ペンテコステ派の問題点

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     ペンテコステ運動とその流れ


T. ペンテコステ運動の特徴

 ペンテコステ運動にはかなり顕著な特徴がありました。以下に挙げるものはそれぞれ重なり合うものですが、多くの部分を説明できることでしょう。

T.A.体験的

 キリスト教運動や団体、あるいは神学というものには、必ずその発生を促した背景があります。そういう意味では、すべて「体験」が重要な起点となっています。ペンテコステ運動は、一面では当時爛熟期を迎えていた自然科学主義に対する反対運動であり、もう一方では、世界宣教と異言の運動と言えるでしょう。この二つが渾然一体となって、ペンテコステ運動は始まりました。反自然科学主義では、奇跡や癒しの強調となって現れ、異言は聖霊のバプテスマと結び付けられて、世界宣教の力となりました。ペンテコステ運動は一人の人の指導や神学、あるいは聖書の学びから出た運動ではなく、まず複数の人々の体験があって、その体験を聖書で説明してきた運動です。そのために、ペンテコステの人々はずっと体験を重んじる信仰態度を持ち、聖書解釈や単純な神学の構築においても、体験が重要な役割を果たしました。

T.B.現象主義

 ペンテコステの信仰は、現在も昔と変わらなく働いてくださる神様を、信じる信仰です。勢い、ペンテコステの人々は、いま神様が働いておられることを証明すると考えられる現象を、非常に大切にしました。癒しや奇跡、さらには異言を語ることや預言することなどが、正当な礼拝や集会、あるいは聖書を読みそれを理解することなどよりも、重んじられる傾向がありました。現象への期待感が、現象を追い求める信仰に変わり、現象がありさえすれば満足するような信仰態度が、そこここに見られました。それはまた、いかに聖書的な内容に富み、日常の生活の示唆に満ちた説教でも、現象が伴わなければ、軽視される結果ともなりました。

T.C.感情的

 ペンテコステ運動は非常に感情的な運動でした。それは奇跡や癒しを体験した人、あるいは実際に見た人たちの多くが冷静ではいられなかったからであり、さらに、異言を語ることを伴う聖霊のバプテスマの体験が、非常に感動的なものであったためです。また、この運動の初期に加わっていた人々の多くが、貧しく、教育程度も低く、粗野なほど、感情を素直に表す人々だったこと、それに、多くの人々がアフロ・アメリカンで、アフリカの爆発的感情表現を引き継いでいたためです。

T.D.黒人的

 初期のペンテコステ運動に、黒人の参加者が多かったことにより、ペンテコステ運動にはもうひとつ、黒人の音楽性という特徴が現れました。黒人音楽が黒人霊歌となり、ロックとなり、ブルースとなり、ジャズとなり、ポップスとなり、ゴスペルとなったのは周知のことですが、これらすべての音楽の要素が、ペンテコステ教会の音楽にも共通し、それが一般の人々との距離を埋め、伝道の力ともなってきました。しかしそれはまた、世俗化の先鋒という役割も果たして来ました。  

T.E.白人的

 アッセンブリーズ・オブ・ゴッドは、教団創立当時すでに白人の交わりになっていました。詳しいことは知りませんが、当初は黒人と協力して活動していたのに、だんだん共に行くのが困難になったようです。人種差別もあったと言われていますが、むしろ倫理的な格差が大きかったと考えられます。黒人たちはその歴史的背景のために、白人とはかなり異なった倫理感を持っていました。一般的に、低所得白人の厳しい倫理的規範を、黒人たちが受け入れるのは困難だったと思われます。アッセンブリーズ・オブ・ゴッドはそのようなことから、ある分野では、現在でも聖書以上に厳しい倫理を求めています。

T.F.素人的

 ペンテコステ運動の当初、指導者たちの間には神学校教育や大学教育を受けた者はほとんどいませんでした。せいぜい聖書学校、しかも多くは寺小屋程度の聖書学校がいいところです。したがって、聖書の読み方や理解の仕方も、はなはだ素人的でした。裏返せば、自分たちの教派や団体の伝統的神学の色眼鏡で、聖書を読むことが少なくなったということです。(エールやプリンストンといった、高度な神学教育を施す神学校が、一般の人々から乖離していくことを憂慮して、ムーディやトーレイに端を発する聖書学校運動が起りましたが、ペンテコステ運動はその流れを汲んでいました。)そのために、単純な聖書の読み間違いは多発したけれども、神学的な鎖から解放され、素直に聖書に聞こうと言う態度を作り上げるのに、おおいに役立ちました。神学書を読むより、聖書を読むことが大切にされたのです。教室に座るよりも、跪くことが強調されたのです。

T.G.寛容性

 ペンテコステの人々は、道徳的な意味ではかなり非寛容性をもっていました。白人からは道徳的に低いと見られていた黒人たちの間でも、彼らなりの高い倫理性を持っていました。(文化や環境の違いがあり、道徳性も異なっていたとしても。)しかし、神学的な意味では、あまり厳しい信仰告白をもたず、聖書を誤りのない神の言葉と信じる伝統的な福音派の理解に、聖霊のバプテスマを認めるという点を加えただけの単純な信仰でした。それだけに、デスペンセーションの考え方、千年期前再臨説など、原理主義的な立場から、改革派の考え方を持つ人々までが加わることが出来ました。とはいえ、ワンネスの運動がおこったために、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は信仰告白を採択せざるを得なくなりました。しかし、神学的寛容性はその後も伝統的に続いています。

T.H.柔軟性

 神学的寛容性は柔軟性にも通じています。硬い神学的立場を持っていないペンテコステの信仰は、非常に幅広い考え方の人々の中に、容易に入り込むことが出来ました。宣教師たちは異なった文化の、異なったものの考え方の中で、自分の信仰を犠牲にせずに生活し、宣教に励むことが出来ました。神学と言うものは、いかに聖書的とはいえ、ある特定の文化への対応として生まれたものであり、状況が変化すると対応できなくなってしまうのです。ペンテコステ運動は神学運動ではなく、体験の運動である点が大きく影響しました。

T.I.適応性

 柔軟性と非常に良く似ていますが、ペンテコステ運動は状況の変化にすばやく適応すると言う性格を持っていました。それが、極めて早い大型印刷機やコンピューターの導入、マスメディア、国際化、民族主義、多極化、あるいはグローバライゼーションへのすばやい対応につながっています。それはまた神学的素人の、さまざまな分野や、指導的立場への活用というところにも関係しています。

T.G.非神学性

 ペンテコステ運動が神学的素人の運動であり、体験の運動であったことは、そこで活躍する人々もまた、神学的背景を持たない人が多いと言うことです。聖書学校を出ていない牧師や伝道者はいくらでもいるし、世界的に活躍している伝道者の中にも、神学教育をまったく受けていない人々がいます。神学的にはさまざまな背景の人が一緒に働いています。

T.K.宣教性

 異言の賜物を聖霊のバプテスマと結びつけ、聖霊のバプテスマを世界宣教の力の賦与と解釈したところから、ペンテコステ運動は当初から、宣教の運動となりました。また、これが長い神学教育を必要とする伝道ではなく、聖霊のバプテスマを体験する、しいて言えば、異言を話すと言うしるしが結果を証明する、体験の伝道だったために、極めて短い期間に宣教が進められました。

U.ネオペンテコステ運動の特徴

 当初、ほとんど異端のように理解され、排斥されていたペンテコステ運動も、第二次大戦のあと、伝統的な諸教会からも、正当なクリスチャン信仰として迎え入れられるようになって来ました。1960年半ばには、ペンテコステ派以外の人々の中にも異言を語る現象が起り、癒しや奇跡の業が見られるようになって来ました。いわゆるカリスマ運動と呼ばれるもので、おもにサクラメンタルな教会の中で起ったものです。(サクラメンタルな教会=カトリックや聖公会)

 1980年代になると、福音派の中にも同様な現象が起り始め、多くの福音派の人々が、ペンテコステの信仰に近い信仰を持つようになりました。その代表者の一人、ピーター・ワグナーが自らこれを第三の波と名づけたところから、第三の波運動と呼ばれています。ネオペンテコステ運動は、その前のペンテコステ運動、いわゆるクラシカル・ペンテコステと類似していながら、かなり異なった面を持っています。そして、その異なっている部分をも含めて、クラシカル・ペンテコステの特徴を引き継いでいると言えます。実際、先に挙げたペンテコステ運動の特徴は、そのままネオペンテコステ運動の特徴でもあるのです。それがまたかなり極端になり、歪曲された形で特徴となっています。

U.A.体験的

 多くのネオペンテコステ運動は、「体験的」を通り越して体験主義になっています。体験が第一、体験がすべてといった感覚です。ペンテコステ運動では、異言の体験は聖書の中にプロトタイプを見つけ出しました。それは素人的でしたが、現在玄人がやっても、公平に聖書を釈義するならば、ほとんど同じ結論に到達するでしょう。しかし、現在のネオペンテコステ運動の体験の多くは、聖書にプロトタイプを見つけ出すことが出来ず、類似の出来事さえ見出すことが困難な、聖書外体験です。

U.B.現象主義

 ペンテコステ運動は現象主義の弱点を抱えていました。しかしその一方で、とにかく聖書を読むという強みを持っていました。ところが、カリスマティックの人々はサクラメンタルで、聖書を読みません。第三の波の人々は神学的で、聖書を読まない癖をそのまま持ち込みました。いきおい、聖書を離れた信仰となり、現象を追求する傾向が増幅されてしまいました。単純に聖書を読み、自分たちの体験した現象を、聖書から検証しなおすという努力が欠けています。それでいて、福音派から第三の波に入った人々の多くは、自分たちが「聖書信仰に立っている」と考えているために、問題は厄介です。

U.C.感情的

 宗教体験に感情はつき物です。人間は感情的動物でもあるのですから、当然です。聖霊のバプテスマは、多くの場合、非常に感情的な体験です。しかし感情がすべてではありません。またクリスチャン信仰は感情を含みながらも、感情の高まりを追求する信仰でも、宗教的興奮や恍惚感を人為的に作り上げる信仰でもありません。ところが、ネオペンテコステ運動の多くは、感情の追求に陥ってしまいました。そのために、感情を高める操作が、いたるところで行なわれています。強烈なリズムと、過剰な音響と、アジテーションのような説教。サイケ調な色彩で点滅をくり返す照明。さらに、派手なパーフォーマンスや高揚感の表現を可能にする、広いステージのある集会場。先に挙げた体験と感情がひとつになって、ある種の宗教体験を作り上げるのです。

U.D.黒人的

 ネオペンテコステ運動の音楽は、ほとんど黒人音楽の流れの中にあります。もともと強烈なリズムとダンスで、自分の感情表現をしていた黒人たちの、音楽の血が流れ込んでいます。それ自体悪いことではありませんが、それが、人為的な、あるいは作為的な感情の高まりのために、用いられるところが問題なのです。そしてそのようにして作り上げられた恍惚状態や興奮が、聖霊のバプテスマと取り違えられたり、そのような興奮の中で叫んだ意味不明の声が、異言と間違われたりしてもならないのです。黒人の音楽性は教会の力になりました。ところが一方では、擬似ペンテコステ体験のために用いられています。

U.E.白人的

 ネオペンテコステ運動は、19世紀のアメリカの道徳・習慣をいまだに引き継いでいます。それはクラシカル・ペンテコステと同じです。禁酒、禁煙、や性道徳には、聖書の基準より厳しいままです。道徳的罪を互いの裁きあいの道具に用いています。まだ、赦しの理解が徹底していないのです。幸いに黒人たちも、「奴隷制度の中で培われた道徳」から解放されつつあり、白人と黒人の間の道徳の格差は、以前ほどではなくなっています。目に見える悪習慣に対する非寛容な態度は、さまざまな文化の中で、宣教の妨げになり、分裂の元にもなっています。

U.F.素人的

 ネオペンテコステ運動は、神学的素人をたくさん作り出しています。この運動に入る前は、改革派、長老派、バプテスト派、あるいはメソジスト派などで、それ相当な神学を修めた人々が、神学の放棄をしています。かつての自分たちの神学が、ペンテコステの人々の無神学の行動、非神学の働き、癒しや奇跡の事実の前に、まったく力がなかったことを体験し、自分たちが培って来た神学的考え方を放棄してしまったのです。その一方で、それまでの自分たちの神学的傾向で、聖書に真摯に向き合う姿勢が、一般に、ペンテコステの人々ほどできていないために、自分たちが体験した「ペンテコステ体験」を、聖書的にどのように理解するべきかという、真摯な学びを怠っています。クラシカル・ペンテコステの神学には学ぶところがないと、初めから決め付け、自分たちの伝統的神学で、新しい聖霊体験を理解しようとしているために、木に竹を接いだような理解が出来上がっています。たとえば、伝統的神学を究めたと自認している人が、聖書的に何の裏づけもないばかりか、非常に疑問の多い、先祖からの悪の流れを断ち切る祈りなどと言う、ばかばかしいことをやっています。信徒の頭に手を置いて長い時間をかけて祈り、先祖との悪のつながりを断ち切ると言うわけです。そのようにして、無知な信徒たちを悪霊の恐怖に陥れ、自分たちの働き場を増やしています。家系に悪霊がついていると言う人もいます。それはもう、まるで、巷の霊媒師です。 

U.G.寛容性

 神学的に物事を考えないで体験を中心に動くと、ある意味で非常に寛容な集まりが出来ます。要するにそのような体験を持った、持ちたい、興味があると言う人々は、みな仲間になれるのです。ロック・コンサートに集まる人の中には、自民党の支持者も、共産党の支持者もいるのと同じです。阪神が勝って抱きあっているスタンドのフアンが、それぞれ創価学会と立正佼成会の会員だってこともあるのと同じです。このような人々の中には、初めから異端的な要素を持った人々も、たくさん流入してきます。後の雨の運動、あるいはレストレーション運動といわれる中にいた人たちが、第三の波の中で、大手を振って活動しています。ワンネスの人々がまったく自由に活動しています。あるいはマリヤ様に熱心にお祈りしている人も、加わってきます。さらには、キリスト教以外の信仰で、類似した体験を持った人々までが加わってきます。「悪霊とは天国に行けずに迷っている霊である」と教えるグループが、招き入れられています。

U.H.柔軟性

 ネオペンテコステ運動は、極端に言えば、なんでもありの運動です。自分たちと類似の体験を持ち、類似のことを行なう人は仲間になり得ます。したがって、クラシカル・ペンテコステの人々より柔軟性があります。そしてこれは体験中心で、神学の変化を要求しません。したがって、さまざまな神学や伝統を持つ教会にも入り込むことが出来ます。彼らの主張するのは聖霊に満たされて伝道することではなく、信仰の新しいディメンションを発見し、体験すること、すなわち霊的な刷新ですから、自分たちの信仰に満足していない教会、つまりすべての教会に訴えることが出来るのです。現在5億人を超すといわれるペンテコステ運動の人々の多くは、このような霊的刷新を体験した、伝統的教会に属する人々で、新しくクリスチャンになった人々ではないと言うことに、注意しなければなりません。

U.I.適応性

 ネオペンテコステの人々は、クラシカル・ペンテコステの人々より一般的に適応性があります。それは、世の中に起っている事柄に、上手に対応していくことも含まれます。イベントを盛り上げて集会につなげることも、マスコミの利用も上手です。しかし、それが嵩じると、現代資本主義の手法と同じになり、資本主義の手先になり、世俗化の先鋒となってしまいます。その上、本物のクリスチャン信仰が希薄になったり、失われたりすると、さまざまな不思議な現象を次々と取り入れることも可能です。手をかざしたり振ったりすると、たちまち前にいる人々が倒れるようなことは、中国の気孔でも通常のことです。さらに催眠術を取り入れると、操り人形のように、人を動かすことも出来ます。そこに集団心理操作を用いると、大勢の人々が同様な行動をします。手品や奇術も役に立つことでしょう。金粉だけではなく、矢でも鉄砲でも降らせることが出来るでしょう。クリスチャンになったつもりでいる人々が、彼らの「キリスト教活動」をするようになるのです。さまざまな不思議なことをして、大能の神とまで言われた魔術師シモンは、後になって、魔術を中心にしたキリスト教異端の、指導者になったという伝説がありますが、ありそうな話です。

U.J.非神学性 

 ネオペンテコステ運動が、ますます神学を問わない運動になることによって、キリスト教界の中に大きく広がり、「聖霊体験」と彼らが謳う非常に曖昧な現象を媒体に、ある種のエキュメニカル運動を作り上げていきます。非常に硬い信仰告白を作り、排他的な改革派の行き方と正反対です。これは体験を重視した、主観的な宗教体験の価値をますます高めることであって、類似した体験を主張する他宗教の参入を容易に認め、シンクレティズム化、あるいはカルト化、オカルト化を進めて行くことにつながります。現在ネオペンテコステ運動に懸念される、最も危険な現象が、このシンクレティズム化とカルト化です。

U.K.宣教性

 ネオペンテコステが、クラシカル・ペンテコステともっとも乖離している点の一つは、間違いなくこの宣教性です。すでに触れたように、ネオペンテコステの運動はリニューアルの運動、刷新の運動です。自分たちの信仰生活に満足できない人々、自分たちの教会の姿に納得できない人々が求める、信仰体験です。クラシカル・ペンテコステの人々は、聖霊のバプテスマを宣教の力の賦与と理解し、ペンテコステ経験と宣教を直接結びつけましたが、ネオペンテコステの人々は、ペンテコステ経験を個人的な霊的体験だけに、とどめてしまいました。彼らは、パウロの内面的聖霊体験の神学を受け入れましたが、ルカが明確に意図した、聖霊による宣教の神学は軽視しています。たとえ、聖霊のバプテスマは宣教の力の賦与を目的とはしていないとしても、宣教の力は当然の結果であり、キリストが大きく期待したものであることを、無視してはなりません。そのため、ネオペンテコステ運動は既成教会の中、クリスチャンたちの中に入り込みます。それも、ある種の感激の体験であるために、未信者に対する働きかけも当然出てきますが、異言を伴わない、擬似聖霊のバプテスマ体験であるために、クラシカル・ペンテコステほどの宣教性を発揮しません。

V.今後の私たちの信仰のあり方

 このようにして、ペンテコステ運動の流れを「特徴」と言う角度から眺めることによって、私たちは自分たちの立っている信仰について、少しばかり明らかな理解を持つことが出来ましたが、私たちは今後どのような方向をもって進むべきなのでしょうか。

V.A.聖書に立つ信仰の再理解

 プロテスタント信仰のほとんどは、聖書を最終権威と認めて、聖書に立つ信仰を謳っています。しかし、聖書に立つと言う意味はさまざまです。私たちは、聖書を間違いのない神の言葉として信じています。しかし、聖書は間違いのない神の言葉であるという言い方にも、さまざまな理解があり、一様ではありません。たとえば、ある人たちは創世記の天地創造の物語を、文字通りそのまま信じるのが、聖書に立つ信仰の正しいあり方だと主張します。ある人は伝道の書を引用して、自分たちの主張は神の言葉に立つといいます。またある人たちは、歴史文書からは神学は構築できないと言って、ペンテコステ派の聖霊体験の価値を低めようとします。

 そこで大切なのは聖書の解釈学です。聖書はどう釈義され、どう解釈されるべきかと言う学問です。私たちは伝統的に、改革派の人たちの解釈学を受け入れてきました。しかし、そこには大きな欠点があることも知らなければなりません。彼らの考え方は、合理的な物事の考え方であり、ギリシャ的な考え方を背景に持って、厳密な言葉の理解を前提にしています。しかしヘブルの文学、あるいは記述方法は、たとえ、ギリシャ語を用いていても、ギリシャの思考方法では書かれていません。したがって、改革派の人たちが築き上げた解釈学では、聖書の意味がわからないことがたくさんあります。実際、パウロが旧約聖書を解釈した方法なども、とても理解できません。理解できないと言うことをまじめに認めなければなりません。それでいながら、私たちは聖書の性質をもっと確かめた上で、解釈学を構築しなければなりません。

 たとえば、モーセの5書や歴史書を始めとする旧約の書物には、単なる歴史や律法というだけでなく、東洋の諸文化に見られる、ストーリー・テリングの手法が意図的に用いられてはいないでしょうか。東洋の片隅に住む私たちには、そのよう問いかけをする義務があるように感じます。主が第6日目にお休みになったのだから、私たちも第6日目を聖として、すべての仕事を休まなければならないという律法は、文字通りそのように受け取るべきでしょうか。イエス様は、神様はお休みにならないとおっしゃって、安息日にもお働きになりました。実際、神様が休むというのは擬人法を用いた表現で、神様はお休みになるはずがないのです。とするならば、6日間で天地をお造りになったというのも、安息日を定めるための理由付けの、「方便」ではないでしょうか。「方便」などという「うそ」を徹底して嫌う、西欧キリスト教ではこのような考え方をすること自体、冒涜かもしれませんが、ストーリー・テリングの手法としては、ありうる表現方法です。

 とはいえ、解釈学の構築は大変な仕事で、今すぐ手に入れることが出来る成果を期待するのは無理です。しかし今、とりあえずではあっても、ある程度の解釈学的努力を必要としています。そうしなければ、エホバの証人のような解釈が出てきます。後の雨の人たちの解釈も巾を利かすことになります。また、ペンテコステ経験が軽んじられたりもします。いま、神学的にペンテコステ信仰を脅かしているものに、歴史書からは神学を構築できないと言う考え方があります。歴史書は歴史を記しただけであり、そこからなにかを学ぶことは出来ても、それは明らかに教えられているのではないのだから、そのような主張の基本となる、もっと明確な教えを必要としていると言うのです。だから、ペンテコステ神学の重要な源であるルカの福音書は、パウロの明確な教えの文書によって、理解されなければならないと言うわけです。そして、パウロはペンテコステについてはまったく沈黙しているために、ルカの文書から、ペンテコステ神学を建て上げるのはむりだということになります。このような考え方に対して、私たちは、ルカの文書が神学の源とも、基ともなり得ることを証明しなければなりません。それはまた充分に可能なことです。(拙著「受霊のしるしの教理をめぐって」を参照)

 その上で、私たちはルカの文書とパウロを始めとする諸文書から、聖霊のバプテスマに関する私たちの神学を、証明しなければなりません。私たちは、ペンテコステの聖霊のバプテスマに関する神学も、それが形成された当時の、時代と状況を背景にしたものであることを知っています。それは現在の時代の要求には不充分です、もう一度、現代の要求に答えられるように、再構築されなければなりません。その中には、体験的聖書釈義と解釈の正当性も含まれなければならないでしょう。それから、聖霊のバプテスマが聖霊の内住とは異なること、聖霊のバプテスマには、異言が伴うことも証明しなければなりません。これも、充分に可能です。また異言の重要性、必要性も充分に説明されなければならないでしょう。これはパウロの文書からされなければなりません。

 その一方で、聖霊のバプテスマは宣教のための力の賦与であるという言い方も、異言は聖霊のバプテスマに伴う証拠であるという言い方も、正確ではないことを認めなければならないでしょう。異言によるメッセージと、解き明かしという理解も、聖書によって再検討が必要でしょう。これらのことは、私たちの神学の再検討です。それはまた、異言は不要であるとか、異言を語らなくても聖霊のバプテスマを受けていると言う、多くのネオペンテコステの人々の主張を、明らかな間違いとする証明の働きです。したがって、現在のネオペンテコステの多くの人々と、はっきり一線を画す働きであり、改めて彼らに、ペンテコステとは何かと言うことを示していく活動です。

 さらに問題なのは、聖書に聞くのではなく、聖書を利用する人たちの聖書解釈です。たとえば、教会成長運動のピーター・ワグナーは、聖書の解釈や教えから、自分の主張点を見出しているのではありません。まったく別の、世俗的な学びや考え方や価値観から作り上げた主張を、聖書の言葉を持って補強しているだけに過ぎません。部分的に聖書も彼の言っていることを支持しているように聞こえますが、彼の主張そのものを認め支持しているのではありません。積極性思考も同じです。これを主張する「成功した」牧師たちの著書は巷にあふれ、日本でもクリスチャンではない人々に翻訳され、一般書店から出版されているほどです。そして訳者注で言われるのです。「日本人にはなじみがないと思われる、聖書の引用などは省略しました。」聖書がなくても通用するのです! 繁栄の福音も、レーマの神学も、自己開発のカウンセリングも、聖書の主張ではありません。ペンテコステの人々の著書にはその類のものがかなり含まれ、ネオペンテコステの人々の著書の多くが、その種のものです。このような聖書の用い方をしている人たち、それに慣らされた人たちは、たとえば、レストレーションの人々が自分たちの主張を裏付けるために、聖書を引用していることに納得してしまい、聖書的だと思い込んでしまいます。その聖書の用い方そのものが間違っていることに気づかないで、終わってしまいます。

V.B.簡単な解釈学的示唆と練習

 そこで、極めて素人的ではありますが、解釈学的な示唆をしたいと思います。聖書にはこのように書かれていると言う場合、はたして、本当に聖書はそのように言っているのか、あるいは、ある人たちのやっていることが、聖書的な基盤を持っているのか確かめる方法です。

1. 教育的文書、あるいは教育的な部分で、明らかに教えられ、普遍的な性質を持っている主張であるか。(申6:5)

2.教育的文書、あるいは教育的な部分で、明らかに教えられてはいるけれど、普遍的性質を持つ主張であるか。背後にある普遍的原則を見つけなければならない。(出20:8〜11、エペソ6:5)

3.直接的には、聖書はそのように記してはいないけれど、多くの教えや記述から正常な理論的帰結として、そのように結論づけられる主張であるか。(三位一体)

4.歴史的な部分、叙述的な部分でありながら、著者は、明らかな教育的目的や意図をもって記したと考えるのが、最もふさわしい主張であるか。(使徒10:1〜11:18)

5.単に歴史書などの出来事、事例として記されているものであり、教育的な価値はあったとしても、直接の教えと理解するのは困難な主張ではないか。(創12:10〜20から、嘘を正当化する。)

6.聖書に記されてはいるが、それが主要なテーマではなく、たまたま触れられただけであり、著者の意図とは関係のない主張ではないか。(Iコリント12:28、エペソ4:11から、現代の教会にも使徒が必要であるという主張)

7.聖書の中に一度か二度しか触れられていないために、十分に理解することも、説明することもできない主張ではないか。(Iコリント15:29から、死者のためのバプテスマの主張。Uテモテ1:6をもって按手による賜物の分与の主張)

8.聖書に記されてはいるが、明らかに、神の言葉ではないものをもっての主張ではないか。(伝道3:12をもって刹那主義の主張、3:19をもって人間の魂の消滅の主張)

9.聖書にはまったく触れられていないものの主張ではないか。(先祖の悪のつながりを絶つ祈り、金粉、金歯、聖なる笑い、異言を通しての預言)

 これらのことを念頭に置き、以下のものを考察し、解釈学的練習をして見ましょう。

1.聖霊のバプテスマを受けなければ救われない。

2.聖霊のバプテスマとは、聖霊の内住のことである。

3.聖霊のバプテスマと異言は関係がない

4.聖霊のバプテスマには必ず異言が伴う。

5.異言の伴わない聖霊のバプテスマもある。

6.異言は価値の低い賜物だから、必要ない。

7.異言の賜物は限られたものだけに与えられるものであるから、すべての信徒が期待すべきではない。

8.異言はすべての信徒に与えられる賜物である。

9.清くならならなければ聖霊のバプテスマは与えられない。

10.聖霊のバプテスマは宣教のための力の賦与である。

11.異言は解き明かされれば預言となる

12.異言には聖霊のバプテスマのしるしとしての異言と、賜物としての異言がある。

13.異言には三種類の異言がある。

14.異言も預言(神の直接の託宣)も練習すべきものである。

15.すべての預言は神からのものであるかどうか、吟味されなければならない。

16.預言の言葉は、神の言葉である。

17.預言の言葉は神の言葉であるから、聖書とおなじ権威を持つ。

18.集会で倒れる者が出るのは、主の臨在のしるしである。

19.倒すことが出来る伝道者は、主の力を持っている。

20.すべての信徒は豊かな生活をすべきである。

21.物質的豊かさも主の祝福のひとつである。

22.物質的豊かさは、主の祝福の証拠である。

23.教会は大きくしなければならない。 

24.教会は三つのセルフ、すなわち自立政治、自給経済、自主伝道を達成しなければならない。

25.私たちは現代の預言(神の直接の託宣)を期待すべきである。

26.集会などで倒れるのは神の臨在のしるしである。

27.倒れるものが続出するのは、集会が祝福されている証拠である。

28.祈りなどによって倒すのは、その伝道者に神の霊が宿っている証拠である。

29.物質的繁栄は神の祝福の証拠である。

30.すべてのクリスチャンは物質的繁栄を求めるべきである。

31.Iコリント12章の9つの賜物は、聖霊のバプテスマを受けた人だけに与えられるものである。

32.クリスチャンは、クリスチャン以外と結婚してはならない。

33.ルカが記録した「聖霊を求めるべきこと」は聖書の中に一度だけ出てくる事柄であり、これを神学的な論証に用いることは出来ない。

 先に述べたように、現在のペンテコステ運動の流れで最も懸念されるのは、シンクレティズムです。また、カルト化の危険も非常に大きいでしょう。さまざまな非キリスト教的要素が流れ込んできています。世界中いたるところの宗教に、ペンテコステ信仰や実践と類似したものがあります。ペンテコステ人口5億とも6億とも言われる中、聖書に立脚したペンテコステ信仰を持った者は、一体どれほどいるのか、はなはだ疑わしいと言わねばなりません。また世俗主義が大きな力を持っています。今の多くのペンテコステの運動は、非常に強く世俗主義に影響されています。世俗の事柄を知り、利用しながらも、教会は世俗主義に陥ってはならないのです。今後のペンテコステ運動は非常に流動的で、ますます捕らえどころがなくなって行くことでしょう。離合集散がくり返され、混沌の色合いを深めることでしょう。それでいながら、福音は伝えられていきます。

 私たちの力は小さなものです。しかし、しっかりとした聖書理解の上に立った信仰を持ち、本当のペンテコステ信仰を継承し、混沌のなかで、毅然とした姿を保って行きたいものです。それが、シンクレティズム化や世俗化を、防ぐことにもつながっていくことでしょう。私たちは、ペンテコステ信仰という地に撒かれた、塩になるのです。

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