神の国第2課

Welcome to our homepage


神の国の大河ドラマ


T.神の国の始まり

 神の国の歴史(れきし)という大河ドラマは、神が天地を創造し、それを支配されるというところから始まります。すでに学んだように、「国」とは「支配」を意味するからです。天地創造以前の神が、どのような姿で存在しておられた かについては、ほとんど何もわかりません。神は永遠から永遠までを現在として存在される、つまり、時間を超越して存在される方です。時間を越えるとは、はたしてどういうことなのか、人間の思考能力の限界を思い知らされる問題です。聖書は哲学の本でも、物理の教科書でもなく、人類の救済(きゅうさい)という具体的な問題を取り扱っている書物ですから、そのような問題にはまったく触れないまま、「始めに神は天と地とを創造された」という書き出しで、始まっています。

T.A. 神の自己表現

 天地創造は、無から有を造り出す、神の栄光と力の表現であり、それを治めて持続させるという、権威の表現であったことは明らかです。神がお造りになった天と地は美しく、すべて完全な秩序のなかにありました(創世記1:1−31)。天と地は、美しく善良な神の性質を具体的に表現したもの、神の自己表現だったからです。

T.B.神に似せられて造られた人間

 神の自己表現の中で、とくにきわ立っているのは、人間の創造です。驚くべきことに、人間は神の姿にかたどって造られたのです。もちろん、これは神に手足があるということではありません。人間は、霊的な存在者である神に似せて、霊的な存在として造られたということです。たんに、犬や猫のように、生まれ、食べ、繁殖し、死ぬ、動物的な体と命だけではなく、神と交わることができるように、神と同じ性質の霊を与えられて造られたのです。そのため、すべての動物の中で、人間だけが、神を礼拝したいという心、祈りたいという気持を、本能として持っているのです。そういうわけで人間は、たとえ、どんなに進んだ文明の中に住んでいて も、未開の世界に生きていても、すべて、例外なく宗教を持って いるのです(創世記1:26− 27、2:7)。

T.C.神の愛の対象として造られた人間

 テキスト ボックス: 天地創造の出来事は、聖書の一番初めに置かれている、創世記(そうせいき)という書物の最初の部分に、物語風(ものがたりふう)に記録されています。初めてこの部分を
読む現代人(げんだいじん)は、つい、自分たちの合(ごう)理(り)主義的な考え方、つまり、自分の理論を大切にするものの見方を持ち込み、理科の教科書でも読むような、自然(しぜん)科学的な感覚(かんかく)で読んで、荒唐無稽(こうとうむけい)な神話だと思い違(ちが)いをしてしまいます。
それに対して、これは文字通(もじどお)り事実であると考えるクリスチャンたちは、これもまた、現代(げんだい)的な合理(ごうり)主義(しゅぎ)に立つ自然科学の知識(ちしき)を駆使(くし)して、これが単なる神話ではなく、科学的な事実であると証明しようとしています。しかしどちらも、自分たちがとんでもない誤(あやま)りをおかしていることに、気づいていません。
それは、この書物が今から3500年ほども昔、まず、その当時生きていた人々に分かり易く、書かれているという事実です。21世紀の人間が、物(ぶつ)理学(りがく)の知識、生物学(せいぶつがく)の知識、天(てん)文学(もんがく)の知識、その他、関係するあらゆる科学的知識をもってこれを調べ、納得(なっとく)できるように書かれているのではありません。合理主義や自然科学が発生(はっせい)する、3000年以上も前に生きていた人々に、最も分かり易く、最も記憶(きおく)し易く、最も要点(ようてん)をつかみ易く書かれているのです。ですから、そこに記されていることは、現代の科学知識から判断(はんだん)して、正しい記述(きじゅつ)であるかどうかと議論(ぎろん)するのは、まったく的外(まとはず)れの愚(おろ)かなことです。あらゆる科学的知識に満(み)ち溢(あふ)れ、その知識の上に世界を創造(そうぞう)なさった神が、3500年前に生きていた人々に、最も理解され易く、受け入れられ易い書き方をしてくださったのです。そのことを理解して読むと、逆(ぎゃく)にこの部分が、豊富(ほうふ)な科学的知識を背景(はいけい)に書かれていることに、驚(おどろ)かされます。自然科学とは、結局(けっきょく)、神が天地創造のときにお定めになった、自然の法則を学び、利用するものなのです。
創世記のこの部分で、神が人間にお伝えになろうとした基本的な事柄(ことがら)は、多分、以下のようにまとめられることでしょう。@神が天地の創造者であり、すべてのものは神によって発生し、神によって存在しているという事実。A創造者である神は、またすべてのものの支配者(しはいしゃ)であるという事実。Bすべての被造物(ひぞうぶつ)は、神がお定めになった秩序(ちつじょ)(法則)によって、正しく保たれているという事実。C人間も神の被造物のひとつに過ぎず、神の絶対の権威(けんい)のもとに生きるように定められているという事実。D人間だけが神に似せて造られ、神との特別な関係を持つように造られている事実。
人間が、神と心の交流を持て るように、神に似せて造られているのは、人間が神の愛の対象 であることを示しています。神は始めから変わりなく、愛の神です(Tヨハネ4:8)。その愛を豊かに表現するために、ご自分と同じ姿の人間をお造りになったのです。ですから、人間は始めから神を礼拝し、神と交わり、神を賛美し、神に感謝をし、祈りをささげるものとして造られています。またそのようにするとき、人間は神の豊かな愛と 祝福を感じて、生きる喜びと平安、満足と充実を味わうことができるように、造られているのです。人間はおいしいものを食べ、美しいものを着、立派な家に住み、やさしい家族を持つだけでは、決して満足できません。神の愛の対象として造られているため、神の愛が感じられなくては、心に空白が出来てしまう のです。神の支配は、ただ物理的な力による支配だけではなく、愛の力による支配でもあるのです。

T.D.善悪を選ぶ試み

 神が人間をお造りになったとき、どうして、罪を犯さない人間にしなかったのですかとたずねる人がいます。たしかに神は、善悪を選択することができる自由意思を持つものとして、人間をお造りになりになりました。自由意思を持っていない存在は神に似たものではなく、単なるロボットです。とくに、善悪の問題に関して言えば、始めから、善以外は選ぶことが出来ないように、造られてしまったとするならば、その善は真の善ではありません。善と悪のふたつがあって、どちらでも選ぶことができるという中で、善を選んでこそ、初めて善となるのです。ですから、自由意思を持った人間は、「欠陥製品」ではなく、最高作品でした。また、神が人間にお与えになった善悪選択の試みは、人間が真に神に似た霊的な存在として、完成されるためには、絶対になくてはならない条件だったのです(創世記3:1−24)。

T.E.人間の失敗

 真に霊的な存在として、善と悪の選択ができるように造られた人間は、悪魔の誘惑に負け、神の戒めに逆らうという、間違った道を選んでしまいました。ここから、人間を取り巻くあらゆる問題が始まったのです(創世記3:1−7)。
テキスト ボックス: アダムとイブ(レンブラント画)

※※※ まとめ ※※※ 

 天地創造は神の栄光の表現であり、すべての造られたものを支配する、神の権威の表現でした。神の目的は、権威をもってすべての創造物を支配し、愛をもって人間を治めることでした。つまり、「神の国」を実現することでした。しかし、人間が神の戒めを破ったことにより、神の国は完成しないまま、時代を経ているのです。

U.人間の反逆の結果

 もしも人間が、悪魔の誘惑に打ち勝って、神の戒めに従う選択をしていたならば、神の国の歴史は、随分変わっていたはずです。少なくてもこの世界は、悪魔の支配の下に陥らずにすみました。しかし、人間の神への不服従は、悪魔への屈服だけではなく、神への反逆です。これが「罪」と言われるものの根本です。これに対し、神のもうひとつの本質的な性質である、「絶対の聖さ」が、当然の反応をしました。それは人間をご自分の前から追放する、つまり、交わりを拒絶することでした。絶対に聖い神が、罪を犯した人間と交わりを続けることはあり得ないのです。その結果、いくつかの事が起こりました。

U.A.祝福の喪失 

 罪を犯す前の人間の生活は、悲しみも苦痛もなく、何ひとつとして不足のない、満ち足りたものでした。自然は美しく、豊かな環境と実りを与えてくれました。しかし、神から追放された人間は、神の祝福の多くを失ってしまったのです。恵みに満ちていた自然は、荒々しくも猛々しく豹変してしまいました。多くの微生物は、ありとあらゆる病を人間にもたらすようになりました。おだやかだった気候は荒れ狂って台風となり、いたるところに洪水をもたらす一方で、多くの地方では旱魃を広めて砂漠化を進めています。地震は町々を破壊し津波を発生させて、多くの人命を奪い続けています。そのような中で、人間は悲しみと苦痛にあえぎ、ひたいに汗を流し、争いながら、生きて行かなければならなくなったのです(創世記3:15−18)。

U.B.命の喪失

 人間の命は、単なる生物学的な生命とは異なっています。神が、特別にご自分の命を吹き込んで、ご自分に似せてお造りになった「人間としての命」です(創世記2:7)。 しかし、命の源である神から追放されることによって、人間の命は、人間の命としてもっとも大切な機能である、神との交流を失ってしまいました。神との交わりを失ってしまった人間は、他の何ものをもっても、心のうつろさを、埋め合わせることができません。金、地位、名誉、権力、性、家庭、親戚、芸術、その他あらゆる快楽も、人間を本当の意味で満足させることはできません。聖書はこの状態を「死」と定義しています。キリストもまた、ただ動物的に生きているだけの人間を、「死人」と呼んでいます(マタイ8:21)。私たちはこの死を「霊的な死」と呼んでいます。

 さらに、命の源である神から離れた人間は、生物学的な死をも避けられないものになってしまいました(創世記3:19)。それだけではなく、聖書が「第2の死」と呼ぶ、永遠の裁きとしての死までが、運命づけられてしまったのです(黙示録20:11−15)。死は、人間が罪を犯す前に、あらかじめ与えられた警告だったのです(創世記3:16−17)。

U.C.道徳的無力・無感覚

 神に反逆して追放された人間は、霊的に死ぬことによって、道徳的には無力・無感覚になってしまいました。エデンの園を離れた人間の、その後の歴史は、長男カインが弟アベルを殺した事件に始まって、あらゆる犯罪と闘争の歴史だったと言って、過言ではありません。それは21世紀に入った現在も変わっていません。人間は、この悪い状態を何とかしようと、できる限りの努力をして来ました。そして部分的には、それなりの効果を上げたことも事実ですが、全体的には、どうすることもできなかったというのが真実で、少しも良くなっていないばかりか、ますます悪化し続けているのです。現在も世界中の大多数の人々が餓え、何億もの人々が差別に苦しみ、何千万の人々が戦争の犠牲(ぎせい)になろうとしているのです(創世記4:1−15)。

U.D.宗教の始まり

 神から追放された人間は、神との交わりの喜びを失ってしまいました。失われたその喜びは、霊的な存在物として造られた人間の本質に関わる喜びで、他のどのような代用物でも満たすことが出来ない喜びでした。そこで人間は、失われた神との交わりをなんとか回復しようと、空しい努力を重ねたのです。しかし、拒絶され追放された人間は、しだいに神の真実の姿を忘れ、おぼろげな記臆や、曖昧な理解に、頼らざるを得なくなっていましたので、誤りだらけの神観念が出来あがり、目を覆うばかりに、はてしなく混乱した宗教が、たくさん生まれてきました。それでも人間は、神との交わりを失ってぽっかりと開いた心の空しさを、そのような宗教で埋め合わせようと、なおも悲しい努力を続けているのです。

U.E.悪魔の支配

 神の支配から追放(ついほう)された人間は、悪魔の支配の中に入れられてしまいました。人間に与えられたこの世界は、人間が悪魔の誘惑に負けたことによって、そのまま、人間もろとも、悪魔の支配の中に、組み込まれてしまったのです。悪魔は自然を用い、人間の道徳的無力さを利用し、死の恐怖をちらつかせ、さらには宗教の混乱を武器に、人間を支配し、苦しめ、ますます神から遠ざけているのです。悪魔にとって最大の喜びは、神の愛の対象である人間に、できるだけ多くの苦しみをもたらすことによって、神を悲しませ、創造の目的を汚し、栄光に傷をつけることなのです。
テキスト ボックス: 罪を犯してしまった人間を、神がご自分
の前から追放されたのは、 神の聖さだけ
ではなく、愛の性質のためでした。神の絶対の聖さは、汚(けが)れたたものが近づくと、それを焼き尽(つ)くさないではいないからです。それはちょうど燃え盛る火のようです。(ヘブル12:29) 燃え盛(さか)る火に飛び込んでくる虫は、一瞬のうちに焼き尽くされてしまうように、絶対に聖い神に罪あるものが近づくと、たちまち焼き滅(ほろ)ぼされてしまうのです。そこで神はその愛の性質のために、罪を犯した人間がご自分に近づいて滅んでしまわないように、ご自分の前から追放(ついほう)し、もどって来られないように、厳重(げんじゅう)な警戒(けいかい)を敷(し)かれたのです。そのようにした上で、神は人間に救いの道を準備してくださったのです。(創世記3:23−24)

※※※ まとめ ※※※

 神の戒めを破り、神に対する反逆という 罪を犯してしまった人間は、神の聖い性質 のゆえに、神から追放されてしまいました。 その結果、神の祝福を失い、命を失い、道徳的には無力無感覚になってしまったのです。それでも人間は、なんとかして失われたものを取り戻そうと、多くの宗教を造り上げたりもしましたが、結局のところ悪魔に支配され続け、神の姿に似せて造られたものとしては、実に情けない、惨めな生き方をしなければならなくなっているのです。

V.神の国の約束

 悪を選んで罪を犯し、神の国から追放され、悪魔の支配の中で、すなわち、悪魔の国に生きて行かなければならなくなった人間に、神は、大きな望みを与えてくださいました。それは、人間の失敗にもかかわらず、神がご自分の国、すなわち神の国、天国を完成させ、その中に、人間を入れてくださるという約束です。

V.A.神がお与えになった約束

 神は、人間が罪を犯した直後、ご自分の前から追放する直前に、すでに神の国の約束をお与えになっています。人間を絶望の中に追放したのではありません(創世記3:15)。さらに、追放した後にも、さまざまな角度から、何度も何度も、約束をくり返しておられます。ただし、この時点では、まだ神の国という思想が人間の側に無かったため、他の表現が使われています。人間が神の国という思想を持つようになったのは、イスラエル民族が王国を設立してしばらくたってからのことですから、紀元前1000年以降になります。神がお与えになった約束の神の国の姿は、じつに多くの内容を含んでいますが、罪の赦しと聖め、失われた神との交わりの回復、敵に対する勝利、病の根絶、繁栄と平和などが、とくに明確に約束されています。

V.B.人々が理解した約束

テキスト ボックス: ダビデ像 イスラエルの歴史上最大の王、ダビデ。この王の下でイスラエルは最高の繁栄を楽しんだ。
この大理石像(部分)はミケランジェロの最高傑作と言われ、およそ6mの巨大なもの。ダビデがまだ王になる前、イスラエルの敵の巨人ゴリアテを、石投げ器で打ち負かしたときの雄姿を刻んだ。 

 神がお与えになった神の国、すなわち神の支配の約束は、人間には間違って理解されてきました。この誤解は、現在でも形を変えて続いていますが、今ここで問題になるのは、最初の誤解でもっとも深刻なものです。神は、どんどん増え広がった人類の中から、イスラエルという民族を選び、これを通して、全人類を祝福する神の国の設立を計画してくださいました(創世記12:1−3)。神の国の約束も、当然この民族を通して、全人類に与えられたものです。ですから、イスラエル民族のことを、少し学ぶ必要があります。王国となったイスラエルは、2代目の王ダビデと、その子ソロモン王の時代に(BC1000年ころ)、空前絶後の繁栄を楽しみますが、その後は邪悪な王たちの悪政の下で、衰退の一途をたどりました。ソロモンの死後、12部族から成立っていたイスラエル国家は、南朝2部族と北朝10部族に分裂して、抗争をくり返し、たちまち弱体化してしまいます。そこを、アッシリア帝国に攻撃され、北の10部族は、跡形もなく離散してしまいます。紀元前720年頃の出来事です。その後およそ130年で、残った南の2部族もバビロニヤ帝国の捕囚となり、ついに、イスラエル民族は国家消滅の憂き目にあいます。幸い、その後バビロニヤを征服したペルシャ帝国の王は、神の介入によって、イスラエルに対して寛容な態度をとり、植民地ながら、イスラエル国家の再建を許します。

 しかし、これも長くは続きません。バビロニヤは、アレキサンダー大王に率いられたギリシャ帝国に滅ぼされ、イスラエルは情け容赦なく抑圧されます。さらに、このギリシャもローマ帝国に滅ぼされ、イスラエルはそのまま、ローマの植民地国家として苦辱をなめなければならなかったのです。数百年にもわたるこのような歴史の中で、イスラエルの人々は、神の国の約束を自分たちの民族の望みに、都合よく合わせて理解しました。それは、神がイスラエルの敵をみな滅ぼして、ダビデ王の時の繁栄にも勝る、イスラエル国家を再建して下さるというものでした。これは、完全な誤りではありませんが、神の真意からは外れた解釈です。しかし、イスラエル人(ユダヤ人)は今でも基本的にこのように信じていて、現在のイスラエル国家は、そのための段階として、神が再建して下さったと考えているのです(現在のイスラエルが、国家の安全という面では極端に強硬な背景には、このような思想があるのです)。

※※※ まとめ ※※※

 神は悪魔の支配を打ち破って、神の支配を確立する意味で、神の国の約束をお与えになりましたが、その約束をうけとった人間(イスラエル人)は、自分たちに都合よく、イスラエル国家の再建と理解してしまいました。

W.キリストの生涯と神の国

 キリストは神の国の到来を宣言し、ご自分の働きは、神の国が現在ここに来ていることの証明であると、お教えになりました。キリストは神の国をもたらしてくださったのです(マタイ4:17)。

W.A.人々の期待

 700年ほども、神の国の出現、すなわち国家の再建を待ち望んでいたイスラエルに、キリストはお生まれになりました。その頃のイスラエル人は、ローマの圧政から国を解放して建て直す、力強い王を、「今や遅しと」待ちわびていたのです。当時のイスラエルにも、一応へロデという王がいましたが、純粋なイスラエル人ではない上に、ローマ帝国のあやつり人形にすぎず、民衆は彼を嫌って、他の王の出現を期待していました。

 ところがヘロデは、自分の王位に異常なまでに執着し、猜疑心にかられて自分の親族・妻子までも殺してしまった人間です。キリストがお生まれになった時にも、新しい王の誕生という情報に、自分の王位が危うくなるのを恐れ、生まれたテキスト ボックス: エジプト逃避。ヘロデ王の虐殺を夢に世よって知らされた両親は、幼子イエスを連れてエジプトに難を逃れました。ばかりのキリストがいると思われた地方の、2才以下の赤児を皆殺しにしてしまいました。キリストが30才になり、実際に教えを始め数々の奇跡を行われると、人々の期待はいやがうえにも膨れあがり、もう、まさに爆発寸前というありさまでした。実際、人々はたびたびキリストを王として担ぎ上げようとして、暴動にさえなりかけたものです(ヨハネ6:15)。

W.B.人々の失望

 人々の期待がますます過熱するのを、まのあたりにしながら、キリストは王になることに関してまったく無関心で、もっぱら病人を治し、悪霊を追い出し、罪に捕らわれていた人々を解放する働きに、専念しておられました。それこそが、その時キリストがもたらした、霊的な神の国、悪魔の支配を打ち破る、神の主権と力の現れだったのです(マタイ12:24−28)。しかし、そんなキリストの態度は、過激な愛国者で、現世的独立国家を望んでいた多くの人々には、優柔不断でまどろっこしいものでした。そんなことから、いつしか、キリストに対する不信が芽生えていきました。テキスト ボックス: キリストがエルサレムに入ったとき、人々は
「ホサナ! ホサナ!」 と叫んで迎えました。ホサナという言葉は、一般に、キリストを
褒(ほ)め称(たた)える言葉と理解されていますが、もともとの意味は「今お救いください」です。人々は、この方こそ自分たちをローマの圧制(あっせい)から解放し、国家を樹立(じゅりつ)してくださるに違いないと信じて、「早く救ってください!」と叫んだのです。(マタイ21:9)

 一方、宗教家や国家の指導者たちは、キリストを嫌っていました。民衆がキリストになぴいて行くことに対する妬み。自分たちの密かな罪と偽善が、キリストの鋭い教えに暴かれてしまう恐れと憎しみ。どうしてもキリストの教えに対抗できない腹立たしさ。さらには、キリストを王として担ぎ出そうとする人々の暴動の可能性。それを弾圧するに違いない、ローマ帝国をなだめなければならない心配。これらが重なり合って、彼らはついにキリストを殺す陰謀に走り、真夜中に祈っておられたキリストを捕らえて、偽りの裁判を開き、死刑の求刑をするのです。しかし、植民地国家であるイスラエルの法廷は、死刑の宣告をすることが許されていなかったために、彼らは、キリストを宗主国のローマの官憲に手渡し、虚偽の訴えをして死刑を求めたのです。

 憎いローマの官憲に手渡されてしまったキリストを見て、一般民衆のキリストに対する不満と不信は、たちまち頂点に達しました。こともあろうに、ローマを敵として戦う、勇ましい王として期待していたキリストが、いとも簡単に捕らえられ、弱々しく裁判にかけられ、口も開かずにいるのです。つい数日前までの人々の大きな期待は裏切られ、まったくの失望に変わってしまいました。

W.C.キリストの死

 大きかった期待を裏切られた怒りは、そのまま、キリストにぶつけられました。数日前、この方こそ新しく王になられるのだと信じて、「一目でも見たい。一言でもお祝いの言葉をかけたい」と集まった群衆。椰子の葉を道に敷いて臨時の凱旋行進さえ演出し、胸躍らせ、歓呼して都に迎えた民衆は、一変して、キリストの死刑を要求したのです。誤って理解していた神の国への望みが、どんなに強力なものであったかが良く分かります。こうして、キリストは、死刑の中でももっとも重く残酷(ざんこく)な、十字架刑に処(しょ)せられたのです。

W.D.神の国の再認識

テキスト ボックス: ふつう、キリストの処刑(しょけい)の絵などを見ますと、手の平に釘(くぎ)が打ち込まれていますが、これは後代(こうだい)のj人 
々が、 聖書を読んで 「手」 と書かれているのを誤
解したためです。ギリシャ語の「手」という言葉は日本語の「手」のように少々曖昧(あいまい)で、手のひらを意味することもあれば、肘(ひじ)までも含むことがあります。ローマ軍に敗れて処刑(しょけい)された、スパルタカスの軍人たちの骨が、大量に発掘(はっくつ)されたことがありましたが、みな、手首よりも少し肘に近い部分、骨が二つに分かれているその間に、釘を打たれたことが分かりました。手のひらに釘(くぎ)を打ったのでは、体重を支えきれずに、裂(さ)けて落ちてしまうからです。キリストの場合も同じだったと考えられます。
 十字架の死刑はもっとも残酷(ざんこく)なもので、両手両足を釘で打って晒(さら)してものとし、そのまま死を待つものです。日本の磔(はりつけ)とは異なって、ふつう、槍(やり)で刺すことはしません。キリストが槍で刺されたのは、すぐ後に特別な祭日が迫(せま)っていたので、晒し者を残しておきたくなかったという事情(じじょう)があったためです。しかし、キリストが槍で刺されたときには、すでに死んでいたと記されています。(ヨハネ19:31−37)

 キリストは十字架の上で死に、墓に葬(ほうむ)られました。しかし、私たちが信じ崇めているキリストは、墓の中で朽ちはてた人間ではありません。墓を打ち破って復活して下さった神の子です。キリストは3日目に甦り、40日に及んで多くの人々の前に現れ、教えと働きの最後のしめくくりをした後、天に昇って行かれました。ここに至って、キリストと親しく生活を共にし、詳しく教えを学んだ弟子たちを中心に、神の国の新しい理解、正しい理解が生まれてきたのです。弟子たちも、一般の民衆と同じように、いや、それ以上に、キリストが王となり、ローマ帝国を打ち破って、繁栄の独立国家を再建して下さることを期待していました。ですから彼らにとって、キリストの死は、まさに、絶望だったのです。しかし、キリストの甦りはそんな弟子たちを狂喜させ、神の国の正しい理解を可能にしたのです。

※※※ まとめ ※※※

 あやまった神の国の理解のため、人々は、キリストに間違った期待と恐怖を抱き、ついには十字架につけて殺してしまいました。しかしキリストの復活と昇天が、神の国を正しく理解できるようにしてくれたのです。

X.キリストがお教えになった神の国

 キリストは、王になろうとはしませんでした。むしろ、王であることを主張なさいました(ルカ23:1−3、ヨハネ18:23−19:22)。すでに王である者は、王になろうとする必要がないからです。しかし、何百年も続いた神の国の誤解は、キリストの意をつくした教えさえも曲解(きょっかい)させ、ますます混乱を生み出しました。

X.A.霊的神の国

 キリストは、神の国が、いわゆるこの世の国とは、まったく次元の異なる国であり、自分はその国の王であることを言明しています(ヨハネ18:36−37)。キリストがお教えになった神の国は、人間の政治や武力によって作られる「国」ではなく、この世界を支配する悪魔の力を打ち破る、神の主権の現れ、神の支配なのです。ですから、キリストが病気を治し汚れた霊を追い出すことは、神の国がそこに存在している証拠であり、弟子たちが町々村々を巡り歩いて、病気を治し、悪霊を追い出したことは、悪魔がその支配者としての位から、墜落したことなのです(マタイ12:22−28、ルカ10:17−20)。そういうわけで、神の国は、どこか、はるか遠いところにあるのでも、ずっと未来にあるのでもなく、私たちのただ中にあるのです(ルカ17:20−21)。これは、「信じれば心の中に神の国ができる」というような、日本人的な観念論とはまったく関係がありません。神の力によって、病気を治され、悪霊を追い出してもらい、罪から解放されて、秩序ある平安な生活を楽しんでいる者は、まさに神の国を体験しているのであり、また、そのような人たちが作り出す、愛に溢れた豊かな人間関係は、そして、祈りと賛美を通しての神との交わりは、神の国そのものなのです。 

X.B.未来の神の国

 このように、神の国は、現在体験できるものであると教える一方で、キリストは、神の国とはやがて来るものであり、未来に属するものであるともお教えなりました(マタイ16:28、25:31−46、ルカ18:30、19:1−27、21:31、22:18)。この未来に属する神の国も、本質的には現在体験できる神の国と同じで、神の支配、神の統治です。しかし、未来の神の国は現在の神の国とは違って、神の完全な支配、完全な統治です。そこでは、悪魔と悪霊たちが完全に滅ぼされ、自然の世界も造り変えられて、人間に不幸をもたらす天変地異も無くなり、完全な調和を保ちます。神の国に入った者には、完全な新しい肉体が与えられ、一切の病気や苦痛、死の恐怖も無くなります。人間の道徳的性質も新たに造り変えられ、キリストに似る者になるのです。人間同士のあらゆる差別が取り払われた交わり、そして神と人との豊かな交わりが限りなく続き、人間は人間としての、本当の幸せを満喫(まんきつ)することができるのです(イザヤ11:6−10、黙示録21:1−7、Iコリント15:50−58)。さらに、王としてのキリストも、2000年前においでになった時の、人間の姿を取り、人として生き、人と共に苦しんでくださった、限られた力と権威の王ではなく、神としてのすべての栄光と力と権威を持った王として、しかも、人としての苦しみと悲しみを自ら体験してくださった王として、ふたたび、人の世界に来てくださるのです(ルカ19:12、15、使徒3::20−21)。

X.C.霊的神の国と未来の神の国の関係

 霊的神の国、すなわち現在私たちが体験できる神の国と、未来の神の国は、決してふたつの異なった神の国ではなく、ひとつのものです。ですから有名な主の祈りの中で、キリストが「み国を来たらせたまえ」と祈るようにお教えになったとき、まず、現在の生活の中で、神の支配を体験することができるように、すなわち、悪魔の力を打ち破って、罪を克服し、平和と愛の人間関係を築き、病気を治してもらい、悪霊、死霊のたぐいも追い出してもらい、幸福な生活ができるように祈りなさい。またそのために、自らも積極的に、進んで神に従い、神の国、すなわち神の支配を自分の中で体験しなさいとおっしゃったのです(マタイ6:10)。

 しかし、この世界で体験できる神の国は、まだ完成された神の国ではありません。いわば、悪魔の世界に戦いを挑み、勝利を目指して力強く進入し、攻略し続けている神の国です(マタイ11:12)。勝利は目の前にあります。ただ、まだ戦っているのです。というより、勝利はすでに決定しています。キリストご自身が勝利宣言をされたのです(ヨハネ16:33)。ただ、いわば戦後処理的な戦いが続いているのです。完全な勝利はもう少し先になります(Iコリント15:24)。そのために、まだまだ、この世界で味わう神の国には限度があり、苦しみと悲しみ、そしてさまざまな矛盾が伴います。神の国に入ったために、かえって、悪魔の激しい攻撃を受けることさえあります。しかし、これらの苦しみの中でも、神の守りによって、毎日、勝利を勝ち取って生きて行けるのです。そして、神を信頼して耐え忍ぶものには、やがて現される完全な神の国が保証されているのです(マタイ10:22、24:13)。今のこの世界で神の国を体験している者は、完全な神の国の出現という輝く希望を持って、喜びに満ちて生きて生けるのです(ローマ8:18、35−39)。 「み国を来たらせたまえ」という祈りは、この、やがて打ち立てられる完全な神の国の出現に対する期待と、来たらせて下さる神に対する信仰の告白でもあるのです。テキスト ボックス: トランペット(ラッパ)は、私たちの甦りのときの合図として、高らかに鳴り響くと教えられています。完全な神の国への第一歩です。(Tコリント15:52)

わたしが出会った人

 ベトナム戦争真っ最中の頃。沖縄北部の貧しく小さな村は、常時、数千人の年若いアメリカ人兵士たちで溢れていました。これから、ベトナムの地獄を見に行かなければならない兵士たち、そして、地獄を味わって帰って来た兵士たちはみな、この村にある海兵隊の基地で検疫を受け、最低3日間は過ごさなければならなかったからです。基地の門の外にはけばけばしくネオンが点滅し、千人以上の春を売る女たちが暮らしていました。

 始められてまだ間もない、私たちの教会の夜の集会に、一段とコケティシュに着飾った勤め前の彼女が、最初に出席したとき、わずかながらの出席者はみな目をむいたものです。説教の後、私は牧師としての義務感から話しかけました。じつは、その頃の私は、この種の女性にはすっかり失望していたのです。どんなに涙を流し、新しい人生を始めると約束しても、泥の中に戻る豚のように、みんな元の木阿弥になっていたからです。「10年以上も前、貧しい離島で家族が食べて行けなくなり、百ドルでヤクザに身を売りました。ところが、働けば働くほど借金が増えて、今では5千ドルにもなっています。でも、こんな生活はもう嫌です。何とか、こんな生活から足を洗いたいのです」。他の女性たちとまったく同じように、涙、涙の訴えでした(アメリカの施政権下にあった当時の沖縄では、5千ドルもあれば立派な家が建ったものです。1ドル360円の時代でした)。

 この種の話にいい加減うんざりしていた私は、同情心のかけらもないまま、ただただ牧師の義務として、聖書の教えを正確に伝えました。「神様は愛です。あなたがまっとうな人生に入りたいと願うなら、今までの生活を悔い改めて、神様に赦しを求めなさい。神様は必ず答えてくださいます。あなたの人生を完全に新しく作り変えてくださいます」。次の日の朝早く、祈るためにいつものように階下の会堂に入ろうとすると、迷い込んだ子犬の鳴き声のようもの音が聞こえてきました。のぞいてみると、仕事帰りの彼女がやって来て、ひとりで祈っていたのです。嫌な気持ちになった私は、そっと自分の祈りの場所を変えました。しばらくして覗いてみると、粗末なコンクリートの床は、涙でたっぷりと濡れていたものです。次の日の朝も、その次の日の朝も、私は祈りの場を変えなければなりませんでした。

 一週間が過ぎた夜の集会で、再びその姿を見た私はびっくりしてしまいました。先週とまったく同じ服装なのに、とても同じ女性とは思えないほど、まるで雰囲気が変わっていたのです。説教も早々に、私は話を聞きに行きました。「先週、この教会に来てお祈りしてから、私はすっかり変わってしまいました。私にとって最大の問題は、お金ではありませんでした。長い間このような生活をしていますと、男無しの暮しは1日だってできなくなってしまいます。じつは数年前に、小舟を雇って奄美大島を回り、本土まで密航したことがありました(当時、本土に渡るにはパスポートとビサが必要でした)。自分の人生をまったく新しくやり直そうと思ったからです。でも、できませんでした。男の肌が恋しくて、結局、同じ仕事に逆戻りしてしまいました。そしてヤクザに見つかり、また密航で連れ戻されたのです。でも、先週から、私は変わってしまいました。仕事のことですから、毎晩客を取らなければなりませんが、もう前のように、その気が起こらなくなってしまったのです。全然違うのです。この、一番大きな問題を解決して下さった神様は、必ず、借金の問題もヤクザの問題も、解決してくださいます。ご指導を有難うございます。有難うございます」。私は、「その通りです。その通りです。神様はすべての問題を解決してくださいます」と言う他はありませんでした。そしてその通り、数ヶ月のうちに神は、借金の問題もヤクザの問題もすべて取り除き、まったく解放して新しい女性に作り変えてくださいました。もちろん紆余曲折もありました。しかし神に頼った彼女は、「神の支配」「神の国」を体験したのです。

 そしてこの出来事が、牧師としての私の信仰と、人間に対する私の態度を変えさせました。私も、今のこの世における神の国を、信じることができるようになりました。どのような人を見ても、神様に変えられないことは無いと、思えるようになりました、彼女は今、幸せな妻、幸せな母として、美しく生きています。あるいは、幸せなお婆ちゃんになっているでしょうか。

お勧め

 あなたは、神の国を体験していますか。今、悪魔の支配を打ち破って、幸せな生活をしていますか。未来の神の国に対する希望を持っていますか。あなたも是非神の国に入って、あなた自身の生活の中で神の支配を体験して下さい。

神の国の大河ドラマ 問題集

※※※※ テキストを充分勉強しましたか。ではこれから、問題に挑戦してみてください。これは試験ではありません。より良く学ぶことができるための、ひとつの方法です。できなかったところは、もう一度テキストを読んで、確認しておきましょう。

1.神の国はどこから始まりましたか。(T)  

2.天地創造で、神は何を表現なさいましたか。(T.A)

3.人間が神に似せて作られたとは、どういう意味ですか。(T.B)

4.人間はどのようなときに、生きる喜びと平安、満足と充実を味わうことができますか。(T.C)

5.神は、なぜ罪を犯す人間をお造りになったのですか。(T.D)

6.人間を取り巻くあらゆる問題は、どこから始まりましたか。(T.E)

7.罪の根本は何ですか。(U)

8.罪を犯した人間に対する、神の聖さの反応は何でしたか。(U)

9.人間が神との交わりを失ってしまったことにより、どんな結果が現れましたか。(U.A)

10.豊かな自然が荒々しいものになってしまったのはなぜですか。(U.A)

11.神との交わりを失って、何によっても心を満たせない人間の状態を、聖書は何と定義していますか。(U.B)

12.人間が道徳的に無力・無感覚になったのはどうしてですか。(U.C)

13.世の中にはどうしてたくさんの宗教があるのですか。(U.D)

14.神の支配から追放された人間は、誰の支配に入れられましたか。(U.E)               

15.悪魔の国に生きている人間に、神が与えてくださった大きな望みとは何ですか。(V)

16.神が与えてくださった大きな約束の内容には、どんな事が含まれていましたか。 (V.A)

17.人間は、神の約束をどのように誤解しましたか。(V.B)

18.キリストの出現は、人々にどんな期待を持たせましたか。(W.A)

19.どうして、人々はキリストに失望したのですか。(W.B)

20.キリストの死は、神の国に対する絶望をもたらしましたが、神の国の正しい理解を可能にしたのは何ですか。(W.D)                

21.キリストがお教えになった神の国とは、どのようなものでしたか。(X.A.B)

22.「神の国は私たちのただ中にある」とは、どういう意味ですか。(X.A)

23.未来の神の国とはどういう意味ですか。(X.B)

24.未来の神の国に入ると、どのようなことが起こりますか。(X.B)

25.私たちのただ中にある霊的神の国と、未来の神の国とは異なった神の国ですか。

26.現在の霊的神の国では、どうしてまだ問題や苦しみがあるのですか。(X.B)

27.現在の霊的神の国に生きている者にとっての、輝く希望とは何ですか。(X.C)

28.あなたは、今、輝く希望を持っていますか。

Copyright © 2007 Masaaki Sasaki All right reserved.