神の国第9課

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神の国の完成A


 千年王国は、一見、神の国の完成であるかのようにさえ思える、すばらしい期間ではありますが、まだ欠点があります。そこには死ぬ者もあり、病もあり、のろいもあるのです。自然界も現在の自然の延長に過ぎません。神の国の完成は、この後に、現在の世界の延長としてではなく、まったく新しく造られる、欠けたところが少しもない世界として、到来するのです。

XV.古い天地の破壊

 完全な神の国は、現在の不完全な世界を改善し、修復して造り上げられるのではありません。つまり、改築ではなく新築です。また神様は、かつての遺物を懐かしんで残しておく、歴史博物館のように、醜い過去の世界を残して展示して、残しておこうともおっしゃいません。かえって、現在の天地、すなわちこの自然界を破壊すると、予告しておられるのです。キリストも神の国の完成を予見しておられましたが、その前に起こる天地の破壊について語り、心ぞなえを怠らないようにと、強く警告しておられます。(マタイ24:35、マルコ13:31、ルカ21:33)

 キリストの弟子たちのなかでも、リーダーと目されていたペテロは、この天地の破滅が火に焼かれることによってもたらされると語り、キリストと同じように、人々への強い警告としています。(Uペテ3:7−13) そして彼は、この破滅が単なる裁きのためにあるのではなく、新しい天と新しい地の創造へ向かう、一段階としてあることをも示しています。キリストにいちばん可愛がられたのは自分だと、勝手に思い込むことができた幸せな弟子ヨハネは、老年になって、すばらしく円熟した人間になったようですが、彼が最後に書き残した黙示録の最後の部分は、完成された神の国の記述です。彼もまた、神の国の完成の前に、現在の天と地が消滅してしまうと語っています。(黙示録21:1) 彼によると、海もまたなくなってしまうということですが、この「海」という言葉は字義通りに解釈されるべきではなく、計り知れなく恐ろしいもの、不安を掻き立てるものという、当時の海という言葉の持っていた意味で理解して、完成された神の国には、不安や恐れのたぐいが、まったくなくなるのだと考えるべきだという人もいます。それもひとつの考え方でしょう。

 ともあれ、「以前の天と以前の地」という言葉で表現されている、現在の自然世界とその秩序は、ことごとく造り変えられてしまいます。現在の天地は、欠点のないものとして神に創造されていながら、人間の罪のために、パウロの言葉を用いると「虚無に服して」いましたが、ここで「滅びの束縛から解放され、神の子供たちの栄光の自由に入れられる」と、教えられています。(ローマ8:19−25)パウロの言葉が示唆するところによると、「天地が滅ぼされ、まったく新しく造り変えられる」出来事は、この世界の存続を神が断念し、別の世界をお造りになることではありません。あくまでも神のご計画の継続として、造り変えられるということであり、神の創造の正常な秩序が取り戻される、「造り変え」であると考えるべきです。改築ではなく新築ですが、古い建物が取り壊されて、最初の設計図の通りに、改めて、新築されると考えるといいでしょう。

 つまり、いま存在する桜の花も、りんごの実も焼き滅ぼされてしまいますが、桜の存在やりんごの存在自体が消滅するのではなく、理想的な桜、非の打ち所のないりんごとして、創造しなおされ、再び私たちを喜ばせてくれるということでしょう。そのように理解すると、海がなくなってしまったという表現も、比喩的に理解したほうが良いように思います。(魚釣りが好きな筆者としてうれしいことです。千年王国でも魚は豊かに取れますが、千年王国は現在の世界の継続ですから、化学物質の汚染はまだ残っているかも知れません。完成された神の国の魚は、化学物質で汚染されていない魚です。ヨハネが描いた、完成された神の国の記述で面白いのは、神が人々を照らされるので、太陽もともし火も不要になり、夜もなくなるというところです。(黙示録21:23、22:5) これも、物理的に神が光となってくださり、夜がなくなり、太陽が不要になるのか、神の恵みのすばらしさの比喩的な表現なのか、断定はできません。物理的に太陽が消滅すると、単に光の問題だけではなく、太陽系全体に関わる重力の問題を含め、大変大きな影響が出てきますので、比喩的と理解するのが無難だと思います。

 もちろん、たとえ物理的な意味で、字義通り太陽が不要になって神がこれを破壊してしまわれても、全能の神にとってまったく問題のないことですが、より奇跡的要素の小さいほうを取るのが、無難な解釈といえます。夜がなくなるという表現もまた、物理的に「夜」という時間帯がなくなるのか、「夜」で言い表されている恐ろしいもの、暗く悲しいもの、あるいは悪につながるものがなくなるのか、不明です。物理的に夜がなくなると、人間の肉体や精神がそれに対応できるようにされ、気温の変化や日照時間の変化に、動物や植物をはじめ、あらゆるものの秩序が変えられなければなりません。これも、神にとってまったく問題のないことではありますが、やはり、より奇跡的要素の小さい解釈を採るのが、良いと思われます。

\.新しい創造

 完成される神の国は、新天新地と呼ばれています。これは神の国の内容よりも、神の国の外観、いわば箱に注目した言い方ですが、旧約時代のイザヤによって予言され、用いられていた表現です。紀元前8世紀の預言者が、すでにこの神の国の完成を見つめていたのです。(イザヤ65:17、66:22)新天新地の環境のすばらしさを、ヨハネは「ガラスのように透き通った純金」のほか、さまざまな宝石などを並び立てて表現していますが、これは彼の表現力の限界と見るべきだと思います。筆舌に尽くせないすばらしさを、無理に表現したのでしょう。個人的に言えば、筆者は、透き通ったガラスのような純金でできた大通りを歩くよりも(黙示録21:21)、緑の大木の木陰に、ひんやりとした大通りを歩きたいと願うものです。金閣寺などを見ても、少しも感動しない人間ですから。「水晶のように光る命の水の川」ならば、まだいいですね。その川が都の大通りの中央を流れ、川の両岸には命の木があって、毎月12種の実がなり、その木の葉は諸国の民を癒したという表現のほうが、純金よりはましです。とにかくヨハネは、新天新地のかがやくようなすばらしさに、言葉を失っていたのでしょう。新天新地のすばらしさに対して、人間の表現力の貧しさが感じられて面白いところです。「諸国の民を癒した」という表現をもって、新天新地にも病気や怪我があるのだと、理解することも不可能ではありませんが、むしろ、新天新地に生きる人々は、この癒しの木の実があるために、病気や怪我から逃れているのだと考えた方が、全体の考え方に調和します。

 新天新地の本当の美しさは、むしろ、先に触れた「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます」という、パウロの説明の中に表現されているように思えます。美しい自然に事欠かない、日本に生きている私たちだから言えるのでしょうが、いま私たちの周囲にあるこの美しい自然が、さらに美しくされて、つまり、その自然の中でも破壊され無秩序にされた、世界中のすべての部分が、一旦、完全に破壊された上で、造り変えられて出現するのです。古くは都市づくりのレンガを焼くために、無秩序に木々が伐採されて砂漠化した広大な地域。農業や牧畜業のために緑が壊滅して、回復不可能な荒野といわれるまでになってしまった大地。近代の木材需要や食料需要のために、犠牲になり続けている森林地帯。さらには、工業化に伴って用いられるようになった、石油製品に伴う環境の汚染に死滅しそうな自然。数え上げればきりがありませんが、それらすべてが、いちど、ことごとく破壊されつくした上で、まったく調和の取れた自然に造りかえられるのです。神が最初にこの天地をお造りになったときのように、完全無欠の神がご覧になっても、「見よ。それは非常によかった」言われる、自然になるのです。このときすでに悪魔は滅ぼされ、二度と再び神に刃向かい、人を苦しめることができないように、永遠の死に投げ込まれているために、この新しい天と地は、悪魔の力によって歪曲されてしまうことがありません。

].完全な調和の中に住む人間

 神は、新天新地という完璧な自然環境を、私たちに与えてくださいます。しかし、それだけではありません。すでに触れたことですが、その自然の中に住む人間も、まったく新しくされた人間です。キリストの救いを受けた人々は、たとえ旧約時代の人間であろうと、新約時代の人間であろうと、二つの意味で、欠点のない者にされるのです。第一は、朽ちることのない肉体を与えられることです。病や怪我、弱さや欠陥に苦しむことのない体です。これは永遠の命の欠くことができない資質です。たとえどのようにすばらしい環境に住んでいても、神経痛だ、偏頭痛だといいながら生活するのでは、やり切れません。パウロはこれを、「朽ちるものは朽ちないものを相続できない」という言葉で、言い表しました。(Tコリント15:35−58) 古代のお墓などが発掘されると、朽ち果てた肉体の残骸が現れます。かつては美しかった、その体を飾っていた金や宝石などの光り輝く装飾品が、いっしょに出てきます。早々と朽ち果ててしまった肉体は、金や宝石をいつまでも自分のものとしておくことができません。盗掘者の手に渡ってしまうか、博物館に陳列されてしまいます。金も宝石も絶対に朽ちないものではありませんが、それでも、早々と朽ち果ててしまう肉体が、相続することはできないとしたら、ましてや、完全な世界を、不完全な肉体が相続することはできないのです。

 第二は、欠点のない精神です。どれほど健康な体を持っていても、精神が病み、憎んだりねたんだり、うらやんだり恨みを残したりしながら生きたのでは、幸せではありません。健康な肉体を持って闘い合い、争い合うのでは、健康な体を持つ意味がありません。黒人霊歌に歌われているように、そこにおいては、私たちはもう、戦いについて学ばないのです。私たちは造りかえられ、本当にキリストに似た者、神のご性質を身におびた者とされるからです。すべての罪の性質が消し去られ、最初に神が創造された人間のように、美しく造り変えられるのです。(ヨハネ3:2、Uペテロ1:4)したがって、新天新地での人間社会は、大変おだやかな美しいものとなります。人間関係の軋轢がなくなり、ストレスも消滅してしまいます。現在の私たちが感じるストレスの大部分は、人間関係から生じるものだからです。

]T.神との完全な交わり

 たとえ新天新地を与えられ、病むことも痛むこともない肉体をもち、少しの汚れもない心を持って、申し分のない人間関係を築き上げても、神との関係がうまく行かなければ、すべては台無しです。神との交わりができるようにと、神に似せて創られた人間は、神との正常な交わりを持たないでは、人間として正常に生きているとは言えないのです。それだけでは、人間の心は決して満足できないように、造られているからです。また、神が罪を犯した人間を哀れみ、お救いになったのは、単に、人間同士が幸せな社会を築くためではありません。神は、ご自分の愛の対象として、ご自分との愛の関係を深めるために、人間を創造し、また、人間を救おうとなさったのです。私たちの神は愛の神です。(Tヨハネ:7−12) そして永遠に不変のお方です。(ヤコブ1:17)つまり神は、いつかの時点で愛の神になったのではなく、時間を超越した最初から、愛のお方として存在しておられました。これは私たちの神が、三位一体の神だから可能なことです。神が単に唯一絶対の存在者であるならば、愛としては存在できません。愛する者があり、愛される者があり、その愛の交わりを見て喜ぶ第三者があって、初めて愛は成り立つのです。私たちの神は人間の理屈を越えた、三位一体という存在者です。三つの神格(人格と同様な意味で)を持っていながら、おひとりの神なのです。あたかも3人の神でいらっしゃるようでありながら、おひとりなのです。私たちの神は、永遠の最初から三位一体の神として存在していたために、その永遠の最初から変わらず、愛の神として存在することができました。三位一体の中に、完全な愛の姿があったのです。愛す者と愛される者、その愛の交わりを愛でる第三者が存在したのです。この愛の神は、ご自分の愛の表現として、人間を創造してくださいました。人間は、始めから神の愛の対象として、神の愛を楽しむように、また神を愛するように造られたのです。本来人間は、そのような神との愛の関係、愛の交わりの中に自分の安らぎ、幸せを感じるように造られているのです。

テキスト ボックス: 三位一体という教えは、昔からしばしば議論の対  
象になってきました。多くの人が、人間の理性を超
えたものであって、信じられないと、受け入れを拒
否してきました。聖書はたしかに、父である神、子である神(キリスト)、聖霊である神がいらっしゃると教える一方で、神は唯一であるとも教えています。そしてそれをまったく矛盾としていないのです。
そこで、ちょっと考えて見ましょう。これが意外と分かり易いのです。まず、「あなたは誰?」という問いから始ります。人間という存在はいったい何でしょう? 地球の大きさに比べると小さな、小さな存在ですね。ましてや宇宙の大きさに比べると、チリにも満たない存在です。その小さな人間というものを、一番良く知っているのは、いつも人間といっしょにいる、人間自身のはずです。でもどこまで知っているでしょう。説明できますか? 今あなたはどこにいますか? そこにいるあなたとは何ですか? 頭ですか? 心臓ですか? 全身ですか? では事故で両足を失うと、あなたは少なくなるのですか? そんなことありませんね。 あなたは肉体ではないからです。肉体ではないとすると、心ですか? 霊ですか? 魂ですか? 精神ですか? それらのものがひとつに混ぜ合わされたものですか? 肉体と心は、どのようにつながっているのですか? 
小さい小さい人間自身についてさえ、人間はまだ良く分からないのです。それなのに、天と地をお造りになった、大きな大きな神様についての聖書の教えを、理解できないからといって、拒絶することができるのでしょうか。もし、私たちの神の本質が、人間の頭で理解できたり、説明できたりしたら、その瞬間に、私たちの神は神をやめて、地に落ちなければなりません。小さな人間の小さな頭で把握できるような神は、神と呼ばれるに足りない、小さな存在に過ぎないからです。三位一体の神は、頭の理解の対象ではなく、心の理解の対象なのです。人間同士も、頭で理解しあうのではなく、心で理解しあうのと同じです。

その愛が感じられないと、何もかもが不安で恐ろしくなるのです。たとえ、人間同士でどのように愛し合っていても、やはりこの不安と恐れがでてきて、心が満たされないのです。罪を犯して愛の神から離れてしまった人間は、この神の代用品を造り、何とか不安と恐れを取り除き、心の満足をとり戻したいと画策してきました。それが先に説明したように、多くの宗教の発端になったのです。

 そういうわけで、新天新地において、いかに無欠な人間関係の回復を見ても、神との交わりも、欠けるところのないものにならなければ、神の国の完成はあり得ないのです。神の国の支配とは、単に神の力による支配であるだけではなく、神の愛による、人間の心の支配なのです。神は人間の心をとりこにし、独占していたいとおっしゃるのです。それが、有名な十戒のなかに、「ねたむ神」という言葉で表現されているのです。(出エジプト20:5)

 新天新地の人間の生活でもっとも重要なのは、神が共にいてくださり、人間と親しい交わりを保ってくださるという事実です。それをヨハネは、次のように表現しています。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。(黙示録21:−4)この交わりこそが、人間の、人間としての命の源になるのです。その命の豊かな流れが、「水晶のように光る命の水の川」と表現されたり、太陽も不要な、「神である主が照らしてくださる光」と、表現されたりしているのでしょう。またこの交わりが、なにによっても妨げられないものであることは、神殿が存在しなくなり、「神であられる主と小羊とが神殿である」と言われているところから、明らかです。(黙示録21:22)

テキスト ボックス: 贖(あがな)いとは、「買う」、「買い取る」という意味で、かなり古い日本語です。でも平安時代の言葉が、まだかなり残っているといわれる沖縄地方では、今でも普通に使
われていて、お菓子を手にした子供たちが、「これ贖ってきた」などと言っています。聖書が日本語に翻訳されたとき、この言葉が選ばれ、キリスト教世界の重要な専門用語になったのですが、一般社会ではほとんど用いられないために、いささか不便になってしまいました。
神によって造られ、神の所有であった人間が、罪を犯して神のもとを離れ、他の者の所有になってしまったけれども、神が、独り子イエス・キリストの血潮(ちしお)という代価を払って、買い戻し、再びご自分の所有とするということです。誰の手から買い戻すのかということについては、聖書は明確(めいかく)には語っていませんが、悪魔と理解するのがもっとも妥当だと思われます。教会の中では、ふつう、救いと同じ意味でこの言葉を用いますが、とくに、キリストが血潮を流された事実、犠牲を払って成し遂げてくださった事実を、強調する場合に用います。

 
聖書によると、神殿とは、穢れた人間が神を礼拝する場所として、定められた建物でした。人間は普段着のまま、つまり穢れたままでは神を礼拝することが出来ないために、特別に、さまざまな儀式を経る必要がありました。すなわち神殿は、神と人間の交わりの場でありながら、神との直接の交わりを妨げる、スクリーンの役を果たしていたのです。

穢れた人間が直接神のみ前に出ると、滅びる以外にはないのです。(出エジプト19:12−25)しかし、贖いが完成されたこのとき、もはや交わりを妨げる神殿は必要なく、神ご自身が神殿となって、交わりそのものとなってくださるのです。小羊イエスの血潮で罪を清められた私たちは、まったく恐れなく、聖い神を礼拝することができるのです。(ヘブル9:11−28、10:10−22、12:18−29) テキスト ボックス:                  小さな物語

むかし、あるところに貧しいバイオリン職人が住んでいました。いままで誰も作ったことがないような、素晴らしい音色のバイオリンを作りたいと、長い時間をかけて、こつこつ作り続けました。ある日、とうとう作り上げたバイオリンを手に、職人はで叫びました。「やったぞ! とうとう出来た!」 
そのバイオリンのあまりに美しい音色に、ぜひにもほしいという客はたくさんいました。でも、職人はみんなことわってしまいました。そのバイオリンを弾くと、疲れは吹き飛び、つらいことも苦しいことも消えてしまったからです。バイオリンを抱いた職人は、だれよりもしあわせな男になりました。
ところが、そのバイオリンが盗まれてしまったのです。職人は、あまりの悲しみに食事も喉を通らないほどでした。
 しばらくして、職人は仕事を求めて大きな町まで出かけました。そして、とある街角のショーウインドーの真ん中に置かれている、盗まれたバイオリンを発見したのです。なつかしい自分のバイオリンには、目の飛び出るような値段が付けられていました。でも職人は迷うことなく、家や持ち物をみんな売り払ってそのバイオリンを買い戻したのです。バイオリンを胸に、職人はつぶやきました。「お前は、私のものだ。二重の意味で私のものだ。私がお前を作り、私がお前を買い戻したのだから。」
 私たちは二重の意味で神のものです。神がお造りになり、神が犠牲を払って買い戻してくださったからです。

 




































 ところで、神の僕としての私たちは、「神に仕え、神のみ顔を仰ぎ見る」と記されていますが、(黙示録22:3−4)ここに、神との交わりを回復させられた人間の、至高の幸せが表現されています。神に創られた人間は、自分のために生きていては、絶対に本当の幸せを感じることができません。人間は、他の者のために生きてこそ、生きる醍醐味を感じられるのです。しかも、自分を造ってくださった方にお仕えして、この方のために生きてこそ、自分の存在価値を最高に感じ、満足できるのです。人間はそのように造られているからです。水の中で生きるように造られている魚は、水の中で暮らしてこそ幸せです。空を飛ぶように造られている鳥は、空を飛びまわってこそ幸せです。土の中にいるように造られているミミズは、土の中にいてこそ、最善なのです。人間もまた、造られた目的に沿って生きてこそ、人間としての幸せを満喫できるのです。

 「み顔を仰ぎ見る」という言葉の中には、まさに、人間の幸せの頂点が記されています。愛する人、敬愛する人のそばにいるだけで幸せを感じ、その顔をじっと見ているだけで、とても言葉では表現できない、満たされた思い、潤い、平安、喜び、感動などを得るものです。神のみ顔を仰ぎ見るという言葉の中には、罪のために妨げられていた神との交わりの、完全な回復が示されています。旧約の時代には、たとえ象徴的な意味においてさえ、神の顔を見るなどということは恐れ多く、あってはならないことでした。(出エ33:20、イザヤ6:5)しかし、新天新地においては、それこそが人々の日々の勤めであり、特権なのです。

 また、「み顔を仰ぎ見る」という言い方には、明治時代に造られた翻訳語である「愛する」という言葉では、言い表せない思いが込められています。愛するというと、あたかも、同等の立場の者同士が、愛し合う情景が浮かびますが、み顔を仰ぎ見るのは、あくまでも仰ぎ見るのであって、低いものが尊敬と、憧憬と、あこがれと、敬愛と、それらすべてを併せ持った気持ちで、お慕い申し上げるのです。いささか古い言いまわしですが、「妻は夫をしたいつつ、夫は妻をいたわりつ」というのがあります。「妻は夫を愛し、夫は妻を愛する」という現代的な言い方にはない、情の細やかさ、夫と妻の信頼関係が表されています。人間は神をお慕い申し上げるのです。

 そして、このように神のみ顔を仰ぎ見ることは、人間だからできることです。罪を犯したことのない天のみ使いにはできないのです。キリストの贖いを通しての救いと、回復の体験を持った人間だからこそできる、最高のことなのです。これがいかにすばらしく、至高の幸せであるかということは、まだ罪との戦いの中にある現在の私たちには、実感として理解できないことでしょう。しかしそのとき、私たちは、すべてをまったく作り変えられた者として、それを命として生きるのです。

]U.イスラエル民族の回復

 新天新地の情景を描いたヨハネの言葉には、イスラエル民族に関する言及が多くあります。神の祝福の器として選ばれていながら、その使命を充分には果たすことができなかったイスラエル民族ではありましたが、神は、いろいろな意味で彼らを特別に取り扱われ、新天新地のあたらしい秩序の中でも、彼らに対して、特別な任務をお与えになることがわかります。(黙示録21:10−27) イスラエル人の不忠実さと不誠実さにもかかわらず、神は、あくまでも誠実に彼らを取り扱われ、祝福するという約束を決してお忘れにならないのです。

 ひところ、日本の大学のコーラス・グループなどでもよく歌われた、ドライボーンズという黒人霊歌があります。リズミカルに半音ずつ上がっていく和音がとてもたのしく、印象に残る歌として愛唱されたものです。歌っていた日本人のほとんどは、知らないままだったと思いますが、これはエゼキエル書の37章に記されている、幻について歌ったものです。谷いっぱいに満テキスト ボックス: 現代の日本人は、紀元前8世紀に滅ぼされた、イスラエル民族の子孫、すな
わち、隠(かく)れたイスラエル民族であると考える人々が、たくさんいます。あまりにも荒唐無稽(こうとうむけい)な話のように思われて、正式な学問としては認められていませんが、日本人やユダヤ人だけではなく、多くの国々のかなり高名な人々が、まじめにそのように主張しています。彼らはおもに日本の歴史や、文化人類学的分野の研究から、そのような結論に至ったようですが、とくに日本語の中には、イスラエルの言葉であるヘブル語の痕跡(こんせき)らしきものがあったり、日本古来の宗教である神道の儀式(ぎしき)や、皇室(こうしつ)の儀式の中に、旧約聖書に記されているイスラエルの宗教儀式と、通じるものがあったりすることなどが、証拠として挙(あ)げられています。
 さらに、現在のイスラエル国家を形成しているイスラエル民族は、本物のイスラエル民族ではないと考える人たちもいます。イスラエル民族は本来有色民族であるはずなのに、現在のイスラエル人は白人であるというのが、その主な根拠です。

ちていた干からびた骨が、神の言葉によって、大きなとどろきと共に互いにつながり合い、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がそれを覆います。そして最後に神の息吹によって、非常に多くの生きた人々になるという幻です。エゼキエル書にはっきりと示されているように、これは、一度は干からびた骨のように滅びたイスラエルが、神の息吹によって再び回復し、神の祝福の中に永遠に栄えるという予言なのです。現在は、イスラエル民族という言葉よりも、ユダヤ人という言い方のほうが一般的です。もともとひとつの民族であったイスラエルは、紀元前およそ10世紀に、南ユダ王国と北イスラエル王国に分裂してしまいます。その後200年ほどで、北イスラエル王国はアッシリアによって蹂躙され、人々は霧散し、国家としては完全に滅んでしまいます。南ユダ王国もその後百数十年で、バビロニヤによって蹂躙され、国家としての形を失います。その後バビロニヤを征服したペルシャ王国によって、植民地としてではありますが国家の回復を認められ、さまざまな変転を経ながらも、キリストの時代に至ります。この間にユダヤという名前が定着したと考えられます。

 ユダヤ民族は、紀元70年になって、当時、宗主国となっていたローマに反逆したために、打ち滅ぼされて国家を失い、人々は世界中に散って、いわゆる「迷えるユダヤ人」となって行ったのです。この人々の子孫が、現在ユダヤ人として、世界中の学問や経済の分野で、活躍しているわけです。その小さな民族の、あまりにも大きな影響力のために、ユダヤ人の陰謀というようなことが、まことしやかにささやかれたり、反対にユダヤ人に対する過大な期待が、巻き起こったりしているのです。1947年に至って、イスラエルは国連で認められ、国家の再建を達成しました。しかし、このイスラエルには、紀元前8世紀に滅ぼされた、北イスラエル王国の人々は含まれていません。聖書の預言によると、このイスラエル民族は、現在も隠れた形で世界に存在し続けています。それがやがて回復され、ユダヤ民族とひとつになって、融合したイスラエル国家が樹立されるというのです。黙示録の非常に限られた記述だけでは、なんとも明確には説明できないのですが、この新天新地において、基本的に異邦人から成り立っている、キリストの花嫁と呼ばれる教会と、大艱難時代を経て、やっとキリストを救い主として認めることができるようになった、イスラエル人の融合があるように考えられます。(黙示録20:9−10) 神は本来、イスラエル民族を優遇しようとしてお選びになったのではなく、すべての民族を救いにいたらせるための、器としてお選びになったのですから、このような形で、イスラエル民族と異邦人との美しい融和が完成されるのは、当然のことです。

]V.人間の救いの大河ドラマの終結

 これらすべてのことが完遂された後、キリストは国を父なる神にお返しになります。(Iコリント15:24−28)これは人間の救い、すなわち神の国の完成と言う一大事業のために、三位一体の神の中で、特別な役割分担があったことを示しています。

テキスト ボックス: Tコリント15:24−28のパウロの記述を読むとキリストが国を父なる神にお返しになるという出来事は、 空中再臨のすぐ後に起こることのようにも
読み取れます。しかし、「あらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅(ほろ)ぼし」という表現は、やはり、悪魔とその配下の者どもが、最終的に滅ぼされることを意味していると、理解すべきです。「国を父なる神にお返しになり」というのも、千年王国を経(へ)、完全なみ国、すなわち完成された新天新地を、改めて父なる神のもとにお返しになるのだと考えた方が、より自然のように思われます。時間的経過(けいか)については明確でないという、予言の性格がここにも現れています。

 キリストはその役割分担の中で、贖いの働きの実践者となってくださいました。三位一体の神の第二格者であったお方が、その神のみ姿さえ横に置いて、罪にまみれて卑しく醜いものとなってしまった人間と、同じ姿かたちを取り、人間と同じように生きてくださいました。田舎娘のマリヤから生まれ、イエスと名づけられて、貧しい植民地国の寒村で育ちました。父を早く亡くしたために、父親代わりの大黒柱として、大工仕事に汗水を流し、母と4人の弟と、少なくても2人の妹たちの世話を看ながら、30歳になるまで、人間としてのあらゆる苦しみを味わってくださいました。それから、神の子救い主として、3年半にわたって教えを語り、人の罪の刑罰を身代わりに負って、十字架について死んでくださいました。ご自分ではまったく罪を犯されませんでしたが、人々の罪の刑罰を引き受け、最も過酷な十字架刑で死んでくださったのです。しかし、3日後には永遠の神として死を打ち破り、甦ってくださいました。それは私たち人間にも、死を越えた永遠の命の希望を持たせるものとなりました。甦えられたキリストは、もとから持っておられたすべての力と、権威と、栄光を取り戻して、何一つ欠けたところのない、救い主となってくださいました。神の力を横において人間の姿をとってくださった神として、この世で活躍したおられた間、キリストは、ご自分の力によっては力ある業を行うことができなかったのです。キリストがなさった力ある業は、すべて三位一体の第三格者である聖霊の力によるものでした。(マタイ12:28、参照マタイ3:16)この聖霊はその後、キリストの弟子たちの集団である教会の中にお住みになり、キリストが成し遂げてくださった贖いの働きを、教会を通して、世界中のすべての人々に行き渡らせ、救いの業をひとりひとりの人間の中に、達成させてくださいました。救いの業は、キリストと聖霊の連携によって達成されたのです。そして再臨を果たし、千年王国を経過し、最終的に悪魔を打ち破り、すべてのものを足元に従わせられたキリストは、もとの姿にお戻りになるのです。人間の救いの達成という一大事業のために、役割分担として一時的に、ある意味で力の分散を行っておられた三位一体の神は、もともとのあり方にお戻りになるのです。

]W.永遠

 新約聖書の最後の書物がヨハネの黙示録であり、聖書全体がこれによって締めくくられているのですが、その最後が、神の国の完成である新天新地の記述であることは、非常に大切です。ここで、人類の救いという大河ドラマは幕を閉じるのです。それは、終わるというものではありません。新天新地は永遠に継続するものであり、終わりがないからです。ですから、ヨハネが黙示録を閉じるに当たって、「私はアルファでありオメガである。最初であり、最後である。始めであり、終わりである」という、神ご自身のみ言葉をくり返して記していることに、注目すべきです。(黙示録21:6、22:13) アルファとはギリシャ語のアルファベットの最初の文字で、同じくオメガは最後の文字です。神は永遠から永遠に存在する方であり、時間を超越したお方です。時間と空間の制限の中でしか存在できず、その中でしか考えることもできない人間の、思考の限界をはるかに超えて存在されるお方です。人間の存在も含めて、万物の存在はただこのお方にかかって、成り立っているのです。そのお方が、その存在にかけて、新天新地という形で完成された神の国を、永遠に存続させて下さるのです。

人類の救いと言う難事業を完成してくださった神は、単に時間と空間を超越し、すべての知識とすべての能力を、持っておられる方としてだけではなく、愛の方として存在してくださるのです。永遠の始めから愛の方として存在しておられた神は、その愛の表現として、また愛の対象として人間を創造してくださいました。神は、人間が神の愛をしっかりと理解し、受け止めることができるように、神に似せてお造りになったのです。あらゆる動物の中で、人間だけが神に似せられて、霊的存在として造られたのです。

  テキスト ボックス:         紀元1世紀の教会は、「マラナサ」という言葉で、互いに挨拶を交わしていました。それは「来たりませ」という意味で、キリ
ストが早く再臨しくださるようにという、期待を表したもの
です。ですから、1世紀の終わりごろ、多分、90年を過ぎ
てから書かれたと思われる、聖書の最後の書である黙示録
は、「しかり。わたしはすぐに来る」というイエス様の約束
の言葉で、結ばれているのです。
       
神は、人間の堕落という最大の不幸を逆に用い、キリストの十字架を通して、ご自分の愛の深さ高さ、広さ清らかさを現してくださいました。人間は単に神に造られたものとして神を愛し、賛美するだけではなく、キリストの十字架の死による贖いを受けたものとして、なおさら深く神を愛し、大きな感謝をもって賛美し続けるのです。天の御使いは神の偉大さを称えます。神の愛も歌います。しかし、神の贖いの愛を自ら体験したものとしての、感動と感謝と喜びをもって賛美することができるのは、私たち、人間だけなのです。 いまや私たちは、神を、単なる全知全能の大きな方として畏れかしこむだけではなく、私たちをきわみまで愛してくださる方として、み顔を仰ぎ見ながら、永遠に生きるのです。

私が出会った人

 その老人は、ベッドの上にたたんだ布団を背に、ようやく、身を起していました。おそらく、75歳ほどか。あるいは病気のせいで、年よりふけて見えたのでしょうか。やせ細って弱々しい顔に、いぶかしげな笑みを浮かべながら、初めてお訪ねした私に、脇の椅子をすすめてくださいました。1965年8月、仙台市の大学病院でのことです。ひと目で、病状がとても悪いと知った私は、早々においとましようと心の中で決めながら、自己紹介をしました。「近くの教会の牧師から依頼を受けて、訪ねて参りました。聖書学校の3年生です。」すると、老人の目が突然輝き、顔全体が明るくなったように見えました。開け放たれた窓のカーテンに、夏の日差しが、けやきの葉陰を映し出しただけのことではないと思います。痛々しい老人の姿に、一瞬、言葉を失っていた私が、とっさの思い付きで読んで上げた聖書の個所は、黙示録21章の最初の数節です。でも、読んでいる間にも、むき出しになった下腹から、突き出たままになっているパイプが、気になってしようがありません。当てたガーゼが、黄色く変色していました。自分では排便もできなかったのでしょう。「神ご自身が彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみも無い。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」永遠の神の国のありさまを記した、聖書のおことばを読み終えると、老人は、まるで長いあいだ待っていた旧友が現れたかのように、とめどもなく話し出しました。途中、長居をしている見舞い客に、心配をした看護婦さんがそっとのぞきに来ましたが、「・・・・さん。気分が良さそうですね。まだお話していても、大丈夫ですか?」といいながら、崩れかけた背の布団を直して行きました。

 老人は言いました。「それが私の希望です。絶対になくならない、希望です。キルケゴールは、『絶望は死に至る病だ』と言いました。私はいま、医者にも見放された病人ですが、私は希望を持っています。私の病は、医者には治せませんが、死には至らないのです。私の体は朽ち果てます。もう朽ち果てています。しかし、私には甦りがあります。そのとき、私には朽ちることのない新しい体が与えられるのです。もう痛む事のない体です。いま私は、この病院でただ一人のクリスチャンらしく、共に信仰の話をする人もいません。たとえ外に出ても、親も兄弟も子供もいません。たしかに、孤独と言えば孤独です。でも、私は、雲のような証人に取り囲まれているのです。(参照:ヘブル人への手紙12:1)目を閉じ、黙想をすると、それがはっきりわかるのです。そしてその証人たちと、私は、永遠のみ国で会うのです。一緒に、神様を賛美するのです。兄弟。兄弟は黒人霊歌を知っていますか? 私は大好きです。黒人たちが、一切の人権を奪われ、牛馬のように酷使され、地上のすべての望みを失いながら、天のみ国の希望を持ち続けて歌った、あの黒人霊歌は、今の私の気持をそっくりそのまま歌っているのです。もちろん、もう、私は歌う事もできませんが、心の中で歌うことはできます。兄弟はまだまだ若い。若くて健康そうだ。兄弟のために祈ろう。兄弟がこれからの一生、神様のお役に立てるように。」 彼は祈りました。「神様、もしも、この地上で私が受けるべき祝福が、まだ、わずかでも残っているならば、どうかその祝福を、この青年に上げてください・・・・。」私は、熱いものがこみ上げてきて、うまくお話する事もできませんでした。ただ、小さな声で黒人霊歌をひとつ歌いました。「馬車よ。降りて来い。ふるさとへ帰るのだ。馬車よ。降りて来い。ふるさとへ帰るのだ。わしはいま、川岸に立ってる。ふるさとへ帰るのだ。馬車よ降りてこい。ふるさとへ帰るのだ。」(聖歌648馬車よおりてこい)

 私は、今もこの老人がどこの誰だったのか、知りません。私に訪ねるように命じた年配の牧師も、どこかの田舎の教会の牧師に、葉書で依頼を受けたとかで、会った事は無いという事でした。そして私は、この老人に再び会う事もありませんでした。いま残念なのは、老人の言葉ひとつひとつは思い出せない事です。実際は、強い東北弁で話してくださいましたので、会話をそのまま、再現する事もできないのです。ただ話合った内容はとても鮮明で、決して忘れられないのです。私はこの老人にとても励まされました。励ましに行ったつもりが、まったく反対に、勇気付けられて帰ってきました。玄関を出ようとしたとき、看護婦さんが言いました。「あのかた。とっても素晴らしい人ですね。あのような状態なのに。いつも静かで落ち着いて。なにかこう、まるで、後光が差しているように見えるんですよ。永遠の神の国に対する希望が、彼を生かしていました。不治の病も、彼を殺す事はできなかったのです。

問題集

 テキストを充分に学んでから、これからの問題に答えてください。まず、テキストを伏せて、すべての問題に挑戦してください。それから、不確実な答えをなくするために、もう一度テキストを学びながら、答えてみましょう。

1.完全な神の国が来るために、現在私たちが住んでいる世界は、どのようにされますか。([)

2.キリストの弟子であるペテロは、この世界は何によって滅ぼされると教えていますか。([)

3.使徒パウロの教えによると、この世界は、神のご計画の継続として、造りかえられると考えられますが、それは、どういうことですか。 ([)

4.ヨハネが記した完全な神の国の様子では、ともし火も太陽も不要になってしまうということですが、これは文字通りに理解すべきですか。 ([)

5.完成された神の国のことを予言して、最初に「新天新地」と呼んだのは誰で、いつごろ生きていた人ですか。 (\)

6.新天新地が、絶対に歪曲させられることはないのは、どうしてですか。 (\)

7.新天新地という完全な環境を与えられた人間も、二つの意味で完全なものに造りかえられますが、その二つとはなんですか。 (])

8.「朽ちるものが朽ちないものを相続することはできない」とは、どういう意味ですか。(]) 

9.神が永遠不変の愛であるためには、三位一体でなければならないとはどういうことですか。(]T)

10.人間が人間同士の愛の交わりだけでは、決して本当の満足を得られないのは、どうしてですか。 (]T)

11.「神であられる主と小羊とが神殿である」とはどういう意味ですか。(]T)

12.私たちは二重の意味で神のものだとは、どういうことですか。 (]T 小さな物語)

13.「み顔を仰ぎ見る」という表現の中には、どのような意味を読み取ることができますか。(]T)

14.エゼキエル書37章に記録されている、谷いっぱいの干からびた骨が、数え切れないほどの生きた人間になる幻は、何を意味していますか。 (]U)

15.イスラエル民族は、今後どのようになりますか。 (]U)

16.私たち人間の賛美が、御使いたちの賛美と違うのはどこですか。 (]W)

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