こんな話を授業でした

世界史講義録

   第34回  唐(前半) 

唐の成立

   隋末には各地に反乱勢力が割拠します。農民出身者や隋の高官など反乱勢力のリーダーはいろいろです。そのなかで、混乱を収拾して唐帝国を建てたのが李淵(りえん)(位618〜626)。この人は隋の将軍、しかも名門軍人でした。
 実は隋の楊家と李淵の家は北魏末に反乱をおこした軍人グループの仲間です。隋を建てた楊堅は北周の軍人でしたね。北周時代は楊家と李家は同僚なんです。しかも李淵の家の方が格が上だった。しかし、楊堅が隋を建て皇帝になってしまったので李淵はその将軍をやっていたわけ。しかも、李淵と煬帝はいとこ同士です。お互いの母親が鮮卑族の名門貴族独孤氏の姉妹という関係です。
 だから、隋末に李淵が旗揚げをしたときに隋の官僚や軍人たちには違和感があまりないわけです。北周から唐にかけては同じ仲間内で皇帝の地位をまわしているようなものです。

 というわけで、李淵は旗揚げ後すぐに長安に入城することができた。隋の統治組織をそっくり手に入れライバルの諸勢力を倒していきました。
 唐の建国に大活躍したのが李淵の次男李世民(りせいみん)です。李淵はどちらかというとボウッとした人で、李世民が親父さんをたきつけて旗揚げしたようなものです。建国の第一の功労者なんですが、なにしろ次男だから皇太子になれない。ついには皇太子である兄を実力で倒して二代目の皇帝になりました。

   これが唐の太宗(位626〜649)です。中国史上三本の指に入る名君です。かれの治世は「貞観の治(じょうがんのち)」といわれる。太宗の時代の年号が貞観、その貞観時代が平和でよく治まった、という意味で讃える言葉です。

 唐の政策は隋をそのまま引き継いでいきます。大運河の建設が隋時代に終わっていた分、唐はその成果をそっくり手に入れることができて有利でしたね。

   政策を整理します。

 土地制度は均田制。
 税制は租庸調制。
 軍制は府兵制。

 律令格式(りつりょうきゃくしき)といわれる法律も整備されます。唐はこの律令制度が完成して頂点に達した時代です。

   中央官制は三省六部(さんしょうりくぶ)制。
 三省とは、中書省(ちゅうしょしょう)、門下省(もんかしょう)、尚書省(しょうしょしょう)。中書省は皇帝の意思を受けて法令を文章化する役所。門下省は中書省から下りてきた法令を審査します。もし門下省の役人が問題ありとした場合、法案は中書省に差し戻しです。中書省はもう一度皇帝と相談して法案を練り直さないといけない。
 だから、門下省は大きな力を持っているのですね。この門下省の役人になったのが南北朝以来の名門貴族の者たちです。大きな権力を持ってはいるのですが政府の官僚としての権力に過ぎなくなっているところに注意しておいてください。

 門下省の審査を経た法案は尚書省によって実行に移される。
 尚書省に属しているのが六部です。吏部、戸部、礼部、兵部、刑部、工部の六つの役所が実行部隊です。
 吏部は官僚の人事を司る。
 戸部は現在でいうなら大蔵省にあたるもの。
 礼部は文部省。
 兵部は軍事を担当。
 刑部は法務省と国家公安委員会を併せたようなもの。
 工部は建設省ですね。

 以上のような唐の諸制度は遣唐使によって日本に積極的に取り入れられました。日本でも大宝律令とかつくるでしょ。唐の律令の影響ですね。役所の名前など、いまだに大蔵省、文部省など、省という呼び方をしているのはここからきているんですからね。

   対外的には突厥の内部分裂を利用して、これを服属させます。北方西方の諸部族の族長に唐の地方官の官職をあたえ都護府という役所にかれらを監督させた。唐政府は部族内のことに口出しはしませんから、緩やかな支配といっていい。
 このような唐の周辺諸民族に対する政策を「羈縻(きび)政策」といいます。羈縻というのは馬や牛をつないでおく紐のことで、紐の伸びる範囲なら自由に活動が許される、そういう意味です。

 高句麗に対して遠征もおこないますが、これが成功するのは次の皇帝のときです。


唐中期の政治

   太宗李世民は政治的には成功をおさめるのですが、跡取り問題で悩みます。
長男が皇太子になるのですが、この人少し変わっている。突厥、トルコ人の遊牧文化にあこがれているのです。
 宮殿の庭にテントを張って家来とそこに住み込む。食事のときは羊の肉を剣にさしたまま、火であぶって食べる。バーベキューですね。家来には弁髪という北方民族の髪型をさせてかれらとトルコ語で会話をします。

 なぜ、皇太子がこんなに遊牧文化にあこがれたかはわかりませんが、もともと唐の皇室李家も鮮卑族など北方民族の血が色濃くはいっています。李世民の皇后も長孫氏という北魏以来の鮮卑族の名門でした。だから、風俗として遊牧民に近いものがあったのでしょう。皇太子の振る舞いは先祖返りかもしれません。

 ただ、皇帝としては困るわけ。言動も乱暴なところがあった。そこで、李世民は長男を皇太子からはずして、長孫皇后が産んだ子のなかで一番おとなしい三男を皇太子にしました。

   この人が第三代皇帝高宗(位649〜683)。

 高宗は優柔不断なところのある頼りない皇帝でしたが、太宗李世民の基礎づくりがしっかりしていたので、かれの時代になっても唐の支配領域は拡大しつづけます。高句麗を滅ぼすのもかれのときです。

   高宗はかれ自身よりも皇后が有名。則天武后(そくてんぶこう)といわれる人です。もともと彼女は李世民の後宮に入っていたのですが、息子の高宗がみそめたんだ。親父が死んだあと彼女を自分の後宮に入れました。
 これは、やはり遊牧民的な行動です。息子が父親の妻を自分のものにするなんて儒教文化ではありえませんからね。遊牧民では普通にあることなのです。女性を自分の妻とすることで扶養するのね。もちろん産みの母親を妻にはしませんよ。

 則天武后は高宗の愛を独占して皇后の地位に登りつめます。彼女は頭がきれる。高宗は決断力のない人ですから、政治向きの相談を彼女にする。則天武后はそういうときに実に的確な指示をするのですよ。やがて、高宗は彼女なしでは政務ができないほどになる。
 朝廷で役人に会うときに自分の後ろに簾をたらしておいて、その裏側に則天武后を座らせておく。高宗が判断に迷うと則天武后が簾の後ろからどうしたらよいかそっと耳打ちしてくれるという寸法です。

   高宗が死ぬと則天武后が実権を握りました。彼女と高宗とのあいだに二人の息子がいる。まず中宗が即位しますが、かれの政治は則天武后の気に入らない。中宗を退位させて、もう一人の息子、睿(えい)宗を即位させます。則天武后はこの睿宗も気に入らないんですね。とうとうかれも退位させて、自分で即位してしまった(位695〜705)。63歳位のときです。

 こうして、中国史上唯一の女性皇帝が誕生しました。武照(ぶしょう)というのが彼女の本名です。皇帝家が李家から武家へ変わったので国号も周と変更しました。
 若い男を寝室に引っ張り込んだりといったスキャンダルがあって、昔から彼女の歴史的な評価はあまり良くなかったんですが、女だからという理由で必要以上に貶められているところがあります。
 則天武后という呼び名にしても、これは高宗の皇后としての呼び方であって皇帝としての名前ではないのです。女だから皇帝名で呼んでやらないという伝統的な女性蔑視を引きずっている。一応教科書にしたがって説明していますが武則天(ぶそくてん)といった方がいいのです。

   則天武后が政治をおこなうときに北周、隋、唐とつづいてきた支配者集団は当然非協力的です。則天武后は鮮卑系の武人集団でも南朝以来の伝統的貴族階級出身でもない。個人的な美貌と才覚だけでのしあがった人ですからね。
 皇帝としては自分の手足となって動いてくれる忠実な官僚がたくさん欲しい。そこで彼女は中央だけで実施していた官僚登用試験を全国に広げます。試験で採用された官僚たちは門閥がありませんから、則天武后に忠節を尽くすことで出世するしかない。女だからいうことをきかない、とはいかないのです。

 というわけで、則天武后の時代に新官僚層が政界に進出して南北朝以来の旧勢力と対抗する力をつけてきます。言い換えれば貴族ではない官僚層が政権中枢部に登場してきた、ということです。
 則天武后は皇帝ですから実力行使もします。この時代に殺された貴族とその家族は千人は下らない。

 ともかく新しい人材を登用していったことが彼女の政治上の功績です。

   則天武后は最晩年には、息子の中宗が再び即位して国号も唐に戻されました。やがて、則天武后は死ぬんですが、中宗の皇后がまた問題でした。韋后(いこう)というのですが、彼女ずっと則天武后のやり方をみているのね。自分もあんなふうに、と考えた。則天武后は夫の高宗が死んでから皇帝になったのですが、韋后は中宗が死ぬのを待ちきれない。とうとう娘と共謀して毒殺してしまった。
 さすがにこれはやりすぎだった。中宗の甥で睿宗の息子の李隆基(りりゅうき)が兵士をひきいて宮中に乗り込んで韋后らの一派を排除しました。

 則天武后から韋后までのゴタゴタを「武韋の禍(ぶいのか)」といいます。ただ、これはあくまで唐の宮廷内での事件で一般民衆の生活とはあまり関係はない話です。

   唐の宮廷を正常化した李隆基はやがて、第六代皇帝となります。これが唐の中期の繁栄をもたらした玄宗(位712〜756)です。
 即位したのが28歳です。能力もやる気もあってばりばり働く。かれを補佐した有能な大臣たちはみな、則天武后の時代に頭角をあらわしてきた人たちなので、玄宗の成功はある意味では彼女のおかげかもしれません。

 玄宗時代の繁栄を「開元の治(かいげんのち)」と呼びならわしています。太宗の「貞観の治」とセットで覚えておいてください。

   皇帝の仕事というのはまじめにやれば非常にしんどい。宮廷での政務というのは早朝、それも夜明け前に始まる。皇帝は午前三時頃にはもう起きて、威儀を正して宮廷にお出ましになる。そして、次から次へと官僚たちが持ってくる書類を決裁していくのです。
 正午になる頃にようやく仕事に一段落をつけて、それから以降がプライベートタイムです。
 こういう日常の仕事をきちんとこなしていくのは大変で、皇帝は一番偉いのですから手を抜こうと思えば抜ける。だけれどそうすると宦官や外戚などの実力者が勝手な振る舞いをするようになるんですね。

 玄宗はまじめに仕事をつづるのですが、この人は長生きをした。皇帝に定年制度はありませんから死ぬまで働きつづけなければならない。即位30年を越え、年齢が60近くになってくると、さすがの玄宗も仕事に飽きてきた。政治に熱意を失ってきます。

   こういうときに、かれが出会ったのが楊貴妃です。
 楊貴妃はもともとかれの息子の妃の一人だったのですが、何かのきっかけで玄宗は彼女をみそめてしまう。息子の後宮からもらい受けて自分の後宮に入れてしまった。簡単にいえば息子から嫁さんを奪ったのね。滅茶苦茶ですね。
 楊貴妃はどういう気持だったか。皇帝になれるかどうかわからない皇子の後宮にいるよりも現皇帝に愛された方がいいです。多分。そして、彼女はこのチャンスをしっかりつかんで玄宗の愛を独占するのに成功しました。
 玄宗と楊貴妃の世紀の愛の始まりです。

 ロマンチックに語られることの多い二人の恋愛ですが、出会ったときの玄宗の年齢が61、楊貴妃は27歳です。年齢を知ってしまうとちょっと引いてしまいますね。

 玄宗は夜が明けても宮廷に出てこない。正午近くまで楊貴妃の寝室でたわむれている。そういう日々がつづくようになりました。

   これは玄宗と楊貴妃を描いた絵、後世の想像図ですがね。椅子に座っているのが玄宗。その前で舞を踊っているのが楊貴妃です。玄宗は音楽が趣味で笛の演奏が得意だった。かれの兄弟も音楽好きでよく三兄弟でアンザンブルを楽しんだらしい。それに合わせて、楊貴妃は舞ったり歌ったりしたのでしょう。
 これは華清池(かせいち)という長安近郊の温泉地です。二人はよくここに遊びに来た。現在も有名な観光地です。
 中国旅行でここも行きましたよ。ガイドがここが楊貴妃が入った湯船だ、なんていっていましたが、ありゃ嘘だね。コンクリートにタイル張りのきれいな湯船でしたよ。
 

   玄宗の政治は当然公正さを失っていきました。出世したければ楊貴妃に取り入ればよい、そういう風潮がはっきりしてきます。政府の中核が腐敗してきます。
 ついに玄宗の晩年に唐帝国を大きく揺るがす大反乱が勃発するのですが、それは次回のお話。

第34回 唐(前半) おわり

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