神の国第4課

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神の国への入国


T.神の国への招き

 キリストは神の国の到来を宣言し、神の国が力をもって悪魔の支配を攻略し、破壊し、浸入し続けていることを、お示しになりました。キリストご自身が行われた力ある働きが、その具体的な証明でした。しかし、すべての人が自動的に、この神の国に入るようにされたのではありません。ここでも、人間の自由な意思が大切にされています。ひとりひとりの人間が自分自身の意思で、神の国に入りたいと望み、入ろうと決断しなければならないのです。つまり、自分は神の国の中で、神の支配によって、神のみ心に沿った生活をするのだ。今の、悪い力に支配されたこの人生に、終止符を打つのだという、踏ん切りが必要なのです。

T.A.健康な人に医者は要らない

 キリストは機会あるごとに人々を教え、促し、励まし、神の国に入るように勧め、お招きになっています。ところが、招きに応じて神の国に入った者の数は、多くはありませんでした。キリストご自身が、「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです」とおっしゃったとおりです。

 キリストはまた、「健康な人に医者はいらない。いるのは病人である」とも、お語りになりました。これは、医者のいらない健康な人がいるということではなく、多くの人は、深刻な病気を抱えていながら気付かずにいるため、医者の必要性を認めないということです。つまり、悪魔の支配に拘束されて、人間として生きるべき生き方をしていないにも拘わらず、そのまま気付かずにいるために、せっかくの招きも、他人ごととして開き流してしまう人が多いと、指摘されているのです(マタイ9:12−13、マルコ2:16−17、ルカ5:29−32)。

 力一杯仕事をこなし、幸せな家庭を築いている。あるいは将来の希望に燃えてパリバリ勉学に励み、恋人も出来、幸せがあふれ出るばかりという人の耳には、せっかくの神の国への招きも、猫に小判、馬の耳に念仏です。打ちひしがれた状態にあるときこそ、神を思うものなのです。キリストの招きに応じて神の国に入り、神の力を体験し、新しい人生を歩み出すことができたという人たちの多くは、弱い者、貧しい者、痛んでいる者、悲しんでいる者でした。

T.B.子供のようにならなければ

 キリストは小さな子供を愛して、いく度か、彼らを引き寄せ、「神の国はこのような者の国である。だれでも子供のようにならなければ、神の国に入ることができない」とおっしゃいました。これは普通に解釈されているような、「子供のように素直で無垢

テキスト ボックス: フィリピン山岳奥地の子供たち 電気も水道も、道も乗り物も、お店も病院もないところに住む子供たち。明るく、くったくがありません。まさに純粋無垢に見えますが、彼らも抜け目なく、すばしこく、目を輝かせて悪いことをします。 な心になれ」という意味ではありません。子供が素直で無垢だなどと、キリストはお教えになりませんでした。彼らも罪の中に生まれた人間です。もの心が付くころからわがままで、ずる賢いものです。しかし子供には、「自分は弱い存在である。他の誰かの助けなしには、ひと時でさえ生きて行けない」という自覚があります。「自分は小さい者で、いつも、誰かの権威と、保護の下にいなければならない。誰かに頼って行かなければならない」と知っています。それを隠さずに認めます。へたに教育も受け、少々成功し、「立派」とも言われるようになると、人間はつい思い上がって、自分が弱い存在であり、誰かに頼って生きて行かなければならない、という事実を忘れてしまいます。その事じつに気付いていても、認めたくはありません。酒でまぎらわすのがおちです。神の前に自分の弱さを認め、神の助けなしには、本当の意味で、人間として生きて行けないと確認する。それが、子供のようになることなのです(マルコ10:13−16)。

T.C. いろいろな形の招き

 そこでキリストは、弱く、痛んで、助けを求めている人間に対しては、たとえすべての人に軽蔑されている罪人であっても、非常に優しい心使いで対応しましたが、弱さを自覚していない人間に対しては、あえて挑戦的な態度をお取りになりました。

 たとえば、まじめではあるが、自分の成功と道徳的高さを誇りにしている青年に対しては、いとおしむ心を隠して、物凄く高度で難しい道徳的要求を出して失望させました。彼は他人との比較の上で、自分は立派だと誇り、自分こそ、神の国に入るのにふさわしい人間であると考えていましたが、実は、神の水準から見るならば惨めな罪人に過ぎない、助けを必要としている弱い者に過ぎないと、知らなければならなかったのです(マルコ10:17−27)。 

 また不道徳な生活で、ただれた人生を送っていながら、その生活から抜け出ようとする努力の足りない女に対しては、非常にやさしく対応する一方で、「今からは決して罪を犯してはなりません」と、恐ろしいほど厳しい一言、まさに不可能な一言で、罪の自覚を促し、そこから脱出するきっかけを、お与えになりました(ヨハネ8:1−11)。

 自分の道徳的高さを誇りにし、他人を見下すことに、こよなく幸せを感じていた宗教家たちに対しては、その偽善性を余すところなく暴露し、容赦なく攻撃されました。これは憎しみの攻撃ではなく、罪の自覚を促し、神の力の必要性を認めさせるための攻撃で、神の国への招きのひとつなのです(マタイ23:1−36)。

T.D.招きとしての戒律

 多くの人たちは、聖書の戒律、道徳的教えは厳し過ぎると言います。とても守れないと非難さえします。しかし、聖書の道徳的要求は、神の聖さがいかに高いものであるかを示し、その聖さの前には、人間がいかに罪深く、惨めな存在であるかを教えるためにあるのです。完全に守り切るために、与えられたのではありません。それは不可能なことです。人間が神の道徳的要求に、到達し得ないことを悟り、神のみ前にくずおれて、子供のように弱さを認め、罪深さを告白して助けを願うように、つまり、「神の国への招き」として、聖書の戒律は与えられているのです。残念なことに、ある人たちは、これを始めから無理な要求として退け、他の者は少しばかり要求を満たすことによって思い上がり、他人を見下すことによって、自己満足を味わう材料にしてしまっています。

 このように、聖書の道徳的要求は「神の国への招き」である一方、神の国に入った者が、神の力によって歩む人生の、規律となるものです。神の国に入った者は、悪魔の支配から神の支配に移ったのであり、神によって、新しい道徳的力を与えられて、かつては止められなかった悪事を、断ち切ることができ、できなかった良いことが、できるようにされているのです。

テキスト ボックス:トルストイ主義者と呼ばれる人たちがいます。 
彼らは、 ロシアの大文学者、トルストイの生き方
にならおうと努力します。トルストイは、キリストの
道徳的な教えを一生懸命(けんめい)に守ろうとして、自分の財産だった大農場を売り払い、貧しい人々に与え、最後は無一文になって、凍(い)てつく駅でこごえ死んでしまいました。実に壮絶で感動的です。
有島武郎(たけお)という日本の作家も、遺産として持っていた小樽(おたる)の広大な農場を売り払い、貧しい人々に与え、自らも貧しいものとなりました。日本のトルストイ主義者の代表です。トルストイ主義者は、キリストの高い道徳的教えを、真剣に守り通そうとします。しかし人間は、絶対にキリストの高い倫理に到達することができないのです。トルストイ主義の誤りは、できないことを認められないところにあります。

T.E.明確な招き

 ある時、キリストは立ち上がって、大声でおっしゃいました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」。ほかの時には、このようにおっしゃいました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませよう」。これはキリストの招き、神の国への明確な招きなのです(ヨハネ7:37−38、マタイ11:28)。

※※※ まとめ ※※※

 キリストは神の国をもたらしましたが、すべての人が、自動的にこれに入ることができるわけではありません。自分の惨めな状態を素直に認め、神の助け、神の支配が必要だと、へりくだって神に懇願する、子供のような心を持つ者だけが入るのです。キリストはこの神の国に入って、幸いな人生を始めるように、お招きになっています。厳しい聖書の戒律、道徳的要求さえ、本来、この神の国への招きの一部なのです。

U.神の国に入ることのほかの言い方

 キリストは神の国に入るということを、いろいろな表現を用いてお教えになりました。また、キリストの弟子たちも、同じことをさまざまな言い方で説明しています。神の国に入ることは、ひとつの表現ではとても言い尽くせないほどの、大事件だからです。それぞれ違った表現の中に、異なった側面の意味が込められているのです。何十もあるそれらの表現の中から、とくに重要なものをいくつか取り上げてみましょう

U.A.永遠の命を得る (マタイ19:16−26、ヨハネ3:16、ローマ6:23、黙示録21:1−5)

 神の国に入るとは、罪によって失ってしまった命を、もう一度、与えられることです。神の国は神の支配で、神のことだけではなく、その内容、「質」に関わるものです。リウマチだ、神経痛だ、あるいは心職病だ、 欝病だと言いながら、自殺も出来ないで「永遠に」生きなければならないのではたまったものではありません。永遠の命の長さは無限、質は完全。痛みも悲しみも、 悩みも苦しみもない、神ご自身が人間の目から涙を拭い取ってくださる、喜びと平安にあふれた生活です。現在の神の国で味わう幸せは、この永遠の命のごく一部なのです。

U.B.救われる(使徒16:30−31)

 普通は、「人間が生きて行く上で遭遇する、種々雑多の苦しみからの救い」と、理解されることが多い言葉ですが、キリストとその弟子たちが教えたのは、罪の結果と、悪魔の支配からの救いです。この世界で人間が味わうすべての苦しみは、元をただせぱ罪の結果と、悪魔の支配に行き着くのです。人生のこまごまとした苦しみを解決したところで、問題の元を断ち切らなければ、根の深い雑草の葉をちぎり取るようなもので、本当の救いにはなりません。

U.C.神の子とされる(ヨハネ1:12、ローマ8:14−23、Iヨハネ3:1−2)

 ほんわり、あったか〜い、ヒューマニズムを旨とする宗教は、「人間はみんな神の子、仏の子」などと教えます。キリスト教も、近代ヒューマニズムの興隆に大きく影響を与えましたが、もともとのキリストの教えはまことに峻厳で、人間はむしろ、悪魔を「父」と呼ぷのがふさわしいほど邪悪で、神の敵であり、神の怒りの対象なのです(ヨハネ8:41−44、Iヨ八ネ3:8、ローマ5:10、エペソ2:1−2)。

しかし神は、そのたとえようもなく深い愛で人間を愛し、大きな犠牲を払ってまで、人間との交わりを回復してくださいました。その交わりの豊かさ、親密さを表現するために、神の国に入った者を子と呼び、ご自分を父として現してくださったのです。しかし子とされるということは、始めから子として生まれるのと異なり、養子にされるということです。生まれながらの子ではなく、契約によって神と結ぱれた子なのです。ですから、人間が神の子と呼ばれるのと、キリストが神の子であるというのは、同じ「子」という言葉が用いられても、本質的にまったく違った意味なのです。とはいえ、たとえ養子であっても、正式に子とされたのですから、天地をお造りになった神を「父」と呼び、その父の愛と守りを全身に受け、父の資産、すなわち永遠の命、神のテキスト ボックス: 山岳奥地で新しく生まれたお婆さん  90を過ぎていたかもしれません。足腰も弱っていました。深いシワの中に、厳しかった日々の記録が刻まれているようでした。でも、新しく生まれて、永遠の命を得、神の子とされ、まったく健康にされる日を待ち望む姿は、とても輝いていました。国を相続することができるのです(ローマ8:14−23、ガラテヤ4:6−7)。 

U.D.新しくまれる(ヨハネ3:1−10)

 この世に生を受けたすべての人間は、悪魔の支配する「この世」に生まれたのです。この世に生きるかぎり、悪魔の支配を受け、最後には死んで行かなければなりません。この悪魔の支配と死を免れるためには、この世ではない国、神の国に生まれなければなりません。神の国は神の支配であり、永遠の命が保証されているからです。人間がこの世に生まれた時、自分で「生まれようか、生まれないでおこうか」と、選択して生まれたのではなく、まさに「産まれた」のです。自分の力によらず、他の者の力によって「産み出された」のです。神の国に入るのも、私たちの側から見れば、私たちがキリストの招きを聞いてそれに応答したのであり、私たちの意思もいくらか働いていると言えないこともありません。しかし大きな意味では、あくまでも人間の知恵と理解を遥かに越えたところで、万物を動かしておられる神の働きによるのであり、まったく人間の力によるものではなく、産み出されたのです。

 さらにまた、私たちのこの世への誕生が、神秘的出来事であったように、神の国への誕生も神秘的で、あれこれ説明ができるものではありません。この誕生は、肉体を持った人間から肉体を持って誕生する、この世への肉体的誕生に対して、霊である神による肉体に関わらない誕生として、霊的誕生とも呼ばれています。また、「新しく」という聖書の言葉は、「上から」とも訳すことができ、地上的生命に対し、天的生命という意味が込められています。これはまた、神の国に入った者が、それまでの人生とはまったく異なった、新しい人生を体験するという事実から、その体験を大切にする人たちによって、好んで「生まれ変わり」、「新生」、「第2の誕生」などという表現で語られています。

U.E.召される(ローマ1:1、6、7、Iコリント1:1−2、9)

 教会の中では、この言葉は通常「死ぬこと」、あるいは「神によって牧師などの特別な役職に就かせられること」に用いられています。しかし、それはあくまでも教会の通俗の用語で、本来は「神が、この世で悪魔の支配の中に苦しむ人々を、神の国へと招き入れる」という意味を持ち、人間が神の国に入ることを、神の側から見た表現であり、基本的に「救われる」とまったく同じ意味です。神の国に入ることは、人間の側の真理>探求や努力に関わるのではなく、神の人間に対する働きかけ、神の側の行為に関わることを教えています。

※※※ まとめ ※※※  

 神の国に入るのは、非常に大きな出来事で、ひとつの表現では、内容を明らかにすることができないため、たくさんの言い方が用いられています。中でも、「永遠の命を得る」、「救われる」「神の子となる」「新しく生まれる」「召される」などが、よく使われる大切な言葉です。 

V.神の国に入る条件

「神の国に入る」という、ひとつのことを説明するのに、たくさんの異なった表現が必要だったように、神の国に入る条件もただひとつですが、いくつもの異なった言葉で語られています。そのため、つい、いくつもの条件があるのかと、勘違いしてしまう人もいるようです。そこで、多くの表現の中から代表的なものを挙げて、神の国に入る条件の本質を探ってみましょう。

テキスト ボックス:  山岳奥地の子供たち どんなにやんちゃな子供でも、自分だけでは生きて行けないことを知っています。威張りくさっていても、自分の弱さを身にしみて感じています。だから、彼らは天国に近いのです。

V.A.子供のようになる(マタイ18:1−4、19:13−14) 

 「神の国への招き」の項ですでに学んだように、キリストは、「だれでも子供のようにならなければ、神の国に入ることができません」とおっしゃいました。子供のようになるということは、自分の弱さを知り、それを認めること、すなわち、つまらない誇りを捨て、自分には助けが必要だとへりくだることです。しばしば「人間は自分を信じるべきだ。宗教は弱い人間のものだ。」などと言われます。自分という人間は、信頼に足りない弱い存在だ、という事実に気付くのは、一種の悟りです。その事実を素直に認めるのは勇気のいることです。

V.B.新しく生まれる(ヨハネ3:1−10)

 これも、先の項で取り上げましたが、新しく生まれることは、神の国に入ることと同じでありながら、同時に、神の国に入る条件としても語られています。キリストは、「だれでも、新しく生まれなければ神の国を見ることはできない」と教えた後すぐ「水と霊によって生まれなければ神の国に入ることはできない」と続けて、新しく生まれることとは、水と霊によって生まれることであると説明しています。

テキスト ボックス: 洗礼は、現在でもほとんどの教会が守ってい
る、大切な儀式です。これはキリストの時代よりも古くから行われていたもので、 基本(きほん)的には
「身を清める」という意味があって、全身を水に浸すものでした。何か新しい物事を始めるときの契機(けいき)、出発点として、神の前に身を清め、新鮮(しんせん)な気持ちになるということが、大切だったのでしょう。日本の「みそぎ」の感覚(かんかく)によく似ています。
有名なバプテスマのヨハネは、自分の悪に染(そ)まった人生を悔(く)い改(あらた)めて、神の前に正しい生き方をするように、強く、人々に迫(せま)りました。その、古い生き方を捨(す)て、新しい、正しい人生を始めようという意思の表現として、洗礼を用いていたのです。そのために彼の洗礼は、「悔い改めの洗礼」と呼ばれたわけです。
キリストも、ご自分に従って来ようとする人々の、決意(けつい)の表明として洗礼を取り入れ、弟子たちにそれを授(さず)けさせ、どこに行っても、後々(のちのち)までもそれを継続(けいぞく)するようにお命じになりました。しかし、キリストの洗礼の意味をはっきりとさせたのは、少し後に現れた使徒パウロでした。
 ところが現在、洗礼に関しては、多くの教会が異なった理解をしています。極端(きょくたん)な場合には、洗礼を受けなければ救われない、すなわち、神の国に入ることができないと教える教会もあります。教会が長い間聖書をおろそかにしたまま、洗礼を儀式(ぎしき)として続けてきたために起こった混(こん)乱(らん)です。

水によって生まれる 

 キリストがこの教えをされた頃、宗教的な会話の中で水と言えば、直接的には、当時大きな話題になっていた、バプテスマのヨハネが授けていた洗礼を意味していました。(バプテスマとは洗礼の意) しかし、バプテスマのヨハネの洗礼は、悔い改めを象徴する洗礼で、「悔い改めの洗礼」と呼ばれていましたので、間接的には、水は悔い改めを意味していました。キリストは神の国に入る条件として、「悔い改め」をお迫りになったのです。それは、活動を開始されたキリストの第一声、「神の国は近付いた。悔い改めて、福音を信じなさい」というメッセージにも合致するものです。

 悔い改めるということは、「自分が罪を犯したという自覚」、「罪を犯したという事実と、罪を犯した自分への悲しみ」、「罪を犯した相手に対する謝罪」、そして「これ以上罪を犯し続けないで、正しい歩みをするのだという決意」が含まれます。罪の自覚と悲しみは、多くの人が感じます。謝罪する人も少なくありません。しかし、「これ以上罪を犯さない。正しい歩みをするのだ」と決意して、それを実行できる人は非常にまれです。ひとつやふたつの「罪」については可能だとしても、人間として生きていく上での罪については不可能です。ここで、子供のように自分の弱さを認めて、神に罪の赦を乞い、助けを求めるのです。

霊によって生まれる

 人間が自分の罪の深さを認め、さらに神に赦しを願い、罪に打ち勝つために助けを求めると、その人の中に奇跡が起こります。神が人の懇願に応え、聖く強い力で助けて下さるのです。神は、もともと「霊的存在者」ですが、現在の人間に対しては、多くの場合「聖霊」という姿で、お働きになります。「霊であられる神が、人間を住み家として住み、(先に学んだように、親密な交わりを形容した表現)新しい命をみなぎらせてくださるのです。人間は、自分自身の力で神の国に入ることはできません。ただ神によって生まれ出ることによって可能なのです。

V.C.キリストを信じる(使徒16:31、ガラテヤ2:16、エペソ2:8−9)

 新約聖書は、「人間は救われるために何をすべきか」という問題に多くを費やし、いく度も繰り返して、「キリストを信じること」が唯一の条件であることを教えています。言いかえれば、子供のようになることも、新しく生まれることも、キリストを信じることの中に含まれる、一面なのです。

「キリスト」を信じる

 信じなければならないのは、「キリスト」であって、教会が教えている神学や教理、信条や戒律ではありません。キリストがお教えになった教えですらないのです。すなわち、信仰とは「何を信じるか」ではなく、「誰を信じるか」の問題なのです。もちろん、キリストの教えは、知っているなら信じるべきですし、教会の言うことも、正しいものである限り、信じるのに越したことはありません。しかし、人間を救うのは、そのような「教え」ではなく、キリストという「ひとりのお方」、人間の姿を取って、この世に来てくださった「神」なのです。聖書の勉強も、教会に行くことも大切ですが、それらは人を救いません。救ってくださるのは、あくまでも、人となってくださり、人のために死に、人を生かすために甦えり、今も生きていてくださる、キリストという神なのです。

 この、人となって下さった神の、人としての名前は「イエス」でした。「キリスト」という名前は、タイトルあるいは肩書きで、旧約聖書が書かれたヘブル語の、「メシヤ」という言葉が、新約聖書が書かれたギリシヤ語に訳されたものです。もともとは、「油を注がれた者」という意味で、神のために重要な働きをする役割に用いられましたが、やがて、「救い主」の意味に用いられるようになりました。ですから、キリストを信じることは、救い主を信じることです。それは、とりもなおさず自分が救いを必要としている、惨めな罪人であることを知り、それを認めることです。つまり、子供のようになることです。

キリストを「信じる」  

 信じるという行為は、聖書が使っているもともとの言葉の意味によると、「寄りかかる」「頼る」「信頼する」ということです。つまり、非常に現実的な、自分の生活に関わる行為であって、たとえば、「マッコウクジラは海底3000mまで潜られるといわれているが、あなたはこれを信じるか」などという場合の、どこか頭の遊びを思わせる、「信じる」行為とはまったく別のものです。マッコウクジラが海底3000mまで潜水できると、信じても信じなくても、「あなた」の生活には、おおよそ関係がないからです。

 キリストを信じるとは、キリストが立派な人物であったと信じることでも、キリストの教えは素晴らしいと信じることでも、キリストは神であると信じることでさえもありません。キリストという、今も生きておられ、私たち人間を救う力を持ち、救いたいと願っておられる「お方」に、「寄りかかる」「頼る」「信頼する」ことなのです。子供のように、自分の無力を認めて、寄りすがることなのです。

 この「信じる」という行為は、冒険を含みます。なぜなら、私たちはキリストというお方について、あまり良く知らないからです。しかし何事でも、すべてを知り尽くすことはできません。 常に冒険が付きまといます。たとえば、結婚は信頼関係です。完全に相手を知り尽くして、信頼して間違いないと分かってやっと結婚するなど、あり得ません。それでは結婚が出来なくなってしまいます。理解しきれない、知り尽くせない相手と、少しばかり付き合っただけで、清水の舞台から跳び降りる気持ちで、あえて信頼して結婚するのです。相手が良ければめでたしめでたしですが・・・・・。ましてや、大きな神であられるキリストを、完全に知り尽くすなどまったく不可能です。ですから、少しばかり知っただけで信頼して良いわけです。全然知らないままで、「ままよ」とばかりに頼っても、まったくかまいません。とても良い方ですので、裏切られることは絶対にありません。

V.D.業績によらない(ローマ3:28、4:2−、ガラテヤ2:16、エペソ2:8−9)

 神の国に入るのは、まったく神の側からの働きかけによるのであり、人間の業績や功績によるのではありません。パウロというキリストの偉大な弟子は、くり返し、くり返し、この点を強調しています。それは、ただキリストを信じることによって、神の国に入ることができるなどというのは、あまりにも虫が良すぎる、あまりにも話が旨すぎると考える人たちが次々と現れ、

テキスト ボックス:   多くの伝統的(でんとうてき)な教会には、宿命的と思われる弱さがあります。カトリック教会の教えを引き継いでしまったからです。
カトリック教会はもっとも古い教会ですが、残念ながら、1500年にわたる長い間、聖書を持たずに、言い伝えだけで活動を維持(いじ)してきたのです。印刷技術がなかったために、仕方のないことでしたが、大切な聖書の数ガ圧倒的に少なく、ごくわずかのまじめなクリスチャンたちにしか、読まれていなかったのです。そのために、本当のクリスチャンではない人たちが高い位に付き、教会を腐敗させてしまったのです。
ところが16世紀になって、カトリック教会の堕落に、強い疑問(ぎもん)を抱(いだ)いた人たちが現れました。ちょうどそのような時、印刷機が発明されて、多量の聖書が配布されるようになったのです。この聖書を学んで、キリストの教えにじかにふれ、多くの教会がカトリックを離れ、新しい教会を創設(そうせつ)しました。ところがその人々も、自分たちが疑問と感じなかったところは、カトリック教会の教えをそのまま引き継(つ)いでしまったのです。
そのため伝統的教会には、先に述べた洗礼を始めとして、さまざまな教えで、カトリック教会の言い伝えを、そのまま受け継(つ)いできた教会が多いわけです。しかしそれから数百年を経(へ)て、まじめに聖書を学ぶ人たちは、聖書に教えられていることをより正しく理解し、それを教えるようになりました。そのために、教会によって洗礼などについての教えが、かなり異なっているのです。私たちは、聖書の教えをできるだけ正しく教えようと、努力しています。

「やれ、こうしなければいけない」「それ、ああしなけれぱならない」と、勝手に多くの条件を付け始めたからです。本当に、ただ信じるだけで、神の国に入ることができる、信仰だけで救われるなどとは、あまりにも易そうで、かえって信じられません。せめて、他に少しくらい条件があった方が、たとえばお百度参りはきついので五十度参りだとか、金1キロは大変なので、10グラムを奉納するとか、10日までは行かなくても、3日と半日くらい断食をするだとか、そんなことがあった方が、むしろ、信じ易いのです。ですから、正統的キリスト教と言われている大きな団体の中にも、聖書の明確な教えに逆って、そのような条件を加えているものがあるほどです。しかし、聖書はあくまでもかたくなに、この点では少しの融通も利かせずに、頑固一徹に、「信仰だけ」を貫き通しているのです。救いは人間が勝ち取るものでも、獲得するものでも、買い取るものでもなく、神からの贈り物、賜り物であるというのです(ローマ6:23)。ですから、いまでも冗談の中でしばしば使われるほど有名な言葉、「ただ信ぜよ。信ずるものは救われん」は、真実なのです。ただ、信じるという心の行為が必要なだけです。

※※※ まとめ ※※※ 

  神の国に入る条件は、いろいろな異なった言葉で説明されているため、つい、たくさんの条件があるのかと思い違いをしてしまいます。しかし条件はただひとつ、キリストを信じることです。ただ、この「信じる」という条件が、多くの人にとって、あまりにも易し過ぎると思われたため、勝手に、自分たちに都合の良い条件を付け加えることが、くり返されてきました。神の国に入れていただく、すなわち救われることは、神の贈り物であって、人間が買い取るものではないのです。

W.神の国に入れない者

 聖書には、神の国に入れなかった人物も、たくさん登場します。それぞれに入れなかった理由があり、私たちへの警鐘の役割を果たしていますが、ここで、良く知られている金持ちの青年の場合をもう一度取り上げて、少し細かく観察して見ましょう(マタイ19:16−26、マルコ10:17−27、ルカ18:18−27)。

W.A.自分に対する誇りを持っていた

 この青年は、自分を誇りとしていました。それは傲慢というより、むしろ、自分の人生に対するごく自然な自信でした。白昼堂々とやって来て、自分を知っている人間もいたであろう大勢の面前で、キリストが出す難しい倫理的要求に対し、「そのようなことは、子供の時からずっと守ってきました。他に何が足りないのでしょう」と、 臆することなく、くり返すことが出来たのです。キリストを呼ぷのにも「先生」と言って、「主よ」とは呼びませんでした。キリストを救い主とは認めておらず、救い主の必要も認めていなかったからです。ただ、教えてさえもらえれば、どんなに高い倫理的要求でも満たして見せるという、確信にあふれていたのです。まだ若く、人生の苦さを味わっていなかったためだと、言えるかもしれませんが、実際、誰にも後ろ指をさされない、立派な人間だったに違いありません。

W.B.良い業で永遠の命を得ようとした

 青年は「永遠の命を得るためには、どんな良い事をしたらよいのでしよう」と質問しました。良いことをすることが、永遠の命を得る条件だと考えていたのです。そして、それをまじめに追求していました。彼にとって、自分の弱さを知るとか、不可能であると悟るなど、あってはならないことでした。

W.C.弱さを悟る必要があった

 これに対し、キリストは次々と難問を与え、最後に、この青年には絶対にできない要求をなさいました。自分の財産をすべて売り払って、貧しい者に施せというのです。しかしキリストは、それができたからといって、神の国に入ることができるとはおっしゃいませんでした。ただ、「天に宝を積むようになる」とお教えになっただけです。もしも彼が言われたことを実行して、財産をすべて売り払い、貧しい者に施すことができたとしても、さらに、もっと難しい要求を出すだけのことだったのです。要するに、キリストの目的は、できないということ、人間の弱さを悟らせることだったのです。 

W.D.挫折させられた

 結局この青年は、自分に挫折して立ち去りました。自分の弱さ、助けの必要性を悟るまで、もっと人間として生きることの悲しみ、苦しみ、痛み、無力感、罪悪感を経験しなければならなかったのです。彼の場合は、金持ちであるということが、安易な人生観を持たせる原因だったようです。順風満帆の人生を過ごして来た人間が、神の国に入るのは非常に難しいのです。キリストは、あえて挫折をお与えになりました。

W.E.自己反省の機会が与えられた

 同じ物語が記録されている、三つの福音書を比較して読みますと、キリストは、「十戒を守りなさい」、「隣人を愛しなさい」、「財産を売り払って貧しい者に施しなさい」という、三つの要求をしています。しかしよく観察してみると、この三つの要求は実は三つではなく、ただひとつの「自分を愛するように自分の隣人を愛しなさい」という要求を、言葉を変えておっしゃっただけであることに気づきます。この青年は、じっくり自分を省みて、「そんなことは子供のときから守っています」と自信を持って言った事柄も、実は、全然守っていなかったのだと気付き、自分の醜さと弱さに散々苦しみ、自分という人間に失望しきって、もう一度キリストのもとに来て、「主よ。惨めな私を助けてください」と、ひれ伏す必要があったのです。

※※※ まとめ ※※※ 

 神の国に入ることができない理由には、いろいろありますが、もっとも深刻なのは、自分は良いことができる立派な人間であるという誇り、そして、良い事をして神の前に業績を積み上げるのが、神の国に入る条件であるという誤解です。良い行いをするのは立派な事です。しかし、わずかながらの良い行いで高慢になるのが、人間の愚かさです。良い行いをすれぱするほど、自分には良い事をする力がないことを悟り、神の助けを求めるのが、神の国に入る方法です

私が出会った人

 その男性は、まん丸い顔をくちゃくちゃにして、おいおいと泣き、恥ずかしげもなく涙を流し、ハンカチでチーンチーンと鼻をかみながら、話してくれました。2度目の奥さんが、呑んでは乱暴を働きつづける彼に愛想をつかして、小さな女の子を連れて逃げてしまったのです。「前にも、家出をしたことは何回かあったけど、いつも独りで出て行って、1週間もすれば帰って来たんですが、今回は、娘も連れて行ってしまいましたし、もう、2ケ月も帰って来ません。私の友人たちは、女房の隠れている所を知っているらしいんですが、だれも教えてくれません。私があんまりひどく女房を殴ったり蹴ったりしていたもんですから。でも、私は本当に女房が好きなんです。惚れています。女房がいなくては、生きて行く気もしないんです。もう、夜もろくに眠られなくて、いつも、もうろうとしています」そう語って、丸めたハンカチを取り出して、またチーンと鼻をかみました。何と最初の奥さんも、あまりの乱暴に我慢ができなくなり、2人の子供を置いて出て行ったというではありませんか。その人の子供が、教会の子供の集会に出席していたのです。

「カアーッとすると、何もかも見境がなくなって、知らないうちに手と足が勝手に動き出すんです。どんなに自分をコントロールしようとしても、だめなんです。子供のころからこうで、周囲にいる人間はいつも警戒していて、危ないなと思ったらさっさと身を隠してしまうんですが、女房はそうはいきません。いつも被害者になっているんです。私が言うのも変なんですが、結婚以来、女房の身体に青あざの無かった時はありません。でも、私は知っているんです。女房も私を愛してくれているんです。いつも、そう言ってくれていたんです。ただ、今度出て行く前は『あなたがこわくなった』って言ったんです」。

「そう言えば、いつか教会の子供のピクニックに、この男と恋女房さんが、いっしょに出席したことがあったなぁ」と、鈍い私はしばらくたってから思い出しました。まだ若く、美しく、大柄で、ハッとするほど華やかな奥さんでした。「二人の小学生のお母さんにしては若すぎると思っていたけど、やっぱり後添だったのか。おやおや、青あざが絶えなかったとは」。チーンチーンの鼻かみ音と共に話を聞きながら、私は、これは大丈夫と感じました。こういう、恥も外聞もない状態は、男が一番素直になっている時である。ましてやこの男は、もともと子供のような性格を持ち合わせている。

テキスト ボックス:  どんなにきかん坊でも、子供は自分が弱いことを知っています。自分たちだけでは生きて行けないことも知っています。イエス様が、「誰でも子供のようにならなければ、神の国に入ることは出来ない」とおっしゃったわけは、そこにあるのです。

「今までの生活を、神様に素直にあやまりなさい。奥さんに悪い事をしたのは、神様にもしたのです。そして、もうそんな悪い事をしなくても良くなるように、神様の助けを求めなさい。神様はあなたを変えてくださいます。あなたという人間が変わります。そうしたら、奥さんは必ず帰ってきます。この狭い沖縄。奥さんは隠れて、あなたをじっと観察しているはずですから、あなたの生活が変われば必ず帰ってきます」。わたしはこの男性を励まし、確信を持ってお祈りしました。

 それから毎日、彼は教会に来ては祈っていました。そして2ケ月もたったころ、全身を笑顔にして、牧師館にやって来ました。「女房が帰って来ました。私がまったく変わってしまったので、はじめは半信半疑だった仲間たちが、まず驚いて、しばらくたってから女房に連絡したんです。それで女房も半信半疑で、1ケ月間も、隠れてそっと観察していたそうです。そして、間違いなく私が変わったと認めて、帰ってきてくれたんです。神さまが私を助けてくださいました」。ふと外を見ると、恋女房さんが晴れやかに、はにかみながら会釈をしていました。その晩の我家の食事は、アメリカから輸入された分厚いビーフ・ステーキでした。彼の心づくしです。30年以上たっても、あの味はまだあざやかに覚えています。

お勧め

 あなたは子供のように、自分の弱さを認めますか。それとも、おおかたの大人たちのように、体裁をつくろい、自分の弱さを隠し通そうとしますか。神はすべてを見通しておられるのですから、神の前に体裁をつくろうことはありません。

問題集

 テキストをよくお読みになりましたか。他の人といろいろ話し合って見るのも良いことです。わからないことは、ノートに控えておき、あとでたずねてください。では問題集で要点を復習しておきましょう。

1.すべての人が、自動的に神の国に入ることができるのではないとするならば、神の国に入るには、まず、何が必要ですか。(T)

2.「健康な人に医者はいらない」というキリストのお言葉は、どういう意味ですか。(T.A)

3.「子供のようになる」とはどういう意味ですか。(T.B)

4. キリストは、弱さを自覚して助けを求めている人には、優しく対応しましたが、弱さを自覚していない人たちに対しては、どのような態度をお取りになりましたか。(T.C)

5.キリストは、なぜ偽善の宗教家たちを、容赦なく攻撃されたのですか。(T.C)

6.聖書の戒律は、なぜ守りきれないほど厳しく、高いのですか。(T.C)

7.キリストがお語りになった、神の国への招きの言葉は、どのようなものですか。(T.E)

8.神の国に入ることは、他の表現ではどのように言われていますか。(U.ABCD)

9.永遠の命とは、終わりのない命だけのことではありません。他にどのような内容を持っていますか。(U.A)

10.救われるとは、何から救われることを意味していますか。(U.B)

11.生まれながらの人間は、神の子ではありませんでした。キリストの教えと聖書の教えによれば、生まれながらの人間は、どのようなものでしたか。(U.C)

12.キリストが神の子と呼ばれているのと、神の国に入った人間が神の子と呼ばれるのは、まつたく別の意味ですが、違いは何ですか。(U.C)

13.人間はすべてこの世に生を受けましたが、それは、誰の支配の中に生まれたことですか。またその結果は何ですか。(U.D)

14.この世を支配する者の支配と、その結果からまぬがれるために、人間は何をしなければなりませんか。(U.D)

15.神の国に生まれるのは、人間の努力によるのですか。(U.D)

16.神の国への誕生は霊的誕生とも呼ばれていますが、他にどのように呼ばれていますか。(U.D)

17.召されるとはどういう意味ですか。(U.E)

18.神の国に入るのには、いくつの条件を満たす必要がありますか。(V)

19.水によって生まれるとは、どういうことですか。(V.B)

20.人間は自分の力で、罪を犯さない正しい歩みをすることができますか。(V.B)

21.霊によって生まれるとは、どういうことですか。(V.B)

22.救われるための唯一の条件、すなわち神の国に入るための、ただひとつの条件とは何ですか。(V.C) 

23.信仰とは「何」を信じるかの問題ではありません。では、信仰とは何ですか。(V.C)

24.キリストを信じるということが、どうして、子供のようになることと直結するのですか。(V.C)

25.聖書が使っている「信じる」という言葉の、もともとの意味はどのようなものでか。(V.C)

26.信じるためには、完全に知るという必要がないのはなぜですか。(V.C)

27.聖書があくまでもかたくなに、頑固に、一徹に、少しの融通も利かせず、貫き通している主張は何ですか。(V.D) 

28.救いは人間が勝ち取るものでも、獲得するものでもないとしたら、いったい何なのですか。(V.D)

29.金持ちの青年はキリストに対して、「主よ」ではなく、「先生」と呼びかけたのはなぜですか。(W.A)

30.キリストがこの金持ちの青年に、実行不可能なほど難しい要求をされたのはなぜですか。(W.C)

31.この青年が本当に必要としていたことはなんですか。(W.E)

32.神の国に入られない理由の中で、もっとも深刻なのは、誇りと誤解ですが、何に対する誇りと、何に対する誤解ですか。(W.E)

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