偶像礼拝は罪か?

Welcome to our homepage


  偶像礼拝は罪か?


  日本での福音宣教の要点は、和を大切にすることです。しかし、すでに書いたように、日本文化は異教のシンクレティズム文化です。私たちの神は、絶対唯一の神であり、徹底して偶像礼拝をお嫌いになる神です。はたして私たちに、和を大切にした宣教ができるでしょうか。
 これに対する答えは、否であり、然りです。私たちの神は、人間に仕える神でも、人間の文化に使える神でもありません。かえって、人間に絶対服従を要求する神です。また最終的には、全ての膝が御前に屈められ、全ての舌が賛美することを要求する神です。そこには、相対の世界の和が入り込む余地はありません。そういう意味では、否です。
 しかし私たちの宣教の過程において、不要な軋轢は避けることができます。とくに本来福音とは関わりのない文化的なものを、福音と取り違えて語ることによって起こる不要な和の混乱、破壊を避けることはできるし、避けることが肝要なのです。

1.偶像礼拝は罪か?

 聖書は明らかに偶像礼拝を罪としています。そこに疑問の余地はありません。しかし偶像礼拝禁止の律法が、誰に対して、どのような状況において与えられたかという点は、ほとんど問題とされたことがありません。

 出エジプト記20:2で初めて明らかにされたこの律法は、そのまま一般化されて、全世界のあらゆる人々に直接適用されるべきではありません。いつも見逃されているのは、その1節前に、この律法の特殊な性質と制限が示されていることです。律法を与えた神は、イスラエルをエジプトの地、奴隷の状態から救い出した神であると自己紹介しています。イスラエルは、すでに数多くの奇跡を体験しました。その結果、彼らは自由の地に立っていたのです。「私はあなたを救い、あなたと特殊な関係に入った神である。あなたを救ったのは、他のどのような神でもなく、私である。だから、私だけを信じ、私だけに仕えなさい。他の神々を拝んではならない。偶像を礼拝してはならない」というわけです。

 旧約聖書は、この神とイスラエルの関係を、しばしば婚姻関係として語っています。「あなたは、今や私と結婚しているのだから、他の男に目を注いではならない」と言うのです。これでわかるように、この律法は、あくまでも神が特別な方法で、特別に自己啓示をし、特別に救出されたイスラエル、いわゆる契約の民だけに適用されるべきであって、神の力を見たことがない、神が自己啓示なさらなかった一般の民族に対して与えられているのではないのです。ここが肝心です。

 もちろん、聖書解釈の原則からして、現在の選びの民であり、神の奇跡の力と救いを体験し、聖書と聖霊により神の確かさを示されているクリスチャンにも、この律法は適用されます。しかし、日本人一般に対して与えられている律法ではありません。そうだとしたら、、一般の日本人を絶滅させねばならなくなります。

2.聖書に見る偶像の取り扱い

 聖書には、偶像破壊と偶像礼拝者の処罰と、偶像礼拝をしなかった英雄の物語がたくさん記録されています。しかし、よく読むと、そこには原則があることに気づきます。偶像破壊は、イスラエル国内か、隣接する民族から、イスラエルに偶像礼拝を持ち込む危険性のある場合だけに限られているのです。イスラエル以外の民族で、イスラエルに偶像を持ち込む危険性もないのに、偶像礼拝をしているという理由だけで神の怒りの対象になり、処罰され、滅ぼされた例はないのです。

 ダニエル、シャデラク、メシャク、アベデネゴの物語は、偶像礼拝のはびこっている異邦の国で、真の礼拝者がどうあるべきかということを教えています。私たちは、彼らがどのような状況でも偶像を礼拝しなかったという英雄的な非妥協的態度を賞賛しますが、彼らが偶像礼拝者の間で、どのように注意深く行動したであろうかということには、ほとんど考えが及びません。彼らはそれぞれ相当地位の高い役人でした。もし彼らが、現在の多くの日本人クリスチャンのように、あるいは日本にいる宣教師のように、偶像礼拝に対してキャンキャンと吠え立てていたとしたら・・・。「やれ、このお祭りは偶像的だ」、「やれ、あの行事は宗教行事だ」、「それには金を出さない」、「あれには顔を出さない」と、地域社会にたてつくような態度をとっていたとすると、はたしてあのような重要な政府のポストに就くことができたでしょうか。

 彼らの原則は、自分は偶像礼拝をしないということでした。しかし、異教文化の中で生きながら、異教の神々を非難したり叱責したりするのではなく、また異教的習慣を拒絶することもしなかったのです。

 異教徒の中で真の神を礼拝しなければならなくなった人物の1人に、ナアマンというシリヤの将軍がいました。シリヤはイスラエルの敵で、ナアマン自身もイスラエルを蹂躙した張本人です。彼はイスラエルの神の力を体験して、イスラエルの神だけを礼拝する決心をします。しかし彼の国は偶像礼拝の国です。彼は王と共に偶像礼拝を続けていました。たとえイスラエルの神が、唯一の真の神であることを知り、この神だけを礼拝しようと決心したとしても、偶像礼拝をすぐ止めるのは、いかに将軍といえども無理な注文でした。そこで彼は、うわべだけは今まで通り、王と共に偶像礼拝に出席しても良いかと、エリシャに尋ねたのです。エリシャは、バアルの予言者400人を殺したエリヤの愛弟子です。基本を捨てて信念を曲げるような軟弱な人物ではありません。しかしその彼が、「心配しないで行きなさい」と言ったと、聖書にあります。この物語も、偶像礼拝の社会の中で、真の神の礼拝者がどのように振舞うことができるかということについて教えています。少なくともナアマンは、あのように振舞う許可を得たのです。

 新約聖書を見ても、異邦人が偶像礼拝をしているというだけで、断罪と処罰の対象にはなっていません。パウロも、異邦人の偶像礼拝を神の怒りと裁きの対象として語っていますが、あくまで一般論として、神学的原則として語っているだけで、偶像礼拝者に面と向かって「偶像礼拝を悔い改めよ」と、声高に命じているのでも、また「命ぜよ」と勧めているのでもないのです。占いの書物が焼かれたり、神殿のミニチュアが売れなくなったりしたのは、あくまで伝道の結果であり、真の神を理解して、福音を受け入れた者の自主的行為であって、そのようにしなさいと教えられたのでも、勧められたのでも、強制されたのでもありません。

 パウロはディアスポラのユダヤ教徒として、偶像社会に育ち、偶像に対しての理解もありました。欧米の宣教師のように、目に見える偶像をあまり見たことがないため、お地蔵さんを見ても、弁天様を見ても、「悪霊の存在を感じて」身の毛がよだつというナイーブさは持っていなかったようです。パウロは、異邦人の使徒であり、偶像礼拝者に対する伝道のプロでした。パウロの伝道の跡をたどっても、偶像礼拝者に対する非難・中傷の類はありません。かえって、それが偶像であっても、「礼拝する」ということを、むしろ人間らしい行為として理解し、伝道に利用しているのです。

3.人間の神意識の問題

 すべての人間が、本能的に神意識を持ち、宗教を持つという事実を、進化論者はどう扱うのか、心理学的にどう説明するのかは知りません。しかし、神が人間を創造された時、人間を自分に似せて創造された事実、霊的存在として、霊である神を知り、神とコミュニケーションできる存在として創造された事実、礼拝なしでは喜びを持つことができない存在として創造された事実は重要です。

 問題は、このような人間の霊的本能による行為が、偶像礼拝の場合、それほど悪なのか、罪なのかということです。偶像礼拝が罪なのは、礼拝の対象が誤っているためであり、礼拝したい意識自体が罪なのではありません。人間の堕落、アブラハムの召し、ヤコブ、ヨセフと続き、出エジプトのモーセまで調べると、エジプト脱出に際して明確な自己啓示を与えるまでの神は、人間の本能的な神礼拝に対して、偶像礼拝であっても寛容な態度を取っていることがわかります。アブラハムに至るまでの人々は、本能的で素朴な神意識で礼拝をしていました。アブラハムにしても、月の神を礼拝していた地域に住みながら、まじめな宗教意識と礼拝態度を神に評価され、神の啓示をいただいたようです。アブラハムの行動には、かなり彼の出身地の異教文化の影響が残っています。

 ヤコブの妻のラケルは、父の家から偶像を盗み出しました。しかし、神の怒りと裁きの対象になっていません。ヨセフは、エジプトの異教の祭司の娘を妻にしました。モーセの妻の家族も異教の祭司でした。神が明確な自己啓示をして、イスラエルと「婚姻関係」を結ぶ以前のことなので、神の寛容が目立ちます。

 現在の日本は偶像の国です。しかし、神が明確に自己啓示をなさったにもかかわらず、偶像礼拝を犯した出エジプト以後のイスラエルのような「偶像国」ではありません。むしろ、神の啓示以前のイスラエル、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフの時代のイスラエル、あるいはそれ以前の部族社会と同じ条件にある国なのです。あるいは、パウロが宣教した異邦の民族と同じ条件にある民族なのです。ですから、パウロのようなアプローチをすることができないものでしょうか。パウロは、異邦の偶像文化の人々の間に存在している神観念を、不完全であり、誤っていても、糾弾したり断罪したりせず、かえって宣教のコミュニケーションの媒体として、上手に利用しました。

 現代のキリスト教宣教は、聖書啓示によらない神意識を、すべて悪、罪として排斥しています。はなして、こういう態度は、聖書的に正しいのでしょうか。神意識は、神に似せて造られた人間の本能です。これを悪、罪とするならば、すべての本能は悪であり罪になります。現代の日本のキリスト教徒は、敬虔な異教徒と交際することが難しくなっています。異教的習慣に接するからです。何となく自分まで偶像に接している気がするためで、それよりは無神論者や無宗教者と交際する方が気楽です。聖書的には異教徒と無宗教者は、どちらが悪いのでしょうか。

 聖書は、「愚かな者は心の中で神はないという」と語っています。自分を超えた存在を認め、「何者かおわしますかは知らねども」畏敬の念で礼拝している方が、神を認めない放縦な人生より、ずっと良いのです。日本の伝道を見ていると、偶像礼拝は罪だから、まず偶像礼拝を止めさせて、無宗教の状態になってから、真の神を信じるように主張しているかのようですが、それは間違っています。まず神の存在を認め、次に正しい神の信仰を持つのです。パウロは、アレオパゴスの異教徒たちに、「今すぐ偶像礼拝を止めなさい。そして正しい神を信じなさい」と説教しませんでした。「あなたがたは熱心に神を礼拝している。しかし知らないで礼拝している。知らないで礼拝している神を教えよう」と説教したのです。

 日本人も神の自然啓示を受けています。被造物を通して、神についてある程度知っているのです。しかし、自然宗教が神の啓示の手段だといっているのではありません。その知識は、不確実・不十分で間違いだらけです。聖書を通して正しい神を知る以外に、原則的に不可能なのです。しかし、自然啓示と宗教的本能によって形成された宗教を、悪と決めつけて排斥することは、どう考えても聖書の教えではないのです。

 もし自然宗教が悪ならば、神という用語でさえも、もとは自然宗教の概念であって、キリスト教徒の間で用いることができなくなります。神という概念があってこそ、正しい神を伝道できるのです。神という概念がないならば、伝道はさらに困難になります。

 パウロは、神が自然宗教、偶像礼拝を「見過ごしておられた」と語っています。そして、パウロの宣教をもって、悔い改めの時代の初めとしています。現在の日本は、パウロの時代のアテネのように、宗教に熱心な人々が溢れています。そして、まだ福音を知らないままです。パウロが宣教したアテネの人々に対するように、神は現在の日本人の宗教を「見過ごしておられる」のではないでしょうか。現在の日本人も、アテネの人々と同じように悔い改めを必要としています。しかし、その悔い改めは、パウロのような自然宗教に対する深い理解と、明確な福音の提示を前提にしているのです。めったやたらに断罪と嘲笑を繰り返し、所有者の同意もないまま偶像を破壊し焼却してしまう伝道ではありません(仏壇、神棚の所有者は、法的な所有者に留まりません。社会通念として親族全員、地域社会全員が所有者です)。
ホームに戻る

Copyright © 2007 Masaaki Sasaki All right reserved.