A Lecture on Shinto

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 神道に対するキリスト教の態度


  ここまで、きわめて簡単ですが、神道というものについて見てきました。では、この神道に対して、キリスト教徒はどのような態度をとってきたでしょうか。

A.文明化に遅れ劣った文化の宗教

 キリスト教は、経済、産業、技術、科学などの点で、発展した文明を誇っていた西欧諸国を通って入ってきました。当時は、近代文明と、宗教や伝統等の複雑な要因を含んだ文化そのものを、区別して考えることもありませんでしたから、福音は、西欧の近代文明と文化とひとつになって、長い鎖国を経て文明化に遅れを取った日本に紹介されました。宣教師たちは親切にも、熱心に自分たちの「より進んだ文明、文化」を紹介しようと努めました。宣教師たちはいち早く、神道こそ日本の文明文化の土台であると理解し、これが日本を前近代的状態に閉じ込めておく元凶であると見たのです。そこで彼らは、福音をもって日本を近代化しようとする一方、神道に対して情熱的に反対運動を展開し、新しい回心者たちには、自分たちのやり方に倣うことこそが、クリスチャンであることの証明であるかのように教えたのです。日本のクリスチャンが、神道的な習慣や行事を極力避けようとするようになったのは、当然のことでした。結果として日本のクリスチャンは、周囲の人々から自分自身を切り離し、地域社会から遊離してしまうことになりました。決定的に神道の文化、習慣、行事に浸かっている日本人社会にあって、クリスチャンは馴染まない存在、隔離された存在、「外」の存在となってしまったのです。多くの宣教師たちにとっては、周囲の反対をも押し切って、孤高を保つクリスチャンは信仰の勝利の証でした。しかしより広く、日本の伝道という面から考えると、これは手痛い失敗といえるでしょう。

B.偶像礼拝

 福音派のクリスチャンは、キリスト教以外の宗教を、すべて偶像礼拝と見る傾向があります。また偶像礼拝を、神様が最も忌み嫌われる罪であると考えているようです。神様がそこまでお嫌いになっているものについて、少しでも良く言うことは、これまた罪であると思われているらしく、とにかく、「本物のクリスチャン」は、他のすべての宗教を悪く言わなければならないのです。中でも神道は悪く言われ続けてきました。宣教師たちは、神道こそが、福音に抵抗する日本人の精神の深淵に潜むものであることを喝破し、これを最大の敵とみなし、神道に関わる一切の習慣や行事に参加することを、偶像礼拝と断罪してきたのです。神道には仏教のような高度に発達した哲学や教義がないということも、宣教師やクリスチャンたちに、神道は愚かで低級な未発達の宗教であるという、軽蔑のまなざしを向けさせる理由になっていると思われます。知らず知らずのうちに宣教師たちは、進化論的人文科学を取り入れ、アニミズムを低級な未発達の宗教と考える間違いを犯してきたわけです。こうして、多くの日本のクリスチャンにとって、神道はまさに愚にもつかない偶像礼拝となったのです。

C.軍国主義の精神土台

 現在のクリスチャンの大部分は平和主義者です。多分、戦時中アメリカのスパイ呼ばわりされたり、少しばかり迫害された苦い経験が(他国の多くのクリスチャンが遭遇したものに比べ)、影響しているのでしょう。戦争に負けて、多くの日本人が平和主義者になったのと、たいして変わらない精神構造で、あまり誉められたものではありませんが、平和主義の傾向が強いという事実は事実です。そのような彼らには、神道は日本軍国主義の礎であるという恐れがあります。素朴な、人間の本能としての宗教意識としての神社神道と、軍国主義と結びついた国家神道との間の曖昧さ、あるいは不透明さが、神道全体に対する疑惑を強めます。そこで、日本人クリスチャンは、神道に関わる一切のものに、かたくなに反対し続けることになります。 

D.福音に敵対する悪魔の策略

 クリスチャン信仰は、強烈な個人主義哲学の後ろ盾とともに紹介されました。クリスチャン信仰はまず、イエス・キリストを自分の個人的な救い主と信じる、個人的信仰の個人的決断によって始まります。クリスチャン信仰はまた、神様と個々人の個人的関係であり、神様と自分の間には、何者をも入れてはならないものだと教えられます。ところが、日本人は基本的に共同体指向の人間です。日本人は、考えるときも、理解するときも、判断するときも、決定するときも、行動するときも、共同体指向なのです。つまり、周囲のことを思い図らないでは、何事もしないのです。周囲の社会、言うところの「世間様」が、個人の行動の決定的な要因なのです。 西欧の個人主義的傾向の伝道が、日本のこの現実に直面すると、多くの場合、手厳しい失敗となります。その結果、西欧の宣教師たちだけではなく、西欧嗜好の傾向があるため西欧指向の福音につまずきを覚えず、西欧の宣教師たちに可愛がられて育ち、すっかり脱日本人になった日本人クリスチャンの指導者たちも、このような日本の共同体指向を、日本の福音化への最大の障害と考えるのです。彼らは、日本の福音化のためには、まず、日本人を「自己意識に目ざめ」、「個の確立した」、個人主義者にしなければならないと感じるのです。そして賢い宣教師と日本人クリスチャンの指導者たちは、ほとんどの日本人が、多分、無意識のまま保持している、この強力な共同体意識の大きな源のひとつが神道であると気付き、また賢くない者たちも「なんとなく」感じているのです。そこで彼らは、神道を眼の敵にして戦いを挑むわけです。とはいえ、神道は厳然たる力を持っていますから、宣教師やクリスチャンの挑戦などは、犬の遠吠えほどにも感じていないことでしょう。したがって、日本のクリスチャンたちは、自ら、そのような日本人の社会から身を引き、孤高を保つことになるのです。多くのクリスチャンたちが、そのような孤高を保つことに選民的な悲壮感を持ち、それをまた、クリスチャンであることの勲章でもあるかのように、大切にしているのです。

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