A Lecture on Shinto

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結論


 神道的感覚を精神土壌としている日本人に、より有効に福音を語り、宣教を推し進めて行くために、私たちはいま、欧米的な聖書の理解からより真実な福音を求めて、まじめに聖書を学びなおす必要に迫られています。そしてまた、宣教の対象である日本人というものを、神道という日本の文化の中で理解する必要があります。すると、おのずから、今までのキリスト教の日本人に対する態度、日本文化に対する態度に、変化が出てくることでしょう。現在の日本における伝道は、聖書の学び、福音の理解、人間の理解、文化の理解が、まだまだ不充分だったときのまま、反省することは失敗することであるかのように、旧態依然として行われているからです。

 余談ですが、九州教区恒例の阿蘇聖会に、今年特別講師としてお招きしたウイラチャイ・コワエ先生と、伝道牧会について随分いろいろ話し合う機会がありました。先生は、1969年に仏教国のタイで伝道を開始し、タイ・アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団を設立なさいましたが、31年後の現在、自分の開拓した教会を始め、34の娘教会を建て上げ、80を超える教会、4,500人のクリスチャンの指導者として働います。2006年までには、娘教会の数を100にしたいと意気込んでおられました。タイは日本よりかなり長い宣教の歴史を持っていますが(アドニラム・ジャドソンにさかのぼる)、強い小乗仏教の国柄、クリスチャンの数の割合は、日本と同じ程度に過ぎません。日本と同じように、「福音の不毛地」などと言われて久しい中、非常に目覚しい働きをしていると言えます。5月の末の日曜日に、バンコクにある先生の教会で礼拝説教をしたときには、およそ350人ほどの大人が出席していました。同時に進められていた青少年の集会を合わせると、500人を超える人たちが集まっていたことと思います。

 先生の伝道では、決して仏教の悪口や批判がましいことは言わないそうです。偶像攻撃もしないそうです。近所に葬式があれば、当然仏式で執り行われるのですが、できるだけ出席するように心がけ、信徒にもそのように指導するそうです。いろいろな手伝いを率先して行うだけではなく、手も合わせ、焼香もするそうです。先生の信仰では、そのようにすることは決して聖書の信仰に反することではなく、かえって、そうしないのが聖書の教えに反するのだそうです。今年の阿蘇聖会の説教でも、モーセが異教の祭司をしている義理の父、エテロに会ったときの態度に触れて、たとえ相手が異教徒であっても、礼節を尽くすことが大切であるとお語りになった通りです。

 先生が嫌っているのは、アメリカ式の伝道です。地域社会や家庭を無視した個人主義的伝道が、どれほど福音伝道の妨げになってきたかを、熱っぽく語ってくださいました。高々二百数十年の歴史しか持たず、伝統とか文化というものに繊細な感覚を持っていないアメリカ人が、タイのような長い伝統文化を誇りとしている国の人々に、無理やりアメリカ化した福音を押し付けても、激しい反発を起こすだけだというのです。

 彼は言っていました。「たとえば、タイと言う国では、優しさ、奥ゆかしさ、礼節というものに大きな価値を認めてきた。しかし、アメリカから入って来たキリスト教には、そのうちのひとつも見出せない。でしゃばりで、他人の迷惑には無頓着で、礼儀をわきまえない。アメリカのキリスト教は、アメリカ文化の中では社会的にも価値のある、立派なものであろうとは思うが、タイという国の文化に触れると、まったく異なってしまう。」また、言っていました。「たとえば、アメリカ人がタイに来て家族について教えようという。千年以上にわたって家族の文化を築き上げて、今もその文化を大切にしているタイ人に、家族の文化を否定して、家族を破壊してやまないアメリカ人が、こともあろうに、その家族について教えようとでしゃばる。タイ人は、そのような高慢なキリスト教に我慢ができないのだ。」

 ウイラチャイ先生は長い間多くのアメリカ人宣教師と付き合い、そのすばらしさを充分に認め、感謝の念を持ちながらも、いろいろな場で、これと似たような発言をしてきました。ですから、当然のように、アメリカ人宣教師の間では、あまり好かれてはいません。言っていることには一理も二理もあると理解しても、その過激な発言に、つい腹が立ってしまうのでしょう。しかし、このようなウイラチャイ先生の働きと発言を高く評価し、協力しようというアメリカ人宣教師もまた、少なからずいるという事実は、アメリカ人の懐の深さを示しています。思わず、アメリカ人って、すごいなあ〜と感嘆してしまいます。

 日本のキリスト教は、ある面では非常に日本的です。ひとたび欧米式のキリスト教が出来上がってしまうと、それがキリスト教の「内」となり、それに反した事を行おうとするものを、「出る杭」として叩き、ひどい時には、「外者」としてしまいます。出る杭として叩かれることを恐れず、外者とされることにも躊躇しない、聖書的な行き方をするクリスチャンの出現が望まれます。

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