神の国第5課

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神の国の準備


T.神の国の贈り物

 神の国に入ることは素晴らしい体験です。悪魔の支配に苦しめられ、惨めな人生を送っていた人も、空しい毎日を過ごしていた人も、醜い生活をくり返していた人も、神の支配によって、新しい人生、張りのある毎日、美しい生活を始めることができるのです。悪霊に惑わされ、病気に苦しんでいた人も、神の力によって悪霊の危害から守られ、病気さえ克服することができるのです。

T.A.無代価の神の国

 しかも、さらに素晴らしく驚くべきことは、この神の国に入るためには、なんの功績も業績もいらない、どんな良い行いも必要なく、金も払うことは無いというのです。つまり、まったく無代価の贈り物です。こんな旨い話は、なかなか信用できません。あまりにも安っぽく見えて、腑におちないのです。大学に入るにも入学試験があり、デイズニーランドに入るにも高い入場料が必要なのに、神の国に入るのが、無試験、無料だというのです。延命処置でわずかの間だけ命を引き伸ばすだけでも、莫大な費用がかかるというのに、永遠の命がただだというのです。

T.B.唯一の条件

 聖書が挙げている神の国の入国条件は、つまるところ、キリストを信じるという一点だけです。「イエス」という「人の姿を取った神」を、キリストすなわち救い主として、ご自分を現して下さった神であると認めて、その神に頼るというだけのことです。この神を信じるか、信じないか、つまり、頼るか頼らないかだけの問題です。

 日本人は不思議な人種で、キリスト教に出会いますと、すぐ理屈っぽい科学者か哲学者になり、「神は存在するか」だの、「キリストははたして歴史上に実在したのか」、「認識の問題は」などとやりだします。日本人は、もう、この古臭い合理主義、科学至上主義の議論を止め、いっぱしの哲学者面をするのは終わりにすべきです。19世紀に猛威を振るって伝播し、20世紀の初めには、すぐにも世界を覆いつくすに違いないと考えられていたのに、いまや早くも衰退し、まさに絶滅を目前にしているものの中に、科学万能主義、唯物主義、そしてそれらの理想的帰結のひとつである、共産主義があります。科学至上主義が「進歩的人間」の商標である時代はとうの昔に終わったのです。もともと、ほとんどの日本人は、何らかの形で、理論も理屈もなく「小さな神々」を信じていたのです。日本中いたるところに祠があり、宮があり、社があります。年中どこかで神々が担ぎ出されて、祭りが行われています。

 聖書は神の存在の是非は論じていません。神の存在を前提として話が始まっているからです。ただ、「愚かな者は、心の中で、神はないと言う」と、痛烈な一言が記されています。聖書が教える「信じる」という行為は、神を論じてその存在を信じるというような頭の問題ではなく、神の存在を前提にして、「神に頼る」ことなのです。 

神に頼るというこの単純な行為、あるいは行為と言えない程の、微妙な心の持ち方。多分、多くの行為を生み出し、動機づけをさせる心のあり方が、神の国に入る唯一の条件なのです。それは、子供が親を信頼する、恋人が相手を信頼するという場合の信頼と同じものなのです。             

 このように神の国に入る条件は、あまりにも易し過ぎると思われるほどです。たしかに、易しいのです。しかし、この易しさは、安っぽい易しさではありません。この易しさを作り出して、できるだけ多くの人が、神の国に入ることができるために、神は非常に大きな犠牲を払って、準備をしなければならなかったのです。        

※※※ まとめ※※※

 人間が神の国に入る条件は、キリストを信じるということだけです。他にはどんな要求もありません。易し過ぎるくらい易しくて、信じられない程です。しかし、この易しさを作り出すため、神は大きな犠牲を払って、準備をしなければなりませんでした。

U.神の聖さ

 神の国に人間を招き入れるための、神の準備を考えるとき、まず問題になるのは「神の絶対の聖さ」という性質です。人間が最初に罪を犯したとき、この、「絶対の聖さ」がすぐに反応をしたのです。「絶対の聖さ」は罪を拒絶し、罪を犯した者に対して怒り、正しい処罰を要求します。中途半端な聖さではありませんから、罪を許容したり、罪を犯した者を曖昧に見逃したりすることなどあり得ません。

U.A.日本人には理解されない聖い神

 ところがこの、罪を許容したり、罪を犯した者を曖昧に見逃したりすることがない神は、日本人にはなかなか理解できず、受け入れることも出来ないものなのです。日本人の意識の中にある神は、人間と同じように間違いを犯し、過ちをくり返す、極めて人間的な神、飲み、歌い、踊り、嫁ぎ、娶り、不倫をし、不義の子をもうける、神話の中の神々です。

 ですから、日本人には罪の意識が希薄だといわれています。絶対に聖い神を知らない日本人にあるのは、罪の意識ではなく汚れ(穢れ)の感覚です。日本人はこの汚れには敏感です。確固とした人格を持つ誰かに向かって犯した罪の意識ではなく、忌むべきものに触れたりして清くなくなったというだけの、感覚です。そんなわけで日本には「赦し」の思想はなく、「みそぎ」の習慣があるだけです。たとえば政府の高官や大会社の重役たちが、犯罪に手を染めてそれが発覚したとしても、罪を認めて謝罪することはまずありません。「社会を騒がせたことをお詫びします」というだけです。これでは罪を犯したことが悪いのではなく、それを摘発して社会を騒がせたほうが悪くなってしまいます。そして、それで「みそぎ」が済んだことになり、責任が曖昧にされてしまうのです。

 そういうわけで、だれかが罪を犯したとしても、その罪を厳しく糾弾し、責任を追及し処罰を求めることは、かえって、何となく自分たちにはそぐわないと感じ、むしろ厳しく糾弾する者をうとましく思ってしまうのです。日本人が好きなのは、弱さも、悪も、罪も、すっぽりと覆い包んで受け入れてくれる、暖かい自然のような、あるいは、どんなに悪さをしても、受け入れてくれる母親のような神なのです。

 とはいえ、自分が、「何ものかに対して」ふさわしくない者となってしまったという「穢れ」の意識は、日本人にも確かにあるのです。ただ、極めて人間的な性質を抱えた神話の神々しか知らない日本人は、その「何ものか」が、はたして誰なのか良くわかっていないだけなのです。日本人も神に造られた人間の子孫です。霊的動物として、たとえ希薄になってしまったとは言え、本能的に、どこかで、「絶対に聖い神」を感じているのです。ですから、まだ人間の手などによって破壊されていない、創造主である神の性質の反映をそのまま留めている自然の荘厳さ、神秘さ、おくゆかしさ、清浄さなどに出会うと、思わず知らず手を合わせたくなり、しめ縄を張って祀りたくなるのです。

U.B.神の拒絶    

 絶対に聖い神は、罪そのものを拒絶し、罪を犯した者も拒絶します。罪を犯した者が神に近付くと、その絶対の聖さのために焼き尽くされてしまうのです。それで神は、人間が不用意に神に近づき、焼き尽くされてしまわないように、あえて神のみ前から追放して、生きる猶予を与えてくださいました。しかしそれは結果として、人間が悪魔の支配に入らなければならないことでもありました。そのとき人間は霊的動物としての最大の特権である、神との交わりという喜びを失ってしまったのです。また、瞬時に焼き尽くされてしまうことは免れたとはいえ、命の源である神から離れて、命の補給も失い、生ける屍の状態になってしまいました。  

U.C.神の怒りの刑罰

 絶対に聖い神は、その絶対に聖いという性質のために、罪を犯した人間をそのまま放置しておくことができません。必ず、怒りの刑罰をお与えになるのです。神の怒りというのは人間の場合のような「腹立ちまぎれ」ではありません。厳しく容赦ない正当な刑罰という意味です。人間は最初に罪を犯した私たちの先祖から、その罪のために悪魔の支配に入ってしまったすべての子孫に至るまで、ことごとく罪を犯しています。つまり、この神の怒りの刑罰の対象になっているということです。

 その怒りの刑罰とは永遠の死のことです。現在の生ける屍の状態も「霊的な死」と言われていますが、この永遠の死は第2の死(黙示録20:6、14)と言われているもので、永遠の命の正反対です。神の刑罰は、人間の消滅ではありません。ある人たちは、この永遠の死というキリストの教えが、あまりに恐ろしいため、いろいろ理屈をつけてはこれを消し去ろうとしています。「愛の神がそのようなむごいことをするはずがない」だの、「永遠の死とは人間の消滅で無意識の状態だから、恐れることはない」などと、まことしやかに教えている、自称「キリスト教」もあります。しかし、永遠の死は、確かにキリストの教えであり、聖書の教えです。単なるこけ脅かしではありません。また、「嘘をついたら、閻魔さんに舌を抜かれるよ」というような、道徳的な方便でもありません。

 刑罰の内容については、キリストも聖書全体も、わずかに、抽象的に語っているだけですが、「永遠の火」「火と硫黄との池」「永遠に昼も夜も苦しみを受ける」「蛆が尽きない」「暗闇」などの表現が用いられていますので、おのずと、全体的なイメージが浮かびます(マタイ25:41、46、マルコ9:48、ダニエル12:2、黙示録20:1−15)。

U.D.公平な裁き

 神の裁きは、十束ひとからげに、誰も彼も同じように、永遠の刑罰に入れてしまうというものではありません。神の聖さは「公平」という性質も含みます。神はひとりひとりの人間をその行いに応じて、公正にお裁きになるのです。ですから、永遠の刑罰では全員が同じ種類の刑罰を受け、同じように苦しむのだと考えるのは早計です。たとえ、キリストを信じることができないまま、永遠の刑罰に入らなければならなくなったような人の中にも、人を愛し、弱い者を助け、自分を犠牲にして他人の面倒を見たという、立派な人がいます。散々悪事を重ねて、人を人とも思わず、天につばきをするような一生を終えた人間もいます。それらの人たちがみな、ごちや混ぜに、同じ刑罰を受けるなどあり得ないことです(マタイ16:27、ローマ2:6、Uコリント5:10、コロサイ3:25、黙示録20:12、22:1‐2)。

※※※ まとめ ※※※ 

 「絶対に聖い神」という存在は、日本人の意識にはありません。そのために、絶対に聖い神がその聖さのゆえに、罪に対しておこす行動を、日本人が理解するのは困難です。しかし、日本人にも汚れの思想があって、神に造られた人間の本能を残しています。神はその絶対の聖さのために、罪を犯した人間を拒絶し、さらには厳しく公平に裁いて、永遠の刑罰に入れなければならないのです。

V.神の愛

 神は絶対に聖い神であると共に、完全な愛の神です。聖さは拒絶し、裁き、刑罰を与えます。しかし愛は引き寄せ、赦し、刑罰を取り除こうとします。自ら神に背いて罪を犯し、悪魔の支配に苦しんでいる人間を救い、永遠の命を与えよう、神の国、神の支配の中にもう一度引き入れ、本当の幸せを味わわせてやろうという、神のみ思いは、神の完全な愛から出てくるものです。

V.A.あわれみ

 愛が惨めな姿に遭遇すると、あわれみという感情を起こします。神が、罪を犯して神の愛の交わりを離れ、悪魔の支配の中に落ち込み、ありとあらゆる苦しみをなめ、最後には永遠の死を迎えなければならないという、人間の惨めな姿を見たとき、神のみ心に起こった強烈な感情はあわれみでした。あわれみ深い神は、滅びに定まった人間を何とか救い出したい、悪魔の支配から取り戻して、もう一度ご自分の愛の支配の中に入れたいと、お考えになったのです。

 人間にもあわれみの情があります。人間は神の性質に似せて造られたのです。たとえ、罪のために歪んでしまい、傷ついてしまったとは言え、神と同じように愛の性質を持っています。ですから、悲惨な物語を聞くと涙を流します。何とかしてあげたいと思います。ちっぽけな虫けらにさえ、もがき苦しむものには、あわれみを感じます。完全な愛であられる神が、惨めな人間の姿をご覧になって、あわれみの情を持たれるのは、当然といえば当然のことなのです。  

V.B.恵み

 受けるにあたいしない者に注がれる愛を、恵みと言います。神が人間にあわれみをお感じになったのは、人間が惨めだったからで、人間に何か良いところがあったからではありません。たしかに、人間は神の性質に似せて造られた特別な動物です。神と交わることができる唯一の動物です。しかし、神にとって、それはどれほどのことでもありません。この人類がだめならばそれを滅ぼし、もうひとつ別の人類を創造すればそれで済むことなのです。ましてや、人間が悪魔の支配の中で、ますます罪深くなり、神をないがしろにし、敵対して行くことは目に見えていたのです。しかし神は、あえてこの人類を救いたいとお考えになったのです。それが恵みです。わたしたちの神は、無価値な者を愛してくださる、恵みの神なのです。

V.C.赦し

 聖い神に対して罪が犯されると、刑罰が当然の結果です。しかし、愛の神に対して罪が犯されると、愛の神は罪を犯した者を赦そうとします。聖い神は罪を犯した人間を拒絶しますが、愛の神はなおも引き寄せ、交わりを持とうとするのです。聖い神は罪を犯した人間の死を要求します。しかし、愛の神は罪を犯した人間をも無条件に受け入れ、なおも生かそうとします。テキスト ボックス: 近所の家で飼われていた、ペットの老犬がいなくなりました。そのかわり可愛い子犬がやってきました。 老犬は保健所に送られ
てしまったと、もっぱらの噂(うわさ)です。子供たちがまだ小さかったとき、どこからかもらわれてきた子犬は、丸々太って、それは、それは、元気なおもちゃでした。子供たちのかわいがりようもまた尋常(じんじょう)でなく、歓声(かんせい)が絶えることはありませんでした。でも子犬は、成長するにつれて可愛げがなくなり、子供たちも、いつしか犬のことなど忘れて、勉強一辺倒(いっぺんとう)の毎日になってしまったようでした。
 子供たちが大学に入り、家にいなくなったころには、犬はすっかり年老いて、気難(きむずか)しく唸(うな)り声を上げ、上目遣(うわめづか)いに寝転(ねころ)がっていることが多くなりました。最近ではすっかりボケが進んで、粗(そ)相(そう)も多くなり、夫が定年を迎えて二人きりになった夫婦の叱(しか)り声が、毎日のように聞こえていたものです。そしていつの間にか、血統(けっとう)証明書(しょうめいしょ)つきの小型犬が、奥さんの手に抱かれるようになっていました。
 私たちの神様は、私たちを「保健所」に送る神ではないことに、感謝したいものです。

※※※ まとめ ※※※ 

 神は聖なる神であると共に、愛の神です。神の「愛|と言う性質は、「聖」という性質とは、まったく異なった要求をするのです。愛は罪を犯した人間をあわれみ、恵み、赦し、無条件に受け入れたいのです。

W.神の聖さと愛の葛藤

 神の聖さは絶対の聖さで、神の愛は完全な愛です。人間の中途半端な聖さと、生半可な愛とは違います。人間にも、時として、罰せねばならないが、赦して受け入れたいという、葛藤が起こります。そんなとき、ほとんどの場合はギリギリのところまで自分を追いつめず、「適当」なところで上手に妥協させて、丸く収めてしまいます。しかし絶対の聖さと完全な愛を、性質として持っておられる神に、そんなまやかしの芸当はありえないのです。聖さを少しも犠牲にせず、愛を満足させ、愛を少しも損なわず、聖さを満足させる必要があったのです。      

 そして、神は驚くべき方法で、見事にこの葛藤を解決なさいました。それは神ご自身が、人間の身代わりになって、死ぬという方法でした。キリストは神ご自身であり、三位一体の神の第二の位、あるいは第二の神格者(人格に対し)として、「父なる神」と呼ばれる第一神格者と、「聖霊なる神」と呼ばれる第三神格者と共に、天地の創造にたずさわった方で、ふつう「子なる神」と呼ばれていますが、この、子なる神が、人間の罪の刑罰を引き受けて下さったのです。まさに、人間の知恵では、まったく思いも及ぱない方法で、神は人間を罰し、同時に人間を救うことができるように、計らって下さったのです。 

W.A.キリストの誕生 

 キリストは、父なる神と共に天地創造に携わり、神としてのあらゆる栄光と力と権威に満ちておられる方でしたが、人間を救うために、その栄光と力と権威を、惜しげもなく放棄して、人間の姿になって下さいました。インマヌエル(われらと共におられる神) となって下さったのです。神としてのそのままのお姿では、人間と共に住むどころか、人間に近付くことも、人間を近付けることもできなかった絶対の神が、人間を救うために、人間と交わりを回復するために、神のお姿を放棄してくださったのです。それがキリストの誕生です(マタイ1:23、ヨハネ1:3、10)。

W.B.キリストの死

 神が、神としてのお姿を放棄してまで、人間と共に住んで下ったということ自体が、人間の言葉では表現しつくせない、大きな愛の現れですが、神はそれ以上の事をしてくださいました。      

 キリストの露はらいの役割を果たした、バプテスマのヨハネという人は、キリストを指差して、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と預言しました(ヨハネ1:29)。キリストは世の罪、すなわち、人類の罪を取り除くために、この世に来て下さったのです。キリストはどのようにして、人類の罪を取り除いてくださったのでしょう。それは、人間から取った罪を、ご自分が背負うことによってです。罪はゴミとは違います。そのへんの空き地に、放り投げて置けるようなものではありません。キリストは、人間の罪をご自分のものとして背負って下さったのです。そして、罪の結果は死です。キリスト自らが、人間を救うために、罪の刑罰を負って死ぬことを、お選びになったのです(Tペテロ3:18)。

 ヨハネが予言した「神の小羊」とはこのことでした。イスラエルの国では、人々は昔から小羊などの動物を殺して、血を注ぎだしてから神を礼拝する定めになっていました。それは小羊などに、自分の身代わりとして罪を負って死んでもらい、自分は罪の刑罰を負う必要のない聖い者として、神のみ前に出るという意味だったのです。しかし、人間より価値の低い動物が、本当の意味で人間の身代わりになることはできません。人間と同じか、人間より価値の高い者でなければなりません。ひとりの人の罪ではなく、すべての人の罪ですから、人間より遥かに高いお方の犠牲が必要なのです。人間には、そのような犠牲を準備することができません。それを、神ご自身が、人間のために準備して下さったのです。それが、神の子キリストです。ですからヨハネは、キリストを指差して「神の小羊」と叫んだのです。     

 キリストは神の愛の具体的な現れとして、この世に来てくださり、神の愛の結晶として、十字架の上で死んで下さいました。人類の罪の刑罰を受けて下さったのです。ですから死の方法も、もっとも醜く、軽蔑されている十字架の磔の刑で、聖い神から拒絶された死だったのです(マタイ27:46)。このようにして、神は御子キリストを、身代わりに罰することによって、しかももっとも厳しく罰することによって、ご自分の聖さを満足させることができました。また、キリストの身代わりの死によって、人間をすでに罪のために罰せられ、償いを果たした者として「みなし」、罰する必要がないようにすることによって、人間に対するご自分の愛を、まっとうすることができたのです。  

W.C.キリストの甦り

 こうして、キリストは人類の罪を負って死んでくださいました。しかしキリストの生涯は、死によって終わったのではありません。キリストは3日目に墓を打ち破って、甦って下さったのです。神であられるキリストが、いつまでも墓に閉じ込められ、死に支配され続けることなど、あり得ないことなのです。私たちが信じ、頼りにしているキリストは、2000年も前に死んでしまった歴史上の人物ではありません。一度、人類の罪のために死を味わって下さいましたが、死をも打ち破って甦り、今も生きておられる神なのです。テキスト ボックス: 聖書が教える甦りは、単なる蘇生、つま
り、「生き返った」という出来事とは違いま
す。蘇生はどこの国でも、時々起こります。それが医学的に可能な蘇生も、聖書に出てくるラザロの場合のように、(ヨハネ11:38-45) 医学的には不可能な、奇跡の蘇生もあるでしょう。
蘇生が甦りと違うところは、蘇生した人は、かならずまた死にますが、聖書が教える正しい人の甦りは、死なない命への生き返りなのです。蘇生した体はまた朽ち果てますが、甦った体は完全な体で、朽ちることがありません。つまり、病気や怪我や老衰などは、甦りの体にはあり得ないのです。
 

 キリストは、その死によって私たちの罪を、取り除いて下さいました。それによって神は、私たちを罪のない者と「みなす」ことができるのです。しかし、それだけではありません。甦ったキリストは、私たちにご自分の「義」の功績を与えて下さるのです。キリストは、この地上で人間として生活した30数年の間、人間としてのあらゆる経験をしましたが、ただの一度も、罪を犯したことがなかっただけではなく、積極的に正しい人生を生き、多くの功績、仏教の言葉を借りると「徳」をお積みになったのです。それを、私たちはキリストの「義」と呼んでいますが、その義を、キリストは人間に与え、神のみ前に正しい者として、恐れなく出ることができるようにして下さったのです。ここに至って、「絶対に聖い神」が、罪ある人間を罪の償いをした者と「みなし」、罪ある人間を正しい者と「認めて」、神と人間との交わりの回復を可能にしてくださったのです。罪ある人間を、ご自分の近くに受け入れることができるように、すべてを整えて下さったのです。

 そして驚くべきことに、この、キリストを通しての救いの提供は、人間が始めて罪を犯してしまったすぐ後に、神から約束されていたのです。これは人類歴史のきわめて初期のことであり、まだ、キリストと言う言葉も、救いと言う言葉もなく、とても象徴的な言葉が用いられているだけで、ともすれば見逃してしまいそうな言葉ですが、神は明らかに救い主の出現と苦難、そして悪魔の敗北をお告げになっているのです。(創世記3:15) ここで用いられている「女の子孫」は単数形で、一人の方、すなわちキリストを指し、このキリストが悪魔の頭を踏み砕くと予言されています。つまり、悪魔を打ち破るのです。しかし悪魔もまた、キリストのかかとにかみつき、傷を負わせると言われているとおり、キリストは十字架で苦しみ、一度、死を味わわなければならなかったのです。

 キリストは死によって、私たちの罪をご自分のものとして引き受け、私たちを罪の無い者にしてくださる一方、甦りによって、何の功績もない私たちに、ご自分の義を転嫁して、私たちを正しい者、すなわち「義人」にして下さるのです。(ローマ5:18−19)

※※※ まとめ ※※※ 

 罪を犯した人間を、罰せねばならない神の「聖」さと、罪の結果に苦しむ人間を、救いたいと望む神の「愛|の葛藤は、キリストの死と甦りによって、見事に解決されました。神はまず、人間の罪をキリストに負わせ、十字架で罰することによって、神としての絶対の聖さを満足させて下さいました。それは人間が、もはや自分の罪のために、罰を受ける必要がなくなったということです。さらにその上、神はキリストを甦らせ、キリストが人間として獲得された義を、功績のない人間に与えることになさいました。こうして、罪人の罪を取り除き、功績のない人間を義人とし、絶対に聖い神ご自身と交わることができるように、道を整えて下さったのです。これによって神は完全な愛を損なうことなく、罪ある人間を罪のあるままお招きになり、ご自分の愛の交わり、愛の支配、神の国に、入れることができるようにしてくださったのです。             

X.無代価の贈り物と受けとる信仰

 キリストの十字架の死をもたらしたのは、神の「絶対の聖さ」と「完全な愛|の葛藤でした。キリストを十字架に付けたのは、キリストを憎んだユダヤ人でも、キリストに失望した民衆でもなく、ましてや実際に釘を打ったローマ軍の兵士でもありません。それは、神がしてくださったことなのです。こうして、神はご自分の聖い性質を少しも損なわず、罪を犯した人間を救う道、神の国に入れる道を準備してくださったのです。そして神はこの救いを、まったくの無代価で、提供しようとおっしゃるのです。神の救い、神の国、永遠の命は神の愛の贈り物なのです(ローマ6:23)。

 神の救いは、御子キリストの命と引きかえの、尊い救いです。人間の功績や業績、あるいは難業苦業や善行、さらには寄付金や献金で買うことができるほど、安っぽいものではないのです。たとえ、全世界、全宇宙を差し出しても、神の子キリストの命を買うことはできません。だからこそ、キリストの命と引きかえの救いは、無代価の神の贈り物以外であってはならないのです。

    小さなものがたり

青い海と白い砂、緑の(やし)の葉が太陽にきらめき、子供たちの歓声(かんせい)と小鳥のさえずりが、家畜の鳴き声にやわらぐ、南洋の小島のできごとです。一人の老人が、島でただひとりの宣教師の家を訪ねて来ました。ずいぷん長い年月、ここで宣教をしていながら、いまだにひとりの改宗(かいしゅう)(しゃ)も見ないまま、この宣教師は来る日も来る日も、島の人々の病気治療(ちりょう)し、農業を教え、一生懸命(いっしょうけんめい)に働き続けていたのです。

 

テキスト ボックス: 海から上がってきた漁師 見事に焼けた、はがねのような体からは、海の男の誇りが伝わって来ました。老人は、おもむろに口を開きました。「なあ、あんた。ワシはキリスト教徒にはならなんだが、あんたを(しょうがい)で最善の友と思うちょる。この島の連中(れんちゅう)もみんな回教(かいきょう)()で、だれひとり、あんたの教えているキリスト教とやらは信じていないが、だれもかれも、あんたには(かげ)ながら感謝しちょる。いや、なに。こんなことを言いに来たのではない。実は、さようならを言いに来たのだ。 ・・・・あんたも知っちょるように、ワシら回教徒の教えでは、すべての回教徒は、生きている間に少なくても一度は、(せい)なる(みやこ)メッカにお参りしなくてはならん。そうしなければ罪深いワシらの罪は(ゆる)されず、救われないのじゃよ。ワシもこの歳になるまで、回教の教えに熱心で、その戒律(かいりつ)(きび)しく守り続けてきた。しかし救われるためには、どうしても聖なる都に行かねばならぬ」。

「それは違います。救われるために必要なのは・・・・」 宣教師はキリストの救について語り出そうとしましたが、老人はそれをさえぎって続けました。「まあ、まあ、あんたの言いたいことは、良く分かっちょる。救いは無代価だ。ただだ。神は愛だから、悔い改めるすべての罪人を、無条件(むじょうけん)で救って下さると言うのじやろう。しかし、ワシにはどうしてもそうは思えんのじゃよ。天と地をお造りになった、大いなる神、絶対に聖い神が、こんなちっぽけなワシらに、ことさら思いをかけ、こんなに罪にまみれたワシらを、無条件で救って下さるなどという、(あま)りにもむしの良すぎる話は、とても信じられないのじゃよ」。宣教師の必死の説明も、回教の信仰を固く保ち続けてきたこの老人には、まったく役に立ちませんでした。

 「そこで、とにかく、ワシは次の船でメッカに向けて出発することにした。老いたワシにとっては遠く厳しい道じゃて、はたして生きてふたたびこの島に帰って来ることができるか、はなはだこころもとない。だから、長い間よくしてくれたあんたに、別れを言いに来たのじゃ。あんたは、肌の色も違い、信仰も違うワシらに、本当に良く尽くしてくれた。だから、最後にあんたにこれを残して行きたいのじゃよ」。 そう言って老人は、(おび)の間から取り出した小さな布袋(ぬのぶくろ)を手渡しました。

「こんな! こんな高価(こうか)なものを! こんな高価なものを、わたしは受け取ることができません・・・」。 布袋から手のひらにこぼれた大きな美しい真珠(しんじゅ)を見て、思わず、宣教師は大声を上げ、老人の手に返そうとしました。しかしそれを押し(とど)めた老人は、この美しい真珠を、友情と感謝の(しるし)とし受け取って欲しいと、改めて申し出たのです。

いくら断っても、どうしても押し付ける老人に根負(こんま)けした宣教師は、あわてて家中の有り(がね)すべてをかき集め、老人の前に差し出して言いました。「どうかこの金を受け取ってください。これはいま我が家にあるすべてです。もちろん、あの真珠がこの金ではとても買えない高価なものであることは、私にもわかります。しかしこれが、今、私に払えるすべてです」。

老人は悲しそうな目で答えました。「とんでもない。とんでもないことじゃ。ワシはこの真珠を(かね)で売ることなどできないのじゃよ。売ろうと思えばすぐにでも、あんたの出した金の何十倍もの値段(ねだん)で売れる。しかし、売りたくはないのじゃ」。

「でもこの金があれば、ご老人の旅の助けにもなるでしょう。旅には金がかかるものですよ」。宣教師は、なおも金を受け取らせようと、いろいろすすめましたが、老人はがんとして受け取りませんでした。そして、遠く白波の立つ珊瑚礁(さんごしょう)のあたりを見やりながら、静かに話し始めまた。

ワシにはひとりの息子があってな。島一番の真珠採りで、ワシの自慢(じまん)の種じゃった。その日も、ワシたちは真珠を取るために、連れ立って、いつもの海に乗り出した。ワシは黒く日焼けした息子が、(きん)(にく)(かがや)かせて、青い海に飛び込む姿が好きじゃった。その日も、息子はいつもと同じように身を(おど)らせ、ぐいぐい(もぐ)っていった。ところが、その日の息子はなかなか(もど)って来なかった。よほど長くなって、心配になっても、戻って来なかった。とうとう待ちきれず、ワシも海にもぐって、無我夢中(むがむちゅう)(さが)したのじゃが、海は思いのほか深く、どこにも息子の姿を見つけることはできなかった・・・・。

どの位の時間がたったか、突然泳いでいたワシのすぐ近くに、息子が浮き上がってきたのじゃ。ワシは必死に息子を舟に引き上げたのだが、その時にはもう息をしとらんじゃったし、脈もとまっておった。どんなに叫んでも、叩いても、息子は目を開いてくれなかった。

長いあいだ、ワシは何にも考えられず、舟の中で息子を抱いたまま、波間に(ただよ)っておった。そして、ふと、息子の右手がしっかりと(にぎ)られているのに、気がついたのじや。何かの予感(よかん)にかられて息子の手を押し開くと、そこに、この真珠があった。今まで見たこともない、見事な真珠じゃ。息子が自分の命に()えて、持ち帰った真珠じゃ。

ワシは、この真珠を誰にも売らなかった。この真珠は、息子の命なのじゃ。たとえどんなに高くても、息子の命を売ることはできん。そうじゃろう? じゃが、あんたは、ワシたちにじつに良くしてくれた。ワシらの本当の友で、恩人じゃ。そしてワシは今、(わか)れを()げている。この真珠を受け取ってほしいのじゃ。この真珠は、ワシの息子の命じゃて、金で売ることなんぞできんのじゃよ」。

ここまで(だま)って話しを問いていた宣教師は、(ふる)える声で言いました。「そうです。自分の息子の命を、金で売るわけにはいきません。そのほか、どんなものを差し出されても、売るわけにはいきません! 同じです。同じです。神さまもご自分のひとり子、イエス・キリストの命を、金で売るようなことはできないのです! そのほか、どんなものでも、売ることができないのです。ただ愛のあかしとして、無代価で提供(ていきょう)したい、贈り物として与えたいとおっしゃるのです」。

老人はこの小島で最初のクリスチャンになったということです。

X.A.キリストの昇天

 甦られたキリストは、40日目に昇天なさいました。これは、物理的な距離と場所の問題として、キリストが宇宙のどこかに行ってしまわれた、というのではありません。もともとご自分が持っておられた、栄光のみ位にお帰りになった、いちど放棄した、神としての栄光と力と権威とを、取り戻されたということです テキスト ボックス: キリストの昇天 レンブラント画

ところが、昇天されたキリストは、この世においでになる前のキリストと、まったく同じなのではありません。昇天されたキリストは、人としての経験をしてくださった神です。人の痛み、苦しみ、悲しみ、貧しさ、弱さ、悲しさ、生きる厳しさ をつぶさに体験なさり、体験した者だけが知ることができる実感を通して、人間を理解して下さる神です。そして、この人間としての体験をするために、キリストはあえて、植民地の虐げられている民族の中に生を受け、あえて、ひなびた寒村の下層階級の家庭に育ち、あえて、「しもじも」の生活を営み、あえて、なきに等しいと思われていた人たちと、暮らしを共にしてくださったのです(ヘブル2:17−18、4:14−16、5:7−9)。

 キリストが、あえてその様な生き方をしてくださったのは、昇天の後の働きのためでした。今、キリストは、弱く、小さく、情けない人間に対する、心からの「同情」をもって、上から見下す「同情」ではなく、自らがその中に飛び込んで行った「同情」をもって、人間のために、父なる神に取りなしておられるのです。

X.B.大祭司としてのキリスト

 聖書は、この取りなしておられるキリストを、「大祭司」として描いています。「祭司」とは、昔、人間と神の間を取りなす働きをした者ですが、「大祭司」はとくに、最終的権威を持った祭司で、どのような祭司の働きも、結局はこの大祭司の最終的取りなしがなければ役に立たなかったのです。人間の身代わりとなり、人間の罪を背負って死に、甦ってご自分の義を人間に転嫁し、救いの道を備えて下さったキリストが、今、神と人の間に立って、現代の唯一の大祭司として取りなしをして下さるのです。ご自分が、人間として味わったすべての悲しみ、苦しみ、痛み、不条理、裏切り、世間の冷たさなどの体験を通し、心からの同情を持って理解し、その理解を持って、神に近付こうとする人間のために、取りなして下さるのです。(へブル7:24)人間も、他の人間のために祈り、聖書を教え、励まし、勧めることによって、ある種の取りなしができますが、キリストの取りなしは決定的な取りなしで、この取りなしが無くては、決して神に近付くことができないのです。聖書は、「この方以外には、だれによっても救いはありません」と教え、さらに「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです」と断言しています(使徒4:12、Iテモテ2:5)。

 キリストは、人間の罪を背負って十字架で死んで下さることによって、罪ある人間が聖い神に罰を与えられなくても済むように、取りなしてくださいました。そればかりか、何の義をも持っていない人間、すなわち、何一つ神のみ前に差し出す徳を持っていない私たちに、ご自分の正しい生き方で積み上げられた義、大きな徳を与えてくださることによって、聖い神に「義人」として受け入れられるように、取りはからって下さいました。その上、天にお帰りになった後も、良心の呵責や、恐れ失望、落胆などによって、神に近付こうとする勇気さえ、失ってしまいそうな弱い人々のために、同じ痛みを味わった者として、同情をもって取りなして下さっているのです。このようなキリストの取りなしは、他の人間の取りなしや儀式とは決定的に違っています。このキリストの取りなしだけが、いま、聖い神に受け入れられる取りなしなのです。現在、クリスチャンたちが、「キリストのお名前によって祈ります」という言葉で祈りを締めくくるのは、このキリストの同情と理解に溢れた取りなしに、依りすがって祈りますという意味です。自分の立派さとか、功績とか、持って来た献金の多さなどをかさに着て祈るのではなく、キリストの功績に依りすがって祈りますということなのです。  

X.C.信仰の役割

 そういうわけで、神は人間を救う道、神の国に入れる方法を準備して下さいましたが、先にも学びましたように、すべての人が、自動的に神の国に入ることができるのではありません。ただ、信じる者だけが、救われるのです。すなわち、神が提供してくださった贈り物を、感謝をもって受け取る者だけが、神の贈り物を自分のものとすることができるのです。信じるとは、神の愛に信頼し、神が備えられた救いを、感謝をもって受け取って、自分のものにすることです。   

 たとえ神が、どんなに大きな犠牲をはらって、神の国の準備をし、無条件で提供して下さったとしても、人間がそれを受け取らない限り、神の国に入ろうとしない限り、せっかくの神の犠牲も、その人にとっては無駄になってしまうのです。

 反対にどんなに悪人であっても、あるいは、キリストについてはまったく何にも知らなくても、もし心からキリストにおすがりするならば、キリストが成し遂げて下さった働きのゆえに、救われることができるのです。信仰とは学ぶことでも、理解することでもなく、頼ること、信頼すること、依りすがることです。信仰こそが、救われるために唯一の条件です。他の、あらゆる難しい条件の数々は、みな、キリストが満たして下さったからです(エペソ2:4−9)。

※※※ まとめ ※※※

 神の国に入る条件は、信仰だけです。それは条件と言えないほどの、ささやかな条件ですが、決定的な条件です。神は神ご自身の犠牲によって救いを準備し、それを無代価で提供しておられます。その提供された無代価の救いを、受け取るのが信仰です。 

私が出会った人

 おっぽんばあ (とても年をとったお婆さん)は、集会のため毎週訪ねて行く私の、食事を作る役目をしてくださっていました。たいていは、すぐ前の海で採れたスヌイ (もずく) だの、サザエだの、スク (あいごの幼魚)の塩からだのが、おかずでしたもう84にもなっていた彼女は、二十歳になる前に夫と子供に先立たれた後、ずっと独りで暮らして来たのです。沖縄北部の、小さな小さな集落が、彼女の知っている世界のすべてでした。

 1970年の暮れ、開け放たれた縁側からオリオンが覗く集会で、私は他の25、6人の出席者にはかまわず、おっぽんばあだけを心に置いて語りました。密かに、「もう先は長くない」と考えてのことです。24才の、血気さかんな新米伝道者は、50分にわたる「大説教」を終え、しめくくりに、おっぽんばあに語りかけました。「おっぽんぱあ。永遠の命がいただけるんですよ。永遠に生きられるんですよ。キリストさまが、誰でも信じる者に永遠の命を下さると、約束しておられるんですよ。おっぽんばあも欲しくはありませんか」

通訳になっていた大正一桁生まれのおばちゃんたちの、通訳を聞くのもまどろっこしく、私は答えを待ちました。ところがどうでしょう。おっぽんばあは「欲しくない」というのです。あんなに情熱を込めて、こんせつ丁寧に語ったつもりなのに、首を横に振るのです。間違いではないかと思い、もう一度、たずね直しましたが、間違いではありません。

テキスト ボックス: 老婆。 レンブラント画

 そこで私は、もう一度、もっと情熱を込めて、10分ほどもおさらいをしてから、またたずねました。 「永遠の命が欲しくありませんか。」 答えは、新米伝道者の意気をくじくのに充分でした。「絶対にほしくない」というのです。説教者としての自分の資質にすっかり自信を失った私は、動揺を隠しながら開きました。「どうしてですか。どうして、こんなに素晴らしい永遠の命が欲しくないのですかおっぽんばあは両腕を前に突き出して言いました。「こんな姿で永遠に生きたくはないさあ」。おっぽんばあの両腕は、肩から指に至るまで、黒々と刺青が彫られていたのです。昔、沖縄のある地方では、結婚した女性はみんなこのように刺青を彫られたものなのです。でもその習慣も、そのころはすたれていましたし、刺青をした女性を見ることも稀でした。おっぽんばあは、それを密かに恥じていたのでしょうか。あるいは、それがあったために、再婚もかなわなかったのかもしれません。

 虚をつかれて言葉もない私に、おっぽんばあは続けて言いました。「見なさい。この腰を。こんな腰で永遠に生きたくはない」。私はいつも食事の準備をしてくれるときの、おっぽんぱあの姿をフッと思い浮かべました。間違いなく、90度以上、多分100度以上に曲がった腰で、水を汲み、器を運んで、お酌をしてくれていたのです。おっぽんばあはさらに続けて言いました。「見なさい。この顔を」。深く、深く、刻まれたシワ。私は不謹慎にも、「じゃがいもを真夏の太陽に10日問も晒したら、このような姿になるかなあ・・・・」と改めて見つめたのです。「こんな顔で永遠に生きるなんて、ごめんだぁ」。最後に、おっぽんばあは言いました。「わたしの歯を見てごらん」。そうして、口を大きく開けて朗らかに笑いました。おっぽんばあの口には、一本の歯も無かったのです。「永遠に生かし続けられるなんて、お断わりだなぁ」。

 私は完全に打ちのめされました。お年寄りの痛みも、苦しみも理解しようとせず、一方的に永遠の命を振り回していたのです。しかしどうしたら、この84才のお婆ちゃんに分かってもらえるだろうか。しちめんどう臭い神学が頭を駆け巡っていました。でも、そのとき、神がおそまつな説教者を助けてくださったのでしょうか。良い思いが浮かびました。「おっぽんばあ」、私は尋ねました。「おっぽんばあが、今までで一番ちゅらかぁぎぃ(美人)で幸せだったのは、いつのことだった?」。すると、ちょっとはにかみながら、おっぽんばあが答えました。「17才の頃、結婚する少し前のことだった」。かたずを飲んで聞いていた女子高生たちが、「わあっ」と歓声を上げました。そこで私は言いました。「おっぽんばあ。ばあは、17の娘のようになって・・・・、そぅそぅ。身も心も17の娘のようになって、永遠に生きることができるんだよ。どう、永遠の命が欲しくない?」。もう一度「わあっ」と、女子高生たちの歓声が上がりました。おっぽんばあが、「それなら、欲しい」と、恥じらいながら言ったものですから。

 最後に私が語ったことは、神学的には正確ではないかもしれません。しかし、永遠の命とぃぅものは、単なる時間の長さの問題ではなく、その時間の質の問題でもあるのです。また、信仰というものは、必ずしも正確無比な知識に基づくものでもありません。ようするにキリストに対する信頼なのです。わたしたちが、神の国に入ることができるためのあらゆる準備は、神がご自分で完了して下さったからです。このことがあってから少しして、私は次の働き場に転任したのですが、それからのおっぽんばあは輝いていたそうです。ひとつひとつのシワのひだからでさえ、光がほとばしり出るように、いまわのきわまで、輝き続けたそうです。

問題集

※※※※ テキストを充分読んでから、この問題集でおさらいをしましょう。この問題集は、頭の良さのテストではありません。問題の形で、要点を指摘しているものです。まず答えてみて、わからなかつたところは、もういちどテキストを読みながら答えてみましょう。 

1.神の国に入るとはどのような体験ですか。(T)

2.神の国に入るためには、どのような功績が必要ですか。(T.A)

3.聖書が挙げている、神の国へ入るための唯一の条件とは何ですか。(T.B)

4. 聖書が神の存在について論じていないのはなぜですか。 (T.B)

5.信じるという行為が頭の問題ではないことを説明してください。(T.B)

6.人間が、信じるということだけで、神の国に入ることができるようにするために、神は何をしてくださいましたか。(T.B)

7.神の絶対の聖さは、人間の罪に対して、どのような反応をしますか。(U)

8.日本人が、絶対に聖い神をなかなか理解できないのはなぜでしょうか。(U.A)

9.神の怒りは「腹立ちまぎれ」ではないとは、どういう意味でしょうか。(U.C)

10.神の怒りの刑罰とは何のことですか。(U.C)

11.聖書が教える神の刑罰と、「閻魔さんに舌を抜かれるよ」という教えの違いは何ですか。(U.C)

12.神の愛は、人間の惨めな姿に対してどのような反応をしましたか。(V)

13.「恵み」とはどういう意味ですか。(V.B)

14.神の聖さに対して罪が犯されると、刑罰が当然の結果ですが、神の愛に対して罪が犯されると、神の愛はどのように反応しますか。(V.C)

15.神の絶対の聖さと完全な愛の、人間の罪に対する対応の葛藤は、どのような解決を産み出しましたか。(W)    

16.この世にお生まれになる前のキリストは、どのような姿をしておられましたか。(W.A)

17.この世に生まれてくるため、キリストは何をなさいましたか。(W.A)

18.バブテスマのヨハネは、キリストを見て、何と預言しましたか。(W.B)

19.バプテスマのヨハネの預言の意味は何ですか。(W.B)

20.キリストは、なぜ十字架というもっともむごい刑で、死ななければならなかったのですか。(W.B)

21.甦ったキリストは、わたしたちに何を与えてくださいますか。 (W.C)

22.絶対に聖い神が、罪ある人間と交わりが可能になったのは、どうしてですか。(W.C)

23. 神の救い、永遠の命が、どうして人間の功績や徳で買い取ることができない、「無代価の贈り物」でなければならないのですか。(X)

24.昇天されたキリストが、誕生前のキリストと異なる点はどこですか。(X.A)

25.キリストが、あえて人間としての苦しみを体験してくださったのは、何のためですか。(X.A)

26.キリストは現在、どのような働きをしておられますか。(X.A)

27.キリスト以外に、神と人との間をとりもつ、仲介者は存在しますか。(X.B)

28.「キリストのお名前によって祈ります」という言葉の意味は何ですか。(X.B)

30.「信じる」とはどういうことですか。(X.C)

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