ペンテコステ派論考

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天地創造物語の解釈


 私たちは聖書を誤りのない神の言葉と信じています。しかもきわめて厳格に、聖書は神の霊感を受けて書かれたもので、旧新約聖書を通して、一点一画の誤りもないと信じています。私たちの立場は福音主義を通り過ぎて、しばしば揶揄されている「原理主義」に属するものです。それはアメリカで言うならば、南バプテストやかつてのホーリネス運動に発端をもつ諸教団と同じです。

 ですから、私たちは日本のメディアなどで時おり物笑いにされている「いまだに進化論を信じない時代遅れの人々」に属し、「天地が神によって造られたと信じている単細胞人間」の仲間です。

 とはいえ、聖書を誤りのない神の言葉と信じ、神を天地の造り主として告白していながら、私たちの仲間の多くは、天地創造の物語をそのまま信じることができないで、なんとなく「触らぬ神にたたりなし」の態度をとっているふしも見られます。確かに、少しばかり現代科学の知識を持ってしまった私たちには、天地創造の物語が「あまりにも荒唐無稽」とはいわないまでも、どうしても非科学的に思えてしまい、最もしっかりと信じているはずの牧師や伝道者までも、そこを避けてしまう傾向にあります。名は原理主義者ですが、実態はすこしばかり違うと言うことでしょうか。筆者のかなり長いクリスチャン生涯を通しても、天地創造の物語をテキストとした説教を、聴いた記憶が・・・・・ありません。

 ところが筆者はこの数年間、ずっとこの天地創造の物語から説教し続けています。実際、天地創造の物語こそ、日本人に対する大きなインパクトを持っていると感じているからです。

 天地創造物語の持つインパクトを知るためには、天地創造物語をもっと正しく理解する必要があります。この物語を、科学的知識を持ち合わせていなかった時代の神話と決めつけ、単に道徳的な意味を見出して満足する福音主義の理解でも、すべては事実であり、現代の科学的知識ではこれを理解することができないのだと主張する、超原理主義の解釈でもなく、もっと妥当な、より正しい解釈が存在すると思うのです。

T.天地創造にかかわるキリストの言葉 

 キリストが、直接天地創造に言及したことはありません。しかし、「天地が滅びるまで、律法の一点一画も滅びることがありません」とおっしゃって、天地創造をも含めて、聖書の記事すべての神的権威をお認めになりました。そのキリストが、天地創造に関係のある発言を、すくなくても二度しておられます。

I. A. 神は今に至るまで働いております

 第一は、ヨハネの福音書5章17節に記された、「私の父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」というお言葉です。

 ここでキリストは、「とんでもないこと」をおっしゃったのです。キリストが非常に大胆に安息日を破って行かれたことは、だれでも知っています。それが偽キリストという烙印の元となり、十字架にいたる大きな理由になったことも知っています。でも、安息日を破ることがご自分にとって決して益にならないばかりか、大きな損失と危険をもたらすと予め心得ていながら、なぜ、あえて破って行かれたのでしょう。このあたりもよく考えてみなければなりません。

 安息日を破るごとにキリストは、反対するものたちを論駁しておられますが、ここでは、「父なる神は今に至るまで働いておられる」と明言しておられます。これを聞いたユダヤ人たちは、キリストが神を父と呼び、自分を神と等しくしたと激しく憤りましたが、いま、筆者が問題にしようとしている点については何の反応もしていません。

 創世記2章2節には、「それで神は・・・第7日目に・・・すべての業を休まれた」と記され、3節には「神はその第7日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである」と、はっきりと記されています。(参照・出エジプト20:8−11) この、「神が休まれた」という聖書の記述、安息日制定の理由、根拠、あるいは云われそのものが、こともあろうに、ここでキリストによって否定されているのです。

 キリストに反対する者たちは、この重要な点に気づかなかったのか、比較的小さな問題であると感じて聞き逃したのか、あるいは彼らもこの点においてはすでにキリストと同じ理解だったのか、そのあたりはわかりませんが、これを取り上げて追求することはありませんでした。ところが今のわたしたちにとっては、その点こそ問題なのです。

 律法の一点一画も廃れることがないとおっしゃったキリストが、「神は休まれた」という聖書の明らかな記述を否定されたのです。一点一画をも軽んじることなく受け入れることは、「神は休まれた」という記述を否定することと矛盾しないのです。キリストは天地創造の物語も神の言葉として、廃れることがないものとして受け入れながら、神が休まれたという点においては、そうではないとおっしゃっているのです。いったいどういうことでしょう。

I. B. 安息日は人間のために設けられた

 第二もまた安息日に関するものです。マルコの福音書2章27節には、「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために作られたのではありません」という、キリストのお言葉が記されています。

 ここでもキリストは、天地創造の物語の根幹に関わる問題を提起しています。天地創造の物語とそれを基とした十戒の定めでは、神が第7日目にお休みになったために、人間もそれに倣って、第7日目に休まなければならないということでした。あくまでも、神に倣うという点が安息日の制定理由だったのです。人間が好もうが好むまいが、都合が良かろうと悪かろうと、この安息日の制定は神の行為から生まれた絶対のものと考えられたのです。

 安息日が制定された頃のイスラエル民族の生活は、非常に単純なものでした。社会構造そのものが未発達だったために、安息日に民族全員が休むこともあまり困難ではありませんでした。

 ところが民族が定住生活を始め、社会構造が複雑になるにつれて人々の生活も多様になり、全員が同じ日に休むことはかなり困難になっていました。それにもかかわらず、イスラエル民族はあらゆる不便をしのぎ、生活を犠牲にしながら安息日を守り続けていました。そのように自分の生活を犠牲にすることが、神に喜ばれることであるとさえ理解されたのです。つまり安息日は、一種の苦行と考えられるようになっていたのです。

 それに対してキリストは、安息日そのものが人間のために制定されたのだと、まったく逆の教えを与えてくださいました。天地創造の物語と、それを基にした十戒の戒めが言うように、(出エジプト20:8−11)神が7日目にお休みになったからではなく、人間のために、すなわち人間の健康と生活のために安息日が設けられたと、安息日制定の目的を明らかにしてくださったのです。社会生活の変化とともに、安息日がますます人々の生活を拘束し、不便極まりないものにして、安息日本来の目的が達成されなくなりつつあった時代に、キリストは、改めて安息日の制定の目的そのものを明らかにすることによって、人々を過度な重荷から開放し、誤った苦行の感覚を取り除いて下さったのです。

 では、神が7日目にお休みになったから、人間も7日目に休まなければならないという、天地創造の物語に付随した定め、聖書のすべての律法のなかで最初に出てくるこの律法、またイスラエルの憲法であった十戒の戒は、どのように理解されるべきなのでしょう。

I. C. キリストの聖書解釈

 明らかなのは、キリストは天地創造の物語を文字通りに理解してはおられなかった、字義通りには解釈しておられなかったことです。律法の一点一画も破ることがなかったキリストが、このような理解をしておられるのです。神がお休みになったという記述も、だから人間も休まなければならないという律法も、事実を語ってはいないというのがキリストの解釈です。

 実は、キリストは、他にも似たような解釈を用いておられます。たとえば、離婚についてモーセが離縁状を渡せと書き記したこと、つまり律法にそのように記されていることについても、(申命記24:1)新しい理解を持ち込まれました。キリストは次のように教えられたのです。「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、この命令をあなた方に書いたのです。しかし創造のはじめから、神は、人間を男と女に造られたのです・・・・・・こういうわけで、人は、神が結び合わされたものを引き離してはなりません。」(マルコ10:2−12) キリストはここで、モーセよりも権威のあるお方としてご自分を現しておられますが、今、問題としているのはその点ではなく、その権威をもって、キリストが聖書解釈に新しい方法を持ち込んでおられるという事実です。

 キリストのお言葉によると、「離縁状をわたせ」というモーセの律法は、人々の心がかたくななために、モーセが「妥協」したということです。そしてその妥協を神が承認してくださったのです。たとえイスラエル民族が、神の始めからの目的には添えないほど堕落し、かたくなになり、社会生活の最小単位である結婚においても、狂いを生じてしまっていたとしても、より本来の生き方に近く生きることができるように、神は次善の生き方を定めてくださったということです。

 あるいは「隣人を愛し敵を憎め」という旧約の律法についても、キリストは「敵を愛し迫害するもののために祈れ」と、より高い倫理、より優れた生き方を示してくださいました。ここでもキリストは、聖書の権威を否定しているかのように振舞い、ご自分にはそうする権威があると主張しておられるのですが、今大切なのは、キリストがその権威を持って神の本来のみ心を明らかにし、旧約聖書の教えが、それを受け取ると想定された人々に対する、「妥協の産物」であったことを教えられた点です。

 言い換えると、少なくても律法のあるものは、それを受け取ると想定された人々、倫理においても知性においても知識においてもまだまだ低かった人々が、守ることができるように、また、理解することができるように基準を低くして与えられたものなのです。

 キリストは律法、すなわち聖書をそのように見ておられたのです。それは一点一画もおろそかにしないということと矛盾するものではありませんでした。つまり旧約聖書の読み方は、字面をそのまま理解するだけでは不充分だということです。そこには、倫理においても知性においても知識においても低かった人間に、理解され、受け入れられ、守ることができるような配慮があったからです。

 聖書を読む人はみな、自分が生きている時代の倫理や知識や知性、あるいは社会常識を持って読みます。それは避けることができません。しかし聖書は、そのような感覚だけで読まれ、理解されてはならないのです。聖書が書かれた状況や文化背景をできるだけ理解し、さらにはその聖書が与えられた人々、読者として想定された人たちの知性、理解度、科学知識、社会常識、倫理観など、あらゆるものに配慮して読まなければ、正しい理解には到達しないということです。

U.創世記の著者

 そういうわけで、私たちは創世記が書かれた事情、背景などを知らなければなりません。そこでまず、著者について考えてみましょう。創世記が誰によって書かれたかということは、かなり複雑な問題で、断定はできませんが、一応、U歴代35:12の「モーセの書」という記述が、「モーセの手による」という意味であることを重く見て、モーセが深く関わって書かれまた編纂されたものであるという前提で話を進めましょう。

U.A.モーセの神知識

 ちょっと信じられないかもしれませんが、モーセの神知識は、現代の私たちに比べると格段に低いものでした。モーセの神体験は現代の私たちに比べると非常に高く深いものであり、体験に基づく知識はとても豊富だったはずですが、知的な理解という面では劣っていました。幼子が母親についての細かい知識は持たなくても、体験を通して母親を深く知っているのと同じです。

 モーセが育った環境を考えると、初めのころの彼の神知識は、当時の一般的へブル人と変わらなかったはずです。アブラハム、イサク、ヤコブの神、ヨセフが仕えた神、自分たちの先祖の神、自分たちが仕えるべき神程度の理解はあったかと思われますが、確かなことではありません。ミデアンの荒野での神との対話から推測できるのは、とにかく、非常にあいまいな神知識しか持っていなかったということです。(参照・出エジプト3:1−4:20)彼はミデアンの祭司の娘と結婚していましたので、むしろミデアン人の間に伝えられていた神について、多くを知っていた可能性さえあります。

 ミデアンにおけるこの神との会見によって、モーセは自分たちの神の極めて基本的な知識を身につけました。まず、先祖から伝えられた神の物語は単なる物語ではなく、実在の神の物語であったことがはっきりしました。その神は、「私はある」という神であると、自己紹介をしてくださいました。この「私はある」という名前は非常に含蓄に富み、まさに、すべての存在物の基となった存在であり、時間と空間、次元を超えて存在される方であることが示されています。しかしこの自己紹介を聞いただけで、そのようなことをいくらかでも理解できるのは、たとえ現代人でも哲学的な思考に長け、物理学的な知識に富んでいる者に限られています。当時のモーセにはとても理解できるものではなかったはずです。 

 創世記が書かれたのは、ミデアンの出来事からせいぜい40年以内のことです。イスラエル人たちをエジプトから導き出し、荒野の中をさ迷い続ける中で書かれたのです。モーセの神知識は、体験に体験を重ねて増えて行きましたが、知的な理解としてはまだまだ浅かったと言わねばなりません。現代の私たちならば、歴史の中で積み重ねられた神体験の知識と、多くの人々の考察による神知識を、書物によって学ぶこともできます。しかしモーセの神知識は、もっぱら自分ひとりの神体験に拠ったものだったのです。

U.B モーセの資料

 次に問題になるのは、モーセが関わった創世記の物語の記述は、どのようにして彼の知るところとなったかです。出エジプト記やその後の物語は、モーセ自身が体験し、直接見聞きしたものです。しかし、創世記の物語は、誰かに聞かなければ知ることができなかったはずです。当時、書き物として残されていたことはまず考えられませんので、口伝によるというのがいちばん無理のない考え方です。しかし、それだけでは、ノアの洪水以前の物語、特に天地創造の物語については説明がつきません。

 たとえ、創世記の歴史物語の多くの部分が口伝によるものであったとしても、かなりの部分、あるいは仔細に渡る部分は、神からの直接啓示がなければ書くことができなかったものです。特に天地創造物語などは、その大部分もしくは全体が、神からの直接啓示と考えるのが妥当です。それが言葉による啓示だったのか、幻や夢、あるいはほかの方法を通しての啓示だったのか知る由はありませんが、大切なのはそれが霊感されて書き記されたという事実、つまり、記述に当たっては聖霊が干渉されて誤りのないものとされ、書きあがったものの一点一画に至るまで、神がそれでよいと太鼓判を押してくださったという事実です。

 私たちは、たとえばどこかに天地創造物語に似た伝承があったとしても、あるいはノアの洪水物語に似た伝説があったとしても、そしてそれが創世記の著者の知るところとなっていたとしても、まったく問題にする必要はありません。大切なのは、どのようにして著者がそれを知ったかではなく、それを書き記すに当たって聖霊が導き、間違いのないものだけを書かせ、神ご自身がその記述を承認されたという事実だからです。

V.創世記の読者として想定された者

 創世記の著者が想定した読者は、21世紀の現代人ではありません。当然、当時のイスラエル人たちでした。つまり右も左もわきまえない、正しい神についての知識はまったくと言ってよいほど持ち合わせていなかった、3千数百年前の人々でした。しかも、当時の学問さえも習得する機会を持てなかった奴隷上がりの人々です。彼らの知識、彼らの知恵、彼らの思考力は、お話にならないほど低かったのです。たくさんの迷信俗信に囚われた宗教観を持っていたことでしょう。

 現在クリスチャンと呼ばれる人たちの間でさえ、カトリック圏に住む一般大衆の迷信俗信ぶりは、目に余るものがあります。聖書を大切にすると公言する私たち、ペンテコステ系の教会の中に興ってくるシンクレティズムを思い出してください。まさに目も当てられない状態です。ましてや当時のイスラエル人には、聖書がなかったのです。現代の牧師からすると、惨憺たる状況だったに違いありません。その人々に初めて与えられた書物が、聖書であり創世記だったのです。

V.A.わかり易く書かれた天地創造の物語

 ですから創世記の大切な特徴のひとつは、そのような当時の人々にわかり易く、理解しやすく書かれていることです。どのように優れた内容であっても、読者が理解できない書き方では役に立ちません。創世記はそういう配慮の下に書かれているのです。

 中でも、天地創造の物語のように、人間の理解力をはるかに超えた事柄については、難しい話し方は一切できません。たとえば、現代人が興味を持つような、科学的な説明のしかたを選んだとすると、当時の人々には理解されることも、受け入れられることもなかったでしょう。生物学的な説明や天文学的な説明を正確に用い、時間的順序や年代を間違いなく記したとしても、読者には何の意味もなかったことでしょう。

 ですから、天地創造の物語は当時の人々の理解力に応じて、言い換えれば、当時の人々の理解力に妥協して書かれているのです。離縁状を渡せと言う戒めが、当時の人々のモラルの低さや生活環境に妥協して与えられたのと同じです。天地創造のような人間の理解力を超越した物語は、たとえ科学的知識に満ちている現代人に対して、非常に科学的な書き方で与えられたとしても、さらに進んだ科学の見地から見ると、とても曖昧で、不足だらけの「非科学的表現」とならざるを得ないでしょう。

 なにしろ天地創造の話は、時間と空間を超え、無から有の発生を取り扱い、物質の存在自体を問うという、まさに次元を超越した物語なのです。現代科学の粋を集めても、良くて推測、おおよそは単なる憶測、大部分は空想以上のものにはなりえないのです。ですから、この物語を現代科学の目で見ること自体が誤っているのです。全知全能の神が、当時の無知な大衆を教えるために、わざわざ程度の低い話にしてくださったのです。幼稚園の子供に、赤ちゃんがどのようにして生まれるのか、親の性生活から始めて、受精、着盤、生育など、さらには血液型から遺伝まで、最近はやりのDNAをふくめて教えようとする人はいません。できる限り単純化して教えるのです。

V.B.記憶され易く書かれた天地創造の物語

 天地創造の物語は易しく書かれただけではありません。覚え易く記憶され易いように書かれているのです。

 筆者が宣教師として働いていたフィリピンは大変貧しく、学校に行けない子供がたくさんいました。当時、紙と鉛筆という基本的文房具でさえひどく不足していたものです。特に私が活動した山岳奥地には、電気水道ガス電話だけではなく、読み書きの習慣がまったくありませんでした。人々はもっぱら記憶にたよったのです。大切な事柄は物語にして覚えていました。その記憶力がまた驚異的なのです。紙に書いてしまったら、後はそのまま忘れてしまう日本人とは大違いでした。

 礼拝会などの集会では、20くらいの歌を歌うのがふつうでしたが、誰も歌の本など持っていません。電気がないのですから、オーバーヘッド・プロジェクターもありません。すべて暗唱しているのです。脳内プロジェクターガ脳内スクリーンに映し出すのです。聖書の教えも物語も、すべて暗記です。

 筆者はひそかに、フィリピン人が世界でいちばん頭がいいのではないかと思っています。まず、あまり頭が良い部類には入らないはずの、バスの車掌さんの頭の良さに驚嘆しました。マニラからバギオまでは7、8時間かかります。途中たくさんの停留場があり、少なくても5、60人の客が乗り、いつも満員です。

 バスが出発すると、車掌さんはまず前列の乗客から始めて順番に、全員の行き先を聞いて回ります。それから運転手の隣の席にもどり、全員の切符を準備します。高速で走る揺れもものともせず、行き先と料金と日付けとバスの番号を示す複雑なパンチをいれ、また最前列の乗客から始めて最後尾まで、間違いなく一人ひとりに切符を手渡して行きます。筆者ならば、ここまでで10くらいの間違いは犯すはずです。

 ところが、それからまた運転席の隣に戻り、最前列から初めて一人ひとりから料金を徴収して行くのです。100ペソ紙幣を出すもの、500ペソ紙幣を渡すもの、1000ペソ紙幣で払うもの、小銭を混ぜるものとまちまちです。そして最後尾の乗客から料金を受け取ると、また運転席の横に戻り、全員のお釣りの準備をします。すべてのおつりが整うと、・・・・・・・ずいぶん時間をかけて、時には1、2時間もあとになって・・・・・、小銭がないときには、前列の客と小銭のやりとりをしたりして・・・・・また、最前列の乗客からおつりを返し始めて、最後尾まで行くのです。この間、およそ3時間から4時間は経過するのがふつうです。

 筆者はバスに乗るごとに、その見事さに舌を巻いたものです。いつも切符に誤りなくパンチが入っているか、おつりが正しく返されているか、1ペソの4分の1まで意地になって確かめるのですが、間違いを発見したことは一度もありません。また、ほかの乗客がクレームをつけているのも見たことがありません。

 モーセの時代のイスラエル人も、基本的に記憶する文化に生きていました。当然、現代の日本人が考える情報伝達法とは、まったく異なった方法があったはずです。簡単に覚えられ、記憶に都合がいいように構成された話法、伝達方法がとられていたはずです。創世記はそのような記録の書物であり、天地創造の物語は、そのように配慮された物語であったはずです。創世記は書棚に納められるべき本でも、机の上に開かれているべき本でもなく、記憶され、伝達されるべき本なのです。

W.天地創造物語の構成

 では単純な社会生活の中で、ごくわずかな神知識と、すずめの涙ほどの合理的思考能力しか持ち合わせていなかった当時の人々に対して、天地創造の物語を伝える目的はどこにあったのでしょう。純文学から大衆小説、ドキュメントから歴史小説。さらにありとあらゆるジャンルの書き物があふれる現代ではなく、書物が非常にまれであった時代のことです。単なる娯楽の読み物として与えられたのではないことが明白です。

 圧倒的多数のイスラエル人たちは、文字に親しみを持っていませんでした。彼らが目にすることができたのは、石に刻まれた比較的短い民族的記念文や、商取引などのために残された粘土板の文字に過ぎなかったのです。彼らにとって創世記のような長い書き物は初めてであり、たぶん羊皮紙にさえなじみがなかったことでしょう。

 また、彼らのだれも、物理だとか生物学だとか言うものに興味を持っていなかったでしょう。そのようなものは、ほとんど何の役にも立たなかった時代のことです。そのような人々に、天地創造の物理的説明や、生物学的な区分を教えようとしたのでもないはずです。つまり、事実の羅列であったはずがありません。あくまでも当時生きていた人々に最も大切で、有益な情報を与えるためだったはずです。しかもわかり易く、覚えやすく、思い出しやすい方法で与えられたのです。

W.A.神の自己紹介

 当時のイスラエル人たちは、たぶん、先祖伝来の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神を信じていたとはいえ、その神意識は薄くおぼろげで、神概念は怪しげでした。エジプトの宗教の影響も受けていたことでしょう。人類文化があったところはどこででも、シンクレティズムが一般的だったのです。彼らは自分たちの先祖の神を、当時のエジプトの人々が信じていたかもしれない太陽の神、月の神、星の神、川の神、鰐の神、牛の神、蛇の神、蛙の神、魚の神、蝿の神さらには豊穣の神などと、混ぜこぜにしていたことでしょう。そのような中で、神が最初にしなければならなかった大切なこと、イスラエル民族にとっても、神ご自身にとってももっとも重要なことは、ご自分をはっきりと知らせること、ご自分がどのような神であるかを間違いなく理解させることでした。

 天地創造の物語が書かれる数十年前、神はご自分を「わたしはある」神として、紹介してくださいました。これは非常に優れた自己紹介ではありますが、先に述べたように、モーセにもはっきりとは把握できなかったほど、高度なものでした。ですから、一般大衆にはおおよそ理解不可能なものだったと思われます。それは出エジプト記の記事に明らかです。神はご自分がどのような神であるかを、救い出そうとするイスラエルの大衆に教えるために、目に見えるたくさんの奇跡を行わなければなりませんでした。それでもまだ、大衆の神観念はあまりにも低かったのです。

 そういうわけで改めて、聖書の最初、創世記の最初、天地創造の物語の最初に、非常に単純で明快、しかも力強い神の紹介があるのです。天地創造の物語は、創造された天地が主役ではありません。創造した神が主役です。天地ができた次第はこうであったと始まるのではなく、いきなり、「初めに、神が天と地を創造された」と始まるのです。天地創造の物語だけでなく、創世記全体が、神が主役の物語なのです。

 「初めに、神が天と地を創造された」という短く単純な記述は、大昔の人々もそれなりに理解できるものでした。天地創造の神という紹介を通して、神は、当時のすべての神々を超絶した存在として、周囲の神々とはまったく異なる、比べることができない巨大なそして強大な神として、ご自分を現してくださったのです。

 これによってイスラエルの人々は、自分たちが信じ仕える神をはっきりと知り、他のあらゆる神々と区別することができるようになったのです。これがなければ、彼らが自分たちの神を他の神々と区別するのは、容易なことではなかったはずです。現在の日本で「神」と言った場合、いったいどの神かわからないのと同じで、彼らが使っていた「神」という言葉も、周囲の人々が使っていた神々を意味する言葉と同じで、区別がつかなかったからです。ところが、神のこの自己紹介によって、彼らははっきりとした神意識を持ち、天地の創造者という明確な定義をもって神を呼ぶことができるようになったのです。

「初めに、神が天と地を創造された」という記述はまた、非常に深遠な意味を持つものです。科学が飛躍的に進歩し、最先端の物理学が、暗黒物質や異次元の存在を実証しようとしている21世紀の現在でさえ、汲み尽くすことができないものです。それは時間と空間と物質の限界を超えた神、無限の神を示す言葉なのです。

 さらにまた、人間は神に似せて造られたという教えからも、人々は神の姿を類推することができたはずです。これを逆思考すると、神が非常に人間的な神であることがわかります。とはいえ、神は人間とまったく異なった大きな存在です。人間の限りある想像力では、霊的存在であり見ることも触れることもできない神、五感では感知することができない神をいくらかでも理解するには、どうしても擬人化したり、被造物のイメージに乗せたりして表現しなければならなかったのです。それは現在でさえ同じです。擬人化が行われなければ、逆に、太陽の神、月の神、あるいは牛の神、猫の神というように、被造物に似せて神をイメージしているのです。

 ところが天地創造の物語において、人間が神に似せて造られたと知って、神は下等な被造物から想像するべき神ではなく、人間の姿から類推すべき神であると理解したのです。太陽の神、川の神、牛の神、蛙の神という感覚に比べると、まったく質の違う神を思い浮かべることができたはずです。また、極めて人間的な感覚、感情をもち合わせている神を想像することもできたのです。これは、当時にあっては非常に革新的な神観の提示であったはずです。

 もちろん現在のわたしたちは、これとはまったく逆の思考方法で、人間とは神に似て霊的な存在であるとか、神に似て知情意を持つとか、神に似て創造性を持つとか、さまざまなことを言うことができます。ただ、創世記が最初に想定した読者は、まず、当時のイスラエル人でしたから、彼らは自分たちの姿から、神の姿を想像することができたという事実が今大切なわけです。

 天地創造の物語は、神の自己紹介の物語です。天文学の書物でも、生物学の書物でも、物理の書物でもありません。そこから進化論を弁じたり、天文学を論じたりしようというのが、すでにわき道にそれているのです。

W.B.人間の出自

 「どこの馬の骨かもわからないやから」という言い方があります。個人にとっても出自がわからないことは不安です。アイデンティフィケーションが欠け、自分が誰であるかわからないのです。これでは自分というものに自信が持てません。他人の信頼も薄くなってしまいます。

 同様に家族という共同体も、自分たちが誰であるかをはっきりさせるために、家系を重んじ、偽の家系まで作り出します。民族や国家も、それぞれの出自を語るために、苦労していろいろな神話まで作り出しています。人間はアイデンティフィケーションを求めています。自分が誰であるかを問い続けているのです。

 創世記はイスラエル民族の出自を語るものです。そして天地創造の物語は人類の出自を告げるものです。ここにおいて、人間はどこから来たのか、どのようにして存在するようになったのか、それ以上に、人間とはなにかという根本的な問題に対して、答えが与えられているのです。

 人間は神に造られました。直接神に造られたのです。神に造られたものの相互作用によって偶然にできたとか、造られたもののなかから進化して生まれてきたとか言うものではありません。ですからはじめから神のみ心、神のご計画、神のみ業の中に、自分たちの存在意義を持つものです。しかも、他のあらゆる創造物とは異なって、人間は神に似せて造られているのです。特別な上にも特別な存在です。

 さらに人間は、神からの使命、役割を与えられています。それはあらゆる被造物の上に立ち、これを治めるという重要な働きです。人間は神の創造物の管理者とされたのです。その上、人間は男と女に造られ(イエス様によると一夫一婦制を定められ)「生めよ増えよと」と命じられて、基本的生き方が示されたのです。

W.C. 人間の生活サイクル

 人間の出自と共に、人間の使命というか、基本的役割が示されました。それと共に、人間の生活サイクルとも言うべきものが示されています。それが安息日です。安息日の制定は、人間がどのような生活をするのがいちばんよいかを教えたものです。安息日は人間のためにあるのです。つまり、6日間働いたら1日休むと言う仕事と休息のサイクル・リズムが、人間にとって一番よいと教えられているのです。

 これはいわば、複雑な新製品を買ったときに必ず付いてくる、マニュアルのようなものです。人間をお造りになった神様が、人間に添付した使用マニュアルです。人間は6日間働いた後には1日休むと、いちばんよい生活ができるように造られているために、安息日が制定されたと考えるのがいいでしょう。肉体的な健康、精神的健康、またそのような人間が生きる社会の健康にとって、最善だと言うことです。

 人間は単純な機械ではありませんから、少々の無理があっても、すぐに壊れてしまうことはありません。体は有機体として自分で治癒して行く力も与えられています。しかし、無理が続くと次第に疲労して、肉体も精神も社会も病み、壊れて行きます。長い間奴隷として無理やりに働かせられていた当時のイスラエル人には、この安息日の概念、休みを取ると言う考え方が特に重要でした。

 安息日はまた、人間が肉体を休めるだけではなく、神を思い感謝し礼拝するべきときであり、霊的命の健康を支えるためにも重要でした。申命記5章12−15には、安息日の目的が示されています。ここでは、神が7日目に休まれたのだから人間も7日目に休むという理由が、エジプトから救い出してくださったことを覚えるために、安息日を聖とすると変えられています。安息日は神を想い神に感謝し、神を礼拝するべき日なのです。

 ここに、神が人間をお造りになった目的の成就があるように思います。神の姿に似せて造られた人間は、神を感知し、神を理解し、神と交わりを持ち、神をたたえ、神に感謝しながら生きるようにされているのです。すべての被造物は神の栄光を現すために造られています。ただし人間は、命のない物質や、命を持っていても意識を持たない植物や、食べ、繁殖し、意識を持っていても神を意識することができない動物たちと違って、はっきりとした神意識を持って神を礼拝し、神の栄光を現すのです。そして霊的な命をいただいている人間は、霊である神との交わりを持つことによって、霊的命を保ち、霊的健康を維持することができるわけです。

 安息日の制定は、人間を拘束し、人間に不自由を与え、人間に犠牲を強要するためではありません。あくまでも人間の益のために定められたのです。安息日を守ることには、人間の肉体的健康、精神的健康、そして霊的な健康と社会的健康がかかっているのです。

W.D.天地創造物語の目的

 神は何のために、天地創造の物語を聖書のはじめに置かれたのでしょう。科学的知識のまったくない当時の人々、また科学的知識をまったく必要としていなかった当時の人々に、科学的に正確な天地創造の事実を伝えようとしたのでないことは、すでに明らかとなりました。

 天地創造の物語は、天地創造の事実を説明するための物語ではありません。むしろ、人間がどう生きるべきかを示すものであり、なぜそのように生きるべきなのかを示しているのです。天地創造の物語は、天地創造の事実を基にして、人間の生きるべき姿を教えたのです。事実そのものではありません。しかし嘘でもありません。事実を基とし、事実を用いて、もっと大切なことを教えようとして、物語化した物語なのです。

 特に、筆記用具が不十分で、読み書きのできない者が多く、印刷物のない文化では、どこでも、物語法とでもいうべきこのような方法が一般的だったのです。(現代聖書解釈の問題で取り扱われる物語法とは別のものです)昔から世界で最も識字率が高く、立派な紙がすかれていた日本でさえ、「嘘を言ったら閻魔様に舌を抜かれる」とか、「食べてすぐ寝ると牛になる」と言うような、科学的事実に反した教えがありました。しかしそれは嘘ではありません。当時にあっては、物質の科学的事実より大切であった心の科学的事実を、印象深く覚えやすく伝えやすく教えようとしたことなのです。

 このような物語化は、あるいは啓蒙思想に影響されて合理性を追求した近代西欧人には、馴染みのない手法であったかも知れません。しかし、物語を通して真実や真理を伝える方法はどこにもあったのです。近代西欧も例外ではありません。娯楽を目的とした大衆小説ならばいざ知らず、文学と言われるものは大抵、物語の形を通した作者の主張であり、また世に自分の哲学を問うものです。

 たとえば、紀元前5世紀頃に書かれたと言われているイソップ物語は、そのような主張や哲学がふんだんに含まれた寓話集です。ただし、天地創造の物語は単なる寓話ではありません。フィクションではないのです。それは基本的に事実なのです。ただ、事実を事実のまま伝えても、あまりにも壮大であるために理解されず、伝えようとする大切な事柄も伝わらないために、理解されやすく、記憶されやすく、事実を再編成した物語なのです。

 ところが、日本のキリスト教が最も影響を受けたアメリカ人の間には、事実と真実とを同一視する傾向があり、事実に反することは嘘であり真実ではないという感覚があります。啓蒙思想から合理主義そして自然科学と進み、物の世界を重視する現代人の考え方でも、物の事実が真実あるいは真理とされてしまいます。心の事実は事実でも真実でもなくなってしまいます。

 突然若い女性が林から飛び出してきて、細い道を北に逃げて行くのを見たとしましょう。驚いていると男が追いかけてきて、凶器をかざして女はどっちに逃げたと訊きました。読者であるあなたならどう答えますか? 物理的な事実は北側です。しかし、心の真実は南です。ところが、筆者が学んでいたセミナリーでクリスチャン倫理を教えていた、原理主義のアメリカ人教授はあくまでも事実に対して正直に、われわれは北と答えなければならないと主張しました。筆者は南と主張しました。一緒にいたインドネシア人は知らないと答えると言い張りました。もうこうなると、「勝手にしやがれ」です。アメリカ人教授は、物理的事実と真実を取り違えたのです。筆者とインドネシアのクリスチャンは、少なくても、心の事実を物理的事実に先行させたのです。

 創世記が書かれた当時のイスラエル人の感覚は、心の真実よりも物理的事実を重んじる、このアメリカ人教師のようなものではなかったのです。聖書も嘘を言うことを禁じていますが、もしも事実に反することを言うのが嘘だと、原理主義者のように定義するなら、聖書の中には嘘を言って神に祝福された人たちが随分いることを知るべきです。神に愛されたダビデ王も、ひどい嘘つきでした。イエス様も嘘を言いました。神様も嘘を語っておられます。ちょっと注意して読むだけで、聖書の中にたくさんの嘘を発見することができるはずです。聖書が言う嘘とは、事実に反したことを語ることという定義には、当てはまらないのです。

 先に擬人化について少し触れましたが、神についての聖書の記述のほとんどは、擬人化された表現です。「事実、事実」と言うならば、擬人化された表現も事実ではありません。神の手といい、神の目といい、神の口といい、神の足といい、神の息と言いますが、すべて事実に反する擬人化です。神に手足があるはずもないのです。神が歩くと言うのも、この文章の導入として用いた神が休むという言い方も、もすでに擬人化で、事実ではありません。

 もっと厳しく言うならば、神が愛してくださるとか神が喜んでくださると言うような表現さえ、擬人化されたものです。人間の五感で捕らえることもできず、限りなく壮大な神の心を語るには、人間の小さな心の動きから類推して表現する以外にないのです。ですから、神の愛や神の喜びといった神の心の動きを、人間の心の動きからの類推に過ぎない理解のうちに止めてはならないのです。人間がわずかにでも神を理解できるのは、人間が神に似せて霊的な存在として造られているからですが、あくまでも有限なのです。

 イスラエルの人々の間では、物理的には事実に反する物語を語りながら、目に見えない重要な事実、心の真実を語ることが多かったことを知らなければなりません。それは何もイスラエルに限ったことではなく、ほとんどの文化に共通なことです。アメリカでさえ、本当はそうなのです。思いやりは常に嘘をつかせます。アメリカ人も思いやりにあふれています。ところが原理主義のクリスチャンとくると、物理的事実を先に出して、思いやりさえなくなってしまうのです。

X.天地創造で教えられた生き方

 天地創造という壮大な物語を用いて、神が教えようとなさったことは何だったのか。その点はすでに幾度も触れてきました。神とはどのようなお方なのか。人間とは何なのか。そして人間はどう生きるべきかという、極めて基本的なことがそれです。そのほかにも、神が教えようとなさったことがないとは言いませんが、これら三つが基本です。

 これらのなかで、神はどれを本当に教えたかったのでしょう。当然、「人間はどう生きるべきか」です。そう理解するのがもっとも無理がなく自然です。もちろん、神とはどのような方かと言うことも非常に大切で、聖書全体を通してのひとつのテーマであり、聖書全体が「神が主役」の書物ですが、ここではそれが中心ではなさそうです。むしろそれは、人間はどう生きるべきかを教えるための、前提を示したと見られるべきです。また人間とは何かという基本的な教えも、極めて重要ですが、ここでは、人間はいかに生きるべきかを教えるための、導入として用いられたと考えるのが妥当です。

 つまり天地創造物語は、人間はどう生きるべきかを教えた、安息日制定という目的のための導入だったのです。そう考えて初めて、天地の創造の順序を6日間にまとめている理由がわかるのです。神が6日間ですべてのものを造ったのではなく、6日間働いて1日休むという、人間にとって最もよい生活サイクルを教え、安息日を制定するために、理由付けとして6日間の天地創造の働きの話が創られたのです。これを、事実に反するから偽りだとか嘘だとか言うのは、文化の違いです。

 イスラエル人が語り伝えたい趣旨にそって、出来事の順序を変えたり、削除したり、数合わせをしたりしながら、事実を整理して記録し、理解しやすく記憶しやすく語り伝えたことは、ここだけに見られることではありません。新約聖書では、ユダヤ人読者を想定して、ユダヤ人の記述手法をもって書かれたマタイの福音書に、そのような例がいくつか知られています。たとえば、キリストの系図は、わかり易くまた覚えやすくなるように、「事実に反して」、14代、14代、14代にまとめています。マタイがユダヤ人の手法を用いたとわかるのは、他の福音書と比べて読むことができ、また旧約聖書と照らし合わせることができるからです。ところが、天地創造の物語には、そのように比較するべき書物がありません。そのために、なかなか気づかれないで来たのです。

 毎日休みなく働き続ける現代人には、6日の労働の後に1日休むサイクルの重要性がわかりません。しかし、人間はそのように生きるのがいちばん良いように造られたのです。それを無視しているために、人間の健康も社会の健康も崩れているのです。キリストは、安息日は人のためにあるとおっしゃって、人間が安息日に拘束されるべきではないことを教えてくださいました。でも安息日の大切さ自体を否定なさったのではありません。複雑な現代にあっても、人間はできるだけ7日の内1日は休みにするべきです。

 当時のイスラエル人が安息日を守ることは、社会構造が単純であったために比較的容易であったとはいえ、非常に大きな問題がありました。それは、彼らが常に敵に取り囲まれ、いつ攻撃されるかわからなかったからです。聖書には、イスラエルの民が安息日を守っている間に敵に攻撃され、苦境に立たされてしまったという話は記録されていません。これはとても不思議だと言わなければなりません。聖書が記録した期間に、イスラエルが交戦したことは数え切れないほどです。しかし安息日にはそれがないのです。敵はイスラエルが安息日を守っていることを知っていたはずですし、安息日に攻撃するといかに有利であったか、だれでもすぐにわかりました。神の守りがあったという以外に、言いようがありません。

 神は安息日を守ろうとするイスラエルを守ってくださったのです。安息日を守らなかったイスラエルは、神の祝福を失いました。しかし、イスラエル人が律法主義に陥り、安息日を人々の負担とし重荷としてしまったとき、キリストは安息日の主として、安息日は人のためであると宣言されたのです。

 わたしたちは天地創造の物語を読み、やれ非科学的だとか、いいや科学的で間違っていないだとか、進化論がどうの、ギャップ・セオリーがどうのなどと論じるのではなく、(ギャップ・セオリーとは、天地創造の物語を現代科学と調和させるために考え出された仮定のひとつで、創世記1:1と1:2の間に長時間のギャップを想定し、その中に、たとえば恐竜の時代などを置こうとするものです)神がお伝えになりたかったことをしっかり学び取り、現代の自分たちの生活に生かして行きたいものです。

終わりに

 ここまで読んでも、まだまだ納得できない人がいることでしょう。何が何でも、神は6日間で万物を創造なさった。しかも書かれている通りの順序で創造なさったと、信じ続けたい人もいるでしょう。では、そのように信じ続けてはいけないのでしょうか。

 信じ続けていてもかまわないのです。実際、クリスチャン信仰にとって、そんなことはどうでも良いのです。天地創造の物語を、一字一句間違いなく事実であると信じていても、クリスチャン信仰には、何の問題もありません。それでもいいのです。創世記が与えられたとき、人々はそのとおり信じていました。その通り信じることを前提に、神はそのようにお教えになったのです。そして15、6世紀までの聖徒たちはみなそう信じていたのです。それで少しも問題はありませんでした。

 ただし、現代のクリスチャンがそのように信じ続けるのは、かなり困難です。それでいながら、信じると告白させられ続けていることが問題なのです。そこで、そんな告白はしなくても良いのだと言うために、筆者はこの文を書いているのです。

 未信者との会話や伝道の場で、天地創造に話が及ぶと、まじめなクリスチャンの多くがつい及び腰になってしまいます。でも、筆者の言うことを聞いてくださるなら、及び腰になる必要はなくなるはずです。話がそこに及んでも平気で語り、堂々と伝道ができるのです。

 創世記が与えられた当時のイスラエル人のように、多神論・汎神論・シンクレティズム文化の中で、曖昧模糊とした神観しか持ち合わせていない現代の日本人に、もっと効果的に、天地創造の神について話すことができるはずです。時間と空間と物質の限界を超えた神、次元を超越した神、全知全能でありながら、直接人間に関わっている神、わたしたちを助けることができる神について、語ることができるはずです。

 また人間が唯一、神に似せて造られた霊的な存在である事実から、わたしたちはもっと効果的に人間の宗教本能について語り、神を認め、神を信じて生きてこそ人間であることを語ることができます。神を認めない生き方は、人間であることを止めた生き方で、犬猫と変わらないと諭すこともできるでしょう。神を認めずには本当に人間らしい生き方ができないことを教え、神を礼拝してこそ、人間としての喜びと感動と満足を味わうことができることを、確信をもて主張していくべきです。

 さらに、人間が神に似せて造られた事実からは、愛である神の愛の対象として、神の愛を理解できるように造られていることを教えることができます。神の愛を知って、それを受けている実感を持つことができなら、孤独に陥ることも、自分の価値を見失うことも、生きる意味を無くしてしまうことも、ありえないと励ますことができます。神の愛を楽しみ、神を愛する喜びをもってこそ、本来の人間であることも語り伝えることができるはずです。愛の対象である人間に対する神の特別な祝福と恵みも説明することができます。

 その上に、忙しく働くだけが人間ではないと諭し、肉体的にも精神的にもしっかりと休養するために、安息日の原則を大切にするように薦めるべきです。そして安息として定めた日には、霊である神を礼拝し、交わることによって、霊として造られた自分たちに新たな命を流し込んでもらうべきことを、理解させるべきです。

 天地創造の物語を正しく理解すると、現代人に対する実に多くの福音と、メッセージが含まれているのです。神の言葉には誤りがありません。人間が誤った読み方をし、誤った解釈をして、聖書は誤っていると、誤った断定をしてしまっただけです。正しく理解し、正しく理解するように励まし、正しい理解の中から、堂々と福音とメッセージを伝えて行きたいものです。

 啓蒙思想から合理主義、そして自然科学へという流れに押し流されて、聖書の記述を間違いとしか理解できなくなってしまった人たちの、まちがった聖書の読み方を認めて、自分たちも間違った読み方をしながら、天地創造は事実であると論争してはならないのです。合理主義の土俵で相撲を取ることがすでに間違いなのです。聖書は合理主義思想の中では書かれていないからです。

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