神の国第3課

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神の国の到来



I. 到来の宣言と現れ

 キリストの出現とその働きは、神の国の到来を告げるもので、悪魔とその配下の悪霊どもに支配されていたこの世界に、新しい時代の始まりを宣言するものでした。これはまた、長い期間にわたって、神がくり返しお与えになった、約束の成就でもありました。救い主と神の国の出現は、さまざまな時と場所で、多くの人々を通してくり返し語られた預言の中心として、旧約聖書に記録されているのです。(旧約聖書とは、聖書全巻の中で、キリストが生まれる前、すなわち、BC1500年からBC400年くらいにわたって、書かれた部分のことです)。

しかし残念ながら、これらの預言も、聞いた人々の都合によって、一面だけが取り上げられたり、好みに合わせて歪曲されたりして、本当の意味が充分には伝わっていませんでした。そのために、キリストの出現によってもたらされた、神の国は理解されず、キリスト本人までも誤解され、結果として、十字架の死を招くことになりました。ところが、これらのことはどれひとつとして、偶然に起こったのではなく、すべて、神のご計画の中にあったことであり、これもまた、旧約聖書に預言されていたことなのです。(ルカ24:13−47)

T.A.キリストの誕生

 キリストの誕生は、人間の歴史に対する神の直接介入でした。神は、悪魔に支配され痛みと苦しみの中に一生を過ごし、ついには永遠の死を迎えなければならない人間をあわれみ、何とかして救い出そうとしてくださいました。ところが、「絶対に聖い」栄光の性質を持っておられる神は、たとえ人間を救うためであっても、汚れてしまった人間に簡単に近づくことはできません。神が汚れた人間に近づくと、燃え上がる火を近づけられた昆虫が、一瞬で焼き尽きるように滅んでしまうからです。神の聖さとは、汚れた人間にとって、それほど恐ろしいものなのです。

 そこで神は、神ご自身の栄光を横に置いて、人間の姿を取り、人間の世界にお生まれになるという、いわば決定的手段、あるいは危機的手段をお取りになったのです。そうすることによって、神が直接ご自分で人を教え、人の救いを達成することができるからです。キリストは、天地を創造された神が「神としての栄光を」捨て、その権力と力も自ら否定して、人間と共に住むために、人間として生まれてくださった姿なのです。(ピリピ2:6−8、ヨハネ1:1−14、コロサイ1:15−17、ヘブル1:2−3)

人間が生まれるのは、無から有に生まれ出ることであり、文字通り新しい命の誕生で、大変めでたいことです。そこでつい、キリストの誕生もめでたいことであると勘違いして、大々的にクリスマスを祝い、「イエスさま、お誕生日おめでとうございます」などと言ってしまいます。しかし、キリストの誕生は、キリストにとって決してめでたいことではなく、小さく、弱く、惨めな、人間の姿になることだったのです。キリストは、ご自分がこの世界に生まれて来る前から、ずっと存在していたことを、はっきり主張なさいましたし、たんに生まれたのではなく、天から下って来たのであるともお教えになっています。(ヨハネ8:58、6:26−59、8:23)

もちろん、神はキリストとしてこの世に出現してくださるために、神の栄光を完全に失ってしまったのでも、永久に失ってしまったのでもありません。あくまでも人間を滅ぼさずに、人間と直接接触するための、非常手段なのです。それほどまでに、神は、人間を心に留め、愛してくださっていると言うことです。(ヨハネ3:16)

 このように、神は、悪魔に支配されているこの世に直接介入し、悪魔の支配を打ち破る働きを進行させました。これに対して悪魔は、何としてでもキリストの働きを挫折させようと、荒野の試みで最大の努力をしましたが失敗に終わり、敗北が明白になりました。(マタイ4:1−11、ルカ4:1−13) こうして、キリストの、神の国の到来の宣言にいたるのです。

T.B.キリストの働き

 キリストの働きは、神の国が到来して、今ここに存在しているということの証明でした。キリストが直接言及しておられるところでは、悪霊を追い出し、病気をいやす働きが、神の国の到来の証明であるとされていますが、キリストの働きと教えの全体から調べると、その他のあらゆる働きが、神の国の証明であることが明らかです。(マタイ12:2、ルカ11:20) 実際、キリストのもたらした神の国は、悪魔の支配のあらゆる分野に及んでいます。(第一課 「悪魔の支配の実態」を参照)

自然の世界

 キリストは神の権威をもって、大嵐を叱りつけてお静めになりました。これは悪魔に支配され、人間にさまざまな災害をもたらすようになった自然を、神の支配、神の国が取り戻すことをお示しになったのです。(マタイ8:23−27) その他にも、キリストは自然界、すなわち、物理的・生物的分野での力ある業をくり返し、神の国の到来を明らかにされました。(マタイ14:15−21、22−33、15:32−38、17:27、21:18−21)

テキスト ボックス:   聖書は、キリストが処女マリヤから生まれたと教えています。 これは意味のない奇跡(きせき)で説明がありませんので、私たちが明確に
語ることはできませんが、人の罪を身代(みが)わりに負って死ぬはずのキリストが(後述(こうじゅつ))、普通の誕生によって人間の罪の性質を受け継(つ)いでしまっては、目的を果たせなくなるために、必要な奇跡だったと考えられます。人の罪を身代わりに負うキリストは、罪のないお方でなければなりませんでした。
 筆者がクリスチャンになった頃は、いまほど科学が進歩していなかったために、「処女(しょじょ)降誕(こうたん)など絶対にあり得ない、非科学的だ」と、さんざん笑われ、非難(ひなん)されたものです。すでに専門家たちの間では、処女降誕は理論的に可能だと知られていたのですが、いつも論争の明け暮れていた新米クリスチャンの筆者の周りには、それを知っている人はひとりもいませんでした。でも今は、すっかり変わってしまいました。クローン技術で実証(じっしょう)されてしまったためです。キリストは神の力によって身ごもったのであって、クローン技術によるのではありませんが、マリヤは間違いなく処女だったのです。
 しかしマリヤはその後、夫ヨセフとの間に少なくても4人の男の子と、2人の女の子をもうけていますので、永遠の処女ではありません。(マタイ13:55−56)  マリヤを永遠の処女に仕立て上げたのは、カトリック教会が異教(いきょう)の女性礼拝を取り入れ、マリヤを神聖化(しんせいか)したために起こった間違いです。このような形で処女を神聖化するのは、聖書の教えではありません。かえって、性生活は神から与えられた尊いものであり、子供を産むのは、女性の最も大切な役割です。それこそ神聖な仕事です。

霊の世界 

 聖書には、キリストが、悪霊とか汚れた霊とか言われている、多くの霊たちを完全に打ち破って、人間を解放してくださった話が、たくさん記されています。キリストが追い出した悪霊どもを調べて見ると、精神病に関わるものが一番多く、(マタイ17:14−18、マルコ5:2−20、他) 次に耳が聞こえず物が言えないという状態に関わるものが多く、(マタイ9:32−33、12:22、他) その他は、人間に取りついていたというだけで、どのような害を与えていたかは不明です。(マタイ15:21−28、他) また、一人の人に多くの悪霊が取りついていた例も、一度ならずありました。キリストは、これらの霊に出会ったとき、お願いしたり、なだめたり、だましたり、犠牲を捧げたりせず、必ず、神の権威をもって叱りつけて追い出されました。神の国がすでに来ていたのです。注目すべきことは、これらの霊が、キリストが神の子であり、その権威と力には逆らえないと知っていたことです。(マルコ1:23−26、3:11、5:2−20、他)

人間の世界 

 人間は、悪魔と悪霊どもの直接の力だけではなく、罪の結果としての、人間的弱さにも拘束されています、それで、老若男女、貧富、教育、文化、人種の別を問わず、人間は自分の願っているような人生には遠く及ぱない、不本意な毎日を過ごしているのです。功成り、名を上げ、富を築いて、人のうらやむところまで昇りつめたというような人でも、人間としては貧しく生きている場合が少なくありません。

 人生にとってもっとも大切なものに、人間関係があります。離れ小島で、一生ただ一人で暮らして行くのなら、名誉も地位も学歴も富も、ファッションも高級車も、ぜいたくな家も不要です。これらは皆、人間関係、つまり人間は社会的動物だということから生じてくる必要です。そして、この人間関係に大きく関わってくるのが、人間性です。この人間性というところで、人間は自分自身をどうすることも出来ないのです。競争心、闘争心、うらやみ、ねたみ、憎しみが、美しい人間関係をこわしてしまいます。疑惑、嫌悪、裏切り、心変わりが、せっかくの幸せを台無しにしてしまいます。物欲、名誉欲、性欲、食欲が度を越し、正常な生活を不可能にしてしまいます。

 だれもが、愛と優しさ、信頼と思いやり、協調と平和を望んでいながら、実際にはそれが出来ない。自分をコントロールして秩序ある生活を願っていながら、それが出来ない。そこが問題なのです。このできないということが、悪魔の支配の中にいて、自分自身を治める自由もない、人間の惨めな姿なのです。

 キリストはこの方面において、もっとも著しい働きをなさいました。人間性の弱さに、痛み、苦しみ、人生を台無しにし、人間関係を破壊してしまったあらゆる種類の人々を、神の力と権威でまったく作り変え、「できる者」にして、神の支配、神の国の到来を明確にお示しになったのです。多分、この点で一番ドラマティックなのは、ルカ:1−10に記録されている、ザアカイという人物の物語でしょう(ぜひ読んでください)。 また、たんに人間性の弱さ、悪癖から解放するというだけではなく、キリストは混乱した哲学や思想に代えて、新たな世界観と人生観を与え、人間本来の生き方も、できるようにしてくださったのです。

※※※ まとめ ※※※ 

 キリストの誕生は、悪魔に支配されているこの世と、支配に苦しんでいる人間に対する、神の直接介入でした。絶対の聖さを持つ神が、そのままの栄光の姿で人間世界においでになったのでは、救いが必要な人間が、その罪のために滅んでしまいます。そこで、神としての栄光を捨て、人間の姿で生まれてくださったのです。また、キリストの働きは、神の国の到来の証明でした。キリストは数々の力ある業によって、この世に、すなわち自然の世界と霊の世界、そして人間の世界に、神の国、神の支配が到来していることを、明確にお示しになったのです。

U.神の国の体験

 パウロというキリストの偉大な弟子は、「神の国は言葉ではなく力である」と言って、見事に神の国の性質を表現しました。神の国は、気休めのための単なる美しい物語ではありません。精神テキスト ボックス: 聖書を学ぶとたくさんの人名が出てきますが、新約聖書の中ではキリストの弟子、とくに新約聖書を書いた弟子 たちが重要です。キリストの生涯(しょうがい)を記録したの
は、マタイとマルコとルカとヨハネです。このうちマタイとヨハネは、キリストの内弟子(うちでし)だった12使徒に含まれています。ヨハネは非常に長く生き、福音書のほかに、三つの書簡(しょかん)と新約聖書の最後の部分、黙示録(もくしろく)を残しています。 有名なバプテスマのヨハネという人物は、キリストの弟子のヨハネではありません。キリストのまた従兄弟(いとこ)にあたり、キリストより半年ほど早く生まれました。キリストのさきがけとして現われ、悔い改めを宣べ伝え、悔い改めの表現としての洗礼を広めますが、歯に衣着(きぬき)せぬ性格のために、王のヘロデに憎(にく)まれ、首を切られて、はやく死んでしまいました。
 マリヤという女性は数人いましたが、聖書に素性が明らかに記されているのは、主イエスの母のマリヤだけです。彼女はダビデ王の末裔(まつえい)に当たる非常に聡明(そうめい)な女性でしたが、同じくダビデの末裔だった、ヨセフという男性と許婚(いいなずけ)の仲のときに、聖霊によって、処女(しょじょ)のままイエス様を身ごもってしまいますが、神様に対する信頼と従順(じゅうじゅん)を貫(つらぬ)き通し、イエス様の母となり、最も祝福された女性となります。

 
修養としての、哲学や宗教的教えでもありません。人間から見れば、現実の生活の中に起こる強烈な出来事です。天地を創造された神の側からすると、人間の世界に対する介入です。全能の神が人間に干渉されるのです。少々の出来事で終わる筈はずがありません。痛烈に、素晴らしい体験です。

U.A.神との交わりの回復

 恋人は手を取り合いたくなります。握られた手が、恋人の手であろうが、大嫌いな人間の手であろうが、物理的感覚にはたいした違いはないはずです。しかし一方では、雲の上を駆けるような気持になり、他方ではむしずが走ります。隣りに座ったのが愛する人なら、心がほんわか、「あったか〜く」なり、赤の他人なら、何の感動もありません。人間の心の動きは微妙です。幸せと感じる感覚は説明がつきません。人間には、恋人や夫婦によってだけ埋められる、心の空白があり、友人などの人間関係だけによって満たされる、心のすき間があります。これらのものは、仕事だとか、芸術だとか、スポーツ、あるいは金や名誉や地位で、かなり、ごまかしや引き伸ばしが利きますが、完全に満足させることは不可能です。神が、人間というものを、そのようにお造りになったからです。

 同じように、霊的動物として造られた人間には、霊的な存在者である神との交わりだけでしか、満たすことが出来ない心の部屋があるのです。これが満たされない限り、単なる動物的営みである、食べる、寝る、遊ぶ、繁殖するというようなこと、あるいは動物的営みを少しばかり高度化し、複雑にしたに過ぎない、金、快楽、芸術、スポーツ、権力、地位、名誉、学問、さらには性、仕事、家庭など、あらゆるものをもっても、人間として、人間らしい満足を体験することができないのです。ですから、人間の歴史が始まって以来、人間の霊的部分を満足させようという試みである、宗教が絶えたことがありません。あるものはこの霊を祭り、他のものはあの霊と交わりを持ちます。しかし、本源的な霊であられる神との交わりのみが、人間を満足させることができるのであって、他のどんな霊を持って来ても、代用にはなりません。

 神の国に入って最初に体験するのは、この、神との交わりの回復です。神との交わりの回復とは、はたしてどのような体験かということは、説明が不可能です。恋の経験のない者に、恋する心がどんなものであるか説明できないのと同じです。食べたことがない人に、熱帯の果物の味を分からせようとしても、おおよそ無理なのと同じです。何によっても味わうことができなかった、喜び、満足、平安、震えるような感動、などと言っても月並みです。ただ、この体験が、人間生活のあらゆる方面に大きな影響力となって、まるで、新品の人生を歩き出すような経験をさせるのです。

U.B.私たちの内に住んでくださる神の霊

 心に幸せが満ちあふれている人は、悪い事をしたいと思いません。それだけでも世の中は相当変わります。しかし、神は人間との交わりを回復して下さるだけではありません。私たちの内に住んでくださいます。もちろんこれは、物理的に人間が家に住むというのと、同じ意味で住むというのではありません。宇宙の造り主である大きな神が、人の内に住めるわけがないからです。また、神は「遍在」と言って、宇宙のあらゆるところに、満ち満ちておられる方です。たとえば直径100メートルのすき間の無い鉄の玉を作って、この中には神はいないというのは愚かなことです。神にとっては堅い鉄の玉も、スポンジよりスカスカな物体にすぎません。ですから、そういう意味では、すべての人間の内部にも、神は溢れておられるのであって、ことさら、「内に住んでくださる」ことを強調する理由がありません。それでもあえて、「内に住む」という表現を用いたのは、神が回復して下さった交わりの「親密さ」に注目させるためなのです。神が、嫌々ながら人間と交わりを回復するのではなく、喜んで、非常に暖かく、豊かな交わりに入ってくださるということです。

 この、神との親しい交わりは、当然、神の助けと守りを含みます。それは、親が子を助け、守るようなものです。事実、神の国に入った者を、聖書は「神の子」という表現で呼び、神を「父」と呼ぷことができると教えているのです。そして神の子は、聖い性質の神との交わりによって、神と同じ聖い性質を身に付け、罪を犯さなくなって行くと、教えられています。(Iヨハネ3:1−9) また私たちの内に住んでいてくださる方は、この世にいる悪魔と、その配下の悪霊どもより強いので、私たちは彼らに勝利することができるのであると、励まされています。(Iヨハネ4:1−4、エペソ6:11−16)

 神の国の体験は、憎しみ、嫉妬、恨みといった、自分自身の醜い性質に対する勝利の体験であり、企業や政治の堕落、家庭の崩壊、性倫理の混乱、刹那的物質文明の腐敗などの、社会悪に対する勝利の体験となります。平たく言えば、この醜い世界で正しく生きることができるようになって行くということです。さらには悪霊だの怨霊だの死霊だの、また、守護霊だの水子霊だの先祖霊だのという、霊のたたりや惑わしを恐れず、かえって、勝利の内に生きて行けることです。つきつめると、神の国の体験は、悪魔に対する勝利なのです。(ロ−マ8:31)

※※※ まとめ ※※※ 

 神の国に入った者は、神の国独特の体験をします。それはまず、神との交わりの回復によってもたらされる、真に人間的な喜び、霊的動物である人間としての満足感、充足感です。さらに、神との交わりと保護の中で、神の性質に似ていくという人間性の内部の変化です。これによって、自己の醜さに勝利をし、社会の悪にも勝利をしていけるようになるのです。また神の保護は、この世の支配者である悪魔と、その配下である悪霊どもが、直接悪事を働くことを許しませんので、悪魔と悪霊どものただ中にあって、恐れずに生活できるのです。

V.神の国での成長

 神の国に入って間もなくの体験は、たいてい、突発的で瞬間的な出来事が多いようです。賭け事に狂っては酔いつぶれていた人間が、突然、手の平を返すように、賭け事を止め酒を飲まなくなるなどというのは、はた目にも良くわかりますが、他にも、目立たなくても随分似たようなケースがあります。それはじつに感動的で、神の力によるとしか言いようがありませんが、いつも必ずそうだとは限りません。事実、賭け事はばったり止まったが、短気はおさまらないなどということがたくさんあります。多情は失せたが、陰口、悪口、うわさ話しが直らないという女性も少なくありません。神の国の体験は、瞬間的な体験であると同時に、継続的な体験です。悪魔の子であった人間が(ヨハネ8:44)、ある日、神の子としていただいたとしても、すぐさま、神の子らしい神の子になるのではありません。少しずつ、名実ともに神の子と呼ばれるにふさわしくなるように、成長して行くのです。

小さな物語

 両親の顔も知らない、小さな男の子が乞食をしていました。ひどくお腹がすいて、道端に転がっていた腐れかけた果物を、拾って食べようとしたときです。ひとりの老人に声をかけられました。老人は御殿のような家に住む大金持ちなのに、身寄りがなく、さびしく暮らしていました。  

 マニラの町に、子供の乞食など珍しくもありません。老人は、ほんの戯れの気持ちで、男の子にたくさんの果物を買ってやりました。始めのうちこそ、押し黙って紙袋を手にたたずんでいた男の子も、とうとうがまんができなくなって、大きな果物をほおばりました。老人は、なにかしら急に恥ずかしくなって、そっと、その場を離れていきました。

 次の日も、老人は果物を買いました。老人を見つけた男の子は、壊れて置き去りにされたトラックの陰から、おずおずと出てきました。次の日も、老人は果物を買いました。そのつぎの日は、パンと飲み物を買いました。そして、そのつぎの日は、小さなズボンを買いました。

 そんなことを続けていたある日、男の子がいなくなってしまったのです。老人は、ながいあいだ探し歩きました。散歩のように見えたことでしょう。でも、老人の目はたえず忙しく動いていました。すえた臭いをあたり一面にまきちらす、生ゴミの山の向こう。解けた舗装のアスフアルトが真っ黒に流れ、ときどき虹のような七色の光を放つ、熱帯の真昼の路地裏。そして、とうとう男の子を見つけ出しました。道路脇の溝から溢れ出した汚水が、灰色に光る木陰に、倒れ伏していたのです。

 男の子が、真っ白なシーツのベッドの上で目を覚ましたのは、三日も経ってからでした。おどろいて起き上がろうとしても、身動きができませんでした。そして、あの老人の笑顔を見たような気がしました。でもそのまま、また、何も分からなくなってしまいました。

 ずいぶん経って病気もなおり、体力が回復して、いよいよ退院の日、男の子はピカピカ光る大きな車に乗せられ、それは、それは、立派な屋敷に連れて行かれました。そして、見たこともないようなたくさんのご馳走の前に座らされました。周りにはお屋敷で働く料理人や給仕の女たち、それから屋敷を守る男たちがうやうやしく立ち、これから何が起こるのかと、息を潜めて見守っています。何がなんだか分からずに、男の子は、ただ恐ろしく、はずかしい気持ちでいっぱいせした。

 やがて、大きなテーブルの反対側に座った老人が、ゆっくりと立ち上がって、おもむろに言いました。「今日、私に息子ができた。そこに座っている子が、今日生まれたばかりの、私のむすこだ。どうだ。賢そうな顔をしているだろ。さァ、今日はめでたい日だ。みんなで食べて踊って祝ってくれ。」

 男の子には、何のことかまったく分かりませんでした。でも、このお爺ちゃんが、自分のお父さんになってくれたのだということだけは、なんとなくわかりました。老人はひそかに、養子縁組の手続きをすませていたのです。路地裏の乞食の男の子は、まったく知らないうちに、大金持ちの跡取りになっていたのです。

 男の子の生活はまったく変わってしまいました。すべてが新しくなったのです。もうゴミの中をあさることもありません。野良犬に追い立てられることもありません。軒下に雨を避けて眠ることもありません。でも、すべてのことを、ひとつひとつ学んでいかなければなりませんでした。いつもは優しいお爺ちゃんが、とつぜん厳しくなることもありました。食事のときはナプキンを用い、ナイフとフオークを上手に使いこなさなければなりません。水の飲み方ひとつでさえ、めんどうなマナーがありました。手づかみでむしゃむしゃ食べたほうが、よほどおいしいと思ったことも、一度や二度ではありません。

 挨拶の仕方も、話の仕方も厳しく教えられました。男の子は、間違いなく、法律的には大金持ちの息子となり、大金持ちの相続人となったのです。でも男の子は、名実共に、大金持ちの息子になるために、大金持ちの息子にふさわしい生活を、学んで行かなければなりませんでした。

 私たちクリスチャンも、一瞬のうちに天地の造り主である神の子となりました。でも、ゆっくりと時間をかけて、名実共に神の子と呼ばれるのにふさわしく、育っていかなければならないのです。

 

V.B.人間の良い性質の回復

 人間は、もともと神の性質に似せて造られたのであり、美しく善い性質を持っていました。ところが、悪魔の誘惑負けて神に従わないという罪を犯した時から、神の御許から追放され、悪魔の支配の中に入れられてしまったのです。そのため、善い性質が抑圧されてどんどん弱まり、ほとんど無力になってしまっただけでなく、たとえわずかに残った善い性質が力をふりしぼって活動しようとしても、悪魔の力によってねじ曲げられて、聖い神の前には良いことではなくなってしまうのです(ヨハネ15:4−5)ところが、神の国に入って神との交わりを体験すると、神の聖い力が人間の中に強烈な影響を及ぼします。まず、それまで自由に振舞っていた悪い性質が抑制され、抑圧されていた善い性質が解放されるのです。多くの場合、解放されてもすぐに力を発揮するのではなく、ちょうどしびれていた足が、少しずつ感覚を取り戻し、指先を動かすごとに力を付けるように、人間の努力とあいまって、徐々に回復して来るのです。大切なことは、人間がすべてを神まかせにして、するべき努力をおこたっていては、解放された善い性質もその力を回復しないままに終わってしまうという事実です。ここでも、人間の意思が重んじられています。人間が努力をすると、神は神の力をもって、さらに助けてくださるのです。それは難業苦行の努力ではなく、意思の証明、意思の表現としての小さな努力です。それが、ひとつの勝利を得させ、次の勝利の励ましになるのです。

V.B.価値観の変化

 悪魔に支配されているこの世界に生きる人間は、悪魔的な値観を持っています。何もかもが、醜い悪だというのではありません。しかし、表面的には美く、善良に見える人生観も、世界観も、大きなところで、基本的に歪められているということです。

たとえば他人のため、社会のために尽くすのは良い事です。しかし他人のため、社会のために善意で行われたことが、どれほど多くの人々を苦しめ、死に追いやってきたことでしょう。良心に従ってマルクス・レーニン主義に身をじた人の数は膨大です。多くの人は 善意によって動きました。しかし、この主 テキスト ボックス: カンボジアのキリングフィールドの一つ 1970年代、共産主義政権のポルポトに殺された人々の骨や歯、遺留品などが、海岸の貝殻のように散らばっていました。近くの慰霊塔には、7000個以上の頭がい骨が納められていましたが、まだまだたくさん埋まったままだと考えられています。ポルポト政権によって、100万人以上の人々が虐殺されましたが、これは、悪魔に支配された人間の残忍さのほんの一部に過ぎません。20世紀だけでも、ヒトラーは1,200万人、スターリンは2,000万人、毛沢東は2,000万人から4,000万人に及ぶ人々を殺したと言われています

義は億単位の人々を殺し、さらに多くの人々を不幸に追いやったのです。

 この点においては、キリスト教も厳しい裁きの対象になります。クリスチャンは、一般的に善意の人々です。ところが、キリスト教の年の歴史のほとんどは、まじめな信仰を持たない、つまり、神の国を体験していない支配者たちによって、治められて来ました。彼らは金と権力のために欲望の限りを尽くして、本当の教会を破壊し続けたのです。悪魔さえ気後れがして、しり込みするようなことが、いくどもくり返されました。そのような中では、神の教えが記された聖書は、もっとも害のある危険な書物でした。ですから皮肉なことに、聖書は何世紀もの間、教会によって読むことが禁止され、狩り集められては焼き尽くされていたのです。(これを焚書と言います)。

 人間は、自分の都合に合わせ、いろいろな哲学を考え出し、さまざまな思想を生み出し、多くの政治機構を作り上げました。あるものはキリストの教えさえ利用しているほどです。しかし、いつの時代にも、本物の信仰を持った少数の人々、真実に神の国を体験した、わずかな人たちがいました。その人たちが、社会の完全な腐敗をくい止める、地の塩の働き、完全な闇を来たらせない、世の光りの働きをして来たのです。(マタイ5:13−16)時速を越すレーシング・カーも、団地の奥さんたちの買い物の役に立たないではありません。ごみ収集車を飾り付け、新婚夫婦のハネムーンに使うことも、法律違反ではないと思います。しかし、それでは車がかわいそうです。それぞれの車には造られた目的があります。人間は神によって造られました。神の目的のために、目的に沿って、目的に合うように造られたのです。もしも人間が、造られた目的に沿わない生き方をしているならば、その人の人生が幸せであるはずがありません。しばらくの間は、順調で幸福そうに見えるかも知れませんが、必ずどこかに歪みができ、やがて破綻をきたしてしまいます。

 人間は神の栄光のため、神の栄光を現すために造られたのです。それが聖書の教えです。しかし、神の国を知らない人に、そんなことが理解できるわけがありません。神との交わりの素晴らしさと、神の力を体験した人でも、長いあいだ自己本位な生活を送って来たあとで、すぐにこれを理解するのは無理な相談です。ところが神の国の中で成長を重ねるうちに、神の目的に合った生活をすること、人間が造られた目的に合った生き方をすることが、どんなに素晴らしいかがわかって来ます。間違ってゴミ収集車にされていたレーシング・カーが、競技場に戻され、颯爽と本来の能力を発揮するようなものです。

 自分の幸せのため、自分の安心のため、自分の家庭のためなどという、自分中心でわがままな初歩の信仰生活から、大人の信仰生活に育っていくのです。そのような生活においては、あれをしてはいけない、これをしてはならないという戒律は、あまり意味を持たなくなってしまいます。神の命に生かされて、力一杯生きる喜びに満たされるからです。(コリント6:20、エペソ1:6、12)

※※※まとめ※※※

 神の国に入ったらそれでお終いと言うのではありません。神の国で、人間は信仰の成長を果たすのです。神の力によって解き放たれた人間の善を行う能力は、人間の意志と努力と、神の助けによって力を取り戻します。それだけではなく、成長のうちに理解が増し、人間に対する神の目的を悟り、その目的に合った生き方をする喜びを知るようになるのです。

W.神の国の保証

 このように、神の国に入ることは、良い事ができるようになることで、良い事をするのが当り前なのです。神を信じていると言いながら、実際の生活に何の変化もなく、良い行いも生まれてこないのは、その信仰に問題があるからです。(エペソ2:10、ヤコブ2:14−26) この、良い事ができるという事実が、いま神の国に入っている証拠であり、やがて来る完全な神の国に入る保証なのです。

W.A.神の国の裁き

 キリストの神の国の教えに、さっと目を通すだけですぐに気が付くのは、現在の神の国に生きている者に対する「裁き」とでも言える、けじめの時があることです。いちど、現在の神の国に入った者すべてが、そのまま来たるペき完全な神の国に入るのではないのです。(マタイ7:21−23、13:24−52、18:21−35、20:1−16、22:1−14、24:45−51、25:1−46)キリストの教えを要約してみると、来るべき神の国に入る事ができるのは、「与えられた働きに忠実で」「弱い者、小さい者に愛の手を差しのべ」「いつも注意ぶかく、手抜きをしない」者、ということになります。

 これでは、「俺にはとても無理だぁ」と、匙を投げてしまいそうになります。ところが、キリストの教えは福音、すなわち喜びのおとずれです。決して無理な要求がされているのではありません。なぜなら、現在の神の国に入れられた者は、神の力によって支配され、罪の束から解き放たれ、善の力を回復させられ、良いことが「できる」ようにされているからです。現在の神の国に入っていながら、来るべき神の国に入れないというのは、神によって「できる」者にされたという事実をないがしろにして、まるで、神の国に入っていないかのように生活した者だけにおこることです。もうひとつは、実際は神の国に入っていないのに、入っているふりをしている者です。

 さらに、一見、厳しい条件と映る教えも、実は、こうあるべきだという目標が示されているのであって、これに到達しない者は失格という、入学試験のようなものとは違うのです。人間は真底よわい者で、たとえ、神の国に入っていても、まだまだ失敗もし、罪も犯します。キリストもそのことは充分ご存知で、ペテロを始め、ご自分を裏切ってしまった弟子たちに、腹も立てず、見捨てもせず、やさしく励ましてくださったのです。

W.B. 聖霊の証印

 キリストの素晴らしさは、四角四面、杓子定規の法律論を振り回す学者ではなく、人といっしょに痛み、苦しむことによって、人の弱さ、悲しさ、そして、いとおしさを理解しておいでになることです。(ヘブル 2:17−18、4:14−16、Iヨハネ1:8−2:2) ですから、現在の神の国に確実に入っテキスト ボックス: 古代中東の印鑑 円柱の側面に名前や象徴的な絵を刻み、それを粘土板などに押し付けてまわし、証印としました。た者は、神に信頼して、神の力によって生きている限り、何も心配することがないのです。

 したがって、私たちが現在の神の国に入っていて、神の力を体験しながら生活し続けるならば、未来の完全な神の国に入ることは、保証されているのです。聖書はこの保証を、「聖霊の証印」という表現で教えています。(エペソ1:13、4:30)現在、神の力を体験している人、病気が治され、性格が変えられ、生活も建て直され、人間関係も改善されている、怨霊や死霊も怖くないとテキスト ボックス: 「聖霊(せいれい)」とは読んで宇のごとく、聖(きよ)  
         い霊という意味です。天地を創造された三位一体の神の、 第三の
位(くらい)の神のことです。三位一体をここで説明するにはスペースがありませんので、いまのところは、「神の国に入った人間を実際に支配し、助け、守り、導いてくださる神の姿が強調されている」、くらいに理解しておかれたらよいでしょう。「証印(しょういん)」は、昔、舟などで運ばれて来た大きな品物を買い取った時、まず手付金(てつけきん)を払い、その所有者になったことを明らかにし、やがて全額(ぜんがく)を支払って引き取るものであると保証するために、買い取った人の「印」を「捺印(なついん)」したもののことです。日本の印鑑(いんかん)と基本的に同じです。
いう、神の力の体験をしている人は、その体験自体によって、いま自分が神の支配の 中、神の国に入っているという確証を得、やがて来る完全な神の国に入れていただける、保証を得ているのです。

※※※ まとめ ※※※ 

 現在の神の国に入っている者にとっては、その人が神に信頼しているかぎり、来るべき神の国が保証されているのです。神が守り、助け、支え、導いてくださいます。少しの心配もいりません。この世にいる限りはまだまだ失敗も罪も犯しまが、神はすべてを理解し、赦してくださるのです。

私が出会った人

 マニラ南方の深い緑の中に、「小さな島」という意味のモンテンルパ刑務所がありました。高い塀の上から、軽機関銃を手にした警吏たちが大勢見下ろす中、私たちが加わった礼拝会は、喜びの興奮と熱気にあふれていました。200人程の受刑者が手を取りあい、ひとつの大きな輪を作って、1時間近く歌い続けたものです。その後、何人かの受刑者が壇の上に立ち、キリストを信じて神の国に入った体験の、素晴らしさを語り始めました。何人目かに立ったのは、バスケットボール用のパンツ一枚で、刺青で埋め尽くされた全身をさらし、頭をつるつるに剃り上げた、まさに異様な格好の男です。横に座っていた受刑者のひとりが、そっと耳打ちをしてくれました。「彼は昨日、電気を貼るため、髪の毛を剃られたんだよ。」何のことか良くわからないまま、私はピカピカ光る頭が語る、タガログ語に耳を傾けていました。

テキスト ボックス: モンテンルパを出所したクリスチャンたち みんな神の国の力を体験していました。ただし、この中に一人だけ、刑務所暮らしをしたことがない牧師がいるのですが、判りますか? 「じつは昨日、みんなも知ってる通り、死刑の執行があって、電気椅子に座らせられたんですが、電気椅子が故障しちまって、死ぬことができませんでした。神さまは、俺があと何日か生きて、神様の救いの素晴らしさを、他の受刑者にも教えなさいと、言ってくださったのだと思います。だから、残された少ない日々を、力一杯、神様の話をしながら過ごします。いまは、平安と喜びにあふれています。永遠の命が、俺のものだからです。こテキスト ボックス: 13ページの写真の、左から3番目のうれしそうに笑っているやせた青年は、この写真を撮る2日前、筆者が開いていた訓練会のさなかに、洗面器いっぱいの血を吐きました。近くのみすぼらしい病院に、緊急入院させたのですが、「死んでもいいから病院から出してくれ」と泣いて頼むのです。あまりにも真剣なすがたに、とうとう出してあげました。「俺は、どうせ死ぬのなら、みんなの前で、イエス様をたたえる歌をうたって死にたい」と言って、その夜の集会で、仲間たちと思う存分にうたいました。釈放されて間もない彼は、患者を実験材料扱いにして、「入ることは死ぬこと」を意味していた、刑務所病院しか知らなかったのです。だから、病院をとても恐れて、嫌っていたのです。日本なら、結核でたくさん血を吐いた人が、人前で歌うなんて考えられません。でもフィリピンはもともと結核の多い国、しかも小さな田舎町です。あまり問題にはなりません。退院させる病院も病院ですが・・・・・・、それをいうなら、退院を願い出た私たちも私たちですが、それにしても、幸せそうな彼の顔を写真で見る限り、こんな話は信じられないかも知れませんね。ちなみに右端が、刑務所暮らしをしたことがない、本物の牧師です。 v:shapes=の刑務所で、俺の人生は神様の力によってまったく変えられました。これは俺自身も、俺を知っているすべての人も、絶対に否定できない事実です。これが、俺に永遠の命の希望、やがて来る完全な神の国に入る希望を与えてくれます。俺にとって永遠の命は、自分がこの刑務所でまったく新しく作り変えられたという、現実と同じくらい否定できない現実なんです。」

 この男は、聖霊の証印などと言う聖書の教えは、知らなかったことでしょう。しかし、彼はその教えを体験として知っていたのです。彼がモンテンルパで体験した神の国、神の力はリアルでした。そして彼はそのリアルさをもって、永遠の命をリアルに感じることが出来たのです。

 次にモンテンルパを訪れる機会があった時、もう一度彼に会って話を開きたいと、密かに期待したものですが、ふたたび彼を見ることはありませんでした。でも、目を閉じると、ピカピカ光った頭と、それ以上に輝いていた笑顔が、今でも、生き生きとまぶたに浮かんできます。そして、つい、心の中で笑い出してしまいます。「電気椅子の故障なんて、まったくフィリピンらしいなァ。」しょっちゅう停電をくり返しては、電圧が150Vになったり、250Vになったり。あらゆる電気製品が、すぐ故障してしまう実情を思い出すからです。

テキスト ボックス: 妻子と共に、幸せなモンテンルパ出所者 この男性は、モンテンルパ出所者の中では珍しく大学出。ある夜、いつも難癖をつけられ、いじめられていた、町のワルの家に行き、竹とワラで作られた家を針金でグルグル巻きに縛り、石油を振り撒いて火をつけてしまいました。ワルとその妻と、二人の子供が焼け死んで、彼は死刑の判決を受けました。しかし、入れられたモンテンルパでクリスチャンとなり、まったく新しい人生を始めたのです。そして、それが認められて、ついに釈放されたというわけです。私のところに訓練に来ていた頃は、牧師を目指してがんばっていました。可愛らしい奥さんと、元気な男の子がいっしょでした。

問題集

 テキストを読んで、大体の意味がつかめましたか。それでは、問題集でおさらいをして、大切なポイントをしっかり把握しておきましょう。

1.神の国の到来は、長い間を通しての神の約束の成就でしたが、救い主と神の国は何によって預言されていましたか。(T)

2.救い主と神の国の預言を、人々はどう受け取りましたか。(T)

3.キリストの誕生は、人間の歴史に対する神の直接介入でした、神は何のためにそのようなことをしてくださったのですか。(T.A)

4.天地を創造された神が、わざわざ人間の姿を取ってお生まれになったのは、どういうわけですか。(T.A)

5.人間にとってはまことにめでたい、生まれるという体験は、キリストにとってはどのような体験でしたか。(T.A)

6.神の国をもたらすキリストに対して、悪魔はどのような行動を取りましたか。(T.A)

7.キリストの教えと働き全体は、何を証明するものですか。(T.B)

8.キリストが嵐をお静めになったのは、何を示していますか。(T.B)

9.キリストは悪霊に出会ったとき、どのようにして彼らを追い出しましたか。(T.B)

10.人間が悪魔の支配下にあるという事実は、人間生活のどのようなところに現れていますか。(T.B)

11.キリストはどのようにして、人間生活の中に神の国が到来したことを、お示しになりましたか。(T.B)

12.神の国の到来を、人間側の経験から言うとどのようなものですか。(U)

13.人間が、金、財産、名誉、名声、地位、学問あるいは芸術、スポーツなど、あらゆるものをもっても、本当の意味で人間としての満足を味わうことができないのはどうしてですか。 (U.A)

14.神の国に入って、まず体験するのは何ですか。(U.A)

15.神が私たちの内に住んで下さるというのは、どういう意味ですか。(U.B)

16.聖書は、神の国に入った者を「神の子」という表現で呼んでいますが、そこにはどんな意味が込められていますか。(V)

17.神の国に入った人たちの中には、瞬間的に変えられた人がいる一方で、ずいぶん時間がかかって、少しずつ変えられていく人もいるのは、どういうわけですか。(V)

18.神の国の体験は「勝利」の体験でもありますが、何に対して勝利をするのですか。(V.A)

19.神の国に入ると、悪魔に支配されて無力になっていた人間の悪い性質が、神の力によって解放されて徐々に回復しますが、このとき人間側に必要なことは何ですか。(V.A)

20.神は目的を持って人間を創造されましたが、人間が神の目的に沿わない生活をしているとどういうことになりますか。 (V.B)

21.神の国で成長を重ねるとはどういうことですか。 (V.B)

22.大人の信仰生活に育つとはどういうことですか。 (V.B)

23.神を信じていると言いながら、良い行いがないのは、何に問題があるのですか。 (W)

24.神の国に起こる、「裁き」とでも言うべきけじめの時を通って、未来の完全な神の国に入ることができるのは、どのような人ですか。 (W.A)

25.未来の神の国に入るための厳しい条件を、私たちのような弱々しい中途半端な人間でも、 「無理だ」と言って、諦めてしまう必要がないのはなぜですか。 (W.A)

26.キリストはどうして、弱く、失敗をくり返す人間を見捨てず、励ましてくださるのですか。 (W.A)

27.現在、神の国に入っている者が、恐れずに、来るべき神の国に入る希望をもって生きることができるために、神は保証を与えてくださいました。それを聖書は何と呼んでいますか。 (W.B)

 あなたも、キリストがもたらした神の国に、入りたいとお思いになりませんか。あなたも、神の力、神の支配を体験できるのです。 

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