What is Tongues?

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異言って何?


1.聖書に記録されている現象

 異言については、ルカが記録した初代教会の歴史である使徒言行録と、パウロがコリントの教会に宛てて書いたコリント人への手紙第一に記されています。これらの記録を調べると、異言とは、「聖霊によって語らせられる、学んだことのない言葉」ということが出来ます。自分の言葉でも、学んだ言葉でもない、自分では何を語っているわからない言葉です。使徒言行録2章の場合は、全世界から集まってきていた人々が、キリストの弟子たちが話していた異言を理解しました。ですから、この場合は明らかにどこかの民族が実際に用いていた言葉でした。しかしこのような例は、聖書の記録では一度だけのことでした。パウロの記述によると、異言は聖霊によって解き明かされなければ、理解できない言葉とされていますので、一般的には語っている者にも聞いている者にも、理解できない言葉と考えられます。

2.聖霊の洗礼に伴って現れる現象

 ルカは、4回にわたって聖霊の洗礼の記録を残していますが、そのうちの3回は、異言が伴った事を明白に記しています。残りの1回も、直接には異言が語られたとは述べられていませんが、異言が語られたと推測するのに充分な記述が残されています。そして異言は、聖霊の洗礼が与えられたとき以外には語られていません。このことから、異言は聖霊の洗礼に伴って現れた現象であると考えられます。

3.パウロの書簡に示されている現象

 パウロが残した異言に関する教えは、コリント人への手紙第一の12章から13章だけに集中しています。コリント教会は、いろいろ問題を抱えた教会でしたが、異言もそれらの問題の一つでした。信徒たちが集会の中で無秩序に異言を語り、教会を混乱に陥れていたのです。これに対してパウロは、公の集会の中では、秩序のある異言の語り方をするようにと強く勧めています。異言は、聞いている者にとっては解き明かされない限り意味不明であって、何の役にも立ちません。ですから、語る者はその意味が解き明かされるように祈りなさいと教えているのです。そして、もし解き明かすものがいないならば、それ以上語らないようにと教え、解き明かす者がいた場合でも、2、3人で止めておきなさいと言っています。しかしプライベートな祈りの中での異言は、語る者の徳を高める素晴らしいものであり、パウロ自身も、だれよりも多く異言を語るし、すべての信徒が異言を語る者になってほしいと勧めています。

4.神に向かって語られるもの

 パウロは、異言が神に向かって語られるものであると言って、それが祈りである事を示しています。祈りの中には神を賛美したり、感謝したり、お願いしたりといろいろな要素が含まれます。聖霊は、人間が祈るときに、その祈りがより高い次元で行われるように、つまり祈りによる神との交わりが、もっと深く速やかに滞りなく行われるように、異言という能力を与えてくださるのです。人間の言葉は、最も良いコミュニケーションの手段です。しかし、しばしばこの言葉が足りなくて、また邪魔になって、コミュニケーションができなくなる場合があります。自分の言いたいことがうまく言葉で表現できず、なんとも歯がゆい経験をします。それは神との交わりの中の祈りの言葉でも同様です。しかし聖霊は、私たちの言語能力を超えた言葉を与え、語っている本人さえ言葉の意味が不明なのに、自分の心の叫びが神に伝えられているとわかるのです。神との交わりの深遠な部分は、人間の言語能力を超えたところで行われる必要もあるということです。

6.神との深い交わりである聖霊の洗礼に伴うもの

 異言は、非常に高い次元での神との交わりの機会である聖霊の洗礼に伴いました。聖書の記録が少ないために、断定は出来ないとしても、極めて安全に、異言は聖霊の洗礼を「聖霊の洗礼」とする要因であるといえます。異言という手段がなければ、聖霊の洗礼という、神との高く深い交わりは不可能なのです。異言の伴わない聖霊の洗礼というものは存在しないと、かなりの確率で云えるということです。もし、「異言は語らなかったけれど、私は聖霊の洗礼を受けた」という人がいるならば、その人は、自分の体験が聖霊の洗礼であるという事を、聖書によって証明しなければなりません。神さまに与えられる素晴らしい体験は数々あることでしょう。しかし、それを「聖霊の洗礼」と呼ぶには、聖書によれば、異言が伴うと考えるのが妥当です。そして、聖霊の洗礼を体験した人は、それからも折々異言を語って神と交わる経験を繰り返し、繰り返すごとにより多くの異言を語り、異言が祈りの習慣となるのです。パウロはその異言をとどめてはならならないと教えています。

7.ペンテコステ運動の特徴である

 20世紀の始めに起源をもつ伝統的なペンテコステ運動を継承している人々は、今でも、異言は聖霊の洗礼に必ず伴うものであり、聖霊の洗礼の証拠と考えています。これに対して、ネオペンテコステ運動に属する人々の多くは、異言は聖霊の賜物の一つであり、素晴らしいものであるけれど、必ずしも聖霊の洗礼に伴うものではないと考えています。そのような違いはあるとしても、異言を通しての祈りの素晴らしい体験を共有していることに変わりはありません。異言と聖霊の洗礼に関する考え方、理解の仕方に若干の違いはありますが、神との生きた交わりを強調し、神は今も変わらず、奇跡をもって私たちの祈りに答えてくださるという、基本的な確信においては同じなのです。
(詳しくは拙著ペンテコステ神学と聖書をお読みください。)
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