神の国第7課

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神の国の共同体(2)


 霊的誕生をして新しい生き方を始めた人々は、自分たちだけで孤独に生きるのではありません。神の家族、キリストのみ体、その他さまざまな名前で呼ばれる、共同体の中に生まれたのであり、その共同体の中で同じ神の子供として交わりを保ちながら、神の子供としてふさわしく成長するのです。この共同体は、人間が思いついて造ったものではなく、キリストがお建てになり、ご自分で「教会」と名づけてくださったものです。

 この教会は、神の国に生まれた人々が、互いに愛し合い、いたわりあい、助け合って生きることによって、やがて現される完全な神の国を彷彿とさせるものですが、それだけが目的で存在するものではありません。教会には与えられた働きと使命があります。

Y.教会の働き

 教会にはいろいろな働きがあります。まず、すぐ気がつくのは普通の教会の活動で、たとえば礼拝会や聖書の勉強会、日曜学校あるいは祈り会などの、各種集会です。あるいは、教会によっては壮年会や婦人会、青年会、子ども会などの活動もあるでしょう。幼稚園や老人介護施設を運営しているものもありますし、付属の学校を持っている教会も、外国にはたくさんあります。日本でも、ひとつの地域教会としては無理でも、団体として、幼稚園から大学まで持っている場合や、病院などを経営している場合がたくさんあります。

 あるいは政治運動や社会運動に活発に参加し、発言している教会もありますし、慈善活動や自然保護活動に熱心な教会もあります。表面から見るだけでは、何が教会本来の活動、教会の教会としての働きなのかよくわからないために、きちっと整理して理解する必要があります。教会には教会として、なくてはならない働きがあります。そしてそれらの働きを進めていく上で、あるいはそれらの働きを具体化して行く方法として、出てくる働きがあります、つまり中心的な働きと周辺的な働きです。そこを押さえると、理解しやすくなります。 聖書を良く学んでいくと、教会には、大きく分けて四つの中心的働きがあることがわかります。ある人たちはむしろ三つに分けたほうが、理解し易いといいます。たしかにそういうところもありますが、ここでは4つに分類して話を進めましょう。便宜上分類の仕方が変わるだけで、内容に差はありません。

Y.A.礼拝

 教会の中心的活動、もっとも基本となる働きは、礼拝です。礼拝とは、神を神として認め、あがめることです。これは人間としての当然の行為です。神に似せて造られた人間は、たとえどのような文化の中にあってもすべて必ず神テキスト ボックス:  本当の教会は、教会堂でも教会の集会でもなく、神の国に召し入れられた人々の集まりです。もっとも大切な教会の活動は、さまざまな方法で神様を礼拝することです。意識を持っています。そして、神を礼拝する本能を持っています。

明確な理解の礼拝

 日本人は不明瞭な、ぼんやりとした神意識しか持っていません。それでも昔から社を作り、お祭りをして、自分たちの方法で神を礼拝しようとしてきました。一方クリスチャンは、聖書によって明確に、神が万物の創造者であり、私たちもまた神の創造物であることを知っています。ですから、明確な神理解をもって礼拝します。それだけではなく、わたしたちの神は、十字架を立ててまでわたしたちを救ってくださる、愛の神であると知っていますので、感謝と感動を込めて礼拝します。

 クリスチャンたちはまた、正しい礼拝の仕方を、聖書によって教えられています。わたしたちには完全な仲保者、すなわち、神と私たちの仲を、すこしの落ち度もなく取り持ってくださる、キリストがいらっしゃいます。神の小羊、完全な犠牲となって、私たちのために死んでくださったキリストがいてくださるために、もはや、犠牲を携えていくことはしません。難行苦行もしません。ただ、キリストを救い主として受け入れ、感謝を持って神に近づき、賛美のささげものをささげます。

愛の礼拝

 神を神としてあがめ、賛美するのは、そうするように造られた人間として、当然のことですが、私たちはたんに、創造主である神をあがめるだけではなく、あがない主、救い主である神をあがめ、賛美と感謝をささげるのです。この礼拝のあり方を聖書は「神を愛する」という言葉で表現しています。愛するということは、暖かい心を通わせることですが、私たちは自分を造ってくださった神と心を通わせ、十字架の犠牲まではらって、自分を救ってくださった神と心を通わせます。ありがとうございますと心を通わせ、賛美をささげて心を通わせます。

 愛するということ、すなわち、神をあがめ賛美するという行為は、ただそれだけで終わるものではありません。それは神の御心にかなった生き方、神のお喜びになる生き方をしよう、神にお仕えしようという、願いと努力になって現れてきます。すると、わたしたちの生活のすべて、つまり、食べるにしても寝るにしても、仕事をするにしても、遊ぶにしても、互いに愛しあうにしても、助けあうにしても、生きることそのものが、神への礼拝の行為となるのです。

公同の礼拝

 この礼拝は、個人の礼拝として終わるべきものではありません。すでに学んだように、わたしたちクリスチャンは、神の家族の中に生まれたのであり、神の家族という共同体として、みんなで、いっしょになって礼拝をすます。つまり公同の礼拝をするのです。教会の礼拝会には、個人として家で賛美を歌い、お祈りをするのとは異なった意味があるのです。神の国の共同体、贖われたものの共同体、同じキリストの命によって生かされているものの共同体として、ひとつとなって共に礼拝するところに、愛を本質とし、交わりを基本とする、わたしたちの信仰の真骨頂があるのです。

 ですから、すべての教会は公同の礼拝をする教会です。礼拝の形式や様式は、伝統や習慣や文化によって異なることでしょう。ある教会では、非常に儀式的な礼拝会をするかもしれません。他の教会では、説教を中心とした礼拝会をするかもしれません。ある教会では、たくさんの歌を歌うかもしれません。さらに他の教会では、歌いながら踊るかも知れません。静かな礼拝会もあれば、にぎやかな礼拝会もあります。よほどのことがない限り、礼拝会の形はどのようなものであっても、あまり問題はありません。ただし、共に礼拝をするという一事においては、すべての教会は同じでなければなりません。もし公同の礼拝をしない教会があったとしたら、それは大きな欠陥のある教会です。

Y.B.教育

 日本人は教育熱心です。そのために、本来は「神に召された人々の集まり」を意味していた名前が、日本語では「教会」と訳されたようです。そして確かに、教会は「教える会」なのです。それは創造主である神を離れ、神を見失ってしまった人々に、神について教え、人間について教え、神と人間の関係について教え、さらに人間が人間として生きていくうえで必要な、一切のことについて教えます。

聖書を教える

 一言で言うと、教会は、聖書に記されていることを教えます。正しい教会は、聖書を誤りの無い神の言葉であると信じています。聖書は普通の書物とは違います。それは、霊感を受けた神の言葉です。神がご自分の御心を人間に伝え、人間に救いを与えるために、道しるべとして、人間にお与えになったものです。もちろん聖書も、人間の手によって書かれたものですが、神が霊感をもって人間を感動させて、誤りがないように書かせてくださったものです。教会の働きの、もっとも大切なもののひとつが、この聖書を教えることなのです。教会の中には、いろいろな教えがあります、何万という書籍があります。ところが、神について、キリストについて、救いについて、その他すべてのことについて、正しい教えはすべて聖書の教えから、説き起こされたものです。聖書が基本なのです。キリストの生涯や教えについても、たくさんの書物が書かれていますが、まじめな本は、つまり、想像や悪意に根ざしたフィクション、作り話以外は、すべて、聖書をもとにして書かれているのです。ですから、聖書を教えない教会は、教会と呼ばれる資格さえないのです。

唯一の権威として教える

 教会の中には、自分たちの儀式や習慣や伝統といったものを、聖書以上に大切にして、教えるものもあります。わたしたちはそのような教会を、「間違いの多い教会」、そして「間違いを犯す可能性の高い教会」として、注意深く見守っています。たとえばカトリック教会は、長い歴史の中で聖書を失って忘れ去り、多くの間違いを犯してきました。(ただ幸いなことに、ここしばらくの間、カトリック教会でも聖書を学びなおす運動が起こり、立派なクリスチャンたちが現れています。)

 一般の人たちにとっては、どの本のどの部分が、本当に聖書の教えに基づいたものであり、どれが勝手な想像によって書かれたものか、かいもく見当がつきません。クリスチャンではない人々が、あるときは自分の理想的人間像を、キリストという名前で描き出し、キリストの実像とは似ても似つかない人物を作り上げています。あるいは、自分の好きなようにキリスト教を歪曲して、新しい宗教を作り上げるために、キリストの姿を書き変えているものもあります。そこから、たくさんの間違った考えを持つ人たちも出てきます。クリスチャンの中にもそのようなことが起こります。残念ながら、それが現状です。そこで正しい教会は、聖書を唯一の権威として教えるのです。

聖書を正しく解釈して教える

 聖書を正しく教え、人間を正しい神との関係に保つという仕事が、教会のもっとも大切な働きのひとつとなります。また、聖書は永遠に価値のあるものとして、人間に与えられましたが、新しい部分でも2000年以上、古い部分では3500年以上も前に書かれた書物です。古い昔の時代背景の中で書かれていますので、そのままでは現代のわたしたちには、かけ離れたものになってしまいます。そこで聖書を正しく理解した上で、現代のわたしたちに当てはめて教えること、すなわち、正しく解釈して教えることが、教会の大切な役割です。たとえば、聖書の時代には麻薬というものがありませんでした。ですから、現在蔓延している麻薬の問題について、直接聖書から教えることは出来ません。とはいえ聖書には、基本的な人間の生き方が明確に記されています。それを理解して、その適応として、麻薬に対処する教えが出てきます。あるいは聖書には、援助交際について何も語られていません。しかし援助交際は若年女性の売春です。売春については、聖書は明確に教えています。また人間本来の生き方や、正しい性のあり方も教えています。そこで現代社会の問題に適応して、教えることができるのです。

Y.C.交わり

 教会の大切な働きのもうひとつの分野は、交わりです。つまり、教会の構成員であるクリスチャン同士が、神の家族としての交わりを維持し、深めて行くということです。礼拝によって神と交わり、神の豊かな恵みに満たされ、その恵みに動かされて、クリスチャンとしての交わりを強めていくのです。また、聖書を学び、神につき、キリストにつき、人間につき、救いについて学びを深めて行くことによって、クリスチャン同士の交わりが高められていくのです。そういう意味で、公同の礼拝は、たんに神との交わりだけではなく、クリスチャン同士の交わりでもあるわけです。

交わりの基盤

 ひと言で言うと、クリスチャンたちは、神の愛を体験し、その愛に強められ、互いに愛しあうことができるようにされて行きます。神の愛の体験こそ、クリスチャンの愛の交わりの基盤です。神の愛を実感できればできるほど、クリスチャンは互いの愛を強め、深めて行くことができるのです。教会の交わりとは、愛の実践に他なりません。人間同士ですから、たとえクリスチャンといえども、誤解や行き違いがあります。いつもいつも優しくできるものでもありません。腹も立ちますし、陰口のひとつも言いたくなり、愚痴がこぼれるときも出てきます。ところがクリスチャンは、自分が愛されていること、十字架の恵みによって赦されていることを思い起こし、その感謝と感動をもって、互いに赦しあい、愛しあうのです。 クリスチャンたちは、お互いを、神に愛されている人々、十字架に現された神の愛を受け、罪を赦されている、特別な人々、神の子テキスト ボックス: 教会は、いろいろな異なった人たちの集まりです。差別はありません。供たちとして見ています。とても大切な存在として見ています。同じキリストの命に生かされ、永遠の命をいただいたものとして、とこしえまでもお付き合いをするもの同士と見ています。ですから、特別の感情を持って愛しあい、助けあい、励ましあって、生きていくのです。

交わりの絆

 日本の言葉に、「同じ釜の飯を食う」という表現がありますが、クリスチャンはみな、それ以上の体験をしています。同じひとつの救いを得、同じ神の恵みを受け、同じキリストの血潮に潔められ、同じ聖霊の命を分けあっているという、深い感動によって互いに受け入れあい、交わりの絆を強めるのです。ですから、クリスチャンとしての成長が増すごとに、交わりも深まっていきます。当然それは、クリスチャンではない人たちには、とうてい理解できないものですし、信仰の薄いクリスチャンには、なかなか分からないものです。じっさい、神の恵みを深く体験しているクリスチャン同士は、たとえば外国に出かけて、まったく知らない土地で問題に遭遇した場合でも、クリスチャン同士とわかったときには、まるで旧知の友人のように、あるいはもっと親身になって助けあうことができます。海外の知らない土地を歩く機会の多かった筆者には、これがとても心強かったものです。

交わりの広がり

 教会の交わりというものは、教会の建物の中にいるときだけの、交わりではありません。同じ場所で、同じときに集まって交わりをすることは、非常に大切ですが、それぞれが自分の家庭、自分の職場にいるようなときでも、互いに祈りあい、あるいは電話やメールなどで連絡をしあい、支援の手を伸べあうのです。ですから、教会とは建物のことでも、建物の中で行われる集会のことでもありません。キリストを信じているひとりひとりが、キリストの愛の絆に結ばれて、愛しあい、赦しあい、助けあって生きるところ、すなわち世界中に存在するものなのです。交わりは、すべての障害を越えて広がるのです。  

Y.D.伝道

 教会のもうひとつの大切な働きは、伝道です。クリスチャンは自分が救われて、神との交わりを楽しみ、人々との交わりを楽しみ、さらには永遠の命をいただいている喜びを、独り占めにしておくべきではありません。もっともっと多くの人たちに、同じ経験をしてもらいたいものだと、心から思います。またそれが、神様のみ思いでもあるのです。神様は一人でも多くの人間が救われ、永遠の命を得、ご自分との愛の交わりを回復し、人間としての本来の幸せを獲得できるようにと、願っておられるのです。そしてそのために、先に神の国に入って救いを体験したわたしたちが、伝道の働きをしていくようにと、定めておられるのです。喜びを分けあう教会とは、そのような人々が共に生きる共同体です。教会は互いに力を合わせて、伝道の働きを進めていきます。ただたんに、喜びを持った人々が、互いの喜びを共鳴させ、増幅させるために、存在するのではなく、喜びを外部の人々にも分けて行き、さらにその人たちを、自分たちの中に取り込んで行こうとするのです。

 ですから教会は、神の国、神の支配を体験した者たちが作り出す、愛の共同体であると共に、その愛の共同体の中に人々を招きいれる共同体であり、増幅し、増殖していく共同体です。神の国がどんなにすばらしいかを示し、その力、すなわち神の力をあらゆる方法で示して、人々を神の国に誘い入れ、神の国の体験をさせる共同体です。

人々を神の国に招きいれるために、教会はさまざまな努力をします。信徒ひとりひとりがそれぞれの場で、神について、神の愛について、神の力について、周囲の人々にお話します。自分が神の国に入った体験、神の支配を受けた体験を通しテキスト ボックス: クリスチャンたちの歌う、喜びと平安と感謝にあふれた歌は、いつの時代にも、伝道の大きな力となってきました。て、神の救いが今もあるのだということを示します。あるいはもう一歩進んで、人々が神の国に入るように勧め、どのようにしたら入ることができるかを教え導き、実際に神の国、神の愛による支配を体験してもらいます。

協力の働き

 また、ひとりの信徒としてはうまく出来ないときには、数人の信徒たちが協力して行います。いっしょに遊んだり、いっしょに食事をしたり、困ったときの相談相手になってあげたり、家族ぐるみのお付き合いをしたりしながら、神の国についてお話できる機会を作ります。その上に、教会全体の協力の働きとして、伝道会などの集会を開いて人々をお招きします。そこではそれぞれの体験談なども交えながら、聖書のお話、神のお話、キリストのお話、そして神の国のお話をし、神の国に入ることをお勧めします。神の国を体験してもらいます。

 さらに教会は互いに協力し合って、聖書学校や神学校を建て、牧師や伝道者の訓練をし、新しい土地に伝道して教会を建てる努力をします。あるいはさらに大きな夢と 幻をもって、海外にまで宣教師を送り、外国の人々にも神の国のすばらしさを伝え、そこでも神の国に入る人々を起こし、教会を建てていきます。宣教師として海外にまで出て行く者は、わずかしかいません。聖書学校や神学校に行ける者も多くはありません。そのような人々は、それに応じた能力を備えていなければなりません。そして、そういう働きを推進していくためには、すべての信徒が力を合わせて積極的に参加していくのです。このような働きは、すべての信徒が共に祈り、共に献金し、共にさまざまな支援活動を行うことによって可能になるのです。 

※※※ まとめ ※※※

 このように、教会は大きく分けて4つの分野の働きを持っています。教会はじつにさまざまな働きを進めていますが、それらのすべてが、これらの4つの働きにかかわりをもっていなければなりません。これらの4つと関わりの薄い働きは、教会の働きの本筋から外れたものであり、教会の活動としてはあまり重要ではないものです。なかには、これら4つに関わる働きはほとんどせず、まったく関わりのない活動に熱心になっている教会もあるようですが、それらは正しい教会ではありません。

Z.教会の使命

 教会の働きには、大きく分けて4つの分野があることを学びましたが、教会の使命はひとつだけです。使命と働きの違いを喩えで説明しましょう。日本からどこか他の国に派遣された、大使のことを考えて見ましょう。彼には、日本国大使としての働き、すなわち日本国民を代表して働く働き、あるいは日本政府の現地代理として働く働きがあります。これこそ、彼が大使として派遣される目的、あるいは理由、すなわち、彼の使命です。ところが、いったん現地に派遣されてしまうと、彼には本来の目的以外の働きがたくさんあります。あるものは、本来の目的を遂行するには絶対に欠かせない働きかもしれません。

 現地で、家を借り、月々の支払いをし、さまざまな交渉をする。家族が安全に暮らせるように警護を固め、お手伝いさんを雇い、買い物をし、住みやすくする。子供たちの学校を選び、交通手段を確保し、将来の進学に差し支えないような、勉学の道を確保する。家族が馴染みのない土地で、孤独にならないように気を使う。国に残してきた親族や友人と交信する。これらすべてのことは、彼がその国に派遣された目的でも理由でもありません。つまり使命ではないのです。それでも、異なった国に生活する以上、これらは絶対に不可欠な活動です。不可欠だからといって、それらのことばかりに時間と労力を奪われていて、本来の目的、使命をないがしろにしてしまっては、大使としては役に立たないものになってしまいます。

 おなじように、教会にも働きと使命があるのです。働きは教会が教会として存在するために、絶対に欠かせないものです。一方使命は、教会が存在する目的、理由です。教会はこの働きと使命を混同してはならないのです。

Z.A.キリストから与えられた使命

 教会の使命は、教会が勝手に感じた使命ではありません。教会の使命は、キリストによって与えられた高い使命です。十字架にかかって死に、3日目に甦り、天に昇って行こうとしておられたキリストは、最後の一連のお言葉の中で、弟子たちの群れに対しておっしゃいました。「父が私をお遣わしになったように、私もあなた方を遣わします。」(ヨハネ20:21) このとき、教会はまだ誕生していませんでしたが、間もなく教会となる人々の中核、つまり胎児の状態にあった教会に対して、キリストは語っておられるのです。

Z.B.キリストによって遣わされた

 最初に注意すべきことは、教会がキリストによって遣わされているという事実です。教会は本来神の国に属し、もう悪魔の支配するこの世には属していません。教会は永遠のみ国に国籍を持つ人々の集まりで(ピリピ3:20)、もう、この世の問題に苦しめ続けられる必要はなく、完全な神の国で、至福のときを過ごすことができるはずです。ところが実際には、教会はこの悩みの多い世界で、まだ苦しみ続けています。さまざまな問題と戦い続けています。それは教会が、一度はこの悪魔が支配する世界から召し出され、神の支配する国に入れられたのに、ふたたび悪魔の支配するこの世界に送り返されているからです。とはいえ教会は、ふたたび悪魔の支配を受けるために送り返されたのではありません。かえって敵国に攻め入る軍隊として、悪魔と戦って勝利をするために送り込まれているのです。

ですから教会はこの世にあって、悪魔とその配下どもと戦い続けなければなりません。ここで気をつけなければならないのは、教会の戦う相手を間違わないことです。教会が戦う相手は、悪魔とその配下の悪霊どもであって、決して、人間や人間の組織ではありません。たとえどのように悪魔的に見える人間であっても、私たちの戦う相手は人間ではないのです。ですから、戦いの武器も、人間と戦うためのものではありません。(エペソ6:10−17)

Z.C.キリストとおなじ使命を与えられて

 教会の働きが神を礼拝し、聖書を教え、互いに愛しあうことだけだったならば、教会はこの世に存在し続け、悩み続ける必要はなく、早々と自分たちの国籍のある天のみ国、完全な神の国に携え上げられてしまえばいいのです。それらのことは、みな、天のみ国でこそ、よりよく行われるからです。しかし教会は、使命を与えられてこの世に派遣されているのです。キリストは、「父が私をお遣わしになったように、わたしもあなた方を遣わします。」とおっしゃいました。このお言葉には、遣わされたという事実のほかに、遣わされた理由、あるいは目的、すなわち、使命が明らかにされています。使命は、「キリストが遣わされたように」であり、キリストが遣わされたときに与えられていた使命と同じ使命が、私たち教会にも与えられたのだということです。キリストがこの世に遣わされた目的はただひとつ、罪人の救いです。同じように、教会も罪人の救いという、ただひとつの目的のために、この世に派遣されているのです。キリストはたくさんのお働きをなさいましたが、それはみな、罪人の救いという目的のためになされたものです。おなじように、教会もたくさんの働きをすることでしょう。それらの働きはすべて、罪人の救いという目的につながるのです。言い方を変えると、キリストは神の国をもたらして、その国の中に人々を招き入れるためにおいでになったのですが、私たちがこの世に派遣されている理由、この世に送り返されている目的も、人々を神の国に招きいれるためなのです。キリストは十字架の死と復活を通して、救いの道を整えてくださいましたが、教会は、その整えられた道を指し示し、人々がその道を選ぶように勧めることによって、キリストの救いのお働きを継続するために、遣わされたのです。

Z.D.キリストの姿のように

 さらに、「私たちはキリストが遣わされたように、遣わされている」ということは、私たちが遣わされている姿、その生き様も設定されているのだということです。これがつぎに大切な事実です。私たちは、人々の救いのために、神のみ姿、栄光、権威、力を捨て、苦しみをもって救いの道を開いてくださったキリストのように、自分を捨て、人々の救いのために尽くしていくのです。キリストが苦しみを通して開いてくださった道を、同じように苦しみを通して伝えていくのです。私たちがこの世界で、まだ苦しみ続けなければならないのは、人々の救いのためなのです。

 キリストは王家にも貴族の家系にも、お生まれになりませんでした。弱小植民地の片田舎で、貧しい大工の子として馬小屋に生まれ、飼い葉桶の中に寝かしつけられたのです。早くして父親を亡くしたらしく、多くの弟や妹たちの父親代わりとして、朝から晩まで汗水流して働いたことでしょう。着物にはつぎが当てられ、サンダルは擦り切れていたことでしょう。寒いときにも充分な寝具もなく、食べ物にも事欠いたでしょう。隣となり近所の情けに助けられたことも、一度や二度ではなかったかもしれません。このようにして、キリストは30年間、名もないひとりの人間として生きてくださったのです。それは、人間としてのあらゆる苦しみと悲しみをつぶさに味わい、人間と同じ気持ちで心を交わすことができるためでした。その上で、キリストは人々の罪を負って、十字架で身代わりに死んでくださったのです。

 キリストが遣わされたように、教会も遣わされているということは、キリストのそのような生き方が、この世に遣わされた教会の生きる姿であるということです。聖書は、「キリストは富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです」と語っていますが(Uコリント8:9)、いま、永遠の命、神の国の国籍という最大の富をいただいて、富んでいる私たちは、この富をすぐに自分のものとして楽しむのではなく、その富をひとたび横に置いて、貧しい人々の救いのために、貧しい者のひとりとして苦しむのです。

 いま私たち教会がこの世で苦しむのは、私たち自身の救いのためではありません。私たち自身の罪のためでもありません。私たちは罪人の救いのためにこの世に遣わされ、罪人の救いという大きな目的のために、さまざまな苦しみに遭っているのです。このことを理解しないと、クリスチャンたちは、この世界での苦しみに、本当の意義を見出すことが出来なくなります。キリストが、ご自分に従って来たいと思っているものに対しておっしゃった、「自分を捨て、自分の十字架を負い、わたしにしについて来なさい」というお言葉は、そのような背景で理解されるべきなのです。(マタイ10:38、マルコ8:34)

Z.E.使命の具体化

天にお帰りになる直前、キリストは次のようにもおっしゃいました。「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」(マタイ28:19−20)『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)これらのお言葉では、私たち教会に与えられた使命が、さらに具体的に示されています。キリストが教会にお与えになった使命は、具体的に言うと、キリストの「弟子を作る」ということです。そのための手段というか、過程として、「全世界に出て行き」、「福音を宣べ伝え」ることがあるのです。言葉を変えると、教会の使命は宣教だということです。教会は、テキスト ボックス:  洗礼式の様子 目の前で夫と息子を日本兵に殺されたという悲しい経験を持つ、84歳のおばあさんにも、この場所で洗礼を授けました。初めてお会いしたとき、このお婆さんは、「ワシは日本人は嫌いじゃ」と、はき捨てるように言いました。あらゆる国の人々を弟子とするという目的のために、全世界に出て行って福音を宣べ伝えます。マタイの福音書には、さらに、「洗礼を授けること」「キリストがお教えになったあらゆることを、守るように教ることどが、過程として記録されています。世界中にはいろいろな教会があり、活動の仕方もじつにさまざまです。しかしこの宣教という、キリストから与えられた使命を果たしていないとするなら、それは教会の本来の目的を失った教会です。素晴らしい礼拝をし、立派な教育を行い暖かい交わりを保っていたとしても、たとえ全世界に存在して、文化的にも、政治的にも、経済的にも、教育的にも、あるいは倫理的にも、多くの影響を与えていたとしても、もし、宣教をないがしろにしていたとするなら、その教会は、この世に派遣された教会としての使命を果たしていないのです。出て行くことも、福音を宣べ伝えることも、洗礼を授けることも、教えることも、みな弟子を造ることへの過程です。弟子が造られることが目標とされていなければ、つまり、使命がしっかりと見定められていなければ、それらの過程はむなしいものになります。そして、ここで言われている弟子は、もちろん、キリストの弟子であって、だれか他の人物の弟子ではありません。キリストの教えを忠実に守り、キリストのように考え、キリストのように行動する人です。そのような人は、キリストがお建てになった教会を大切にし、具体的に教会に所属し、教会の一員としてとして、また、教会の中で弟子を育てていくのです。

※※※ まとめ ※※※

 教会はキリストが遣わされた目的である、罪人の救いという同じ目的のために、この世界に遣わされています。キリストがご自分を捨ててこの世界に来てくださり、この世界で生きてくださった姿を理想とし、そのように生きながら宣教を進めるのです。教会は自分たちの交わりを楽しむだけではなく、新しい人々を招きいれて増殖していく共同体です。

 XV.使命遂行のための力と権威

 神の国から遣わされた教会が、この悪魔の世界に存在するのは、易しいことではありません。全世界に出て行って、あらゆる国の人々を弟子とするという働きには、さらに多くの困難が伴います。教会が、与えられた使命をやり遂げるにはテキスト ボックス: イゴロット族の小さな集落 筆者が働いていた、フィリピン北部山岳奥地。5時間のドライブの後、12時間歩かなければ行き着けませんでした。途中、馬も通れない険しい山道が4時間ほども続きました。小さな教会があり、自分たちが極貧の中にあることさえも知らない子供たちが、朗らかに遊んでいたものです。でもこの後すぐに、このあたりを襲ったはしかのため、多くが亡くなってしまいました。慢性栄養失調で、体力がないだめです。、非常に大きな力を必要とするのです。 現在教会は、国連が認めるすべての国に存在します。共産国や社会主義国、あるいは回教を国教として、キリスト教を禁止している国々にも、教会は存在します。ですから教会は、すでにあらゆる国々の人々を弟子としていると言えなくもありません。ただ、キリストがおっしゃった「あらゆる国」というお言葉は、本来あらゆる部族と訳されるべき言葉です。その点から考えると、世界には、まだまだ、キリストの救いについて聞いたこともない部族が、たくさんあることになります。そのような部族の多くは、近代文明から遠く取り残されたような、非常に厳しい自然環境にある奥地や、キリスト教を禁止している国家の中にあります。いずれにしても、そこに到達するには、殉教さえ覚悟しなければならないことも、少なくありません。日本に福音が伝えられ、本当のクリスチャンが生まれ、教会が誕生するまで、非常に多くのクリスチャンの血のにじむような努力と、殉教の歴史があったということを知らなければなりません。

XV.A.使命遂行のための力

 このような困難な使命を遂行するために、神は教会に特別の力を授けてくださいました。

約束された力

 天に昇って行かれる直前、キリストはおっしゃいました。「・・・・わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。・・・・・・もう間もなく、あなた方は聖霊のバプテスマを受けるからです。・・・・・・聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地のはてにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:4−8) キリストによって「聖霊があなたがたの上に臨まれる」と表現された、「聖霊のバプテスマ」というでき事は、キリストがバプテスマのヨハネから洗礼をお受けになったときにも触れられていて、キリストが人々にお与えになるものとして、約束されていました。(マタイ3:11)

テキスト ボックス: ときにはこんなことにも遭遇します。宣教は結構勇気のいる仕事です。聖霊のバプテスマが、勇気と情熱を与えます。筆者といっしょに働いた、現地の伝道者たちも、聖霊に信頼していました 与えられた力 

 それから10日後のペンテコステと呼ばれる日に(ペンテコステとは50を意味し、過ぎ越しの祭りの始まりからから数えて50日目)、弟子たちは、この約束の聖霊を受けました。そのときの様子は、使徒の働き2章に詳しく記録されています。弟子たちはこのペンテコステの日に経験した聖霊のバプテスマによって、驚くような力を与えられました。またこの日から、教会は聖霊を内に宿す共同体となり、クリスチャンひとりひとりが、聖霊に住んでいただく宮となったのです。クリスチャンひとりひとりの体験として語るならば、聖霊のバプテスマは、神の圧倒的な臨在と、その神との深い交わりの体験です。愛されているとか、受け入れられているとか、守られているとか、生かされているとかいう教えが、実感として押し寄せてくる体験です。それが、宣教に大胆さを与え、力となるのです。

聖書に見る力の実例

 聖霊のバプテスマが、キリストの証人となるための力を与える、すなわち宣教の力になるということは、新約聖書の中の5つの歴史書で明らかです。福音書と呼ばれるマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという、4つの歴史文書には、人間的弱さ、欠陥、ふがいなさなどを抱え、まさにどうしょうもない不肖の弟子たちの姿が、随所に記録されています。読んでいると、思わず、「しょうがない奴らだなァ」とあきれてしまうほどです。3年半もの間キリストと寝食を共にし、直接教えを聞き、指導を受けていながら、その程度だったのです。ところが、もうひとつの歴史書である使徒の働きには、それこそ、信仰の巨人とでも呼ぶのにふさわしい、見事な弟子たちの姿が記録されています。

 4つの福音書の最後の部分と、使徒の働きの最初の部分は、ほとんど時間的間隔がありません。ところが、弟子たちの姿があまりにも違うのです。自分たちが主と仰いでいたキリストが殺されたために、恐れおののいて逃げ隠れしていた弟子たちが、わずか数日後には、堂々と公衆の面前に出てきました。少なくても数千から、万の数にもなろうとする大群衆に向けて、大胆に語りだしたのです。

テキスト ボックス: 当時の習慣を知らずにこの記録を読むと、大胆に語ったのはペテロだけのように理解してしまいがちですが、実際には、弟子たちす
べてが、大胆に語ったと考えるべきです。マイクもスピーカーもなかった時代、大群衆に語る場合は、リーダーの語ることを部下がリレー式に反(はん)復(ぷく)して、全員に聞こえるようにしていたからです。彼らは大胆に言いました。「あなたがたは・・・このかたを、・・・・不法(ふほう)な者の手によって十字架につけて殺しました。」「・・・・すべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、いまや主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」(使徒2:23、36)

つい数日前までは、身を隠し、声をひそめていた弟子たちが、いまやすべての人々に聞いてほしい、知ってほしいと、大声を上げて言い放ったのです。「あなたがたが、キリストを十字架につけて殺したのです。」この激しく厳しい言葉を聞いて、その日、悔い改めて弟子たちの仲間に加わった者が、3千人もいたというのです。(使徒2:41)この日を境に、弱く頼りない弟子たちの群れは、力に満ち溢れた強力な神の兵士たち、悪魔の支配するこの世に侵略する、強力な軍隊に変わったのです。ローマ帝国に支配された、弱小植民地の片田舎から出て来た、名もない人々の、吹けば飛ぶような一団は、人類の歴史上もっとも強力な運動である、福音宣教の核となって行きました。目に見える肉体を持ったキリストとの、3年半に及ぶお付き合いを超える、強烈な神体験、人間性の奥深くまで到達する聖霊のバプテスマという神体験が、まさに一瞬にして、弟子たちを変えたのです。

約束の力による使命の遂行 

 福音宣教という困難な働きは、人間の努力や能力で行われるものではありません。人間的な視点から見ると、教会の力は小さなものです。ところが教会は、神からいただいた聖霊のバプテスマという体験を通して与えられる特別な力、約束の力によってこの使命を遂行していくことができるのです。聖霊のバプテスマという、神との深い交わりを体験した人々は、常に、神の臨在と愛と力を非常に力強く感じるようになります。その結果、どのように困難な状況にあっても恐れることなく、大胆に生きることができるようになるだけではなく、その喜びと感動、あるいは平安と充足を、だれかに語らずにはおれなくなるのです。他の人にも教えて差し上げたいという願いが、ますます強く湧き上がってくるのです。神の臨在をひしひしと感じて生きるのですから、悪魔の力に捕らえられている人々には、神の国の福音を大胆に語り、キリストのみ名によって悪霊と戦い、神の力の素晴らしさを伝えて行きます。

忘れられた力
テキスト ボックス: ここで言う聖霊のバプテスマは、先に述べた「聖霊が、私たちを、キリストのみ体にバプタイズしてくださること」とは、 まったく異なっ
たでき事です。(参照:第5課U.A) 多くのクリスチャンたちがここで混乱して、二つを同じでき事と考え、結果として、聖霊のバプテスマの素晴らしい体験を、逃してしまいました。ここで言う聖霊のバプテスマは、「キリストが、私たちを、聖霊によってバプタイズしてくださること」です。「聖霊が、私たちを、キリストのみ体にバプタイズしてくださる」ことと、「キリストが、わたしたちを、聖霊の中にバプタイズしてくださる」あるいは「聖霊をもってバプタイズしてくださる」ことは、別の事柄です。一方は、聖霊が私たちを教会に加えてくださることであり、他方は、キリストが聖霊によって、私たちをより高いクリスチャン信仰へと導いてくださることです。

 長い教会の歴史を見ると、残念ながら教会はこの聖霊のバプテスマと、その力のことをすっかり忘れ、この世の政治の力、軍隊の力、経済の力などを頼りに、勢力を拡大しようとしてきたのも事実です。教会が聖霊をないがしろにし、聖霊のバプテスマとその力を忘れてしまったときには、たとえ正しい教えをしていても、教会は命を失い、冷たい倫理的な教えの集積だとか、非常に立派に構築されて近づきがたい神学の御殿、さらには古臭い儀式のくり返しに陥ってしまったのです。その結果、近代の教会は、多くの場合人々の必要に答えられず、時代遅れにな歴史博物館のようにさえなりかけていました。

再発見された力

 しかし19世紀に至って、教会はふたたび聖霊の存在とさまざまな働きに注目し、聖霊を通して今も私たちに働きかけてくださる神を、体験し始めたのです。そして20世紀の始め、教会はついに聖霊のバプテスマという神の約束をふたたび発見し、これを体験するようになったのです。その結果、教会の姿、ひとりひとりのクリスチャンの生き方は、それまでとはすっかり変わってしまいました。一言で言うと、生き生きと力あふれるものに、変化して来たのです。教会は聖霊のバプテスマという体験を通し、歴史博物館のような存在から、神の臨在と力を実際に体験して、神の国、神の支配を現実の生活にもたらす、力強い人々の集団となったのです。まだまだ伝統的な教会、古い形の教会はたくさん存在します。とくに日本においては、そのような伝統の中にある教会のほうが多いと思います。しかしいまや、聖霊とそのお働きに注目し、聖霊のバプテスマを体験する教会、神の臨在を間近に感じて、神が共にいてくださるという実感を持って生きる教会が、世界中で増え続け、主流となりつつあります。キリスト教は、高度の神学や倫理を教える、立派な宗教であるよりも先に、神の力を体験する宗教、神の国、神の支配を生活の中で実感する宗教なのです。神の国に招き入れられ、それを体験した人には、さらに、聖霊のバプテスマという素晴らしい賜物が、約束されているのです。この賜物を受け取ることによって、クリスチャンたちは、あらゆる意味で力強い神の兵士として、悪魔の力に対抗して戦うことができるようになります。そして、宣教という使命を遂行することを通して、神の国、神の支配を広げて行くのです。神は教会に宣教の使命を与えて、この世界に派遣してくださいました。そしてその使命をやり遂げることができるように、力を与えてくださいます。その約束の力は、ただ、「神様、私にも約束の聖霊のバプテスマをお与えください」と、お祈りすることによって与えられるのです。

XV.B.使命遂行のための権威

 この世界は、今でもまだ、悪魔の支配の下にあります。悪霊どもがその配下としてあらゆる悪を行っています。ちょっと行き過ぎたクリスチャンたちは、世の中に起こるありとあらゆる悪いことを、すべて悪魔と悪霊どものせいにします。他のクリスチャンたちは、悪魔の存在さえ笑いものにして信じません。どちらも間違いです。悪魔の策略は、何でも「悪魔だ悪霊だ」と言わせることによって、聖書の教えを迷信や俗信と同じ、低レベルの次元に失墜させてしまうことと、反対に、悪魔や悪霊など存在しないと思わせて、自分の身を隠してしまうところにあります。

委託された権威をもって戦う教会

 この悪魔が支配する世界に、弟子たちを派遣して神の国の働きを進めさせたとき、イエス様は、悪霊たちを追い出し、悪魔をさえ失墜させる権威をお授けになりました。そして弟子たちはその権威を用いて、与えられた働きを効果的に推進して行ったのです。(マタイ10:1、ルカ9:1、10:17−20) ところが十字架で人々の身代わりに死に、3日目に甦られたイエス様は、教会の中核となる弟子たちに、ふたたびその権威を委託されました。(マタイ28:19、マルコ16:16−18) いま教会は、その委託されたキリストの権威を持って、悪魔や悪霊と戦うのです。

 日本では比較的少ないようですが、実際に、悪霊の働きによるものだと思われる、困難な問題を抱えている人がたくさんいます。そしてその背後には、悪霊どもを束ねている悪魔の存在を感じます。筆者も、心霊的体験や迷信俗信の多い沖縄や、東南アジアの文化の中で働いてきましたので、そういう体験をたくさん積んで来ました。病気にしても、怪我にしても、精神的な異常にしても、悪霊の働きだと感じたときには、イエスの権威によって悪霊を追い出してきました。病気に対してもまた、イエスの権威によって治るように命じてきました。医者も薬もまったくない未開地での働きには、これがとても力になりました。悪霊が出て行き、病が癒されるからです。

 それぞれの文化や俗信によって、悪霊どもの働き方は異なっています。簡単に言いますと、それぞれの土地の宗教的感覚の中で、悪霊どもは活動をします。たとえば同じ幽霊でも、イギリスではプロテスタント・キリスト教的幽霊、南米ではカトリック・キリスト教的幽霊、インドではヒンズー教的幽霊、タイヤミャンマーで南方仏教的幽霊、日本では日本仏教的な幽霊となります。(もっとも、日本の幽霊に足がなくなったのは、丸山応挙の絵に始まったらしいのですが・・・。)同じような怪奇現象でも、その解釈は、それぞれの土地の宗教や俗信によって異なります。共通点は、どれもおどろおどろとしているところでしょうか。しかし、どこのどの悪霊も、キリストの権威に逆らうことが出来ません。ですから、私たちは臆せず堂々と、悪霊どもに向かって、力強く命じることができるのです。それは、イエス様がこの地上でお働きになっていたときと同じように、神の国が、すでに到来していることの証拠です。(マタイ12:28)

※※※ まとめ ※※※   

 教会が世界宣教という使命を遂行するために、神は教会に聖霊のバプテスマという賜物を与えてくださいました。聖霊のバプテスマを体験した人は、神の臨在と守りを強く感じて、すべてのことに対して大胆になり、宣教の働きに対しても大いに大胆になります。また神は、教会に悪魔や悪霊に対する権威を与え、彼らの働きを封じていくことができるようにしてくださいました。こうして教会は、与えられた使命を全うすることができるのです。

私が出会った人

 沖縄北部の寒村で、小さな教会を始めたばかりのことです。1969年だったでしょうか。宜野座村という鄙びた集落で、ひとり住まいをしていた老女が、イエス様を信じたのです。代々、カミンチュウだった家系に生まれ(神人と書く)、5歳のときから、カミンチュウとして生業を立ててきたという、かわった経歴の持ち主でした。近所の人たちによると、彼女はとくに、早くから霊感の鋭い子として知られ、行方不明者や失せ物探し、死者との会話などを求める人々が、ずいぶん遠くからも訪ねて来ていたということです。若いころに一度結婚をしたらしいのですが、すぐに夫と女の子をなくし、その後はずっと独り身をとおして、神様にお仕えしてきたと、本人から聞いたことがありました。

 ある日の夕方、と言っても日没の遅い沖縄のこと、たぶん9時過ぎだったと思います。近くの信徒の家で聖書の勉強会をしようと、連れ立って歩いていると、彼女が突然言い出すのです。「センセ。向こうの藪の陰で、手を振って招いていらっしゃるお方が、二人いらっしゃいますので、ちょっと行って参ります。どうぞ、先に行っていてくださいませ。」(沖縄のお年よりは、ちょっとあやしげですが、非常に丁寧なものの言い方をします。)暗闇の先を見ながら私は言いました。「どこにいるの?」「ほォら。あちらの藪の中でございますよォ。」 老女の指差すほうを見ても、黒い藪が続くだけで、それらしいものはまったく見えません。「いったい、誰が呼んでるんですか?」「戦争でお亡くなりになった、日本兵のようでございます。」「ああ、亡くなった人なら、いつまでもそこにいるはずだから、今日でなくても、かまわないでしょう? 今日は、もっと大切な聖書の勉強に参りましょう。」 少し心残りの様子を見せる彼女をせきたて、ハブに気をつけながら夜道を急いだものです。

 この老女が、あるときとても暗い顔をして、窓も閉めたままの畳の部屋の片隅に座っていました。「おばァ。どうしたの?」 私の問いに彼女は答えました。「この一週間、ほとんど眠られないんでございます。」「それはまた、どうして?」「実は、毎晩神様が出ていらっしゃって・・・・」「ちょっとまって! その神様はどの神様ァ?」「あッ。すみません。私が以前にお仕え申し上げていた神様が、夜な夜なお出ましあそばされて、私の枕元にお立ちになり、恨み言をおっしゃるのでございます。」「ああ、やはり前にお仕えしていた神様ですね。それで、どんな恨み言をおっしゃるんですか?」「『私は、先祖代々からお前の家に尽くしてきた神だ。お前が5歳のときから、今に至るまで、お前に良くしてきた神だ。それなのに、いまになってどうして違う神に行ってしまうのか。私はお前に、一度でも、なにか悪いことをしたことがあるか』って、おっしゃるんでございます。」

 私はハタと困ってしまいました。偶像礼拝や、唯一の神、あるいは悪霊の仕業などについて、説明している場合ではないと感じたからです。しかし、どうしたらこの老女の感情を害することなく、理解させることができるか、見当がつかなかったからです。そこで、時間稼ぎのために尋ねました。「そうですか・・・・それで、その神様のお姿は、いったいどんなご様子なんですか?」「白ォい、長ァい、ゆったりとしたお着物を召しておられて、白ォい長ァい髪をたらし、同じように白ォい長ァい髭を生やしておられて、手には先が大きく曲がった長い杖を持っていらして・・・・」私は、それが中国の絵に描かれている仙人の姿にそっくりなのを知って、彼女の潜在意識を見たような気がしたのですが、同時にうまい答えが閃きました。今でも、この閃きは神様が与えてくださったと思っています。「おばァ。その神様は、本当に親切な神様だったんだねエ。それでは、よくお礼を言わなければね。じゃァ今晩も、きっとまた枕元にお立ちになるでしょうね。それじゃァね。おばァ。その神様が出ておいでになったら、まず、『長い間よくしてくださって、本当にありがとうございます』と、良くお礼を言ってください。」頷きながら、私の言うことを聞いている老女に安心して、私は続けました。「それから、このようにお尋ねしてみてください。『でも、キリシターの神様(キリスト教の神様)におすがりすると、永遠の命をお与え下さるということなのですが、あなた様にお仕えして行けば、やはり、永遠の命をいただくことが、できるのでございましょうか?』そしてまず、おばァが長い間お仕えしていた神様が、なんとお答えになるかを聞いてみましょうね。」それから、キリシターの神さまにお祈りをした後、ちょっと不安げなおばァを残して、私は次の訪問先に向かったものです。

 1週間たってふたたび訪ねた私を、老女は朗らかに迎え、冷めたお茶をついで下さいました。(暑い沖縄では冷めたお茶がもてなし)。それを見ながら私は、先週の指導がうまくいったことを確信して尋ねました。「それで、前にお仕えしていた神様は、どうなりましたか?」「それが、センセッ。ありがとうございます。おかげさまで、あの晩以来、もう出ておいでになりまっせん。夜もぐっすり眠られます。」 もう少し詳しく尋ねると、彼女は説明してくださいました。「あの晩、やはり、神様は枕元にお立ちになりました。そして、同じように恨み言をおっしゃいました。そこでセンセッ。センセに教えられた通りに申し上げました。『永遠の命をいただくことができるのでしょうか』って。そういたしますと、神様はとてもとても暗い悲しい顔をなさって、スウーっと消えて行かれたのでございますよゥ。それっきり、もう出ておいでになりません。」

 この老女は、それからしばらくして亡くなりましたが、ふたたび、あの神様に悩まされたという話は聞きませんでした。あの場合、いつもと同じように、「主イエスのみ名によって命ずる。悪霊よ出て行け」と言いなさいと教えたのでは、彼女が躓いてしまったことでしょう。彼女が仕えていた神様は、少なくても彼女に対しては、本当に、何ひとつ悪いことはしていなかった、「やさしい神様」だったのです。たとえ悪霊であったとしても、いろいろな種類の悪霊がいます。彼女の神様だった悪霊は、案外、心優しい悪霊だったのかも知れません。直接危害をもたらすのは、好きでなかったのでしょうか。そのようなことは、よくは分かりません。あるいはそれすらも、ごまかしで、だますための手段だったのかも知れません。ただひとつ分かることは、そのようにして、この悪霊も、真実の神様から人々を遠ざける働きをしていたということです。

 彼女の死を知ったのは、葬式が終わってからのことでした。クリスチャンになってカミンチュウを止めて、人々が少し不思議に思いだした頃のことで、親族や近所の人々は牧師の存在などまったく知らず、ともかく、しきたりどおりの葬式をおこなってしまったのです。でも、私は何も心配していません。たとえ彼女の葬式は異教の習慣によって行われたとしても、彼女は間違いなく、永遠の命をいただいているのですから。

問題集

 テキストの大体の内容を、把握できたでしょうか? では、さらに理解を深めるために、以下の問題に挑戦してみましょう。

1.教会の働きの中心的分野を、4つ挙げてみましょう。 

2.クリスチャンが礼拝をするとき、犠牲も携えず、難行苦行もしないのはなぜですか。

3.生きることそのものが、礼拝の行為になるとはどういう意味ですか。

4.教会で共に礼拝するのと、個人で礼拝するのに、どのような違いがありますか。 

5.教会のもっとも大切な働きのひとつは、何を教えることですか。 

6.教会が聖書を教える上で果たすべき、大切な役割とは何ですか。

7.教会の交わりとは何の実践ですか。

8.クリスチャンが、互いに愛し合うことができるようになっていくのは、何によってですか。

9.先に神の国に入って救いを体験した私たちに、神は、何を定めておられますか。

10.すべての信徒が海外宣教のために力を合わせるとは、具体的にどういうことですか。

11.教会の働きと、教会の使命の違いは何ですか。

12.教会の使命は誰から与えられたものですか。

13.この世から召されて神の国に入れられた教会が、いまだにこの世で苦しまなければならないのはなぜですか。

14.教会が戦い続ける相手は誰ですか。

15.教会には、キリストに与えられた使命と同じ使命が与えられていることは、どうしてわかりますか。

16.キリストがこの世に遣わされた唯一の目的は何ですか。

17.教会がキリストの姿を模範にするのはどうしてですか。

18.私たちが、今この世で苦しみに遭わなければならない目的は何ですか。

19.教会が使命を遂行できるために与えられた力とは何ですか。

20.聖霊のバプテスマを、クリスチャンひとりひとりの体験として語るならば、それはどういうものですか。

21.聖霊のバプテスマを受ける前の弟子たちと、受けた後の弟子たちの違いはなんですか。

22.教会が聖霊のバプテスマという賜物を再発見したのはいつのことですか。使命を遂行するために、教会に与えられている権威とはどのようなものですか。

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