A Lecture on Shinto

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新たな接触の可能性


 日本の伝道を真剣に考える私たちは、このような現状に留まり続けるべきではありません。日本のクリスチャンは、もっと積極的に、有意義に、影響力をもって日本の社会の中で生きるべきです。社会から遊離し、隔離され、孤高を保つことによって、私たちは、与えられた使命を果たすことができなくなっています。わざわざ神のみ姿を捨て、人となり、人と共に生き、人と共に痛むことを選んでくださった、インマヌエルなるキリストの「大使」として、インマヌエルが遣わされたと同じように、すなわち、インマヌエルと同じ使命と目的をいただき、同じ姿を持って生きるように、私たちは遣わされているのです。聖書の原則を少しも曲げることなく、このような現状を打破することはできない相談なのでしょうか。

A.神を正しく理解する

 私たちの神様は、厳しく、恐ろしい方であるというのは事実ですが、また、愛に富み、優しく、怒るに遅い方であるというのも事実です。特に大切なのは、偶像礼拝に対する神様の厳しさは、旧約聖書においてはイスラエル民族に対してだけ向けられているという事実です。しかも、エジプトの地から導き出し、奴隷の状態から解放し、婚姻の契約をお結びになった後のイスラエルだけであって、他民族ではなく、婚姻関係に入る前のイスラエルでもなかったという事実です。卑近な云い方をすると、神様はイスラエル民族に向かってこうおっしゃったのです。「いま私は、多くの男を慕って淫行の限りをつくしてきたお前を、妻として迎えた。今からお前は、私だけを愛さなければならない。他の男に目を向けてはならない」。旧約聖書が繰り返しくりかえし、偶像礼拝を姦淫の罪として描いているのは、そう言う理由によるのです。ですから、偶像礼拝に対する神様の厳しい態度は、イスラエル民族に対してのみ当てはまるものであり、婚姻関係に入っていない異邦人には当てはまらないのです。偶像礼拝を厳しく禁止している十戒の正しい解釈のためには、出エジプト記20章3節からではなく、2節から読み始めなければならないのです。2節に、偶像礼拝をしてはならないわけが記されているからです。

 実際、神様は異邦人の偶像礼拝、あるいはエジプトから導き出され、モーセを通して律法が与えられる前の、イスラエルの偶像礼拝に対しては、非常に寛容な態度を取っておられます。神様は、異邦人が偶像を礼拝しているという理由だけで、彼らに怒りを燃やされたことはありません。アブラハムが長年親しんできた異教の習慣に沿って生活していても、それに目くじらを立ててはいらっしゃいません。本当のところ、アブラハムが召しを受けてからヤコブの一族の宗教改革までは、およそ150年前後、ちょうどプロテスタントの日本宣教の歴史ほど、長い年月がありますが、その間、神様は偶像礼拝に関してはあえて何もおっしゃらずに、見過ごしにされているのです。(創世記35:1〜4)

 イサクの嫁のリベカにしても、まず間違いなく、アブラハムと同じ偶像礼拝の文化で育った女でした。同じ土地、同じ文化で育ったヤコブの妻ラケルは、父の家から、つまり、リベカといっしょに育った兄弟の家から、偶像を盗み出しました。ヨセフの妻は、エジプトの偶像教に仕える祭司の娘でした。肝心のモーセにしても、妻は、偶像礼拝をしていたミデアンの祭司の娘でした。モーセはこの偶像教の祭司である義父を、礼を尽くして迎えるだけではなく、神様の働きに、彼の助言まで聞き入れているのです。驚くべきことに、私たちの神様は、彼らの誰にも怒りを爆発させておられません。

 私たちがいま問い直さなければならない問題は、神様は、日本人が日本人の神を礼拝しているからといって、怒っておいでになるのか。あるいは、忍耐を持って見過ごしにしながら、日本人が日本の文化の中に生きながらも理解できる方法で、誰かが福音を伝えるのを、忍耐しながら待っておいでになるのかということです。福音は始めから普遍的です。したがって日本人も始めから福音の対象のなかに入っています。それは、日本人も日本の文化の中で、日本文化を通し、日本語で福音を聞く権利を、神から与えられているということです。日本人が、西欧的な文化の中で解釈され、西欧文化に適応された福音を聞かされなければならない内は、日本は福音の未開発地、宣教地なのです。ともあれ、神様は、イスラエルと異邦人を同じように取り扱っておられないということだけは、はっきりさせておきましょう。

B.人間を正しく理解する

 人間は、神様ご自身のみ姿に創造されました。地上の創造物の中で、人間は唯一、霊的な存在として神様と交わりができるように造られたのです。堕落によって、創造主である神様についての曇りない知識こそ失われましたが、人間はその霊的な本性を失ってしまったわけではありません。その不明瞭な知識にも拘らず、人間は神様を礼拝したいと切実に願い求めてきました。この人間の宗教性こそ、人間性の根源に関わる本能であり、どのようなことがあっても決して失われないものです。宗教的本能こそ、人間を、他のあらゆる被造物と決定的に異なったものとしているのです。

 生まれたばかりの赤ちゃんを想像してください。誰も教えないのに、ちゃんと乳房を探し、吸い付きます。これが本能です。この本能がなければ、どのように乳を飲ませようとしても、まず、不可能です。また、赤ちゃんが本当におなかを空かせると、乳房以外の物にも吸い付きます。間違ったものに吸い付いては困りますが、吸い付こうとする本能自体を悪いこととして、取り除こうとする者はありません。乳を飲む本能があるから、ほ乳ビンでも飲ませることができるのです。同じように、人間には、より高い霊的な存在者を慕い求め、礼拝したいという本能があるからこそ、神様を受け入れることができるのです。もし人間が創造主である神様を知らないならば、この本能としての宗教的欲求を満たすために、曖昧な霊的知識を無理やり稼動させ、みずから礼拝の対象物を作り上げてまでも、何かを礼拝しないではおれません。そこで、人間は知らないで礼拝することになるのです。

C.偶像を正しく理解する 

 一般に、クリスチャンの偶像の理解は旧約聖書の定義によるようで、礼拝の対象物に限られています。少し厳しい人は、宗教的事柄に用いられる器具、あるいは、宗教とは関わりのない、人形や肖像画までを含めたりします。しかし新約聖書によると、偶像とは単に礼拝の対象物や、物品だけではありません。それは人間が神様以上に崇拝し、大切にするものすべてに適応されます。ですから、パウロにとってはむさぼりが偶像礼拝でした。

 もし、現在日本にきている宣教師たちが、自分たちの国のクリスチャンたちが大切にしてやまない、拝金主義、物質主義、快楽主義、あるいは繁栄の福音等々、さらには資本主義、自由経済に至る数々の偶像に対して寛容であるのと同じくらい、日本の偶像礼拝に対しても寛容であれば、大多数の日本人が、彼らの伝える福音に対して、態度を変えるに違いありません。もし神様が、西欧の偶像に対して寛容で、見過ごしにして来られたとするならば、同じように、日本の偶像に対しても寛容であられるはずです。もし西欧の宣教師たちが、日本人クリスチャンたちに、自分の家から神棚や仏壇を取り払い、取り壊し、焼却することを求めたいならば、まず、自分たちの国のむさぼりの偶像を除き、次に、沖縄のシーサーよりもたくさん教会堂に張り付いている、魔除けの像を打ち壊すべきです。もし、日本人クリスチャンが龍や鬼の出てくる物語を、子供に聞かせてはならないのならば、アメリカ人の宣教師たちは、自分の子供の部屋から、すべてのデズニーの絵本を取り除かなければなりません。

 日本のクリスチャンは、異教の作法にしたがって執り行われる葬式や、異教に関わる地域の行事には参加しないように指導されてきました。そのような事柄に関わることは、すなわち偶像礼拝に加担することである、あるいは、自分を汚すことであるというような教育を受けてきたのです。偶像礼拝とは、本来、神様だけに向けるべき心を、神様以外のものに向けることです。偶像とは、そのように心を向けている対象のことです。他宗教に対する敵対心から、偶像を定義し、それを憎むのは正しくありません。

D.神道を正しく理解する

 すでに述べたように、神道においては礼拝の対象は大切な問題ではありません。神道にとって大切なのは、礼拝する心、態度です。この意味においては、神道は主観を大切にする観念論に分類できるでしょう。「鰯の頭も信心から」と言われるとおりです。本当のところ、神道においては、どの神を礼拝しているのか、どのような神なのかということは、まず問題にされません。一般の日本人にとって、短い期間にいろいろな神社を回ってさまざまな神を拝むということは、ごく普通のことです。その際日本人は、そこに祭られている神によって礼拝の態度を変えたり、作法を変えたり、信仰を変えたりすることはありません。仏教の寺ならば、宗派によって教えが異なり、作法も儀式もしきたりもいろいろ変えなければならず、不平の元となっているわけです。ところが神道となると、たとえそれが大きな神社であろうと小さな祠であろうと、巨大な巌だろうと古木であろうと、日本人はまったく同じ心、同じ気持ち、同じ態度で礼拝をするのです。日本人が神道の神を拝むときは、その名前や由来にはいっさいかかわりなく、清明心であることだけ、クリスチャンの用語でいえば、「敬虔」であることだけを大切にして拝むのです。

 日本人は多神教で、多くの神々を礼拝していると、よく言われるところですが、実際は、礼拝している神が一人の神であるか多くの神々であるか、いちいち詮索せずに拝みます。それほど礼拝の対象に無頓着なのは、日本人が曖昧な神観しか持っていないためであるという反面、そのような表面的なものを超越し、いちいち詮索なさらない、もっと大きく、もっとゆかしく、もっと高く、もっと清く、もっと情けと恵みに富み、不充分な礼拝をもおおらかに受け入れてくださる、絶対に目に見えないお方が背後においでになるという、直感的宗教心、本能的感覚とでもいうべきものを持ち続けているからでもあります。日本人の心には、多くの神々の背後におられる、唯一絶対に近い神意識があると考えられるのです。日本人の汎神論的といわれる信仰の中にも、すべての自然物の中に神が宿るのではなく、すべての自然物の中に神の性質が反映されているという、潜在的理解があり、極めて聖書の世界観に近い部分があります。

 このように見ると、神道の信仰はカトリックの信仰に似ていながら、より聖書の神観念に近いとさえ言えるのです。聖書を持ち、唯一の神を礼拝しているようでありながら、その実、多くの礼拝対象があるカトリックよりは、聖書も持たず、たくさんの神々があるようでいて、その実、どのような方かは知り得ないが、ありがたいお方(単数)がいらっしゃるのだと感じて、その方を崇拝している神道のほうが、より聖書的である事は明白です。聖書の世界観は、神道の世界観とかなり類似しています。少なくても、近代主義神学の唯物的世界観や、天使や悪霊の存在を認めない近代的クリスチャン信仰よりは、ずっと聖書の教えに近いのです。

 また、本来の神道は偶像を持たないし、持つことを拒否するという事実は非常に重要です。ある神社にはご神体なるものがあるようですが、実際にこれを礼拝する人はまれです。もし神社の中に、礼拝の対象物があるならば、それは神道の堕落した姿であり、ほとんどの場合、仏教との混合の結果です。そういうわけで本来の神道は、偶像を作り上げる人間の愚かさと罪についての、パウロの教説には当てはまらないといえます。(ロマ1:18〜23)神道の神は偶像ではなく、また偶像では表現し得ない、崇高なるお方なのです。それは、聖書で「ありてあるもの」と自己紹介なさった神様に近い、神観念なのです。

 さらに、礼拝する対象が明白でなく、礼拝する態度を重要視する本来の神道では、たとえ彼らの参拝にクリスチャンが参加して、創造主である神様を礼拝し、大きな声でアーメンと唱えたとしても、謙遜な態度でうやうやしく参拝している限りは、それを許し、決して追い出すようなことはしません。神道はキリスト教の神さえも受け入れることができるのです。クリスチャンが受け入れられないのは、クリスチャンたちが、受け入れられることも受け入れることも、拒否しているためなのです。

E.良いことは良いと認めて接触する。

 アテネの町に入ったパウロは、偶像に満ちた町の様子を見て憤りましたが、いざ、これらの偶像を礼拝していた人々に福音を語るために、接触を試みるときには、まず、彼らの良いところを探し出して、それを誉めることからはじめています。人間というものは、自分を認めてくれる者を認め、自分について良く言う者について良く言うのです。パウロは、かなり程度の低いアテネの偶像礼拝者の中にさえ、誉めることができる点を探し出し、そこから話をはじめることによって、友好的な対話の足がかりを作っているのです。パウロは、偶像礼拝は認めていませんでしたが、豊かな宗教性は認めていたのです。偶像礼拝を嫌うあまり、人間の本性のひとつである宗教性まで否定するようなことはありませんでした。

 私たちが神道を奉じている日本人に向かうとき、パウロがアテネの人々に対して取ったのと、同じ態度を取ることはできないのでしょうか。宣教師たちも、西欧化した日本のクリスチャンも、日本人の「わけのわからない」神道信仰の中に、何か、良いものを見つけ出し、それを公に認めることは……無理な相談でしょうか。残念ながら、大多数の在日宣教師や日本人クリスチャン指導者たちは、日本人の精神である神道に対して、あまりにも早々に、あるいは性急に、敵対と断罪、軽蔑と嫌悪の態度を取りすぎているのではないでしょうか。一般の日本人は、自分たちが大切に大切にしているものに対して、キリスト教側が理解しようとせず、中傷、軽蔑、敵対を続けるために、福音を聞く前に、すでに硬く心を閉ざしてしまっているのです。

F.共通点からはじめる

 福音を語るにあたって、パウロはまず聞く者と同じ土俵に立つことから始めました。パウロの語った意味はこうでした。「皆さんが拝んできた神様は、私がお仕えしてきたお方と同じ神様です。私は、皆さんの世界に外国の神を紹介しようとしているのではありません。ただ、皆さんが拝んできた神様について、まだ皆さんが知らないでいることについて、お話したいのです。皆さんの神様は、皆さんが自分の神様について知らないでいたということを、今まで忍耐深く見過しておいでになりました。しかし、今、皆さんが正しい知識を持ち、今まで知らなかったということを悔い改めるべき時がきています。私は、そのことを知らせに来ているのです」。

 パウロは共通の立場からはじめ、クリスチャン信仰のユニークさに進もうとしました。これは知恵の賜物とでも言うべきものです。人間は、知っている事柄を足がかりとして、初めて、知らない、新しいことを学ぶことができるのです。「知っていることから知らないことへ」が、教育の基本です。神道の中に、正しい共通の神意識を見出すのは、ギリシア神話の中に見出そうとするより、ずっと簡単だと思います。はるかに高く、ゆかしい方の存在に対する、本能的な感覚、その方に対する敬虔な思い、偶像の不在、自然を通して現されている恵みと祝福に対する感謝、穢れに対する恐れ、共同体指向の信仰などがその例です。(ユダヤ教と神道の共通点を非常に強調する人たちがいるほどです。)私たちは、神道の祭りで祝われる、収穫の喜び、大漁の喜びを、ともに分かち合うことができるはずです。日本人たちが、神道的な表現方法で彼らの「知られない神」に、収穫の感謝を捧げるとき、クリスチャンたちは彼らとともに、「ご自分を私たちに示してくださった神」に向かって感謝を捧げることができるはずです。クリスチャンが、隠れた神に感謝と喜びを表現する日本の祭りや行事に参加し、彼らとともに喜び、彼らの素直で真剣な宗教意識を受け入れることによって、より多く、より効果的に日本人に対して福音を語ることができることでしょう。喜びをともにした人には心を開くからです。そこで、私たちは、「知られていない神様」に話を運ぶことができるのです。彼らの知られていない神様は、私たちの、自らを現してくださった神様です。非常に大切なこととして理解しなければならないのは、私たちの神様は、「神代」の時代から、いやそれより先、人類がまだ日本の土地に足を踏み入れたことがない時代から、日本の神様であり続けたという事実です。

 私たちの神様は、宣教師たちに背負われて、日本に持ち込まれた神様ではありません。日本人は、宣教師たちが日本にやってくるずっと前から、この神様をあがめ、奉ってきたのです。その神理解は不明瞭で、その礼拝のし方もまた、神様に受け入れられるものではなかったのは事実です。まことの礼拝はキリストの仲介によってのみ初めて可能だからです。とはいえ、そのまじめな礼拝態度で、私たちが礼拝している神様を拝んできたのもまた事実です。とすると、日本人に必要なのは、彼らの信仰をまったく捨て去り、新しい神様、新しい信仰を受け入れることでしょうか。

 異教文化の中で、異教の神を礼拝していたアブラハムが、神様の召しを受けたとき、はたして彼は、それまで自分が拝んできた「異教の神」の召しとして理解したのでしょうか。それとも、自分が拝んできた神とはまったく違う「新たな神」の召しとして理解し、古い神観念をすべて捨てたのでしょうか。もちろん、おぼろげな理解の中でも自分が拝んでき続けた、その神の召しにちがいないと理解したことでしょう。日本人に必要なことは、自分たちが知らないで拝んできた神様、間違った方法で礼拝してきた神様について、正しい知識を持ち、この神様が、自分たちのためにどのようなことをして下ったかを知ることこではないでしょうか。その神様は、独り子キリストを通してあがないを完成し、価なしに、ただ信仰のみを条件として彼らを救い、永遠の命を与えてくださるお方なのです。

G.障害を取り除く

 およそ20年ほども前のNHKの調査によりますと、日本人の36%が、まじめに宗教を選択するならば、キリスト教にすると答えているそうです。ところが現実は、福音的なクリスチャンの定義を適用すると、日本には国民の0.2%ほどのクリスチャンしかいないのです。なぜこれほど大きなギャップがあるのでしょう。3分の1以上の日本人が、潜在的クリスチャン土壌、良く肥えた土地だといえるのにもかかわらず、実を結ぶ種がすくないのです。

 これらの日本人は、キリスト教を良いものと認めているのですが、いざ実際にクリスチャンになろうとすると、非常に大きな障害に直面することになることを示しています。その障害の多くは、伝統、習慣、文化といった、神道社会に関わるものだと考えることができます。人生の多くの場面で共同体を指向する日本人の価値観では、平和で、秩序正しい、繁栄した地域社会こそが、最も大切なものなのですが、この日本的共同体の基盤となるものが神道です。

 キリスト教の福音は、西欧の強い個人主義と硬く結びついて入ってきました。宣教師たちは、日本人が強い愛着心を抱いている、自分の地域社会、家族、親族などという共同体に対して、ほとんど頓着をしませんでした。特に、福音派の宣教師たちは、日本の家庭にある神棚や仏壇を偶像とみなして、これを取り除くことに力を注ぎました。彼らの多くにとっては、神棚や仏壇は悪霊の棲家であり、付属している器具は悪霊に憑かれていて、これらが家の中にあると、神様の祝福が入ってこないのだそうです。このような信仰は、クリスチャン信仰というよりは、むしろ、非聖書的なアニミズムの信仰に近いものですが、多くの日本人クリスチャンは、宣教師や宣教師から教えを受けた日本人牧師たちから、「そんなものを持っているから、神様はお怒りになって、祝福を止めておいでになる」と、脅されているのです。そういうわけで、多くの日本人クリスチャンは、家にある神棚や仏壇の類を破壊したり焼いたりしているのです。また、家庭や親族のことを考えて、あるいは常識を働かせてそのようにしないクリスチャンは、弱いクリスチャン、生半可なクリスチャンというレッテルを貼られてしまうのです。

 こうして、「強い、忠実なクリスチャン」は、悪霊の棲家である「偶像」を破壊したり焼いたりして、「信仰の勝利」を高々と宣言し、「証」と称しますが、彼らの所属している共同体にとっては、日本人の最も大切にしている共同体の平和や秩序を乱す、まったく我慢がならない、自分勝手で鼻持ちならない、わがままいっぱいの「悪」に過ぎないのです。ですから、このようなクリスチャンたちが戦いを挑んでいるのは、異教でも偶像でも悪霊でもなく、日本人の最も大切にしているもの、日本人の美しい徳に対してなのです。キリスト教は、大多数の日本人にとって、社会の秩序と平和を乱し共同の楽しみと喜びを破壊する、「しつっこい」病癖なのです。「どんなことをしても良いが、他人の迷惑になることだけはするな」という、聞き慣らされ言葉ほど、日本人の共同体感覚を表現している言葉はないように思いますが、キリスト教は、まさに他人の迷惑になることを、堂々と胸を張って、率先してやってのけ、やってのけたことを自慢するのみか、他の者にも同じようにすることを強制さえしているのです。

 ところが面白いことに、日本においては、クリスチャンは非常に高く評価され、尊敬されているという一面があります。多くの日本人がクリスチャンの姿を見て、密かにい「あの人のようになりたい」と願っているのわけです。なにしろ、36%の日本人がキリスト教を選択しているほどなのです。クリスチャンにはなりたいが、強い躊躇があるというわけです。それは、「クリスチャンは尊敬できる。しかしあのような社会生活をしなければならないのなら、とても私にはむりだ」と言った人の言葉に、良く表現されていると思います。

 そう言うわけで、日本でクリスチャンになれるのは、社会の反対をものともせず、勝手に生きて行ける強い人、または、はじめから、社会から相手にされていない、どうでも良いと思われている人が多いと言うことになるのです。社会でしっかりと根付いて、尊敬され、発言力もあり、影響力もあるという人がクリスチャンになるのは、並大抵ではないのです。そして、このようなことを考えもせずにクリスチャンになってしまった人は、後になってこの問題に行き当たり、大いに悩むことになります。そうして宣教師や牧師、そして年季の入ったクリスチャンに相談をして、「この世と妥協しない信仰」を強要されることになります。こうして、日本人クリスチャンの定着率は非常に低くなり、教会はいつまでたっても、信仰歴の短いクリスチャンばかりで、安定性に欠けることになってしまいます。

 とはいえ36%という数字は、日本の土壌は非常に肥えている、日本人の福音に対する受容性はきわめて高いという一面を、明らかに示しています。問題は、私たち福音を語る側の者が、種が芽を出さないように、または出したとしても、絶対にまともには成長しないように、一生懸命に邪魔をしているからではないかと思うのです。どんなに肥えた厚い土でも、太陽熱だけではなく、ガスバーナーでまんべんなく焼いてしまっては、種に芽生えさせることはできません。いばらだけではなく、私たちは、生命力の旺盛ないろいろな雑草、潅木まで植え付けて、せっかく芽生えた数少ない芽の、成長のじゃまをしているのではないでしょうか。そのように、種が芽を出さないように、また芽を出したわずかな種を成長させないようにしているのが、クリスチャンたちの異教に対する態度、特に、和を大切にする日本人の、精神の基盤となっている神道に対する、非寛容な、独りよがりの態度ではないでしょうか。

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