こんな話を授業でした

    第23回   黄河文明 

1黄河文明

   いよいよ中国です。
黄河文明が黄河中流域で誕生するのが前5000年頃です。
 黄河文明の前半を仰韶文化(前5000〜前3000年頃)といいます。仰韶は「ぎょうしょう」または「ヤンシャオ」と読みます。代表的な遺跡から名前がつけられています。特徴は土器で彩陶と呼ばれる土器がでる。これはメソポタミア文明の彩陶とよく似ているので何らかの影響があるともいわれています。写真を見て下さい。土色の土器に赤い模様が描いてあるでしょ。これが彩陶。
 後半は龍山文化(前2900〜前2000年頃)。読み方は「りゅうざん」または「ロンシャン」。黒陶、灰陶という土器がでます。黒陶が龍山文化の特徴で、これは見たとおり真っ黒な土器です。ろくろを使い高温で焼き上げたらしい。彩陶に比べて薄手でしかも固い。高度になっているわけだ。で、多分この黒陶は特殊な目的のために作ったモノで、日常生活で使ったのが灰陶だと思われます。こちらは見たとおり黒陶に比べたら気楽に作った感じです。ただ、形は面白いものがある。三本足の土器があるね。これは水などを入れてこの三本足の下で火を焚いて煮炊きしたらしい。

 黄河文明とは別に最近は長江流域に遺跡群が見つかっています。河姆渡(かぼと)遺跡という長江下流の遺跡では稲作の跡が見つかっている。この辺は気候風土も日本列島に似ていて、日本への稲作は案外こんなところから直接伝わったのかもしれません。中国南部から台湾、琉球列島、朝鮮半島南岸、日本列島も含めて太平洋地域には似たような風俗が残っていたりするんです。地図を見ていると中国南部は遠いように感じるけれど、海というのは人と人を隔てるものではなくて重要な交通路でもあった。遣唐使なども朝鮮半島沿いにいけばよいように思えますが、案外直接中国南岸に向けて行ったり来たりしています。
 上流域には竜馬古城遺跡、三星堆遺跡というのが発見された。これらは巨大な都市の遺跡です。

 これら長江流域の遺跡と黄河文明との関係がまだはっきりしていないので何とも言えませんが、黄河文明とは別の独立した文明として将来は長江文明という形で教科書に載るかもしれません。まだ研究途上の遺跡なのでとりあえずはしょうかいだけしておきました。

 黄河文明が発展していく中で都市が誕生してきます。中国古代の都市を邑(ゆう)と言います。邑という字は口と巴からできているね。口は人々が住んでいた集落を取り囲む城壁を表している。巴は人が座っている姿を字にしたもの。つまり人が集まって城壁の中で暮らしている。これが邑というわけです。こういう邑が黄河中流域にたくさんできてきます。

 黄河の下流域はまだ文明圏に入っていません。黄河というのはしょっちゅう大氾濫をおこす。歴史時代に入ってからも何回も川筋が変わっているんです。下流域は洪水の危険が多すぎて当時の生活技術では人は住めなかったんだろうと思います。依然「大黄河」シリーズという番組をNHKでやっていて、現在の黄河の河口の映像が映っていました。前から、黄河河口はどうなっているのか見たかったんですがはじめて映像で見たんですよ。すごかったね。全面まっ黄色。どこが陸でどこが河でどこが海か全然分からない。あんな風景が何キロもつづいているんでしょうね。現在も中国大陸は黄河によって運ばれる黄土によって拡大している、そんな感じです。昔はべちゃべちゃで人が入り込めないような湿地が下流域に拡がっていたんでしょう。

 洪水といかに戦うかが黄河文明の担い手たちには重要な問題だったようです。
 中国の伝説の古代の聖王に堯(ぎょう)、舜(しゅん)、禹(う)というのがいます。堯は自分の王位を舜に譲り、舜はその位をやはり治水で頑張った禹に譲ったという話になっている。禹は一年中黄河に浸かって働いたので下半身が腐ってしまったとも言われています。

 プリントに写真がつけてある彩陶ですが魚が描いてあるでしょ。顔が人面です。これが禹ではないかという説もある。要するに河の神様です。
 河の神にしろ、治水で頑張ったにしろ、黄河と切り離して古代中国の国家形成は考えられないということです。

人面魚=禹?


 この三人は血がつながっていないのに位を譲ったり譲られたりして、みな徳があって立派だということで、のちに儒家という学派に持ち上げられて聖王とされています。自分の血縁を無視して徳のあるものに位を譲るこの形式を禅譲(ぜんじょう)といいます。理想の王位継承パターンとして褒め称えられるわけです。

 伝説では禹は自分の子供に王位を譲ります。ここで最初の王朝が成立します。この王朝を夏(か)というんですが、日本の歴史学会ではこの夏王朝の実在はまだ認められていません。中国では実在したとされています。自分の国の歴史はできるだけ古い時代にさかのぼらせたいという気持ちが、どの国の考古学者にもあるみたいですね。


2殷

 夏王朝が滅んだあとを継ぐのが殷(いん)王朝なんですが、ここからが確実に考古学上証明できます。

 邑に話を戻します。邑の住民は祖先を同じくする氏族集団だったといわれています。もしくは複数の氏族集団が一つの邑を建設した事があったかもしれません。邑は都市国家と言って良いでしょう。ギリシアで言えばポリスみたいなものです。

 やがて邑の中でも他の邑に比べて規模の大きく軍事力が強いものが出現してくると、その強い邑を中心にして邑の連合体が生まれる。これが最初の王朝とされている殷です。殷というのは邑の名前でこれが盟主となって他の邑を緩やかに統合した、というふうに理解しておけばいいです。殷というのはあとから付けた名前で当時は商(しょう)と呼んでいました。この商の時代が前1600年頃から前1027年までです。

 殷の遺跡が殷墟(いんきょ)。王の墓が発掘されています。こちらの図版を見てください。逆ピラミッド型に掘った頂点に王の遺体が埋葬してある。王の棺の下に犬が埋めてある。犬はあの世への案内役だったらしい。
 王以外にもたくさんの殉死者が埋葬されています。それから青銅製の酒器もたくさん並べてある。あの世でも王を守るためでしょう、兵士も所々に別に穴を掘って埋められているし、戦車もありますね。

 これ以外に目に付くのが生首です。殉死者はちゃんと身体があって服も着て埋葬されているのに、それとは別に生首だけがゴロゴロ並べられているでしょ。これは神への生け贄か、魔除けでしょう。
 こんなふうに数百人、多い場合は千人以上の殉死者、生け贄などが一緒に埋葬されているのが殷王墓です。かなりの権力を集中していたことが分かる。
 ただ宮殿などは藁葺きみたいのもので、壮麗な宮殿というのではなかったようです。 

 殷の政治の特徴。神権政治です。古代社会はどこでも政治と宗教が一体化しているんですが殷もそうでした。
 殷の王はしょっちゅう占いをやって神々にお伺いを立てて政治を執り行いました。宇宙にはいろいろな神々や悪霊や妖怪やそんなモノで満ち満ちていて神々の機嫌を損ねないように、また、悪霊たちの災いに遭わないように彼らは真剣だったんです。

 「道」という字があるでしょ。この字「しんにょう」に「首」が付いているね。「しんにょう」はそれだけで道の意味がある。なぜ、首がくっついているかです。いろいろな説があるんですが、興味深いのがこういう説です。

 邑がある。邑の門を出るとずっと道が農地や遠くの邑につづいている。当時は今みたいに土地が開けていないわけで、原生林もあるし未開の民族も、邑がないところにはたくさんいるわけです。猛獣もいるでしょう。何よりもそういう原野には訳の分からない悪霊、魑魅魍魎がぐちゃぐちゃいるわけです。そういう魑魅魍魎が門から邑の中に入ってこないように、邑の門の下に魔除けとして人の生首を埋めたというんだな。門を開けて生首の向こうに道は始まる。道に出るには生首をまたいでいく。またぐことが、外に出る人の魔除けのまじないでもあるんだという。
 この説が正しいかどうかは分かりませんが、殷の王墓にも生首がたくさん見つかっているのを考えるとあたらずといえども遠からずという気がします。古代の中国の人々の生活感覚が伝わってくるような説ですね。

 というわけで、古代人は神々に取り囲まれて生きていた。だから、政治も当然神々にお伺いを立てたわけです。
 殷の人たちの神様は大きく分けると三種類ある。
 一つが天帝。天というと、われわれにも何となく理解できるような気がしませんか。神みたいな感じで天という言葉を使うことがありますよね。日本の文化の中にも流れ込んでいる感覚です。
 もう一つが自然現象を神にしたものです。

 最後が祖先神です。中国文明を理解するにはこれは重要だと思う。祖先神崇拝はその後も生き続けて朝鮮や日本の文化の中にも深く浸透しています。殷の人々は死んだ祖先はそのまま神になって存在し続けていると考えます。どこか、上の方にいるんですね。で、常に子孫の行動を見ている。気にくわないことを子孫がすればたたるんだ。祖先神が一番子孫に望むことは、常に祖先神を崇めて祀ってくれること。これをサボるとたたります。だから殷の王達はいつお祭りをしたらいいかしょっちゅう占っています。

 祖先神崇拝はのちに儒教の中に引き継がれ、さらに仏教にも影響を与えます。われわれ日本の仏教の儀式の多くは儒教化されていて祖先神崇拝がたっぷり入り込んだものです。例えばお盆。お墓参りにいって線香立てるでしょ。あの線香はもともと儒教のもので、天界にいる祖先の霊があの線香の煙をたどって地上界のわれわれのもとに帰ってくる。その為のものらしい。そもそも、仏教の理論から考えれば祖先の霊なんて存在しないんですよ。どこかに輪廻転生しているんですからね。今生きているわれわれだって前世では誰かの祖先だったかも知れないわけで、祖先を崇拝するなら俺をあがめろよ、という話になる。お墓参りするよりは、酢豚や蟹玉スープを食べない方がよほど供養になるわけだ。お坊さんの話を聞いていて祖先の供養うんぬんという話が出てきたら、殷以来の東アジアの宗教的伝統がここに生きているんだなあ、と感慨にふけって下さい。

 殷王が占いに使ったのが牛など大型動物の肩甲骨や亀の甲羅です。どうやって占ったかというと、例えば亀の甲羅、お腹の方の甲羅ですがここに丸い溝をいくつも掘ります。で、その溝に木の棒などで火を押しつけるんです。するとヒビが入る。このヒビの形や向きで占いをしました。占った結果を甲羅や骨の裏側に刻んで記録しました。この文字が甲骨文字です。資料集には甲骨文字を刻んだ亀の甲羅の写真がありますが、これをひっくり返すと焦げ付いた丸い溝とヒビがたくさんあるはずです。
 この甲骨文字がのちの漢字の原型となるわけです。

 殷代の遺物としてもう一つ大事なものが青銅器です。いくつか写真があるので見て下さい。グニャグニャの模様が一面に刻んである。これはなんなのか。原型は羊の怪獣なのか、蛇のお化けなのか、逆巻く黄河の水なのか。伝説の怪物として色々な名前がつけられているものもありますが、そんなことより、じっくりこの文様を眺めながら殷の人たちの心を想像して下さい。私は魑魅魍魎がうじゃうじゃいた当時の人たちの精神世界を表しているような気がします。私は骨董品の価値とかわかりませんが殷の青銅器と日本の火炎式縄文土器は心が引き付けられます。
 殷の青銅器は多分ラーメン丼の縁の渦巻き模様のルーツです。

 殷の最後の王が紂王(ちゅうおう)です。酒池肉林の男です。故事成語の「酒池肉林」のルーツ。
 紂王は自分の庭園に池を作るんですが、その池に水の変わりに酒を満たした。庭園の木には木の実のかわりに肉をぶら下げた。池で美女たちとたわむれて遊ぶ。遊び疲れて池から上がると肉をたらふく食べた、という話。紂王が人民を搾り取って自分だけ贅沢三昧をしたという話なんです。これは多分あとで作られた話ですけどね。紂王が暴君で滅ぼされて当然だったという話になるわけです。
 ただ、非常に贅沢といってもたくさん酒を飲んで肉を食らうだけで、当時の贅沢の基準、逆に言えば普通の暮らしがどんなものだったか想像がつきますね。
 
 

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水野 清一 (編集)。近年文庫化されて、初めてこのシリーズの存在を知りました。中国文明の歴史という題名ですが、とどのつまり中国史です。

第23回 黄河文明 おわり

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