神の国第8課

Welcome to our homepage


神の国の完成@


 神の国は空想の国ではありません。いま現実に、私たちの中にあり、その力、その性質を遺憾なく発揮しています。いまの悪の世界にありながら、神の国は力をもって存在し、その聖い力、正しい力で悪魔の力を抑制し、悪霊どもを追い出し、病を癒し、永遠の命をもたらし、人々の心を造り変え、人間関係を新しくしています。

 この神の国が、もっとも明らかに現されているのは、神の国の共同体、神の国に入った人々が構成する共同体である、教会の中です。教会の中にこそ、あらゆる意味で神の国の力と性質が、具体的に顕現され、不完全な人間でありながら互いに愛し合い、助け合う世界ができていくのです。

 しかし神の国は、このような形だけで終わるものではありません。神の国は現在の現実であると共に、未来の現実でもあるからです。現在の神の国は、あくまでも未来における完全な神の国の予表、先取り、あるいは前味とでも言うべきものであって、未来における完全な神の国の現れこそ、私たちがもっとも期待するものです。私たちは、現在現れている神の国の、さまざまなすばらしさを体験するだけで、満足していてはならないのです。その現われを、やがて出現する完全な神の国の前兆と理解して、さらに大きく期待を膨らませるべきなのです。たしかに神の国は、いま、完成に向けて確実に形を整えつつあります。ただし、聖書の示すところによると、神の国はこれから千年以上にわたってくり広げられる、さまざまなでき事の集大成として、完成するのです。そこで、大きな課題ごとに分けて学んできた第7課までとは、少し書き方が異なりますが、それらのでき事の主なものを時代順に取り上げ、完全な神の国の完成に至るまで、学んでいきましょう。

T.世界宣教の終了

 神の国の出現に先立って、まず、どうしても実現されなければならないことが、ひとつあります。それについて、イエス様は次のようにおっしゃいました。「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民に証され、それから、終りの日が来ます。」(マタイ24:14)

イエス様は、終わりの日に先立って、世界の宣教が終了するとお教えになりました。ここで言われる終わりの日とは、「終わりの1日」という意味ではなく、完全な神の国の到来に関わる、一連のでき事が起こる日々という意味です。

テキスト ボックス: 筆者が活動地としていたフィリピンの山岳奥地 海抜およそ1500mの地点から、遥かに南シナ海を望む。イゴロットと呼ばれる山岳民族の、カンカナイ部族が小さな集落を作って住んでいます。 

 ただ、いったいどの時点で、福音が全世界に宣べ伝えられたと判断されるのか、私たちにはわかりません。すでに述べたように、現在、国連で認められている国家で、クリスチャンが皆無という国はひとつもありません。ところが、多くの国家は多数の民族や部族から成り立っています。ここで「国民」と翻訳されている言葉は、本来、「民族」と理解されるべきだとすると、まだ福音が述べ伝えられていない民族や部族が、たくさんあるはずです。あるいはどの程度語られ、どこまで理解されれば、福音は宣べ伝えられたと言えるのかも不明です。その判断は、あくまでも神様がしてくださることですから、私たちとしては、とにかく、宣教を続ける以外にありません。そして、福音は全世界に宣べ伝えられたと、神様が判断してくださったとき、キリストの再臨があるのです。ペテロもまた次のように語って、まず、世界宣教が達成されなければならないことを示唆しています。「主は、ある人たちが遅いと思っているように、約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」(Uペテロ3:9)

U.キリストの再臨と死者のよみがえり

 神様が、福音は全世界に宣べ伝えられたと判断したとき、まず実行に移してくださるのは、キリストの再臨です。私たちの側からすると、いつでも起こり得ることとして、期待し、また注意深く待たなければならないのが、このキリストの再臨です。再臨とは、キリストが再び、肉体を持った見える姿で、この世界に来てくださることです。この再臨についての理解にはさまざまな立場があって、必ずしも一様ではありませんが、聖書をまじめに学ぶキリスト教信仰の中に、この再臨の存在自体を否定するものはありません。神の国という中心主題も、この再臨を除いては成り立ちません。キリストの誕生も、十字架の死も、この再臨をなくしては、意味がなくなってしまうのです。キリストが再び見える肉体を持った姿で、この世界においでになるという、この再臨の教えは、信仰というものを観念論的に理解しがちな、つまり、信じればある、信じなければないというように受け取りがちな、日本人の心に、突然、現実感のあるものとして突入してくるのです。観念の世界でもてあそび、それでよしとしていたキリスト教が、突然、日常の現実の世界に闖入してくるのです。

テキスト ボックス: ちょっと余談ですが・・・。 仏教の中にもキリストの再臨(さいりん)に似た、弥勒(みろく)信仰というものがあります。 専門家たちによると、
多分、キリストの12弟子のひとりだったトマスが、インドに行って宣(の)べ伝(つた)えた再臨(さいりん)の教えが、仏教の中に形を変えて取り入れられたものだということです。厳密(げんみつ)には弥勒信仰にも諸説(しょせつ)があり、年の数え方にもいろいろありますが、一般的には、釈迦(しゃか)入滅(にゅうめつ)後57億6000万年後に、弥勒菩薩(みろくぼさつ)と呼ばれる仏がこの世に現れて、衆生を救ってくださることになっています。キリストの再臨には、今日かも知れない千年後かも知れないという、緊迫感(きんぱくかん)と期待感がありますが、仏教の教えからは、そのような緊迫感も期待感も失われています。 

キリストの再臨は、キリストご自身が直接言及し、非常に強い調子でお教えになったことです。(マタイ24:25−25:46、マルコ:14−37、ルカ21:25−36、ヨハネ14:1−3) また、甦られたキリストが天にお帰りになったとき、唖然としている弟子たちに天のみ使いたちが現れ、そのことをはっきりとお告げになりました。(使徒1:9−11) さらに、キリストの弟子たちも、いく度もくり返してそれについて語り、教え、励ましているものです。新約聖書の中には、キリストの再臨について触れている言葉が、じつに300回ほども出てくるということです。実際、聖書の多くの教えは、再臨を前提としていなければ理解できないものです。

 したがって、聖書を正しく理解しているすべてのクリスチャンは、この再臨を強く待ち望んでいます。ただし再臨の正確な日時は、父なる神以外に、だれも知らないという事実を、ここで、しっかりと理解しておかなければなりません。再臨は、強盗がいつ押し入るかわからないのと同じように、誰もわからないとき、期待していないとき、注意していないとき、突然起こるということです。それは明日かも知れず、千年後かも知れないのです。(マタイ24:35−51)だから、生きているクリスチャンは常に、ある種の緊張感と、期待感を持って生活するのです。再臨について、キリストや使徒たちが残してくださった警告は、それがいつ起こるか調べることではなく、いつあってもあわてることがないように、常に心の準備をしておくことです。(マタイ24:35−51、ルカ21:36) そこには、天変地異や戦争、あるいは偽キリストや偽預言者の出現などの、前兆が伴いますが、正確な日時は、父なる神だけが知っておられることであり、キリストさえ知らないとおっしゃるのです。(マタイ24:36、42−43、50、マルコ13:24−37その他)キリストが残された神の国についての教えの多くの部分が、これについて費やされています。

V.空中再臨

 しかし、聖書の教えをさらに細かく調べていくと、どうやらこの再臨には、ふたつの別々のでき事が含まれていると、考えるのが良いと思われます。それは第一の再臨と第二の再臨とも言うべきものですが、第一の再臨では、キリストはこの世界に訪れてくださいますが、地上に足をつけることはせず、空中にとどまって、甦って来る多くの人々や、地上に生き残っていたクリスチャンたちを迎え、現在キリストがいらっしゃるところへ、連れて行ってくださることになっています。(Tテサロニケ4:13−18、ヨハネ14:1−3) キリストが空中でとどまる再臨であることから、多くの人はこれを「空中再臨」と呼んでいます。また甦った人々や生き残っていたクリスチャンたちを、天に携え上げてくださることから、携挙とも呼んでいます。キリストや弟子たちがくり返し語り、期待するように励ましてくださったのは、主にこの空中再臨であったと思われます。

テキスト ボックス: 喇叭(トランペット)は、私たちの甦りのときの合図として,高らかに鳴り響くと教えられています。(Tコリント15:52)




 このキリストの空中再臨に付随して起こる、大切なでき事が、死者の復活です。ただし、この死者の復活はすべての死者の復活ではなく、キリストにあって死んだ者たち、すなわち真実のクリスチャンたちの復活です。(Tコリント15:12−23) この人たちがキリストの来臨に当たって甦り、一瞬のうちに造り変えられて、朽ちない体を与えられ、(Tコリント15:50−58)、キリストが迎えに来てくださっている空中まで、一気に携え上げられ、生き残っていたクリスチャンたちと共に、現在キリストがいらっしゃる次元に連れて行かれて(Tテサロニケ4:16−17)、キリストが準備してくださった家に住まわせていただくことになるのです。(ヨハネ14:1−3)

 私たちの肉体はいま、さまざまな病気や怪我、その他の理由で、あちこちが傷つき痛んでいます。動かないところもあれば、機能していない部分もあります。私たちが死ぬとき、この肉体は完全に朽ち果てるのです。日本では火葬が普通ですので、灰になり煙になります。海の中、山の中で朽ち果てた体もあることでしょう。しかし甦りのとき、私たちは新たに、完全な朽ちない肉体を着せられるのです。この世において、さまざまな肉体の欠陥を抱えていた者も、甦られたキリストのように、まったく完全な栄光の肉体を与えられて生きるのです。この世においていく度もキリストのみ名によって祈りながら、癒されなかった病も怪我も、それらの後遺症も、まったく消えうせてしまうのです。(ピリピ3:20−21)

 さらに、このとき、私たちの心の性質が、完全にキリストに似たものとされるのです。(Uペテロ1:4、Tヨハネ3:2−3)私たちは、あらゆる罪の性質と力と束縛から解放されて、キリストのように考え、キリストのように感じ、キリストのように行動できる存在に、造りかえられるのです。たとえ私たちの肉体が、どんなに完全にされたとしても、精神や心が病み、捻じ曲がっていたのでは、決して幸いな生活が営めないからです。この世に生きている間も、私たちはキリストに似たものになろうと、聖霊の励ましと助けを受けながら、懸命に励みます。でも、この世に生きる限り、私たちは不完全な自分に、泣き続けなければなりません。しかし、甦りのときには完全な清めを受けて、罪のないものとして生きるのです。ところで、キリストを信じて死んだ人々は、このときまで、どこでどのような状態でいるのでしょうか。普通の会話では「天国」となってしまうのですが、聖書の教えでは、むしろある種の中間状態として、つまり、本来、肉体と霊とがひとつとなって存在するべき人間が、肉体を離れてしまっているという、あるべき姿ではない状態で存在する期間です。聖書も、「眠った者」(I コリント15:8、20)、「眠った人々」(Tテサロニケ4:13−14)、「眠りについた」(使徒7:60)などという表現を用いているために、眠ったような状態になるのだと、早合点してしまう人もいますが、聖書は、当時の一般的な表現を用いて、死を比喩的に、遠まわしに語っただけであり、死の状態を説明したのではありません。(参照・ヨハネ11:11−14)

 この件については、たしかに聖書の言及が少なく、確実なことはあまり言えないのですが、示唆が与えられるキリストのお言葉が、わずかながら記されています。それは金持ちと乞食のラザロの物語に、「アブラハムのふところ」という表現で語られている場合と(ルカ16:22)、十字架の上でキリストを信じた強盗に対して、「今日、私と共にパラダイスにいる」とお語りになった場合です(ルカ23:43)。これらのお言葉から、明確にわかるひとつのことは、それが、意識のはっきりしている幸せな状態だということです。したがって、甦りというものは、意識が回復することではありません。一時的に肉体を持たない状態で、人間としては、いわば中途半端な姿で存在していたものが、再び肉体を与えられて、人間本来の姿に戻されることです。いま生きている私たちがいるのと、同じ次元に戻されることです。今この世で生きている側から見ると、それは、あたかも死んでいたものが生き返って、再び出現したように見えるために、甦りと表現されたのです。キリストの甦りもまた、意識のないところから意識を回復することではなく、栄光の肉体という異なった肉体を持って再来するということでした。

W.小羊の婚宴

 私たちは、空中再臨にあずかって、完全なものに造りかえられます。ところが面白いことに、聖書は、個人としてのクリスチャンの完成よりも、むしろクリスチャンの共同体である、教会の完成について強く語っています。私たちの神は、もともと愛の神であり、交わりの神です。クリスチャン信仰は本来、個人の完成を目指した信仰ではなく、交わりの完成を目指した信仰、共同体の完成を目標とした信仰なのです。ですから、キリストの花嫁となるべくこの世で婚約していたのは、個々人のクリスチャンではなく、彼らが造りだす共同体である教会です。(Uコリント11:2、エペソ5:26−27)

 この世の教会は、まだまだ、キリストの花嫁としてはふさわしくないものを、たくさん抱えていました。ところがキリストの空中再臨のときに、まったく造りかえられた完全な信徒の交わりとなり、天に引き上げられ、そこでキリストとの結婚が成立するのです。このキリストと教会の結婚を、黙示録は「小羊の婚宴」と呼んで(黙示録19:7−9)、大きなでき事として記しています。キリストの花嫁としての教会が、結婚を前に完全なものにされるということは、その構成員であるひとりひとりのクリスチャンも、完全なものとされることです。聖書はひとりひとりのクリスチャンの完成よりも、信徒の共同体としての教会の完成について多くを語り、そこから、当然、信徒ひとりひとりの完成が想定されるのです。教会はキリストの花嫁であり、キリストの結婚を目前にして、完全なものとされます。結婚と言う、人間社会でもっとも神聖で親密であるべき関係が、キリストと教会の神聖で親密な関係を表現しているのです。この時点において、教会はこの世の戦いを終え、完全に勝利の教会になるのです。

 この教会は、キリストを信じて死んだ人々と、生きたままキリストの携挙にあずかった人々の両方、つまりすべてのクリスチャンを含みます。そして、すべてのクリスチャンは、キリストの準備された住まいにすむことになり、キリストとの結婚で象徴される、神とのもっとも親密な、隔たりのない交わりを許されるのです。教会、すなわちすべてのクリスチャンは、この世界では味わうことができなかった、神様との深遠な交わりの醍醐味を味わい、それを喜びながら、神をほめたたえて生きるのです。この神との交わり、キリストとの交わりは、人間にとってすばらしいだけではなく、キリストご自身がまた、これを待ちわびるほどのものです。もともと人間は、神と交わることができるように、神に似せて造られています。その交わりの頂点が、この婚姻で表現されるものなのです。そのときに対する待ち焦がれる思いを、キリストは、あの有名な最後の晩餐でお語りになりました。「ただ、言っておきます。私の父の御国で、あなた方と新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」(マタイ26:29、マルコ14:25、ルカ22:15−17) 

 キリストが、もういちど過ぎ越しの食事をするときまで、ぶどうの実から作ったものを口にしないとおっしゃるのは、そのときまで、ぶどう絶ちをしてくださると言うことです。ぶどう絶ちは、イスラエルの習慣ではもっとも厳しい「絶ち」でしょう。日本なら、味噌絶ち、醤油絶ち、米絶ちに匹敵するもので、キリストの期待の高さ、膨らむ望みの大きさを表しています。ヨハネの記録によると、キリストは、「過ぎ越しが神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過ぎ越しの食事をすることはありません。」とも語っておられますが、婚姻が、贖いの最終的な完成と言う意味において、救いを意味する過ぎ越しの完成であるとも言えるのです、またキリストは、過ぎ越しの食事というイスラエルの宗教的伝統の機会を捉えて、この期待を表明されたために、過ぎ越しと言う言葉を選ばれたのでしょう。

※※※まとめ※※※

 キリストの福音が全世界に宣べ伝えられたと、神が判断なさったとき、キリストの空中再臨があります。このとき、キリストにあって死んだ人は甦り、空中まで迎えに来てくださったキリストに迎えられ、今キリストがいらっしゃる次元に、連れて行かれます。そのとき生き残っていたクリスチャンたちも、甦った人々に続いて携え上げられ、共に、身も心もキリストのみ姿に似るものに造りかえられます。そして、キリストが備えてくださった「小羊の婚宴」といわれる天の宴に連なり、キリストとの豊かな愛の交わりを楽しむのです。

X.大艱難時代 

 空中再臨のとき、すべてのクリスチャンは、キリストのもとに携え上げられてしまうのですから、地上には本当のクリスチャンはいなくなってしまいます。もしも地上に残された「クリスチャンたち」がいるとしたら、自分ではクリスチャンだと思い込んでいた、また、他の人にもそのように思われてもいたにもかかわらず、神の基準からすると本物ではなかった人々です。この人たちにも、真実に悔い改めて神の国に入る機会は、まだ残されていますが、非常な困難を経験していかなければなりません。神の国の完成に向けて起こる、さまざまな事柄についての聖書の予言の言葉は複雑で、独断的に解釈することは出来ませんが、私たちは、この空中再臨に続いて、地上では大艱難時代と呼ばれる非常に困難な時代が、7年間続くと考えています。その艱難は、この世界がかつて経験したことが無かったほどの苦しみで、人々はあらゆる天変地異と、政治の混乱と戦争に打ちのめされます。(マタイ24:21、ダニエル9:24−27、12:1)この期間は、神様に選ばれて、神様の御用をするべきだったのに、その使命を果たすことができずに堕落してしまったイスラエル民族を清め、救いに入れることを第一の目的として、備えられたものと考えられています。

 イスラエルは神の選びの民族であり、キリストがその中に生まれた民族であり、多くの意味で祝福を受けた民族です。しかし、現在のイスラエル人の中には、一握りにも満たないクリスチャンがいるだけです。民族全体としては、いまだに、2000年近くも前のイスラエル人が待ち望んでいたのと同じ、国家的、軍事的、政治的救い主の出現を待ち望んでいて、宗主国のローマ人の手で、十字架で殺されてしまった弱々しいイエスを、救い主とは信じていません。しかしそのようなイスラエル人の中にも、この大艱難を通して改めてキリストを見つめ直し、信じるようになるものが大勢あらわれるのです。それが実数であるのか、象徴的な数なのかははっきりしませんが、聖書はその数を14万4千人と言っています。(黙示録7:4)

 その一方で、クリスチャンにならずに、この時代に入れられてしまった一般の人々は、ここでキリストの教えを思い起こし、悔い改めて救いに入ることも、まったく不可能なのではありませんが、「神の恵みのとき、救いの日」を、(Uコリント6:1−2)逃してしまったのですから、大変、難しいことになります。人がキリストを信じるためには、聖霊の励ましと押し出しが必要ですが、(Tコリント12:3)この大艱難時代には、悪魔の働きがもっとも活発なときであり、その聖霊のお働きを期待できるかどうか、さだかではありません。このときには、非常に多くの人々が悲惨な死に方をしなければなりません。ですから、このときが来る前に、キリストを信じておかなければならないのです。とはいえ、世界中の多くの人々は、たとえクリスチャンにはならなくても、キリスト教についての知識は持っています。携挙が起こり、クリスチャンたちがことごとく姿を消してしまうと、それらの多くの人々が改めて、聖書の教えていることの真実さに気づきます。そこで彼らは、大きな嘆きと共に、(マタイ24:30)悔い改め、キリストを信じ、大変な艱難を通って救いの中に入ってくることでしょう。その数は誰も数え切れないほどであると言われています。(黙示録7:9−17)

Y.地上再臨と千年王国

 大艱難時代には、たくさんの戦いや天変地異が起こり、多くの人々が苦しみ、死に追いやられますが、神様の哀れみによって、(マタイ24:22)7年間という短い期間の後、悪魔とその軍勢が神の軍勢に敗北して、終わりを告げます。そこで悪魔は、「底知れぬところ」と表現されている次元に投げ込まれ、千年の間、人々を惑わすことが無いように閉じ込められてしまいます。(黙示録19:19−20:3) そしてこの後、キリストは栄光の王として、再びこの地上に降り立ってくださいます。このとき、先にみもとに携え上げた人々を引き連れて、この地上に戻ってくださるのです。これが第二の再臨で、地上再臨と呼ばれるものです。

 このときのキリストは、神の姿を横に置いて、弱い人間の姿を取り、ユダヤの寒村ベツレヘムの馬小屋で、貧しい女から生まれ出てくださった、へりくだりの僕としてのキリストではありません。千年のあいだ全世界を治める勝利の王として、この世界に再びおいでになるのです。そしてこのとき、キリストに伴われてこの地上に降り立つ人々は、一千年間に及ぶキリストの世界統治に、キリストと共に世界を支配するものとして、参画するのです。これが「千年王国」と呼ばれているものです。(黙示録20:4)この千年が文字通りの千年なのか、象徴的に千年といわれているのかは判断が難しいところですが、文字通りと考える人が多いようです。

 この千年間は、7年間の大艱難時代とは打って変わった、まったく穏やかな祝福された時代です。この千年王国について、長いあいだ、政治的にも軍事的にも権力を掌握してきた、カトリック教会をはじめとして、西欧の伝統的教会の多くは間違った理解をしてきました。彼らは、自分たちの教会の権力の増大によって、世界を平定し、そこにキリストを王としてお迎えすることによって、千年王国が樹立されるとか、すべての民族にキリスト教的思想を行き渡らせ、人間の善意を高揚して世界平和を成し遂げ、そこにキリストを王としてお迎えして、千年王国を来たらせると言うような、楽観的で独善的な、勝利主義の考えを抱いてきました。しかしキリストは、教会の力が強まり、世界がキリスト教化されるとか、キリストの教えが世界を覆い、人々の善意が高揚され世界平和が実現されるというようなこととはまったく逆に、天変地異、偽キリストの出現、戦争、民族抗争、多くの偽預言者の出現、教会の迫害と衰退、不法の蔓延と人々の愛の冷却などが起こると、はっきりと予告しておられます。(マタイ24:3−14)そのような世界の流れに対して、突然、神の力の介入があって、悪魔が捕らえられ、千年王国が出現するのです。

 この千年王国がどのように美しく、祝福に富んだ時代であるか、いまから2700年以上も前に活躍したイザヤという預言者は、次のように描写しています。その描写を文字通り理解すべきか、比喩的表現と理解すべきか、見解はいろいろありますが、その祝福がいかに美しいものか、垣間見ることができます。狼は子羊と共に宿り、ひょうは子やぎと共に伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子供がこれを追っていく。>雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。(イザヤ11:6−8)ここでは、百歳で死ぬ人も若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者はのろわれた者と言われるほどです。(イザヤ65:20−25) 悪魔が拘束され、その働きができなくなるだけでなく、キリストがその正義と恵みをもって、支配してくださるからです。当然、キリストと共にこの地上に戻ってきた人々は、ここで死を経験することはありません。彼らは、すでに永遠の命を手にしているのです。しかし、この千年王国は永遠の神の国そのものではなく、そのひとつ前の段階にすぎません。

 この千年王国は、じつにすばらしい祝福の時代であると、聖書は語っていますが、私たちの興味が満足させられるほどに、こと細かく語ってはいません。たとえばキリストは、復活にあずかった人々には結婚というものがなくなると、お教えになりました。「天国でもあなたと結婚して、いつまでも一緒に生きたい」などと願っている人には、まことに気の毒ですが、復活の際に、人間性が変えられてしまうらしいのです。(マタイ22:23−33、マルコ12:18−25、ルカ20:27−38)ところがその人たちが、キリストと共にこの世界に戻り、千年の間キリストの王国で支配者として働くとき、地上に残ったまま千年王国に入った人々と、つまり結婚を継続したままの人々と一緒に住むようになる場合、一体どういうことになるのだろうか、などと想像をたくましくしても、わからないのです。あるいは、キリストがせっかく天に準備してくださった私たちの住まいは、この千年間、空き家になってしまうのだろうかなどと、心配してもはじまりません。いま私たちにできることは、聖書が教えていることを知るだけなのです。

テキスト ボックス: イザヤ書の記述を読むと、キリストの第一降臨(こうりん)(赤子としてベツレヘムで生まれたとき)と再臨、 千年王国、それから後に述べる新
天新地などが、あたかも同じ時期に起こるかのように預言されています。これはイザヤに限らず、多くの預言書の予言の特徴であり、キリストの予言もまた同じです。先にも説明したように、遠くから山々を見渡すと、ほとんど同じ場所に重なって見える山が、実際には数十キロも離れた場所に立つ、まったく別の山であることが、よくあります。遠い未来のことを見て語る予言も、多くのでき事が、あたかも同時に起こるかのように見えるため、その通りに語られたのですが、実際には、まったく別々の時代のでき事だという場合がよくあります。したがって、ひとつの予言の一回きりの記述で結論を出さず、関連するいくつもの予言や記述や教えを、比較対照しながら学ぶことが大切です。
 またこの学びでは、「預言」と「予言」という、ふたつの良く似た言葉が使われています。預言とは、神の言葉を預かって語るという意味で、神の啓示を受けて、神からの言葉を語ることです。一方、予言とは未来のことを告げるという意味です。預言の中には予言も含まれていますが、予言の中には、神から告げられたものではない、何か他の力による予言もあります。

 旧約聖書のエゼキエル書という書物の後ろの部分、40章以降は、すべて美しいエルサレムの記述で、後で述べる新天新地と非常に良く似ているのですが、どうやらこれは、回復されたイスラエル民族が暮らす、千年王国の中のエルサレムの様子を語っているものであると、考えられます。千年王国と新天新地は、予言の中ではしばしば重なって語られています。ただ、千年王国のエルサレムの描写は、新天新地のエルサレムに比べて非常に小さいことや、千年王国の川にはたくさんの魚が住んでいて、魚つりの好きな筆者にはうれしい限りなのですが、新天新地では魚つりができるのかどうか、確かではないことなどの違いがあります。

Z.悪魔の最終的敗北と最後の審判

 この千年王国は、ゴグ・マゴグの戦いという、大戦争の勃発で終わりを告げます。千年の終わりに、それまで牢獄に閉じ込められていた悪魔が解き放たれ、神と神の軍勢に最終の戦いを挑むのです。(黙示録20:7−9) その戦いの熾烈さは、想像に難くありませんが、神が最終的勝利を勝ち取られ、悪魔とその配下どもは火と硫黄との池、あるいは火の池と呼ばれる、永遠の刑罰へと投げ入れられ、昼も夜も苦しみを受けるのです。(黙示録20:10、14) 彼らが自由を得ることは、二度と再びありません。神の計画を妨げようと画策したり、人間に罪を犯させ、神に敵対させたりすることができなくなるのです。

 このあと、神の御心に沿わない生き方をして死んだ、すべての死者が甦り、神の前に出て、それぞれの行いに応じて裁きを受けます。(黙示録20:13) この甦りは、第二の復活と言われるべきものですが、(黙示録20:5−6)第一の復活は、キリストの空中再臨の際に起こった復活のことか、それとも、大艱難時代に死んだ正しい人たちの復活というものがあって、そのことを指しているのか、定かではありません。たぶん、キリストの空中再臨のときの復活と理解するのが、全体の流れから、より自然でしょう。ともあれこの裁きは、普通、最後の審判、もしくは「大きな白い御座の裁き」と呼ばれ、非常に厳粛なものであり、次のような言葉で表現されています。「また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。」(黙示録20:11) 神の峻厳さ、厳格さ、その威厳、恐ろしさの前には、天地も逃げ去るというのです。

 またこのとき、「すべての人々の行いが記された数々の本が開かれる」と記されていますが、(黙示録20:12)これは、人間がこの世に生きている間に考え、また行ったすべてのことが、神の記憶の中にあるということを表現したものでしょう。現代ならば、さしずめ、スーパーコンピューターが持ち出されとでも表現すべき場面ですが、第一世紀の人間が書いたものですから、数々の本といわれています。全知全能の神には、記録帳もコンピューターも不要ですから、これはやはり比喩的表現とみなすべきかも知れません。すべては神のご記憶の中にあるのです。ただし、人間がそれぞれの行いを思い起こし、納得できるために記録が取られているとしたら、かずかずの本もあり得ることでしょう。

 ともあれ、ここで明白なことは、すべての人がまるで塵芥のように、無造作にひとまとめにされて裁かれ、永遠の滅びの中に投げ込まれるのではなく、ひとりひとりがそれぞれの行いに応じて、厳正かつ公正に裁かれるということです。(Tペテロ1:17) どのような悪人にも、悪に負け、罪に陥った悲しいわけがあります。誰にもわかってもらえない辛い背景と理由があり、どうしようもなかった心の動きと原因があります。それらのことをすべて理解してくださった上で、神は厳正に、また公正に裁いて下さるのであって、怒りに任せて、すべての悪人を滅びに陥れると言うことではないのです。ですから、滅びというものが、「火の池」「永遠の苦しみ」「第二の死」という表現で教えられているところから、その厳しい刑罰の面だけが強調されがちですが、神は、ひとりひとりの心の動きまでも考慮し、公平に裁いてくださるのだということにも、注意しなければなりません。とくに神の律法を知らず、キリストの救いについても聞いたことがないまま、罪の中に死んだ人たちに対して、神はあくまでも公平に、「律法なしに死んだ者は律法なしに」、その人の良心に照らして裁いて下さるということは、理解しておくべきです。(ローマ2:12−16)

 キリストの福音を聞く機会もないまま死んだ人々にも、当然、彼らの文化の中での良心と言うものがあります。それが彼らの裁きの基準になるのです。キリストを信じていなかったと言うことだけで、すべての人が同じように滅ぼされるのではありません。彼らは救いには入れられないと言う意味で、同じように滅ぼされますが、その滅びの中においても、それぞれ仕業に応じて正しく裁かれるのです、善人が悪人と同じ処罰を受けることはないのです。(ローマ2:12−16) また、キリストの福音を聞いて知っていながら、それを受け入れなかった人の裁きは、知らなかった人の裁きより重いのも当然です。(Uペテロ2:21)

 ここでもうひとつ、注意しておかなければならない、記述があります。それは、「別のひとつの書物が開かれた。それは、命の書であった。」という言葉です。(黙示録20:12) この「命の書」という言葉は、旧約聖書の時代から用いられ、この書物に名前を記されたものは永遠の命を持つという、ひとつの概念となっていたものであり、キリストやパウロによっても使われたものです。(出エジプト32:32、イザヤ4:3、ダニエル12:1、ピリピ4:3、ヘブル12:23、黙示録3:5、13:8、17:8、20:15、21:27) 命の書に名前を記されている者は、永遠の命をあたえられ、火の池に投げ込まれることがないのです。黙示録20:15) だからキリストは、悪霊どもまで自分たちの権威に従うと、大いに喜び、興奮していた弟子たちに対して、そのようなことで喜ぶのではなく、自分たちの名前が天の書に記されていることを喜びなさいと、おっしゃったのです。(ルカ10:20) 

 黙示録の記述によると、命の書に名前を書き記された人々の裁きと、永遠の命を持たない者たちの裁きが、同じときに行われるかのように読み取れますが、他の聖書の記述を照合していくと、別のときと判断したほうがいいようにも、考えられます。先に述べたように、黙示文の予言から、時間的配列をきちっと述べるのは、困難なことですが、永遠の命を持った者たちもまた、それぞれの行いに応じて裁かれるということは明らかです。しかし、永遠の命を持った者の裁きは、決して、永遠の滅びに至る裁きにはなりません。永遠の滅びは「第二の死」と表現されていますが、(黙示録20:14)この第二の死は、第一の復活に預かった人々、すなわち、キリストを信じていた人々には、何の力も持っていないからです。(黙示録20:4−6)キリストを信じた人々にとっての裁きは、つまり、永遠の命に入ってどのような報酬を受けるかの裁きです。それぞれはこの世にあって、いかに忠実に神に従ったかによって、裁きを受け、褒賞、すなわちご褒美を受けるのです。(Tコリント3:10−17、マタイ5:10−12、6:20、) キリストを信じた人々の罪の刑罰は、すでにキリストが十字架の上で身代わりに受けてくださったのですから、再びその同じ罪のために、裁きを受けることはあり得ません。キリストを救い主として信じているものの罪は、キリストを信じる前に犯したすべての罪も、信じた後に犯したすべての罪も、ともに、ことごとく許されているのです。

※※ まとめ ※※※

 キリストの空中再臨の後、すべてのクリスチャンを失ったこの地上は、大艱難時代と呼ばれる7年間に突入します。この未曾有の困難な時代は、悪魔の軍勢が神の軍勢に打ち破られ、悪魔と共に、底知れぬところに投げ込まれて、終わりを告げます、それからキリストは、小羊の婚宴をすませた人々を引き連れて、この地上にもどり、王として1000年間君臨されます。その年間の終わりに、悪魔はもう一度解き放たれ、多くの人々を惑わして、神に対して最終的戦いを挑みますが、ここでも完全に敗北し、二度と再び出てくることができない、「火と硫黄の池」と呼ばれる永遠の刑罰に投げ込まれます。この後、天地創造以来、神に従わずに生きたすべての人が、裁きのために甦り、それぞれの仕業に応じて正当な裁きを受け、永遠の裁きの中に入れられるのです。

私が出会った人

 私たちが到着したとき、彼女は小康を得て、眠り陥っていました。いつもなら、7時間はかかる道を、3時間半で運転してきた私も、一眠りする事にしました。制限速度速など存在しなかった国の、真夜中の国道とは言え、ずいぶん乱暴なことでした。

 前日の夜11時過ぎ、私は山岳奥地の徒歩旅行から戻って、一週間ぶりの風呂に入りながら、体に染みた松の焚き火の煤を、暖かい湯がゆっくりと流れ落として真っ黒になっていくのを、妙にいとおしい気持ちで楽しんでいました。突然、開通したばかりの電話がけたたましく鳴り響き、私の贅沢な時間が終わりました。モンテンルパ刑務所で聖書学校を始めた友人の次男で、マニラで牧師をしている青年からの電話でした。母親が癌のため、医者に今日か明日の命と言われたのだけれど、だれも彼女にそれを告げる勇気がない。ブラザー・ササキに、母に告げてもらえないだろうかと言うことでした。私は、自分たちの教会の牧師にお願いすべきで、私が出る幕ではない事を告げたのですが、説得されてしまいました。牧師はアメリカからの宣教師で、フィリピンの社会のことは何も知らず、頼りなくて、無理だと言うのです。青年は続けて説明して言いました。「実は、我家の財産管理はすべて母が行なって来ました。父はもっぱら儲けるだけで、管理の事は一切、母に任せ切りです。ですから、いま母に死なれると、我家の財産は一切宙に浮いてしまい、とんでもない事になるのです。それで父が、至急ブラザー・ササキに来てもらうようにと言って、私に電話をかけさせたのです。」

 私は切迫した青年の声に、「そうですか、実は私は、昨夜はほとんど寝ていません。今日は10時間歩き続け、7時間運転して、今、家に着いたばかりなんですよ。だから、数時間眠って、朝一番に出発します」と答え、体を拭いて布団にもぐり込もうとしました。すると、またも電話が鳴りました。こんどは長男からです。「ブラザー・ササキ! 今すぐ来てはもらえませんか?! 母が明日まで持つかどうか、わからないのです。どう言うわけか、母にはまったく痛みも無く、極めて落ち着いているため、本人には死が迫っていると言う自覚が、まったくないのです。せめて、母が自分の状況を理解して、担当の弁護士さえ教えてくれればいいのですが。」腹の中は、「何てことだ! いくらなんでも、そんな風に奥さんに任せ切りとは。それにしても、自分たちで告げられないなんて、まったく情けない。」とつぶやきながらも、自分は宣教師。口では、「わかりました。今すぐ行きましょう」と答えていました。寝ていた長男を起こして手短に事情を説明し、妻と私は砂埃だらけの車に飛び乗りました。11時半少し前でした。

 私の友人は、多くの極悪人が、奇跡のような救いの体験をしていた、モンテンルパの刑務所を始めとして、いろいろなところで素晴らしい働きをしていました。理屈っぽい人間で、初めて会ったときから、いつも論争ばかりしてきました。そしてとうとう互いに信頼して、何でも言い合え、何でも相談できる仲になりました。彼の奥さんは、物静かな美人で、やさしく暖かい人柄でした。マニラに出向く度に彼の家に泊めてもらい、食べさせてもらったものです。「あのしっかり者が、何てことだ。」午前3時過ぎ、私たちは彼の家に飛び込みましたが、眠りについた彼女を起さずに、目覚めるのを待つことにし、私たちもベッドに横になりました。7時過ぎ、奥さんが目覚めたと言うことで、私は家族全員を奥さんの枕元に集めて聖書を読みました。「この病は死に至るものではない」とおっしゃったイエス様のお言葉です。そして彼女に言いました。「シスター・フェ。突然私が目の前に現れて驚いていらっしゃるでしょう。しかし私は、大切な事をあなたにお話するために参りました。あなたの病気は、永遠の死に至る病ではありません。しかしあなたは、まもなく、今日、あるいは数日の内に、あなたの家族に、ひとときの別れを告げなければなりません。」

 彼女は終始穏やかな笑みを浮かべ、頷きながら聞いていました。その目には、悲しみや戸惑いの色、あるいは憤りや嘆きの陰もありませんでした。すぐ弁護士に電話をして、ただちに来てくれるように連絡したあと、夫と子供たちひとりひとり、それから老いた母親にも、お礼と別れの言葉を言いました。そして、やがて神の国で再会する大きな希望の日について、ずいぶん楽しげに話したのです。ひとしきりの談笑が途切れ、つと真顔になった彼女はわたしたちに言いました。「ブラザー・ササキとシスター・ササキ、何もかもありがとうございます。でも、もうひとつだけ、お願いできるでしょうか。それは夫のマニーのことです。夫が素敵な女性と再婚できるように、どうか、手助けしてください。」 そして最後に夫に言いました。「マニー。私は幸せでした。私の願いは、これからもあなたが幸せに生きることです。どうか素晴らしい女性を見つけて、再婚してください。でもそれには条件があります。まず、家族みんなが、その女性で良いと言うこと。第二は、ブラザー・アンド・シスター・ササキに、その人で良いと許可をもらう事です。子供たちは、父親のために甘くなりますから、ブラザー・ササキ。よろしくお願いしますね。」 私は大きくうなずき、その願いをお引き受けしました。数日後、彼女は永遠のみ国に召されました。とても美しく、晴れやかな旅立ちだったと、子供たちに聞きました。葬式の写真も見せてもらいました。驚いた事に、家族はみな真っ白な晴れ着を着ていました。すでに結婚していた長女は、ウエディングドレスでした。さぞかし、珍妙な、前代未聞の葬式だった事でしょう。でも、それが妻と母と娘を天に送るにふさわしいと、みんなで考えたのです。

 私たちと彼らのお付き合いは、今も続いています。いつも一緒にいて離れない、若く美しい素敵な奥さんは、二番目の候補者で、私たちが許可した女性でした。長女の友達で、同い年とは驚きましたが、両方の家族も大喜びの結婚で、いまも幸せです。「ブラザー・ササキ。神様はまだ、私の願いを聞いてくださらないんです。」 数年前に会ったとき、若い奥さんはちょっと不平を漏らしました。「シスター・キャシー。始めから、その事は神様にお任せして結婚したのですから、神様を責めるのは止めましょう。」 赤ちゃんが欲しくてたまらない彼女に、私が答えると、彼女は、「そうね! 人間って、欲張りだから、つい、神様に不平を言ってしまうの。でも私は、マニーを夫にいただいて、神様に、とっても感謝してるのよ!」 次の年、彼らの家を訪ねたとき、若い奥さんは養子にした女の子の手を取って、とても幸せそうでした。私はいろいろな女性を見てきましたが、50になるかならないかでこの地上の旅を終えて、自分の国に帰って行ったシスター・フェほど、強い女性を知りません。彼女は、いまわの際まで、夫の幸せと将来を考える事ができました。彼女もまた、神の国を見て生きていたのです。

 そうそう、彼女が召されて数年後、残された夫がまだ結婚する前、私に嘘を言ったことがありました。「ブラザー・ササキ。実は妻が死ぬ前に遺言で、ブラザー・ササキの働きのために、献金するようにと言って、残して行ったお金があるので・・・・・・。」 彼は当時の日本のお金にすると100万円ほどを、私が進めていた働きのために出してくださいました。現地では大学卒業生の給料が、1万円にもならなかった頃です。私はそれが嘘であることに気づいていました。私が、宣教地の人からはお金を受け取らない宣教師である事を知っていた彼は、少し前に思いがけず入ったお金を、奥さんの遺言と言う名目で、なんとか私たちの働きに献金しようとしたのです。私は、彼の嘘をゆるして上げました。

問題集

 テキストを充分に学んでから、これからの問題に答えてください。まず、テキストを伏せて、すべての問題に挑戦してください。それから、不確実な答えをなくするために、もう一度テキストを学びながら、答えてみましょう。(1〜2ページ)

1.終わりの日が来て、キリストが再臨をしてくださる前に、教会が成し遂げなければならないことは何ですか。(2〜3ページ)

2.クリスチャン信仰の中で、なぜ再臨が大切なのですか。(3ページ)

3.新約聖書は、再臨について、およそ何回記していますか。

4.再臨の日を、確実に知ることができますか。

5.キリストや使徒たちが残してくださった、関する警告は何ですか。(4ページ)

6.空中再臨とは何ですか。

7.空中再臨に伴って起こる大切なことは何ですか。(4〜5ページ)

8.キリストを信じて死んだ人々が甦るとき、彼らにはどのような変化が起こりますか。(5ページ)

9.キリストを信じて死んだ人々は、よみがえりのときまで、どのような状態ですごしますか。

10.小羊の婚宴とは何ですか

11.小羊の婚宴に対する期待を、キリストはどのような言葉で表現なさいましたか。

12.空中再臨の後に残された地上では、どのような時代を迎えますか。(8−10ページ)

13.千年王国とはなんですか。

14.千年王国の時代、悪魔とその手下どもはどのようになっていますか(8〜9ページ)

15.千年王国の時代、空中再臨で御許に携え上げられた人々は、どうなりますか。(9ページ)

16.千年王国についての間違った理解とは、どのようなものですか。

17.やがて起こると、聖書に予言されているでき事の、前後関係が不明瞭なのはなぜですか。

18.千年王国の終わりに何が起こりますか。またその結果、悪魔とその手下どもはどうなりますか。

19.第二の復活と聖書が呼ぶ出来事とは、どのようなものですか。

20.最後の審判、または大きな白い御座のさばきとは、どのようなものですか。(11〜12ページ)

21.最後の審判において示される、神の公平さとはどのようなものですか。(13ページ)

22.いのちの書に名前を記された人たちの、裁きはどうなっていますか。

Copyright © 2007 Masaaki Sasaki All right reserved.