神の国第6課

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神の国の共同体(1)


T.いま実在する神の国

 完全な神の国は、現在、キリストが「天」と表現されたところ、あるいは次元に存在しています。(マタイ6:10) また、完全な神の国は、将来、神が定められた時がくると、この地上をも覆いつくします。その時、悪魔とその配下の、ありとあらゆる悪霊どもは、まったく滅ぼされ、彼らのために破壊され、混乱させられた天地も造り変えられ、神のみ心にかなった人々は、死も、悲しみも、苦痛も、涙もない、至福の状態で、永遠に生きるのです。しかもその完全な神の国は、いま、わたしたちの住んでいるこの地上にも、すでに侵入してきています。その幸いな生活は、ただたんに遠い未来に属する「希望」だけではなく、現在、この世界でもかいま見ることができる、たとえ限られているとはいえ、現実に味わうことができるものなのです。(第1課参照) つまり神の国は、たんにキリスト教の教義として、頭脳で理解することではなく、実生活の中で、毎日体験すべきものなのです(マタイ12:28、ルカ11:20、Iコリント4:20)。

T.A.神の国の個人的体験

 神の国に入ることは個人的な体験です。すなわち、神の国の招きを聞いた個人個人が、その招きに応じて、信仰を持ち、新しく生まれ、神の国に入るのです。親が信仰を持っているとか、夫が信仰を持っているとか、妻が信仰を持っているというようなことは、一切関わりなく、あくまでも個人、自分自身の決意、選択によるのです(ヨハネ3:1−10)。

 神の国に入ると、神の支配がわたしたちの生活全体に及ぴます。悪い生活が改まった。醜い性格がましいものになった。人生観が変わった。病気がいやされ、健康になった。見る物すべてが輝いて見えるようになった。うれしさがこみあげてくるようになった。心配ごとが消えて平安になったなどという体験は、しばしば耳にする神の国の体験です。それは、たとえ小さく不完全であっても、まぎれもなく、やがて出現する完全な神の国の、前味であり、保証なのです。これらの体験は、ほとんど個人的なものであり、神がひとりの人間に、深い関心を持っておられるということを示しています。

T.B.神の国の共同体験

 ところが、神の国に入るということは、たんに個人的体験で終わるものではありません。それは、「生まれる」という個人的体験が、個人の体験に止まらず、産んでくれた親・家族・親族という共同体の中に生まれ、その中で互いに影響し合いながら、成長して行くのと同様です。人間は社会的動物で、ひとりぼっちで生きていくようには造られていないのです。キリストは、神の国に新しく誕生した者、霊的な誕生をした者が、まだ悪魔の支配が続いている「この世・この代」の荒波の中で、ひとりぼっちで生きていくのではなく、おなじ神の国の体験をしている、多くの者たちが作り上げている、「神の家族」と呼ばれるひとつの共同体の中で、生きていくように定めてくださいました(エペソ12:19、ガラテヤ6:10)。ひとりの赤ちゃんがこの世に生まれ出るというでき事は、生まれ出る本人にとってだけではなく、家族にとっても重大なでき事です。神の家族の中に誕生することもまた、生まれ出る本人にとってだけではなく、家族全員にとって重大なでき事なのです。神の国に入った者は、神の家族というひとつの共同体の中で、同じように神の国に入り、神の支配を体験している人々と、喜びを分け合い、悲しみを担い合いながら、さらに神の国の体験を深め、その体験を共有して行くのです。そしてその神の家族を、キリストは「教会」とお呼びになりました。そういうわけで教会には、昔から、互いに「兄弟姉妹」と呼び交わす習慣があります。そして、この教会の共同体験は、個人的体験のすばらしさを、さらに上回るものです。

※※※ まとめ ※※※ 

 神の国は、現在、この現実の世界に生きているわたしたちが、実際に体験できるものです。それはひとりひとりが、自分の信仰によって獲得する、すばらしい個人的体験であると同時に、同じ信仰を持つ者たちが作り上げる家族的な共同体、「教会」の共同体験でもあります。そして、この共同体験は、個人的体験よりさらにすばらしいものなのです。

U.キリストがお建てになった教会

 神の家族である教会は、人間の都合によって作られたものではありません。それは人間の集まりではありますが、人間が建てたものではなく、キリストご自身があらかじめ計画し創立されたものです(マタイ16:18 参照エペソ1:3−14)。

テキスト ボックス: 教会というと、とんがり屋根の建物を思い浮かべますが、それは教会堂であって、教会ではありません。本当の教会は神の国を体験した人々の交わり、共同体です。

U.A.例外なしの参加

 もしも教会が、人間によって作り上げられたものだとすれば、つまり、たんにクリスチャンたちの便宜や、国家の都合などによって作り上げられた、ひとつの宗教組織だとするならば、わたしたち神の国に入った者が、それに加入するかしないかは、まったくわたしたちの自由です。それがわたしたちの人生観と合い、考え方と一致し、主旨を同じくし、やり方も納得の行くものならば、それに参加するのも、やぶさかではありませんが、もしも、そうでないとするならば、なにも、参加する必要はないわけです。しかし教会は、キリストご自身が、神の国に入った者のために、準備してくださった共同体です。神の国に入った者、神の支配を体験した者、新しく霊的な誕生をした者は、すべてこの共同体に加わるように、神ご自身がお定めになったのです。そこに例外はありません(Iコリント12:13)。

テキスト ボックス: 神の国の共同体について学ぶ上で、Iコリント12:13の教えは非常に大切です。残念ながら、 どういうわけか、
どの日本語訳の聖書も、この箇所を正確に翻訳(ほんやく)していないため、説明が必要です。ちょっと理屈(りくつ)っぽくて面倒(めんどう)ですが、お許しください。
日本語聖書では大抵(たいてい)、「私たちはみな、・・・・一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け」(新改訳聖書)のように訳し、あたかも、「一つの体」という言葉で表現されている教会に連なるために、すべてのクリスチャンは聖霊によって、「バプテスマ」なるものを受けたのだと、理解されるようにしてあります。しかし、原語の聖書では、多くの英語の訳が正しく訳出しているように、「私たちはみな、一つの御霊によって、一つの体のなかにバプタイズされ」となっています。つまり、すべてのクリスチャンは、同じ聖霊によって、キリストの体というひとつの教会に、「バプタイズされた」のだということです。クリスチャンは、教会に連なるための儀式や秘儀として、バプテスマなるものを受けたのではありません。教会に「直接」、現実として、あるいは霊的な事実として、バプタイズされたのです。そして、バプタイズとは浸すという意味ですから、加えるとかつなぐとか言うよりも強い意味があります。さらに、ここが大切なのですが、すべてのクリスチャンをバプタイズしてくださったのは、教会でも、牧師でも、偉(えら)い先生でも、有名な高僧(こうそう)でもなく、聖霊なる神ご自身であるということです。

U.B.限られた者だけの参加

 神の国の共同体である教会は、神の国に新しく生まれた者、神の国に入った者すべてが、加入するものである一方、それ以外の人は、だれひとりとして、加入することができないものです。教会は、神の聖い力の支配を体験した人だけが、加入を許される特別な共同体なのです。しかも、加入を決定するのは人間の判断や権威ではなく、すべてを知っておられる神の判断と権威によるのです。

 本来、教会に加入するための唯一の条件は、「神の国に入った」という事実だけです。そして、この事実は、すでに学んだように、「キリストを信じた」「新しく生まれた」「神の子になった」など、ほかの言葉でも表現されているひとつのでき事です。このひとつのでき事、体験以外に、どのような条件もありません。そしてこの唯一の条件が、また、絶対必要条件、つまり、これなくしては教会に加入することは出来ないという、条件なのです。ですから、たとえ道徳的にはどんなに立派でも、教会にいかにたくさんの金品を贈呈していても、どれほど有名でみんなに尊敬されていても、さらには、聖書を良く勉強して、神学博士号を取っていたとしても、そういうたぐいのことで教会に加入できるものではありません。神の国に入ったかどうかが、唯一絶対の基準なのです(Iコリント12:13)。また反対に、道徳的にはどれほど退廃していても、どんなに腐れ切っていても、人間のくずであるかのように言われていても、そのような事にはいっさい関係なく、神の国に入るという一つの条件だけが、要求されるのです。まず、道徳的にも社会生活の上でも後ろ指をさされないようになって、神の国に入ることができるのではなく、神の国に入る事によって、新しい生き方が可能になるのです。

※※※ まとめ ※※※ 

 教会は人間が作り出したものではなく、キリストが創立してくださったものです。キリストは、神の国に招き入れた者すべてを、この教会に加わるようにお定めになりました。しかし、その一方で、神の国に入った者以外は、たとえどのように立派といわれ、尊敬を勝ち得ている人物でも、この教会に加わることができないようにされたのです。本当の意味で、教会に加えるべきかどうかを判断し決定なさるのは、神ご自身です。

V.人間の集まりとしての教会

 神の国の共同体である教会は、キリストご自身が創立してくださった、神的な集まりです。そこには、神の霊である聖霊が働き、神の支配を実現してくださいます。しかし、同時に、教会は人間の集まりであり、極めて人間的な要素を持ち合わせています。

テキスト ボックス:  教会に集っている人がみな、神の国を体験しているわけではありません。これから体験する人もいることでしょう。

V.A.神の国に入っていない者の混入

 実際のところ、わたしたちのまわりに見える教会には、神の力を体験していない者がたくさん加わっています。ある人はたんに教会の美しさに引かれたり、音楽に引かれたり、あるいは、英語を習いたいなどという理由で教会に来て、そのまま、何となく、クリスチャンになったつもりでいるのかもしれません。あるいは始めから、教会を混乱に陥れようと、ひそかにまぎれ込んでいる者もないとはいえません。彼らは教会のさまざまな活動や行事に活発に参加すことでしよう。外面からは一見、本物のクリスチャンに見えます。また、事実、そのうちに本当に神の力を体験して、神の国に入り、クリスチャンになることも大いにあり得ます。

3.A.1.見える教会と見えない教会 

 このように、本物のクリスチャンとそうでない人々が混在している教会は、「可視的教会」、あるいは「見える教会」ともいうべきもので、あくまでも外見上の教会、うわべの教会です。さまざまな人為的な判断と、いろいろな規則の枠づけによる教会です。本当の教会は神の支配、すなわち神の国を体験し、神の判断と権威によって加入させられた、本物のクリスチャンだけによって構成されています。ただ人の目には、誰が本物のクリスチャンであり、誰がそうでないか完全には判別できないために、「不可視的教会」「見えない教会」などと呼ばれています。このような呼びかたは、聖書の中には出てきませんが、聖書の教えをまとめて整理をすると、このように呼ぶのが、ふさわしいと思われるものです(マタイ13:24−52)。教会では、ふつう、単なる出席者や参加者と、洗礼を受けた正式の「教会員」を区別しています。この「教会員」の作り上げている共同体が「見える教会」であり、出席者や参加者は教会の活動に参加しているだけで、教会には加入していないものとみなされます。多くの人たちは教会の活動に参加しているうちに、神の国を理解し、その力を体験し、自分もその中に入って行くようになりますが、教会とはあくまでも神の国に入った人たちによって、構成されるものです。ただ実際には、まだ洗礼を受けていない人の中にも、真実のクリスチャンがいますので、本当の教会とは、見えない教会であることが分かります。

3.A.2 見える教会への加入

 神の国に入った者は、神の聖い力の支配によって、新しい人生を体験します。それはまず、その人自身の自覚となって現れ、さらには、当然、周囲の人にも明らかに分かるほどになります。この神の支配を自覚した人は、牧師など、教会の指導者に申し出て、正式に教会員として加入させてもらうことになります。そこで、牧師や指導者はその人の生活を観察して、本人が自覚し告白している通りに、まぎれもなく「新しく生まれている」、「神の国に入っている」、「神の支配を体験している」と認めることができれば、神を代理する教会を代表して、洗礼、すなわち水によるバプテスマを授け、教会加入を認めることになります。洗礼にはいろいろな深い意味がこめられてます。

 もっとも大切なのは、授ける側から言うと、聖霊ご自身が、その人物を、キリストの体である教会にバプタイズしてくださったと、この象徴的儀式で公に認め、正式に教会員として迎えることです。受ける側にとっては、自分が救い主キリストを信じる信仰の告白であり、神の国の共同体に加わる意思の表明です。したがって、牧師などの教会の指導者は、真剣な祈りと洞察をもって、本当に神の支配を体験している人だけに洗礼を授けようと、細心の注意をはらっています。実際には、どうしても人間的な判断の誤りが出て、間違った人に洗礼を授けることも、起こってしまいます。また反対に、すでに神の国に入っていながらその自覚がなく、洗礼を受けたいと申し出ることもないために、つい見落とされてしまうこともあります。ですから、本当の意味での「神の国の共同体」、すなわち教会は、ただ神だけがご存じで、人間には判別できない、「見えない教会」なのです。

テキスト ボックス:  「バプテスマ」というギリシャ語は、普通「洗礼」と訳されていますが、 「洗礼」では意味
を表しきれないところもあり、「バプテスマ」をそのまま残している聖書があります。バプテスマとは、もともと染物(そめもの)をするとき、色の付いた水に布をどっぷりと入れるときなどに用いた言葉で、「浸(ひた)す」や「漬(つ)ける」などが近い日本語です。しかしキリストの時代には、この水に浸す行為は、新しい気持ちで何かを始めるときに行う儀式となっていたため、「礼」という文字が加えられました。その儀式に、罪を洗い流すという意味も幾分あったと理解されたために、「洗礼」と翻訳されたのですが、ある教会は、それでは「洗う」という意味が強調されすぎると感じて、むしろ「浸礼(しんれい)」と呼んでいます。

V.B.不完全な人間の集まり

 現在わたしたちの目に見える教会には、まだ神の国に入っていない人が、含まれている可能性があり、反対に、間違いなく神の国に入っているのに、加入させてもらっていない人もあり得るということです。それはとりもなおさず、教会が不完全な人間の集まりであることの証拠です。

 神の国に入った者は、すぐさま完全無欠の人間になるのではありません。神の支配を受けるようになっても、まだまだ、古い自分の悪い性質と戦い、社会の悪と戦い、悪魔を攻撃して行かなければなりません。完全になるには、未来の神の国の到来を待たなければなりません。神の国に入った者によって構成される教会も、当然、不完全で、人間的弱さを抱えています。間違いも犯し、失敗もしばしばくり返します。歴史を調べてみますと、神の国に入っていない者の割合が大きくなり、聖書がないがしろにされ、神の教えがしっかりと教えられなくなったとき、教会は、腐敗と堕落をくり返しました。とくに、神の国に入っていないものが指導的立場に就き、世俗的な権力と癒着を起こしたときには、教会は神の国の現われではなく、むしろ、悪魔の力の現われのようになってしまいました。たとえば中世の教会がその顕著な例です。

 しかし神はいつの時代にも、どんな状況の中にも、本当の教会、すなわち「見えない教会」の中に働き続けてくださり、教会を内部から改革し、浄化し、現代にまで至らせてくださいました。悪魔は何とかして教会を完全に堕落させ、神の計画を台無しにしようと、最大の努力をしてきましたが、教会は神の力によって立ち続け、決して打ち破られることはなかったのです(マタイ16:18)。

 教会の中に混じっている、「本物」ではない者を取り除こうという努力は、しばしばくり返されて来ました。ただし、それをあまりにも厳しく行うことは、キリストによって禁じられています。「本物」を「偽物」と聞違って、取り除いてしまうことにもなるためにです。正しい判断と裁きは、やがて定められた時に、キリストご自身が完全に行ってくださると、約束されています(マタイ13:24−52、22:1−14、24:45−25:4)。

※※※ まとめ ※※※

 教会は、キリストご自身によって創立されたという、神的起源を持つものですが、人間の集まりである以上、極めて人間的な側面も持つものです。現実にわたしたちの目に見える、組織としての教会には、実際には神の国に入っていない者も、紛れ込んでいる可能性がありますし、たとえ間違いなく神の国に入っていたとしても、まだまだ不完全な人間が集まっているのです。したがって、教会にはたくさんの失敗や過ちがあります。しかし、それでも教会は悪魔に打ち破られることなく、完全にされる日を待ち望みながら、生き続けるのです。        

W.神の国が具体的に現される教会

 教会は神の国、すなわち神の支配が具体的に現される共同体です。聖書では、教会がいろいろな名で呼ばれていますが、たとえば「キリストの体」という名は、教会が多くの信徒たちで成り立っていながら、みなひとつの同じ命、すなわちキリストの命に生かされ、互いに助け合いながら生きているという姿を表すものです。「神の宮」あるいは「神の住まい」という言い方は、神が教会の内に住んでくださって、内側から教会に力を及ぼしてくださることを示しています。教会が神の家族であり、神は「父」であるという教えも、神の教会に対する愛と権威を象徴しています(コロサィ1:18、エペソ2:18−22)。

 すでに学んだように、たとえ、現在人間が生活している世界は、悪魔に支配されているとしても、その支配はあくまでも絶対の神の権威の下で、許容された範囲にすぎません。悪魔がどんなに望んだとしても、太陽を西から昇らせたり、エイズをインフルエンザのようにはやらせたりはできないのです。絶対的な意味では、神が今もすべてを支配しておられるのです。この神が、この世・この代という悪魔の支配のただ中で、教会という共同体を建て、その中に神の国、神の支配を明確に現してくださるのです。それは、やがて現される完全な神の国の、前味、または先ぶれともいうべきものです。

W.A.個人個人に現される神の国

 神の国、すなわち神の支配は、倫理、道徳、法律、刑罰といったものとは異なっています。それらは、あれはやってはいけない、これをやってはだめだと、人間の外部から枠付けし、規制し、拘束し、締め付けます。ところがそれらは、人間自身の罪の性質と、社会の悪い環境と、悪魔の直接の支配という三重の束縛から、人間を解放することができないのです。

W.A.1.内部に働きかける力

 ところが、神の国は人間の内部に働きかける力です。人間の心、性質に働きかけ、影響し、意思を動かし、動機を励まし、実行させ、継続させるちからです。あるときは爆発的な瞬間の力となり、あるときはゆっくりと流れる大川の流れのような、静かに隠れた圧倒的な力になります。時には、神の国、神の支配の現実的力を体験しないまま、頭の知識だけでキリスト教を理解したと思い込み、自分はクリスチャンであると主張する人が現れます。荘厳な儀式だとか、甘美な音楽、あるいは壮大な教会堂などを強調して、神の国の力にはまったく感心を示さない教会が、力を振るうことも起こってきます。主観的観念論、つまり、信仰の対象である神が、どのような神であるかよりも、信仰する自分が、どのような信じ方をするかが大切なのだと主張して、神の国の力を、単なる感情の高ぶりによる心理的体験に引きずりおろし、実態のない理屈や言葉の彩に取り替えてしまう、教会や運動も出現してきます。しかし聖書は、「神の国は言葉ではなく力である」と教え、神の国が極めて現実的なものであることを示しています(Iコリント4:20)。

W.A.1.体験的な神の国

 神の国の共同体に加入した者は、本来このように圧倒的な神の国、神の支配、神の聖い力を自分の生活の中で体験した者であり、また体験し続けている者なのです。ですから教会の中には麻薬中毒、アルコール中毒、ニコチン中毒などの物理的中毒から解放された人たちがいます。あるいは、セックス中毒、ギャンブル中毒、物欲中毒、陰口中毒、嫉妬中毒、憎しみ中毒などの、精神的中毒から解放された人たちもいます。また、いま解放されつつある、現在進行形の人々もたくさんいます。神の国の共同体である教会に加入している、ひとりひとりの人生は、神の国、神の支配の具体的な現れの場なのです。

 また、神の国に入った者たちの多くが、今でも、神の支配の具体的証明として、病気を治してもらい、悪霊を追い出してもらっています(マタイ12:28)。不治と言われた病気をはじめ、じつにさまざまな病気がいやされています。また、悪霊、怨霊、水子霊、死霊などの、恨みやたたりから解放され、恐れが無くなったため、占い、お払い、方位方角、日よりなどに、煩わされなくなった人たちがたくさんいます。以前はとんでもない生活をしながら、自分ではどうすることもできない惨めな日々を送っていましたが、今ではまったく変えられ、新しい人生を喜んでいますというような人も、数多くいます。自分はクリスチャンである、教会に加入していると言いながら、このような具体的な神の国の現れを体験していない者があれば、その人は、真剣に自分の信仰のあり方を反省してみるべきです。

教会は完全な人間の集まりではありません。あくまでも不完全な人間の集団です。ですから、教会の中に醜い人間がいるからと言って、教会に失望するのは間違っています。銭湯に行って、汚れた人がいるからと言って驚くのは間違っているのと同じです。お風呂は汚れた人が行くところです。教会も、汚い罪人、汚れていると自覚している人が行くところです。そしてそこで、神の国の力を体験し、新しい清潔な人間にされることが多いのです。テキスト ボックス: 病気の癒しなど、神の国の力の現われをことさ
らら強調する人々の中には、神様はすべての病をを癒してくださるお方なのだから、病が癒さ
されないのは、その人の信仰が薄いからだと教える者がいます。これは正しい教えではありません。
 私たちの救いが完成するのは、やがて私たちが完全な神の国に入れられる、未来の出来事だからです。私たちはその未来の完成を目指して、いま、生きているのです。この世において味わう神の国の力はすべて、やがて現される完全な神の国を示し、保証するものにすぎず、安全ではあり得ないのです。ですから、たとえ、目が癒されても足が癒されていないだとか、神経痛は癒されたけれど胃腸が弱いのはそのままだということも、ふつうに起こるのです。それはちょうど、短気は直されたけれど、けち臭い性格はまだそのままだというのと同じです。私たちが完全に変えられるのは、未来に属することなのです。
 しかし、私たちが作り変えられつつあるのは事実であり、私たちが癒されるのも事実です。それが完全でないからと言って、人を作り変える神の力を否定するのは間違っていますし、癒しなどないというのも愚かです。
 

W.B.人間関係に現される神の国

 教会とは、複数の人間が構成する共同体で、建築物でも、組織でも、あるいは企業団体のようなものでもありません。あくまでも人間が教会なのです。その人間がひとりではなく、何人か集まって構成する人間関係、人格を持った人間同士が作り出す、血の通った交わりが教会の本質です。

 ですから神の国、すなわち、神の聖い力による支配は、この人間関係、交わりの中によく表現されるのです。キリストが、「神の国はあなた方のただ中にある」とおっしゃった通りです(ルカ17:21)。くり返しますが、このキリストのみ言葉は、神の国というものがただ心の中に存在する、観念的なもの、いうならば精神状態で、「あると思い込めばある」、「あると信じればある」というものではなく、人間関係の中に実際に存在する、神の支配のことをおっしゃったのです。

W.B.1.新しい人間関係

 神の力によって悪魔の支配から解放され、自分の罪深さにも打ち勝ち、社会のあらゆる悪環境にも押し流さず、力強く生きる可能性を与えられたクリスチャンという人種は、必然的に新しい人間関係を作り出します。それだけではなく、クリスチヤンは人を赦し、人を受け入れ、人を愛することができるようになっているのです。なぜならクリスチャンは、神が自分のように罪深い者をみ心に止め、キリストの身代わりの死を通して、罪を赦し、受け入れてくださったほどに、自分を愛しておられるということを知っているからです。愛されていることを実感している者は、愛することもできるようになるのです。  

 キリストが創立してくださった共同体、教会は、愛の共同体です。キリストご自身が、教会に向かって次のような教えをお与えになりました。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。あなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです」(ヨハネ13:34−35、15:12、17)。キリストの時代には、現在のわたしたちもよく知っている、「あなたの隣人を自分と同じように愛しなさい」という旧約聖書の教えは、大切な戒めとして広く知られていました(レビ19:18、マタイ22:39)。キリストも、この教えをとても大切なものと位置づけておられますが、ご自分が創立された教会に対しては、もう一歩突っ込んだ戒めを、お与えになったのです。それが、この新しい戒めです。

W.B.2.古い戒めと新しい戒め

 旧約聖書の戒めは古い戒めで、人類一般に共通する、普遍的な広がりを持ったものです。しかし、キリストが新しくお与えになった戒めは、キリストの弟子たち、すなわち教会という特定の人に限って、与えられたものです。

 戒めの主題は「愛すること」で、両方とも同じです。しかし、古い戒めの愛することの基準は、「自分を愛する愛、すなわち不完全な自己愛です。それに対して、新しい戒めの基準は、キリストがわたしたちを愛してくださった愛、つまり完全な愛の具体的表現です。また、古い戒めが一方的愛しか想定していないのに対し、新しい戒めは相互愛を語っています。新しい戒めは、キリストの愛を体験していない者には、意味がありません。「わたしがあなたがたを愛したように」と言われても、キリストに愛されているという事実を知らない人にとっては、何の事やらわからないからです。また、「互いに愛する」というのも、キリストの愛を体験し、その愛によって啓発され、動かされ、さらに神の国の力を体験している者同士の間で、はじめて可能性が出てくるのです。キリストの愛の共同体に入った者は、「自分は愛することができるようになった」ということを発見するのです。これは、奇跡です。 

W.B.3.神に支配される人間関係

 聖書は、教会を「神殿」もしくは「宮」とも呼んでいますが、それは建物のことではなく、あくまでもクリスチャンたちの交わりのことです。この交わりの中に、神の霊が宿り、住み、支配してくださるという意味です。教会の中にこそ、人間関係に現される神の支配が顕著になるのです。また、聖書が教会を「神の家族」と呼ぶのは、愛の神の霊によって支配される人間の共同体は、家族と呼ばれるのにふさわしいものだからです。というより、神の家族の交わりは、血族や系族の家族の交わりよりも、もっと深く、強いものなのです。しかも、聖書が言う.「家族」は、現代の日本の核家族や、アメリカの崩壊寸前の家族、個人主義者の寄り合い家族ではなく、古代イスラエルの、固い固い絆で結ばれていた家族のことなのです(Iコリント3:16−17、6:19、ヘブル3:6、Iテモテ3:15、エペソ2:19)。

 悪魔の支配から解放され、自分の罪の力と戦い、勝利を勝ち取ることができるようにされ、キリストの姿に似る者とされている人々の共同体、すなわち教会は、まさにこの世における神の国の現れなのです。もちろん、それはまだ完成していない不完全な神の国で、たくさんの困難や、多くの醜いところもあるはずです。しかしそこには、まぎれもない神の国が存在するのです。

テキスト ボックス: イスラエルの人々は、 「シャローム」と言って挨拶(あいさつ)を交(か)わすそうです。これはキリストの時代でもそうでした。また、もっと以前に
も、同じように「シャローム」と挨拶(あいさつ)が交(か)わされたのです。シャロームは、普通(ふつう)は「平和」と翻訳(ほんやく)されますが、これは非常に意味の深い言葉で、たんに戦争が無い、争いが無いというだけではなく、心が満ち足りて平安な状態、さらには、すべてが満ち足りて欠けたものが無い状態を意味します。つまり、神の祝福によってあらゆるものが満たされ、争い、戦いが無くなるばかりでなく、人々の心が互(たがい)に愛する愛に溢(あふ)れる、神の国の状態を言っているのです。教会はこの世における神の国の共同体、シャロームの共同体なのです。

 そぅいうわけで教会は、悪魔が支配する中で、神の国を表現していくものです。世の中の人々が、自分中心に、己のことだけを考え、己の利益に血眼になり、互いに傷付け合い、いがみ合い、憎しみ合っている中で、教会は、互いに愛し合い、いたわり合い、励まし合い、助け合い、自分が他の人の役に立てることを、おごらず、たかぷらず、心から喜んでいくのです。そしてまた、助けられる事に「ひけめ」を感じないで、堂々と、ゆったりと、感謝をもって自分を任せることができるのです。

※※※ まとめ ※※※

 教会には神の国、すなわち神の主権による支配が、具体的に現されます。まず、教会に加えられたひとりひとり、教会を構成している個人個人の生活の中に、神の国は形をとって出現します。クリスチャンの生活態度が、一般的にしっかりしているのは、クリスチャンがすばらしいのではなく、クリスチャンの中に働いている神の力、神の支配、すなわち神の国がすばらしいからです。また神の国は、神の国に入った者の病気を癒し、悪霊、怨霊、死霊そして水子霊などと呼ぼれる、さまざまな霊の恐怖からの解放ももたらします。しかし、神の国がとくに見事に現れるのは、神の国の共同体である教会の中における、人間関係の中です。神の国の共同体に加えられた人間は、神の愛を体験し、神の力によって、愛することができなかった人間から、愛することができる人間に造り変えられた者たちです。この愛することができるという可能性を、互いに生かしながら生活すると、そこには、シャローム、すなわち、神のあらゆる祝福に満ち足りた、平和な人間関係、共同体ができあがるのです。

X.ひとつの存在と多くの存在

 聖書で用いられている「教会」という言葉には、いくつもの異なった意味が含まれています。教会はとても大きな主題であり、さまざまな局面をもつからです。中でも顕著なものを取り上げて見ると、それは世界の中にただ一つしか存在しない教会と、世界中のいたる所に存在する多くの教会です。

V.A.ひとつと多く

 先に触れましたが、キリストが「私の教会を建てる」とおっしゃった時の教会は、世界中に一つしかない、唯一の教会のことです。また、使徒パウロが、キリストのみ体である教会と語った時も、一つの教会です。一方、例えば「ローマにある教会」、「コリントにある教会」、あるいは「アジアにある諸教会」のように用いられている場合は、それぞれの土地にある教会で、このような教会は、世界中に数え切れないほどあります。

 最初の教会は、キリストによって建てられて、今も存続しているのですから、時代や地域や文化や、人種や、言語というような、あらゆる障壁を超えた一つの教会です。ところがもう一方は、時代や地域や文化、その他、人間社会のあらゆる相異に制限された教会で、いろいろな人々がそれぞれの実情の中で建てて来た教会です。あるものは数百年も続いていますが、多くはもっと短い存在で終わっています。

V.A.1.ひとつと多くの関係

 神の国に入れられた私たちが、聖霊によってバプタイズされた教会は、キリストのみ体としての教会ですから、これは唯一の教会であり、時代と場所、あるいはあらゆる人間的な相異を超えた教会です。私たちは、特定の地域にある特定の教会にバプタイズされたのではありません。この唯一の教会、言葉を変えれば普遍的な教会は、そのままでは目に見えない、あたかも理念上の存在のようです。しかしそれは単なる理念ではありません。それは地域教会と言う具体的形で、姿を現しているのです。それぞれの地域にある教会は、目に見えないキリストのみ体、普遍的教会の地域的な顕現なのです。

 ですから、それぞれの地域に根を張っている教会は、目に見えない普遍的な教会が、それぞれの地域で、目に見える形で具体的に自分を表現している教会であり、普遍的教会そのものなのです。世界中のすべての教会が集まって、普遍的な教会を構成しているのではありません。言い方を変えると、そテキスト ボックス:  フィリピン北部山岳奥地の教会 礼拝会後の食事の準備 険しい山奥の小さな集落にある教会。この土地の実情に合った独特の形をとりながら、立派に教会として存在しています。豚をほふって、みんなで分け合ってお昼ごはんです。米は少なく、サツマイモが主食です。れぞれの地域の一つひとつの教会は、普遍的な教会の一部分なのではありません。一部分ならば、私たちの教会は「祈りの教会」です。私たちの教会は「愛の交わり」の教会です。私たちの教会は「信仰」の教会ですと、普遍的教会の性質の一つを取り上げて強調し、他の性質を忘れてしまうこともできますし、私たちの教会は「白人の教会」です。私たちの教会は「日本人の教会」です。私たちの教会は「金持ちの教会」です。私たちの教会は「上流階級の教会」ですと、差別を持ち込む事も可能です。それぞれの地域にある教会は、その地域の特性と時代、文化の中に、キリストのみ体が自分を現した教会です。それぞれの地域差、文化的表現の差は存在しても、もともとのキリストのみ体である教会の、あらゆる性質と資質、あるいは力を発揮すべきものなのです。ですから、キリスト

のみ体である教会が、愛の交わりと祈りを大切にしているならば、すべての地域にある教会はそれを大切にするのです。キリストみ体である教会が、人種別や貧富の差別など、あらゆる差別を排斥しているならば、すべての地域教会は、そのような差別を持ち込むべきではないのです。
X.A.2.多くの不完全な存在

 先に述べたように、教会はキリストによって建てられたものでありながら、人間の集まりとして、あらゆる人間の弱さを含みます。神の国に生まれた者がみな、ただちに大人の信仰者になるのではありません。したがって、それぞれの地域に姿を現す教会には、さまざまな欠点と短所、弱点や汚点があります。たとえば、貧乏人はお断りという教会もあれば、「犬と・・・・・人はお断り」と、あからさまな人種差別を持ち込んでいる教会さえあるのです。地域の教会は人間的不完全さを抱えた教会であるとは言っても、このように聖書の大原則、キリストのみ体の基本的精神に、真っ向から対立している教会の存在は、じつに残念な事です。そのような教会の多くは、実は、神の国に生まれた人々が建てた教会ではなく、いろいろな社会的理由によって建てられて、社交場と化した教会です。

 現実を見ると、かなり多くの純粋な気持を持ったクリスチャンが、このような不完全な教会、あるいは醜い教会を見て幻滅し、地域の教会には加わらないまま生きています。それはおおいに同情すべきですが、正しい事ではありません。すべてのクリスチャンは、キリストのみ体である教会に、バプタイズされています。そしてその事実は、地域にある教会に参加し、活動することによってのみ、初めて具体的に表現され、明らかにされ、認められるのです。どのように立派なクリスチャンにも欠点はあるのですから、いかに素敵な教会にも不完全なところがあります。したがって、完全な教会を求めてどれほど歩き回っても、見つける事は出来ないのです。

V.A.3.不完全な中で生きる

 目に見える教会は、欠点が多いからといって加わらないで、孤独なクリスチャン生活を送る事は、大きな欠点を抱えている教会に加わるよりも、ずっと大きな欠点となります。なぜならキリストの命は、基本的に、具体的な教会の交わりを通して、ひとりひとりのクリスチャンの中に流れ込むものだからです。特殊な場合を除いては、孤独なクリスチャン生活をしている人の中には、本当の意味でのキリストの命の漲りはありません。例えば、互いに愛し合いなさいというキリストの至上命令も、クリスチャンたちが互いに孤高を保って生活していたのでは、守ることはできません。この世界において互いに愛し合うことは、互いの弱さや欠点を補い合い、助け合って生きていくことです。不完全だからと言って交わりを避けていては、互いの弱さや欠点を補い合うことも出来ず、キリストの戒めを守る事はかなわなくなるのです。キリストの戒めを守る事が、かなわない状況を自分で作り出しておいて、キリストの命に溢れる事は出来ないのです。ですから、孤高を守るクリスチャンには、独りよがりで、身勝手な者が多くなるのです。

 完全な教会を捜し求めて、かりに見つかったとしても、自分が参加したとたんに、その教会は不完全になると言うことを、よく知らなければなりません。教会は、悪魔が支配している現在のこの世にあって、やがて現される完全な神の国を彷彿とさせるものですが、まだまだ不完全なものとして、存在するのです。不完全と言えども、神の命があふれていることが、清められた生き方や、互いに愛し合う生き方の中に、明らかに認められる共同体なのです。多くの教会はそれぞれの団体や、流れ、あるいは派とでも言うべきものに属しています。それぞれが歴史的経緯や背景があってできたもので、強調点や教えの角度が微妙に異なっています。現代の私たちにはそぐわなかったり、日本の文化にはなじまなかったりするものも、たくさんあります。中には、そのようなものには属していない、まったくの独立教会だと主張する教会や、すべての教会の長所を集めた新しい教会だ、などと語る教会もあります。ところが、そのような教会ほど、身勝手派という派に属している事も多いので、注意しなければなりません。時には自分勝手な宗教団体を作ってキリスト教と称し、聖書を自分の都合に合わせて解釈して、金儲けや欲望追及の手段にしている人々もいるのですから、教会と言う名に騙されてはなりません。よほど経験の深い牧師ならば、そのあたりの事もよく心得ているのですが、そのような牧師にめぐり合うのも難しい事です。

テキスト ボックス: そこでちなみに、いまあなたが学んでいる、このテキストを作っている牧師ですが、@世界中におよそ5000万人の信徒を持つ、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドと言う団
体に所属し、A神学校で学んだ後40年間にわたって、牧師として、あるいは海外で働く宣教師として、経験を積んできた者です。いろいろな欠点を抱えているとはいえ、大多数の教会から、信頼の置ける正統的教会と認められている団体に所属し、それなりの学びと経験を積み重ねてきた、いくらかは、信頼ができる者であるということを、お伝えしておきます。

※※※ まとめ ※※※

 聖書は、教会という言葉を、いろいろな意味あいで用いていますが、とくに大切なのは、全世界にただ一つの、時代と地域を越えた、目に見えない教会という意味と、時代と地域に限定された、それぞれの市町村にある教会というふたつです。全世界に唯一の教会は、キリストのみ体と呼ばれる教会で、私たちが聖霊によってバプタイズされた教会です。それぞれの市町村にある教会は、この目に見えない教会が、それぞれの地域の人々、文化、時代などに適応して自分を現したものです。すべてのクリスチャンは、キリストのみ体である教会に加えられているという事実を、この地域にある教会に具体的に加わり活動する事によって、明らかにし、神の家族として愛し合って生きると言うことを、具体的に表現して行くのです。それぞれの地域にある教会は、人間が加わった組織ですから、必ず、不完全な醜い面があります。しかしそれは、悪魔が支配するこの世に進出してきた、神の国の具体的な現われとして存在し、その中に神の命が溢れ流れるのです。

私が出会った人

 私は、スーツケースひとつでフィリピンに渡りました。1年遅れて来た妻とふたりの子供たちも、スーツケースひとつでした。一家でスーツケースふたつです。海外伝道という働きが、まだまだ日本の教会の理解を得ておらず、支援体制も整っていなかった時代です。日本にいたのでは海外の情報がまったくわからず、宣教師になるための訓練と言っても、実質的なことは何もできないと判断した私たちは、わずか数人の牧師の支援を得て、とにかく海外に移り住んだのです。マニラ郊外の小さなアパートでしたが、家具らしい家具もなく、佃煮ができるほど押し寄せる、蚊の大群から身を守るための蚊帳が、財産といえば財産でした。

 あるとき、国際クリスチャン放送局の、日本語部門責任者として働いておられた中川さんから、電話がかかってきました。数少ない日本人クリスチャンとして、私は番組制作のお手伝いをしていたのです。留学先の神学校から、大きなバンを借りて来てほしいとおっしゃるのです。よく訳がわからないまま、信頼されている日本人学生の特権を生かして車を借り出し、お宅に駆けつけました。「これを積んで、運んで欲しいんですよ」と指差されたのは、まだ新しい大きな冷蔵庫でした。ふたりがかりでやっと車に載せると、中川さんは、「じゃ。僕の指示するところまで、冷蔵庫を運んでくださいますか・・・?」と、助手席に乗り込んで来られました。ありとあらゆる汚物を混ぜ合わせ、排水溝から勢いよく吹き出して、道いっぱいに溢れ流れるスコールの泥水。それを、いつものこととかき分けて、ジャブジャブ、ビシャビシャと歩きまわる、夕暮れの人ごみ。

 他の車に倣って、私は、その中を遠慮なくしぶきを上げて走りぬけました。いくつもの角を曲がり、やせ細った犬にぶつかりそうになって、急ブレーキを踏み、たまった水で深さがわからなくなった、穴に落ちて肝を冷やし、道端で商売をしているバーベキュー屋の肉に、泥水をかけないように苦労しながらも、とうとう「ここだよ」という声で目的地に到着しました。私たちが住んでいた、安アパートの前でした。慣れない熱帯のマニラで、毎朝氷を買い、小さな箱に入れては冷蔵庫がわりにし、わずかな食糧を蓄えて苦労していた家内を、中川さんは何も言わずにじっと見ておられたのです。できるだけ現地の人々に近い生活をしようと、勢い込んで暮らしていた私たちには、不便は不便でも、苦労とは感じられなかったのでが、「便利な東京で育った家内には酷だし、子供たちが病気になってからでは遅すぎる」と、心を配ってくださったのです。ポンコツになった自分たちの車を、少しだけ新しいのに買い替えようと、失礼ながら、貧しい生活の中で長いことかかって貯めていたお金で、帰国する宣教師の冷蔵庫を買い取り、黙って私たちに「貸して」くださったのです。「先生たちがマニラから引っ越すときには、いくらでもいいからそれを売って、代金を私たちに返してください。それが条件です」とおっしゃっただけでした。おかげで私たちは、それから3年近く、安心して食糧を蓄え、病気にもならずに、冷たい水も飲むことができたのです。

 そのでき事からしばらくして、家内が次男を出産したのは、マニラ郊外の小さなクリニックでした。ごくごく普通のフィリピン人が行く、椰子の木陰に埋もれた街角の木造のクリニックです。出産の翌日、中川さんが駆けつけてくださいました。一通りの挨拶が終わってお帰りになるとき、玄関口でそっとお尋ねになりました。「先生。奥様の出産費用はありますか?フィリピンでは支払いができなければ、鉄格子の入った部屋に入れられ、支払いが済むまで出てこられなくなりますから・・・・。大丈夫ですか?必要ならおっしゃってください。いま、そのために現金を持ってきていますから」。私は彼の親切と思いやりに、目頭が熱くなりました。「実はうちの家内も、一週間前に出産したんですが、1500ペソも取られましてね。びっくりしてしまったんですよ。それで、奥様のことが心配になって、来たわけです」。

 そのときになって、私は彼の奥様も出産したばかりであったことを思い出しました。どたばたとしていて、お祝いに参じることも忘れていたのです。「そうでしたか。本当にありがとうございます。あっ。それから、奥様のご出産おめでとうございます。奥様は有名な聖路加病院だったから、きっと高かったんですね。家内の場合、普通の町のクリニックですから、150ペソでした。先ほど支払いを済ませたところです。どうぞ心配なさらないでください」。「えっ。本当に150ペソですか!?いやー。驚きましたね。10分の1とは・・・・。でも、本当に支払いはできたのですか?」。窓の太い鉄格子を横目で見ながら、なおも心配しておられるお顔に、「本当に大丈夫です」と、いく度もくり返さなければなりませんでした。

 これらのでき事は、それからの私たちの宣教師生活に大きな影響を及ぼしました。私たちも、いつも周囲の仲間たち、協力者たちに心を配り、何も言わず、何も求めず、できることをして上げることを、生活スタイルにしたのです。私たちは、日本の小さな弱い教会からの、貧しい宣教師でしたから、多額の支援も、組織的な支援もできませんでした。でも、小さなものでも、周囲の人たちと分け合うことを喜びとしていました。とくに家内は、今でも変わりませんが、ひとに何かをして差し上げることを、無上の喜びとしていました。あるとき、お客さんが多いからと私が買い込んで置いたブランケットが、いつの間にかなくなっていました。家内に聞くと、「さァ。知りません」ということです。ところがしばらくして、マンゴーの梢に隠れるようにたたずむ、近所の集落を散歩していると、出会った子供連れの貧しい農婦が、挨拶をして言うのです。「せんだっては、本当にありがとうごぜやした。奥様にいただいたブランケットのおかげで、末っ子も、暖か〜く眠られて、咳も止まってしめぇやした」。

 こんなことは一度や二度ではありません。家内は「知りません」と嘘を言っているのではないのです。本当に、自分のしたことを覚えていないのです。私には迷惑なことですが、天のみ国で、彼女への報いは大きいことでしょう。そんなわけで、我が家では、「安かったから」と私が大量に買い込んでおくものは、何でも三日と置かずになくなってしまいます。それが、貧しい助け合いの中で生きる文化の中で、私たちの人間関係に、どれほど良い影響を及ぼしたか、ほとんど説明ができないほどです。私たちの何倍もの経済力で、ばりばりと仕事をしている宣教師たちが、周りにたくさんいました。大掛かりな組織を作って大勢の人を雇い、華々しく活動をしている宣教師たちも、少なくありませんでした。私たちはといえば、数人の協力伝道者へのサポートさえ、満足に出すことができないほどでした。でも、多くの豊かな宣教師たちに劣らない、実りのある活動ができたと思います。

 あるとき、私たちといっしょに働きたいと、自己推薦の伝道者がやってきました。そこで私は他の協力者たちの前で面接をして言いました。「経済的支援を期待して、私たちとの協力を考えておられるなら、それは失望に終わります。私たちは経済的つながりでいっしょに働いているのではありません。協力し合うのが聖書の教えであり、そうするのが楽しいからです。他の協力者に言ったのと同じことを、あなたにも言います。それで納得できたら、どうぞいっしょに働いてください。私が約束できるのは、『あなただけを飢え死にさせることは絶対にしない。』 その一事です。あなたが飢え死にするときは、私たちも飢え死にするときです」。この伝道者は、私たちといっしょに働くのを諦めて帰えってしまいました。私といっしょに働き続けたのは、必要ならば、いっしょに飢え死にする覚悟があった人たちです。私たちは、とても貧しいときに受けた親切を、直接お返しすることはできませんでした。でも。もっと貧しい多くの人々に、同じようにしてあげることができました。その輪はわたしたちの手を離れ、広がっていきました。このようにして、中川さんは、私たちの働きを豊かにしてくださいました。私たちより先に帰国してしまわれましたが、キリストのみ体の一部として、私たちを通して、宣教の働きをし続けてくださったのです。自分のことよりさきに、他人のことを心配しておられる中川さん。私たちが気づかないでいることにまで気づいて、配慮してくださった中川さんには、いまだにまだ充分なお礼をする機会がないままです。

問題集

 テキストを読み返し、大筋をつかんでから、この問題にとりかかってください。この問題は、あなたが、どれほど理解しているかをチェックするものではなく、よりよく理解するための手助けです。問題を解くことによって、大切なポイントをしっかり把握することができるようになります。(1ページ)

1.「神の国に入ることは個人的な体験である」とは、どういうことですか。

2.神の国とは、いまも、ひとりの個人として体験できるものですが、その体験とはどのようなものですか?(2ページ)

3.神の国に入ることは個人的体験でありながら、個人的体験で終わるものではないのは、どうしてですか。

4.神の国に生まれるとは、神の家族に生まれることですが、その神の家族をキリストは何とお呼びになりましたか。

5.神の家族である教会は、誰によって創設されましたか。(3ページ)

6.神の国に生まれながら、神の家族に加わらないと言うことはあり得ますか。

7.教会には、誰でも自由に加入できるのでしょうか。

8.教会に加入する、唯一の条件とは何ですか。

9.下の人たちの中から、教会に加入できない人を選んでください。

@前科のあるもの A 莫大な借金を抱えているもの B 道徳的に問題があるもの  C聖書を読んだことのないもの D牧師と意見の合わないもの E 教会の試験に合格しなかったもの F神の国に入っていないもの(4ページ)

10.可視的教会と不可視的教会の違いは何ですか。

11.教会の中の正式な会員と、そうではない人々との違いは何ですか。(5ページ)

12.本当の神の国の共同体、すなわち教会は、「見えない教会である」とは、どういう意味ですか。

13.現在の見える教会、すなわちそれぞれの地域にある教会には、誤りや欠点、弱さや失敗があるのはどうしてですか。(6ページ)

14. 教会の中から、本物でないものを取り除く努力を、あまり厳しく行わないのはどうしてですか。(6−7ページ)

15.悪魔が自分の支配下にあるこの世においても、完全な自由を持っているのではないのはどうしてですか。(7ページ)

16.神の国、神の支配が、倫理や道徳あるいは法律や刑罰と異なっているのは、どういう意味においてですか。

17.「教会が神の国、神の支配の具体的現われの場である」とは、どういう意味ですか。

18.「神の国は言葉ではなく力である」という聖書の言葉は、神の国がどのようなものであることを教えていますか。

19.「教会に加入しているひとりひとりの人生は、神の国の具体的現われの場である」とは、どういうことですか(8ページ)

20.教会の中に醜い人間がいるからといって、教会に失望するのは間違っているのは、どうしてですか。

21.「神の国はあなた方のただ中にある」というキリストのお言葉は、どういう意味ですか。(8−9ページ)

22.キリストがお与えになった、「互いに愛し合いなさい」という戒めと、旧約聖書に記されている、「隣人を愛しなさい」という戒めの違いは何ですか。(9ページ)

23.教会に加入するものが発見する、奇跡とは何ですか。

24.聖書が教会を、「神殿」あるいは「宮」と呼ぶのは、どうしてですか。(9−10ページ)

25.シャロームの共同体とは、どういう意味ですか。(10−11ページ)

26.唯一の教会とは、どういう意味ですか。(11ページ)

27.地域教会は、唯一の教会の一部ではありません。では何ですか。

28.地域教会は、私たちの教会は「愛の教会である」とか、「祈りの教会である」とか言うべきではなく、「日本人の教会だ」とか「金持ちの教会だ」とか言ってはならないのは、どうしてですか。(12ページ)

29.醜さや欠点がたくさんある、地域教会には加わらず、独りでクリスチャン生活をすることは、どうしていけないのですか。

30.完全な地域教会を求めることは、どうして間違っているのですか。

31.地域教会を選ぶ場合、注意深さが必要なのは、どうしてですか。

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