見ないで信じる者は、幸いである

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    見ないで信じる者は幸いである

はじめに

 先日、私の悪友、いにしえの級友、尊敬する同労者が、「これについで、少し書いてもらえないだろうか」と、「リバイバル新聞」なるもののトップ記事を見せてくださいました。私にはまったく馴染みのない新聞で、記事の内容もまた、「だからどうだって言うんだ」という程度のものだったのですが、「その程度のことがこのように大きく報じられ、私たちの教団でも、信徒たちだけではなく同僚の伝道者たちの間でさえ、あたかもトレンドのようになりつつある現状が問題なのだ」と、説得されてしまいました。

 その記事とは、今年の8月11日から13日まで、東京で開かれた「東京福音リバイバル聖会」で、金歯、銀歯の奇跡が続出しているというものでした。治療の必要な歯に金冠や銀冠がかぶせられたり、銀冠が金冠に変わったりしているとのことでした。実はこのような「歯の奇跡」と言われる出来事は、海外ではかなり以前から知られ、議論の的にもなっていると聞いていましたので、わたしがその議論に加わることもないと感じたのですが、日本では、まだ議論が交わされていないと知って、それならば「理解の一助に」とワープロを叩くことになりました。雑文家の使命と心得ますが、お読みくださる方の忍耐に期待するものです。  

T.常識の問題

 実際、金歯銀歯の「奇跡」の記事を読んだ時、「だからどうだって言うのだ」と思う一方で、私の常識が「腹痛」を訴え初めていました。消化不良です。わたしの常議は、もちろんペンテコステ信仰を持つ牧師の常識です。普通の日本人の常識でも、普通の牧師の常識でも、普通の福音派の牧師の常識でもありません。

 現在ペンテコステ的な信仰が世界を覆い、世界中にペンテコステ的出来事が起こり続けている事実を、わたしは喜ばしいことと考えていますが、反面、しばしば「腹痛」に見舞われているのも事実です。ペンテコステの牧師の私がそうなのですから、普通の福音派の牧師にとっては、かなりの「下痢症状」かもしれません。

一般日本人の常費

 一般の日本人が「奇跡」を取り扱うとき、現代科学では説明できないが、科学的なものという範疇で考える「超科学的な現象」と、もともと科学では説明も解明もできないことがら、たとえば「霊界」などと呼ばれる「異次元の現象」とに分けて考えるようです。科学的であることを自認する日本人の4〜5割にも及ぶ人たちが、このような、なんらかの「奇跡」の存在を信じているという報告もあるほどです。現代人は科学に失望して、厳密な意味での科学から離れる傾向にあると判断されます。ここに、怪しげな科学紛いのオカルトが流行する温床があると言えます。

福音派の常識

 現在の日本の福音派の中核を成す方たちの考え方は、端的に言って、キリスト教理神論とも言えるものです。理神論とは、啓蒙思想が発展して合理主義、科学至上主義に至ったもので、理論的には、創造主としての神の存在は認めます。しかしその神は、創造した万物と万物の存在を継続させる法則を残して、どこか遠くへ旅立ってしまったと考えます。したがって、現在神は存在しないも同じであり、科学的な法則のみが残っていると論じるのです。これがキリスト教の中に流れ込み、人間の理性に合わないものや、科学では説明できないものを否定するキリスト教を造りだしました。17世紀から19世紀に形成されたキリスト教神学や団体のほとんどは、程度の差こそあれ、この影響を色濃く反映させています。創造の神の存在を認めながら、聖書に記されている一切の奇跡を否定する近代神学は、少なくても福音派ではありませんが、聖書を文字通り誤りのない神の言葉と信じる福音派でも、聖書に記録されている奇跡は認めるが、今はそのような奇跡は起こらないと断言してはばからないのが一般的です。それぞれ、聖典の完結だとか、異なったディスペンセーシヨンに属するだとかいう、もっともらしい神学的理屈付けはしていますが、根は同じ合理主義です。 

ペンテコステ信仰の常識

 このタイトルはむしろ、古典的と自認するペンテコステ信仰を持っている、私というひとりの常識的な人間の考え方、とでも言った方がよいかもしれません。

 一般にペンテコステ信仰は、聖霊のパプテスマや異言を中心とするもののように考えられています。確かに、現代ペンテコステ信仰の成り立ちは、そのような経過をたどったことは事実であるとしても、本題はむしろ、「聖書の時代と変わりなく、今も働いていて下さる神に対する信仰」であると理解しています。今もわたしたちの祈りに奇跡をもって応え、わたしたちの日常の中に介入して下さる神です。私たちが祈るときは、気休めとしての祈りではなく、応えて下さる神に対する信仰と期待をもって祈ります。そして、ペンテコステの運動は、神の介入としての「奇躊」を体験しながら成長してきました。

 ペンテコステ運動は、ある意味で「興奮」あるいは「感情」の運動でした。神の介入の奇跡を体験した人たちは、当然、興奮しました。この興奮はしばしば過熱し、過激な行動や信仰、また神学となって、ペンテコステ運動の「特徴」のひとつともなってきました。わたしたちのアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの歴史を見ても、それは明らかですが、幸いなことに私たちの交わりは、全体的に見ると、そのような特徴を聖書によって注意深く検討し、極端な誤りに陥ることを避けてきました。しかしそのような注意深さを好まない人たちもあって、さまざまな、極端なペンテコステのグループが続出してきたことは、否定できない事実です。

 ペンテコステ信仰の常識は、「神は今も昔も変わらない」こと。そして、「神には何でもできる、神にはできないことがない」ということです。しかし注意したいのは、私たちの神は「何でもできる神」ではあっても、「何でもする神」ではないことです。神は人間の常識や理解を越えて、自由にお働きになることができるお方であることは認めても、ご自分を制しておられる神、秩序の神でもあるという事実を確認しなければなりません。聖書に記されている「奇跡」の数々を見ても、神はたんに好き勝手に奇跡を行ったのではなく、秩序をもって行っておられるのです。ここで、まさにこの点で、金歯銀歯の奇跡は、わたしのペンテコステ信仰の常議に「腹痛」をもたらすのです。

II. 聖書の奇跡

 聖書に記録された様々な奇跡を見ると、そこには共通の秩序があるのがわかります。まず、すぐに気付くのは必要牲、あるいは必然性ともいうべきものです。必要のない奇跡はありません。すべての奇跡に必要があり、その必要を満たす目的がありました。

a. 奇跡それ自体に必要性があって、奇跡が起こったことは他の誰に知られなくてもよかった、あるいは知られないほうが良かった場合。これには、キリストが癒しを行って後、このことをだれにも知らせないように、お命じになった例などが含まれます。 

b. 奇跡自体が必要とされ、かつ、奇跡が起こった事実が「しるし」として機能することが目的とされていた場合、あるいは前提とされていた場合。聖書の奇跡にはこの例が最も多いようです。この「しるし」としての機能も、イスラエルや弟子といった、内部の信じる者に対して、励まし、教え、指導という要素を持つものと、異邦人や未信者という外部の人間に対しての、神の主権、支配の印としての要素を持つものがあります。キリストの奇跡も大部分がここに含まれます。

c. 奇跡それ自体には大きな意味はなく、むしろ、奇躊の「しるし」としての機能に目的があつた場合。これは、旧約時代の出来事としてはかなり記録されていますが、新約時代にはほとんど例を見ないものです。多分、これは神のざん進的啓示の現れで、聖書のなかった時代には、神のみ心を示す手段として、必要性が高かったが、一応旧約聖書が完結し、キリストの明確な教えも知られるようになった新約時代には、あまり必要とされなかったのだと考えられます。キリストご自身も、このような「しるし」を求めることを、「邪悪な時代の要求」として退けておられます。                       

d. キリストの宣教命令に伴う「しるし」としての奇跡の場合。これは基本的に、キリストが行われた神の国の到来の「しるし」としての奇跡と同じで、キリストの代理者としての教会に与えられた権威の一部でした。この場合も奇跡自体に必要性があり、「しるし」は付髄する結果としての機能でした。弟子たちは、「しるし」だけのために奇跡を行うことはありませんでした。

III. 金歯銀歯の奇跡

 ここでまず問題なのは、この金歯銀歯の「奇跡」なるものが、はたして奇跡自体に必要性があったかどうかという点です。リバイバル新開を読む限りでは、あったと判断するのには難点があります。確かに、記事がすべて事実だと仮定して 歯の治療を必要としていた場合もあるのですが、それすら、金であり、銀である必要性はありません。つまりこの奇跡の話を闘いても「共感」できるところが少ないのです。歯痛がなくなった。虫歯が虫歯でなくなった。歯の穴がなくなった。歯槽膿漏が消滅した。無くなっていた歯が出てきたという類の奇跡ならば、かなりの共感性を得られると思うのですが、どうして金歯である必要があるのでしようか。また、すでに入っている銀歯が金に変えられなければならないのは、どうしたわけでしようか。ここには必然性と必要性が不足しているばかりか、金銀をもてはやす繁栄の福音の残滓さえ見え隠れするのです。

 またこの金歯銀歯の奇跡には、奇跡としても癒しとしても、聖書の例にはあまり見られない要素を含んでいる点にも注意したいと思います。まずこれが極めて物質的な奇跡であるということです。金が銀に変化する。あるいは何も無かったところに、忽然と金もしくは銀が出現するというものです。聖書には、モーセの杖が蛇に変化したことが記され、灰がプヨに変化したと思われる記述もあります。あるいは水が血や葡萄酒に変化した例もあります。わたしは物理には素人ですので、銀が金に変化するのと、杖が蛇に変化し水が奮萄酒に変化するのと、どれほどの違いがあるのかわかりませんが、とにかく、聖書の奇躊としても少ない例です。また、なにも無いところに金や銀が出現するのも、神が新しく金銀をお造りになると考えるには難点がありますし、どこからか持って来るというのにも、なんとなく「奇跡の神」ではなく、 「奇術の神」のような感じを受けてしまいます。歯という小さな目立たない肉体の部分へ現される、あまり必要性の無い奇跡に、大変な奇跡の要素が必要とされるという、不均整が私の「腹痛」の一因かもしれません。

 つぎに、これは癒しというよりむしろ治療であるということです。聖書には治療という奇跡はないように思いますが、どうでしよう。改めて調べていませんので確実ではありませんが。つまり金歯銀歯は、近代の歯科医の治療技術であって、奇跡の神が、人間の医療技術に従わなければならない道理が、どこにあるかということです。同じく「無から生じさせる」なら、金や銀よりも、もともとの人間の歯が一番良いことは明白です。ただもともとの人間の歯と同じでは、「しるし」としては「目立たなく」なって、価値が薄れてしまうことは考えられます。リバイバル新聞の記者氏が書いておられるように、金歯銀歯は「目で確認できる」ところに重要性、あるいは価値があるのかもしれません。そうすると、これは「しるし」としての奇跡と考えなければなりません。そしてこのような「しるし」としての奇蹄は、キリスト以降、重んじられていないことはすでに見た通りです。

しるしとしての金歯銀歯

 金歯銀歯の奇跡の「しるし」としての価値について、もう少し考察してみましょう。金歯銀歯の奇跡が、それを体験した本人にとっては、あるいは目の当たりに確認したクリスチャンにとつては、大きな信仰の励ましになったことと思います。この奇跡にも、信仰の碓認としての価値があるというのは否定できません。このような奇跡の価値は、たとえばエリシヤがエリヤの力を継承した確認として、外套でヨルダン川を分けたことにも現されています。 

 しかし、現在わたしたちは新約聖書が完結している時代に生きています。「見ないで信じる者は幸いである」と、しっかり教えられている時代に生きているのです。幸いに、見ないで信じてきたわたしたちが、どうして今、見て信じる信仰にもどる必要があるのでしようか。奇跡自体が本当に必要とされ、その奇跡を見た結果として信仰が励まされるという、新約聖書以降の一般的なあり方ならば納得できますが、「歯」の奇跡にはそれが無いのです。これも、私の「腹痛」の原因のひとつです。

 またこれは、外部の未信者に対する「しるし」としての力を持つものでしょうか。記事を読む限りこの金歯銀歯の奇跡は、奇跡を認めない種類の人々対してまったく説得力を持ちません。事実確認が間題とされるだけです。また、奇跡の存在を認める人々の間でも、「超科学」としての奇跡を語る人には何の説得にもなりません。残るのは宣教学上の「パワーエンカウンターリング」としての価値、悪霊と対決して勝利を収める「証拠」としての価値を持つかどうかということです。この、悪霊との対決としての「奇跡」は、旧約聖書にも新約聖書にも記されています。ある場合は意図的な対決であり、あるときは結果としてそうなったという違いはありますが、奇蹄の「しるし」としての力のが、イスラエルの神の優越性を示し、また、福音の信頼性を証明して行ったのは事実です。そして、このような力の顕示が現代でも、多くの国々でのペンテコステ信仰の隆盛につながっていることも事実です。

 しかし、これが、現在の日本で宣教の力となり得るかどうかとなると、話は別です。確かに、日本人には、霊界の力による奇跡の存在を認める人たちが、相当の割合でいるという事実から、パワーエンカウンターリングの素地があるとも言えそうです。しかし私たちの周囲では、大勢の占い士たちやオカルト集団によって、もっともっと不思議なことがかなり頻繁に行われている現状から、「金歯銀歯」の奇跡ではあまり分の良い勝負にはならないでしよう。また、パワーエンカウンターリングというのは、普通、同一の場あるいはそれに近い近隣の場で、二つの力が激突することによってもたらされるものです。モーセがエジプトの魔術士と戦った場合、パウロがキプロスでエルマと戦った場合に、あるいはエペソでの働きが、魔術士たちとの対決という結果をもたらした場合などで、それが明白です。現在の日本の「クリスチャンの特別集会」という隔離された場所での奇跡には、パワーエンカウンターリングの要素が欠けています。

 むしろこの種の奇跡は、下手をすると、この種の奇跡に用いられる伝道者たちを、この種のことに熱心なクリスチャンたちの間だけで通用する、「大能と呼ばれる神の力」に、祭りあげてしまうことになるのではないかと恐れます。(使徒8:10)

センセーショナルな新聞記事

 このように見てくると、「歯」の奇跡それ自体は、全能の神にはできないことではないし、それをなさるのは神の自由に属することですから、ただちに否定されたり、拒絶されたりするべきものではありませんが、かなり注意深く取り扱わなければならないこともわかります。聖書の奇躊と照合すると、少なくても良心的なクリスチャンが、大々的にマスコミに乗(載)せるような代物ではないと、言えるのではないでしょうか。そして問題は、このような奇跡が個人的な内輪の体験という範疇を飛び出して、大々的に報じられるところにあります。

 これは、このような奇跡を「持ち望む」体質を、記者も読者もまた体験者も持っているということ、またこのような体験は、さらに多くの人々にも広められるべきだという、願いを秘めていることを意味していないでしようか。これが、「聖書信仰」に立つと表明するわたしたちには、ふさわしくないことなのです。

 単純な聖書信仰に立つ私たちは、「神は今も昔と変わりなく、わたしたちの必要に奇跡をもって応えてくださる」と信じて祈ります。しかし、「歯」の奇跡のように、聖書の奇跡と照合するとき、その必要性と目的、必然性に「異質な要因」が多い奇跡を「一般化」しようとしてはならないのです。せいぜい、そのような出来事が伴ったということを、記録するだけに留めておくべきことです。

 わたしたちのアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の歴史の中にも、今回の「歯」の奇跡のように、聖書的にはそれ自体を否定するだけの根拠が無く、かといって積極的に推進するべき聖書的根拠も持たない出来事が、幾度も起こってきました。そして、そのような出来事が大々的に報じられ、クリスチャンたちの期待が、そのような聖書的根拠が不確かな出来事に集中すると、いろいろな間違いが発生してきました。たとえば、アメリカ・アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団創立の翌年に起こった、「イエスのみ名による洗礼」とい議論とその後の分裂、そしてジーザス・オンリーの発生の問題も、「聖書以外」の新しい「啓示」に対する、人々の期待の高まりが大きな要因でした。「聖書以外」の新しい「啓示」も、神学的には完全に否定することができないと、わたしは考えていますが、そのような、聖書に基盤を持たないもの、あるいは聖書以外のものに、必要以上の期待をかけると、特に集団的にそれが起こると、誤った危険な方向に進んでしまうのです (誤解がないように。聖書以外の新しい啓示がたとえあったとしても、それは聖書と同等の権威を持つものではありません。なぜなら、聖書は啓示の書だけではなく、霊感の書だからです)。

 「歯」の奇跡も、強いて言えば笑いも、倒れることも、否定されるべきものではありません。しかしそれが、聖書が教えることがらと同じように、あるいはそれ以上に強調されると、大変危険なのです。私たちは、それを、自分たちの教団の歴史によって知っているのです。だから、私は「腹痛」を起こしたのかもしれません。

 今回の報道には、まだ他にも問題があります。それは、先にも触れた事実確認ということです。記事の中には歯科医という言葉も出てきて、あたかも事実が確認されているような言い方がされてはいますが、歯科医本人の言葉はありません。わたしが常々問題に感じているのは、このようなセンセーショナルな奇跡の記事の、事実確認が正しく行われているかどうかということです。カトリック教会には、一般大衆の「話」としての「奇跡」がたくさんありますが、教会が正式に奇跡と認定するには、奇跡を調査する正式な機関の、それはそれは、長時間にわたる、恐ろしく厳密な調査を通すことになっています。カトリック教会は奇躊の存在を正式に認め、聖人認定にはその人物が奇跡を行ったという事実を、絶対必要条件にしているほどですが、奇跡の認定それ自体には大変大変、非常に慎重です。(マザー・テレサが聖人として認定されるために、奇跡が不足しているという問題があって、カトリック教会内で揉めていますが)

 今回のリバイバル新聞の報道には、どれ程の事実確認の努力がはらわれたのでしょう。巷の週刊誌ほどでしょうか。センセーショナルですが、説得力がありません。

 このような報道には、どうやら、「クリスチャンは嘘をつかない」という神話が、底辺に横たわっているようですが、いかがでしょうか。数十年伝道者をしてきた私の実感は、むしろ「クリスチャンの言うことなど信用できない」というところですが。 

 クリスチャンが嘘と自覚して、人をだます目的でつく悪意の嘘は、たしかに他の人種よりは少ないと「信じて」います。しかし、自覚していないでつく嘘、つまり、知らないで事実に反することを言ってしまう嘘、人を助けるつもりの親切の嘘。付き合い上の嘘。あるいは、「神様の為を思って」の嘘などは、たくさん転がっているように思います。さらに信じ込もうとして語る、信仰による嘘もあります。「信じて告白」してしまう、あれですね。さらには、実際より少々大げさに言う嘘。大いに盛り上がった集会で、癒しの祈りをしてもらい、ついつい「癒された」と告白してしまう嘘には、いろいろな嘘の要因が含まれています。心理学的に調査をすると、面白いでしょうね。

 新聞という報道機関に求められるのは、もっと慎重な調査ではないでしょうか。わたしが個人的に知っていた伝道者で、癒しの器として用いられていた人は、癒しが起こってから、最低2年という間を置いて事実を確認してからでないと、その話を語ったり、記事にしたりしないということでした。奇跡の物語を大々的に報じて、大きな活動をしている伝道者や牧師は、宗教家としては成功したと言えることでしょう。しかし、神の器として成功しているかどうかは別の話です。

 ところで、この「東京福音リバイバル聖会」という集会の目的は、なんだったのでしょう。リバイバル新聞の記事を読むだけでは、そのあたりが良くわかりません。「歯」の奇跡ばかりに記者の目が捕らわれているからでしょうか。あるいは、この聖会自体が、このような奇跡に重点を量いているからでしょうか。あるいは、「歯」の奇跡がリバイバルの現れであり、また、「歯」の奇跡によってリバイバルが来ると考えているのでしょうか。この新聞記事には、そのような意識が読み取れるのです。そのような意識に対しても、どさまわりの宣教師として食べた、犬にも猿にもおたまじゃくしにも、生のくらげにも白蟻にも、おけらにも、錦蛇にも、ごきぶりにさえも不平を言わなかった、私の腹が痛み出したと思われます。

 リバイバル聖会によって、またそれを報道するリバイバル新聞の記事によって、見ないで信じる幸いな信仰が高揚されたならば・・・・・、たとえそこにどんな奇跡が起こったとしても・・・・、見ないで信じる幸いな信仰が高揚されたならば、大いに喜べますしかし、この記事によると、どうやら高揚されたのは、見ることによって信じる信仰のようです。

 この、見えるものを大切にするのは極めて一般的なことで、ある程度の同情の余地はあります。聖書の中の多くの人々も、見て信じたのです。例えば、福音記者たちでさえ、わずかとは言え、リバイバル新聞の記者のような意識を、持っていたのではないかと推測できます。4つの福音書がすべて取り上げているキリストの奇跡に、五千人を養った出来事がありますが、この奇跡の意義をきちっと説明しているのはヨハネだけです。他の記者たちは驚くべき出来事として記しているだけです。福音書の記者たちも、まだ、 「悪霊どもでさえ、私たちに服従します」と喜んで、自分たちの名が天に記されているという、もっと重要な事実に心が及ばなかった、あの時の未熟さを、まだ引きずっていたのかと考えさせられます。しかし、神はそのような未熟な者の記述にも、霊感という導きを与えて許容範囲に入れ、「よし」と認めてくださったのです。

結び

 わたしたちペンテコステの信仰に立つ者は、神が今も生きておられ、昔と同じように働いておられることを信じ、神の直接の介入を期待して生活をしています。ですから、「奇跡」は当盤のことです。しかし、わたしたちが強調する奇跡は、聖書の中にそれと同じ性質の奇跡があるもの、そういう種類の奇跡であるべきです。聖書の中に見いだされない性質の奇跡も、ただそれだけの理由で否定されるべきではありませんが、強調されてはならないものだと考えます。

 昔、創立間もないアライアンス教団の中で、異言を伴う聖霊のパプテスマの問題が大きくなったとき、指導者であったA.B.シンプソンは、「それは否定されてはならないが、求められてもならない」という裁断をくだしました。これは、異言を伴う聖霊のパプテスマを受けていた人たちの納得を得られず、結果として彼らの離脱と、その後のアッセンブリー教団の創立ということに移って行くのですが、シンプソンの言葉は、聖書の中に充分な例を持たない現象に対して、私たちが、どのような態度を取るべきかという問題について、よい判断を示していると思います。笑うのも、倒れるのも、金歯ができるのも、事実である限り否定されるべきではありません。しかし、求められてはならないし、強嗣されてもならないものだと思うのです。もちろん、シンプソンの間違いは、異言を伴う聖霊のパプラスマに関する、聖書の明確な記述を、少々軽んじ過ぎたところにあったのは、私たちが良く知っているところです。

 最後にもう一度。わたしたちは奇跡の神を信じています。しかし、奇跡に期待し奇跡を重要視するあまり、見ないで信じる信仰から、見て信じる信仰に逆戻りしないように、充分気を付けたいものです。

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