終わりの時のリバイバル

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  終わりの時のリバイバル



 この文章は、アメリカ・アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団が、トロントの笑いのリバイバルの影響を憂慮し、その間違いを指摘し警鐘を打つために、2000年8月11日に総会において採択したものです。日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団はこれを翻訳して、すべての所属教職者に配布しました。しかし、当時の日本においては、トロントのリバイバルなるものについては、うわさ程度にしか知られていなかったために、この文章も、あまり意味のないものとして、忘れられてしまったのではないかと思われます。翻訳した本人もまったく忘れておりました。しかし、あるきっかけで、「ペンテコステ信仰の継承」という文を書いている途中で思い出し、やっと探しだしました。最近日本においても、トロントのリバイバルに代表される後の雨の教えが、非常な勢いをもって広がっていることを、憂慮し、改めて、この文章を公表するものです。なお、古い文書をスキャナーで取り込み、活字化しましたので、オリジナルとは幾分異なるところがあるかもしれません。お許しください。 


A.リバイバルの中の極端な人々

 リバイバルの時には、神は往々にして、それまで顧みられることがなかった真理を、教会に思い起こさせてくださいます。そしてそのようなときには、極端な者が現れ易くなります。ある者は、教理の復興を拒絶してしまい、他の者は、熱に浮かされて、聖書の教えから外れてしまいます。両方の極端も危験で、キリストの栄光に傷をつけてしまいます。

 アズサ街で始まったリバイバルは(20世紀初頭)、今日にいたるまで、神の臨在に対する思いもよらない、けた外れの反応を、人々の中に生み出してきました。マリア・ウッドワースエターは、1880年代に伝道の働きを始め、1914年のアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団設立の後まで、その働きを継続していましたが、自分の初期の働きについて、「男も女も、死んだように倒れ、横たわっている」と、報告しています(1)。 人々が倒れると、このようなことを見たこともなかった彼女は、どうしたら良いのかわかりませんでした。結局彼女は、神の力が働いておられるのだと結論付けました。とはいえ、このような肉体的な反応は、組織化されたり企画されたり、計画的にくり返されたりして、彼女の働きの、目玉商品になるようなことはありませんでした。このようなことが起こったとき、彼女は、それが聖霊のお働きであると認めただけでした。

 現在のリバイバルの中には、特定の個人や働きに倣った現象を体験し、それが神の特別な臨在の証拠であると、期待されるようになってきたものがあります。たんなる人間の反復と、神の訪れを混ぜ合わせてしまう、このような期待は、間違いなく神の臨在を保証する、かぎりなく変化に富んだ、新鮮な、正真正銘の神の働きを、神の子供たちから奪い盗ってしまいます。

B.メディアに影響されるリバイバル

 今日のリバイバルは、現代の情報手段と技術の恩恵を受ける一方、犠牲にもなっています。20世紀の最初の4半世紀のリバイバルは、少々古くなった話題を載せざるをえない情報誌や、自分の目で見たことを行く先々で報告する人々によって、語り伝えられたものですが、今日のリバイバルの出来事は、生で放映され、あるいはより魅力的に宣伝するため、録画され編集されて行きます。テレビの映像世界と競争するため、しばしば劇的な、肉体的側面が、映像画面で宣伝されるのですが、魂を救い人生を変える、聖霊の内なる働きは、それほど目に見えるものでも、壮大なものでもないのです。とは言え、神様の働きがこのように進められているのには、それなりの理由があります。メディアで有名になった伝道者たちは、決して、神の優先順位を人間の優先順位と、取り替えてはなりません。

 残念ながら、ペンテコステ派やカリスマ運動に属する人々の間には、リバイバルというものを、そのリイバルに同調しているメディアが報告する、床に倒れたり、制御できないほど震えたり、笑ったり、その他いろいろな人間的な反応をする者の数で判断する人たちがいます。ときにはそのような肉体的反応が、霊的であることの証拠、もしくは、神がその働きを祝福しようとしてお選びになった、証拠として見られています。そうであるかも知れないし、そうでないかも知れないのです。

C.聖霊を消してはならない

 真面目なペンテコステの信徒が、決してしたくないことは、聖霊を消す、あるはい悲しませることです。私たちは、パウロがテサロニケ人に向けて、「聖霊を消してはなりません」と書いたとき、彼が何を言おうとしていたか充分に心得ています。しかし、その2節後で、彼は「すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅くまもりなさい」と、忠告しています(Tテサ5:19、21)。 ですから私たちは、聖霊がお望みになる通りに、自由に油を注ぎ、活動をしていただくと同時に、しっかりと吟味して識別するようにという戒めを守る、ふたつの責任を重く受け止めなければなりません。もし、聖霊によって鼓舞されたと思われる預言さえも、吟味されなければならないとするなら(Iコリント14:29)、聖霊のお働きであると思われる肉体的反応も、吟味することができるものであり、されなければならないはずです。しかし、そのようなことを吟味するときは、いつも、キリストの心と精神で行わなければなりません。私たちは、知らずしらずのうちに、極端に走ってしまったまじめな信徒たちを、 ・・・・・もし彼らが教えを受け入れる態度をもち、自分たちが所属しようと選んだキリストのみ体の、分別のある吟味に聞く耳をもっているなら・・・・交わりから断ち切りたくはありません。

 アメリカ・アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、創立以来ずっと、リバイバルの「現象」@について、聖書に基づいて声明を出す必要を感じてきました。その必要が、現在のリバイバルの報告にも当てはまるものであるために、私たちは、自分たちの関心に聖書的な理由があることを確認し、それを列挙したいと思います。しかし何にもまして、まず、私たちは、聖霊の働きは、たとえどのようなものであっても妨げたくないという、私たちの願いを再確認しておきます。もし、神からのものであれば、私たちはとどめることはできないし、とどめようとすぺきでもありません。もし人からのものであれば、時が来れば消滅します。しかし私たちは、いつまでも続く霊的成長をもって、教会を祝福しようと願っておられる聖霊の助けによって、識別するようにと、聖書に教えられているのです。そういうわけで、私たちは、聖書の教えと模範に従わず、行き過ぎと誤用に陥っていることを示している、次の分野について、注意深く吟昧するように呼びかけるものです。(2)

D.逸脱した教えを退ける

 神の臨在を願い、人生を作り変え、悪魔が盗み破壊したものを取り戻す、神の力を見たいと祈っている人たちの心と生活の内には、たしかに神が活動しておられます。しかし、識別されて誤りが正されなければ、正真正銘の聖霊の働きと共に、その正真正銘の神の働きを、浅はかな誤った感情の発露に変えてしまう、教えややりかたがしばしば入り込んでくるのです。聖書の教えに何かを加えたり、それから遠ざかったりする教えの中にも、普通は、人間が付け加えたものや、聖書の異常な解釈といった屑の下に埋もれた、わずかな真理が存在します。人々の生活を変え、教会をその最初の愛と情熱に呼び戻す、聖霊の働きを、不注意によって消してしまうようなことは、絶対にしてはなりません。聖書から遠ざかることが、地域教会の命と安定性に危険を及ぼすようであれば、私たちは警告の言葉を発しなければなりません。私たちは、以下の分野に、心配の理由を見つけ出しています。

1. 霊的賜物が何であるか特定したり、預言といわれるものによって賜物の名を挙げ、手を置いてそれを授けたり分け与えたりするのを、強調しすぎること。

 霊的な賜物は聖霊の賜物であり、聖霊が「みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです(Iコリント12:11)」。 ご自身のお授けになる賜物に力をお与えになるとき、聖霊は、ご自分の役割を代わりなって果たす者を、必要としてはおられません。聖霊が、賜物の活用を鼓舞してくださるときには、たとえ、神様の栄光を少しばかり横取りしようとする、人間の手助けがなくても、誰に対してでも賜物が何であるかを示し、また、確認してくださる事がはっきりしています。このような人間の干渉によって起こる、もっとも大きな弊害は、預言の言葉と受け取られる人間の誤った予測が、決して与えられるはずもない能力や才能を、信徒たちに期待させてしまうところにあります。たしかにパウロは、手を置くことによって賜物が与えられたと言っていますが(Tテモテ4:14、IIテモテ1:6)、 聖書には、テモテが受けた賜物が何であるかは記していませんし、パウロや長老たちが、賜物を分与したという示唆もありません。賜物をお授けになるのは、力が与えられるようにと祈る聖職者ではなく、聖霊です。聖霊が、約束された賜物を超自然的に現して、その預言を確認してくださるまで、特定の賜物の名を挙げることは控えるように、強く注意を促すものです。

2. 現在の使徒職と預言者職が、教会のあらゆる分野を管理すべきであるという、問題のある教え。 

 独立精神が旺盛で、神の国における自分自身の大切さを、過大評価している人たちにとって、組織とか、管理機構というものを、人間的な起源を持つものだと、断言したくなる誘惑は大きいものです。指導者として大きな影響をもっていた、使徒や預言者について聖書で読み、第一コリント12:28(3)と、エペソ2:20、4:11などを間違って解釈し、自分自身、あるいは、自分たちと同じ考え方を持っている人たちを、使徒または預言者と宣言してしまうのです。それで、前の機構を避けるために作り上げた機構が、これに属さない古いものより聖書的であると主張しながら、たちまちのうちに独裁的で横暴な、肉的なものとなることがあるのです。使徒と預言者による指導ということを提唱する人たちは、エペソ書の4章の文節を、しっかり読まずに早々と止めてしまい、教会のすべての役職と働き手が、神に任命されているという事実を、見過ごしにしています。 「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、わたしたちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです(エペソ4:11~15)」(4)

 エペソ2:20においてパウロは、ユダヤ人と異邦人が、普遍的教会Aを形成するために、共に集まったという、歴史的背景についで書いています。20節の、「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です」という言い方には、不定過去分詞が用いられており、使徒と預言者という土台の上に建てられたという出来事が、過去におこった出来事であることを示しています。エペソ3における、使徒と預言者についての言及では、彼らが、霊感を受けた聖書を書いたという過去の出来事を記しています。牧会書簡によると、地域教会の指導は、長老あるいは監督と、執事の手に任せられていました。牧会書簡は、パウロの書簡の最後のものです。これらの最後の著作の中に、使徒と預言者の働きが機能としては継続してもいても、職として存在し続けたと思わせるものはなにもありません。

 新約における預言者は、決して、牧師や伝道者が持っていたような、正式な立場を認められていたとは、説明されていません。彼らは、教会を教え戒めるために、預言的に語ったのです。彼らが聖霊に鼓舞されて語ったとき、彼らの働きは、記憶にとどめられたのです。彼らは、たしかに預書者と呼ばれていましたが職には任じられていませんでした。預言者を自称して地域教会を訪ねて来た者は、当然、良く知られるまでは、疑いのもとに置かれていたのです。それで乱用を避けるため、すべての預言的言葉は、教会によって真偽が試されなければならないと、パウロは教えたのです(Iコリント14:29)。 パウロが教え自ら模範を示した、謙遜こそ、あらゆる霊的指導者の、第一の特質でなければなりません。私たちは、誰かれという個人が、使徒職や預言者職につくなどということは別にして、現代の軟会に、使徒的働き、また預言者的働きがあること、また、なければならないことを確認します。

 「羊飼い運動」Bという名は、以前ほどではなくなったとはいえ、すでに述べた、使徒と預書者の行き過ぎと密接に関わりながら、まだ活動しています。神に定められ、正当に選ばれた現存の指導者を、手当たり次第、基準もなく、仲間内で任命しあった使徒や預言者と入れ替えてしまうのは、乱用を許す状況を作り上げます。過去において羊飼いの教えは、ひとりひとりの人間が、それぞれ自分の羊飼いに服従させられる、人為的なピラミッド型の管理体制になって行きました(5)。 羊飼いはまた他の羊飼いに従い、指導を受け、管理され、支配されなければなりませんでした。パウロが、若いテモテを個人的に指導者した例は、現在においても良い手本だとはいえますが、すべての信徒に、個人的羊飼いを持たせて網羅することに、聖書的な基盤はありません。牧師は、結婚している場合にはその配偶者と共に、地域教会の群れの牧者として、もっとも個人的ことがらについてさえ、取り扱うことができます。そして牧師には、神さまに祝福された方法で選ばれた教区長があり、必要ならば彼に支援を求めることができます。しかし、義務感を負わされて、秩序もないなかで、個人的な羊飼いになってもらえる者を探すというのは、聖書的ではありません。キリストのみからだを建て上げよう、また、徳を高めようと心がけている、聖霊に導かれた同労者たちに選ばれ、神に立てられた指導者は、必要な成熟性、安定性、また聖霊の賜物を得ているのです。

3.発言の賜物によって、個人的導きを伝え、あるいは、押しつけること。 

 常識には反していても間違いなく神から出ている、聖霊に鼓舞された個人的なアドバイスというものは、とても少ないものであり、みさかいもなく与えられる個人的預言は、たちまち、キリストのみからだの中で、乱用となってしまいます。パウロとパルナバは、まだ良くわからない働きのために、聖霊によって正しく選出されましたが、(使徒13:2)。 ふたりには、自分たちに与えられる特定の働きのために、さらに、聖霊の方向づけが必要でした。彼らの召しは、信徒たちが集まり、礼拝と断食をしているときに聞こえたのであり、明らかに、パウロとバルナバを含めて、そこにいた者たちはみな、これは聖霊がお語りになっているのだとも確信することができたのです。もし、「預言された」言葉が、神からのものであるならば、聖霊は、それが間違いのない事実であることを、聖霊の働きに選び出された当事者の心に、確信させてくださいます。

4. 聖書の文節の第一の意味に反する解釈によって、み言葉をこじつけ曲解をすること。  

 以下に述べる教えは、すべて、真理の要素は含んではいるのですが、現在教えられているままでは、間違った指導と非聖書的要素に汚染されており、注意深く避けられなければなりません。ある場合には、単語や言いまわしは聖書から採られていて、聖書的権威を持っているかのように聞こえますが、その適応は、聖書の真理というより、人間の創作によるものです。それらの聖書的真理からの逸脱の多くは、以前にもあったものが再び現れたものであり、また、未来においても、異なった名前の新しい啓示として、出現してくることでしょう。

a. 現在のみ国、または、支配の神学

 神のみ国は、人類の小さなお手伝いによって来るのだという思いは、このような方法で、社会にインパクトを与えようと提唱する人たちの中に、蔓延しています。道に迷ったこの神学は、すぐにも起こるキリストの再臨を嘲笑するわけではなく(IIペテロ3:4)、むしろイエス犠は、教会が悪魔とその手下どもから、この地上の支配を取り戻すまでは、お帰りにならないと言うのです。とにかく、クリスチャンは、政治的であれ、教会的であれ、教育、経済、その他の組織であれ、あらゆる可能な手段を用いて支配を勝ち取り、この世界を、キリストがお帰りになるのに、ふさわしい所にすることができると、想定するわけです(6)。この非聖書的な勝利主義は、これに関係した、他の間違った教えを生み出します。

b. 明白な神の子、または、ヨエルの軍隊

 これらのふたつの名は、現在の神の国の幻に賛同し、敵を打ち負かそうと、一生懸命に活動している者たちに与えられたもので、他の名で呼ばれることもあります。彼らは、キリストがいままさに、いつお帰りになってもおかしくないという、聖書的な理解を持っているクリスチャンを、自分たち、すなわち、彼らがときおり自称する「油注がれた者」に加わらない、生ぬるい者と決めつけます。旧約聖書の中のヨエル書には、間違いなく、終わりの時についての、いくつもの言及があります。しかし、ヨエル書2章に記されている、数が多く強い軍勢は、イスラエルに対する裁きの道具で、いなごの大群のひとつのことです。イスラエルの悔い改めの後、いなごの軍勢は、主によって滅ぼされるのです。この裁きの道具であるいなごが滅ぼされて、はじめて、約束のリバイバルが来るということです。「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ(ヨエル2:28)」。ヨエルのいなごの軍勢を、キリストの千年の支配のために、地を準備しようと、社会や協力的な教会を攻撃している、間違いなく勝利する戦闘的な軍隊だと見るのは、完全に、聖書の間違った解釈です。

c. 聖書の出来事と歴史の霊的解釈

 霊的成長を励まし教えるために、聖書に記されている歴史的出来事と、聖書の真理を今日の生活に適応させることの間に、類似点を見つけ出すのは、決して悪いことではありません。しかし、それらの出来事が曲解されて、終わりの時の出来事に当てはめられるときには、理性のあるクリスチャンは警戒しなければなりません。使徒の働き17:10〜11に記されているベレアの人々は、「(パウロが教えていたことを) はたしてそのとおりかどうかと、毎日聖書を調べた」ために、賞賛されています。新しい真理の啓示だと報告された教えは、非常に注意深く調査されなければなりません。ペンテコステの人々は、油注がれた力強い説教に慣れています。しかし、教える者が権威と自信をもって語ったからと言って、教えが真実になるものではありません。それは、常に聖書と調和するものでなければなりません。個人的カリスマ性は、聖書の権威の代わりにはならないからです。

d. 繁栄の福音

 繁栄の福音の説教は、正当なプログラムにも、正当とは言い切れないプログラムにも、収入の増加をもたらしてきました。神は、忠実な者を祝福してくださいます。しかし、祝福は必ずしも経済的収入だけにかぎりません。蒔くものは刈るものとなるという、霊的な原則はありますが、贅沢な、個人的ライフスタイルを支えるために、貧しい者の金を吸い上げるのは、良心に反することです。もし、自分が口にしたあらゆる無駄な言葉について、申し開きをしなければならない時があるとするならば(マタイ12:36)、怪しい方法で集金した1ドル1ドルに、申し開きをするのが当然ではないかと思います。聖書の教えは、世界中のすべての地域、文化、社会、そして国に適応することができるものです。(7)

f. 出産

 わずかな真理の要素が、あるべき限度を無理やりに越えさせられた、もうひとつの例が、信徒は神の国に、新しいクリスチャンを産み出さなければならないという教えです。パウロは、ガラテヤ人に、私の子どもたちよ、あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています(ガラテヤ4:19)」と書いたとき、この概念をきちっと正しく用いています。しかし、この概念で、出産を間近に控えている母親を、そのまま劇のように描写し、まさに子供を産もうとしている母親のように信徒を寝かせ、とりなしをするように勧めるに至っては、真理の乱用です。

g. 代々にわたる呪い

 父の罪が子に及び、3代、4代に至るということが、聖書に記されているのは事実です(出20:5、民14:18、申5:9)。 これら3ケ所のうち2ケ所は、罪が及ぶのは神を憎む者に対してです。また私たちは、遺伝や環境が子孫に影響を及ぼすことも知っています。しかし、旧約聖書の教えは、十字架の上で威し遂げられたキリストの働きという、光のもとで読まれるべきです。新約聖書のどこにも、代々にわたる呪いという概念を、見いだすことができません。たとえ、私たちの回りでは、堕落した被造物が、いまだに、すべての物の回復を待ち望んでうめき苦しんでいようとも(ローマ8:22)、 現在、信じる考たちは、自分の罪の呪いの下に生きてはいないのです。キリストのみからだの外にあっては、この全体的な罪の呪いの証拠は、歴然としていることでしょう。しかし、信徒にとっては、たとえまだ、聖霊の助けによって取り扱って行かなければならない、生来の性癖が残っているとしても、罪の呪いは、救いの時点で打ち破られているのです。

5. 何でも悪魔と悪霊のせいにする。

 「あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者より力があるからです(Iヨハネ4:4)」。 悪魔は存在します。神の永遠のご計画に対抗して、活動できる機会はもうすぐなくなるという中で、悪魔は死にもの狂いで働いているのです。しかし、悪魔は昔より強くなっているのではありません。神は常に支配しておられます。私たちが強調するのは、悪魔の虐待や撹乱あるいは破壊、さらにはみずから進んで悪魔と火遊びをして、彼の支配に身を委ねる者に取り憑くことでもなく、神は全能だということであるべきです。悪魔は、たとえ誘惑し、苦しみを与えることがあるとしても、神の子に取り憑くことはできません。信徒が悪霊に取り憑かれることはあり得ません。

 悪霊と戦い、追放するのは、胸が高鳴るような活動です。これはまた注目を集めます。ここにも真理の要素はあります。不都合なことのすべてが、悪魔のせいにされてはなりませんが、たしかに、取り扱われなければならない特別な事例の中には、悪魔に憑かれているということもあります。そして神は、ご自身の賢さをもって、そのような特別な必要のために、道具を備えてくださいました。たしかに、闇の世の君たちが町や市に任命されているかも知れませんが、すべての町や市、あるいは地理的区分が、悪霊の支配下にあるという聖書的証拠はありません。聖霊は、ある人が悪霊に支配されていて、解放を必要としているという知識の言葉を、聖霊に満たされた信徒にお与えになるかも知れません。また、奇妙な振る舞いをする人に会うと、聖霊は、聖霊に満たされた人のために、その奇妙な行動の原因についで、識別してくださいます。しかし、病気、怪我、出産にまつわる障害あるいは良くない特徴などのすべてが、悪霊の仕業だと言い切ってしまうのは、聖書の読み方が間違っています。罪は、そのしるしをこの世に残しました。しかしところかまわず、名前を拳げて迫い出さなければならない、悪霊という形のしるしではありません。

 私たちは、霊の戦いの中にいます。「悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています(Iペテロ5:8)」。 しかし、この教えは信徒を脅して、毎日のすべての活動を悪魔との大格闘にしてしまう、極端に追い込むために与えられたのではありません。霊的な抗争の中で、すべてのクリスチャンが身に付けるべき武具で、私たちの身を固めるならば、私たちは、悪魔の策略に対して立ち向かうことができると、約束されているのです(エペソ6:11〜17)。 キリストの血潮によって被われ、自分の武具で身を固めるならば、私たちは、福音を携えて全世界に出ていくという、与えられた任務に専念することができます。出ていく中で、激しい戦いもあることでしよう。しかし、私たちに先だってくださる方は、すでに勝利を収めておられるのです。

6.肉体的「現象」(8)を識別する

 ある人たちは、奇妙な肉体的反応を、抗し難い聖霊の力が働いているのだと、弁明します。しかし、多くの場合、それは、神が臨在しておられるという意識の、肉体的反応にすきません。識別することが絶対に必要です。そのような誤りは、上手に取り扱われなければなりません。喜びが過ぎている真面目な信徒には、優しく諭して上げることができます。しかし時には、ふさわしくない現象によって、本物の聖霊の働きが消されてしまわないように、肉的な反応に対して、ただちに対処しなければならない時もあるでしょう。

 ある批評家は、肉体的反応は、聖書に例がなければ、正当なものとは認められないと論じました。しかし私たちは、神が癒されるのは、聖書にはっきりと名を拳げられている、病気だけだとは主張しません。私たちは、かつてまったく知られていなかった、新種の病気でも、神は癒すことがおできになると信じるものです。奇跡的癒しの例も充分に見てきましたし、神はすべての病気を癒すことができるという約束もあるからです(詩103:3)。 同じように、聖書には、聖霊が人々の上に臨み、人々は夢見心地になったり、超自然の状態になったりした例があります。

 パウロは、コリントの人ヘの手紙第2の中で、並大抵ではない超自然的体験について、ごくひかえ目に触れています。「無益なことですが、跨るのもやむをえないことです。私は主の幻と啓示のことを話しましよう。私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四午前に・・・・肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです。第三の天にまで引き上げられました。私はこの人が、・・・・それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです。パラダイスに引き上げられて、人間には語る事を許されていない、口に出すことのできないことばを聞いた事を知っています。このような人についで私は誇るのです。しかし、私自身についでは、自分の弱さ以外には誇りません(IIコリント12:1〜5)。 ヨハネはパトモス島において、「聖霊に感じ」る体験をしています。「私は、主の日に聖霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた(黙1:10)」。旧約の預言者たちも神の臨在に遭遇し、予期しなかったことをしたり語ったりしています。もし、聖書の時代に、聖霊が人々の上に臨まれたとするならば、今日も、聖霊は同じようにすることができます。そしてそのようになさっているのです。しかし、聖書の中ではっきりと、必ずこうなると教えられていない肉体的反応は、それが神からのものか、たんなる人間の反応か、それとも、悪魔が本物の神の働きを妨げようとしているのか、試され、識別されなければなりません。もし、聖書の中に同様の事柄が記されていない糧合には、どのような霊的体験であっても、霊的完全の証拠とされてはならず、すべての人が体験すべきこととされてもならないのです。

a. 肉体的現象にたいする行き過ぎた憧れ

 どのような肉体的反応であっても(聖書にくり返し記されている、聖霊に鼓舞されて語る異言以外には)、聖霊がその可視的反応の背後においでになるという、確実な証拠とはなりません。神の臨在はいつも風の中、地震の中、火の中(9)にあるものとはかぎりません(I列王19:11〜12)。 静かなみ声の場合もあるのです。神は、他のことに熱中している信徒たちの注意を引くために、劇的なことがらをお用いになることもあるでしょう。しかし聖霊に満たされたクリスチャンは、いま現在の体験の中でも、常に、聖霊が囁きかけ、そっと脇を突いてくださることに、注意を傾けるべきです。聖霊が、「静まって、わたしこそ神であることを知れ」と、おっしゃりたい時もあるのです(詩46:10口語訳)。

b. 人間的反応を判断する

 預言は、吟味されなければならないと、聖書が告げているように(Iコリント14:29)、異常な肉体的反応も、吟味されなければなりません。その肉体的表現は、聖霊が罪人の良心に強く迫ってくださった結果でも有り得ます。前世紀のリバイバルでは、罪人が罪の自覚にうめき、泣き、さらには永遠の裁きの恐れに魂を握り潰され、叫び出すことさえありました。そのような現象が、回心ヘ導かれる中でのまじめな表現であるならば、まったく正当なものと思われます。

 信徒たちが体験する肉体的反応を吟味するのは、もっと難しいものです。宗教体験というものは、しばしば感情を伴いますし、ときには、深い情緒的必要の表現でもあるからです。しかし、ただ、感情的体験だけのためにリバイバルを求めるのは、人生を変え、信徒たちをもっとキリストに似た者に造り上げるという、神の本来の目的にそぐわないものです。その人間的反応は、その人個人と会衆の徳を高めるものでしょうか。それは、神の栄光を現し、他の人々が、もっと主に近づきたくなるように、励ましを与えるものでしょうか。あるいは、本物であろうが見せかけだろうが、体験をした者がその体験を語ることによって、ほめられたり、喝采を受けたりするのを望んでいるのでしょうか。それとも、生き方が変わってしまい、とにかく、どのような方法であっても主をお喜ばせしたい、キリストにまったくあけわたし、担えとおっしゃった十字架が、たとえいかなるものであっても、それを背負って行きたいという願いが、ますます大きくなったという話しをするのでしょうか。肉の欲望を捨て、聖さを追い求める決意を、はっきり表現したのでしょうか。その喜びは、神との交わりの聖い喜びの表現でしょうか。それとも、自分の体験と能力を嬉しがっている表現でしょうか。現象の吟味は、預言の場合とおなじように、そこにいた者によってされるべきです(Iコリント14:29)。

 私たちは、全能の神が、金歯をかぶせて下さることも、金粉を降らせてくださることもできる方であることを、認めなければなりません。しかしそのような出来事は。実証Cされるのでしょうか(10)。もしそれが、そこにいた人たちヘのしるしだとすれば、しるしの理由がはっきりしていなければなりません。しかしそのようなしるしを追い求めていては、わたしたちは、イエス様のところにやって来て、天からのしるしを見せて欲しいと求めたバリサイ人と、なんら変わりなくなってしまいます(マルコ8:11)。 どのようにとてつもないしるしであっても、信徒は同じ態度をもって、自分を守るべきです。遠く離れたところで、人づてに聞いた話で吟味するのは危険です。

c. 現象と働き

 預言者イザヤは、特異な主の臨在の体験をしました(イザヤ6章)。

 まず、神のみいつと聖さの啓示が、幻によって与えられました。イザヤの最初の反応は神に栄光を帰すことでした。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ(イザヤ6:3)」。 しかしその宣言のすぐ後に、罪深さのゆえに、自分は無価値なものであるという強烈な自覚が起こりました。「そこで、私は言った。『ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。』(イザヤ6:5)」。 もし、私たちが、神の臨在を本当に体験したならば、たとえ、自分の人生をどのように立派に評価していようとも、神の聖い臨在の前にあっては、卑賤のものにすぎなくなります。私たちの中には、キリストの徳をのぞいては、どのような徳もありません。正真正銘の神との出会いは、深い謙遜を産み出さずにはいないのです。

 神は、御自分の臨在を体験するという代価を払った者を、自責の念の中に閉じ込めておかれません。すぐにも、大宣教命令の一部を遂行する任務をお与えになります。イザヤに対して、神は「行って、この民に言え」とおっしやいました。その託宣は、告げやすいものではありませんでしたが、イザヤは従いました。神の臨在を特別に体験したあとには、主のみ声に従うことが続かなければなりません。とはいえ、瞬間瞬間聖霊の内に歩み、聖霊に満たされている信徒は、感情の山の頂上の体験なしにも、静かな、小さなみ声で神のお導きを聞き、それに従うことができるのです。そのような山の頂上の体験は、消えかけた情熱の火を、再び燃え上がらせるための処方箋かもしれませんが、しっかり立ってみ国の働きをするようにという、召しに応えもせず、そのような体験だけをさらに求め続けるのは、非生産的です。リバイバルには、聖徒たちの気分を良くさせる以上の、目的があるのです。              

F.地域教会の牧師たちにひとこと

 他の教会から、前例のないようなリバイバルの報告を聞くと、あなたは、なぜ神は、他のところでは、そのようなめざましいみ業を進めておられるのに、自分の教会ではなさらないのだろうかと、考え込んでしまうことでしょう。それが普通です。「うちの教会のどこが悪いのだろう」、「私たちはリバイバルを求めて、神に祈ったではないか」、「私たちは、何かの理由で素通りにされて、今、神がなさっていることには与かれないのだ」と、考え込んでしまうのが普通です。もっと危険なのは、「私たちは神の臨在を体験しているので、他にはなにも欲しくないし、必要でもない」という反応です。あなたは、他の人たちが経験しているような、公衆の注目を得るためにではなく、いま自分のいるところで忠実に、イエス様を見つめていくように召されているのです。自分の会衆と一緒になって、神がお望みになっているような教会になれるように、努力して行く中で、以下の助言を心と記憶に留めておいてください。

1.神は、いまあなたの教会に望んでおられる、霊的成長をさせてくださっているのではいでしようか。父なる神は、ご自分のみ子をお遣わしになって死なせたほどに、ひとりひとりを愛しくださっているのですから、あなたの教会のすべての信徒が、もっとみ子に近づくようにと望んでおられます。

2.妬みや劣等感から、目に見える形で生き生きとリバイバルを経験している教会を、批判しないでください。忍耐深く、忠実に、自分の召しをまっとうしてください。神は、ご自分の方法、ご自分の時、ご自分が選ぶところで、お働きになることができるのです。広い心をもって、神の超自然のお働きヘ向けて、心ぞなえをしていてください。

3.忠実に神の言葉を語り、信徒たちが、さらに神の臨在と力を体験できるように、励まし続けてください。すべての信徒が、もっと主の近くを歩みたいと願うようになるべきです。

4.めざましい神の働きと思われる光景を、どこか他の場所で見てきた者たちに、自分も信徒も影讐されてしまい、他のところの活動を、ただまねるだけにならないようにしてください。神があなたの教会の必要にそって、特別に働いて下さるように求めてください。まねで起こったリバイバルは、人間が作り出した可能性が強いのです。

5.はっきり証明されていない、癒しや奇跡を報告する場合には、最大の注意をはらいましよう。ペンテコステの人々は、神は癒すことができ、癒してくださるということを、はっきり知っています。超自然の癒しの証によって、信仰が励まされ、力づけられることも知っています。しかし癒されたという証が、後から、批評する人たちによって、たいした変化が起こったわけでもないし、継続もしていないと証明されると、キリストのみ名がはずかしめられるのです。偽の報告、嘘の報告、あるいは自分の働きを大きく見せるための、故意のごまかしが非難されると、クリスチャンの証が傷つくだけです。もし誰かがまじめに癒しの証をし、後になって癒されていなかったと判明したような場合、その早すぎた証は、牧師や伝道者の責任とはされなくても、地域の中でのその教会の証に、悪影を与えることになります。             

6.ただ現象を見たいというだけで、特別講師を招かないでください。聖霊の本物の働きに疑いの影を落とすような、いろいろなごまかしが、もう充分以上にされてきたのです。特別講師を招くときは、よく注意してください。アッセンブリース・オブ・ゴッド教団の教職以外の人を招くと、望ましくない教えとやり方を、持ち込むことになるかも知れません。

7.これらの警告に耳を貸さない人たちを、非難しないようにしてください。

8.誤った教理が教えられ、誤ったことが行われているのを確認した場合、あなたには正しい方法で、それについで語る責任があります。あなたは自分の心遣いを、まず、その間違いに直接関わっている人に語るべきです。あなたの心遣いが拒絶されたりも黙殺されたりした場合は、その状況について、教区の指導者に知らせるべきです。「多くの助言者によって安全を得る(箴24:6欽定訳)」。

 この小文で、教会の懸念として説明した、教えや人間の反応のいくつかは、数年のうちに、・・・主がお戻りになるのが遅れれば・・忘れられてしまうか、ただ一時期の流行として思い出されるに過ぎなくなるでしょう。あるものは、新しい名のもとに再び現れて来ることでしよう。また、わずかばかりの真理の要素から始まって、極端に陥って聖書から外れてしまった者のように、さらに、新しい教えが出現して来ることでしょう。名称や呼称はともかく、その実際の教えや人の反応を、識別することが肝要です。主は、ただただみ国の建設を目指し、おのれの栄光はまったく顧みず、すべての栄光を主にお献げしようとするご自分の民を、誠実に導き、お守りくださるのです。

 魂が救われ人生が変えられたという報告は、けっして、誤った神学と実践を正当化するものではありません。ところがパウロは、自分と自分の働きにとって、いろいろ妨げになる偽預言者について、次のように語っているのです。「見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます(ピリピ1:15〜18)」。 しかし、聖書的な潔癖性をもった、正しい動機でキリストが宣べ伝えられるのを、パウロが望んでいたことは明らかです。そして私たちも、また、同じです。

脚注

(1)Maria Woodworth-Etter, A Diary of Signs and Wonders (Tulsa: Harrison House,1916 reprint) p.37.

(2)ワシントン州シアトルで開催された、1949年度のアメリカ・アッセンブリース・オブ・ゴツド教団の総会で、New Order of the Latter Rainの教理を否認する議案が提出され、承認されました。総会記録には、短い討議の後、この議案は絶対多数で可決されたことが記されています。議案は、この小文で論じようとしている多くの問題を扱っていました。

(3)「そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇跡を行う者、それから癒しの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです(Iコリント12:18)」。

(4)教会の指導者の働きの、聖書的ありかたについて、さらに深く学びたい場合は、“The Ministry of the Body of Christ” position paper of the Assemblies of God (Springfield, MO: Gospel publishing House,1974) をご覧ください。

(5)“The Discipleship and Submission Movement” position paper of the Assemblies of God (Springfield, MO: Gospel publishing House, 1976) をご覧ください。

(6)この偽りの教えについでは“The Kingdom of God as Described in Holy Scripture” position paper of the Assemblies of God (Springfield, MO: Gospel publishing House, 1990) に、詳しく取り扱われています。

(7)繁栄の福音と積極的告白の問題はすでに学ばれていて、“The Believer and Positive Confession" position paper of the Assemblies of God (Springfield, MO: Gospel publishing House, 1980) に載っています。

(8)「Manifestation」(Iコリント12:7《新改訳では「現れ」、この小文では「現象」と訳している》)の聖書的な用法は、聖霊の超自然的もしくは奇跡的な働きを指すものです。しかし、今日の一般的な用法では、神の臨在に対する人間の肉体的な反応を意味しています。

(9)ただし、この場合風、地震、火などは神のみ業です。

(10)確実な癒しは、医療記録によって確認されて、間違いないとされます。ある宗教の信者たちは、イエス様やマリヤの出現、あるいはイエス犠の死のシンボルを見たと主張しています。実証による確認がなければ、そのような報告に対しては、懐疑的にならざるを得ません。リバイバル集会における信じがたい出来事が、未確認のまま報告きれると、キリストの栄光となるよりは、むしろ栄光に傷を付けるものになってしまいます。新約聖書全体を通して、肉体の癒しは、神の臨在と働きの超自然的証拠です。

訳注

@“Manifestations” 新改訳では「現れ」と訳されている。

A 原文では“the Church”。意味を分かり易くするため、普遍的教会と訳した。

B “The Shepherding Movement”

C “Empirically demonstrated?”

原文では“the Holy Spiritと“the Spirit”という言葉が自由に使われていましたが、読み易くするために、すべて、「聖霊」と統一して翻訳しました。

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