こんな話を授業でした

世界史講義録

  第21回  ウパニシャッド哲学と新宗教  

1ウパニシャッド哲学

   サイババっていう人知ってますか。一時期よくスペシャル番組でやってましたね。なんか、奇跡みたいなことをするインドの聖者です。空中から灰をつかみだしたりね。その灰を飲むと病気が治ったりするらしい。アメリカや日本に信者がたくさんいるようですが、今のサイババは実は二代目で100年くらい前にもっとすごいサイババがいました。今のサイババさんは、その生まれ変わりと自称している人です。
 インドといえばやはり精神世界、宗教大国で、きっとインドに行けばああいう聖者はゴロゴロいるんですよ。西欧のマスコミにうまくのった人が日本にも紹介されるんでしょうね。マスコミにも取り上げられず、信奉者もあまりいないような現役の聖者や修行者、苦行者はたくさんいます。本で読んだり、写真で見ただけですが、例えば20年間立ったままで座らない苦行者とか、自分を10平米の密室に閉じこめて10年間人と会わない修行をしている人とか、われわれには理解できない人たちがいる。

 これは3000年の伝統なんです。悟りを求めて修行の世界に飛び込む人をインドは産み続けている。
 ここから、前回のつづきになります。バラモン教は祭式中心主義の宗教だった。儀式のやり方は秘伝としてバラモン身分の者だけに伝えられていきます。ところが、その儀式だけでは飽き足らないと思う者達が同じバラモン身分の中から出てくるんだ。で、かれらは密林の奥深くにこもって真理の探究をする。内面追求ね。いろんな難行苦行をしながら。そういう修行者たちの中で徐々に作られていった哲学が「ウパニシャッド哲学」です。ウパニシャッドとは「奥義(おうぎ)書」と訳している。奥深い真理を語る哲学、とでもいうところです。このウパニシャッド哲学が後のインド思想に大きな影響を与えることになります。インド思想の出発点はここにあるといってもいいね。

   ウパニシャッド哲学はどんなことをいっているか。
 まずは人間の生死について。人は死んだらどうなるか。回答「輪廻転生」。
 すべての生きとし生けるものは生と死を永遠に繰り返します。死んだら、またどこかでなにかに生まれ変わってくる。生き続け、また死にまた生まれ変わる。永遠に回転しつづける車輪みたいなものです。

   死んでも生まれ変わることをインド人はどう捉えたかというと、これは苦です。死ぬことが苦しみなのは理解しやすいですが、インド人は生まれること、生きていることも苦しみと考える。飢饉、疫病、戦乱、天災、あらゆる不幸が人生にはついてまわる。生きることは苦痛とセットなんです。考えても見て下さい。現代でも生まれついたカーストによってはものすごくつらい人生が待っているんですよ。「今度生まれ変わってもあなたと一緒になりたいわ」なんていうセリフとは無縁な世界です。絶対生まれ変わりたくなんか無いわけ。こういうセリフが出てくる日本の風土はやはり暮らしやすいんだろうね。
 死んだあと何に生まれ変わるかということですが、これは生きている間にどんな行いをしたかで決まる。生きているということは、なにかの行為をしているわけで、その行為を「業(ごう)」といいます。どんな業を積んだかによって、次の生が決定される。簡単に言えば悪い業を積めば、虫けらに生まれるかもしれない。よい業を積めばましな生き物、人間とかね、に生まれ変われる。
 人間に生まれたとしてもやはり人生は苦であるわけで、人々の願いは二度と生まれ変わらずにすむことです。クルクル廻る輪廻の輪から抜け出すこと、これが最高の願い。抜け出すことを「解脱(げだつ)」という。
 「輪廻転生」と「業」、そして「解脱」。これが一つ目のポイント。

   二つ目は宇宙の真理についてです。ウパニシャッド哲学では、宇宙の根本真理・根本原理が存在すると考えます。これを「ブラフマン」といいます。これを中国で漢訳したのが「梵(ぼん)」という言葉です。
 で、当然修行者たちはこの真理「ブラフマン」を自分のものにしたい、つかみたいと思う。
 この宇宙の真理ですが、ユダヤ教やキリスト教でこれを神と考え、プラトンならイデアというんだろうと思う。でキリスト教やプラトンは神やイデアが遠いところにあって、人間はそれに向かっていく、それに少しでも近づく、そんなふうに考えていた。真理は自分の外のどこかにあるんだね。
 ところが、ウパニシャッド哲学はこう考えます。宇宙の根本真理「ブラフマン」をつかもうとわれわれはどこかを探すのですが、考えてみれば「私」も宇宙の中の一部です。宇宙に根本原理があるならば、「私」も宇宙の一部なんだから、「私」の中にも宇宙の根本原理が宿っているはずなんです。どこか遠いところに真理があるのではなく、自分の中に真理はある。この辺がキリスト教やプラトンと違う発想ですね。

   この「私」の中の真理を「アートマン」といいます。教科書では「個人の根本原理」と書いています。漢訳では「我(が)」。私の中に「アートマン」=「我」があって、それが「ブラフマン」=「梵」と究極的には同じモノであるとウパニシャッド哲学は教えます。これを「梵我一如(ぼんがいちにょ)」とう。仏教用語で聞いたことある人もいるんじゃないかな。仏教にもこの哲学が引き継がれているからね。
 誰もが自分の中にアートマンを持っているわけですがそれが簡単には自覚することができない。なぜかというといろいろな物質や欲望によって心が曇っているからです。だから、何らかの修行によって心の曇りを取り払い、自分の中に「アートマン」を見つけだしたらどうなるかというと、それは「ブラフマン」と同じなわけですから、二つは一体化する。一体であることを「私」が理解する。その瞬間に「私」は「宇宙」と一体となるわけね。一体となるということは、言い方を変えると自分が消えるということです。

 自分が消える、ということは「業」がなくなるということです。自分が宇宙と一つになるんだから、私の行為というのも消えるわけだ。「業」が消えたらどうなるか。輪廻転生の原因は「業」でしたね。私が消え「業」が消えたら、そこには輪廻するものがなくなってしまうんだ。これが解脱ということです。究極目標です。

 これがウパニシャッド哲学の大雑把なところです。この思想に基づいて多くの修行者が梵我一如実現のために修行生活に入っていったんだね。そして、それは現在まで続いている。

   どうすれば、心の曇りを取り払い「アートマン」を自覚するかというと、これは色々な人が色々な方法を唱える。仏教もその方法の一つだし、ヨーガもそういうモノの一つでしょう。ヨーガにも色々な種類があるようですが、よく知られているのが健康体操みたいなやつね。あれは本来、身体と精神を極限まで追いつめようとしてるんです。肉体を限界まで追いつめて追いつめて、欲望とか脂肪とか余分なものを捨て去ったその後に残る最後のもの、「アートマン」をつかまえようとしているんだ。

 話が元に戻りますが、このような思想が前500年をはさんだ数百年くらいの間に生まれて、インド世界に広まった。梵我一如とか輪廻転生、業、解脱、という考えはインド人の常識になっていきます。この後インドに生まれる多くの宗教はこの思想を下敷きにしているんだ。

2ジャイナ教

   ウパニシャッド哲学を土台にした新宗教が前5世紀頃に登場してきました。色々な宗派が生まれたようですが後世まで影響力をもったものが二つ。これが仏教とジャイナ教です。
 この時期に新宗教が登場した背景を理解しておこう。
 農業の発展にともなって特にガンジス川流域にいくつかの強国が成長してきます。支配者の王や武人はクシャトリア身分です。また、交易も活発化してきますから、商業の担い手だったヴァイシャ身分の中には王侯貴族に劣らない経済力を持ったものもでてくる。
 クシャトリアやヴァイシャが力をつけてきても、バラモンの方が身分的には偉くて威張っている。バラモンは経済力や武力は無いけれど、僧侶だからね、神々を盾にとって威張っている。身分的にはクシャトリアもヴァイシャもバラモンの上にはなれない。こんな、面白くないことはないわけで、クシャトリア、ヴァイシャは、バラモンの権威を否定してカースト制を打ち壊してくれる宗教や思想を待ち望んでいたわけです。

 森林にはウパニシャッド哲学を深める修行者たちがたくさんいて、この中から新しい時代に合った宗教が生まれて来たというわけだ。それが、仏教、ジャイナ教。
 この二つの宗教の共通点はともに開祖がクシャトリア出身であること、バラモンの権威を批判しカースト制を否定したことです。

   まず、ジャイナ教からいきましょう。
 開祖はヴァルダマーナ(前563〜前477ころ)。尊称をマハーヴィーラといいます。(偉大なる英雄)という意味だそうです。かれは輪廻の原因である業を身体にくっついた物質と考えます。苦行をすることによって前世からくっついている業を消し、新たな業がくっつかないようにできると考えた。そのために苦行と徹底した不殺生を説きます。

   不殺生って分かりますね。生き物を殺さないことね。仏教でも使う言葉だから知っているね。なぜ、生き物を殺さないか分かりますか。ヨーロッパ的な動物愛護精神とは全然関係ないからね。輪廻転生をインドの人は信じていましたね。死んだら何か別のものになって生まれ変わる。ここはいいですね。だから、たとえば蚊が腕に止まって血を吸っていたらパチンとたたいて殺したくなるんですが、輪廻を信じていたらこれはできません。だって、この蚊は去年死んだお爺さんの生まれ変わりかも知れないんですよ。
 菜食主義も同じ発想から生まれてきます。レストランで定食を注文したら焼き肉がでてきた。しかしこの焼き肉になっちゃった牛はひょっとしたら三年前に死んだ母さんの生まれ変わりかも知れない。そう考えたらとても食べられませんね。
 ここが、不殺生や菜食主義の生まれてくる理由です。ダイエットのために菜食主義をしたい人は輪廻を信じて下さい。肉を食べる気にはならなくなるよ。

   話を戻しますが、ジャイナ教は徹底した不殺生です。絶対に生き物を殺さない。資料集にジャイナ教徒の写真があるから見て下さい。マスクしているでしょ。これ、何かというと息を吸うときに空中の虫を吸い込んで殺さないためです。それから、歩いたら蟻とかを踏んで殺すといけないので、できる限り歩きません。じーっと座って信者がお布施してくれるのを待つのです。どうしても歩かなければならないときはほうきを持ってね、一歩一歩地面をはいて虫がいないことを確認してから足を踏み出すのです。ゆっくりしか歩けないけどね、修行ですから仕方がない。
 この写真の修行者は服を着ていますが、マハーヴィーラ自身は素っ裸だった。一切の財産を持たないので、服まで捨ててしまいます。後の時代には服を着るグループもできましたが初期のジャイナ教とはみんなすっぽんぽんです。今でも全裸の修行者はインドにいますよ。昔テレビを見ていたらインドの聖地のイベントをNHKニュースでやっていたんですが全裸の男がチラッと写っていましたね。全部写ってましたからね。NHK史上に残る事件だと思うね。ジャイナ教徒かどうかは分からないけどね。

 苦行の方は基本的には断食です。業を消したあとは新しい業が身に付かないように断食しながら餓死することをすすめていたようです。梵我一如を実現したら生きている意味もないからそのまま死んでしまいましょうということです。

   ジャイナ教は現在でも信者がいるようです。商人などに多く、お金持ちの人が多いようです。農業をやると土の中のミミズやなんかを殺すかも知れないから、古くからジャイナ教徒は商業に従事したようです。
 商人ではありませんが、インド独立の父として尊敬されているガンジーもジャイナ教徒の家に生まれていますね。

3仏教

   仏教の開祖はガウタマ=シッダールタ(前563〜前483頃)。尊称はブッダ。生没年は色々な説があってホントのところはよく分かりません。マハーヴィーラも同じ。インド人は歴史記録にあまり興味がないんですよ。どうせ生死を繰り返すんでね。年代を記録したって仕方がないと思っていたようです。
 ブッダというのは「悟りをひらいた者」という意味です。ガウタマ=シッダールタ以前にもブッダになった者がいたとも伝えられています。皆さんも悟りをひらいたらブッダと名乗ってかまいません。みんなが信じてくれたらあなたも立派なブッダです。
 よくお釈迦様といいますが、シャカというのはガウタマの属した部族の名前です。ガウタマはシャカ族の王子に生まれます。嫁さんももらって、子供も産まれ何不自由のない生活を送るんですが、人生の無常を感じて国や家族を捨てて出家して修行の道に入ります。
 森に入れば似たような修行者がたくさんいて、ガウタマは仲間を見つけて修行の日々に明け暮れた。このころからすでにヨーガがあって、ヨーガの先生についたこともあった。断食もやったようです。仲間がこいつ死んだんじゃないか、と思うくらいの断食だった。

   ところがいくら過激な苦行をしても、ちっとも悟れないのです。そこで、ガウタマは苦行によって悟りをひらくことをあきらめて、里に下りてきます。仲間たちはあいつは修行が苦しくなって逃げたんだ、なんて言うんですが。
 里に下りて川の畔でガウタマが一息ついているときです。修行をやめてきたばかりだからガウタマは多分ガリガリに痩せていてフラフラしていたんだろう。村の娘さんが「お坊さん、どうぞ」とミルクを恵んでくれました。その、村娘の名前がスジャータ。コーヒーミルクにあるでしょ。ここからとったんですよ。

   ついでに話しておきますが、仏教でもジャイナ教でも何でもインドの宗教に共通ですが、悟りをひらいて解脱できるのは、出家して修行している人だけですからね。在家で、普通の暮らしをしている人は決して解脱できません。在家信者も救われる仏教が生まれるのはあとのことです。
 では、在家の人たちの救いはどこにあったか。それは、修行しているお坊さんにお布施をすることなんです。解脱はできないけれど、解脱を目指している人のお手伝いをすることでよい業を積むことができる。よい業を積めば今度生まれ変わるときに今より少しでもよい所に生まれ変わることができる、そういう考えです。

 さて、スジャータからミルクをもらい生命力がよみがえったガウタマは、菩提樹の下で瞑想します。そうしたらついに悟ってしまったんですね。ブッダとなりました。

   ここから先が後の仏教の展開にとって大事なところです。
 悟ったガウタマはこう考えた。この悟りは、とても言葉で表現できるものではない。言葉で説明しても誤解されるだけだ。だから、人に教えるのはやめておこう、とね。
 ところが、すぐに思い返します。いやいや、悟りに近いところにいながらあと一歩のところで悟れない人がたくさんいる。私が教えを説くことによってそういう人々が悟れるようになるかも知れない。水面すれすれで咲いている蓮の花をチョイと引っ張り上げてやることで水上で咲けるようにね。水上が悟りの世界です。
 というわけで、布教を開始します。布教を決心して最初に出会ったのが苦行時代の仲間。ガウタマが来るのを見て、「苦行から脱落した奴だから、相手にせずにおこうぜ」とかれらは示し合わせるのですが、近づいて来たガウタマの顔を見て「こいつは変わった」と思う。さらにガウタマの説法を聞いて彼の悟りを確信して最初の弟子になったということです。

   ガウタマの説いた仏教とはどんなものだったか。
 キーワードは四諦(したい)と八正道(はっしょうどう)です。
 まず四諦。これは四つの真理という意味です。まず一番目の真理、人生は苦である。これはいいですね。ウパニシャッドの基本ですね。二番目、苦しみには原因がある。三番目、原因を取り除けば苦しみも消える。おう、なかなか論理的ですね。四番目、原因を取り除く方法は八正道である。期待が高まりますね。八正道ってなんでしょうね。早く知りたいですね。
 その八正道です。高まった期待をいきなりスカしてくれます。八つの正しい道です。一、正しく見る。二、正しく考える。三、正しく話す。四、正しく行動する。五、正しく生活する。六、正しく努力する。七、正しく思いめぐらす。八、正しい心を置く。
 これはいったい何なんでしょう。当たり前のことじゃないか、と思いませんか。そうなんです。でもこれが仏教の特徴なんです。ブッダは苦行を否定します。極端を避ける。中道という。
 ジャイナ教に比べるとハッキリしない教えのように感じますが、当時の人にとってはこのことが逆に新鮮だったんではないかと思います。だって、命を落とすほど苦行するのが当たり前の中でブッダは苦行を否定して、理論によって悟る道を示したんですから。

 仏教もジャイナ教も王侯貴族、クシャトリアやヴァイシャに保護されて発展していきました。たとえば平家物語のはじめにでてくる祇園精舎というのは有力商人がブッダの教団のために寄進した庭園を漢訳したものです。

   ジャイナ教は今でも信者さんがいると話しましたが、仏教徒はほとんどいません。13世紀初め,仏教の教団根拠地であったビクラマシラー寺院というのがイスラム勢力に破壊されてインドの仏教は消えました。寺が壊されたくらいで無くなってしまうということは、もうすでに一般民衆の信者がいなかったと思う。中道の考え方はインドでは受けが悪かったかも知れない。
 現在のインドの仏教徒は前回話したアンベードカルに始まります。アンベードカルは不可触民解放の運動を続けて、結局カースト制がある限り差別はなくならないと考えた。カースト制を否定するインドの思想を調べて仏教に巡り会ったんです。カースト制のないインド社会を作るため仏教に改宗した。みんなにも改宗をすすめました。
 ただ、改宗したのはアンベードカルと同じ不可触民のカーストの人だけでした。現在でもそれ以外の人にはなかなか広がっていないようです。


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第21回 ウパニシャッド哲学と新宗教 おわり


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