世界史講義録
  
第36回 唐の文化


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唐の国際性
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 唐は国際性の豊かな時代でした。

 唐の前半は羈縻政策がうまくいって、非常に広い地域が唐の勢力下に入ります。資料集の地図を見るとその広大さがわかるでしょ。領域内だけでも多くの民族が住んでいるし、貿易、留学いろいろな目的で世界中から雑多な民族が集まってきましたから、都長安は国際色豊かな都市となります。現在でいえばニューヨークです。人口も100万人を超えていて、多分バグダードと並んで当時世界最大規模の都市です。
杜甫
杜甫

李白
李白


 李白の詩にこんなのがあります。

     「少年行」

  五陵の年少、金市の東
  銀鞍白馬、春風を渡(わた)る
  落花(らっか)踏み尽くして、何(いず)れの処(ところ)にか遊ぶ
  笑って入る、胡姫酒肆(こきしゅし)の中

 盛り場を貴公子が春風の中、馬に乗って走っていく。白馬に銀の飾りのついた豪華な鞍をつけていて、見るからに金持ちの貴公子なんです。花びらを踏み散らしながらどこへ行くのかと李白が見ていたら、やがて胡姫酒肆の中へ入っていった、というんだ。
 酒肆というのは酒場のことです。この詩のポイントは胡姫という言葉。
 
 胡という字はもともとは異民族という意味で使っていたのですが、唐の時代にはいるとイラン人をさすようになります。胡姫というのはイラン人の女の子。だから胡姫酒肆とくれば、わかりますね。エキゾチックな可愛いイラン娘がお酌をしてくれるキャバレーだね。イラン娘は踊り子かもしれない。

 李白はこのような長安の華やかな雰囲気をつたえる詩をたくさんつくっています。商人以外にもいろいろな仕事で唐に出稼ぎに来ていた西方出身の人がたくさんいたんでしょうね。

 外交使節も長安にやってきます。日本からは遣唐使。留学生、留学僧もたくさん連れてくる。日本は新興国家ですから唐に学ぼうと必死です。
 遣唐使のような使節をおくる国はたくさんあって、唐からするとこれらはみんな朝貢(ちょうこう)です。中国の皇帝をしたって諸国が貢ぎ物を持ってくる、という解釈をします。対等な外交関係ではありません。そのかわり、朝貢した国は帰りにどっさりおみやげをもらってくる。貿易としては朝貢国は大儲けです。

 アラビア方面からはインド洋経由でムスリム商人達がやってくる。イスラム教徒のことをムスリムという。唐は広州のまちに市舶司という役所を設けて貿易を管理した。要するに商業税をとった。

 イスラム教との関係では重要な戦いがありますから覚えてください。

 タラス河畔の戦い(751)。

 現在のカザフスタン、ウズベキスタン、キルギス三国の境あたりで唐とイスラムのアッバース朝が戦いました。東西交易路の奪い合いです。
 この戦いで唐は負けた。死者5万、捕虜2万。捕虜の中に紙梳(す)き職人がいたんだ。その結果製紙法がイスラム世界に伝わることになりました。やがてはヨーロッパまで製紙法は伝えられていきます。
 というわけで、タラス河畔の戦いは文化史上非常に重要。入試にもよく出る。

 ちなみにこの時に唐軍の司令官が高仙芝(こうせんし)という人で、この人は高句麗人です。朝鮮半島出身の人が唐の軍人として中央アジアでアラブ人のイスラム教徒と戦っている。ワールドワイドな時代になっていますね。

 高仙芝はこのあと長安に帰還して安史の乱で反乱軍と戦っています。

 この絵をみてください。永泰公主(えいたいこうしゅ)墓壁画です。永泰公主は則天武后の孫娘にあたる人。
 彼女の侍女たちが描かれているのですが、この人が持っている孫の手の大きいもの。これはポロのスティックです。ポロというのは今でもイギリスなどの貴族たちが楽しむようですが馬に乗っておこなうホッケーですね。古代ペルシアで生まれた遊牧民たちのスポーツ。この時期には中国でも流行したことがわかるね。今でいえばテニスラケットを持って記念写真を撮っているようなものです。

 こちらの絵、永泰公主墓壁画とそっくりの構図です。これは高松塚古墳の壁画です。見て書いたのではないかというくらいふたつは似ている。

 これは正倉院にある「鳥毛立女屏風(とりげだちおんなびょうぶ)」。一方のこちらは中央アジアのオアシス都市トルファンから出土した絵です。両方とも樹木の下に女性が立っている同じ構図で一般に樹下美人図と呼ばれるものです。構図が同じだけではなくて女性の顔つきもそっくりです。

 こういう絵を見ていると西は中央アジアから東は奈良まで唐を中心として一つの文明圏にすっぽり入っているのが実感できます。美人の基準まで同じですからね。
 唐の国際性というのはこういうところにもでているのです。

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西方宗教の流入
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 東西交流が活発になりますから、西方からいろいろな宗教も入ってきた。

 まず、ゾロアスター教。これは当時ケン教といわれた(ケンは「しめすへん」に天)。イラン人の宗教ですから、胡姫たちとともに入ってきたのかもしれない。

 景教(けいきょう)は、ネストリウス派キリスト教。ローマ帝国で異端とされて東方に拡がってこの時代は中国にも入っている。これは「大秦景教流行中国碑」という有名な碑が残っています。造られたのは781年。高さ276センチ。長安でキリスト教が流行したのを記念して建てられたものです。

 マニ教というイラン生まれの宗教も来ました。これは仏教、キリスト教、ゾロアスター教を融合させたものでイスラム以前の西アジアで信者を多く集めていました。

 そして、イスラム教。これは回教(かいきょう)と表現します。
 中国は現在でも多民族国家ですから、イスラム教徒もたくさんいます。現在はイスラム教を信仰しているウイグル人を回民と書いたりします。
 北京のまちを歩いているとしゃぶしゃぶ屋さんがたくさんあって、これはほとんどイスラム教徒の経営です。顔つきは漢民族と区別は付きませんが、頭にちょこんと白い小さな帽子をかぶっているのですぐにわかります。
 中華料理の食材に豚肉は欠かせないでしょ。ところがイスラム教では豚は悪魔が造った穢れた動物だから決して食べてはいけないの。だから、しゃぶしゃぶも繁盛します。本場のしゃぶしゃぶの肉はもちろん羊です。

 仏教や道教とともにこれらの宗教の寺院が長安のまちには軒をつらねていたんだ。
 遣唐使とともに唐に渡った天才に空海がいます。高野山を開いた人。かれは当時中国で流行していた密教を日本に持ち帰るんですが、好奇心旺盛な人だから長安のまちをあちこち探索したに違いないんです。ゾロアスター教や、キリスト教、イスラム教、そんな宗教を日本に紹介する可能性だってあった。想像するだけでもわくわくしませんか。

 唐の文化を大きくまとめると、まず、国際的な性格。これは今まで話してきました。歴史的には五胡十六国時代以来の多民族的な側面が発展したものです。
 もう一つは貴族的性格です。文化の担い手は六朝文化を継承する貴族階級です。
 魏晋南北朝以来の総まとめが唐の文化だったわけです。

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文学の隆盛
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 唐の文化といえば文学、なかでも詩を語らなくてはすまないね。NHKで早朝に漢詩の番組がありますが、ほとんどが唐の時代の詩です。いまだに日本でも愛好者は多い。
 個別に見ていきましょう。

 李白(701〜62)。
 天才詩人です。自由な詩風。開放的、貴族的、といわれます。西域貿易で大儲けした商人の息子に生まれた。苦労なしで育ったから自由な詩風だったのかもしれない。
 「少年行」は先ほど紹介しました。明るく華やかな詩を書く人ですね。お酒の詩も多い。黙って二人で飲もうじゃないか、とかね。
 李白の才能は評判となり、やがては玄宗の宮廷に出入りするようにもなります。

 当時の文学者というのはみんな官僚か官僚志望の人たちです。官僚というのは人並みの文章が書けるのは当たり前の教養なんです。その中で飛び抜けた才能を持つ者は今でいうスターです。スター詩人は貴族や役人のいろいろな宴会の席によばれて、その場にあった詩をひとひねりする。見事な詩を即興で作り上げて拍手喝采を浴びる。ますます評判があがる、という寸法です。芸人に近いところがある。

 李白は陽気で華やか、自由奔放な性格ですからそういう宴席でも人気があるのです。かれが来れば座が盛り上がる。

 ある時玄宗皇帝が船遊びをしていた。お気に入りの側近を集めて宴会です。玄宗、余興に李白を呼んで詩を詠ませようと思った。側近に李白をよびにいかせますが、家にいない。酒好きの李白ですから酒場を探したら、いました。皇帝陛下がお呼びです、どうぞいらしてください、と使者が告げるんですが、李白はすでに出来上がってしまってぐでんぐでん。

 とにかく使者はなんとか李白を宴席に連れてきました。李白はフラフラしていて、ドテーンとソファにふんぞり返ってテーブルの上に両足を投げ出しました。態度でかいのです。ついでに横に立っていた男に命令した。「おいお前、俺の靴を脱がせろ。」
 立っていた男は高力士という宦官で玄宗のお気に入りの一人だったんですね。この俺様に対して、と思ってムッとするんですが李白はお客様で自分は宦官ですから、その場はしゃがみ込んで李白の靴を脱がせた。当時の靴はブーツのような編み上げ靴だった。脱がせるのに時間がかかる、酔っぱらいの足だから臭かった。
 高力士はこの時の恨みを忘れない。折に触れて玄宗に李白の悪口を言ったらしい。あの男は才能を鼻にかけて陛下を馬鹿にしているとかね。ついに玄宗は李白を長安から追放してしまったという。ちなみに高力士はのちに玄宗の命令で楊貴妃を絞め殺すことになる男です。

 こんな事があっても自由気ままな李白の性格は変わらなかったようです。

 このエピソードを李白の親友、杜甫が詩にしています。

   「飲中八仙歌」
  李白は一斗、詩百篇
  長安市上、酒家に眠る
  天子呼び来(きた)れども船に上(のぼ)らず
  自ら称す、臣は是(こ)れ酒中の仙、と

 最初の句は酒を一斗飲めば、詩が百でてくる、という意味。
 李白は「詩仙」と称されます。在命中から天国から間違って地上に落ちてきてしまった詩の仙人、といわれていた。最後の「酒中の仙」とはそれをふまえています。皇帝の使者がよびに来ても、「俺は詩の仙人じゃい、皇帝がなんぼのもんじゃ」とうそぶいていた、という感じでしょうか。

 杜甫(712〜70)。
 李白と並び称される大詩人。「詩聖」といわれる。
 李白とは正反対の性格で地味で不器用な人。官僚になるため縁故を求めて就職活動をずっとしているんですがダメなんです。詩人としては有名になるんですがね。
 40代になってようやく下級官僚になるんですが、ちょうど安史の乱が起こってすべてがパーになってしまった。その後は各地の有力者の世話になりながら諸国を放浪して生涯を終えました。
 苦労した人だから作品も、庶民の生活や兵士の苦労、戦乱の悲惨、そういう社会的な題材を多く取り上げています。

 王維(701〜61)
 自然を描く詩にすぐれ、画家としても有名。
 少年の頃から天才の名をほしいままにした宴席のスーパースターの一人です。官僚登用試験にも合格して官僚としても出世した。この人も安史の乱に遭遇して捕虜になる。無理矢理に安禄山に仕えさせられたこともあった人です。

 白居易(はくきょい)(772〜819)
 白楽天(はくらくてん)ともいいます。前の三人よりあとの時代の人です。
 「長恨歌(ちょうごんか)」という詩が有名。これは玄宗と楊貴妃の悲恋を詩にしたものです。平安貴族に愛唱されたので、日本で有名になりました。
 白居易は作詩するときに何度も推敲する。推敲の仕方が面白い。まず詩ができると、街へ出ていき道ゆく老婆をつかまえて、無理矢理詩を聞かせる。お婆さんが「よくわからないなあ」という顔をしていたら、持ちかえって書き直す。で、また通りすがりの老人をつかまえて聞かせる。聞かされた人が「いいねえ」という顔をしたら完成です。
 白居易がためしに聞かせる相手はみんな庶民。文学の素養なんかない普通の人ばかり。そういう人たちでも感動できる作品をめざすのです。かれの詩の特徴は平易で流麗ということですが、こういう作詩の態度からきているのですね。
 日本の貴族たちにうけたのも、平易な文で理解しやすかったからではと思います。

 文という文学分野が中国にはあります。

 唐と次の宋の時代に文の名人が八人。これを「唐宋八大家」といいます。唐にはそのうち二人がいます。

 韓愈(かんゆ)(768〜824)と柳宗元(りゅうそうげん)(773〜819)。
 南北朝時代は四六駢儷体(しろくべんれいたい)という華麗な文体が流行するのですが、これにたいして漢代風の骨太い文を復興した。

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美術工芸分野
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 名前だけです。

 絵画。
 呉道玄(ごどうげん)(8世紀)。山水画の名手。

 閻立本(えんりつほん)(?〜673)。人物画「歴代帝王図巻」。ボストン美術館にある。かれの直筆かどうかはあやしいようです。

 二人とも絵の写真もなしで画家を語るのはむなしいですね。

 書道。
 楮遂良(ちょすいりょう)(596〜658)。
 顔真卿(がんしんけい)(709〜786?)。顔真卿は安史の乱で自衛軍を組織して反乱軍に抵抗をつづけた男です。字も力強い。王羲之の貴族的な優雅な書風を一変させた。このひとの書のファンは多いです。

 文、画、書、の名人たちですが、かれらも官僚です。芸術家という商売はまだありません。芸術は貴族階級がたしなむものなのです。

 工芸では唐三彩(とうさんさい)。これは人名ではありませんよ。陶器の名前。このように何色もの色つけがしてある。置物ですね。
 作品の題材は中央アジアのものが目立ちます。ラクダにイラン人が乗って、琵琶を弾いている。こういうものが有名。唐の国際性があらわれているね。

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学問
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 儒学は官僚登用試験の科目にも採用されて、隆盛。
 南北朝時代に儒学のテキスト五経の解釈はわかれて統一が必要だった。解釈がわかれていては試験問題にもしにくいしね。太宗がこれを命じたのが孔穎達(くようだつ)(574〜648)。「五経正義」という政府公認の儒学のテキストをつくった。

 これ以来官僚をめざす受験生はこれを参考書にして勉強した。勉強には便利だったけれど、これを理解すればよいので、儒学の解釈は固定化しました。

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宗教
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 道教は則天武后や玄宗の保護を受けて隆盛です。

 しかし、話は仏教です。
 仏教はますます中国に深く浸透して、僧侶のなかで本場インドに留学したいと思うものがでてくる。

 東晋の時代に法顕(ほっけん)という僧がインドに旅行して「仏国記」を残していますが、唐ではさらに有名な人がでた。

 玄奘(げんじょう)(602〜664)です。三蔵法師の名でお馴染み。
 13歳で出家した。天才少年であっというまに先輩たちを追い抜いて仏教の理論を吸収していった。20歳をこえる頃には大人に講義をするほどになっていた。勉強するほどにわからないところがでてくる。だけれど、玄奘の疑問に答えられる人は中国にはいないのです。
 疑問を解決するためには本場のインドにいくしかない。ところが、当時国外への旅行は禁じられていたのです。けれど、どうしても、いきたい。とうとう国境警備隊の監視をかいくぐって、国境線を突破、国外脱出に成功した。27歳の時です。太宗李世民の時代でした。

 インドへの旅の困難さがやがて『西遊記』の物語になった。これは後世に描かれた玄奘の絵ですが背中にでっかい荷物を背負ってるでしょ。一切合財ここに詰め込んで旅にでた。首飾り見えますか?これ、小さいけれどドクロですね。ドクロを首に巻いている。魔除けです。実際の玄奘はドクロを巻いていなかったと思いますが。妖怪が出てくるような人外魔境をゆくというのでこんな絵になったのでしょう。

 インドでも学識の高さで有名になってヴァルダナ朝のハルシャ=ヴァルダナ王にも招かれた。王にすっかり気に入られてたくさんのお経を持って645年帰国します。帰りは何頭もの馬に何百巻もの経典を積んでお付きの者もつけてもらっての旅でした。

 唐の国境のまじかまで来るのですが、玄奘帰ることができない。だって、密出国ですから、帰れない。そこで、かれは長安の太宗皇帝に手紙を出した。自分は唐の僧ですが仏教を学ぶために国法を破ってインドに行きました。留学を終えて帰ってきたのですが、どうか入国を認めてください、とね。
 太宗、歓迎して玄奘を迎えます。貴重な西域、インドの情報源と考えたんでしょう。玄奘のために寺を建てて経典の漢訳を援助した。何十人もの助手をつけて翻訳を手伝わせた。
 現在、長安の観光名所大雁塔(だいがんとう)は玄奘が持ち帰った経典を保存するために建設されたものです。

 また、太宗の命令で玄奘が書いた西域旅行記が「大唐西域記」です。

 もう一人インドへおもむいた僧に義浄(635〜715)がいます。
 かれは陸路ではなく南シナ海を通っていきました。旅行記が「南海寄帰内法伝(なんかいききないほうでん)」。東南アジアの諸民族の貴重な記録となっています。

 唐の時代は禅宗、浄土宗、天台宗、真言宗など宗派が形成される時代で、仏教が中国化しはじめているときでした。
 日本からの留学僧はそういうなかで最新流行の宗派を持ち帰って日本に紹介したわけです。有名なのが空海の真言宗、最澄の天台宗ですね。

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第36回 唐の文化 おわり

こんな話を授業でした

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