こんな話を授業でした

   第26回  諸子百家  

1孔子

   春秋末期から戦国時代は、学問・思想でも新しい考えが生まれ活気に満ちた時代でした。能力がありチャンスさえあれば誰でも出世する可能性があったんですから。多くの思想家たちが活躍しました。これを諸子百家という。「諸」「百」はたくさんという意味。「子」は先生、「家」は学派という意味です。だから、諸子百家といえばたくさんの先生があらわれていろいろな学説を立てたということです。
 では、代表的な思想を見ていきましょう。

 まずは、何と言っても儒家。のちに儒学、儒教と言われ、中国思想の中心となっていきます。20世紀に至るまで中国の支配的な学問思想でしたし、朝鮮半島や日本にも大きな影響を与えているね。

  儒家の元祖が孔子(前6〜前5世紀)です。孔子自身は春秋時代の人ですが、実質的には戦国の時代とあまり変わりありません。孔子の目から見れば、古い時代の素晴らしい道徳や秩序が崩れている時代になっている。これを立て直すためにはどうしたらよいか、どうすれば平和な社会を作ることができるかを考えたのです。
 そこで、かれが持ち出してくる秩序は家族道徳の秩序です。誰でも自分の父母に対しては素直な気持ちで従うことができる。家庭の中では秩序があるわけですね。この家族道徳を社会全体に広めることによって、世の秩序を回復しようとしたわけです。

 子どもが親に対して持つ敬愛の気持ちを孔子は「孝」と名付けます。この「孝」の気持ちを他人にまで広げたものを「仁」という。この「仁」が孔子の考えの中心です。明治時代くらいまでは儒教の教えは日本でも道徳の基本だったから、仁といえば昔の人はハッキリとしたイメージが持てたんだろうけど、そういう伝統は今ではすっかり消えてしまったから、ヨーロッパの哲学用語よりも仁なんていう言葉は理解しにくいですね。やくざの人が使う「仁義」の仁と同じモノです。だから、よけいにイメージが悪いな。
 「仁」を強引に現代語にすれば「思いやり」が一番近いかなと思います。

  孔子は仁が大事だというわけですが、いくら心の中で仁の気持ちを持っていても、それを外に形として表現しなければ意味がない。これを目に見える形で表現する、その表現が「礼」です。
 「礼」とは何か。例えば授業の始めと終わりに、起立、礼、とやるでしょ。みんな心の中でどう思っているか知らないけれど、礼と号令がかかればお辞儀をするね。まさしくこれが孔子のいう「礼」です。心の中で、よろしくお願いします、とか、ありがとうございました、と思っていても表現しなければ相手に伝わらない。伝わらなければ意味がないし、何も変わらない。だから、頭を下げる「礼」をすることによってその気持ちを教師に伝えている、という理屈です。

 頭を下げる以外にも、いろいろな形で「仁」思いやりの気持ちを「礼」で形に表すことの重要性を孔子は説くわけです。人々が「礼」を実践することによって失われてしまった秩序が回復できる、と考えたんだね。
 何よりも秩序の回復維持ということが基本にあるので、支配者にとっては都合のよい思想だった。だから、この儒家の教えはその後も長く支配者たちに保護されて中国思想の柱となっていきます。

  孔子自身は魯という小国出身でその大臣になったこともあったのですが失脚して、その後は諸国を放浪する。はじめの頃はどこかの国に高い身分で迎えられることを目標にしていたんでしょうが、それは実現しませんでした。
 かれの周りには多くの弟子がいた。だから政治家としてよりは教育者として活躍した人です。孔子の弟子からは政治家として活躍する人がたくさんでました。

 ついでに言っておくと「孔子」の「子」というのはさっきも言ったように先生という意味。だから、「孔子」は孔先生という意味です。本名は孔丘というんですが、大先生だから名前を呼ぶのは失礼で畏れおおいから、本名で呼ばずに孔先生と呼んだ。それがそのまま定着してしまったのです。中国の思想家で「〜子」という人名はみんな同じです。

 孔子の弟子たちが編纂した孔子の言行録が「論語」です。名前くらい聞いたことがあるんじゃないかな。昔は日本でもよく読まれたんですが。私も持っていますが、初めから順番に読んでいってもそんなに面白いものではないね。ヨーロッパの哲学みたいに概念がキッチリしていなくて「仁」という言葉も状況に応じていろいろな説明の仕方をしているので正直言ってわかりにくいです。

 ただ、ところどころ「オッ!」と感じるようなフレーズが出てくるの。
例えば「巧言令色(こうげんれいしょく)少なし仁」。顔がきれいで口が上手なやつに思いやりのあるやつは少ないぜ」だって。面白いでしょ。

 有名なのでは「義を見て為(せ)ざるは勇なきなり」。正しいことが行われているのに何もせずに黙ってみているだけというのは勇気がないのです、という。
「朝(あした)に道を聞がば、夕べに死すとも可なり」。朝、正しい生き方を知ることができたならばその日の夕方に死んでも思い残すことはない、という意味。なんか、こんなところは読んでいるこちらの人生観に迫ってくるところがあるのです。だから、結構、実業家、社長さんなんかには論語が好きな人は多いみたいですね。年をとったら読んでみたくなるのかも知れない。

  こんなのもある。「子曰く、学びて時にこれを習う、亦(ま)た、説(よろこ)ばしからずや」。先生がおっしゃった、勉強した後で、時々みんなで集まって復習する、何と楽しいことかね!

 何を復習するかというと、音楽らしいです。孔子の「礼」には音楽も含まれるんです。諸侯がいろいろな儀式をするでしょ。例えば他国の諸侯と外交交渉したりする。そういうときに式場では宮廷楽団が儀式の音楽を演奏するんです。どんな状況の時にどんな音楽を演奏するのが礼にかなうか、そういうことを孔子は研究して、弟子たちに教えていたんです。
 「斉に在りて韶(しょう)を聞く」という図があります。これは、孔子が斉の国に行ったときに斉の宮廷音楽長官と知り合って「韶」という音楽を聴いたときの様子です。これは伝説の聖王舜(しゅん)が作曲したといわれる幻の曲だったの。で、孔子は感激して必死になってこの曲をマスターしたというんだ。こんなのを弟子たちに教えたんだろう。弟子たちもみんなで合奏して「時にこれを習う」わけだ。
 古代社会では音楽は単に個人の趣味や楽しみではなくて、神々に呼びかけ世界の秩序を保つためのものでもあったのです。

  孔子以前の時代に、もともと冠婚葬祭などの儀式をつつがなく行うための式典の専門家集団がいた。中国文明は祖先神崇拝が強いです。だから葬式が一番大事。この式典専門家たちは死んだ祖先の霊を呼び出したりもしたようで、霊媒みたいなこともやっていた。巫祝(ふしゅく)と呼ばれる集団です。神がかり的おこないの多いかれらは、胡散(うさん)臭いと感じられ、社会的地位の低い人々でした。
 孔子が大事にした「仁」という言葉ですが、これの女性形があるんです。「仁」に女をつけると「佞(ねい)」という字になります。これは「おもねる・おべっかつかい」という意味がある。全然いい言葉ではない。巫祝たちが葬式などで喪主など主催者におべっかを使って、調子のいいことを言う。女がこれをやると「佞」。男がおべっかを使えば「仁」だったのです。

 孔子はこの伝統的式典専門家集団から出て、こういう意味で使われていた言葉の意味をひっくり返して、価値の高い言葉に作り変えたの。泥臭い民間信仰みたいなものが混じっていたものを合理的、理論的に作りかえて学問にまで高めた人なのです。その考えの基礎に祖先神崇拝みたいな感覚があるので、中国人の感性に合っていて深く根付いたんでしょうね。
 このあたりのことはややこしいので自分の頭が混乱しそうだったら忘れていいよ。

2孟子、荀子

  孔子以後の儒家の学者で重要な人が孟子(前4〜前3世紀)。
 この人は「性善説」を覚えること。人間には生まれながらにして思いやりの心「仁」がある、と説きます。例として孟子はこんな事を言う。強盗、殺人など悪の限りを尽くした極悪人がいる。かれはどこかの庭先にいてボーッとしているの。その庭にはようやくハイハイができるようになったばかりの赤ん坊がいる。その赤ちゃんがハイハイしながら井戸に近づいていきます。赤ん坊だから井戸がなんだか知らないから、そのまま進んで井戸に落っこちそうになる。そうすると、どんな極悪人でもその瞬間には「アッ!」と思わず手を伸ばして赤ん坊を救おうとする。こういう話を出して、だから、人は本来「仁」の心がある、生まれながらに善だ、と説きます。

 人は生まれながらに善。だったら犯罪や戦争は起きるはずがないのに、なぜ、世の中は乱れ、戦乱が続き民衆は苦しまなければならないのか。孟子は下の者は上の者を見習うと考える。だから、王の地位にあるものは「礼」を身につけて人民の手本とならなければならない。王様がそれをできていないと下剋上が起きたりして国が乱れるんだと言います。
 もし王が、どうしようもない人間で「礼」を身につけて立派な行いをすることができず結果として人民の「善」を押しつぶして、彼らを不幸にする場合は、そんな王様は取り替えたってかまわない、そこまで言う。これを「革命説」という。革命とは「天命が革(あらた)まる」ということです。天命は何によって知ることができるか。孟子の場合は天命は人民からやってくる。過激でしょ。

  孟子は諸国をまわって王達にそういう話を説いてまわるんです。「王よ、礼を身につけよ!天命に耳を傾けよ!」ってね。王様にとっては耳に痛い話で、孟子は煙たがられたかというと、実はそうではない。人気があってあちこちから招かれては話をしに行ったようです。諸侯のように豪勢な馬車に乗って何十人もお供の者達を従えて講演旅行にまわっていた。今で言ったら経営コンサルタントみたいなもんだね。すごいギャラを取るの。

 孟子は当時はすごい人気で、その後も儒家の偉い先生として尊敬されていきます。現代に至るまでの長い歴史の中で孟子の崇拝者はたくさんでます。ただ、「革命説」のような過激な部分があるので、あまりにも熱心な孟子の崇拝者は危険人物扱いされる傾向があるのね。

  日本でもそうでした。例えば、有名なのが吉田松陰。日本史でやりましたね。幕末の長州藩士です。あの人も熱心な孟子の信奉者です。ペリーが来たときに、アメリカを見たくてたまらない。弟子と一緒に漁船を漕いで黒船までいってしまう。側面よじ登って黒船に乗り込んで、アメリカへ連れていってくれ、って頼むんだけどペリーも幕府と外交交渉中だから、幕府の顔を立てて松陰と弟子を幕府に引き渡してしまった。
 国禁を破った犯罪者になった松陰たちは長州藩に送られてそこで牢屋に入れられるんです。弟子の方はすぐ死んでしまうのですが、松陰は野山獄という萩の牢屋に入れられた。
 牢屋の中にはいろいろな犯罪者が入っているわけ。そこで松陰は何をするかいうと、孟子の講義を始めるのですよ。
 「あなた方は罪を犯した極悪人であるけれど、生まれたときからそうだったわけではなーい。生まれたときはあなた方も善人だったのであります!」とかやる。松陰さんはまだ二十歳代のいってみれば若造なんだけれど、こんな話を囚人相手にやって、囚人たち、みんな松陰の弟子になってしまうのね。年寄りの悪人が「先生、先生」といって松陰になついてしまう。あなたは善人だ、といわれてみんな嬉しかったんだね、きっと。

 そのあと、松陰は保釈になって実家で謹慎処分になります。松陰は実家で近所の若侍を集めて塾をやる。これが松下村塾。ここで松陰は革命説を説く。松陰の生徒から桂小五郎、高杉晋作、伊藤博文など明治維新の主役たちの育った。これは、松陰が孟子の学徒だったことと無関係ではないです。

 おまけ。松陰の最後を話しておくと、やがて幕府は井伊直弼が大老になる。安政の大獄が始まります。松陰も江戸まで召しだされて取り調べをうける。ここで、御免なさいと謝って、反省の態度を見せれば死刑にはならなかったらしい。密航を企てただけの罪ですからね。
 しかし、ここで松陰は真っ正面から幕府の批判をしてしまうんです。幕府の役人がそんな話を聞いて腹を立てないはずがないんですが、松陰は幕府の役人の「仁」まごころ、ですか、それを信じてしまうのね。ついには質問もされないのに老中暗殺計画まで喋ってしまう。そんなわけで、ついに幕府に対する反逆者として処刑されてしまいました。
 思想が先走ってしまって現実的な身の処し方にはなんだか甘いところがある人でした。

  儒家をもう一人。荀子(前3世紀)、戦国時代末期の人です。
 荀子は孟子とは反対で「性悪説」で有名。人は生まれながらにして悪、仁や孝を身につけて生まれてきたわけではない。だから君主、王たるものの役目は人民に教育して「仁」「礼」を身につけさせることだと説きました。
 同じ儒家だから「孝」「仁」「礼」を秩序の柱にして社会を立て直そうというところは同じですが、その具体的なやり方は百八十度違うところに注意してください。

3墨家

  次は墨家(ぼくか)。これは戦国時代が終わると消えてしまった学派なので、あまり馴染みがありませんが、戦国当時は儒家と同じくらい人気があった。

 墨家の元祖が墨子(ぼくし・前5世紀〜前4世紀)。かれの説は二つの単語を覚えて下さい。「兼愛説」と「非攻説」です。

 兼愛というのは「差別無き人類愛」とでも言うような意味です。墨子は儒家を批判する中で自己の学説を立てます。儒家の「礼」を差別だと批判するのね。そして「兼愛」をとなえるのです。

  なぜ、儒家の「礼」が差別か。
 例えば、忌引き。知ってるよね。どこの企業でも学校でも忌引きの規定があって親族に不幸があった場合、何日か休んでも欠席扱いにならない慣習だね。
 あれは実は儒学の教えからでているのです。親が死ぬでしょ。親に対する「孝」は人間のまごころ「仁」の中でも最も基本的な感情だから、これは滅茶苦茶に悲しいわけです。悲しくて悲しくて、胸は張り裂け、涙はぼろぼろこぼれ、とても平常心ではいられない。仕事や勉強なんか手につくはずがない。だから、仕事や学校を休むことが許される。これが忌引きの理論的根拠です。
 また、喪に服すのが死んだ親に対する「礼」でもあるわけです。

 親が亡くなった場合の忌引きが五日。ということは五日間は何も手につかない、という社会的な共通理解があるからです。
 さて、そこから先が問題です。生徒手帳を見てもらったら書いてあると思うけど、おじいちゃん、おばあちゃんが亡くなった場合は忌引きの日数が三日。それ以外の親族は一日とかある。
 じゃあ、親友や恋人が死んでしまったら忌引きは何日か。ゼロでしょ。

 これを墨家は差別だというわけです。儒家は人間関係を親から始まって同心円上に序列化する。親を中心に遠くなるにしたがって「仁」「礼」が薄く、軽くなっていくことこそが秩序と考えます。
 だけど、血縁関係が無くても大事な人がいなくなったら悲しいじゃないですか!恋人と引き裂かれると考えるだけでつらいでしょ。しかし、儒家は恋人がいなくなっても悲しくない。悲しんではならぬ。恋人は大事ではない。と、まあこう考える。

 こういう発想は人間の常識的な発想として不自然ですね。ここの無理を墨家は責めるわけです。そこで「兼愛」。誰であろうと差別せず同じように愛さなければならない、と言うのです。

  すべての人を平等に愛するならば、親が死んで悲しいように他人が死んでも悲しくなくてはならない。戦争なんかで家族が死んで欲しくないように、他人が戦争で死ぬのも黙って見ていられないはずです。
 そこで、墨家は「非攻」をいう。「非攻」とは絶対平和主義のことです。どんな戦争にも墨家は反対する。
 かれらがすごいのはただ「戦争反対!」と言うだけではないところで、戦争を止めるたに全土を駆け回る。墨家集団というのがあって、これは墨子の弟子たちでつくられているんですが、技術者集団でいろいろな戦争技術を持っている。で、どこかで小国が大国に攻められる、侵略戦争が起きると、攻められている国に駆けつけて防衛戦争を手伝うんです。大国の側、侵略する側には絶対に立たない。すごいでしょ。そりゃあ、人気がでる。

  ある時、宋という小国が楚に攻められそうになった。さっそく墨家集団は宋に入って防衛の準備をします。墨子自身はたった一人で楚の国の都に出向いて楚王に面会を申し込んだ。
 楚王に会うと墨子は言う。既に墨家集団が宋国に入って防衛の準備は整っている。楚では城攻めの新兵器を開発したと聞くが、われわれも準備は万端だ。決して宋を攻め落とすことはできません。無駄な出兵はおやめなさい、とね。
 楚王も自信があるのでそんなことを言われても出兵をやめるわけがない。そこで、墨家は、実際に楚が勝つか宋が勝つか王の目の前でシュミレーションゲームをやろうと申し出ました。楚の将軍が連れてこられて墨家と対戦することになった。これだけの兵士をここに配置して、ここから攻める。だったら、われわれはこれだけの兵をここに置いてこんなふうに防いでここから逆襲する、とかやったんでしょう。
 結局、墨子が勝ってしまった。

 そこで、墨子は言ったそうだ。「王よ、だから宋を攻めるのは無駄です。おやめなさい。おっと、今私をここで殺しても同じ事ですよ。私の弟子たちはみんなこの作戦を知っている。私を殺しても王は勝てないし、逆にたった一人でやって来た墨子を恐れて殺したと、全国の笑いものになるでしょう。」
 結局、楚王は墨子をそのまま帰し、宋への出兵も取りやめた、ということです。
 同じような話がいくつかあるので、この話もどこまで実話かわかりませんが墨家の雰囲気をよく伝えていると思うよ。

  ところで墨子という人なんですが、これは墨先生ということですが、墨というのはどうも本名ではないらしい。あだ名だったと言うんだね。あだ名の理由がいくつか伝えられているんですが、一つに墨子は奴隷出身だったという説がある。奴隷は逃亡を防ぐために顔に入れ墨をされていた。墨子も顔は真っ黒。だから「入れ墨先生」という意味で墨子と呼ばれるようになったという。
 墨子が奴隷出身だったと考えると、差別なく人を愛すべしという思想がすごくわかる気がするね。

 もうひとつはかれの率いる集団が戦争技術のプロとしてたくさんの防衛用の武器を発明して作っているところから、大工の棟梁みたいな人ではなかったかという説です。
 大工さんは木材を加工するときに墨縄を使って線を引く。みんなは見たこと無いかな。私の小さい頃は大工さんが墨縄使ってピシッと線を引くところを見ましたけれどね。墨を使う先生だから墨子、というあだ名が付いたともいう。どちらかわからないけれど、奴隷説の方が魅力的だな。

 墨家は大流行したようですが戦国時代の終わりとともに消えていってしまいました。戦争の規模そのものが大きくなって墨家のような少数精鋭集団の努力では、何ともならなくなっていったこともあるんでしょう。

4法家

  次は法家(ほうか)。前回話した商鞅、かれが法家です。
 儒家が「礼」を秩序の柱にするのに対して、法家は「法」を柱にします。法を細かく定めて人民に守らせる、守らなかったら厳しく罰する。これが法家の基本的手法です。
 わかりやすいでしょ。しかも、やりやすい、効果もすぐに現れる。実際に秦は法家を採用してぐんぐん国力を伸ばしたわけだ。まあ、これは思想というよりも統治技術に近いね。

  法家の理論家としては韓非(前3世紀)を覚える。かれが書いた本が「韓非子」。
 韓非という人はものすごく頭がよかったのですが、ひどいどもりで人前で上手に喋ることができなかった。最後は秦の国に行って仕官しようとするのですが、若い頃の勉強仲間の李斯という男がすでに秦に仕えていて、李斯は韓非の才能を恐れて殺してしまった。

 この李斯も法家。かれが仕えたのがのちの始皇帝。要するに秦が中国統一した時の最大の功労者が李斯というわけだ。

 実はこの李斯も韓非も若い頃は儒家の荀子の弟子だったという言い伝えがある。
 荀子は人間は本来悪だから教育しなければならない、というのでした。しかし、この弟子ふたりは前半部分だけを学んだようです。人間は本来悪だ、だからビシビシ罰を与えて恐怖によって動かそう、と考えた。猛獣使いがムチで動物をあやつるようにね。

 しかし、この方法が富国強兵に成功したんだから。人間ってそういうモノなのでしょうかね。

5道家

  道家(どうか)です。老子、荘子が道家の思想家。ともに前4世紀の人といわれる。ただ、老子などは実在が怪しいらしい。

 道家の思想は「無為自然(むいしぜん)」。「為(な)すこと無ければ、自(おの)ずから然(しか)り」と読める。無理をしなけりゃ、なるようになる、とでもいう意味です。

 道家の理想とする社会は、自給自足の農村共同体のようです。権力とか、道徳的強制が入り込んでこないような共同体。そういうモノを一応目指したようです。

  道家は儒家と墨家とを両方批判する。儒家の「礼」も墨家の「兼愛」も自然じゃない、頭の中で作り上げたものだ、という批判です。ともに人間の感情を型にはめようとしている。ほっとけばいいんだ。無理をしてはいかんのだ。あるがままでいいのだ。簡単に言えばそういうことです。「道徳などというものを強制しさえしなければ、心を偽る必要がなくなり、人民は自然の情愛に立ち返る」(老子)。

 諸侯たちがこんな教えを聞いて富国強兵に役立つのか、というと役立つはずがない。でも道家の思想はホッとするのね。「癒し」「ヒーリング」系です。いつの時代もこんな思想は必要とされたのかな。

  当時も道家の説は役に立たないと批判されていた。老子や荘子を読んでいるとそういう文章が結構でてきます。
 あるところにでっかい木があって大きすぎて道がそこで曲がっている。邪魔なので伐ってしまいたいけれど固すぎて切れない。また、節くれ立っているので伐採しても材木として使うこともできない。荘子さん、あんたの学問もそんなもんじゃないか。
 そういわれて荘子はこう言い返す。そんな木があったら、夏のかんかん日照りの暑い盛りにその大木の下の木陰で昼寝でもしたら気持ちがいいじゃないか、ってね。
 瓢箪でも同じようなことが書いてある。あるところででっかい瓢箪ができた。あまりにもでかすぎるので酒を入れて持ち運ぶこともできない。無駄な瓢箪だ。でも、その瓢箪を真っ二つに割って、湖にプカプカ浮かべてその上で昼寝したら気持ちいいじゃないか。
 無用の長物にこそ、きりきり働きあくせく生きている人間を安らかにしてくれる大事なものがある、そんなことを教えているようです。

 落ち込んだときなんかに読むと結構救われるよ。

  荘子には有名な「胡蝶の夢」という話がある。荘子が寝ていて夢を見る。夢の中で荘子は蝶になってヒラヒラ飛んでるの。ふわふわ風に舞って実に気持ちが良い。
 そこで、荘子は目が覚めた。ああ、夢だったんだ、と思ったんだけど、考えてみたら蝶だった自分はホントに夢だったのか、それとも今目が覚めた人間の自分が夢なのか、どうもわからんなあ。そんな話。結論があるんじゃないけれど、現在に至るまで多くの人にインスピレーションを与えている話なので紹介しました。

 道家は儒家とともに戦国時代が終わったのちも、長く中国社会に影響を与えていきました。道教という宗教がここから生まれました。この影響は儒教や仏教ほどハッキリとした形ではないけれど日本社会の中にも生きていると思うよ。


6兵家、縦横家、陰陽家

  戦国時代らしいのが兵家。学者は孫子。孫武、孫ピン(月「にくづき」に賓と書く)と二人いるのですが、一緒にして孫子といっています。書物も「孫子」という。
 戦争に勝つための技術を体系化したのですが、単なる戦術ではなくて戦争論、政治論、人生論としても読めるので、現在でもファンは多いらしい。
 「百回戦って百回勝ったとしても、それは最上の勝利ではない。戦わずして相手を屈服させることこそ最上の勝利である。」
 「敵を知り己を知るならば絶対に負ける心配はない(彼を知り己を知らば百戦して殆(あや)うからず)」
 と、まあ、いろいろ名言があります。エピソードもたくさんあるんですが、キリがないので省略します。いまは、マンガとかでもたくさん出てるから興味があったら読んでみて下さい。

  縦横家は思想というより外交で名を売った人たちのことだ。合従(がっしょう)策の蘇秦(そしん・?〜前317)、連衡(れんこう)策の張儀(?〜前309)。これだけ覚えておけばいいです。
 戦国末期になってきて秦は大国として他の六国を圧迫する。これに対抗するために六国が同盟を結ぶことを説いてまわったのが蘇秦です。地理的に縦に並ぶ六国が同盟するので合従、縦に合わさる、と言った。蘇秦は六国の大臣を一人で兼任するまでになったといいます。
 これを破ったのが連衡策。秦に仕えていた張儀は六国に個別に秦と同盟を結ぶことを説いてまわり合従策を崩壊させたというんだ。

  陰陽家は、鄒衍(すうえん・前305〜前240)。陰陽五行説というのをとなえた。当時の宇宙観を集大成したものですが、私にはよく分かりません。とりあえず単語だけ覚えておいてください。


7古典文学

  春秋戦国期の文学作品を三つだけ紹介します。

  『春秋』。これは春秋時代の魯国の年代記です。孔子の編纂と言われています。春秋時代という時代の呼び方はここから来ている。この本に書かれている時代が春秋時代というわけです。のちにいろいろな注釈が生まれた。儒学の経典になります。

  『詩経』。これも儒学の経典になる。内容は黄河流域の民謡を集めたもの。素朴な農民たちの恋愛の歌なんかが載っている。古代社会を知る上で貴重な資料です。

  『楚辞』。楚の国の王族だった屈原という人が編集したという。楚ですから南方の民謡などが載っている。楚の国はシャーマニズム、巫女さんが神がかりになってお告げをする、そういう風俗が盛んでそんな内容も入っている。また、屈原は強国秦に楚が圧迫されるのを嘆いて汨羅(べきら)の淵に身を投げて自殺したという。この屈原の詩も載っているので、愛国の詩集として中国人に愛読されました。

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論語の新しい読み方 岩波現代文庫
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論語の新しい読み方 同時代ライブラリー (267)
宮崎市定著。哲学としてではなく、歴史のテキストとして「論語」を解説した。孔子の言葉が、古くさい注釈から離れて、私にも理解できるようによみがえった。
孔子伝 中公文庫BIBLIO
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白川静著。加地氏の研究に先行する画期的な孔子伝。以上の3冊を読めば、孔子や儒教のかび臭いイメージが、すっかり塗り替えられること間違いなし。

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