だいぶ怪しいげな
ペンテコステ信仰

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     だいぶ怪しげなペンテコステ信仰


T ペンテコステ信仰の怪しげなスタート


 どのような国家でも、あるいは都市や村落でも、自分たちの歴史は美化して語る。宗教では、さらにそれが著しい。私たちペンテコステ信仰を持つものもまた、自分たちの「美しい」信仰のルーツを教えられて育った。しかし多くの場合、物事は美しい側と醜い側とで成り立っている。ペンテコステ信仰も例外ではない。

A ペンテコステ信仰の発生源

 ペンテコステ信仰は、聖霊と聖霊の働きを強調する、ホーリネス運動の一端として発生した。ホーリネスの人々は、聖霊による聖めの体験を、第二の恵みとして独自の神学を発展させた。つまり、きよめを単に段階的なものに終わらせず、聖霊による「瞬間的なまったき聖め」と言うものがあることを主張し、それを体験することがクリスチャン信仰に欠かせないと強調したのである。彼らの中のあるものたちは、その瞬間的聖めの体験を「聖霊のバプテスマ」と呼んだ。

 いまも活動しておられる聖霊が、聖めを達成させて下さるというのは、正しい聖書理解に立った信仰である。聖めは確かに聖霊のお働きである。

 また、聖霊のバプテスマと聖めには、なんらかの関係があるということも、新約聖書全般の教えから推測できるであろう。しかしその聖めの体験が、聖書が記録するペンテコステの体験であると主張することは、論理的に無理である。彼らの、聖めを求める真摯な信仰を軽んじるのでも、彼らが聖霊のバプテスマと呼んだその霊的体験が、多くの場合、正真の聖霊体験であったことを否定するものでもない。しかし瞬間的まったき聖めという体験は、あくまでも、本人が聖められたと感じるだけの、なんら客観性を伴わない、まったく主観的な体験である。

 一方、聖霊のバプテスマは客観性を伴う出来事であった。ペンテコステの日の聖霊のバプテスマにも、他の3つの聖霊のバプテスマの記述にも、それが聖霊のバプテスマであると、周囲のものが判断することが出来る、客観的なできごとが付随した。聖書に残された合計4つの実例のうち、ペンテコステの日の聖霊のバプテスマ、コルネリオの家での聖霊のバプテスマ、さらにエペソの弟子への聖霊のバプテスマには、明らかに異言が伴い、もうひとつのサマリヤの場合も、異言が伴ったと推定するのがもっとも自然な現象が伴った。さらにコルネリオの家の例では、異言が聖霊のバプテスマが与えられた証拠として機能しただけではなく、それは、間違いなく救いの事実を示すものと判断された。そしてこの判断は、ペテロとその同行者だけにではなく、エルサレムの使徒たちや長老たちを含めて、弟子たちすべての見解であった。

 使徒の働きの4つの例のうち、サマリヤの場合では、ペテロとヨハネの二人が、聖霊のバプテスマは、救われたものすべてが受けるべきものと考えていた事実ガ、明白である。エペソの弟子たちの場合では、パウロが同じように考えていたのが明白である。そして、その実例を記録したルカのみか、それを読んだであろう当時の人々が、それを当然と考えていたと判断できる。

 聖霊のバプテスマは、バプテスマのヨハネが予言しただけではなく、主イエスが「求めるものには必ず与えられる」と約束してくださったものであり、(ルカ11:13)また父からの約束でもあった。(使徒1:4)弟子たちはみな、それらのことをよく理解していたに違いない。そしてペテロは、この約束が時代と場所を越えて、すべてのクリスチャンに与えられていると語っている(使徒2:39)。

 ところが、瞬間的まったき聖めの体験は、初代教会の歴史に記録されていない。当時多くの人に、広く一般的に体験されていたという記録どころか、ただひとりの体験としても記録されていない。つまり、聖書の中に模範とすべき前例が、まったくないのである。新約聖書のほかの書物も、それについては一言も語っていない。すべてのクリスチャンに勧められるべき一般的体験としても、個人の特異な霊的体験としても、教えても触れてもいない。

 著者はホーリネス系の集会に出たことも、著書を読んだことも僅かしかないが、イザヤの聖めの体験が引用されていた記憶がある。確かに、イザヤの体験はまったき聖めの体験に類似している。しかし、それを瞬間的な、まったき聖めとみなすには無理がある。その上、イザヤの体験はあくまでもイザヤの体験であって、他の人間にも広く適応され、みんなが同じ体験をするようにとは、教えられても勧められてもいない。

 またホーリネスの人々の中には、バプテスマのヨハネの預言を引用して、瞬間的聖めの体験が聖霊のバプテスマであると主張する人たちもいる。ヨハネが「聖霊と火のバプテスマ」と語ったのを、「聖霊のバプテスマすなわち火のバプテスマ」と理解し、火は焼き聖めるものであるという連想から、聖霊のバプテスマは聖めのバプテスマであるという考え方を発展させた。この考え方は、私たちペンテコステの信仰を持つ人々の中でさえ、現在でもかなり一般的である。

 だが、ヨハネが預言した聖霊のバプテスマは、同時にまた、火のバプテスマなのではない。この言葉が含まれている文脈、すなわちヨハネの言葉の前後関係を見ると明白であるが、火のバプテスマとは裁きのことであって、聖霊のバプテスマとは別のバプテスマである。聖書の中に、自分たちに都合のいい言葉や言い回しを見つけ出して、それを前後関係から切り離して用いる方法は、いろいろなクリスチャンたちによって頻繁に行われてきたが、明らかに誤った聖書の用い方である。

 そういうわけで、瞬間的なまったき聖めという主観的体験を、たとえそれが正真正銘の聖霊体験であったとしても、教理として公に告白してそれを教え、それを求め、体験するように指導するのは、明らかに誤りである。聖書の土台、礎に上に立っていないのである。

このホーリネス信仰が、ペンテコステ信仰の母体となったのである。ペンテコステ信仰は、ホーリネスの聖書外主観的体験信仰をも、受け継いだ信仰であった。だから私たちペンテコステ信仰は、単に体験主義的なところがあるだけではなく、生まれたときからすでに、主観を大切にして、聖書外体験を容易に受け入れてしまう、素地を持ってきたのである。つまりアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの信仰は、たとえどのように真摯な信仰態度から生まれたものだとしても、聖書の正しい理解から生まれたのでも、正しい聖書解釈によって、聖書に基盤を見出すことが出来る体験から生まれたのでもない。いわば、怪しげなグレーゾーンのクリスチャン信仰体験から、発生したものである。

B どこにも見られる聖書外主観的体験

 しかしこのような聖書外の主観的体験主義は、なにもホーリネス信仰に限ったことではない。敬虔主義や神秘主義の中には、常にそのような要素が多かった。また、聖公会やルーテル教会のように、サクラメンタルな様式を色濃く残している教会のことは良く知らないが、福音派といわれる教会の中にも、そのような一面が強く残っている。

 たとえば、彼らは伝道者や牧師、あるいは宣教師となるためには「召し」が必要であると言い続けている。その召しなるものの体験は、イザヤやエレミヤ、あるいはモーセやパウロの召しを引き合いに出したり、パウロ自身が、自分は使徒として召されたと言っているように、読み取れなくもないところを用いたりして、非常に強調されているが、果たして、それがどのような体験なのか、聖書的に説明されることはない。なぜなら、聖書はそのような召しの存在を、否定こそしてはいないが、それが一般化され、誰にでも適応されるべき事柄としては教えていないからである。

 聖書が、誰にでも適応されるべきものとして語る召し、すなわち一般化されるべきものとして教える召しは、神の国への召し、永遠の命への召しであり、救いと同義語である。特別な職制への召しなどというのは、新約聖書が教えるところではない。しかし福音派のほとんどすべての教会が、このような非聖書的な主観的体験を強調し、一般化して、信徒たちを拘束している。伝道者や牧師になりたい人々、あるいは宣教師になりたいと願っているまじめな人々に、そのような聖書外の体験を強要することによって落胆させている一方、そのような体験がないのに、体験したと平気で言うことができる性格の人々を、伝道者や牧師に仕立て上げ、聖書外の主観敵体験を、むやみに神聖化する傾向を作り上げているのである。私たちに必要なのは、そのような聖書外の体験主義をきっぱりと捨てて、聖書に戻ることである。

 そういうわけで、私たちペンテコステ信仰の発祥が、ホーリネス運動の聖書外主観体験の中にあったことは明白である。しかし、それをいつまでも恥じる必要はない。私たちは組合教会や長老教会が歴史の上で果たした、素晴らしい役割を知っている。メソジスト教会や救世軍の働きのために、神様を賛美する。しかし、これらの教会の発祥を尋ねるならば、妻を追い出し他の女性と結婚したいという、イギリス国王ヘンリー8世の願望から生まれた、イギリス国教会に至ることをも知っている。この国王は結局6人の妻を迎え、少なくてもそのうちの2人を殺した。始めが悪いからといって、最後まで悪いのではない。

C ペンテコステ信仰の体験主義

 そういうわけで、ペンテコステ信仰には当初から強い体験志向があり、聖書の教えを深く調べることよりも、見ること、聞くこと、体感できることに重きが置かれた。癒しや奇跡が重視されたこと自体は間違いではない。しかしそれらが行き過ぎて強調され、誇張され、拡大されて伝えられるようになり、信頼できない報告が次々と出された。異言を語るということに関しても、かなりの作り話があったらしい。アグネス・オズマンが中国語で異言を語ったとか、中国語を書いたとかいう話も、パーハムの創作と見られる。倒れるだとか恍惚状態になる、あるいは夢を見る、み声を聞く、さらに預言をするなどということも、大げさに伝えられた。そのような体験をすることが神の祝福の証拠とされ、そのような体験を伴う働きをすることが、神の権威を受けた偉大な伝道者の印であると考えられた。そのために、無理にでも、つまり人為的に、そのような体験を作り出そうとするものも多かった。

 それにもかかわらず、ペンテコステ信仰の体験主義は、単なる体験主義で終わらなかった。それは、聖書の記述と教えにしっかりとした基盤を見出したことによって、体験を伴う聖書的信仰となったのである。ペンテコステ信仰者が、最も大切な体験として主張する、異言を伴う聖霊のバプテスマという体験は、初代の教会の歴史を記した使徒の働きの中に、充分な前例を読み取ることが可能であるし、それが当時一般のクリスチャンの間に広くいきわたっていたことも、疑いのない事実として読み取ることが出来る。そればかりか、その体験はむしろ、すべてのクリスチャンが求めるべき体験であるということも、ルカが記録したキリストご自身のお言葉で、疑いのない事実と認められる。またバプテスマのヨハネの預言や、パウロが残した異言に関する教えからも、ある程度擁護することが出来るものである。(拙著「聖霊のバプテスマと異言」「聖霊のバプテスマについての考察」参照)

 ペンテコステ信仰の体験が、聖書に基盤を持つ信仰体験であるという点が、非常に大切なのである。それは、単なる主観的体験ではない。あるいは主観的信仰体験だけでもない。正真な聖霊体験であるというだけでもない。聖書に記されている聖霊体験だということだけでもない。むしろ、すべてのクリスチャンに求められるべき、聖霊体験であり、異言という客観的出来事が伴う聖霊体験であると、聖書が明らかに示していることが大切なのである。 

 ところが、私たちペンテコステ信仰を持つものは、ペンテコステ信仰の発祥から今に至るまで、聖書の明確な教えとしての聖霊のバプテスマの体験と、聖書に明確な教えを持たないさまざまな体験とを、区別することが出来ないままでやってきた。自分たちの信仰のあり方に確信を持てず、自信がないために、非難や反対意見には激しく反発したとしても、明確な聖書的基盤に立った説明ができずに、癒しや奇跡、あるいは教会の急速な成長や、自分の信仰体験を持ち出す、体験主義的答えでごまかしてきた。それが、ペンテコステ信仰のトラウマであり、非常に怪しげな体験主義信仰に陥らせてきた、大きな要因である、

 ペンテコステ信仰の極めて初期、揺籃期から現在に至るまで、実にさまざまな体験主義が、この信仰形態を不透明なものにしてきた。主観的な信仰体験が重んじられ、それが神聖視されて行く一方、聖書理解が曖昧だったために、その主観的信仰体験に基づくさまざまな教えや実践が、ほとんど無批判に採り入れられてきた。そのような体験をしたことのない外部のものの批判は、あまり、耳を傾けてもらえなかった。「聖霊体験は、神体験である。それを批判することは聖霊に対する罪である」と考えられ、悪魔呼ばわりされた。実際、ペンテコステ信仰を持つもの同士でさえ、自分の主観的体験やそれを基にした理解を絶対視するあまり、他の考えを持つものを悪魔呼ばわりするのが、かなり一般的であったし、ペンテコステ信仰を持たない福音派の人々が、ペンテコステ信仰を持つものや、その信仰、行動などを悪魔呼ばわりするのも珍しくなかった。まさしく、泥仕合である。

D ペンテコステ信仰の真髄と道徳的脆弱さ

 そのような中でペンテコステ信仰は、現在も聖霊というお姿で私たちと共に生き、ともに働いておられるキリストを強調し続けて来た。イエス・キリストは昨日も今日もとこしえまでも変わることがないというのが、ペンテコステ信仰の旗印である。そしてその信仰の中には、異言を伴う聖霊のバプテスマの体験も、癒しや奇跡、あるいは悪霊の追い出しも含まれていた。新約聖書の中では、奇跡や癒しのみ業は、キリストの神性と神の国の到来の証として機能したが、ペンテコステ信仰の中では、キリストが聖霊を通し、いまも変わりなく働いておられることの証明となった。

 しかしその一方で、癒しや奇跡の悪霊追い出しは、そのような働きをしているものが、聖霊のバプテスマを受けて聖霊の力に溢れている証拠として用いられ、キリストの権威をいただき神の承認を受けている、証明としても用いられて来たという、大きな誤りがあった。

 ペンテコステ信仰の、奇跡的み業に対するこのような誤った理解は、たちまちある種の英雄主義、個人崇拝主義、独善主義、権威主義、誇大宣伝、誇大報告などにつながって行ったりもした。ペンテコステ運動は、極めて初期の段階から、そのような自己顕示欲に振り回された伝道者をたくさん輩出し、多くのクリスチャンたちの心を痛め、一般の人々の揶揄と嘲笑の種となった。

 それは、聖書外体験を大切にする信仰と、無関係ではないと考える。正真の聖書的体験ではない、単なる類似体験には、聖霊が関わっておられない体験も多い。また人為的に作り出された体験には、当然のことながら、本当の聖霊の臨在感が伴わない。結果として神への畏れと敬虔が薄れ、不道徳も蔓延することになった。キリストご自身のお言葉や、黙示録の言葉によっても、大きな奇跡や癒しの働きをするものは、なにも神の働き人だけではなく、偽預言者や偽キリストも、同じことをさらに大がかりにやることがわかる。選民を惑わし、諸国の民を惑わすものも現れるのである。

 さらに、ペンテコステ信仰がホーリネス信仰を継承し、聖い生活を強調したこと自体は誤りではなかったが、瞬間的聖めという聖書外体験を重んじてしまったために、本当に聖霊に信頼して、毎日の生活の中で段階的に聖めを実現して行くことに、弱さをさらけ出す側面があった。また、瞬間的聖めの強調のために、聖霊が毎日の生活の中で働いてくださることに対する信頼が薄れてしまい、自己の鍛錬や修練による清い生活が強調され、パリサイ的な律法主義に陥ることもあった。なにしろ、短期間の訓練しか受けたことのない、素人に毛が生えた程度の指導者が大部分だったのである。あまり厳しいことはいえない。

 一方、ペンテコステ信仰の道徳的脆弱さという問題は、彼らが育った文化背景によっても、もたらされたものである。ペンテコステ信仰は、極めて低い社会階層の人々によって始められ、圧倒的に、そのような階層の人々の間に広まったという事実を、見逃してはならない。単に教育程度が低かったというだけではなく、モラルにおいても、その目指すところ、告白するところこそは高かったが、実践においてはとても弱いという現実を露呈している。先に挙げた問題のほかにも、異性問題、金銭問題を中心に、人種差別、分裂分派などの醜い問題が続発した。ペンテコステ信仰は実にそのような混沌の中で成熟して来たのである。

 感謝なことに、ペンテコステ信仰は、そのような醜い混沌の中に埋没してしまわなかった。それは結局のところ、聖書が誤りの無い神の言葉であり、自分たちの信仰と生活の、唯一絶対の権威ある指針であると認め、神は今も昔と変わりなく働いておられると信じ、その延長としての異言を伴う聖霊のバプテスマを体験するという、ペンテコステの信仰の真髄があったからである。真実の聖霊体験は、神に対する畏れと愛を引き起こし、汚れから遠ざかり、神に喜ばれようという願いを引き起こすのである。

E 健全な聖書理解に立っていることを認識する大切さ

 大切なのは、このペンテコステ信仰の真髄が、健全な聖書理解に立脚しているという点である。それは誰かが意識して、進んだ聖書学や神学の知識を駆使しながらやったことではない。素人的な単純な聖書の理解が、たまたまそこに導いただけかもしれない。しかし、健全な聖書理解に基づいているという重要な事実だけは、しっかりと捉えておかなければならない。なぜならそれは、自分のペンテコステ信仰の中に付随する、不透明なもの、不可解なもの、怪しげなもの、すなわちグレーゾーンの信仰、聖書外体験信仰を明確に判別し、取り除くことが出来るようになるための、重要な一歩だからである。

 私たちアッセンブリーズ・オブ・ゴッドにとって幸いだったのは、交わりの創立当時、ケズィックの流れを汲むものや、バプテスト系の人々が大勢参入してきたことである。彼らとて、決して高度な学問を積んだ人々ではなかったが、ホーリネスの体験主義と、その帰結である第二の恵みの神学を持っていなかったことが、大きく貢献した。このことによって私たちは、ホーリネス系のペンテコステ信仰から離れ、バプテスト系のペンテコステ信仰を持つものとなり、極端な体験主義が和らげられることになったのである。

 一方、ペンテコステの信仰が広がりを見せたとき、ホーリネス信仰を持つ多くの人々がこれを受け入れなかった。クリスチャン・ミッショナリー・アライアンスは、「求めもせず、禁止もせず」という、柔らかな拒絶をした。ペンテコスタル・ナザレンは、ペンテコステ信仰の団体と誤解されるのを嫌い、ペンテコスタルを削除して、ナザレンと改名した。彼らがペンテコステ信仰を拒んだ理由は、正当な聖書の学びによって、聖霊のバプテスマの教理が間違いであると判断したからではなく、ペンテコステ信仰を持った人々の、無秩序な、乱痴気騒ぎに見られる極端な体験主義、道徳的低さという、表面的現象を嫌って、すなわち、あくまでも体験主義的感覚から、そうしたのであると考えられる。

 信仰が初歩の段階にある人々が、体験主義的感覚で信仰を判断することは止むを得ない。キリストが、癒しや奇跡という体験感覚で判断できる事柄をもって、ご自分の働きの神的権威を、認めるようにおっしゃっているとおりである。しかし、いつまでもそのような段階に留まっていてはならないのである。特に信仰の指導者たるものは、しっかりと聖書の教えに立たなければならない。

 私たちアッセンブリーズ・オブ・ゴッドは、いまや単なる体験信仰に依存する必要はない。むしろ、しっかりとした聖書理解に基づく信仰が、私たちの信仰である。そしてその聖書の教えを、私たちはいま、現在も生きて働いておられる聖霊によって体験しているのである。私たちは聖書外体験、グレーゾーンの体験を、ことごとく否定する必要はない。個人のまじめな体験として、それらはあり得るだろう。しかし私たちはそのような体験を、すべてのクリスチャンが体験できるもの、あるいはすべきものとして公に教え、それに立って神学を構築し、教会を建て、伝道を進めることを拒絶するのである。

U 現在も継続している怪しげな信仰

 ペンテコステ信仰は、現在に至るまでグレーゾーンの信仰を許容し、肯定し、実践しながら発展してきた。そこでは、聖書外体験の信仰と実践が、正しい聖書理解に立脚した信仰と実践に混在したまま、増幅してきたのである。それが、モラルの低さにつながり、目も当てられない状況を作り出してきた。私たちが、ペンテコステ信仰の先駆者として教えられてきた人々の多くが、さまざまな道徳的問題、教理的な問題、伝道の手法の問題を抱えた人々であり、清純なキリスト教信仰を愛する、私たち日本の儒教的キリスト教徒からすると、まさに情けない限りである。

 ペンテコステ信仰の、スタート時点での怪しげな信仰形態は、いまも、ペンテコステ信仰の中に脈々と流れていると言える。それは実に多くの人々の批判と非難を受けてきた。しかし残念なことに、すでに述べたように、体験主義者たちの多くは、自らの体験をほとんど絶対化し、外部の者たちの言うことに耳を貸さないで来た。体験主義者たちの側からすると、外部のものは自分たちの体験を共有しない人間、すなわち良くても霊的レベルの低い人間たちであり、自分たちを迫害するものたちであり、悪く言うとまさに悪魔的でしかなかった。反対したり非難したりするものたちの側からしても、ペンテコステの連中は、まじめな聖書的忠告に聞く耳を持たない、悪魔に操られた人々であった。ペンテコステ信仰の発祥の時代とまったく変わらない、実りのない中傷合戦が長い間続けられてきたのである。

 そういうわけで、ここで、ペンテコステ信仰の初期の段階から存在したグレー信仰、すなわち聖書外体験信仰の代表的なものをいくつか取り上げ、少し説明を加えておくことにしよう。そうすることによって、今、私たちの周辺に聖書外体験に基づく信仰や実践が、数多くあることに気づくだけではなく、私たち自身の信仰や実践の中からもそれらを識別し、排除することも出来るだろう。それがペンテコステ信仰を浄化し、シンクレティズムに陥るのを回避させ、正しく継承されていくことにつながるに違いない。

 ペンテコステ信仰が、今のまま強い体験主義的傾向を持ち続け、聖書外体験を見分けることが出来ずに、そのまま容認し、自分たちの信仰と実践として行くならば、ペンテコステ信仰者のかなりの部分が、シンクレティズムの中に埋没し、消滅していくことになるのが、目に見えているからである。実際、ペンテコステ信仰と土着の信仰との癒着は、すでに多くの場所で報告されている。

A 後の雨

 現在、私たちの周囲でもっとも強い影響力を持ち、さまざまな形で奉じられ、実践されている聖書外体験に基づく信仰は、後の雨(レストレーション)の教えである。後の雨がひとつの運動として形をとって現れたのは、1948年のことであるが、その源は遠く、デスペンセーショナルな考え方の中にあると思われる。デスペンセーションの超字義的解釈は根本主義として、一方では、南バプテストなど福音的な教会に強い影響を与えると共に、他方では、モルモン教の考え方やエホバの証人の教義にも、強い影響を及ぼした。それはまた、ホーリネス運動の再臨待望の信仰にも現れている。したがって、1914年に設立されたアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの信仰の中にも、それはごく自然に流れ込んでいる。(ただしアッセンブリーズ・オブ・ゴッドは、非常に緩やかなデスペンセーショナリストである。)

 1910年、ダビデ・ウエスレーという人物が、「後の雨の契約」という本を出版した。そこで強調されたことは、デスペンセーションの流れに乗りながら、デスペンセーションの基本に反したもので、聖書の字義通りの解釈に対する、タイポロジー的解釈や霊的解釈の優位性であり、当時、かなり一般的に流行っていたものである。このような考え方によって、厳格な字義通りのデスペンセーションの歴史理解の上に、極めて自由な聖書解釈を積み重ねることが可能になり、体験主義的信仰の勢いを増すことになったのである。

 設立当時のアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの指導者たちは、このような聖書解釈法を退けたが、一般大衆の中から、その間違いを完全に取り除くことは出来ず、広がりを阻止することもできなかった。本当のところ、聖書学校の初等教育さえ、充分に受けていない伝道者たちが多かった時代、まじめな注意深い読書方法を基本として、聖書言語や時代背景の知識さえ要求される、難しい字義通りの解釈より、タイポロジーや霊的解釈の方がずっと易しく、受け入れられやすかった。また、当時のクリスチャンたちの間で流行となっていた、「新しい真理の発見」も、厳格な聖書の学びによるより、思いつきやひらめきによって、行われるほうがずっと容易だったのである。

 1948年に至って、カナダで聖書学校の校長をしていたジョージ・ハウティンという人物が、所属していたカナダ・ペンテコスタル・アッセンブリーを離脱して、世界中から人々を集める大きなキャンプ集会を開き、後の雨運動を開始した。直接的には、このキャンプ内で彼の兄弟アーネストが按手に関する預言をし、使徒職や預言者職の回復を告げたところから始まった。この運動は40年も前に出版された「後の雨の契約」の、誤った聖書解釈法を大幅に取り入れたもので、特徴を挙げると次のようになる。

@エペソ書4章に記されている5職の回復。特に使徒職と預言者職の回復に重点が置かれた。彼らはこれらの職を通して、聖霊が今日語ろうとしておられることを示すと主張し、彼らによって主張されたこと、あるいは預言されたことは聖書と同等の権威を持つものと考えられた。

Aキリストのみ体である教会の完全な一致。これは、単にすべての教会が理解しあって一致するというものではなく、回復された使徒と預言者による、新たな教会の秩序によってもたらされる一致であり、既成の教会や教団の崩壊を意味していた。

B個人預言の回復。使徒や預言者によってもたらされる個人に対する預言は、実際上聖書以上の権威を持ち、個人の信仰の規約・規範となり、道しるべとなる。

C按手の回復。使徒および預言者の職を始め、さまざまな役職や霊的賜物が按手によって回復され、分与される。

 このような後の雨の誤った教えを憂慮したアメリカ・アッセンブリーズ・オブ・ゴッドは、当時の総書記ロズウエル・フラワーに詳細な調査を委託し、その調査の結果をもとに、1949年の総会で、この運動の教えを誤りであると断定し、支持しないことを正式に決定した。その決定では次の諸点が、聖書的根拠を持たないものとして退けられている。

@按手と預言によって聖霊の賜物を分与したり、賜物が何であるかを明確に語ったり、賜物を授けたり、賜物が間違いなく与えられていると確認したりすることが強調されすぎている点。

A教会が、現在の使徒と預言者という土台の上に築かれていると教えられている点。

B罪の告白は人間に向かって行われるべきであり、それによって赦しと開放が確実にされると教えられている点。

C異言の賜物は、宣教の働きのために実在する言語を語ることができるようになる、特別な能力の付与であると教えられている点。

D個人預言を用いて神の導きといわれるものを強要する点。

E聖書を曲解させる神学的解釈法が実践されている点。

 この後の雨運動自体は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドによって正式に否定されたこともあってか、その後急速に衰えたが、その教えはアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの中にさえ密かに浸透して行った。また、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド以外のさまざまなペンテコステ信仰者の中では、かなりあからさまに実践されて来た。

 もともとアッセンブリーズ・オブ・ゴッドはペンテコステ体験という共同体験を基にした、緩やかな信仰の交わりであり、信仰告白を採択したとは言え、それは信仰告白に反する教えやその実行者たちを厳しく探し出し、追放するような意図ではなく、かえって不確かな信仰を抱いているものに指針を与えようとするものであった。だから、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの交わりの中には、誤った理解や信仰を持つもの、あるいはかなり極端な主張をするものもでさえ、留まっていることが出来たのである。

 またそのようなアッセンブリーズ・オブ・ゴッドは、一般的に、自分たちの交わりの外にいるものにも、極めて寛容であった。つまり、多くの福音派や根本信仰を持つ教会が見せた、拒絶と排斥の態度ではなく、交わりの態度を示してきたのである。またさまざまな間違いや、道徳的失敗を犯した人々とも、直ちに交わりを切る様なことをせずに、回復の時を待ってきた。非常に原理主義的、根本主義的信仰を持っていながら、WCCの人々と会話をしたり、エキュメニカル運動に加わる人を認めたりしてきた。そのような性格によって想定される、あらゆる危険を意識しながらも、聖書の教えに立つという単純で素直な信仰を基礎として、信仰の純粋性を保持してきたのである。これは私たちの偉大な遺産である。

 しかしいま、そのような性格を持っている私たちであるがゆえに、さらに一段と、注意深くなければならない状況が生まれている。それは、この後の雨運動が、気づかれないまま、私たちの中に深く入り込んでいる可能性があるからである。私たちはその事実を知らないでいてはならない。多くの間違った信仰を持っているものを許容するのと、間違いそのものに気づかないまま許容し、自分たちが受け入れて行くのとは異なっている。私たちは、人間を拒絶し排除することには、慎重の上にも慎重でなければならない。毒麦と共に、本物の麦も抜いてしまってはならないからである。しかし、誤りそのものは、厳密に調べだし、排除していかねばならない。

 そういうわけで、ここで改めて後の雨の教えの間違いを、簡単に述べておこう。それはすでに1949年の時点で、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドが正式に発表したものと基本的に同じだが、少しばかり説明が必要である。ただし、ここで著者が聖書の忠実な解釈によって、後の雨の間違いを正したとしても、後の雨の推進者たちには、まったく何の影響も与えないだろう。彼らは、自分たちこそ聖書的だと言い、事実、聖書の引用を数多くおこなう。しかし彼らは、自分たちの特異な主張に関する限り、聖書を自由に、霊的に解釈して行うのであって、聖書の厳密な解釈、あるいは正統な解釈などというものには、興味を示さないのである。したがって、著者は後の雨の提唱者たちのためにこの文章を書いているのではない。私たちの同労者のために、警鐘として書いているのである。

@エペソ書4章11節に記された5つの職を、現代の教会の中に回復しなければならないという主張には、まったく聖書的根拠がない。このことについては、著者はすでにさまざまなところで述べてきた。当時の教会にはそのような働き(職ではない)があったのは事実であろうが、当時のすべての教会に統一されてあったのではない。Iコリント12章28節の働きのリストが、これと異なっていることからも、明らかである。また当時のすべての教会が、このような働きを持たなければならないと、教えられているのでもない。ましてや、時代と場所を越えて、すべての教会がそのような働きを持たなければならないとも、教えられていない。さらにそのような働きを持つならば、教会は成長するとも、持たなければ成長しないとも教えられていない。

 また、当時の教会が、これらの働きを「職」と考えていた形跡はない。「職」というものはもっと後期になって、教会が組織化され、固定化された中で形成されたものである。

 5職の回復の教えは、なんら聖書的根拠を持つものではなく、ペンテコステ信仰の中に流れていた曖昧な聖書理解の伝統による、ひとりの人物の預言によって主張されたものに過ぎない。その預言自体も、予め、キャンプ集会の主催者たちによって、企画されていたものと考えた方がよい。預言という曖昧な権威に立って、使徒職と預言者職の二つの職の権威を高め、それによって、預言自体の権威を高めるという手法である。これは、右足が下に落ちる前に左足を上げ、その左足が下に落ちる前に右足を上げるという動作を繰り返すと、はしごがなくても屋根に上ることができると言うのと、同じである。

 さらに教会は、この回復された使徒と預言者という土台の上に築かれなければならないというのも、まったく聖書の乱用、悪用である。パウロは使徒と預言者という土台の上に建てられなければならないと、これから建てられる教会、あるいは地域教会の、建設の原則を語っているのではなく、すでに存在している普遍的教会が、使徒や預言者が伝えた、キリストを土台として建てられていると語っているのである。(エペソ2:20)パウロは、2000年近くも後の世界の教会が、回復された使徒と預言者の教えと、その権威の上に立てられるべきであるなどと言ったのでは、絶対にない。そのようなことは、まったく想定されていない。

 その上、パウロがここで言う預言者とは、直接神の霊感を受けて語りだす預言者のことを言っているのではなく、そのような預言者をも含めた、より広い意味で、神の言葉を預かってそれを語るもののこと、すなわち、神の言葉をよく学び、神の言葉の知識を蓄え、それを聖霊の感動によって語る人々のことを言っているのである。聖書に書かれている神の言葉と関わりなく、その神の言葉に反するようなことまで含めて、新しい真理を語りだす、預言者の存在を認めているのではない。

 このように聖書的根拠がまったく乏しい、預言者と言われる人々の語った言葉が、聖書と同等の権威を持つものとして受け取られるに至っては、プロテスタントの原則的な神学に反するものであり、決して受け入れられも、見逃しにされもしない。私たちは聖書以外の権威を持たないのである。ところが、そのようにして語られた現代の預言が記録され、集められ、編纂され、出版されて、一部の人々には用いられているという話も聞く。それはすでに、カルト化現象である。たとえ正真正銘の現代の預言者なるものが存在し、正真正銘の啓示を受けて、正真正銘の預言をし、それが誤りなく記録されたとしても、それは、霊感を受けた神の言葉である聖書と同じ権威を持つものではない。聖書が権威ある書物であるのは、単に啓示の書物だからではなく、霊感を受けた書物だからである。(拙著「現代預言運動に関する考察VI」参照)

 使徒という役職は継続されなかったということに関しては、以前に述べたので、ここでは取り扱わない、

A教会一致運動というのには賛否両論がある。一致すべきかすべきでないかということ自体に、異論があるのだから、どだい、無理な理想、空論である。すべての教会が、せめてアッセンブリーズ・オブ・ゴッドのように寛容な立場を取れば、少なくても、キリストを救い主と信じるという大きな点においては、一致できるかもしれない。教会一致などという夢想を抱くのは、千年期後再臨説を採って、教会の働きによってこの世界が改革され、平和と繁栄がもたらせられたならば、キリストは王として再臨してくださるという、楽観的な考えを持てた時代の、時代錯誤を背景にした神学があるからである。

 キリスト教が圧倒的な力を持っていた環境の中で、他の世界、すなわちアジア、アフリカ、ラテンアメリカなどのことをほとんど理解していなかった時代の教会人が、自らの力を過信して、明確なキリストのお言葉に反して構築した、千年期後再臨説を、いまさら持ち出すことはよろしくない。もちろん、千年期後再臨説は今でも有力な学説であり、それなりに整った議論もされている。しかしそれは、伝統的諸教会の人々、つまり自分たちの教会の力と権力を信じることが出来た世界で、科学万能主義、人本主義も盛んであり、地球の将来に望みを持てた時代に構築された、楽観的神学をいまだに抱え込んでいる人々の、淡い望みの学説としか言いようが無い。

 キリストが、終わりときに関しておっしゃったお言葉に、耳を傾けるがいい。「そのとき、人々はあなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなた方はすべての国の人々に憎まれます。また、そのときは、人々がおおぜいつまずき、たがいに裏切り、憎み合います。また、偽預言者が起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります」と、まさに悲観的に語っておられる。狭い門から入るわずかなものだけが、最後まで耐え忍んで救われるのである。

 このような、キリストの明白な教えに反した千年期後再臨説が、教会成長の教えと結びついた。教会が強く大きくなり、世俗の力も獲得し、世界を支配するようになることが、キリストが再臨する道を備えるための、絶対必要条件であるという、千年期後再臨説の主張は、クリスチャンの数を増し、教会の力を強くすることが何より大切だと考え、人数の増大を前面に打ち出す教会成長論の方法論と、簡単に癒着するのである。強烈な千年期前再臨説を取る南バプテスト教会出身の人たちは、このあたりで躓くことになるはずだが、どうなのだろう。

 ともあれ、後の雨の教えは、単純な間違いではなく、大きな間違いを集積して構築した、体系である。非常に聖書的、福音的な外観を持ち、福音的な言葉使いをするために、多くの福音的な人々が、よく理解しないまま彼らと共に活動している。しかし実態は、まったく異なったものである。

 先に挙げたアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの正式な拒絶のリストには挙げられていないが、彼らの終末観のひとつには、キリストの霊的な再臨というものがあり、それによると、キリストは見える形で再臨するのではなく、いま、選ばれた現代の使徒や預言者という人々の中に、霊的な再臨をしているということである。そしてそのような霊的再臨の使徒や預言者は、按手による権威の分配によって益々数を増やす。そういう再臨のキリストを土台とした、新しい教会の秩序が築かれ(古い秩序は壊され)、この世界に神の国が築かれるという。これはどうやら、(Kingdom now=王国は今、支配は今)と呼ばれる、彼らの神学らしい。このような教えは、もはやカルトである。

 注意したいことは、後の雨の主張する教会一致運動が、既存の教会がそれぞれ歩み寄って作り出すエキュメニカルではないという点である。むしろ、そのような既存の教会秩序は崩壊させられ、キリストの霊的再臨である現代の使徒や預言者という、別の土台の上に築かれた教会による、新しい秩序によってもたらされる一致なのである。だから彼らは、既存の教会のさまざまな組織形態を、改革していかなければならない、新しい皮袋が必要だと主張し続けているのである。既存の牧師だとか執事だとかいう役職を取り除き、自分たちが按手によって作り出す、使徒や預言者たちの「再臨のキリストとしての権威」を主張するのに熱心であり、既存の教会の枠を超えた伝道法、たとえばセル・グループなどにも力を入れて、人々をひきつけている。

B個人預言の誤りについてもすでに他の場で述べてきたので、簡単に触れるだけにとどめておこう。まず、一人ひとりの信徒たちが、個人預言に従って行動するようにというのは、聖書の教えではないという点を、再確認しておきたい。新約聖書には、確かに個人預言の例がいくつか記されている。そして、個人預言は消滅したということを、聖書を持って証明することは出来ない。だから、現在でも個人預言はあり得る。しかし、すべての信徒が個人預言を期待して生きるようにという教えも指導も、聖書の中にはない。個人預言に従って生きるようにという教えもない。個人預言によって生きたという神の人の例も、新約聖書にはない。だから、個人預言に従わないことは聖書の教えに反することではなく、神に反逆することでもない。しかし、聖書の教えを学ばず、それをないがしろにし、結果として従わないことは、神に反逆することである。

 新約聖書が完結していなかった、使徒時代、クリスチャンの生き方に対する明確な指導、指針としての新約聖書がなかった時代には、個人預言を含め、預言に対する期待と依存度は、現代に比べはるかに高かった。しかしそのような時代でさえ、一般のクリスチャンが、個人預言を期待しそれによって生きるという信仰形態はなかったし、それが勧められたという形跡もない。これは重要な点である。

 たしかに、使徒時代の教会では、預言が行われていた。しかしそのような預言は記録され、編纂され、広く一般に読まれるようにされたという記述がない。たとえ、仮にそのようなことがされたとしても、それが新約聖書の中に含まれなかったということが重要である。当時、新約聖書のもととなった多くの資料が残されていたが、大部分の預言の言葉は資料として残されず、新約聖書の中に含まれることもなかった。ただキリストに関するわずかな預言が採り入れられただけである。

 ましてや、いまや私たちは完結した新旧約聖書を持ち、神が人間一般に必要であると判断された事柄はすべて、この聖書に記されているのであるから、預言の必要性は非常に小さくなっている。そういうこの時代に、預言が強調されるのは間違っている。その上、現代の預言が記録され、編纂され、出版され、神的権威を持つものとして流布されるなどということは、非常に大きな誤りであり、カルト化しているといわざるをいえない。大切なのは、聖書を書かせてくださった聖霊に、導きを祈りながら聖書を読むことである。 

C按手による賜物の分与という考え方も、まったく非聖書的というわけではない。確かに、パウロがテモテに語った言葉などから、推測することが出来る。しかし、一度や二度の事例を取り上げてあれこれと推測し、そこから教理や信仰の原則、あるいは教会管理や伝道の原則を作り上げてはならないのである。テモテにそのようなことが実際にあったと仮定し、エリシャがエリヤの力を引き継いだという事例も認めたとしても、それを一般化することは出来ないし、原則化することはなおさら不可能である。

 ましてや、使徒たちの按手によって、さまざまな賜物が分与されるという教えは、聖書のどこにもない。後の雨の人々が教えるような、現代の使徒職や預言者職という権威ある職が、按手によって分け与えられ、引き継がれて行くという考えは、少なくても聖書の教えではない。たとえそのようなことが実際起こったとしても、それは聖書の原則でも教えでもなく、あくまでも聖書外の体験である。その聖書外体験を強調することは誤りである。その誤りに立った教会形成を主張するのも誤りである。そのような教会形成によって、たとえ教会が100倍の力を得、1000倍の人数が集まるようになったとしても、誤りであることに変わりはない。

 要するに後の雨の人々は、聖書の字義通りの解釈を捨て、あるいは、本来聖書が言おうとしていることを出来るだけ正確に読み取り、それを現在の状況に適応していく努力を怠り、極めて自由に、自分たちに都合よく、あるときには霊的に、あるときは寓意的に、あるときはタイポロジー的に、そしてあるときは突然字義通りに、文章の前後関係も背景も無視していくところから、自分たちの神学を積み上げてきた。彼らは聖書を用いる。そして、多くの場合、(すべてではない)基本的理解においては、福音的な立場にいる。だから、彼らの聖書外体験主義を見破ることは困難であるし、彼ら自身が、多くの場合、聖書外であることに気づいていないのだから、判断はいよいよ難しい。そして何となくおかしいなと思いながら、それが何であるか分からない私たちも、聖書外体験を後生大事に抱え込んだ信仰を持っているために、見るべきところも見えないでいるのである。

B 第三の波の人々 

 現在、ペンテコステの信仰を標榜するものたちの数が、世界中で圧倒的に増加し、ネオペンテコステと呼ばれる人々も急増する中で、かなりの数の福音派の人々が、ペンテコステ信仰を受け入れ始めたことが、あらたな問題を作り出している。彼らは、普通、第三の波と呼ばれる信仰形態を持つ人々である。本来、厳密な聖書解釈に立つ信仰の持ち主であるべき、これら福音派の人々が、ペンテコステ信仰の怪しげな体験主義的信仰形態を受け入れてしまったばかりか、かえってそれを増幅させていると思われるのである。第三の波の提唱者である、ジョン・ウインバーや、ピーター・ワグナーなどという人々を始め、実に多くの著名な福音主義者が、福音主義的な聖書解釈を捨てて、怪しげな体験主義に陥り、ペンテコステ信仰をますます奇怪なものにしているのである。彼らもまた、初めから単なる体験主義者に過ぎなかったのかと思いたくなるほどである。

 彼らの多くは、それぞれの改革派的な、あるいはバプテスト派的な神学によって、現在も私たちの祈りに応え、奇跡を行い、癒しを行ってくださる神を、信じることができない人々であった。しかし、ペンテコステ的な体験をして、奇跡や癒しを目の当たりにすることによって、その神学を覆されたのである。その体験があまりにも強烈であったために、神学を放棄して、体験に走ったのだろうか。彼らの体験主義は、伝統的なペンテコステ信仰を超えている。これは、日本でも見られる現象である。

 実のところ、この現象には、著者は非常に失望している。第三の波運動が始まった頃、著者は、学問的背景が薄く、神学に弱いペンテコステの信仰も、神学に強い改革派やバプテスト系の人たちが加わることによって、改善されるだろうと期待したのである。素人的な聖書主義から、本物の聖書主義の信仰に変化していくのを、待ち望んでいたのである。それは、今のところまったくの期待はずれ、失望に終わっている。今考え直すと、彼らの聖書主義も、もともと心もとないものだったのだろう。

 ところで、第三の波の人々の特徴のひとつは、彼らの多くが、異言を伴う聖霊のバプテスマを体験していないにもかかわらず、聖霊のバプテスマを受けたと主張していることである。自分たちは異言を語っていない。しかし、自分たちは伝統的なペンテコステの信仰を持つ者たちよりも、むしろ多くの奇跡を行い、癒しを行い、悪霊を追い出している。(もう少し言うと)、教会も成長しているし、伝道も活発に行っている。だから、自分たちこそ聖霊のバプテスマを受けているものであると主張している。これこそまた、体験主義であり、聖書の教えに立脚していない。聖書はそのような業を行うことが、聖霊のバプテスマの証拠とも結果とも言っていないし、神の承認を受け、神の権威を帯びている証拠であるとも語っていない。かえって、そのようなことを行う人々に対しては、イエス様ご自身が、「私はあなたがたを全然知らない不法をなすものども、わたしから離れて行け」とおっしゃる可能性を語っておられるのである。

 だから彼らは、体験に基づく曖昧な解釈を用いてではなく、福音派の人間として、自分たちが受けた正統な聖書解釈の手法を持って、異言の伴わない聖霊のバプテスマというものの存在を、証明しなければならない。また、そのようなバプテスマを、すべての信徒が体験すべきであるという主張を、正統な聖書解釈の方法で立証しなければならない。そしてそれは、けっして出来ないことである。だから、彼らは正統な聖書解釈を捨てて、霊的解釈に走っているのである。事実、第三の波運動の源となったジョン・ウインバーは、合理主義を排し、論理的な考え方を止めて、つまり神学を軽視して、体験に重きを置く考え方を提唱していた。それは、啓蒙主義や合理主義、理神論的な考え方を排して、健全な聖書信仰を主張する論理を飛び越え、聖書を理性的に読み、理論的に考察することさえ放棄する、まったく誤った提唱である。

 最近、勉強不足な著者にも、やっとわかるようになってきたのだが、実は、これら第三の波の人々のほとんどが、後の雨の神学を受け入れているのである。そのことを当人たちが知ってか知らないでかは別として、それは事実としか思えない。それだけでなく、もともとアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの交わりの中から生まれた人たちの中にも、この後の雨の教えに流されて、溺れかけているものがいるようである。

 ジョン・ウインバーは亡くなったが、彼の友人であり後継者でもあるピーター・ワグナーは今、その大きな影響力を駆使して、積極的に後の雨の教えを宣伝している。現在彼が広めている、使徒職と預言者職の回復を始めとするさまざまな教えは、後の雨の教えそのものである。先に挙げた後の雨の4点の主張と、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドが非聖書的として挙げた6点を、改めて読み直してほしい。異言が宣教のための言語であるという主張以外は、みな彼らによって、今も主張され続けているのである。

 しばらく前から大きな話題になっている、トロントの笑いのリバイバルは、ウインバーやワグナーに強いつながりがあったし、その運動の飛び火とも思えるペンサコーラのリバイバルも、同じである。そしてペンサコーラはアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの教会の働きである。これを通して、後の雨の教えはアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの中にも、それと知られないまま広く撒き散らされていった。ワグナーは現在でも、多くのアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの教会に受け入れられ、彼らの中で活発に働きを続けているし、日本でも権威として受け入れられている。

(2000年8月11日、アメリカ・アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの総会は、トロントの笑いのリバイバルの誤りに対する、警鐘の文章を採択している。日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、これを翻訳してすべての教職に配布した。しかし当時の日本の教会は、トロントで起こっている事柄についてはうわさ程度にしか知らず、その内容に至ってはほとんど知らなかったのが実情であった。だからこの文書は、あまり大切にされずに、忘れ去られているのではないかと思う。翻訳を依頼された著者も翻訳しながら、なぜこんなことを言わなければならないのか理解していなかったので、偶然、ファイルの中に英文のオリジナルを見つけ、今はじめて、これを思い出したほどである。だから、後の雨の神学が日本でも広がり、かなりの混乱を巻き起こしている現状を知った今、改めてその翻訳文を探し出して、皆様に配布しようと思っている。)

 ただし、しばらくの間、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの人々の間でも大きな話題になっていた、ペンサコーラのリバイバルといわれる働きは、数年で終焉を迎えた。いろいろな理由があると推測するが、結局のところ、多くのアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの人々の「信仰安全装置」にひっかかり、受け入れられも、承認されもせず、情熱は急激に冷えたということも、大きな理由であろう。

 著者はトロントの笑いのリバイバルや、ペンサコーラのリバイバルといわれているものの、すべてを否定するつもりはない。その働きに参加しているすべての人々の、すべてが悪いというつもりもない。実際、素晴らしい神の祝福がたくさんあったのだろう。しかし、それらのリバイバルといわれているものの中には、聖書に立つ信仰という面からすると、かなり怪しいものが含まれていると言わざるを得ないし、まったくの詐欺師や「オカルト的」な人々も活動しているようにさえ思われる。少なくても、正統な聖書の理解に立つ信仰がないがしろにされ、聖書外体験が強調され、主張され、流布されていることは間違いない。

 しばらく前になるが、著者は預言運動について講演することを依頼され、その中で、後の雨についても触れたが、その影響が現在これほど広く深く及んでいるとは、気づいていなかった。日本の片田舎で、ほとんど他の教会や伝道者たちとの交流を持つ機会のない著者には、諸教会で起こっている問題の深刻さが、理解できなかったのである。また、現在日本の預言運動に大きな影響を与えているのは、ビル・ハモンという人物であるといわれているが、彼は、この後の雨の神学の強力な推進者であり、代表的人物のひとりである。何も知らなかった著者は、このビル・ハモンの著書二冊を拝借して読み、その主張の危険性を見出して指摘しておくだけに止めた。(拙著「現代預言運動に関する考察」)しかし今は、体験信仰をもってこの人物の主張を受け入れている人たちは、後の雨の非常に危険な神学を受け入れていることになるという事実を、しっかりと理解してほしいと考えている。当然ながら、ピーター・ワグナーはこの人物とも親交を持っている。

 ところで今年の初めから、著者のもとにリバイバル新聞というものが、毎週送られてくるようになった。これはこの新聞の編集者に請われて、1年間、私も論説を引き受けることになったからである。実は、この新聞を手に取ったことは、1度か2度しかなかったというのが本当なのだが、編集者が、私が書いたものをウエブサイトで読み、依頼してきたのだ。私は、自分が書いていることが、新聞社の立場と基本的に一致するものであると認めてのことかと、確認した上でお引き受けした。そういうことで一部贈呈となったのだが、それを読んで改めて驚いた。記事の大部分とはいえないかもしれないが、(簡単には確認できないため)非常に多くの部分が、第三の波系の人々やその働きの記事で埋め尽くされている。そこで言われていることの非常に多くの部分が、後の雨の神学に基づくものである。

 新聞はジャーナリスティックな物であり、広く記事を集めなければならない。読者の層というものが、編集のあり方に影響する。この新聞を購読しているクリスチャンの多くが、後の雨の神学に、賛同しているか、少なくてもあまり違和感を持たない人々なのだろう。だからそのような内容の記事が多くならざるを得ない。私が危機感を抱いた理由のひとつがそこにある。ペンテコステ系の人々は、彼らの中に始めから流れている、聖書外体験主義的な血のために、今の流行の中にあるカルト性、あるいはオカルト性に気づいていない。それで考えた。自分が選ばれたのは、たぶん、新聞社の中の聖書信仰を重要視する人たちの、良心が働いたからだろう。私の役割は歯止めか毒消し、あるいは中和剤か。ま、たいしたことは出来ないが、私は正統な聖書理解に立った信仰を、語り続けるだけである。

C その他の非聖書的な主張

 ペンテコステ系の人々は、一般に、積極思考、繁栄の福音、レーマの神学、さらに自己のイメージの確立(カウンセリングで用いられる)さらには、大々的な集会、その中で用いられる洗脳的な手法などに鈍感である。聖書は間違いのない神の言葉であると信じるのはいいが、その読み方、理解の仕方、主張の仕方によっては、嘘っぱちの悪魔の言葉にさえなる。しばしば、「聖書がこう言っているのだから」という議論を聞くが、多くの場合、聖書がそう言っているのではなく、聖書がそういっていると、その人が考えているのに過ぎない。あるいは聖書がそう言っているかのように、語っているだけである。聖書の真理の2〜3%を言い変えるだけで、立派なカルトになる。そしてペンテコステ系の人々は、すでに聖書外体験に慣らされている。グレーゾーンの信仰に弱いのである。その上、基本的に聖書は神の言葉であると教え込まれているために、ちょっとそれらしく聖書の言葉や表現が用いられると、すぐにだまされてしまう。

 「受けるよりは与えるほうが幸いである。だから献金しなさい。神は惜しみなく与えるものに、惜しみなく与えてくださる。」この教え自体は間違いなく聖書の教えである。しかしペンテコステ系の伝道者の多くは、その適応を敢えて誤用している。そして多くのペンテコステ系信徒が騙されている。少しばかり有名になると、ペンテコステ系の伝道者の多くは、この教えを悪用して金集めに精を出し、贅沢な生活に走る。そして贅沢な生活こそ、神の祝福の証拠であると、繁栄の神学を振りかざす。集会に出られない場所にいる人たちには、臆面もなく、祈りの布切れなるものが販売される。その布切れは、伝道者が手を置いて祈ったもので、神の力が宿って万病に効くのだそうだ、10分間祈ったものは黄色で1万円、20分祈ったものは青で2万円。30分祈ったものは赤で3万円という具合で値段によって効き方が違うらしい。使徒の働きに一度だけ記されている出来事を根拠に、金儲けの手段にしている。その伝道者の事務所で働いていた女性に聞くと、伝道者は間違いなく手を置いて祈るそうである。ただし、山のように積まれたすべての布に手を置いて、簡単に祈るだけだということである。

 人間の罪の原点はセックスである。だから、アダムとイブは自分の裸を隠した。したがってその罪は、聖いセックスで聖められなければと、たくさんの女性をだました伝道者だけでなく、たくさんの男性を捕縛した女性伝道者もいる。ペンテコステ系の能力のある伝道者には、セックス・スキャンダルを起こすものが多いと感じるのは、著者だけだろうか。昔から、英雄色を好むといわれ、大きな働きをするものは、一般的に精力も強い。旧約聖書でも明白である。それはまた、彼らが聖霊の力だけではなく、人間的な力によって仕事をしていることの、ひとつの証拠でもある。救いの働きが、聖霊のみ業から、人為的な方法論に変化しているということでもある。

 日本では考えられないかも知れないが、一夫多妻は祝福の印であるという教えをもって、たくさんの妻を持つ伝道者もいる。しかもその行為が聖書によって「きちっと」論証されている。個人的に思うのだが、これは繁栄の神学につながるものだろう。しかしその神学の中では、より聖書的な部分だろう。少なくても、一夫多妻が認められている文化の中で、一夫多妻制度の必要性は、認めなければならないところもある。その一方、アメリカ式の繁栄の福音は、どの文化にあっても偶像礼拝の罪である。

 多くの信徒を集めるのが最重要課題であると、聖書を持って主張し、あらゆる方策を用いて、教会を大きくしようとしている牧師がいる。この世界に神の国を来たらせるためには、出来るだけ多くの信奉者、支持者、賛同者が必要である。その目的のためならば、さまざまな不当な手段、あるいは洗脳に近い策略も正当化される。大伝道集会などで、派手な身なり、大げさなパーフォーマンス、華美なプログラム、大音響の音楽、それに伴う振り付け、さらにサイケデリックな照明、バーチャルリアリティなどが、出来るだけ多くの決心者を得る手段として、正当化される。癒されたり、奇跡を体験したりしたものが捏造され、その数が水増しされ、無料の読み物がほしい人は手を挙げてくださいと呼びかけられて、手を挙げた人々が写真に取られて、決心者の姿として報告されることも、通常の金儲けの手段とされる。幸い日本ではこのようなことはあまり聞かないが、著者は、ペンテコステ系の有名な伝道者たちによって行われる、そのような騙しのテクニックを、しばしば自分の目で見てきた。

 朝起きたら、まずきれいに化粧をして、改めて鏡の前に座り、「・・・・ちゃん。あなたはきれいよ」と鏡の中の自分に語りかけ、自分が大切な存在であることに気づいて、自信をもって、気持ちよく一日を送るようになどというごまかし。このような聖書によらない自己イメージの確立が、あたかも聖書の教えであるかのように装われて、各地で行われている。正しい聖書の理解によると、私たちの価値は自分自身のうちにはない。わたしたちの価値は、価値のないものを愛してくださる、神の愛の中にある。つまり私たちは神に愛されているから、神の愛の対象として価値があるのである。私たちに価値があるなら、価値がある私たちを救うのは、神の恵みではなく、神の当然の義務となる。

 いくつもある可能な解釈の中から、自分に都合のいいひとつの見解を絶対視して、黙示録を用いる方法も危険である。そこからは実にさまざまな、極端で、一方的な主張が生まれてくる。いわく、世界はユダヤ人に支配されている。あれもこれもユダヤ人の陰謀である。あの有名な伝道者も、この名高い牧師も、だれも彼もユダヤ人に操られている。反対に、ユダヤ人の救いのために祈り、ユダヤ人のために働き、自分たちもユダヤ人の一部分であることを知ることこそ、最重要課題であるというのもあれば、ブッシュは反キリストであるとか、666であるとか断定したり、ヨーロッパ連合こそ大淫婦の大バビロンだと言い切ったり、WCCこそ、いや教会一致運動こそそれであると、実にかしましい。それらは、そうかもしれないし、そうでないかも知れない。とても多くの見解があるから、的中する確立は低い。

 これらの主張はみな、聖書の中にわずかに記されている、それらしい言い回しや言葉、表現を独断的に解釈して、それを発展させたものである。グレーゾーンの信仰である。だから、私たちはだまされるのである。多くの場合、だましている人々も、だまされている人々である。もちろん、これらはみなペンテコステ系の信仰に限ったことではない。福音派といわれる人々の中にも、しばしば見受けられる。ただ、ペンテコステ系の人々のなかでは、かなり特徴的に見られるのである、私たちに必要なことは、正しい聖書の読み方から、正しく解釈された教えを基盤に、しっかり立った信仰を持つことである。

 ペンテコステ系の人々の数は、今や、世界で5億をはるかに越えるといわれているが、果たしてその中のどれだけが、本物のクリスチャンなのか、疑いたくもなる。もちろん主催者側の発表は、常に警察側の発表を上回る。だから半分にするか4分の1にして理解しても、大変な数だ。しかし、だれがクリスチャンで誰がクリスチャンでないかという判断は、私たちのすることではないが、正しい福音を伝えて、出来るだけ、本物のクリスチャンを育てるのが、私たちの役目である、

 改めて言い直すが、グレーゾーンの信仰、すなわち聖書外体験を基本にした、あるいは出発点にした信仰は、グレーゾーンの信仰に慣れ、とめどなくグレーゾーンの中に浮遊する信仰になってしまう危険性がある。しかもそのグレーゾーンが「新しい皮袋」などと紹介されると、ますます誘惑されてしまう。

 だからと言って、私たちはさまざまな新しい試みや流れに、目を閉じ、耳をふさいでしまってはならない。多くの新しい試みは、それが良いものであっても悪いものであっても、さまざまな批判や、非難、中傷や、流言飛語がつき物である。だからこそ、見分ける能力が必要なのである。そしてまた見分けたからと言って、たらいの水と共に赤ちゃんをも捨ててしまってもならない。

 確かに、いま、第三の波の人々が持ち込む方法論は斬新で、魅力的なところがある。それらに対して後ろ向きになってばかりいてはならない。学ぶべきところはたくさんある。教会も、大きくなるのにこしたことはなく、たくさん救われることに、反対を唱えるものでもない。とはいえ、教会を大きくするのは、聖書の命令ではない。たくさん救われるようにというのも、神の悲願ではあっても、たくさん救いに導けという命令が、私たちに与えられているわけではない。たくさん救いに導いているものが、より良い神の器だという聖書の教えもない。

 アメリカ流のプラグマティズムに陥ってはならない。彼らの勝利主義に乗ってはならない。教会を、資本主義の企業のように考えてもならないし、ねずみ講のように理解してもならない。方法論で命に至る門の大きさが変わるのだろうか。初めから命に至る門は狭く、その道は細いと決まっているのだ。そしてそこから入って行くものは少ない。現在のペンテコステ信仰の世界的拡大を見ると、どうしてもイエス様のこのお言葉との矛盾が、気になって仕方がない。

 たくさんの人々が教会に連なり、あらゆる意味で教会の力が強くなり、世界を支配するようになったならば、キリストが王として再臨するのであるという考え方は、私たちのものではない。それが間違っているということは、すでに述べた。そのような見解を持っている人々と、一緒には働けないというわけではないが、目標を共有することは出来ない。

 ペンテコステ信仰の躍進は喜ぶべきである。しかし喜んでばかりはおれない。同時に、怪しいものを感じて、注視して行かなければならない。時代の潮流に乗り遅れないようにと、あせってはならない。潮流が黒潮か親潮か見分けねばならない。どこに流れていくのか確認しなければならない。下手をすると、とんでもない方向に流されてしまう。著者は登り電車に乗るはずだったのに、ドアが閉じそうになっている下り電車を見て、あわてて乗ってしまったことがある。

 いま、ニュースで面白い話が紹介されている。タイの南部のマレーシア語を話す地域の50代の女性が、買い物に行った帰りに、間違ってバンコク行きのバスに乗ってしまった。途中で気がついたが、言葉が分からないために終点まで行き、そこから戻ろうとしたのだが、またも行き先を間違い、北部のチェンマイに着いてしまった。言葉が分からないためにそこで5年間乞食をし、その後、施設に入れられて、合計25年も行方不明となっていたそうである。

 何度でもくり返そう、ペンテコステ信仰は正しい聖書の理解に立った、確実な信仰である。私たちはその事実を、改めて聖書を学びなおして、確認しなければならない。それを改めて確認しなおして、はじめて、自分の信仰に信仰体験だけによるのではない、聖書的な確信を持てるのである。そうすることによって、正しい聖書の理解に立っていないグレーゾーンの信仰、正しい聖書理解に基盤を置いていない、体験信仰の流れには、乗らないようにしなければならない。

 そこで、私たちが信じ、受け入れ、みんが体験すべきものとして、公に教えられなければならないものと、そうでないものとを見分けるために、簡単な方法を示しておきたいと思う。

@それは間違いなく、聖書の記述のなかに、実例を見出せるものか。

Aそれは間違いなく、聖書で教えられているか。

Bそれは、くり返して聖書に記されているか。

Cそれは、間違いなく使徒時代の教会全体に認められ、受け入れられていたか。

Dそれは普遍的なものであると、すなわち時と場所を越えて、すべてのクリスチャンに適応され勧められるべきものであると、聖書によって明確に証明できるか。

 これらのテストをするならば、瞬間的聖めのバプテスマ、解き明かしを伴った異言による預言、職への召し、異言の伴わない聖霊のバプテスマ、現代の使徒と預言者の回復、彼らの権威、預言の権威、現代の使徒と預言者の上に建てられる教会、倒れること、倒すこと、笑うことや泣くこと、恍惚となることなどの肉体的精神的反応、さらに実に多くのことが、どれかの項目、あるいはすべての項目にひっかかり、私たちの信仰体験として一般化し、教理としたり、信仰や実践の大切な部分としたりしてはならないことが、よくわかるはずである。

V 間違いを持った人々との付き合い

 では、グレーゾーンの信仰の流れに乗っている人々とは、どのようなお付き合いをしたらよいのだろうか。そのような信仰を持った人と付き合わないとなると、実際上、自分自身をも含めて、すべてのクリスチャンとのお付き合いを拒否しなければならなくなる。だからと言って付き合い始めると、とんでもない信仰と実践をしている人たちとまで、行動を共にすることになる。限度が必要になる。

 人間は複雑である。一人の人間でも、良いところと悪いところ、正しい教えと誤った教えを併せ持っている。だから、ある面においてはとんでもない非聖書的な理解をもち、へんてこりんな神学を振り回している人物が、他のところではとても確実な信仰理解と、生活態度を持っていることもある。あやふやな終末論を持っているが、贖罪論は堅実であるという場合もある。問い詰めると神学は不透明だが、神のみ前に歩んでいるひとりの人としては、感嘆するほど純粋な信仰を持っている人物もいる。

 霊的解釈やタイポロジー的解釈で、正統な聖書の学びを軽視しがちなペンテコステ系の伝道者には、即席の伝道者が多く、たとえ長い間大きな働きをしている有名な伝道者でも、正しい解釈に基づいた聖書知識を持つものは驚くほど少ない。だから、そこここに間違いがある。そして間違いのあるもの同士が集まって、安心して間違いを増幅し合っていく。

 また人間は、常に変化をし続けている。間違いだらけの昨日の彼は、今日も間違いだらけであると言う保証はない。今日正しいことを言っているから、あさっても大丈夫だという保証もない。どのように素晴らしい牧師も伝道者も神学者も、必ずどこかの時点で、間違いや誤りを持ち、失敗も犯す。だから私たちは、人間の善悪の問題には常に慎重な態度をとり、最大の寛容と許容をもって、接して行かなければならない。人間に対す最終判断と裁きは、神にお任せするしかないのである。そういうわけだから、グレーゾーンの信仰を推し進めている人々のためにも祈らなければならない。その働きのために、その祝福のために、あるいはその救いのために。

 しかし一方、彼らの教えの内容に関して、その神学に関しては、非常に厳しくなければならない。その誤った教えに対しては、滅びるように願い、戦い、祈って行かなければならない。私たちは、人と教えを切り離して、別々の取り扱いをして行く必要がある。それは口で言うほど簡単ではないが、そのようにする大切さと、技術を学ばなければならないだろう。愛をもって接しながらも、断固として、誤りを指摘していかなければならない。

 キリストやパウロの例を観察すると、求道者や初心者の間違いに対してはかなり寛容であった。その態度が、真摯に真理を求めるものに対してはたとえ彼らの間違いが大きくても、直ちに拒絶することはなかった。キリストはパリサイ派やサドカイ派の人々に対しては一般的に厳しい態度をとっておられたが、彼らの中にいる真摯な真理の追求者に対してはそうではなかった。パウロもまた、偶像礼拝者に対しても礼を失わない態度を保ち、コリントの禄でもないクリスチャンたちに対してさえ、聖徒と呼びかけ、忍耐深く指導した。パウロは、自分がすべての兄弟たちに恐れられていた当時、交わりと助けの手を差し伸べてくれた、バルナバを思い出していたかもしれない。

 ところがそのパウロは、教会の中から出てくるユダヤ主義者には激烈な態度を取った。教会が、ユダヤ主義者のために傷ついて、その傷がまだ傷んでいたときには、ユダヤ主義の傾向を持っていたマルコとは、たとえ、お世話になったバルナバと袂を分かつことになったとしても、絶対に行動を共にしようとしなかった。キリストも真理に背を向け続けているかたくなな宗教家に対しては、非常に厳しい態度で臨まれた。少し後代になって、教会の中にグノーシスの誤った教えが浸入してきたとき、パウロもヨハネも、非常に厳しい態度をとった。

 真理の探求者が、誤った教えや理解をもちながらも、真理を受け入れる態度をもって学ぼうとしているときには、寛容な態度で彼らを受け入れているが、彼らが真理に背をむけ、誤った教えを主張し続け、さらにその教えを他の人々にも広め、惑わすに至ると、キリストもパウロも、非常に激しく戦った。だから、内部から出現する誤った教えの信奉者には、容赦なかったのである。

 キリストやパウロに見られるこの一般的な原則は、今日の私たちにも適応することが出来るだろう。後の雨の運動の創始者や提唱者たちの多くは、教会内の、指導者の中から出てきたのである。その後継者たちの多くもそうである。彼らの中では、この誤りと彼ら自身とがすでに一体となり、不可分の状態になっていることが多い。しかし彼らの働きに参加している、多くの信徒や伝道者たちは、騙されているだけである。だから、彼らに聞く耳があるうちに、聞いてもらわなければならないのである。そういうわけで、著者はこの文章を書いている。同僚の伝道者たちが、誤りを明確に見分けられるためである。信徒たちを正しく指導できるためである。

 だから私たちには、教え自体と、教えを伝えている人々とを、分けて考えることが必要である。教えは滅ぼされなければならないが、教えを伝えている人は、救われなければならないからである。そこで私たちは、彼らの教えを拒絶するだけで終わらず、正しい真理の教えを語り続けなければならないのである。私たちはこの教えを伝えている人々が、私たちの教会にその教えを持ち込むことを許すべきではないが、彼らにも、私たちの教えを語り続けなければならない。多くの場合、豚に真珠であることを覚悟し、石地に落ちた種になることも知りながら、そうしなければならない。

W 結び

 著者は今、私たちのペンテコステ信仰とその実践には、多くの誤りが混在していることを憂慮している。それらの多くは、ペンテコステ信仰の発祥当時から混在していたものである。そしてその混在に対して、正しい対処をしてこなかったために、誤りは増幅し、拡大し続け、私たちの正しい信仰の成長の妨げとなってきた。

 今私たちに改めて必要なことは、この誤りに対して正しい対処をしていくことである。それは単に、あそこが間違っている、ここが誤っていると指摘するだけに止まらず、自分たちのペンテコステ信仰が、正統な聖書解釈に正しく立っている信仰であることを確認して、単に外部のものの間違いを正すだけではなく、自分たちの中にある聖書外体験主義をも排していくことである。自分たちの中にある伝統的な聖書外体験主義も、厳しく排していくことによって、初めて、しっかりと正しい聖書理解に立った信仰のあり方を、構築していくことが出来る。

 そのために私たちは今、多くの間違いが氾濫して私たちの信仰を汚染しようとしている危機を、かえって好機と捉えて、改めて自分たちの神学を、しっかり見つめなおすべきである。正しいペンテコステ信仰の継承のために、ぜひともそれをやり遂げなければならない。

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