慣習の再点検と教会の偶像

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  慣習の再点検と教会の偶像


1.宗教的行事・慣習の再点検

 もし日本的な宗教的色彩を帯びた「和」に対する、クリスチャンたちの高飛車な西欧個人主義的信仰態度、あるいは異教に対する非寛容な態度が福音宣教の妨げになっているとしたら、もう1度異教的行事と慣習について考察し、自分たちの態度を反省する必要があります。1つ1つの問題をここにあり扱うことはできませんが、少々乱暴な言い方をすると、自分が所属する共同体が行う行事には、犯罪でない限り、できるだけ参加するのが良いでしょう。異教的行事に参加しないようにと教えられているクリスチャンは多いようですが、異教的行事に参加してはならないという聖書の戒律はありませんし、参加すると汚れるという教えもありません。何を基準に異教的とするかも単純ではありません。日本古来の伝統行事で、まったく宗教色のないものは少ないのですから、宗教的行事には参加しないということを徹底すると、日本で共同体生活をすることはできません。地域で生きることができなくなります。結果として、伝道も証しもできません。たとえば、学校でも取り入れている剣道、柔道、求道、茶道、華道、相撲など、すべて宗教的背景を持っているのです。

 特に大切にして参加すべき行事に葬儀があります。葬儀は、仏式だろうが何であろうが、謹んで参列するのが「人の道」であり、インマヌエルとして人と共に生き、人の苦しみを味わってくださったキリストの代理、大使、身体として生きる教会のとるべき道です。人々の痛みと悲しみを共にするのです。キリストを信じないで死んだものは地獄行きだと、審判者の態度でいるのは間違っています。死者の死を最も悲しんでおられるのは、キリスト御自身です。クリスチャンは、死者の親兄弟よりも、大きな痛みを持つべきです。

 日本社会で葬儀に参加しないということは、社会通念から云うと、最大の罪、最大の躓きです。日本には昔、村八分という習慣がありました。制裁を受けた者は、共同体の交わりに入れないという厳しいものでした。しかし、その掟でさえ、火事と葬式は例外だったのです。葬儀に参列しないということは、交際を拒否すること、村八分以上の制裁を課すという宣言なのです。仏教的な死者への語りかけ、追悼、供養、焼香などが、しばしば問題として取り上げられ、だから参列してはならないと言われていますが、はたしてそれらの慣習が本当に反聖書的で、神の裁きを招くほどのものなのか吟味しなおす必要があります。「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」という態度は、今すぐにでも改めるべきです。

 たぶん私たちはナアマン将軍のように、表柔内剛の態度をとるべきなのかもしれません。あるいはダニエルと3人の友人のようなしたたかな賢さ、パウロのように異教の観念を手がかりにして伝道する抜け目なさが必要なのかもしれません。

2.教会の中の偶像

 神の偶像禁止の命令は、契約の民に対するものであって、異邦人に対するものではありませんでした。教会は現在の契約の民であり、神の救いの力を体験した共同体です。ですから、かつては私たちは異邦人として、神の約束には縁のない者でしたが、いまや約束の共同の相続人とされたのです。したがって、偶像礼拝禁止の命令は、教会に与えられたものでした。はたして、教会では偶像礼拝が行われていないのでしょうか。欧米型のキリスト教には、偶像礼拝が紛れ込んでいないでしょうか。

 キリストは富を偶像視しています。パウロは貪欲が偶像だと主張しています。新約聖書では、異教の神像だけでなく、神に対するように仕え、敬い、慕い、愛するものが偶像であると教えているのです。そうすると、現在のアメリカ型のキリスト教、資本主義と仲良く手をつないだキリスト教、物質主義的、商業主義的、快楽主義的キリスト教、積極思考や繁栄の福音、教会成長一辺倒のキリスト教は、まさに偶像そのものです。

 あるいはショービジネス的キリスト教、説教者の名前が映画やテレビのアイドルのように宣伝されるキリスト教、牧師の満足感や名誉欲を煽る高価な会堂、金で買える博士号などは、どれも立派な、堂々とした、押しも押されぬ偶像です。神の代わりに人間を中心に据えたヒューマニズムに迎合している現代キリスト教も偶像です。私たちは、このような偶像を教会から取り除くべきです。しかし神が、教会のこのような偶像に対しても忍耐と寛容を持って見過ごしておられるならば、教会の外の偶像をも忍耐と寛容を持って見過ごしておられるのではないでしょうか。
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