和を聖書的に見直す必要性

Welcome to our homepage


  和を聖書的に見直す必要性


 絶対の神の「絶対」という概念を相対の社会にまで持ち込んでしまう欧米的キリスト教は、善か悪かのキリスト教、白か黒かのキリスト教、妥協知らずのキリスト教、事実を人間関係より優先させるキリスト教です。和らいだ人間関係を重視するあまり、白を黒と言いくるめ、ハイもイイエも曖昧に隠し、人間関係を事実より優先させる日本文化と衝突するのは当たり前です。日本のこのような文化は、確かに非聖書的な側面を持っています。しかし、絶対の観念を人間関係にまで持ち込むことが、はたして聖書的かどうかも考え直す必要があります。

 たしかに、神の聖と義は善悪の絶対の基準です。しかし、人間社会に絶対の善悪は存在しません。人間はどんなに正しく生きようとも、どこかで悪を行ってしまい、どんなに極悪非道に生きようとしても、どこかで善を行ってしまいます。そのような人間同士が集まって、複雑に織り成す社会に生きている人間の行為を、同じ人間が短絡的に善悪の判断をつけることはできません。人間の行為の善悪を最終的に判断して裁くのは神であり、それを表面的な一瞥と自分の文化的先入観で善悪を判断しようとする欧米キリスト教、とくに清教徒的なアメリカ・キリスト教は、物事を判断できる日本人には、はなはだ鼻持ちならないものに違いありません。明治以来このかた、宣教師たちが伝えるキリスト教に魅力を感じ、しばらく求道生活したにもかかわらず、けっきょくキリスト教を捨てた多くの日本人がいますが、その理由の多くはこの点にあるのです。

 キリストは、神が求めるのは犠牲ではなく、憐れみであると教え、その原則に沿って行動しました。キリストは憐れみのゆえに安息日を破り、憐れみのゆえに罪人と食事を共にし、律法と人々の定めを堂々とお破りになったのです。それは人間のために律法があるのであって、律法のために人間があるのではないからです。律法は、人間がよりよい社会を作り、より良い生き方ができるように与えられたのであって、人間の自由を拘束するのが目的ではないのです。

 全ての律法は、「自分を愛するように隣人を愛せよ」という律法に要約される、というのがパウロの教えです。「愛せよ」という最高の掟のために、「盗むな」、「殺すな」という律法があるのです。窃盗、殺人という行為が、愛するという行為に反するから盗んではならないし、殺してはならないのです。愛する、憐れむという積極的な行為のために、盗まない、殺さないという行為のない行為が大切なのであって、盗まない、殺さないということ自体が大切なのではありません。

 したがって、愛するという最高の教えのために盗むということさえありえますし、極端な場合には殺す事だってありえるのです(このあたりは、欧米のキリスト教のほとんどが戦争を容認しているので、そういう議論の中で、これを認めるようです。実際聖書の中には、殺人、盗む、嘘が正当化されている、あるいは容認されている例がずいぶんあります。ただし、人間の間違った判断の可能性のために、殺すなという行為は、最大限の注意を払って避けるべきです)。

 また聖書には、欧米個人主義を正当化できるような具体的事例を見つけることができません。事実、欧米個人主義は、もともと聖書から発したものではなく、むしろギリシャ思想に発端があったと考えられます。それがまた、聖書以外の要因、ルネッサンス、啓蒙思想などを通し再認識され、フランス革命などによって強められたのです。そして、そのような欧米文化に対応するように個人主義的神学が形成されたのです。たしかに、聖書には個人主義の基本となる個人の大切さや平等を論じる根拠があります。しかし、それ以上に、聖書全体にわたって共同体の大切さが繰り返し示されているのを、こうべいの個人主義的キリスト教は見逃してしまっているのです。

 三位一体の神は、愛の神として永遠の昔から存在しておられました。三位の神格の間で愛し合う社会的な神だったのです(神が唯一の神格しか持っていなかったならば、愛の神として存在することはできませんでした。神は三位一体だから、永遠の昔から愛の神であったのです)。人間は、三位一体の神に似た社会的存在として、共同体を形成するように創造されました。だから、共同体のために有益な存在になるよう努力すること、つまり愛することが最も大切なのです。

 日本の共同体社会では、社会全体という名目のために、個人が抑圧され、人権が無視され、弱者が強者の犠牲になることがしばしば起きます。聖書にもそのような例がたくさんあります。そのような問題を認めたうえでも、聖書の教えは共同体を前提としているのです。日本の共同体社会も、多くの欠点と間違い、あるいは非聖書的なことを含みながらも、決して反聖書的ではないのです。

 日本の和は、共同体社会をより良く機能させ、保護し、擁護するための最大の要素なのです。聖書が愛という言葉を使うところを、日本では和というのです。もちろん聖書の愛と日本の和はまったく同じではありません。クリスチャンは、しばしば愛のゆえに和を破壊しなければならないことがあります。キリストが来られたのは、地上に平和をもたらすためではなく、剣を投げ込むためだったのです。一方日本人は、和のために愛を平気で犠牲にしがちです。

 聖書では愛が最も大切です。和は、この愛を具体的に遂行するために一手段であり、また愛の一つの表現です。愛が犠牲にされ、失われ、忘れられた「和」は価値がありません。一方、和を犠牲にした愛はありえます。キリストも、「私は平和を作り出すために来たのではない」と言い、愛のゆえに和を乱しました。愛が犠牲にされ、正義がおろそかにされた和は、罪以外の何ものでもありません。太平洋戦争中の日本には、国体という名の極めて人為的で間違った和がありました。この和が、どれだけ多くの人々を苦しめ、どれほど多くの人々の命を奪うことになったか説明の必要もないほどです。

 しかし、今宣教上の問題として取り上げようとしているのは、西欧キリスト教が愛と正義を高々に振り回しすぎ、本来望ましい日本の和をも打ち壊してしまっているということです。例えば、イエと家という共同体は、西欧個人主義の精神からすると間違っているかもしれませんが、聖書的には十分許容されるべきものです。現在の日本文化では、イエも家もまだまだ大切なものです。大切な機能を果たしています。

 日本に離婚が少ない理由、訴訟が少なく弁護士が不要な理由、カウンセラーという人種が不要な理由、犯罪が少ない理由、そういう理由の最大のものに、イエと家の文化が挙げられるのです。もちろん、イエと家の文化には、大きな欠点と数々の問題があります。しかし、私たちはイエと家を罪悪かのように取り扱う西欧個人主義と結託したキリスト教で、イエも家もなくしてしまおうとするのではなく、イエと家が存在しているうちは、それをより良いものにするべきなのです。

 「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」という聖書の約束は、イエと家の存在を前提にしていわれているのであって、欧米個人主義の影響でイエも家も消滅しかけた文化の中で語られているのではありません。その約束を、本当の意味で自分のものにするには、その前提となるイエと家の文化を取り戻さなければならないのです。

 例えば仏壇を取り払ったり、焼き払ったりするのは、イエと家に対する無理解であり、日本文化への挑戦になるのです。先に述べたように、大多数の日本人にとって、仏壇は信仰の対象ではなく、信仰心の表現でもなく、イエと家のかな目の象徴なのです。クリスチャンたちの多くは、仏壇や位牌を信仰の対象と見たり、先祖崇拝の表現と見たり、はなはだしい場合には偶像と見ています。もっと酷い場合には、悪霊の住家とさえ考えています。悪霊の住家の場合もあるかもしれませんが、悪霊なんてものは、そこらじゅうにいるのです。何も仏壇だけを恐れたり毛嫌いする必要はないでしょう。むしろ教会堂を住家にしている悪霊もいるかもしれないと用心した方が良いでしょう。

 日本人の大多数を占めている統計上の神道的仏教徒は、熱心な神道の信者や仏教徒を、冷ややかに見て、彼らの生活態度や倫理性にはほとんど尊敬を払わない一方で、ことさら邪悪で反社会的な人たちとも考えていません。それは、現在の神道や仏教の多くが芸術や趣味のと同じように、日本的個人主義の範疇を超えずに、社会の機能や習慣に対立したり、邪魔立てしたりしないからです。ところがクリスチャンについては、多くの日本人が、その生活態度や倫理性の高さを認め尊敬しているにもかかわらず、胡散臭い存在として遠ざけています。それは、日本のクリスチャンが、日本的個人主義の枠組みに留まらず、社会に顔を突き出して日本的な習慣、行事、風習にまで、いちゃもんをつけてしまうからです。

 神道的背景を持つ日本人の宗教意識にとって、神という存在は、「何者がおわしまするか知らねども」と云うように、よく分からないもの、曖昧な存在です。しかし、そのありがたさに涙がこぼれるのが日本人の心情です。日本人にとって大切なのは、信心する心、礼拝する行為であって、信心と礼拝の対象ではないのです。「いわしの頭も信心から」とは、言いえて妙なのです。

 このような観念的・情緒的日本人に、徹底した神意識を強調して、礼拝の心を軽視する傾向にある思弁的な欧米キリスト教は相容れないのです。礼拝するという心や行為が、神に似せて創造された人間の当然の姿だとすれば、私たちはそれを認めて受け入れることはできないものでしょうか。わからないまま、知らないままで、敬虔に熱心に心から礼拝を献げている日本人を、知っていながらもあまり敬虔にも熱心にもなっていないクリスチャンが、「知っている」ということを盾にとって、裁いて良いのでしょうか。

 私たちは、日本人の信心の篤さを喜ぶべきです。そして、何者か分からないで拝んでいる人々の信仰の対象を明確にしてあげればよいのです。
  ホームに戻る

Copyright © 2007 Masaaki Sasaki All right reserved.