How to Be a Missionary

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宣教師の働き


 宣教師の働きは福音を宣べ伝え、キリストのみ体を建て上げることです。しかしその働きを遂行するためには、実に様々な働きをしなければなりません。宣教師に大切なことは、自分の立場と役割を心得て働くことです。

1.宣教師の目的

 宣教師は、自分の働きをするために出て行くのではありません。あくまでも神様のご用にお仕えするのです。自分の王国を造ったり、自分の支配を広げたり、影響力を強めたりするために努力するのでもありません。自分のためではなく、あくまでも、主のご栄光のために働く「僕」が宣教師です。

 宣教師として働いていた頃の私には、多くの協力伝道者たちがいました。大半は何の金銭的繋がりもない信徒たちでしたが、中にはわずかながらも月々の経済的サポートを受けている教職者たちもおりました。始めのうちこそ、フィリピン人独特のちゃらんぽらんな性格を丸出しにしていた彼らも、やがて、「厳しい日本人宣教師」との協力に慣れ、しっかりと落ち着いた働きをするようになってきました。すると、色々な宣教師たちの引き抜きの声が、彼らにかかるようになりました。「佐々木から毎月いくらもらっているのか? そんなに少ないの!? 僕と働けば、5割は多く出せるよ」というわけです。毎週の協力伝道者との学び会では、時々「私もスカウトされたよ」とか、「いくらで招かれたの?」などという会話が、笑い話として飛び出して来ました。ある協力伝道者などは、「佐々木先生。私へのサポートを毎月300ドルに上げてください。そうしたら、私は10人のフィリピン人伝道者を『雇って』、良い働きをしますから。その働きの実は、佐々木宣教師の働きとして日本で大々的に報告をしてもいいですよ。そうしたら献金が入るでしょう?」などと、みんなの前で言い出したことがありました。そこで、「いったいいくらでスカウトされたんだ。告白しないと今日の昼飯は抜きにするぞ」と脅かすと、「300ドルです」とのことでした。法外な金額です。「よし、それじゃ、その宣教師と働いたら?」と、私。すると隣にいた伝道者が口を挟みました。「奥さんに上等なドレスを着させて、ショッピングを楽しむんだね。」「あんたも勧誘されたんだ?」とその隣の伝道者に水を向けると、彼は言いました。「僕は年も若くて独身だから150ドル。」

 幸い、本当に僅かな金額の支援しか得ていなかった私の協力伝道者たちですが、お金で動いた者は一人もいませんでした。しかし、このようなことが時折起こるのが実情だったのです。宣教師たちの中には、経済的優位を利用して現地の人々を金で雇い、自分の伝道団体を作り上げ、自分の管理支配を広げ、効果的な働きをし、成功した宣教師になろうとする者が後を絶たないのです。一般に、強い個人主義と資本主義の経済競争を前提とする文化から来る宣教師は、その感覚を宣教活動にまで持ち込んでしまうことがあるのです。たとえば、何人救われたとか、何人癒されたとか、あるいはいくつの教会を建てたなどという結果に捕らわれ、働きの過程でどれほど多くの人を傷付け、どれほど多くの現地人伝道者や宣教師たちの働きの妨げになったかなどと言うことに、思いを馳せることはありません。「キリストのみ体の一部としての自分」と言う自覚がまったく欠けているのです。

 ですから、一人一人の宣教師が、まるで、小さな商店主のように張り合うのも、珍しい現象ではありません。中でも特にアメリカの宣教師たちは、「褒めそやして、褒めそやして、効果的に育て上げる教育法」の中で、幼いころから育てあげられてきました。ですから彼らは、自分の働きがみんなに認められて、褒められることを痛切に望みます。アメリカ人の一般的感覚では、どのように立派なことを成し遂げたとしても、それが他人に知られて認められ、賞賛されなければ、何の価値もないのです。「人知れず隠れたところで良いことをする」などという謙虚な姿は、たとえ相当立派なクリスチャンの間でも、アメリカ人にはなかなか見当たらない美徳です。つまり、宣教師であったとしても、ほんとに自己を放棄して、神に仕える姿勢を保ち続けている者は、ごく僅かだということです。

 しかし、本物の宣教師になるためには、この点においても主イエスの模範に倣わなければなりません。宣教師の働きから「栄光」の二文字を取り去らなければ、本物にはなれないのです。宣教の働きは、自分の理想の追求でもなければ、自分の目標への努力でもありません。また、大きな働きを成し遂げることでも、賞賛を受けることでもありません。あくまでも主にお仕えし、主の贖いの愛の完成のために、自分を奉げて行くことなのです。

 さらにアメリカ人の宣教師には、一種の目標達成恐怖症とも言うべき心理状態があります。アメリカの指導者たちには、「まず目標を設定して、それを達成してなんぼ」というところがあるのです。たとえば会社の社長に据えられると、株主に納得してもらえる利益の計上計画を作り、それを3〜4年の間に達成しなければなりません。それが出来なければ「能無し」として追放されるのです。アメリカの宣教師の任期も、大体3年から5年です。この間に、支援してくださる教会や牧師を納得させられる効果的な働きが出来なければ、能力のある人間とは認めてもらえず、献金の額も減ってしまう恐れがあるのです。ですから彼らは、真剣に結果を求めます。私たちの洗礼式に、どこからともなく姿を現し、写真を撮って行ったアメリカ人宣教師たちだけが悪いのではなく、社会全体のシステムがそのようになっていて、教会もそのような社会に飲み込まれ、そのような社会の一部になってしまっているという、悲しい現実もあるのです。理解してあげなければなりませんが、いつまでも許しておいて良いと言うものでもありません。アメリカの宣教団体の中には、自らのこのような文化的弱点を理解して、今、改善しようとしているものがあるのは嬉しいことです。

2.宣教師の目標 (1)

 宣教師は何を目標として働くのでしょうか。もちろん、福音を宣べ伝え、キリストのみ体である教会を、その地域に建て上げ、これをキリストの身丈まで成長させることが、宣教師の最終目的です。しかしその目的を遂行するためにどのような過程を推定し、計画しているでしょうか。

 ある宣教師たちは、能力のある現地伝道者をいかにたくさん集め、効果的に働いてもらうかが鍵だと考え、そのために多額の資金を費やして努力をします。赴任して1、2年の内に「何々伝道団」などと銘打って、旗揚げをします。宣教師の働きとはそのようなものでしょうか。私は、能力のある現地の伝道者は、宣教師の支援などは不要であると考えています。外国文化にそまった宣教師などと協力しない方が、本当に現地の文化と実情に根ざした伝道と教会形成が出来、真に土着した教会を建て上げることが出来ると信じるからです。能力のある現地伝道者にとっては、宣教師は妨げになる場合のほうが多いのではないでしょうか。

 私が協力伝道者として一緒に働いた人たちのほとんどは、いわゆる「落ちこぼれ」あるいは「失敗者」と呼ばれる方たちでした。聖書学校を卒業して牧会や開拓伝道に赴いたのは良いけれど、間もなく様々な問題に遭遇し、行き詰まり、倒れ、伝道者を辞めていた人たち、あるいはまさに辞めようとしていた人たちです。彼らを、道の行き止まりの山奥まで行って探し出し、励まし、「もう一度、私と一緒にやってみましょうよ」と、連れて来たのです。個人伝道の仕方、訪問伝道の仕方、聖書勉強会の持ち方まで、具体的に模範を示して、聖書の基本的教えを改めて教え直した人たちです。小学校しか出ていない人もいました。鋸の使い方、鉋の使い方、セメントブロックの作り方を教えて、自分で小屋を作って住むことを教え、教会堂の建て方を指導した人たちです。

 数年間にわたって、ほとんど毎週顔を合わせ、献身、謙遜、柔和、正直、無私、無欲など、フィリピン人の弱いところを教え、それを鍛える訓練を繰り返したものです。幸か不幸か、周囲には「他山の石」(他人の悪いところから学ぶこと)にするような先輩伝道者がたくさんいました。若い伝道者の全員が、それらの先輩伝道者の横暴に泣かされた経験を、少なからず持っていました。「自分たちが先輩と思われる時代になったら、自分たちが若い頃に苦しめられた苦しみを、決して若い伝道者たちに味合わせないぞ」と、何回も確認させ、互いに約束し合うようにさせました。このようにして、私たちの協力伝道者たちは、強力な相互協力の絆をよ縒りあげました。それぞれの働きはそれぞれが責任を持つ独自のものでありながら、佐々木が関わっている働きと言う一面で、強いアイデンティティを持っていました。伝道者たちの間に、小さな誤解や行き違いなど、細波程度の波乱はいつもありました。しかし、彼らはすべて自分たちの間で解決をしていました。主にあって一つであるという、聖書的教会論を柱として、常に実際的学びを繰り返していたのが功を奏したのだと思います。

 私の協力伝道者の中には、頭脳的にも能力的にも、秀でたものはほとんどいませんでした。しかし私が願ったことは、彼らが非常に優れた伝道者になり、彼らを訓練した宣教師として名を上げることではなく、また、大きな働きをし、成功した宣教師として名を残すことでもありません。彼らが、自分に与えられた賜物を、最善最大に用いることが出来るようにと言うことだったのです。

 私は、多分、教育を受ける機会のなかった多くのフィリピン人よりは、平均的に、優れていたと思います。聖書の知識も神学の知識も、説教や教える能力も、文学や音楽の素養も、一般科学の知識も、管理能力も協力伝道者たちよりは上だったと思います。ですから、彼らと協力して仕事をやると、ついフラストレーションを起こしてしまいます。いらいらしてしまうのです。あまりにも飲み込みが悪く、仕事が遅くへたくそなのです。私ひとりでやれば1日で出来る仕事を、彼らに頼むと、2人で3日かかり、しかも出来が悪いため、結局私がやり直さなければならず、それに2日かかるといった具合です。そこで、つい自分でやってしまいます。伝道でも何でも同じことです。また、私は自分の忍耐のなさを心得ていました。

 たとえば街に買い物に行くと、女店員がだらしなくガラスケースにもたれ掛かって、「アノーヨ〜〜ン」とけだるい声で話しかけてきます。「何の用事?」「何にしますか?」ほどの意味ですが、そのだらだらした態度に、私はすぐ腹を立ててしまいます。「ケースの中を見たいんだから、そこをどいて」と、どかせようとするのですが、彼女たちは、私がフィリピン人でないことにすぐに気付いて、必ず「Are you Japanese ?」と尋ねます。「日本人だからどうだって言うんだ」と、私は腹の中で答えますが、面倒くさいので黙っています。そうすると必ず、ガラスケースにだらしなく寄りかかったまま、続けて尋ねて来ます。「Are you married?」、「Do you have Pilipino wife ?」、「How many kids do you have ?」思わず私は、「口をつぐんでさっさと仕事をしろ」と叫んでしまいます。

 いつだったか、仕事のために7時間かけてマニラに出かけ、エアコンもない車で一日中駆けずり回って、排気ガスと埃に流れ落ちる汗を真っ黒にしながら、やっと帰り道のガソリンスタンドに立ち寄ったことがありました。ところがスタンドの男は、ダラダラ、ノロノロと動いています。「もう日が暮れるんだぞ。俺はこれからバギオに戻るんだ。早くしろよ」と心の中で叫びながら、それでもじっと我慢をしていました。ところが、あっちで無駄話、こっちで手順の間違い、あまりの遅さにとうとう大声でどやしつけようとした、まさにその時、男がノズルを抱えたまま言うのです。「ところで佐々木先生。どこに行って来たんですか?」不意を突かれて一瞬声に詰まり、目を空中に泳がせながら私は言いました。「やあ、気が付かなかった。君だったのか。しばらく見なかったねえ。最後に会ったのはいつだった?」「先生に洗礼を授けてもらった時が最後だから、4ヶ月になりますね。」男は悪びれずに答えます。私も、さも懐かしそうに話をしながら、いったい彼はどこの教会の信徒だったのかと、一所懸命に思いを巡らせます。「それにしても・・・・」私は反省を始めました。「神さまが、怒鳴るのを止めさせてくださったんだなあ。危うく、小さな者のひとりを躓かせてしまうところだった。」

 このように短気な私は、フィリピン人協力伝道者たちの仕事の遅さとまずさに、腹を立てない日はありませんでした。胃袋が痛くなるほどじれったいのです。しかし、私はひとつの原則を持ち、それを自分に課していました。それは、私がフィリピンに来たのは、自分の仕事をするためではなく、フィリピン人たちが、自分の国の宣教を自分でやって行くのを、手助けするためであるということです。「どんなに早く上手にやっても、日本人の自分がやっていたのではいけないのだ。日本人の自分はやがていなくなる存在だ。いつまでもフィリピンにいるフィリピン人が、自分たちで出来るようにならなければ、自分がフィリピンに来た意味がないのだ」と考えたのです。

 ですから、私は、自分ひとりでは何も出来ない、能力のない宣教師になる決心をしました。現地の人々の助けなしには何にも出来ない宣教師になろうと、固く定めたのです。そして、この決心を最後まで貫いたつもりです。実は、この決心をしたのは正式に宣教師として赴任して僅か2ヵ月後のことです。それまですでにたっぷりと4年間、宣教師としてもらえることを夢見てフィリピンに暮らしていた私は、宣教師としてのあり方について、ずいぶんと考察を続けていたのです。その決心をした時、私は現地で一番広く用いられているイロカノ語の勉強をしていました。「6ヵ月後には、イロカノ語で最初の説教をするぞ」と家内に宣言して、間もなくのことです。しかし、この決心を明確にした瞬間、私はイロカノ語の学びを捨てました。自分が、現地の人々の助けなくしては何も出来ない宣教師になるには、イロカノ語が話せないというハンディキャップが最高だと思い当たったからです。

 私は最後まで、イロカノ語の話せない宣教師で過ごしました。14年間も土地で暮らし、土地の人々と一緒に寝泊りし共に働くと、嫌でもイロカノ語を覚えてしまいます。しかし、絶対にイロカノ語を理解出来ない「悪い宣教師」で貫き通したのです。英語の話せない伝道者や信徒たちが、「佐々木宣教師はいい宣教師だけど、イロカノ語さえ話せるようになれば、申し分ないんだけどなあ」と話し合っているのを、何度も背中で聞きました。  私が最も力を入れて伝道対象としていた、カンカナイ部族の言葉もかなり理解できるようになりました。しかし、私はもっぱらへたくそな英語だけで通したのです。カンカナイの信徒同士の話し合いには耳が聞こえない者になり、伝道者たちのイロカノ語の話には口の利けない者になりました。このようにすることによって、私は、いつまでたっても現地の伝道者の助けなしには何一つ出来ない、「しょうもない宣教師」になったのです。ですから、私はいつも現地の伝道者と行動しました。何を考えるのでもまず、現地の伝道者に尋ね、現地の伝道者と一緒に考えました。何をやるのでも現地の伝道者に助けを求め、現地の伝道者と一緒にやりました。


  私が働いていた地域では常時15くらいの言葉が話されていました。中学校以上の教育は英語で行われていたために、程度は低いとは言え、中学校以上の教育を受けた者には大体英語が通じました。また、大多数の者は、フィリピンの中央語であるタガログ語を話すことが出来ました。しかし、最も広く話されていたのは、山岳地を取り巻いている平地の大きな部族である、イロカノ族の言葉でした。山岳民族のイゴロットにもたくさんの部族語がありましたが、小さな地域ごとに言葉が変わり大変不便であるため、一般にイロカノ語が共通語となっていたのです。

 こうして私は、圧倒的に長い時間、現地の伝道者と過ごすことになりました。そうこうするうちに、現地の伝道者たちは、私の考えていること、私のやろうとしていることを理解するようになりました。伝道者としての生き方、伝道者のモラル、伝道者の献身、教会のあるべき姿、私たちの間の協力関係について、机の前に座って勉強する以外の場で、把握することが出来るようになりました。やがて協力伝道者たちは、言葉は出来ないけれど協力して働くことによって、多くを学べる宣教師として見てくれるようになりました。一緒に行動すると、時には食堂で一緒に飯を食えるだけでなく、もっといろいろ得をする宣教師となったのです。

 さらに進むと、伝道者たちは説教においても、開拓においても、指導においても、私から学び、私を追い抜いて行くようになりました。特に、説教においては、現地の事情や細かい生活の厳しさなどを知るよしもない、日本人宣教師のまずい英語の説教よりは、よほど地に着いた良い説教をするようになりました。物怖じしない積極性、何でも出来ると単純に思い込む素直さなどが、良い方向に働き、彼らは、私に言われなくてもどんどん働きを進めるようになり、いつの間にか、私が責任を持つ教会は9つ、会衆は50ほどにも増えていたのです。私が「出来ない宣教師」でいることによって、ある意味で、伝道者たちは安心して働くことが出来ました。どんなに下手くそでも、佐々木宣教師よりは良く出来ると思えたからです。

 また、彼らの牧会する信徒たちが、どんなに問題を抱えていようとも、宣教師のところに直接相談に行けないと言うのも、彼らに安心感を与えていました。多くの宣教師の失敗は、協力伝道者たちの牧会の悩みや失敗、間違いやまずさを信徒から直接聞いて、信徒を指導してしまうことです。牧師の頭越しにそのようにされると、牧師としては立つ瀬がなくなります。信徒は「牧師より偉い宣教師に直接指導してもらったのだから」と、牧師の言うことを聞かなくなるからです。信徒の問題があると、協力伝道者たちは、よく、彼ら同士で話し合い助け合っていましたが、困難な問題になると私のところに来ていました。しかし、私は自分の考えを直接言うことは、出来るだけ控えていました。彼ら自身でさらに考え、彼ら自身でより良い結論を得ることが出来るように、励ましてあげるのです。「こうも考えられるね。こんなふうにも出来るね」と言うくらいがせいぜいです。それで、伝道者たちは結構文化と実情に応じた、良い結論を得ることが出来たのです。時には英語が上手く、宣教師の前にも臆せずに出ることが出来る信徒がいて、問題を直接持ち込んで来ました。しかし、宣教師である私はここでも悪い宣教師で通しました。いろいろ信徒たちの話を聞いても、決して彼らに指導をしたり、示唆を与えたりすることが出来ない、現地の実情に疎い宣教師で通したのです。

 「わかりました。大変でしたね。でも、神さまがすべてをご存知で、信仰を持って神様に従うならば、必ず、誠実な神さまはその問題を解決してくださるでしょう。お祈りをしましょう。そして、このような問題について一番賢く、良い指導をしてくださるのは、あなたの牧師ですよ。あなたの牧師にお話して御覧なさい。私はあなたが直面している問題に対して、適切な示唆を与えたり指導したり出来るほど、フィリピンの実情やフィリピン人の生活については知らないからです」と言って、一緒に祈ってからお帰りを願うのです。信徒は宣教師に失望します。しかし、牧師を信頼することを学ぶのです。そして、宣教師はその問題について、牧師と語り合い、祈り、一緒に解決策を考えるのです。牧師はそのような宣教師に脅威を覚えなくて済むのです。

 私たちの協力伝道者は、必ず自分で選択決定をするように訓練されました。宣教師もサジェッションを出します。アイデアも提供します。色々な選択肢も示します。しかし、決定をするのは現地の伝道者です。たとえ、佐々木に聞いて、佐々木のサジェッションに従ったとしても、そのサジェッションに従う決定をしたのは本人であって、佐々木ではありません。宣教師は現地の人間を使って自分の仕事をするのではなく、現地の人間が、自分たちの仕事が出来るようにして上げる者だと、考えたからです。

 たとえば私は、当時のフィリピンの田舎で特別伝道会を行うのには、大きな疑問を感じていました。もっと効果的で、経済的な伝道方法があると判断したからです。それである時の勉強会で、色々な伝道の方法について共に学び話し合いました。3時のおやつを済ませて解散しようとすると、一人の若い伝道者が、「先生、特別伝道会を計画していますので、協力してください。特別講師は先生です」と、臆面もなく言うのです。私は「おい、今、特別伝道会はあまり効果がないと話し合ったばかりだぞ。ましてや、説教の下手な日本人宣教師が講師では、目も当てられないことになるぞ」と言いながら、その申し出を受けました。「特別伝道会が効果のないことを学ぶ良い機会だ」と私が言うと、若者は、「僕は佐々木宣教師の意見が間違っていることを証明したいのです」と、胸を張りました。何事においても、宣教師の言う通りにならない現地の伝道者がいることは非常に良いことです。結局、この伝道会は? もちろん失敗です。佐々木宣教師が講師では。

 このようなやり方をしていた私は、現地の協力伝道者と仲たがいをして、一緒に働けなくなったという経験はしたことがありません。多くの協力伝道者たちが、「佐々木とおんなじことしか言えない」と批判されたり、「佐々木に、よほどきつく支配されているんだろう」と言われたりしていたらしいのですが、私と一緒に働くのが嫌になって、去って行った者はただ一人だけです。彼は、「佐々木宣教師は反学問的である・・・・学問をすることに反対だから・・・・」と言って去って行きました。私が反対していたのは、学位を求めて学ぶことであり、学ぶこと自体ではないのですが。

 宣教師は自分の働きをするのではありません。自分の業績を残し、名を残すのでもありません。ましてや、自分が宣教師として働いている時だけは大々的にやっていても、自分がいなくなるとたちまち勢いを失ってしまい、「やっぱりあの宣教師がいてくれなければだめだ」と、言わせるような働きをするのでもありません。宣教師は、自分がいなくなることを予測し、自分がいなくなっても良い働きをするのです。そして、残された働きも、あの宣教師がいたから出来たのだと、言わせずに済む働きであるべきです。宣教師が宣教地を去る時は、「先生。私たちを残して行かないでください。先生がいなくなったら、私たちはどうなるんですか」などと、みんなに惜しまれるのではなく、「ありがとうございます。あとは私たちに任せて、安心してお帰りください」と言われたいものです。残された現地の伝道者や信徒たちが、いつまでもその宣教師を懐かしみ、「あの当時は良かった」と言うのでは、良い働きをしたとは言えないのです。   

 また、宣教師の働きは、現地の働きを支援し、現地の人々が働けるようになることを目指すものであることを、もう一度強調しておきましょう。フィリピンのアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団には、お金がありませんでした。現在もあまりないとは思いますが、その頃は本当に貧しく、牧師たちの生活もとても厳しいものでした。またフィリピンの教団は、アメリカの植民地時代にアメリカ・アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の一教区として始まったという経緯から、会衆制度に限りなく近い形を取っていたために、教団本部の力が弱く、教団全体の政治だとか計画、あるいは運動などとなると、まったく動きが取れなくなっていたと言うのが実情でした。

 そのような中で私が良く知っていたT先生は、私が学んだ神学校で教鞭を取り続け、教団の日曜学校部の部長として、小さいながらプロジェクトを作成して立て上げ、教材の作成に取り掛かっていました。そのような時、アメリカから有能な宣教師がやって来たのです。確か教育学の修士号を持っていたとかで、非常に積極的なというより、東洋人の私から見ると、いささか押しが強すぎる感じがする人物でした。彼は、自分の専門分野である教育学の能力を生かそうとしたのか、着任早々、日曜学校部に関わり、貧しいながら現地の実情に即した形で進めようとしていた、T先生のプロジェクトを取り上げてしまいました。彼は「取り上げたのではなく、T先生と話し合って決めたことであり、これからもT先生と一緒に仕事を進める」と、疑念を口にした私に向きになって答えていましたが、要するに、お金のないフィリピン人が、お金のあるアメリカ人宣教師に、押さえ込まれてしまったと言うところです。一方T先生は、私の質問に肩をすくめながら答えて下さったものです。「しょうがないじゃないの。お金があれば立派な教材も出来るし、プロジェクトも進められるんだから。お金がない私たちは、フィリピンの全教会に手紙を出すことさえ出来ないのよ。」「でも先生は、『フィリピンの実情の中でもやって行けるような、地に足が着いたプログラムを』と言いながらやって来られたのではないですか・・・・・。」私は少しばかり非難の声を含めて言いました。T先生は再び肩を大きくすくませて見せただけでした。

 このプログラムは華々しくスタートしましたが、継続されたと言う話は聞きませんでした。そしてしばらくして聞こえて来たのは、あのアメリカ人宣教師が、フィリピンにいることが出来なくなって帰国したと言う知らせです。聞くところによると、現地の伝道者を激しく怒らせたために、帰国せざるを得なかったということです。ある大きな教区の聖会のような集まりで、講師として招かれ、講壇の上から「フィリピン人は乞食だ」と言ってしまったらしいのです。これは、たとえそのように思うことがあっても、決して口に出してはならないことです。実際、アメリカ人のような個人主義と能力主義の背景で生きて来た者からすると、フィリピン人は他人から物をもらうことばかり考えていると見えるところがあります。すでに幾度か触れたように、フイィピン人の物の所有の感覚はアメリカ人の感覚とは違いますし、「アメリカ人たちは自分たちを出汁にして献金を集めて、贅沢な生活をしている」という思いが、多くのフィリピンたちの心の底に溜まっているのです。「だから、自分たちだって、おこぼれに与る権利はある」と考えたとしても、「貧しい者が盗む悪より、金持ちが貧しいものに対して心を閉ざす悪のほうが大きい」と感じている、共同体感覚のフィリピン人たちにとっては、「アメリカの宣教師と見ると、たちまち自分たちの貧しい実情を訴え、何とかいくばくかの金を出してもらおうとするのは、充分に言い訳の出来ることなのです。

 私たちは協力伝道者たちとの学び会で、この出来事について随分と突っ込んだ討議をしたものです。面白いことに、協力伝道者のすべてが、「フイリピン人は乞食だ」という発言を「正当な判断」と認めたのです。そして、それは400年にわたる植民地政策の負の遺産であると結論付けました。  フイリピンのこのような「乞食根性」を激しく批判した協力伝道者の多くが、カトリック文化と植民地根性をもった平地の伝道者ではなく、誇り高い山岳地の伝道者だったのも、興味深いことです。山岳地の人々はスペインの侵略を許さなかった、誇り高く勇敢な「独立」民族だったのです。しかしその彼らも、あのような公の場でそれを言うのは、宣教師として未熟だと判断しました。フィリピンの文化を学ぶこともせず、何か大きなことをしてやろうと意気込んでいた、功績主義宣教師の失敗です。この宣教師が帰国して、アメリカの神学校で宣教学を教えていると言う噂を耳にしましたが、本当ならば、まさに驚愕です。


  フイリピン人は、自分たちの欠点や弱点を、すべて「植民地政策の負の遺産」で片付けてしまう傾向があります。

3.宣教師の目標 (2)

 宣教師の目標は、自分の目的を遂行することではありません。すでに述べた通りです。ところが宣教師たちは、主のお働きをしていると思い込んでいながら、実際は自分の思いを遂げようとしていることが多いのです。ある意味で宣教師たちは、非常に独創性に飛んだ自立心の強い人たちの集団ですから、「主のお働き」とは言え、それはあくまでも「自分が判断した主のお働き」で、本当の意味で「主のお働き」であるかどうかは、別の問題なのです。牧師たちの中にも、非常に頑固で、他人の言うことを聞かない人々が多いことは、良く知られています。自分の献身を徹底させると言うことが、信念を曲げないと言うことになり、信念を曲げないと言うことが、自分の考えに固執して他人の言うことに耳を貸さないという、嫌な性格に繋がるのかもしれません。多くの宣教師は、そのような牧師たちよりさらに頑なな人種と言えるでしょう。特に個人主義と短期間の功績を重んじる文化背景から来た宣教師たちは、多くの場合頑固この上ない人種です。

 宣教師は、どのようにして自分の働きの目標設定をするのでしょうか。そこには、いくつかの形が有るように思います。まず、最も普通の形は、自分の好きなことを行うと言う形です。「好きこそ物の上手なれ」と言う言葉がありますが、好きなことをするのが一番幸せで、一番良い働きが出来ると考える人がたくさんいます。それが、「神様のために自分の好きなことが出来れば、それに越したことはない」という、安易な信仰態度に繋がります。これは、神様にお仕えすると言いながら、その実、自分の満足感、自分の達成感を求めているのであって、本当の献身ではありません。本当の献身は、自分を捨ててお仕えすることなのです。この程度の「献身」に留まっている宣教師は、教会論的にどのような働きが本当に大切なのか、宣教論的にどのような働きが必要とされているのか、現地の実情からどのような働きが求められているかなどと言うことに、まったく頓着しません。

 ある時、マニラの友人が私を訪ねて来て言いました。「おめでとう。この教区にやっと新しいアメリカ人宣教師が来ることなったね。」「ええっ!? 本当? どうしてそんなこと、信徒のあなたが知っているの? 僕たちは何も聞いていないよ!」私は驚いて、すぐ同じ屋根の下の教区長を呼んで来て、詳しく話を聞きました。教区長もまったく寝耳に水だったのです。この教区に来る宣教師の話が、教区長を素通りして取り決められ、何にも正式な通知がないまま、信徒によってそのニュースが伝えられるなどと言う異常なことが、平気で行われる宣教師と教団の関係だったわけです。

 それから、何の報告も通達もないまましばらく時間が過ぎ、私のところにまた、まったく別の信徒から、「バギオ市に、アメリカ人宣教師が、すでに一週間前から住んでいるらしい」というニュースがもたらされました。調べてみると、私たちの住んでいるところから車で5、6分のところにもう10日も前から住んでいるということでした。そこで、私は、同じ宣教師として放っておけないと考えて、その宣教師一家を訪ねました。するとその宣教師は言いました。「私たちはこの場所に来ましたが、教区と一緒に働くつもりはまったくありません。この教区の働きはあまりにも酷すぎます。この教区と協力して、自分の働きを傷つけるのは賢くありません。私は自分と妻の音楽の賜物を生かして、バギオ市の金持ちのために働きます。私の叔父さん(私の神学生時代の先生)がマニラでやっているような、ホテル伝道を始めるつもりです。」

 私はこの若い宣教師に言いました。「教区長はアメリカ人宣教師をある程度尊重していますから、あなたと直接このようなことを話し合うのを躊躇しています。ですから、私は、単に同じ教区で働いている宣教師と言う立場で、お話をしましょう。まず現状においては、宣教師は、空白の中に着任しているのではなく、教区と言う、キリストのみ体の具現の中に派遣されているのです。ですから、宣教師は自分の働きをするのではなく、キリストのみ体の一員として、キリストのみ体の働きをするのです。それを、まったく無視するのは、正しいことではありません。あなたもこの教区で生きる限り、必ず、色々な形で教区の支援が必要になるはずです。また、たとえ、一緒に働こうとは思っていなくても、人間としての礼儀と言うものがあります。この町にやって来ていながら、同じ教団の教区長にも、宣教師にも何の連絡もせず、何の挨拶もしないと言うのは、キリストのみ体としての交わりを言う前に、人間としての資質の問題です。少なくてもフィリピンでフィリピン人を対象に働こうとするなら、フィリピン人の礼儀を守らなければなりません。」

 若い宣教師は、小柄なアジア人の宣教師からの苦言を、奥さんと共に大変不服そうに聞いていましたが、教区長のところに挨拶に行くと言うことだけは、約束してくれました。私は続けて言いました。「次に、あなたよりフィリピンの事情、バギオ市周辺の事情に通じている先輩の宣教師として、忠告をいたしましょう。このバギオ市で、あなたの叔父さんがマニラでやっているような、ホテル伝道は不可能です。バギオ市には、あなたが望むような金持ちはほとんど住んでいません。建ち並ぶ多くの高級住宅は、マニラの大金持ちたちの別荘で、持ち主は毎年数週間しかやってきません。普段住んでいるのは、管理人として雇われている貧しいイゴロットたちです。このバギオ市にあるホテルは、ほとんどが旅籠と呼んだ方いい小さなもので、集会が出来るような大広間を持っているホテルは、一つしかありません。まず実情を良く調べて、仕事を定めるようにお勧めします。」

 この宣教師は私の忠告に従って、すぐ教区長のところに挨拶に来たようです。そうして、教区と協力する意思はまったくないこと、それから、自分がアメリカ人宣教師団のこの教区担当であるから、アメリカ宣教師団に対する要請は・・・・つまり金や物資の支援の要請は・・・・すべて自分を通して、自分の承認を得てから行われることになると告げたそうです。この後、教区はこの宣教師の歓心を買おうと、ずいぶん努力したようです。何しろ、この宣教師が納得しなければ、アメリカ人宣教師団の支援が無くなるのですから。

 一方、私たちは別の方法でこの宣教師を支援しようとしました。彼が私たちと協力しようとしているかどうかは、別の問題です。彼らがどんなに優れていても、この田舎で働きを進めるためには、現地の協力伝道者が必要です。私は最も長い間共に働いて来た協力伝道者を、彼らの願いに応じて、「貸し出す」ことにしました。大きなホテルは断られたので、小さなホテルをいくつも回り、ロビーや会議室を借りることが出来るようにしてあげました。そのような場所で幾度か集会をくり返したのですが、貸し出された協力伝道者は、もう嫌だから私たちのところに戻ると言い出しました。聞くと、何から何まで、司会から祈りから賛美からスペシャルから説教から最後の祈りまで、すべて、この宣教師がやるのだそうです。つまりワンマンショーです。

 しばらくすると、さすがの宣教師も自分の限界を知ったようで、少し弱音を吐くようになりました。とは言え、アメリカ人宣教師団の教区への代表という、彼の立場は強固なもので、教区は彼を通さずにはアメリカ側と話も出来ない状態でした。そして、彼は教区の事情を知ろうともしないまま、教区の要請を無視していたのです。そうこうしているうちに、教区長が私のところに相談に来ました。「今までだって、この教区にはあまり良い宣教師は来なかった。しかし、教区の要請には耳を傾けてくれた。ところが、今回の彼は、我々の要請をすべて無視している。教区としてはまだまだ自立出来ず、アメリカ人の協力が必要だ。」私は「とうとうその日が来たか」と思いました。教区長や多くの教区の教職が、いつもアメリカ人宣教師団から経済的支援を期待し、それを「ずる賢く」利用して来たことに、私は良い感情を持ってはいませんでしたが、この宣教師の非協力的態度には目に余るものがありました。そして、彼の高ぶった思いから出るバギオ市での働きは、ことごとく水泡に帰していたのです。

 「それで、教区長は私にどうして欲しいんですか。」私は短刀直入に聞きました。「はっきり言って、彼に教区から出て行って欲しいんだ。実は、今、バギオの神学校にアメリカ人宣教師団の長が来ているんで、教区長である私の代理として彼に会って欲しいんだ。そして、教区の事情を説明し、あの宣教師をこの教区から去らせてくれるように、要請して欲しいんだ。自分が行くと事を荒立てるところがあるから、中立的な日本人宣教師にお願いしたいんだ。」あまり楽しくない役割でしたが、教区の事情を良く知っている私は、アメリカ人宣教師の長と会ってお話をすることにしました。

 当然と言えば当然ですが、宣教師団の長は私の言葉を聞いて、まず、私とあのアメリカ人宣教師との間に、個人的なトラブルがあったのかと勘違いしたようです。しかし私は、教区長に電話を入れるように勧め、私が間違いなく教区長の代理であることを確認してもらいました。そうしてやっと、真剣に話を聞いてもらうことが出来ました。無理もありません。宣教師をこの教区から連れ去って欲しいと要請したのですから。次の日、あのアメリカ人宣教師は、夫婦そろって青い顔をして、私の所にやって来て「侘び」を入れました。しかし私は「本当に謝らなければならないのは、教区長の方ですよ」と言って、彼らを教区長の下へ送り出したのです。結局彼らは、その後10日ほどでバギオ市を去りました。彼の問題は、自分の働きをしたかったということです。主の御用と言う名目で、自分の考えている通りのことを、自分の考えているやり方でやりたかっただけなのです。

 ただ、アメリカ人宣教師の名誉のためにこのことは記しておきましょう。このアメリカ人宣教師とは、その後も幾度か顔を合わせることがありましたが、いつもニコニコと友好的に話をすることが出来ました。私に対して良い感情を持っていなかったはずですが、そのようなことはおくびにも出さず、大人の人間、大人の宣教師として振舞ったのです。さすがです。また宣教師団の長とも、その後、色々な会合で会い話し合いましたが、私たちの間には少しの不信感もありませんでした。私はアメリカ人が好きになりました。

 宣教師は、自分の賜物がより良く発揮される働きにつくのが、望ましいことです。しかし、それは自分の目的遂行のためではなく、あくまでも、キリストのみ体の一部としての自分であり、み体全体の働きを前提として、その中で自分はどのような役割を果たせるかと考えるべきです。そのような視点を持って見ると、つまらないと思っていた働きの重要性が見えて来ます。軽視していた活動の大切さも分かって来ます。すると、そのような働きに献身することの素晴らしさも、理解出来るようになります。また、自分の賜物を用いないことこそ、最も良い場合すらあることに気付きます。そして自分には、それまで思いも及ばなかったような賜物が与えられているのだと言うことさえも、知ることが出来るようになります。賜物の発見は、機会が与えられて初めて出来ることだからです。

 私は、自分の賜物は教えることだと思い続けていました。ですから、どちらかと言うと学校や、教会の学び会、セミナーのような働きを続けたいと、かねがね考えていました。しかし、自分の周囲を見ると、教える賜物を持っている人、あるいは教える賜物を持っていると自己評価している人は以外に多く、今さら自分がその仲間として加わる意義が小さいことに気付きました。実際は教える賜物など持っていないにも拘わらず、フィリピン人よりは長い間教育を受けて、学士や修士の学位を持っているというだけの宣教師や、現地の人々とアイデンティフィケーションを持って働くのが嫌だから、学校の先生になると言った類の宣教師が多いのですが、とにかく、教師はいくらでもいるといった状態でした。ちょっと金に余裕のある宣教師ならば、すぐ聖書学校を建てて生徒を集めるのです。青年たちが仕事もなく街に溢れている国ですから、聖書学校だろうと何だろうと、資格さえもらえれば行くという者が結構います。ましてや雨露しのげる部屋と三度の食事がもらえ、小遣いさえ支給されるとなれば、狭き門にさえなります。そして、宣教師は、たちまちのうちに立派な教育家となり、学生たちの数を報告し、その能力と可能性を宣伝し、惨めな生活の現状を母国に訴え、献金を集めます。そして賢いフィリピン人たちは、こんな儲かる仕事を宣教師だけに独占させておくのはもったいないと、自らもそのような働きを始め、たくさんのレポートを送ります。それに引っかかった日本の教会も、結構多いと聞いています。私が超教派の神学校に通っていた頃の同級生が、いまや博士号を買い取って聖書学校を建て、アメリカや日本そして韓国から金を集め、結構裕福に暮らしています。

 そんなことですから、私は聖書学校で教えると言う働きを横に置きました。そして周囲の実情を見たのです。多くの場所で自由に英語の話せるフィリピンには、実に多くのアメリカ人宣教師が流れ着いていました。「宣教師汚染」と冗談に言うほどです。しかしその大多数は楽な仕事についていました。まず田舎に行く者が少ないのです。都会の方が華々しい活躍が出来て、立派なレポートを送ることが出来るからです。そして、たとえ田舎に行っても高級住宅地に住み、聖書学校で教えるだけというのが、大部分です。田舎に行って、現地の人々と苦楽を共にして生き、一緒に仕事をする宣教師は、まさに絶滅危惧種です。

 バギオ市の近くに住んでからも、実情は同じでした。バギオ市はアメリカがフィリピンを植民地にした時に開いた避暑地です。フィリピンで一番綺麗な町です。そして、多くの大学も集まっていました。ですから、私が着任した頃は、70人と言われるほどの宣教師たちがたむろしていました。しかしこの中に、周囲に住むイゴロットたちのために、責任ある働きをしている宣教師は、正確なところ、一人もいなかったのです。聖書翻訳の手助けのために、時々山岳地に入る宣教師、自分の教団の管理者として、月一回程度の巡回をする宣教師、すでに出来ている教会を回って発電機で電気をお起こし、映画を見せる宣教師はいました。しかし誰一人として、イゴロットのために現地に入り込んで、責任を持って働く宣教師はいなかったのです。(幸い、かなり後になって独身で高齢のカナダ人宣教師が、住み込んで働くようになりましたが、宣教のためよりは孤児院のためでした。さらに少し後には、この孤児院に日本人宣教師一家が着任され、土地の教会の支援活動も行うようになりましたが、宣教のための宣教師と言うには少々不足でした。)ただし、翻訳専門の独身宣教師が、かなりの奥地に一人で住んで長い間働いていたのは事実です。とは言え、彼は伝道と言う働きはまったくしていませんでしたので、むしろ、言語学者か人類学者の部類に入れられるべきです。

 そこで私は、アメリカやイギリスなどの進んだ国からの宣教師には、イゴロットと生活を共にするのが大変だと言うならば、自分は、彼らに出来ない働きをしよう。そうすることによって、彼らの欠けた所を補い、教会として、より良い宣教をする事が出来ると考えたのです。また、多くの「落ちこぼれ」伝道者たちを見、彼らの世話をする働きがまったくないのを見て、彼らのために何か意義のあることをしようと考えたのです。自分が得意な分野の働きをしたのではありませんが、自分をあくまでも教会の一員と理解し、教区の構成員と考えて選択したのです。私は、「自分の得意とする分野」と考えている分野で、働く機会があまりなかったことを感謝しています。新しい自分の発見があったからです。

4.宣教師の目標 (3)

 宣教師の最終目標は何でしょうか。すでに、伝道とは、キリストのみ体の地域的顕現である地域教会を立て上げ、それをキリストのみ丈にまで成長させることであると学びました。そこからすると、宣教師の働きの最終目的は当然、開拓して建て上げた教会がキリストのみ丈にいたるまで成長させることとなります。しかし、ここでちょっとだけ視点を変えてみましょう。 キリストのみ丈まで成長した教会とは、結局、自ら宣教師を派遣していく教会になることではないでしょうか。宣教師を派遣している教会が、必ずしも成長した教会とは言い難いのは充分に心得ていますが、やはり、宣教師を派遣するということが、少なくても理論上の最頂点として挙げられるでしょう。どのように豊かになり、多くの人々が集まり、さまざまなプログラムが実行され、活気に満ちた活動が継続されていたとしても、世界宣教の働きに対して積極的な参画をしていないとするならば、その教会は、み国の栄光を捨ててこの世に来てくださった「宣教師」キリストのみ丈にまでは、まだ成長していないのです。そういうわけで、宣教師は、活動の最初から、自分の働きの中から宣教師を生み出していくことを、目標として設定しておかなければなりません。宣教師は宣教師を生み出すものです。

 私たちがフィリピンの山岳奥地で働きだしたころ、伝道の対象となっていた人々の大部分は、いわゆる文盲でした。やっと複々式の小学校が、ひとつふたつ建てられはじめた頃です。このようなところから、国外に出て行く宣教師を生み出すのは、実際上不可能に近いものでした。また、フィリピンは多民族多文化国家であるため、国外ではなく国内でも、いわゆる異文化伝道を行う宣教師を輩出することも理論上は可能でしたが、最も開発が遅れているこの地域から、開発の進んだ他部族へ宣教師を送り出すのは、実際的ではありませんでした。しかし私たちは、ずっと規模を小さくした形で、宣教師を生み出そうと努力しました。険しい山々に隔離され、孤立した生活を送っていたこれらの人々を励まし、周辺の類似部族、同じイゴロットと呼ばれる山岳民族でありながら、かなり異なった言語と文化を持っている部族への伝道に情熱を抱かせ、どのような形であれ、そこに出て行く者を励まし、弱小とはいえ支援体制を作って行ったのです。その結果、数十キロとはいえ、徒歩と乗り合いの車とバスを乗り継いで、10時間前後から丸一日もかかる地域への、伝道の可能性も開けてきたのです。

 私たちがバギオの教会を開拓し始めたときには、明確な宣教師を生み出すビジョンを掲げていました。当時のバギオ市は人口約20万で、5つの大学を持ち、相当数の学生が近隣の地方から集まっていました。ですから、この町で伝道をするならば必ず、宣教師となるのにふさわしい資質を持った青年たちが、救われてくるに違いないと判断したのです。私がこの教会に直接関与したのは、教区の不当な干渉もあってわずか3年ほどでしたが、その間に、救われてきたおよそ2〜300人の大学生たちに宣教の情熱を伝え、応募者を募っては度々山岳奥地に連れ出し、実際体験を味あわせた上で、人生の選択肢のひとつとして、宣教活動に献身する道を目の前に広げて見せたのです。宣教師になることをまじめに考え、心と学びの準備もできるように、ミッション・キャンプと銘打ったキャンプも行いました。その結果、これらの活動に参加した若者たちの間から、現在少なくても5人の海外宣教師と、2人の国内異文化宣教師が生まれ、活躍しているのです。そのうちの3人は現在カンボジアにおいて、日本から派遣された宣教師たちと協力して働いています。

 また、私が活動していた北ルソン教区は、その後人事の刷新もあり、私が教えたり訓練したりした若い伝道者たちが、重要な立場に着くようになって来ました。聞くところによると、教区長を始めとした4人の伝道者が、今後の宣教活動への積極的参画を夢見て、カンボジア宣教の様子を見に来たということです。4人とも、私と親しく協力した伝道者たちです。宣教師を輩出するだけではなく、宣教の働き全体を支え、推進する地域教会の裾野を広める働きもまた、非常に重要なのです。これらの伝道者たちの働きの中からも、いま若い宣教師たちが起こり続けています。そして、楽観的で、何事にも積極的に取り組み、柔軟性に富む上に、どんなに貧しくても音を上げず、どのような人々とでも上手に付き合っていくことが出来るフィリピン人は、まさに宣教師の働きにうってつけなのです。「フィリピン人が最高の宣教師だ」という良く聞く評価は、一般論として、私は誤っていないと確信しています。宣教師のもっとも大切な働きのひとつは、宣教師を生み出すことであり、それが最終目的です。

5.新しい試みをする

 宣教師は現地の実情を知らないと言うハンディキャップを抱える一方、現地の実情を遠くから、客観的に眺めることができると言う利点を持っています。「林の中にいる者に林は見えない」という喩えの通り、現地の人々には、長所短所を含めて、なかなか自分たちの本当の姿を理解することが出来ません。伝統や習慣、長い間のしきたりや慣れ親しんだやり方に捕らえられていて、新しい発想に欠け、発展的な考え方が出来ません。「これまで、このやり方で上手く行っていたのに、なぜそれに疑問を挟む必要があるか」というのが、多くの反応です。また、自分たちのやり方に行き詰っていたとしても、新しい物の見方や考え方が出て来ないために、行き詰まり打破することが出来ないのです。日本人は日本人のように見、日本人のように考えます。フランス人はフランス人のように感じ、フランス人のように判断します。そしてオーストラリア人はオーストラリア人のように理解し、オーストラリア人のように取捨選択します。そしてそれぞれが、そのような事実を理解しないまま、自分たちの見方、考え方、あるいはやり方こそが正しく、それが常識だと信じているのです。

 新しく、発展性のある、刷新的考え方を持つためには、異なった見方、感じ方、理解の仕方を持つ者が必要なのです。多くの場合、現地の実情に疎い宣教師たちの発想や思いつきは、何の役にも立たない、邪魔なものに終わってしまうでしょう。しかし、わずかとは言え、その中に大きな可能性を秘めたものが混じっているのです。それが、行き詰まりを打開し、新たな可能性を開くのです。宣教師は、そのような新たな可能性を秘めた見方、考え方、そして発想を提供する働きをすべきです。宣教師はどんなに現地の人々とアイデンティフィケーションを持ったとしても、現地の人々と同じになることは出来ませんし、なるべきでもありません。現地の人々とまったく同じになるのならば、宣教師など不要です。現地の人々と良いアイデンティフィケーションを保ちながら、現地の人々には絶対に持てない、母国での学び、経験、母国の文化での見方、感じ方、考え方などをもって、現地の姿を見、理解し、考えるのです。

 多くの宣教師の間違いは、現地の人々とアイデンティフィケーションを持てず、現地の生活感覚を理解しないまま、母国の価値観や、見方、考え方などで現地の物事を判断してしまうことですが、まったく現地の人々と同じになってしまっても宣教師としての価値はなくなるのです。自分は現地人ではないという自覚もまた大切なのです。そのような自覚を持ちながら、宣教師は「恐る恐る」意見を述べ、現地の人々が見る範囲を越えた見方を提供し、現地の人々が考える限界を超えた考え方を提示し、現地の人々の想像も及ばない発想を持ち込むことが出来るのです。それらの殆どは、良くて笑いの種にされ、悪ければ嘲笑と軽蔑の元にさえなることでしょう。しかし、それでも新たな息吹は必要なのです。特に宣教師が、外国で高度な教育を受けた者として、高いところから物を言う態度を持たず、あくまでも謙遜に、「ばかばかしいような意見かも知れませんが」と、そっと持ち出すならば、少なくても、嫌われることはありません。その意見や考え方が、本当に現地の実情に合わない場合は、心ある現地の伝道者たちが教えてくれるでしょう。いくらかでも役に立ちそうな場合は、興味を示してくれる伝道者も出てくるでしょう。宣教師が嫌われ、相手にされなくなるのは、高いところから物を言うからであって、低いところから学び、一緒に考えようという態度を持つ限り、馬鹿にされたとしても嫌われることはないのです。現地の人々にとって大切なのは、自分たちの考え方以外の考え方があり、自分たちのやり方以外のやり方があると、知ることです。

 経営難に陥っていた日本の自動車会社が、自分たちの会社の刷新と発展を願って、外国人の社長を雇い、大きく成長した例があります。日本人のやり方とあまりにも異なっていて、当初は非常な驚きと困惑が広がりましたが、社長は日本人の文化を外国人の目で客観的に学び、長所と短所を判断しながら刷新を持ち込んだのです。リコール隠しで大問題になった他の自動車会社も、外国人の社長が就任してから、リコール隠しの事実を公に認める方向に変わりました。それが丁と出るか半と出るかはまだ判りませんが、日本人とは異なったやり方をするという事実は明白です。宣教師の立場は社長とはまったく異なりますが、自分たちの文化の中での発想ややり方だけでは、行き詰ってしまうことが多い中で、異なった物を持ち込むことが出来る宣教師の存在は貴重なのです。

 また、現地の伝道者は経済的にも余裕が無く、とにかく伝道と牧会を成功させて「食べて行けるように」しなければなりません。彼らには、たとえ新しい理解や発想があったとしても、それを実行に移す力も機会も殆どありません。しかし多くの場合、宣教師の経済は母国の教会によって支えられていますし、比較的自由な行動が許されて、新しい試みをする機会は充分にあるのです。先にお話した、バギオ市から出て行ってもらった宣教師は、まさにそれを行おうとしたのです。その意味で、彼は正しかったのです。彼の間違いは、現地の実情をまったく理解しないで、また、理解しようともしないで、現地の文化や考え、あるいはやり方と言うものを裁き、軽蔑するような態度でそれを行ったために、また、現地の人々の意見をまったく聞かずに進めたために、失敗してしまったのです。

 本当のところ、現地の伝道者たちの多くは、宣教師が自分たちと同じような働きをする事を望んでいません。自分たちに出来ない働きで、しかも、自分たちの働きにまで、何か良い影響を及ぼしてくれるような働きを望んでいるのです。ですから、現地の伝道者たちとよく話し合い、なにか刷新的なことを考え出し、実行するのです。始めから現地の人々の意見を聞き、途中でも現地の人々の意見を聞き、最後まで現地の人々の意見を聞くことです、批判には喜んで耳を貸し、敢えて喜んで、批判する人たちに尋ねるべきです。それでいて、「どうか私に失敗する自由を与えてください。私は愚かな宣教師で終わっても良いのです。教会の中に、失敗する者がいなければ、発展はありません。失敗したならば、その失敗を他山の石として学び取ってください」とお願いして、悪びれずに、失敗する勇気を持つべきです。

 そのように、現地の文化と人に対して敏感な働きをした者は、たとえ失敗しても、必ず何か良い結果を残すものです。また、そのような宣教師が帰国すると、また、宣教師となって働いた時と同じように、自分の母国の文化と言うものを、外側から、すなわち客観的に見、多くの母国の伝道者たちとは、異なった理解や判断をする事が出来るようになります。それは、宣教師にとって非常に大切な働きであり、主のみ体にとってもとても重要な働きです。

6.人間関係を築く

 結局のところ、宣教師の働きとは伝道することです。直接には伝道に関わらない働きをする宣教師であったとしても、主のみ体の一部として、有機的に伝道に関わって行くものです。そして伝道とは、突き詰めて言うと、主のみ体である教会を地域に具現化して行く、すなわち地域教会を建て上げて行く働きです。教会とは人間の共同体です。勿論、ただの人間ではなく、新しく生まれた者たち、主の霊を宿している者たち、主の命によって生かされている者たちが造り上げる共同体です。

 ですから、教会を建て上げて行く働きとは、突き詰めると、人間関係の働きです。人間関係の積み重ね、人間関係の構築こそが、宣教師にとって最も重要な働きです。たとえ直接携わる働きがどのようなものであろうと、宣教師の働きは詰まるところ、人間を対象とし、人間に影響を与え、人間を動かし、人間の関係を良いものにし、キリストの命によるネットワークを造り上げていくことであると、明確に理解しておく必要があります。

 すべてにおいて宣教師の模範である、キリストのお働きも徹底した人間関係造りでした。キリストは30年間大工として生活をなさいましたが、その公生涯においては一度も大工仕事をしていません。土地探しも、会堂建築も、設計図書きもしていません。

 癒しも、悪霊を追い出す働きも、それ自体が目的ではなく、人間関係つくりの一段階、の手段であったとさえ言えます。パウロの働きを見ても、すべては人間関係造りに費やされています。現在の私たちの働きとはかなり様相が違うのです。たとえば、毎年、私の手元にたくさんの教会記念誌が届けられ、それぞれの教会の発展の歴史が述べられていますが、その中で最も大きな事として取り上げられているのが、教会堂の建築です。そのために牧師や信徒がどれだけ奔走し、苦労し、犠牲を負って捧げて来たかと言うことが、述べられています。それらが不要な働きであると言おうとしているのではありません。しかし、キリストやパウロの関心事と現代の私たちの関心事には、微妙とは言えない差があると言わねばなりません。

 キリストの関心事、パウロの関心事は、人々を神の国に獲得し、神の国で育てるということでした。神の国の共同体、キリストのみ体と言う、これ以上ない親密なまた密接な人間関係造りでした。キリストは「躓きを与える」とことを非常に大きな、深刻な罪としてお取り上げになりましたが、躓きとは、人間関係を傷つけ壊すことに他ならないのです。  

 残念ながら、多くの宣教師は人間関係をあまり大切にしません。ここにも文化的な要因があります。資本主義文化が爛熟すると、必然的にそこは競争社会となります。一切のものが儲けと経済発展という目的のためにめまぐるしく回転し、ゆっくりと穏やかに動き、互いの助け合いを基調としていた、農村や漁村を始めとする地域共同体も、激しく厳しい競争世界に変わってしまいます。そのような競争社会で育って来た人間は、どうしても他人を競争の相手として、また、利用可能な取引相手と見てしまいます。直接の金銭取引とは関係のない相手であっても、穏やかな助け合い社会の人間関係とは、異なってしまいます。儲けに関わりのない人間関係は軽視され、隅に追いやられてしまいます。人々は、仕事こそ人生の最も大切な事柄として、生きるようになります。

 もちろん、手工業や家内工業の時代にも仕事は大切なもので、仕事一途の人間もたくさんいました。しかしそれは多くの場合、仕事自体のために一途になることだったのに比べ、現代の資本主義の社会では、あくまでも富の獲得と蓄積の手段としての仕事なのです。仕事をやり遂げる、しかも出来るだけ効率よく、決められた時間内にやり遂げることが、発展した資本主義社会の生活の基本です。「時は金なり」という諺が、ますます現実となってくるのです。

 このような資本主義社会で育まれ、教えられて来た人間は、どうしても仕事中心、仕事志向の人間になってしまいます。ですから、進んだ資本主義経済文化である西欧社会や、日本、韓国、台湾、シンガポールなどのアジアの各国、さらには、たとえ開発途上国であっても、凄まじい産業発展の中にある大都市に住む者は、かなりの度合いで仕事志向の人間になっているのです。そしてそのような背景から宣教師になった者は、ほとんど間違いなく、仕事志向の宣教師となるのです。

 伝道という働きは、徹頭徹尾人間を相手にした、人間関係の働きです。たとえその過程において機械を相手にしたり、技術を相手にしたりすることがあっても、伝道は非常に人間的な働きであり、人間と人間の付き合い、人間と人間のやり取りの働きです。ここに、多くの宣教師の問題があります。仕事志向の宣教師は、人間関係の大切さを理解せず、たとえ人間関係が壊れても仕事を完遂することを求め、仕事が完成されると、それで自分の使命が果たされたように感じてしまうために、伝道が頓挫し、教会が破壊されるのです。

 1977年、私たちがフィリピン北部の山岳地に宣教師として入り込んだ時、同じ教区で働くフインランド系のアメリカ人宣教師がいました。もう70を越えたベテランで、インドやミャンマーでの宣教師経験を持つ人でした。彼は非常に若々しくエネルギーに溢れ、教会堂建築一筋で奔走していました。ところが、彼は徹底した仕事志向の人間で、仕事さえきちっと出来ればそれで満足、ほかの事は一切お構いなしという人物でした。自分の関わる仕事に対しては非常に厳しく、絶対に妥協しません。平気で人と喧嘩をし、大工たちをどやしつけます。一般のフィリピン人たちを「ブラウン・マンキー」と呼、イゴロットたちには「お前たち未開人と」語りかけ、一緒に働くすべての者に、「馬鹿」だの「能無し」だのと言いたい放題でした。

 彼は私財をはたいてまでも宣教師として滞在し、文字通りフィリピンでの働きに命を賭けていました。彼が、徹底して主にお仕えしようと、情熱を傾けて仕事に没頭していたことは、誰もが認めるところでした。しかし、「どんなことを言われても、教会堂を建ててくれるなら、それで結構」と、大人の割り切り方をしていた教区長と、どういうわけか彼に好かれ、認められて、丁寧に扱われていた日本人宣教師の私以外の人間で、彼と一緒に働くことがた者は皆無だったのです。たとえ、教会堂を建ててやると言われても、それを心から喜ぶ牧師はいませんでした。彼がやって来ると、あらゆる仕事が彼の都合で進められ、教会の活動は良くて変更、悪ければ中止となり、信徒たちは有無も言わせず借り出され、無料奉仕させられた上に、朝から晩まで「サル」だの「未開人」だのとどやしつけられるのですから、たまったものではありません。

 彼はたくさんの教会堂を建てましたが、たくさんの教会を傷つけたのです。彼が建てたのは教会堂であって、教会ではありません。教会を建てるという働きは、非常にナイーブな仕事で、つまり、傷つき易く壊れ易い働きであって、細心の注意を要するものです。人の心を取り扱う仕事だからです。未開地の大工仕事ならば、少々荒っぽくてもハンマーで叩き、のこぎりで切り落とし、鉋で削れば良いのですが、教会を建て上げるうえで最も大切なことは、人を傷つけないことです。たとえ、すばやく建てられなくても、ゆっくりしか出来なくても、傷つけず壊さず、建て続けることが大切です。そうすれば、やがては建ち上がるのです。どんなに高価な建物を建て、どれほど美しい会堂を仕上げたとしても、教会が傷つき信徒が教会を離れてしまっては、本末転倒なのです

 宣教師が、現地の人々と一緒に行動し、一緒に同じものを食べ、同じところに眠り、同じ仕事に手を汚すのも、ひとえに、良い人間関係を作るためです。文化を知り、アイデンティフィケーションを保つのも、ただただ良い人間関係を構築するためです。多くの場合、人間関係の構築は技術ではなく心です。現地の人々やその生活を好きになれなくても、愛するようになることです。好き嫌いは感覚の問題です。しかし愛するのは意思の問題です。現地の人々の物の見方、感じ方、考え方、やり方を厳しく批判する目を持っていても良いのです。しかしそのような生き方をしている彼ら、そのような中にしか生きることが出来ず、そのような中でしっかりと生きている彼らを尊敬するのです。

 私が伝道対象としていたイゴロット部族の多くは、険しい山肌にへばりつくような狭い農地に、転がり落ちるようにしながら、サツマイモや大豆に似た豆を作って生活をしていました。満足な農機具もありません。鍬も無ければ鋤もありません。ぼろぼろの服を着て、破れれば破れっぱなしです。この奥地では、女たちは針仕事も知りません。裸足の足は大きく変形し、深いひび割れが出来ています。文字通り、まったく教育を受けておらず、無知そのものです。しかし私は、そのような環境で生きている彼らを尊敬していました。仲間たちを大切にし、家族を大切にし、らい病に罹った者さえも追い出さず、世話をし続けている彼らに感動しました。(勿論、らい病と言う病気についても無知でした。)汚れっぱなしで、今朝顔を洗ったかどうか判らないような彼らを、好きになったことがあるか、自信がありません。しかし私は彼らを強く尊敬していました。彼らを傷つけたり、怒らせたり、悲しませるようなことは決して言わず、絶対に行わないと心に決めていたのです。

 人間とは非常に傷つき易いものです。そして、すぐに人を傷つける存在です。人を傷つけないための一つの方法は、自分が傷つかない人間になることです。すぐ苛立ったり怒ったり、威張ったり誇ったりする人も人を傷つけますが、人の言葉や態度にすぐ傷つく人は、その傷つくことによって人を傷つけます。自分が傷つかない者になるためには、主にあって安定した精神状態を保つことです。どのようなことがあっても、自分は神の愛の対象であることをしっかりと自覚し、それを保ち続けることです。愛されている喜びをいつも抱いていることです。その喜びを顔に現し、笑顔を絶やさないことです。

 たとえ自分を犠牲にしても、他人の役に立てることを喜びとし、いつでも、他人の役に立てるように、心の備えをしておくことです。他人の短所や欠点ばかりを見ないで、長所や優れた点を積極的に認め、評価して上げることです。すべての人を大切にして上げることです。人間は、自分を評価してくれる人間を評価し、自分を認める人間を認め、自分を大切にする人間を大切にするものです。同じ福音でも、自分を高く評価し、認め、大切にしてくれる人間が語る福音と、自分を蔑み、拒絶し、ぞんざいに扱う者が語る福音とでは、まったく異なっています。良い人間関係は、石地の土地を耕し、撒かれた種を芽生えさせる働きをするのです。

 このような意味において、人間関係を重視している社会、共同体社会に生きて来た人間は、良い宣教師になれる可能性を秘めています。たとえ教育と訓練、あるいは経済力と機動力という点では決定的に劣っていたとしても、人間を最も大切なものとし、人間関係の構築に力を注ぐ生き方と働きは、絶対に有利なのです。それはまたキリスト教を主知主義の宗教から、生活の宗教とするものです。伝道を知識の伝達から人間性の伝播に変えるものです。生の言葉の宣教から、受肉した言葉の宣教に移行するものです。ましてや宣教師が、まだ共同体社会の色濃く残る地域で働くことになると、その差はますます歴然としてきます。そのようなことから、開発途上国からの宣教師、かつては宣教地であった国々からの宣教師が、伝統的な宣教師派遣諸国からの宣教師の数を上回ろうとする現在、私たちは大きな望みを抱くことが出来ます。彼らの大多数が、仕事よりも人間関係を大切にする人々だからです。
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