ペンテコステ派論考

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     しるしを求める時代


 たいした役にも立たない雑文をワープロに打ち込みながら、テレビのニュースをつけっぱなしにしていると、いつの間にか行方不明者を探す番組に変わり、いろいろ面白い人たちが登場していました。いわゆる超能力で、生きている人も死んでいる人も探し出すというのです。その人々のうちの3人は、たしか、アメリカのFBIの捜査にも協力して、随分と成果を上げているという説明がつけられていました。そのあまりの能力に、「下手に人殺しもできないな。これでは必ず見つかってしまう」と・・・・怪しい警戒心を抱いたほどです。ちょっと考えるところがあって、つぎの週の同じ番組を見ていると、今度は、確か、ヨーロッパの超能力者たちが出演して、やはり、行方不明者を探していました。世の中には面白い力を持っている人々がいるものだと、つくづく感じたものです。(テレビが「やらせ」をやっていないという前提ですが)。ちなみに、彼らの中で何らかの「霊的な助け」を得ていると考えていたのは、「天使の力によって」と自ら語っているヨーロッパの女性と、同じくヨーロッパのもう1人の男性だけでした。他はみな、単なる超能力者で、いわゆる霊的な力とは無縁なようでした。 それを見ていてふと考えました。「このような超能力といわれる力を持っている人や、霊力を使うことができる人々が、宗教家になったらどうなるだろう。ペンテコステの伝道者や牧師になったら、どういうことになるだろう」。

 最近、手品や奇術が流行っているようで、テレビでも盛んにやっています。中には本当に度肝を抜くようなものがあります。目の前でというより、大勢の人ごみの中、幾つものカメラの前で、たとえば、デパートのショウウインドウのガラスを通り抜けるなど、信じられないようなことを次々とをやってのけるのです。あまりにもトリックが上手なために、超能力者と間違えられて、病気を治してほしいとか、埋蔵金の隠し場所を当ててほしいとか、新興宗教の教祖になってほしいだとか頼まれて、閉口したと話している奇術師がいました。 これらの番組を見ていて、また、ふと考えました。「このような奇術に長けた者たちが、宗教家になったらどうなるだろう。ペンテコステの伝道者や牧師になったら、どういうことになるだろう。彼らはさぞかし有名な、力ある神の人と目され、それこそ『大能の神の力』とばかりに、もてはやされるに違いない(使徒8:10)。 テレビにも出、大きな集会を行い、たくさんの人々をその気にさせ、お金儲けも出来るだろうなぁ」。あの人たちが宗教家にならず、キリスト教の伝道者になっていないことを、感謝する気持ちになりました。「そういえば、数十年前、世界の奇術の大会で優勝したクリスチャンがいたな。堕落していなければいいが・・・」などと、つまらない心配まで始めてしまいました。

 いまテレビで人気を博している、もう一つの分野があります。それは、いわゆるまじないや占いに近いことをやって、運勢判断や前世の因縁、あるいは金儲けの方法、結婚の是非などを告げるものです。有名人とかセレブといわれる、芸能人やスポーツ選手などを相手に、そういうことをやって、結構視聴率も高いらしく随分盛況です。他にも、占いや呪い、霊視、心霊写真、行方不明者の捜索、怪奇現象の解釈などを行って、興味本位のマスコミに乗っている人々がいます。日本人の多くは、ばかばかしいと言いながらもこのような番組を観、出版物を読んでいます。そんなことが、何かにつけて話題になり、それに頼ったり、倣ったり、喜んだり、不安になったりしているのです。

  これらの霊的な感覚の鋭い人たち、いわゆる霊能者たちが、ペンテコステの信徒や伝道者になったら、どういうことになるだろう。私たちの間で行われ、もてはやされている「奇跡」と、これらの超能力や奇術あるいは霊力とどこが違うのだろう。ペンテコステ系の人々のほうが、信徒たちを始め、多くの人々の賞賛と憧憬を勝ち取り、金儲けになるらしいというのは、わかるけれど・・・・。何しろそのようなことを売り物にして、テレビ番組をいくつも持っている伝道者が、たくさんいるのだから」。奇術師や手品師に、そのような人がいるとは、聞いたことがありません。

 こんな軽々しい思い付きから、聖書に記されている奇跡や癒し、不思議やしるしの類と、それらについての教えに関して、すこしばかり考察してみようと考えました。

 聖書に記された 神以外の力による不思議な業  

 現在の日本ほど、唯物論がもてはやされている文化はないといわれます。ところがその一方で、人々は怪奇現象や霊界の話にも夢中になっています。日本人の精神的二重構造です。付け焼刃の啓蒙思想、合理主義、科学至上主義の後ろには、拭い取れない、隠しようもないアニミズムの世界が広がっているのです。そんな非科学的なことは信じないと言いながら、お宮参りに行き、幽霊を恐れ、占いを信じています。

 私たち日本のクリスチャンもまた、この日本人の精神的二重構造の中で、一方では合理的科学主義の世界観を持ちながら、他方ではおどろおどろとした魑魅魍魎(ちみもうりょう=林や水の霊)の世界観を内に秘めています。かつて、西欧合理主義宣教師たちの教えにならって、幽霊だのまじないだの占いといったたぐいを、非聖書的な迷信として退けながらも、ほとんど本能的に、何となく納得しきれないでいるのです。

毅繊\蚕颪砲眇世砲茲蕕覆 不思議な業が記録されている

 西欧合理主義、唯物的科学万能主義の世界観を持って聖書を読むと、その中に、あまりにもたくさんの奇跡や不思議な物語が、記録されているのに驚いてしまいます。クリスチャンとして、いつかの時点で、神が全存在物をお造りになったということは、神学的に受け入れているにしても、あまりにもたくさんの奇跡や不思議のたぐいが記されているのに、少なからぬ衝撃を受けます。さらにその中には、天地を創造された神によらないさまざまな不思議な業も記されていることに、いよいよ驚かされます。

 聖書の世界観は唯物主義ではありません。また、神以外の霊的存在を認めない一神教でもありません。聖書は、他の宗教の感覚から言えば、多神教の世界、あるいはアニミズムの世界を描き出しているのです。たくさんの神々、さまざまな霊的存在があるけれど、その中に、唯一の創造者、唯一の絶対者がおられて、その方だけを礼拝し、その方にだけ忠誠を誓うのが、聖書の信仰です。その方以外の霊的存在や、その方以外の霊的力を認めないのが、キリスト教信仰ではありません。くり返しますが、たくさんの神を認めないのがキリスト教信仰ではなく、自分はただおひとりの神、創造者であり、絶対者であるお方だけをあがめ、この方だけに従うというのが、キリスト教信仰です。 それは、たくさんの男性がいる中から1人の男性を夫として選び、この男性だけに尽くすというのと同じです。夫だけが唯一の男性という意味で、一神教です。少なくても、これが聖書の理解です。

 もちろんわたしたちの神は創造者であり、唯一の絶対者です。創造者であり、唯一の絶対者であるということが神の定義なら、私たちはそのような神を信じているのです。 しかし、日本語本来の「神」の定義は、単に「上」というだけに過ぎません。「髪の毛」すなわち上の毛、「川上」すなわち川の上流、「薩摩の守」すなわち人の上に立つ者で、さまざまな漢字が充てられていますが、ようするに「かみ」すなわち「うえ」であり、「神」イコール「うえ」なのです。(うちの「かみさん」と奥さんを呼ぶのも?!)ですから「神」といった場合、せいぜい、なにやら人間以上の不思議な力をもつ存在というだけで、猫でも蛇でもどこかに人間以上の能力があれば、たやすく神になれるのです。人間でもちょっとばかりできると、たちまち料理の神だの、野球の神だのとまつり上げられることになります。唯一絶対の創造者などという、クリスチャンたちの「神」の理解とは程遠いものです。

 聖書は、私たちクリスチャンが神と呼ぶ、絶対者以外の「霊的な存在者たち」とその力を認め、それらを神に従う天の軍勢と、神に逆らう悪魔の陣営に分けています。聖書は神に従う霊的な存在者たちを「御使い」(翻訳によっては天使)と呼び、神に逆らう者どもを悪霊と呼び、その悪霊どもの頭を悪魔と呼んでいます。そしてその悪魔の陣営との戦いが、私たちのクリスチャンの信仰生活の、重要な一端であると教えています(エペソ6:11−12)。 合理主義、唯物主義、科学至上主義に犯された西洋キリスト教は、私たちの神様によるものも、御使いたちによるもの、さらには悪魔や悪霊たちによるものも含めて、奇跡や癒し、不思議やしるしといわれるものを、おしなべて否定するかもしれませんが、聖書が描き出す世界は、奇跡や不思議の世界なのです。プロテスタント教会ではカトリックよりも啓蒙思想の影響を強く受けたせいか、御使いたちによる人間への干渉も、否定、もしくは無視する傾向にあります。またそこには多分、カトリックが天使崇拝に陥っていることへの反動があると思われ、ペンテコステ教会においてさえ、キリストご自身がそれを認めておられるにもかかわらず(マタイ18:10)、御使いの存在と働きは軽視されています。

 そのようなことを理解した上で、聖書の中に記されている、神と御使い以外による、不思議や奇跡、あるいはそれを示唆する主なものを、いま思いつくままに、リストアップして見ましょう。
ヨセフの時代、パロの夢を解こうとしたエジプトの魔術師たち
モーセと対立したエジプトの魔術師たち
神の箱騒動で役割を果たしたペリシテ人の預言者たち
サムエルを呼び出した霊媒師
エリヤと戦ったバアルの預言者たち
ネブカデネザルの夢を解こうとした魔術師たち
ペテロに叱責されたサマリヤの魔術師シモン
キプロスの魔術師バルイエス
エペソで焼かれた魔術の本
悪霊に傷つけられた、祭司長スケワの7人の息子たち

毅臓\蚕颪呂海譴蕕僚侏荵を 現実として記録している

 聖書はこれらの出来事すべてを、作り話や御伽噺、あるいはたとえ話や寓話としてではなく、現実として伝えています。ここに挙げたものが、はたして魔術によるものか、悪霊の力によるものか、超能力によるものか、あるいはトリックによるものかは不明です。聖書が魔術と表現しているものが、現在の私たちの常識的分類と同じ分類をしているわけではないからです。さまざまな霊の力を借りているものも、自分の中にある不思議な能力によるものも、トリックによるものもあったかもしれません。しかしこれらすべてのものを、聖書は現実として記録しているのです。

 これらの出来事が、たんなる空想や創作物語ではなく、あるいは迷信による思い込みでもなく、神による奇跡と同じように、現実の出来事として聖書に記録されていることは大切です。合理主義に影響された西欧キリスト教は、いろいろな理由と理屈をつけて、これらの出来事を単なる神話にしてしまおうとしてきましたが、聖書を素直に読む限り、聖書はこれを現実のものとして書き記しているのです。そして、それらは主に魔術師、霊媒師、あるいは予言者とか占い師といわれる人々によって、常習的に行われていたことが分かります。

 ただし、聖書の世界観はそのようなものであっても、実際に奇跡的な事柄が多発したのは、長い聖書の歴史の中では比較的短い、いくつかの時代に限られていたようです。それらはモーセとヨシュアの時代、エリヤとエリシャの時代、それからキリストと使徒の時代です。ですから、不思議や奇跡がのべつ幕無しに行われていたというわけではありません。また、当時の一般の人々の間にはたくさんの迷信もあり、これらの記述に類似した物語もずいぶん多く、頻繁に語り伝えられていたということは、想像に難くありません。しかし、聖書に記録されている出来事は、あくまでも事実として記録されているのです。 

毅叩\蚕颪呂修譴蕕良垰弋弔紛箸離瓮ニズム については何も語っていない

 ただ、ひとつ注意しておかなければならないのは、聖書はそのような不思議な出来事あるいは業が、どのようにして起こるのか、なぜ起こるのかという、メカニズムについては一切説明していないのです。私たちとしては、そのような出来事があった、またあり得るということを信じるだけで、説明はできないのです。特にこの点で問題になるのは、サウロの要請によって、女霊媒師がサムエルの霊を呼び出していることです(汽汽爛┘28:3−25)。 これがなぜ問題かというと、生の世界と死後の世界の二つを、厳密に分けて理解する現代の福音主義的考え方と、相容れないからです。 現代プロテスタント・クリスチャンたちの多くは、キリストがお語りになったラザロの物語などを引用して(ルカ16:19−31)、このような二分化の考え方を正統と理解してきたのです。しかしその理解の根底には、近代合理主義もあったように感じます。つまり、死後の世界については分からない、説明がつかない、さらに死後の世界と今のこの世の世界のつながりについては、いよいよ理解できない。だからそれは合理主義の範疇にないと、避けて来た事柄なのです。そういうわけで、いろいろな理由をつけて、この出来事は実際に起こった出来事ではないと、説明する福音派の神学者や聖書学者が多いのです。

 しかし私たちは、むしろこの出来事は実際に起こったことであると考えます。実際に起こった事柄だからこそ、サムエルとダビデの関係に大きく影響し、イスラエルの歴史に関わってくるのです。私たちには、この出来事を説明することはできません。生の世界と死後の世界に、どのような隔離線が引かれているのかも、良くわかりません。聖書はそれを説明していないからです。そのような場合、わたしたちがすべきことは、説明できないからと否定するのはなく、説明できない事柄として残すことです。聖書は明らかにそれを現実の出来事として取り扱っているのですから、そのように信じたらそれで良いのです。死から生き返った人々も聖書の中に数人は記されています。彼らも、死後の世界については一切語っていません、少なくても、聖書には記されていません。だからといって死者が生き返った物語は、否定されるべき出来事ではなく、生と死の境と死後の世界は、人間が知らないでいても良い事柄である。知るべき事柄ではないと考えるべきなのです。したがって、霊媒師によってサムエルが呼び出されたという事実は、事実として受け入れるべきですが、なぜ、どうしてという問題はそのまま残しておけばよいのです。

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 大切なことは、聖書がこれらの魔術や霊媒、あるいは占いの類を禁止しているという事実です。その禁止の理由は、それが迷信や架空だからというのではありません。ではそれらはなぜ禁止されたのでしょう

毅庁院^魔や悪霊とのかかわり

 禁止の理由として第一に考えられるのは、そこにはさまざまな悪霊との協力があるということです。これらのことを行う人々のほとんどは、悪魔や悪霊を呼びます。それが神々の名前であったり、死者であったりとさまざまですが、実態は、悪魔や悪霊とかかわりを持っているのです。行われる業自体には、人助けになり、社会に貢献するものもたくさん含まれていたとしても、悪魔や悪霊の最終目的は、人々を神から引き離し、迷いの中にいれ、滅びに陥れ、神の栄光にかげりをつけようとするものですから、それは神のみ前に憎むべき悪とされるのです。

毅庁  人間が関与すべきではない領域を犯す

禁止の理由の第二は、霊媒や降霊術が死の領域に関わって活動をするということです。霊媒師や降霊術者は、悪魔や悪霊との協力以外にも、私たちが立ち入るべきではない、生と死との領域に踏み込んでいるということが、関係しているのだと思われます。生と死との境界線には、私たちが知るべきではない、また知っても益にはならない事柄があるのでしょう。聖書は生と死の境界線については、ほとんど触れていないのです、しかし霊媒師、あるいは降霊師などといわれている人々は、なんらかの力で、つまり、自分の特殊能力や超能力により、あるいは悪魔や悪霊の関与により、それらを知り、いわば裏を掻い潜って仕事をしているのだと考えられます。それが見る者を惑わし、真の神から遠ざけ、さまざまな悪につながるというところが、あるのだと想像されます。

毅邸\蚕颪禁じていない不思議もある

 そういうところから考えると、トリックであることをはっきり宣言して行う、現代のショーとしての奇術、手品、あるいは言葉の上では魔術と呼ばれているものの、実態は奇術に過ぎないものも、聖書によって禁じられていると考える必要はありません。また悪霊の力とは関係のない、自分の中にある超能力を、良いことのために用いるのも、聖書が禁止しているわけではありません。犯罪者の潜伏先が分かったり、行方不明者の居所が判明したり、死体の発見につながるなら、その能力は大いに結構です。アメリカなどでは、さまざまな特殊能力を持った人々の助けを借りて、犯罪捜査なども行われ、相当の効果上げているという話ですが、今のところ、それは、裁判の証拠としては採用されないために、物的証拠を見つけ出さなければならないということです。理論整然とした説明も、物的証拠がなければ単なる状況証拠でしかなく、裁判では採用されないのですから、当然のことだと思われます。

 10年以上も前になりますが、津軽三味線の名人、竹山さんが弾くじょんがら節を、一度聞いただけで、見事にピアノで再現した人を、テレビで見たことがあります。竹山さんがすぐさま続き、ピアノと津軽三味線の見事な即興アンサンブルが出来上がりました。脳性麻痺で、知能は低く、まっすぐに立つことさえできないこのアメリカの青年は、確か、施設にあずけられていた赤子の時代に、クリスチャンの夫婦に引き取られて、育てられたのだと説明されていましたが、その音楽的才能はまさに、わたしには奇跡的と言うか、異常というか、超能力というか、とにかく尋常ではないと思えたものです。世の中にはさまざまな特殊能力を持っている人がいるものです。盲目の画家さえ存在します。その能力が良いことのために用いられるならば、おおいに結構だと思いますが、人を騙し悪い目的のために用いるのは、とうぜん良くないことです。 ただし、気をつけなければならないのは、このような超能力、あるいは特殊能力を駆使する人々の多くが、何らかの外部からの力、すなわち悪魔や悪霊どもの力を借りているということです。ですから、天使と呼ぼうが、マリヤ様と呼ぼうが、聖人と呼ぼうが、外部の力を借りる人々の業には、気をつけなければなりません。また、死者との交信をしたり死者の霊を感じたりする人々にも、たとえそれが事実であったとしても、警戒しなければなりません。

 筆者の個人伝道で救われた沖縄のおばあちゃんは、いわゆる霊媒師、祈祷師でしたが、クリスチャンになってからも、その霊的な能力を持ち続けていました。霊媒師、祈祷師の仕事は止めましたが、しばらくの間は、死者が見えたり、死者の語りかけを聞いたりしていたものです。それが本当に死者だったかどうかは別の問題ですが、ある種の特殊能力があり、霊的存在者に敏感であったことは事実です。さいわい、ペテロに叱られた魔術師シモンのような問題は起こりませんでしたが、もし、わたしがペテロほどの力をもって活動していたならば、同じことが起こったかもしれません。クリスチャンになりたての頃は、いろいろな点において分からないことばかりなのですから、彼らに対して、あまり厳しい見方をすべきではないと思います。ペテロの厳しい叱責も、むしろ、シモンに徹底した悔い改めの機会を与える、愛の鞭だったのではないかと感じるのです(使徒8:9−24)。

 筆者がフィリピンで住んでいたバギオ市の郊外から、直線で1km足らずのところに、手で内科手術をする人物として、日本でもテレビを始めさまざまなメディアで取り上げられ、一時、非常に有名になった男が住んでいました。もともとフィリピンには「アーブラリオ」と呼ばれる霊媒師まがいの、民間治療者がたくさん存在し(アーブラリオは薬草のハーブからきた呼称)、多くの医療行為をしているのですが、この人物の力はずば抜けていたといえます。当時のマルコス大統領も彼から治療を受けていたと言われ、フィリピン全土はおろか、アメリカやドイツ、さらには日本からも大勢の人々がチャーター機で訪れて治療を願っていました。 しばらくしてこの人物は亡くなりましたが、その後継者もかなりの力を発揮して、治療行為を続けていました。後継者の奥さんは日本人で、筆者も個人的に知っていました。日本では大きな話題となり、盛んに議論されたということですが、結局、それが文字通り素手による手術なのか、奇術によるまがい物なのか、判断がつかないままで終わったようです。フィリピンでも騙しごとと一笑にふしてしまう人々もいましたが、多くの人々がその治療を受けて治ったと証していました。日本で有名な高島易断の指導者によると、フィリピンはそのような霊の力が強い土地で、中でもバギオ市はその中心に当たるのだそうです。

 私たちの聖書学校の一つで、セブ市にあったインマヌエル聖書学校の門の前には、いつも朝早くから、長蛇の列ができていました。ココナッツ椰子の木陰にたたずむ粗末な藁葺きの家で、ひとりのアーブラリオが治療を行っていたからです。このアーブラリオは、当時、貧しい人たちからはほとんど治療費を取らず、野菜や果物、魚などのお礼をもって充分としていたようで、人々の尊敬を集めていました。ついでに言うなら、彼らはカトリック化した土着宗教を信仰土壌としていたために、ほとんどの場合、カトリックの聖人や、聖母の名前を呼んでいましたが、その実、土着の霊(アニトと呼ばれる)の力を呼び出しています。土着化したカトリックが強い、中南米でも同じ傾向が見られるということです。

 このようなことは、それぞれの土地の信仰形態により、呼び起こす霊や力の源となるものの名前は異なり、伴う儀式や祈りや呪文、あるいは用いられる小道具もまちまちです。仏教の強いところでは仏教的な、道教が強いところでは道教的な、ヒンズー教が強いところではヒンズー教的な色彩が強くなりはしますが、根本はアニミズム、日本の精霊信仰に近いもので、世界中いたるところで行われているのです。奇術の大会ならぬ、魔術の大会さえ催される土地もあります。そこではトリックは一切用いてはならないのです。文明程度が低いといわれる(何を基にして低いのか不明ですが)アジアやアフリカだけではなく、昔からキリスト教文化の強いヨーロッパやアメリカでさえ、このようなことはかなり広範囲に行われています。言い方を変えると、合理主義的教育が徹底し、近代科学主義がほぼ絶対のものとされて、キリスト教さえそれらに屈服して神の奇跡を信じられなくなっている土地、つまり「文明化された」と言われるこれらの土地においてさえ、社会の中に、また人々の心理の底辺に、アニミズムが根強く残っているのです。世界には多くの宗教と思想がありますが、基本的にまた圧倒的にアニミズムの世界なのです。

 聖書の世界観もまた、基本的にアニミズムであるということを、しっかりと理解しておかなければなりません。唯物的世界観でも自然科学至上主義の世界観でもないのです。合理主義的信仰、理神論的信仰に流されているクリスチャンたちは、唯物論的な見方を持ち込んで、聖書に記述されている奇跡の類は事実ではないと、さまざまな説明を試みますが、私たちはそれらを事実とみなし、何の不思議も不都合も感じません。わたしたちが捨てるべきなのは、アニミズムの世界観ではなく、創造主である唯一の神を礼拝するかわりに、創造物を礼拝する偶像礼拝です。たとえそれが天使だろうと悪魔だろうと、悪霊だろうと、聖人であろうと、マリヤであろうと、創造主以外を拝むのは被創造物を拝むことであり、偶像礼拝です。いつの時点かは不明ですが、天使たちの軍勢も、今は悪魔と呼ばれる霊も、また、それに従うようになった多くの霊も、もとはといえば、創造者であられる神に創られたものであり、神の世界に属する霊的存在ではなく、わたしたちと同じ被創造物に属する霊的存在なのです。その霊的な存在者たちは、この世界においても、私たちの間で、また私たちの中で活動しているのです。

 話を元に戻しますが、今、問題になっているのは、このような紛らわしい、まことの神と御使い以外の力に源を持つ、奇跡的な業や不思議が、教会の中で、またクリスチャンの活動の中で、公に行われてはいないかということです。それが無知によるものであれ、誤った善意によるものであれ、まったくの悪意によるまやかしであれ、行われてはいないかということです。

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 キリストの教えや働きからはっきりと分かるのは、キリストもまた、基本的にアニミズムの世界観を持っておられたということです。パウロが「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗闇の世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです」と、アニミズムの世界観で語ったように(エペソ6:12)、キリストの戦いも人間に対するものではなく、この闇の世の支配者たちに対するものでした。その霊の世界の戦いの中で、キリストは、その戦いに関係のあるいくつかの大切な言葉を残しておられます。  

A ご自分の権威と力が 神からのものであることの主張

 キリストは、ご自分が病を癒し、悪霊を追い出されたとき、それらの働きが神からの権威によるものであり、さらに聖霊のみ業であることをお教えになりました。パリサイ派の学者たちは、キリストが悪霊どもの頭の力によって、悪霊どもを追い出していると論じたてましたが、キリストは悪魔の家に内輪もめはないとおっしゃって、ご自分は神の聖霊の力によって、悪霊どもを追い出しているのだと主張されたのです。またそれは、基本的に神の国の到来を意味し、神の権威と力による支配の現れであると、お教えになりました(マタイ12:24−28)。

B ご自分の力あるみ業が 信じるべきしるしであることの主張

 さらにキリストは、ご自分を信じられない者は、そのみ業を見て信じるようにとおっしゃり(ヨハネ5:36、10:25、38、14:11)、バプテスマのヨハネがキリストに使者を送り、キリストが待望のメシヤであるかどうかと尋ねたときも、ご自分がなさっていたみ業で判断するようにとおっしゃいました(マタイ11:1−6)。 こうしてキリストは、み業にはしるしとしての積極的機能があることをお認めになりました。そのような理解を前提にして、聖霊による明らかなしるしを見ながらなおも反抗し続ける者は、聖霊を冒涜しているのであり、許されない罪を犯しているのだともお教えになりました(マタイ12:31−32)。

 このキリストの同じお言葉を、ルカはあえて異なった言い方で記しています。多分キリストは、もっと長い言い方でおっしゃったのを、マタイもルカも短くまとめて記しているために、書き方が異なったのだと思いますが、ルカはマタイが「聖霊」と記したところを、「神の指」と記録しています(ルカ11:20)。

 これは聖霊が、現代のこの世界で、神の具体的な働きをされる役割を負っておられることを意味しているように、受け取ることができます。その神の具体的なお働きを拒絶するようでは、信仰を持つことは困難であり、罪が赦されなくなるとおっしゃっているのでしょう。

C 同じ権威を弟子たちに賦与されたこと

 その上キリストは、悪霊を追い出し病を癒し、力ある業を行う権威を、弟子たちに与えるとおっしゃいました(マタイ10:1)。 そしてそのお言葉は、弟子たちの活動によって実証されました(ルカ10:17−20)。 また甦りの後、すべての権威を受けたキリストは、再び弟子たちに権威の委託をされています(マタイ28:18、マルコ16:15−18)。 これは単に弟子たちに対するものと考えずに、むしろいまや生まれ出ようとしていた、教会に対してなさったことであると理解すべきであり、教会がキリストから権威を委託されていると考えるべきです。したがって、教会は今もこの権威を持っているのです。

D 力ある業よりも救いを 喜ぶべきであると教えられたこと

 しかし、そのように力ある業を大切にされたキリストではありましたが、弟子たちがその力ある業のすばらしさに、あまりにも引き付けられてしまったときには、そのような業が、決して最も大切なものではないということを、明らかにされています。弟子たちは悪霊が追い出され、病が癒され、悪魔の権威が失墜していくのを見るよりも、自分たちの名前が天に記されていることをよろこぶべきだったのです。肉体の癒しや物理的な奇跡よりも、救いのほうがずっと大切なのです(ルカ10:17−20)。

E しるしを行うことを拒絶されたこと

 たくさんの病人を癒し、多くの悪霊を追い出し、数々の奇跡を行っておられたキリストでしたが、敵対する人々がしるしを見せるようにと迫ったときには、これを拒絶しておっしゃいました。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかは、しるしは与えられません(マタイ12:39、16:4、ルカ11:29)」。 一方ではご自分の力ある業が、信ずべきしるしであると主張されたキリストが、ここでは、しるしとしての業を行うことを拒絶しておられるのです。これは、荒野での悪魔の試みにおいても示された態度と同じです。悪魔が持ち出した三つの誘惑のうち、少なくても一つは、しるしだけを目的としたしるしを行うようにというものでした。それをキリストは断然拒否なさったのです(マタイ4:1−11)。

 ここで分かることは、キリストのみ業は、結果として、しるしとしての機能を果たすが、しるしを目的としたみ業は、行わないということです。つまり、キリストのしるしには、あくまでもそのしるしが行われるべき直接の必要性、妥当性というものが他にあって、そのために行われるのであり、しるし自体のために、それを見せるために行われるものではないということです。ですから、たとえ目を剥くような大きなみ業を行われたとしても、ご自分の時が熟していないときには、キリストはそれを人々話してはならないと命じて、しるしとしての機能を果たさないようになさっているのです(マタイ9:30、マルコ1:44、7:36、8:30)。

F 力ある業を行う人々を拒絶する可能性があること

 キリストがおっしゃったお言葉のうちで、もっとも衝撃的なものの一つが、つぎの一節です。「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇跡をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け』」(マタイ7:22−23)。

 キリストの名を用いて語り、キリストの権威を持って、さまざまな良い業を大々的に行っていても、キリストはその日、彼らに向かって「お前たちを知らない。私から離れよ」と、厳しいお言葉で退けてしまわれるのです。 それらの人々の中には、誠心誠意キリストに従っていると、思い込んでいた者もいたはずです。あるいは、まったくの偽りもので、始めから毒麦として入り込んでいたものかも知れません。ただ、キリストのお言葉からは、自分たちが毒麦であることを、彼らは自覚していないように読み取れます。とにかくそのあたりの細かいことは不明だとしても、明白なのは、大きな業を行っていることが、そのまま、キリストの承認を受けていることの証拠にはならないし、キリストの弟子であることの証明にもならないということです。言い換えるならば、業それ自体では、何の証拠にも証明にもならない言うことです。

G 力ある業や不思議で選民をも惑わす者たちが出現すること

 もうひとつ衝撃的なものを挙げると、「にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます」というキリストのお言葉があります(マタイ24−24)。 ここでは、これらの偽者たちが、本物たちよりもむしろ大きな力ある業を行うようなのです。しかもそれは、キリストや預言者の名をもって行われるのです。それで、選民たちまで騙されてしまうのです。この「選民」という言葉は、直接的にはユダヤ人を指すものだと考えられますが、クリスチャンにも適応されると考えると、非常に恐ろしいものです。ユダヤ人も、クリスチャンたちも騙される可能性があるのです。あたかもキリストであり、預言者であるかのように語り、行動するのでしょう。なかなかその本質を見抜けないほど、巧妙に騙し続けるのでしょう。そしてその騙しのテクニックの中心が、大きなしるしや不思議を見せることなのです。

 大切なのは、彼らが正真正銘の預言者であると宣言し、正真正銘のキリストだと語っても、そして彼らがどのように大きな業を行い、どれほど多くの信奉者を集めていたとしても、それを信じてはならないことです。つまり、またもや同じことですが、業それ自体では、何の証拠にも証明にもならないのです。また、彼らが自分たちをどのように言いふらしていても、まったくあてにはなりません。彼らは偽り者であることを自覚して偽り、だまそうとして選民さえだますのですから、本物よりも本物らしいのでしょう。ですから彼らの教えや活動も、とにかく本物に似ているはずです。クリスチャンは、非常に注意深くなければなりません。大きな警鐘です。

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 不思議や力ある業についてのキリストのお言葉について、簡単に見てきましたが、ここではそれらのキリストのお言葉をも含めて、もう少し聖書全体から関係ある教えや記事を探し出して考察してみましょう。

A しるしとして機能する業 

 聖書に記されている、さまざまな奇跡的業を注意深く観察すると、それらは、いくつかに分類されます。

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 旧約時代の業のほとんどは、しるしとして機能しました。この頃のみ業のほとんどが、神観念の低いというか、神様についてあまり理解をしていない人々を対象に、行われていたことがわかります。

 まず神様がモーセに現れてくださったとき、燃える芝の不思議を見せてくださいました。それは、神観念がまだまだ曖昧だったモーセに対する、神の自己紹介でした。神のことを充分には理解していなかったモーセに対し、神は、ご自分の力を示すために、モーセの杖を蛇に変えて、またそれを元通りにしてくださり、さらにモーセの手を雪のように白くし、元通りに直してくださったのです。パロの前で行った蛇の奇跡は、モーセに対しては、神が約束をお守りになる神であることの証明でしたが、それ以上に、神のことをまったく知らないパロに対する、神の自己顕現であり、異教の神々、あるいは異教の呪術に対する力の対峙でした。

 ここまでの奇跡的業は、みな業そのものの必要性があったわけではなく、ことごとく、しるしを目的としたものでした。 そしてそれに続く10の災いの業も、パロとエジプト人に対する神の力のしるしであったと同時に、イスラエル人に対する神の自己啓示であり、力を示し、信頼に足る方であることを示すしるしでした。エジプトに対する神の刑罰という側面はあったとしても、これらの奇跡も、業それ自体に大きな必要性はなく、しるしを目的としていたと判断されます。

 その後の火の柱と雲の柱は、カナンへの道を知らなかったイスラエルを導くためのものであり、また明らかに、追跡してくるエジプトの軍勢をイスラエルから隔てておくためでした。しかし、それはイスラエルの人々への、神の臨在の強いしるしとなりました。 これから後の、紅海が分かれる奇跡、苦い水が甘い水になる奇跡を始めとする数々の奇跡は、みな、直接的にはイスラエル民族を助けるための奇跡ですが、すべて、神観念の低いイスラエル人への神の自己顕現として、教育的な目的を持つしるしでした。イスラエルの民は、常に周囲の民族の異教文化に影響されて、偶像礼拝に陥る危険の中にいましたので、神は、ご自分こそ力ある神であることを、教え続けなければなりませんでした。そのために、たとえばエリコの城壁を崩すというような、スペクタクルなことを敢えてやってくださったのです。神様は、もっと自然な方法でイスラエルに勝利を与えてくださることもできたはずですが、イスラエルへの目に見えるしるしとして、城壁を崩してくださったのです。

 ギデオンに現れてくださった神は、まさに、しるしのための業、しるしとしての目的以外に、何の目的もない業を行ってくださいました。2回にわたる夜露のしるしです。これも、神様に対する知識と信仰が足りなかった、ギデオンに対する神の自己顕現です。一般に神観念、神の理解が低かった、旧約時代の初期においては、神は敵対するものに対する力の誇示としてだけではなく、お用いになる「神の人」への励まし、勇気付けの自己顕現もしなければなりませんでした。

 列王記や歴代史の時代にも、神は、いくつもの奇跡を行っておられます。直接的には、イスラエルの必要にお答えになる形ですが、神が力の神であり、救いの神であり、哀れみを持って助けてくださるお方であることを示す、しるしとしての機能を持っていました。バアルの預言者たちと争ったエリヤに、火をもってお応えくださったのも、明らかな力の対峙で、しるしの機能をもったものでした。バビロンの捕囚時代の神も、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴが、ネブカデネザル王の命令に背いて金の像を礼拝しなかったとき、彼らを七倍熱く焼かれた炉から守り、ペルシャ王ダリヨスの時代には、ライオンの穴に投げ込まれたダニエルを救い出してくださいました。これらも、イスラエルの神がまことの神であることを、王たちをはじめ、一般の人々にも広く知らせるためのしるしとして、役割を果たしました。 旧約時代の多くの業の特徴は、このように、しるしとしての機能を持っていたということです。それは、人々の神観念の低さを考慮してくださった、神の対応でした。

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 キリストも数々の奇跡、力ある業を行ってくださいました。キリストが行われたみ業はすべて、聖霊の力によるものであり、神のみ姿を一時的とはいえ放棄なさった、第二神格の神の力ではなく、第三神格の神であられる聖霊の力によるものです。キリストは私たちと同じ人となり、聖霊の力なしには、大きな働きをすることができない方になってくださったのです。そしてキリストのみ業の特徴は、神を知らない人々に対して神の力を見せることではなく、神について充分理解しているイスラエル人に対してのものであり、彼らが待ち望んでいた、神の国がすでに到来していることの証明でした(マタイ12:28)。 それはとりもなおさず、その業を行っている人物が、神の国の王であり、キリストであることの証拠でもあったのです(マタイ11:1−6)。

 ラザロを蘇生させるという奇跡は、キリストがご自分のみ業を、しるしとして、最大限に用いようとなさったことが示されています。キリストはラザロが死にかけていることを良くご存知の上で、わざわざ、ぐずぐずと出立を遅らせて、ラザロが死んで4日もたってから、彼の墓にお着きになったのです。ラザロの体はすでに腐り始めていました。人々はそのことを良く知っていました。ですから、ラザロの蘇生は単なる蘇生、時として見られる自然現象の蘇生でも、小さなショックを与えて生き返らせる蘇生でもなく、現代的な言い方をするならば、「肉体のすべての細胞が死んでからの」、絶対に不可能な奇跡として、人々に伝えられていったのです。とくにこの奇跡は、死をも打ち破ってくださるキリストの力を示し、キリストが死を超えた救い主であることを、証明したものです。それは、間もなく起こるキリストご自身の復活に対して、心の準備をさせるものであり、約束された永遠のいのちに対する、希望を持たせるものでもありました。キリストはそのようなことを見越した上で、出立を遅らせることになさったのです。

 キリストの奇跡的み業を調べると、ご自分の弟子たちだけを対象としたものが、いくつかあります。たとえば、嵐を鎮めたこと、水の上を歩かれたこと、魚の口から金貨が出ることを予告なされたこと、ロバの子がつながれていることを知っておられたこと、などなどです。これらは、キリストの弟子とは言え、やはりキリストに対する理解と信仰に、まだ、はなはだ不充分なところがあった彼らに対して、教育的な意味を持っていました。その意味では、キリストがいらっしゃらなかった時につぶやいたトマスの言葉を、キリストがよくご存知だったことは、その教育的目的を大きく果たすことになりました。トマスは「私の主。私の神」と告白し、この期に及んで、改めてキリストを神として礼拝したのです(ヨハネ20:28)。このように、キリストのみ業の多くも、しるしとしての機能を持っていたのです。

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 使徒の時代の最初の奇跡は、神殿での足なえの癒しでした。これもまた、大きなしるしとして機能しました、この場合、この癒しが証明したのは神の力でも、キリストの力でもなく、キリストの甦りであり、キリストが死に打ち勝った救い主であるという事実でした。また、教会がキリストの権威を持っているということでした。

 その後の奇跡も、キリストの蘇りが真実であり、教会と共に働いておられるというしるしでしたが(マルコ16:20)、パウロの異邦人宣教の開始から、また異なった意味でのしるしとなって行きました。それはあたかも旧約時代にもどったかのようです。つまり、異邦人宣教の中での奇跡は、神観念の低い異教の人々に対する、真の神の力の証拠として、力の対峙の形で行われているのです。パウロたちは、異邦人宣教の最初の場所として行ったキプロスにおいて、バルイエスという魔術師に遭遇し、彼の目を見えなくしてしまいます。これがしるしとなり、その地の総督、セルギオ・パウロは真の神を認め、キリストを信じるようになりました(使徒13:4-12)。 彼らが、福音宣教旅行の中で行っていた癒しや奇跡の業は、彼らが語る福音の真実性を証明するものとなったのです(使徒14:3)。 

 しかし、使徒たちの宣教においては、癒しや奇跡自体では、しるしとしての役割を充分に果たすことがありませんでした。あくまでも、まず明確な福音の提示、宣教の言葉があって、それを補佐するものとして力があったのです(使徒14:8−18)。福音の明らかな提示のない奇跡は、異教文化の偶像礼拝の中に、埋没してしまうのです(使徒14:8−18、28:1−10)。

 面白い出来事は、エペソにおけるユダヤの祭司長、スケワの7人の息子たちにまつわることです。彼らはユダヤ人であり、祭司長の息子でありながら、異教の習慣に染まって魔よけ祈祷師をやっていたのですが、パウロたちがやっていることをまねして、キリストのみ名によって悪霊を追い出そうとしたのです。ところが悪霊たちは、「イエスもパウロも知っているが、お前たちは何者だ」と言って、彼らに飛びかかり、裸にして傷を負わせて追い出したのです。この出来事は多くの人々の知ることなり、主イエスのみ名があがめられるようになりました(使徒19:11−20)。 このように聖書に記されている多くの奇跡的な業は、明らかにしるしとしての役割を持っていました。また、たとえそれを直接の目的としてはいなかったとしても、結果としてしるしとしての役割を果たしていました。

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 しかし一方でキリストは、さまざまな奇跡的業が、しるしとしての役割を果たさないことがあることも、はっきりとお教えになりました。すでに触れたように、キリストは、ご自分の名によって悪霊を追い出し、奇跡をたくさんおこなった人々を、終わりの日に拒絶する可能性があることをお告げになりました。また、偽キリストや偽預言者が出現し、大きなしるしや不思議なことをして、選民をも惑わすと警告しておられます。この事実は非常に大切です。そのことがいつ起こるかという点は、確実ではありませんが、一般的な事柄としては、いつでも起こりうると考えておくべきだと思われます。 そして、これらのお言葉からはっきりと分かることは、神の言葉を語ったり、悪霊を追い出したり、奇跡を行ったりすることは、キリストの弟子である保証にも、神に用いられていることの証明にも、またその業の背後に神がおられるという証拠にもならないという事実です。

 キリストは、一方では業がしるしとなることを積極的に認め、これを利用し、ご自分を信じることができないものは、そのみ業を見て信じるようにと、おっしゃいましたが、他方では、業それ自体では何の証拠にもならないと、おっしゃっているのです。 また、そのようなしるしとはなりえない業を行う者たちにも、二種類あることもわかります。ひとつは、自分がキリストの弟子であると信じている人々です。彼らは、自分たちが、キリストがお教えになったことを教え、キリストが行われたことを行っているから、キリストの弟子であるに違いないと思い込んでいました。

 そんな彼らを、キリストが退けられるには、いくつかの理由が考えられます。ひとつは、彼らの信仰が間違っていることです。つまり、キリストの贖いを、自分のものにできないでいたことです。それから、倫理的にキリストの御心から大きく外れていたことです。理屈としては正統な信仰を持っていたかもしれないけれど、聖霊を内に宿す経験をしていなかったということです。また、一時期は正しい信仰と正しい倫理によって歩んでいたけれども、信仰の道を踏み外していたということも可能です。さらに、キリストの教えを断片的には正しく教えていても、全体的には大きな間違いを犯し、真理から遠ざかっていたということも考えられます。どちらにしても、この種の人々に従ってはならないのです。

 もう一つの種類はさらに悪質で、最初から人を欺く目的でいろいろな業を行う、偽キリストや偽預言者です。彼らは自分がキリストの弟子であるなどとは、はなから思っていません。もともと、キリストや預言者を装って、人々を騙そうとしているのであり、その目的のためには手段を選ばず、さまざまなテクニック、超能力、さらには霊的な力を用いるのです。現在テレビなどで盛んに行われている奇術や魔術の業を用いるならば、非常に多くの人々を騙すことができることでしょう。たとえば、ペテロに叱られたシモンも、そのようなテクニックをも駆使して、自分を大きく見せていたということも考えられます(使徒8:9−24)。

 金を出して、聖霊のバプテスマを与える力を買おうとしたところなど、ありそうな話です。また超能力者ならば、かなりの線まで人々を騙し続けることができるでしょう。さらに、悪魔や悪霊と手をつなぐならば、大群衆や選民たちまで、騙すことができることでしょう。

 自分はキリストの弟子であると思い込んで業を行っていながら、その実、そうではなかったという人々と、最初から偽者であることを自覚し、人々を騙す目的でやっている人々を、本物のキリストの弟子から判別する作業は、困難を極めます。これは一般の信徒たちに限らず、伝道者や神学者にとっても同じです。その困難さは、キリストも毒麦のたとえでお話しになっている通りですから、私たちは、これに対しては、非常に注意深くあたらなければなりません(マタイ13:24−30)。

  しかし牧師たるもの、ただ困難だといって言い訳をしているわけにはいきません。群れを守る役割を与えられている牧者として、最善を尽くさなければならないのです。特にペンテコステ信仰に立つ私たちは、奇跡的な業を信じているために、多くの福音派の牧師のように、奇跡的業をことごとく否定したり、悪魔からのものと断定したりして済ませることはできません。ただ、偽キリストを判別するのは、しっかりと聖書を学んでいる人には、比較的易しいことのように思われます。偽キリストは、聖書を知らない一般の人々、あるいは新約聖書を認めず、いまだに旧約聖書の独自の解釈から想定されるキリストを待ち望んでいるユダヤ人に、受け入れられることになるでしょう。

 またすでに触れたことですが、キリストは、ご自分がなさった力あるみ業を、人々に知られないようにするために、「だれにも言ってはならない」と、お命じになったことが幾度かあります。人々に知られたならば、しるしとして効果を発揮したであろうものを、キリストは敢えて人々からお隠しになったのです。それはキリストの時がまだ来ていなかっただめです。 キリストは、ご自分のみ業に興奮した人々が、無理やりにご自分を担ぎ上げて王にしようとする、不穏な動向を予め知っておられました。キリストの主だった反対者は、ユダヤの指導者たちで、彼らも自分たちの国家の独立を望んでいたとはいえ、最大の心配は、むやみやたらに暴動が起こり、結果として、宗主国であるローマの駐屯軍が鎮圧に乗り出し、国家が蹂躙され、弱体化してしまうことでした。彼らは、この時点でローマと一戦を交えるのは、なんとしても避けたかったのです。そこで指導者たちは、できるだけ早く、キリストを亡き者にしようと画策していたわけです(このときからおよそ40年後、ユダヤ人はローマに反旗を翻して立ち上がりましたが、完全に敗北して、紀元70年、国家としてのユダヤはここで完全に崩壊し、歴史から姿を消してしまいました)。

 そういうわけで、キリストのみ業が多くの人々に知られ、人々の期待と興奮が、あまりにも早いうちに沸騰しては、キリストが地上においでになった使命をやり遂げる前に、死を迎えるはめになりそうだったのです。キリストはそれを回避するために、人々の口に鍵をかけようとなさったわけです。キリストは、癒しなどの奇跡のみ業の必要性を認めながら、そのしるしとしての効果をお嫌いになったのです。

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 業には、確かにしるしとしての効力も、しるしとしての目的もありました。今まで学んだところから分かるのは、業のしるしが必要であると認められている人々と、認められていない人々がいるということです。

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 まず、しるしを必要としていると認められ、業がしるしとして与えられているのは、基本的に、神の概念の低い未信者や、福音理解の乏しい人々であるという事実を、理解しなければなりません。 すでに学んだように、イスラエルの歴史の初期において、人々の神観念と信仰理解が非常に幼かったとき、しるしは、真の神が誰であるかということを悟らせるために、大きな意義を持っていました。しかし、イスラエルの神観念が発達し、信仰理解も深まるにつれて、しるしの目指すところ、すなわちその業が何のしるしになるのかという点において、変化が起こっています。

 キリストの時代になると、ユダヤ人はすべて偶像礼拝を捨て、基本的に真の神を知るようになっていましたので、以前のような目的のしるしは、不要になってしまいました。かわりに必要となったのは、キリストが神の権威を持っていること、神の国(神の支配)が現実に到来していることを示すしるしでした。 それから使徒時代になり、福音が異邦人の世界に及ぶ前に、特異なしるしが人々に与えられました。それは神殿における足なえの癒しです。この癒しは、キリストが甦って働き続けておられることを、人々に認めさせるしるしとなりました。そして、福音が異邦人に及ぶに至って、また、神観念の低い異邦人に真の神を知らしめる必要が起こり、力の対峙の形でしるしが現れています。  

 40年ほども前になりますが、当時沖縄で活動していた筆者の近くに、すでに相当高齢の牧師が住んでおられました。この牧師は「ユタ」と呼ばれる、沖縄独特の女性霊媒師について研究していたのですが、実際、時折ユタたちの総本山のような場所に出向き、彼女たちの活動の様子を観察していたものです。するとあるとき、ユタたちが牧師の前に来て、「あなたの背後にいらっしゃる大きな神様を恐れて、私どもの神様が降りて来ることができません。どうか、この場を離れてくださいませんか」と、丁重にお願いしたというのです。この牧師はペンテコステ信仰とは程遠い方でしたが、その真摯な信仰態度に、わたしはとても感動していたものです。牧師は力の対峙などしようと思ってもいなかったようですが、霊的次元ではそれが起こっていたのです。力の対峙は、福音の未開地、特にアニミズムの強い文化では、かなりの効果を持って福音宣教の支援になると考えられます。キプロスでクリスチャンになったセルギオ・パウロの場合と同様のことが、現代でも起こっているのです(使徒13:4−12)。

 たとえば現在、第三の波と呼ばれる新しいペンテコステ運動で活躍している人々の中には、もともと、現代の奇跡などを信じることができない、伝統的信仰を持っていた人々がたくさんいます。彼らの多くは、宣教師としてアニミズムの強い文化背景に入り、そこで、ペンテコステ系の人々が行っている、キリストのみ名の権威による癒しや奇跡を見て、信仰理解や神学を変えたと語っています。 さらに、当時のキリストの弟子たちも、しるしを必要としていました。弟子たちの理解の遅さ、信仰の幼稚さを補足するためには、どうしてもしるしが必要でした。弟子たちは、わずか3年と少しの訓練期間の後には、キリストの弟子として、福音宣教と教会設立の大役を、担わなければならなかった上に、ある者は、さらに、新約の啓示を記録する重要な役割さえ負わされていたのです。彼らの神観念そのものは、ユダヤ人として、当然、かなり高度になっていましたが、ナザレのイエスこそ、国民全体が数百年も待ち続けていたキリストであるという、理解と信仰はまだまだ不充分でした。

 ここで確認しておかなければならないのは、当時の彼らには、まだ奥義が明らかにされていなかった、すなわち新約時代の啓示がまだ与えられていなかったという事実です。神の贖いのお働きを体系的に教える新約聖書が、まだ書かれておらず、キリストがお語りになったことを解き明かしてくださる、聖霊のお働きもまだ始まっていなかったのです。したがって、たとえ3年半にわたって、キリストと寝起きを共にした内弟子であっても、彼らの福音全体の理解程度は、現在の私たちに比べても、ずっと低かったのです。キリストが昇天するその日にいたっても、まだ、「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか」などと、的外れなことを言っているのです。この期に及んでも、弟子たちが期待していたのは、イスラエル国家の再興と、キリストが王座に付くことであり、あわよくば、自分たちが右大臣左大臣に任命されることだったのです。

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 ところが、甦られたキリストは、キリストの甦りをどうしても信じられなかったトマスに向かい、「あなたは見たから信じるのか。見ないで信じるものは幸いである」と、おっしゃいました。キリストの3年半に及ぶ訓練期間が終わる頃には、弟子たちは、見て信じる信仰から、見ないで信じる信仰へと、成長していなければならなかったのです。すくなくても、キリストはそのように望み、期待しておられたのです。 ところが、キリストのよみがえりを信じられず、目で見、手で触れるものを信じるという、実証主義を採ったトマスは、さしずめ、現代の科学者を代表するような考え方をしています。それに対し、キリストが彼らに期待しておられた信仰は、蘇りという信じ難い出来事でさえ、甦られたキリストを実際に見て信じるのではなく、甦るはずだと待ち望み、甦ったと聞いてすぐさま信じる信仰だったのです。旧約聖書をしっかり学び、キリストの教えを総合的に理解していれば、甦りは信じられないような、突然の出来事ではなく、期待しながら待ち望むべき、神のご計画だったのです(ルカ24:25−47)。

 残念ながら、当時の弟子たちもみな、現代の私たちと同じ不肖の弟子で、この、「そうあるべきだった」信仰の地点までは、到達できずにいたのですが、少なくても弟子たちは、そのような信仰を期待されていたのです。彼らは本来、しるしを必要としない人々に、なっているべきだったのです。 さらにキリストは、パリサイ人や祭司たち(サドカイ人)さらには律法学者などの、ご自分に敵対する人々には、しるしの必要性を認めていません。その理由は多分、まず、彼らは信じないこと、受け入れないことを前提として、しるしを求めていたことです。どのようなしるしを見たとしても、受け入れないと決心しているものには、無駄というものです(ルカ16:31)。 また、彼らは旧約聖書の専門家でした。彼らは聖書を学んで、キリストについての正しい知識を得ているべきだったのです。そうすれば、しるしを見なくてもキリストを信じることができたはずなのです。

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 さて、大切な問題は、現代の私たちにはしるしの必要性が、認められているかどうかということです。認められているとするならば、なぜそういえるのか、認められていないとすれば、いかなる理由からか、考えてみましょう。

牽繊仝渋紊砲けるしるしの必要性

 日本は異教文化です。パウロが異邦人宣教を行ったときと、基本的に変わりません。もちろん、人々は非常に合理的な、あるいは科学的なものの考え方をしています。したがって、パウロの時代の異邦人のような、迷信深い考えかたはしていませんし、世界観も当時の人々の世界観とは異なっています。 しかし先にも触れたように、日本人には、精神的二重構造ともいえるものがあって、一方では非常に科学的なものの考え方をして、神を始めとして、あらゆる霊的な存在を否定する傾向がある一方で、その同じ人間が、折に触れては神社仏閣に詣で、運勢占いに一喜一憂し、霊媒師や占い師のもとをたずねるのです。進化論を正しいと信じていながら、幽霊だの、背後霊だの、あるいは前世だのを信じているのです。その様なものが、進化の過程のどの時点で、なにから進化して発生し、どのように現れてきたのか説明してほしいものですが、一般の日本人は、それで矛盾を感じていないのです。

 現代の日本も、基本的にアニミズムの世界なのです。多くの人々は科学とは別の次元で、何らかの霊的な、あるいは超科学的な力が働いていると、信じているのです。 このような人々の間では、まだまだしるしと不思議による働きは効果があります。まじない師や占い師、あるいは宗教家たちが不思議や奇跡を行っている場面に遭遇し、どうしても力の対峙が必要な場合には、不思議や奇跡による力の対峙もあり得るでしょう。またなければなりません。福音は、特に異教世界においては、賢い言葉だけによるのではなく、力によって伝えられなければならないのです(ローマ15:19、I テサロニケ1:5)。

牽臓仝渋紊砲けるしるしの可能性

 では、日本では不思議やしるしが多発すべきかというと、考えなければならない点がたくさんあります。まず日本の文化が、そのようなしるしを求めているかということです。日本の大衆は、興味本位の、不思議や奇妙なものは、娯楽として、話の種として求めていても、真実なもの、信頼性のあるものとしては、あまり求めていません。占い師や霊媒師に伺いをたてることがあっても、それを真実に重んじる人はわずかです。そのようなものと力の対峙を行ったところで、単に好奇心を満たすだけのことに終わり、真実なもの、信頼性のあるものという感覚からは、かえって離れてしまうという欠点があります。

 もしも私たちの周囲で、モーセのときのように、持っていた杖が蛇になったり、手が白くなったりしたならば、あるいは蛇になった杖が、もう一匹の蛇を飲み込んだりしたならば、見世物としては、大いに面白いでしょう。しかし、信頼性という意味では、まったく欠けてしまいます。街頭の奇術師でも、その程度のことはするでしょう。天地創造の神が、奇術のレベルに失墜するのです。神の救いの歴史が、珍奇な見世物に成り下がってしまうのです。これではしるしがしるしとして役に立ちません。

 ですから、そのような形での力の対峙や不思議、あるいはしるしは、神観と共に、すべての物事に対する理論的な思考ができなかった時代に、限られていました。聖書を読むとそのような形のしるしが行われたのは、旧約時代の初期から中期に至るまでで、その後は行われなくなっています。イエス様も、悪魔の試みの中の一つがその種のしるしの要求だったことに対し、断じて拒絶なさいました。同じ異教の文化の中での働きであっても、使徒の働きの記録の中には、しるしだけを目的としたしるしは出てきません。したがって、その種のしるしは旧約時代の初期に限られていたと、判断して良いでしょう。現代の世界で、人々の世界観や神観、あるいは思考力というものが、旧約の初期の時代と同じような文化があるならば、その中において、しるしを目的としたしるしもまたあり得るかもしれません。しかし、日本の文化の中では、まずあり得ないことでしょう。

 一方、新約聖書の記述を読むと、キリストも使徒時代の弟子たちも、多くの癒しや悪霊の追放を行い、それが結果として良いしるしとなっています。弟子たちの信頼性、あるいは彼らが語る福音の真実性は、彼らに伴って行き、共に働いてくださった聖霊のみ業によって、すなわち、癒しや悪霊追放を始めとする、聖霊のお働きによって、証明されていったのです。そのような形での聖霊のみ業に対する必要性は、今もたくさん存在します。医学が発達し、多くの病気は医学的な治療で治るようになりました。しかし、まだまだ奇跡的癒しの必要性は残っています。また、たとえ医学が発達したとしても、結局、癒してくださるのは神であって、薬でも、人間の手でもありません。医者だけに頼って、神に頼ることを忘れたために、結局、死ななければならなかったアサ王のようになってはいけないのです。

牽叩仝渋綟本人クリスチャンに対するしるしの必要性

 さて、ここで問題なのは、現代の日本に住むクリスチャンに、果たしてしるしが必要かということです。癒しや奇跡、悪霊の働きに対する勝利というものはあり得るし、なければならないでしょう。そしてそれらは結果として、福音の信頼性を増し、神に対する信仰の強化につながることでしょう。しかし、いまの私たちの信仰に、しるしは必要なのでしょうか。

 最近のペンテコステ系の人々の一部で、話題となりもてはやされたりしている、金歯が生えてきたり、銀歯が金歯に変わったりすることには、何か意義があるのでしょうか。なくなっていた歯が生えてきたり、ひどい虫歯が健康な歯になったり、歯痛がなくなったりしたのなら、それなりの意義があることでしょう。あるいは集会の中で、金粉が降って来たり、金粒が落ちてきたりすることに、必要性があるのでしょうか。そのようなことを宣伝し、報道する必要があるのでしょうか。豊かな「キリスト教国」の、「繁栄の福音」の犠牲になっている発展途上国で、今にも飢え死にしそうな子供たちの上に、食べ物が降ってきたというなら、素晴らしい奇跡かもしれません。報道の価値があるともいえるでしょう。

 少し前に、拙文をこのサイトで読んだ牧師から電話がありました。この牧師の教会に出席していた信徒の親が、金粉だの金粒だのが降る集会に出席して、驚き、子供たちまで連れてそこに出かけるようになったために、結局、その信徒はそちらに捕らえられてしまったということです。このようなしるしとしてのしるしが、日本の、クリスチャンたちの間で行われ、もてはやされているという事実に対し、私たちはどのように考えるべきでしょう。 「そうですか。今度は金粉ではなく、金の粒ですか。重くなったんですね。私もそこに出かけて拾い集めたくなりますね」とお答えしましたが、果たしてそれがまさしく金だったのか、金色に光る物体だったのか、あるいはあたかも金が降ってくるように見えた現象なのか、詳しいことは知りません。しかし、こうなると、ばかばかしくて話にもなりません。

 すでに学んだように、このような、他に明確な必要性のないしるし、しるしだけを目的としてしるしは、旧約時代の中期にはすでに終わっているのです。現代の日本人クリスチャンは、旧約時代前期の、神を知らない人々と同じ精神構造になってしまったのでしょうか。 神に不可能はありません。金粉や金粒なんぞとみみっちいことは言わず、金塊だって、ドーンと、1トンもある金のかたまりだって降らせることがおできになります。ダイヤモンドだってサファイヤだって、降らせることが可能です。でも神様は、今はそのようなことをなさらないのです。

 現在の私たちの周囲に起こる不思議や奇跡は、必ずそれ自体の必要性があって行われ、それが結果としてしるしになるのです。神にはできるということと、神がなさるということの間には、大きな違いがあるのです。筆者にも、人殺しができますが、筆者は人殺しはしません。できるけれどしないのです。 さらに、現代の私たちには、完結した啓示と霊感の書が与えられ、また、その書を正しく理解できるように、聖霊の助けも与えられているという事実を、思い起こさなければなりません。私たちには聖書があり、聖霊の照明と、聖霊の証印が与えられているのです。もしも、キリストの弟子たちが、トマスに求められたように、訓練の終わり頃には見て信じるのではなく、見ないで信じることを求められていたとするならば、神の救いのご計画全体と、三位一体の神のそれぞれの神格のお働きについて、明らかに記している聖書が与えられている現在、そのうえ、聖霊が解き明かし、証をしてくださっている現代に生きる私たちには、なおのこと見ないで信じる信仰が求められているのです。

  それにもかかわらず、いまさら、しるし以外になんの目的もないしるしを期待するのは、実におろかなことです。また、そのようなしるしを見せられることが、偉大な神の働き人であることの証明であるかのように考えるのも、実に愚かなことです。そのようなしるしを行う人々を、神の人とあがめるのも愚かである以上に、危険なことです。

后ゝ兇蠅陵存声

 さて、もしも現在、純然たるしるしを目的としたしるしを行い、それを宣伝している、あるいは人集めの道具にしている者がいたとするなら、私たちは彼らについて、どのように考えるべきでしょう。実際、そのような伝道者や牧師、教師や宣教師、さらには使徒だとか預言者と自称している人々がいるということなのです。

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 その種の人々がいたならば、まず私たちは警戒をしなければなりません。神の名を騙って、神のみ業ではないことを行っている可能性が、非常に高く、そこには単なる間違い以上の、悪意を感じるからです。神がそのような不思議や奇跡、あるいはしるしに関わっておられないとしたら、彼らは、何の力でそのようなことをしているのでしょう。テレビで行っている手品や奇術と同じでしょうか。あるいは超能力でしょうか。はたまた、悪霊どもの力によるものでしょうか。いずれにしろ、神の名を騙っているのです。善意で行われているのではないのです。

 ただし、そのような人々と行動を共にしていたり、交わりを持っていたりする人すべてが、同じなのではありません。彼らも騙されている可能性が高いからです。とはいえ、それらの人々や、それらのグループ、あるいは彼らの行う集会などには、警戒心を研ぎ澄ませるべきです。そして、誰が指導者か、誰が中心的働きをしているのか、しっかりと見極めなければなりません、

 騙されている可能性の強い人々にもいろいろあって、ある人々は、かつて福音派の信仰を持っていたけれども、自分たちが否定していたペンテコステ系の人々の働きと業を実際に見て驚嘆し、ペンテコステ的な考えを持つようになったものです。彼らは自分たちもまた、イエスのみ名によってさまざまな癒しや奇跡を行うことができることを発見し、有頂天になり、少々極端に走っているといえます。いわゆる、先に触れた通り、第三の波運動に属する人々の多くがこれに相当します。70人の弟子たちが帰ってきて、み名によって命じると悪霊どもでさえ従うことに、すっかり興奮していたとき、キリストは、そのようなことで喜ぶのではなく、自分たちの名が、天に記されていることを喜ぶようにと、まあ、ちょっと頭を冷やし、何が最も大切なことかを確認させました。同じことが彼らにも言えます。彼らは現代における奇跡を否定していた極端から、奇跡に舞い上がる極端に、いわば、時計の振り子のように振れているのです。私たちは彼らが頭を冷やすことを願っています。

 この人々の欠点は、聖書をしっかり学ばず、自分たちのかつての神学の上に、表層的な現象主義的な聖霊論を乗っけただけの、中途半端な理解をもって満足していることです。これらの人々がかつて学んだ改革派系の神学に、聖霊論をくっつけても、竹に木を接ぐようなものです。バプテスト的な神学でも、ウエスレアンの神学でも、同じです。もう一度、自分たちの神学を離れて、純粋に聖書から学ぶ必要があります。  

坑臓〃找すべき人々

 今、私たちが最も警戒しなければならないのは、これらの人々としばしば行動を共にしていながら、これらの人々とは異なった部類に属する者たちです。彼らは始めからペンテコステ系の、極めて異端に近い人々、あるいは異端というべき人々の中から、あるいはそのような人々との交わりの中から生まれてきた者たちです。

 それはいわゆるレストレーション運動、後の雨運動、あるいは預言運動の人々です。レストレーション運動は、その胚芽期にすでにアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団からは公式に否定され、1948年の組織運動としての誕生の直後にも再び否定されたものですが、現在、第三の波系の人々と渾然一体化しながら、非常に活発に活動し、ペンテコステ系の教会はもとより、多くの教会に悪い影響を与えています。後の雨の人々、あるいはその影響を受けている人々を見分けるのは、比較的に簡単です。今のところ、彼らの用いている言葉が独特だからです。それらの言葉に触れたならば、霊的警告灯がつくようにしておくのが良いでしょう。それらの言葉の代表的なものを上げておきます。ただし、英文の翻訳の問題上、実際に日本で使われている言葉は、幾分違う可能性があることを理解してください(「後の雨」「ダビデの幕屋」「現された息子」「今の王国・支配」「ヨエルの軍隊」「代々にわたる呪い」「神の国に産み出す」「五つの役職」「預言の回復」「預言者」「使徒」「按手」「教会刷新」「セル・グループ」「新しい皮袋」「キリストの霊的再臨」など)。

 後の雨運動は、ウイリアム・ブランハム(1909−1966)という非常に有名であるけれども、はなはだ怪しいペンテコステ系の伝道者の影響を受けています。彼は癒しと預言の働きで、全世界で活動した人物ですが、ワンネスの教義を信じ(三位一体を信じられない)それを宣伝していたほか、「イヴの罪は蛇との性的関係である」にはじまるさまざまな奇怪な教えのために、正統的信仰からは外れていると判断されていました。後の雨運動の多くの教えの基盤となった預言は、彼の影響によるところが大きいといわれています。

 このような教えの流れと、その影響の中には、昨今、非常に話題を振りまいているトロント・ブレッシングがあります。それがアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの中に飛び火した、ペンサコーラのほうは、たぶん、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの中にある「良識的力が働いて」すでに鎮火しているようですが、トロント・ブレッシングは現在もいたるところで悪影響を及ぼしています。単に笑いのリバイバルといわれる現象的な問題だけではなく、その神学自体が非常に奇怪で、正統的な聖書の理解と信仰からは、ほど遠いところが数々ありますし、単なる間違いではなく、明らかに悪魔、あるいは悪霊によるとみなすべき活動も随所にあります。指導者たちがひそかに悪魔の名を呼んでいる場面が、ビデオで撮影されたりさえしています。

 また、これらの運動の中には非常に巧妙なものがあり、たとえば、セル運動などは単なる教会の伝道方策や管理運営の方法の違いだけではなく、後の雨の神学の中でたくみに利用され、彼らの言う既存教会の壊滅と新しい教会の出現に、一役買わされているのです。そのようなこととまったく関わりなく、セル運動をやっている人々もたくさんいますが、いつの間にか後の雨運動に取り込まれているというものも少なくありません。

后ィ叩)榲の神の人たちを見極める

 キリストのみ名を用いて不思議な働きをしている人々すべてが、キリストの弟子だというのではありません。いつわりの弟子もいるのです。実に厄介なのは、本人はまったくキリストの弟子であると思い込んでいながら、キリストによって、弟子と認められない人々がいることです。さらに厄介なことに、彼らは本物のキリストの弟子たちよりも、大きな業を行うのです。 旧約聖書を読んでも、すべての偉大な神の人たちが、しるしや奇跡を行ったのではありません。言い代えると、癒しや奇跡の働きをしていなくても、ひじょうに立派な神の人がいたのです。新約時代になって、キリストによって教会に委託された権威の中に、癒しや奇跡の働きが含まれるようになってからでさえ、すべての弟子たちが、すなわちすべてのクリスチャンたちが、そのような働きをしていたのではありません。そのような働きをしなかった大多数のクリスチャンたちの中にも、素敵に立派な信仰者がたくさんいたのです。ですから、行われているしるしや不思議を見て、それを行っている人の正真性を判断するのは、危険だと知っておくべきです。確かに、キリストもパウロも、行っておられた業のしるしとしての効果を認めておられましたが、それは、信仰程度の低い人々に対するものであって、成長した信仰者は、そのようなところを越えていなければならないのです。

 それはちょうど信仰の初心者たちは、自分の悩みの解消のために、自分の人生問題の解決のために、自分の幸せのために神を信じても良いのと同じです。キリストは、すべて重荷を負って苦労しているものはわたしのもとに来なさいと、自分の幸せのために神をさえ利用しようとする、いわばとんでもない罪をおかしている人々を許容し、彼らをお招きになっています。しかし、信仰は成長しなければなりません。自己獲得の信仰態度にいつまでも留まるのではなく、父、母、子、兄弟、そして自分の命さえ捨てて従うところまで、到達すべきなのです。それを、キリストはお求めになりました、同じように、しるしを見て信じる信仰から、より高い信仰へ到達すべきなのです。癒しや奇跡、不思議な業は、未信者や信仰の初期の段階においては、大いに有意義な場合があります。しかし、いつまでもしるしを求めるものであってはならないのです。 キリストに敵対していた、パリサイ人を始めとするユダヤ人たちは、神理解という点において、また、救い主の理解においては、決して素人ではなかったのです。だから、彼らはしるしを求めてはならなかったのです。彼らは、キリストの教えの内容を理解し、受け入れるべきだったのです。それができなかったために、というより、したくなかったために、彼らはしるしを求めて挑戦したのです。

 今しるしを求めるクリスチャンたちは、どんな理由で求めているのでしょうか。ギデオンのように、確証がほしいのでしょうか。残念ながら、私たちには福音が明確に提示され、私たちの信仰と生活に必要なことはすべて教えられている、聖書が与えられているのです。その上、聖書を正しく理解できるようにと、聖霊が与えられているのです。よほど、個人的な特殊な事情の中でなくては、そのようなしるしの正当性がないのです。

 いま私たちの間で話題になる程度の不思議な業ならば、「取り巻き」であり「たにまち」であるクリスチャンにとっては、大騒ぎするほどの奇跡かもしれませんが、奇術や魔術や、超能力に慣らされている一般人からすると、まさにどれほどのことでもありません。空中浮遊なんて簡単な奇術です。ぱっと消えてしまうことだって、瞬間移動だってできます。透視だって、マインド・リーディングだって、サイコパワーだって珍しくありません。金粉銀粉程度のことで、大騒ぎをする信仰のほうがおかしいのです。

 もっともっと大きな、不思議なことをする偽預言者や、偽キリストがあらわれるのです。彼らは、堂々と自分たちはキリストであると名乗り、預言者であると主張します。そして、その証拠としてさまざまな業を行うのです。しかし業それ自体には、証拠としての効力はないのです。業は何の証明にもならないからです。

 結局、私たち、いくらかでも信仰の成長を見ているクリスチャンは、業によってではなく、その人たちの教える教えと生き方を注意深く調べ、観察しなければならないのです。彼らの信じていること、教えていることが聖書の教えに合致しているかどうか、また彼らの生活態度、倫理が、キリストがお教えになったものに合致しているかどうかです。それによって、だれが本当の神の人であるか、見極めなければなりません。それは容易なことではありません。ですから、しっかりとした聖書の学びと、信仰の指導者が必要であり、彼らの責任が問われるのです。

 そこで、本当の神の人を見分ける、現代ペンテコステ的な、具体的方法を考えてみました。もちろん完璧なものではありませんが、真剣に悩む人にとって、いくばくかの助けになるのではないかと思います。

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 一般的に福音派の保守系の人々には、ブッシュ大統領がよくやるように、自分の主張を聖書にさせる傾向があるのです。聖書がそのように語っていると言って、「この紋どころが目に入らぬか」とやるわけですが、実際は、聖書がそのように言っていると、自分が、あるいは自分の仲間たちが思い込んでいるに過ぎず、本当は、聖書はそのように語っていないわけです。

 よきにつけあしきにつけ、ペンテコステ系の教会の伝統は、福音派保守系をもう少し極端にしたようなところがあります。ペンテコステ系のクリスチャンは、聖書の権威を絶対のものとして受け入れているために、聖書の言うことには平伏します。そこで、説教者たちは「この紋どころ」とばかりに、聖書を多用するのです。聖書を多用することは、必ずしも聖書の教えに立脚している証明にはなりません。聖書が正しく理解され、正しく現状に適用され、正しく用いられているかが肝心なのです。そこで、注意深い観察が必要になるのです。いささか専門的になりますが、現在のペンテコステ信仰にかかわる問題を考慮して、誤った聖書の用い方の要点をいくつか上げておきましょう。

 \蚕饒澗里龍気┐鯡技襪靴董△劼箸弔ふたつの箇所で、中心的主題としてではなく、中心的主題を説明するため触れられただけの、補足的事柄を取り上げて、自分たちの信仰や実践の基盤として用いる。たとえば、死者のための洗礼や(汽灰螢鵐15:29)、現在の使徒と預言者(汽灰螢鵐12:28、エペソ4:11)、あるいは按手(競謄皀1:6)の主張などは、分かり易い例です。

◆\蚕颪語っていないことを、聖書が語っているかのように主張する。たとえば、ヨエル書2:25の大軍勢という言葉を、世の終わりのときに神に敵対する軍勢であると主張するのは、的外れです。これはイナゴのことだからです。

 自分たちの誤った神学に合わせて聖書を解釈する。これは多くの教会がやってきたことですが、そのようなことをいつまでもやっていてはなりません。たとえば、現在でも使徒の時代と同じように、預言があると主張をして、その預言に聖書と同等の権威を持たせ、その預言にそった教えのために、聖書を利用するのです。先に述べた、現代の使徒や預言者の重要性の主張などは、ここに問題があります。つまり、聖書外の権威を持つことです。現代の預言運動、あるいはレストレーション運動は、怪しい預言者だったウイリアム・ブランハムの預言を発端としているのです。同じことは、怪しい預言だけではなく、たとえば福音派の統計学者であったピーター・ワグナーの唱えた、教会成長論にも言うことができます。彼は自分の主張を聖書の教えから得たのではありません。自分の考えを、聖書の言葉で補強しているだけです。 ですから、彼らは今、いっしょに活動しているのです。

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 ある人の主張が、本当に聖書の教えを基盤としているかどうかを見分けるためには、たえず、聖書の学びをし続けることが肝要です。聖書の全体的な知識を身につけることです。そして、今までにないような主張をしている伝道者や神学者を見つけたならば、彼らの用いる聖書の箇所が、正しく理解され、正しく適用され、正しく用いられているか、注意深く観察することです。その聖書の箇所について、多くの聖書注解書を開き、関係する分野の学びをすることによって、より正確に理解することです。目新しい解釈や珍妙な解釈に心を奪われてはなりません。それから、そのような珍しい主張をしている人の神学が、どこから来たかということ、すなわち信仰背景を学ぶことも助けになります。どういう信仰の背景と流れ、神学的傾向があるのかを見ることです。すると、後の雨、すなわちレストレーションの流れを汲むトロント・ブレッシングには、ウイリアム・ブランハムという異端的汚水が混入していることも判明してきます。トロント・ブレッシングに関しても、アメリカ・アッセンブリーズ・オブ・ゴッドは、正式に警告文を出していることも判明します。

坑達魁,どろかないこと

 ペンテコステ系の人々の行っている癒しや奇跡の数々に、驚かないことが大切です。驚いたり、感動したりすると、たちまち飲み込まれてしまいます。そのような軟弱なというか、ナイーブな信仰態度は、神様を知らない人々の態度であって、創造者である真の神を知っている人の態度ではありません。

 そのような信仰態度を持っていると、何かスペクタクルな出来事が起こると、そちらに移ってしまう、旅がらすのような信仰者になってしまいます。そのうちにクリスチャン信仰から外れて、インドのミステリーだとかアフリカの奇跡に、惹かれていくことも起こるでしょう。仏教の密教信仰に陥ることもあるでしょう。私の知っている教会は、癒しや奇跡を強調していましたが、近くに韓国系の教会ができ、そこではもっと多くの癒しや奇跡が起こっているからと、信徒たちが10名ほども移って行ってしまったそうです。でも、その韓国系の教会は、「悪霊とは、さ迷っている死者の霊のことだ」と教えているそうです。この場合、そのような基本的なことさえ理解できず、見える業に引かれて行くような、信徒を育ててしまったこと自体にも問題があるのでしょう。あちらで癒しが起こっているから、こちらで奇跡が起こっているからと、驚かないのが成長した信仰です。驚いてしまっては、しっかり聖書を学ぶことも、見分けることもできなくなってしまいます。

坑達粥/予犬瓩量しや奇跡

 新約聖書を見る限り、すなわち、クリスチャン信仰の理解と行動の規範を読む限り、癒しや奇跡が、人集めの手段として用いられたという例はありません。たくさんの信徒を集める手段としても、伝道集会の手段としてでも、癒しや奇跡が宣伝されたことはありません。人々が噂を聞きつけ、たくさん集まった例はあります。しかし、弟子や使徒たちが、「癒されたい人は来てください。奇跡を見たい人は集まってください」と、宣伝したことはないのです。 現代のペンテコステ信仰の宣伝者たちの中には、癒しや奇跡を売り物にしている者がたくさんいます。人集めの手段にしているのです。彼らは、「福音のためになら何でもする」と言ったパウロの言葉を用いて、自分たちのやっていることを正当化します。たしかにパウロはそのように言っています。しかし、彼は自分の信仰、自分の倫理、自分の誇りに反することは、絶対に行わなかったのです(汽灰螢鵐9:14−15)。 パウロも他の弟子も、もちろんキリストも、癒しや奇跡を、引っかけば当たりが出るおまけや福引のような、人寄せの道具にはしなかったのです。何かが信仰の原則に反したからではないでしょうか。

 癒しや奇跡を人集めの手段、宣伝文句にする人々には、倫理的な危険が伴います。だれかが癒されなければいけなくなるからです。奇跡も、起こらなければならなくなるからです。昔の見世物小屋に、「長さ8尺もある大いたち」なんていう呼び込みがあったそうです。入ってみると、嘘ではない。8尺の板に血が塗ってあったという話ですが、嘘でも見せなくてはならなくなります。毎回とは行かなくても、せめて、何回かに一回は癒しが起こり、何十回に一回は奇跡が起こらなければならなくなります。そこで、いろいろな策略が用いられることになるのです、

 聖書によると、癒しも奇跡も、現代の教会におこり得ます。贖いのみ業には癒しが含まれていることも、比較的新しい神学的発見であるために、多くの伝統的福音派の方々が反対しているにもかかわらず、聖書の教えです。そして実際に、今でも癒される人が起きています。現在は奇跡が起こらないと、聖書から説明することはできません。奇跡は起ります。また、特別に癒しを行う賜物をいただいている人も、奇跡を行う賜物を受けている人もいることでしょう。しかしそれはあくまでも、キリストのみ体の内部における働きのためであって、大衆伝道の人寄せの手段、宣教の宣伝文句として用いられるものではなかったのです。

 現代の多くのペンテコステ信仰者が、癒しや奇跡を人集めの宣伝文句に用いていることは、聖書の教えからはずれていると判断されます。ましてやそれが、自己宣伝や金集めの手段として用いられるようなことは、あってはなりません。このあってはならないことが、実にしばしば行われるのが、ペンテコステ系の働きなのです。現在そのようなことを行っている人々を、すべて断罪すべきだとは思いません。しかし、警告は必要です。それは非常に危険な行為です。嘘が生まれ、反社会的な行為が生まれる危険が大きいからです。したがって、そのようなことを大々的に行っている人々には、注意をすべきです。

坑達機ゞ飢颪鯊腓くすること

 癒しや奇跡を、人集めの手段に使うことよりも、一段と広く行われている「非聖書的事柄」に、教会を大きくする努力があります。大きい教会はいいことだとばかりに、教会を大きくするための、さまざまな方策が検討され、宣伝され、セミナーが開かれ、教材が売られています。

 大きい教会が悪いと言っているのではありません。大きい教会も、それが忠実な宣教と、忠実な教会の働きの結果として起ったことならば、素晴らしいことです。大きな教会を建ててはいけないと、言おうとしているのでもありません。問題は、教会を大きくしようという意図と努力です。大きな教会を建てた人は伝道の成功者、牧会の成功者としてもてはやされます。なにか、世俗の世界の立志伝中の人物、功なり名を遂げたお話のように聞こえます。中小企業の成功者のようにも。インタビューを受けたりして。

 しかし聖書の中に、教会を大きくしなさいという教えや命令は、ただの一度も記されていないのです。そのような示唆や暗示は、一箇所もないのです。そのように努力をした弟子や使徒も、一人もいないのです。証をしなさい。伝道をしなさい。全世界まで出て行って、福音を宣べ伝えなさいという命令ならばあります。教えもあります。そのように努力した弟子や使徒の姿も、たくさん記録されています。

 ペンテコステ系の教会は、世界中で急速に大きくなっています。多分、世界中で最も大きい教会を100挙げるならば、大部分はペンテコステ系の教会でしょう。ペンテコステ系の人々の中には、大きいことはいいことだという「信仰」があるのです。その結果、教会を大きくするためという大前提、自らの中の至上命令のために、聖書の教えの中に留まれなくなってしまうのです。聖書の倫理に留まる限り、決してできないことが、教会を大きくするためにはできるようになるのです。誇大広告、偽りの宣伝、強制的な金集め、ほとんど洗脳に近い心理的拘束、そして怪しげな癒しや奇跡を作り出すことも、そこここで行われるようになるのです。宣教も牧会も、聖い神を礼拝する、礼拝の行為であることが忘れられてしまうのです。本来まじめな信仰者であり、心から主にお仕えしようとしていた者でさえ、このような「教会を大きくしよう」運動に流され、世俗化してしまうのです。 重ねて言いますが、まじめな宣教と牧会の結果として、教会が大きくなることは素晴らしいことです。しかし、教会を大きくすることを前面に掲げて働いている人々には、注意をすべきです。教会の使命はそこにはないからです。宣教者の使命も牧師の使命もそこにはありません。使命でないことを使命とするとき、教会は堕落し腐敗します。本来教会の賜物である癒しも奇跡も、不思議もしるしも、悪臭をはなつようになってしまいます。

 いま、癒しや奇跡やしるしを強調する人々の、もう一方の強調点は、自分たちの教会が、自分たちの働きが大きくなっているということです。自分の教会がなかなか大きくなれないでいる牧師や信徒は、彼らの教えや実践におおいに魅力を感じます。そして癒しや奇跡のたぐいにひきつけられ、間違った教えに飲み込まれていくのです。

結び

 結局、私たちの信仰は、聖書を正しく理解し、その上に立って歩むということです。これは言うには簡単ですが、非常に難しいことです。しかし、そのために努力をしていかなければ、私たちの信仰はとんでもない間違いに陥ってしまいます。

 すべての信徒が、聖書を正しく理解するというのは不可能です。すべての伝道者が聖書を正しく解釈するのも不可能でしょう。また完全に正しく理解することは、誰にも不可能でしょう。しかし、もっと多くの伝道者たちが、素直に聖書に向かい、聖書が言っていることを素直に聞いてほしいものです。そうするならば、かなり多くの間違いが正され、しるしや不思議、癒しや奇跡の問題も、教会を脅かすほど、大きな痛みには発展しないはずです。

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