和を創造する宣教

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和を創造する宣教

 私たちは誤って、福音の排他的な面ばかりを強調してきたきらいがあります。和の日本では、排他性の強いキリスト教は、まず社会的排斥という制裁を受けます。日本社会で受け入れられるのは、包容力のあるものです。福音は本来、排他性よりも包容力を強く持っているものです。この包容力で、和を補強し、昇華し、創造していくような宣教はできないものでしょうか。それが、日本の宣教に大きな変化をもたらすと確信するからです。個人主義的な福音理解から、共同体的な福音理解への勧めでもあります。いくつかの例を考えてみましょう。

1.家族

 現在のキリスト教は、家族を過小評価しています。現在のキリスト教の発祥地アメリカでは、家族が崩壊しつつあります。しかし聖書の教えによると、家族は最も大切なものであり、社会の基本的な構成単位だとされています。日本の家族もアメリカ化していますが、まだまだ家族制度が残っています。とはいえ、一般の日本人は、アメリカ化がさらに進んで、家族消滅、家族崩壊に至るのではないかと心配しています。私たちの伝道方法は、どちらかというと家族の崩壊を助長しているような面があるのではないでしょうか。

 私たちの宣教は、家族を大切にし、家族を守り、家族の絆を強めるような宣教であるべきです。教会では、家族が強調され、家族を中心にした活動が計画され、家族が破壊されるような要素は徹底して取り除かれるべきです。

 またイエと家のつながりという拡大した家族感覚にも、しっかりした聖書的理解をもつべきです。聖書はそのような大家族を決して否定したり、罪悪視したりしていません。私たちもイエと家を許容し、むやみに敵視したり破壊したりするのではなく、むしろそれを補佐していくことを考えるべきです。例えば、仏壇を破壊したり、焼却する行為は、法的所有者という観点を超え、イエと家に対する挑戦であり、日本文化への憎悪であり、和を破壊する罪なのです。このような行為に対しては、仏教徒でなくても怒るはずです。仏壇は偶像のシンボルではなく、日本的家族制度のシンボルなのです。そのシンボルを平和的な交渉で取り除くことができたとしても、それに代わる積極的なシンボルを創造する必要があります。

 さらに私たちは、死者についての考え方、死者にまつわる行事についての考えを、しっかりと聖書的に理解し、イエと家の文化にどう対処すべきか心得ておく必要があります。例えば、死者に対して語りかけるという行為、死者を祭るという行為そのものが果たして偶像礼拝になるのか、あるいは偶像礼拝に発展する可能性があるものとして禁止するべきなのか? 日本では、死者を偶像として礼拝するのは例外的であり、多くの場合、死者に対する素朴な敬愛に過ぎません。例えば、教会にはびこっている繁栄の福音という富の偶像の方が、よほど恐ろしい偶像ではないでしょうか。

 ともあれ、日本の宣教を真剣に想うならば、信仰のあり方が家族の絆を傷つけ、破錠させるものではなく、かえって強め、造り上げるものであることを人々に理解され認識されることが肝要です。

2.地域社会

 昔から日本の地域社会は、氏神や産土神などの観念によって結ばれてきました。住民は地域の神の子孫なので、1つだというわけです。何もしなくても、その地域に生まれるだけで、氏子として受け入れられるという有難い考え方です。よそ者に対する排他性を除いては、すばらしい観念です。どうしてキリスト教は、このような素晴らしい伝統を糾弾するのでしょうか。もちろん、氏神は真の神ではありません。しかし、真の神を知らない者が、「何ものか、おわしますかは知らねども」という怖れを持って敬い、「何ものか知らぬ」神にあって私たちは1つだと感謝しているのです。これは、聖書の教えに非常に良く似ています。すぐにでも、これを利用して、真の神について伝道することができます。お神輿を担いで、肉体的な発散を共同体感覚の表現と形成に利用しているところなど、クリスチャンにはありがた迷惑ですが、なかなか神道も大したものです。

 私たちは、地域社会を悪魔の支配する世として拒絶し、弾劾し、憎むように教えられてきたような気がします。しかし地域社会とは、人々に他なりません。私たちは、人々を愛するように教えられています。クリスチャンの戦いは、血肉に対するものではありません。主がインマヌエルとなってくださったように、私たちもインマヌエルの大使として、人々と共に生きる者でなければなりません。地域の住民と、多くの行事、多くの時、多くの場、多くの慣習を共有し、共に痛み、共に楽しむことがあって、初めて本物のインマヌエルの代理人となれるのです。

 地域の会合や助け合いには、先頭を切って参加すべきではないでしょうか。葬式には悲しみを持って参列し、焼香もした方がよいでしょう。田舎ならば、鎮守の祭りや氏神の祭りにもこぞって参加すべきです。幸い日本では、タルシシュ行きの船のように、「誰を礼拝するか」ということを問題にしません。礼拝するかどうかが、問題にされるのです。礼拝の対象がおぼろげなので、礼拝する態度が問われるのです。鎮守の祭りで、「私はある」とおっしゃる方を礼拝しても、誰も文句は言いません。私たちも祭りに参加し、一体感を養いながら、誰を礼拝しているのかということも、時間をかけて注意深く示していくべきではないでしょうか。クリスチャンであるということが、地域の融和の妨げにならないばかりか、かえって積極的な力となり、地域の和に貢献していけるように、従来の短絡的な態度を改め、異教、偶像、異教徒、異教社会に対する接し方を、聖書からしっかりと学んでいきたいものです。

 和の日本社会では、社会がキリスト教を自分たちにとって有益であると認めてこそ、初めてよい宣教が可能になるのです。和の存続、和の強化、和の創造こそが、有益と認められるのです。

3.教会

 残念ながら、私たちが教えられてきた教会は、聖書が教えている教会とは違ったものです。教会は、たんなる個人の集合、団体と成り下がってしまいました。気に入ったなら加入すればよいし、嫌いになったら電話一本かける煩わしさもなく黙って抜けることができます。現在の教会の多くは、救われた者が天国行きの列車を待っている待合室のようなもので、待合室自体は積極的価値を持っていません。偶然そこで一緒に列車を待つようになったに過ぎず、いやなら別の場所で待っても良いのです。あるいは、現在の教会の多くは、劇場のような場所で、内装を整え、エアコンを効かせ、美しい音楽と、楽しくて有益な講話があります。大切なのは、入場者数と売り上げです。あるいは、ガソリンスタンドのような場所です。一週間、仕事でエネルギーを使い果たし、ガソリンの補給にやって来る者が、たまたま顔を合わせる場所です。

 聖書の教える教会は、生まれたら必ず氏子になるように、新生したら必ずバプタイズされる教会です。個人の自由意志はありません。クリスチャンは、教会の中に生まれ、教会の中に生きるのです。教会は運命共同体です。キリストは、この教会を建てるために、この世に来られました。キリストは、救われた人々がそれぞれ個人として自分の道だけを歩むことを望みませんでした。むしろ1つの共同体を形成して共に生きるように定められたのです。キリストは、共同体に新しい掟を与えました。「自分を愛するように隣人を愛する」という古い掟に対して、「キリストが愛してくださったように互いに愛し合う」という掟です。

 この新しい掟を、キリストの共同体、つまり教会の原則であると理解している牧師・信徒がどれだけいるでしょうか。むしろ、古い掟を現代ヒューマニズムと混合して、人々の歓心を買おうとしているのではないでしょうか。自分のように隣人を愛することは、たしかに全ての律法の基礎です。しかし、キリストの弟子においては、古い掟より崇高な「キリストが愛してくださったように互いに愛する」という掟が、先行するのです。私たちの教会では、はたしてこの掟を実行しているでしょうか。愛が、抽象的な言葉や感情の流れや飾りとしてではなく、毎日の信徒の生活の中で実行・実践されているでしょうか。教会の活動のプログラムが、この相互愛の実践に相応しく準備されているでしょうか。

 現在の教会の多くは、聖書的モデルではなく、西洋中世の教会の名残を抱え込んでいる教会です。召された者たちによる愛の共同体としての教会を追求しようとしても、組織、構造、活動、プログラムが妨げになるのです。日曜礼拝中心の教会のあり方や説教中心の集会のあり方を疑問視しなければなりません。私たちは、教会の共同体的性格をもっと明確にし、共同体としての生き方と活動を創設していくべきです。日曜日以外の日々に、会堂以外の場所で、信徒の動員によって、聖書的な愛の活動を中心にした教会にしたいものです。説教と賛美歌中心の活動ではなく。

 教会にこそ、日本人が求めていた和の究極の姿が実現されるべきなのです。教会こそ、終末的なシャロームの先取りとして、和を経験すべき神の共同体なのですから。

 もし教会が、日本の和の文化を、外国人宣教師の懐疑の色眼鏡で見たり、無視したり、挑戦したりせずに、基本的に美しいものとして承認し、それを補強し、改善し、創造していく態度で向かうなら、日本人のキリスト教に対する態度も変わるはずです。残念ながら、ここ150年近くは、排他的キリスト教が優勢でした。キリスト教は排他的だという認識が、一般的になっています。その認識を変えていくのは容易ではありません。しかし、変えていかねばなりません。個人的レベルでは、キリスト教の良さが認められているのですから、社会的レベルでの障害がなくなれば、宣教は大いに進展するはずです。
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