に死ぬような航海には誰も参加したがらないわけで、コロンブスの航海では船乗りがなかなか集まらなかった。ついには航海終了後の釈放を餌に囚人を乗せたというから、大変だったんです。

 1502年、ガマは二度目のインド航海に出発した。このときは、前回みたいなみじめな扱いをされたくなかった。しかし、まともな商売をしていては大量の香辛料を買い付けることはできない。そこで、ガマはどうしたかというと、軍事力を背景に商売を強制したんだ。
 今度は15隻の大船団を組んでインドに到着すると、沿岸で見つけた船を焼いて乗客を虐殺し、カリカットの街に大砲を撃ち込む。住民を船につるす。その手足を切り取って、太守に送りつける。そういう恫喝をして香辛料を手に入れた。
 ヨーロッパとアジアのゆがんだ関係がこのときから始まったのです。

第54回 大航海時代1 おわり

こんな話を授業でした

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