How to Be a Missionary

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文化を理解する



9.三回断る

 フィリピン人は一般に楽天的で明るく、話好きで開放的です。ところがある一面ではとても恥ずかしがり屋です。楽天的で開放的な性質は、しょっちゅう、やれ誕生会だそら記念パーティーだと集まり、簡単な料理をどっさり作ってみんなで食べるという習慣に繋がります。

 このようなパーティーなどには、文字通り誰でも招かれます。通りかかった者も「食べて行きませんか?」と大声で誘われます。特に外国人である私などは、いつでも歓迎されたものです。しかし、外国人でもない限り、このパーティーに突然お呼ばれするにも、一定の礼儀があるのです。まず、声を掛けられても必ずお断りすることです。「ちょっと先を急いでいますので、残念ですが。」「いやー、いま、食事を終えたばかりで・・・。」などと言うのが普通です。そこで誘う側が、「そうですか残念ですね。」と言うと、それは挨拶代わりの誘いであって本当の誘いではありません。のこのこと行って席に着いたりすると、大変な失礼に当たります。しかし、誘う者が「そうおっしゃらずに、是非、一緒に食べてくださいよ。」と重ねて招くなら、一緒に座って食べるというわけではありません。二度目もお断りするのが礼儀です。本当のところは、食べ物が少なくて弱っているのかも知れないのです。そこで「いや、本当に忙しいので」とか、「ちょっと、会う人がいるので」とお断りしなければなりません。しかし招く側が「そうおっしゃらずに。仕事は明日でも出来るでしょうし、会う予定の人も、やがてここに来るでしょう」などと、三度も繰り返して誘った時点で、初めて、「そうですか。それでは・・・・・。」となるのです。

 フィリピンでは、三度誘われるのを待たなければならないのです。これはイゴロットの場合は少々違いますが、大体、どこでも良く似ています。そして宣教師などがこのことを知らないと、とんでもないことになります。ある宣教師が立派な車を運転して仕事場である事務所に向かっていました。すると途中でスコールの中を歩いているフィリピン人の牧師が目に入りましたので、車を横付けにして言いました。「乗って行かないですか?」フィリピン人の牧師は当然自分たちの習慣に倣って、「いえいえ、ちょっと寄って行くところがありますから」と手を振ったのです。「オケー、じゃ、後でまた。」宣教師は車を発進させ、さっさと行ってしまいました。可愛そうにこの宣教師は、しばらくの間、不親切な悪い宣教師と言うレッテルを貼られていたということです。三回招いて、無理にでも車に乗せなければならなかったのです。

 面倒くさいことですが、日本人にはわかる習慣です。しかし、多くの西欧の宣教師にはなかなかわからないことであり、また、わかっても、タイミングと言うか、呼吸が難しく、苦労するところです。私など、京都のお宅を訪ねた時はどうしたらいいのだろうと、不要な心配をしています。

 ところが、このフィリピン人が豹変することがあるのです。私にはまだその呼吸がわからないのですが、たとえば、遠くの友人や親戚の家を、家族全員をつれて突然訪問することがあります。そして、3日でも4日でも、一週間くらいまでなら、そのまま滞在し続けます。訪ねられた方は大騒ぎです。隣近所から米を借り、油を借り、野菜を借り、店に行って肉を借りなければなりません。訪ねてきたほうは、何にも支払わずに飲み食いし、部屋とベッドを占領してにぎやかに仲良く一週間いて、さようならと帰って行くのです。どうやらこれは、交通機関も通信機関も発達していなかった、古いフィリピンの助け合い、旅人をもてなす習慣の名残だと思いますが、尋ねて見ると、一週間は我慢をしなければならないけれど、それ以上は我慢をしなくても良い、つまり体よく追い出すことが出来るのだそうです。聖書の時代でも、旅人をもてなすというのは重要な教えだったのです。遠慮深く、恥ずかしがり屋のフィリピン人、三回誘われなければ、はいと言わないフィリピン人の行動としては矛盾しているようですが、非常に面白い習慣です。

 ですから、「今度、あなたの家に遊びに行くね」などと言われて、「はい、いつでもどうぞ」などと言ったら最後です。突然たくさんの子どもを引き連れて訪ねて来ます。訪ねて来られたら最後、部屋もベッドも明け渡し、一週間すべての必要の面倒を見る羽目になります。数年前のことですが、突然、昔お付き合いをしたことのあるフィリピン人伝道者から電話がかかってきました。「ハーイ。ブラザーササキ。今、日本に着いたばかりなんだけど、君の家に訪ねて行けるかな・・・・。」この場合、初めての日本で、まず電話をかけてきたから良い方です。「今成田の飛行場だけど、君の家までどのくらいかかる?」残念ながら、長崎県北松浦郡と言う日本のはずれに住んでいる私は、とても迎えに行けない事、そしてこちらに来ることも不可能であることを説明して、成田の近くのホテルに2泊してもらって、お帰りいただきました。

 アメリカ人宣教師が帰国する時、親しくしていた伝道者やクリスチャンたちに向かって、「アメリカに来た際には是非うちに立ち寄ってください」などと挨拶をしていますが、とても危険です。フィリピン人はアメリカを天国より1センチだけ低いところと考えて、チャンスさえあれば、何を犠牲にしても行こうとしますから、本当にアメリカに行くことになる確率が高いのです。多くの宣教師はカリフォルニア出身ですから、ロスの飛行場に着いたフィリピン人は早速電話をかけます。「ハーイ、私はロペスです。いまロスに着きました。」ロペスさんは当然、親しかった宣教師が感激してすぐに車で迎えに来てくれることを期待します。「必ず家に立ち寄ってください」とさえ言われたのです。この宣教師が自分の家を訪ねて来た時は、家中を明け渡し、最高の料理でもてなしたのです。そのときの借金を返すには大変苦労をしたのです。

 しかし、カリフォルニアも日本くらい広い上、宣教師だったこの人物は、大きなもてなしを受けたことなど、すっかり忘れています。何しろ有名人だった宣教師は、いつももてなしを受けていたため、いちいち覚えていないのです。帰国の直前に約束したことも、彼にして見るとあくまでもリップサービスで、本当の約束ではありませんでした。そこで彼は言います。「やー、遠くからよくおいでになりましたね。どうか私の国を充分に楽しんでください。それじゃ、ガッドブレスユー。」受話器を置いてから考えます。「いったい今のは誰だったんだろう。」一方、飛行場に取り残されたフィリピン人の惨めさは、どんなでしょう。

10.ごめんなさいを言わない。

 「ごめんなさい」と言う美徳は、どうやら、日本独特なものかと思うことがしばしばありました。日本人は、とにかく、「すみません」「ごめんなさい」と謝ってばかりいます。ですから、色々なところで誤解されて損をしているということを聞きます。たとえば、アメリカで自動車の接触事故を起こして、つい、日本的な感覚で「アイアムソーリー」と言ってしまうと、大変なことになると教えられました。謝ることは自分の非を認めることになるから、裁判で負けてしまうというのです。

 フィリピン人も、余程のことがないと「ごめんなさい」とは言いません。フィリピン人の社会学者に言わせると、フィリピン人のこの頑なさは、400年にわたる植民地感情によるのだそうです。植民地の大農場で働かせられていた小作農や使用人は、すべての失敗を厳しく責められ、重い責任を取らせられたために、絶対に自分の責任を認めないようになったというのです。それが本当の理由であるかどうかはわかりませんが、日本軍がフィリピンを占領していた頃、多くのフィリピンたちが「ごめんなさい」と言わなかったために、厳しく責められ、処刑されたとも言われています。

 私がフィリピンに行って間もなくの頃は、パスポートやビサなどの手続きと関係書類一切を、国際的にも有名な旅行代理店のマニラ支店に任せていました。数ヶ月に一回訪れて進展を確かめ、必要な経費を支払うのですが、煩雑さを避けるために私の口座を設けてもらい、そこにいつもいくばくかの金を残して置くようになりました。2年目くらいのある日、支店を訪れ手続きの具合を確かめた上で、そろそろ口座の中に金がなくなっている頃だと考え、財布を出しながら言いました。「このお金を、私の口座の中に入れて置いてください。」すると店員は台帳を持ってきて言いました。「お客様は昨日1,000ペソ入金なさっていますよ。」私は思わず言いました。「えっ? それはあなたの間違いですよ。」するとその店員は突然むきになったように言いました。「とんでもないことです。私たちは絶対にそのような間違いはいたしません。」「だって私は払っていないんですから。」「いいえ。確かにお払いいただいています」と、おかしな言い争いが少しの間続きました。相手の剣幕に驚いた私は、とうとう言いました。「わかりました。そこまでおっしゃるならば、確かに私が支払ったことにいたしましょう。しかし、はっきり申し上げておきますが、後になって『自分たちの間違いだったから、支払いをお願いします』とは、絶対に言わないでくださいよ。」「そんなことは絶対にあり得ません。」店員は胸を張って答えました。私が思わず「それはあなたの間違いですよ」と言ってしまったことが、店員を硬化させてしまったのです。

 そういうわけで、私は1,000ペソをいただいてしまったのです。当時の金額にして4万円、私たちの一ヵ月の生活費が5万円だった頃、フィリピン人の2、3か月分の給料に相当しました。その後もこの支店はいくつもの間違いを犯したために、結局私は、旅行社を替えてしまったのですが、「ごめんなさい」と言う言葉は、一度も聴くことがありませんでした。「ごめんなさい」と言えない店員のために、会社は少なくても1,000ペソも損をしたのです。この旅行社を替える時、私はイギリスの本社へ事情を説明した不平の手紙を書きました。するとすぐに丁重なお詫びの手紙が送られてきました。署名は「general manager」でした。もちろん本人ではなく、秘書の仕事でしょう。しかし、はっきりと詫びて来たのです。私たちは、昔の大日本帝国陸軍軍人がしたように、フィリピン人たちに無理やりに「ごめんなさい」と言わせようとしてはならないのです。神さまの前に「ごめんなさい」と言えればそれで善しとするべきです。これはまた、多くの国の人々に通じることのように思います。でも、日本人が「ごめんなさい」と言うのは、やはり正しいことだと思います。

 私は、フィリピン人が「ごめんなさい」と言えないのは、面子のためではないかと考えています。フィリピン人たちは一般に誇り高い人々です。フィリピン人が最も大切にしているもののひとつが面子です。政治の世界からビジネスの世界、あるいは家庭内の揉め事に至るまで、事実関係以上に事態を複雑にするのがこの面子です。善悪の問題がいつの間にか、面子の問題にすり替わってしまいます。多くのフィリピン人は、面子を潰されるよりは名誉の死を選ぶに違いありません。

 ですから、多くのフィリピン人は「知りません」とも言えない人たちです。ちなみに、マニラの街で道を尋ねてみることです。たいていは親切に教えてくださいます。しかし信じてはいけません。まったく違うことが多いからです。マニラで道に迷ったら、少なくても3人の人に尋ねてみることです。そのうちの2人が同じことを言えばそれに賭けることです。

 ある時、日本からのお客さんを連れて、マニラの街で道がわからなくなったことがありました。「最低3人に尋ねてみて・・・・・」と説明すると、日本から来たお客さんは「まさか・・・・そこまでは」と言うような、曖昧な笑いを浮かべていましたので、試しに道を尋ねてもらいました。「ああ〜。それなら、ああ行って、こう行って・・・・」と自信たっぷりに説明してくださいました。早速そちらに向かって歩き出そうとするお客さんに、「もう1人に尋ねた方が良いですよ」と無理に進めて、もう1人に話しかけていただきました。「それでしたら、そこの角を右に曲がって、次の信号を・・・・・」と、今度も自信たっぷりな答えをもらいましたが、全然違う方角です。お客さんはすっかり困惑した様子で私を見つめていましたので。「もう1人に、尋ねてください」とお願いしました。ところが、今度も自信たっぷりに、まったく違う方向を教えられたのです。お客さんとふたりで顔を見合わせ、思わず噴出してしまいました。宣教師たるもの、このフィリピン人の性格をよく理解して、面子を潰さないように注意しながら、面子が間違った感情であり、間違った習慣であることを、聖書を通して教えて上げなければなりません。

 これと似たフィリピン人の性格に、安請け合いがあります。フィリピン人は知らないと言えないのと同じくらい、出来ないと言えないようです。ものを頼むと、「ああ、簡単です。すぐ出来ますよ。大丈夫。」と引き受けてくれます。頼んでもいないのに、遣ってやると言ってくれます。そこで下手に信用して任せてしまうと、山ほどの理由が出来て来て、結局、いつまでたっても埒が開かず、大変な迷惑をこうむることになります。フィリピン人に物を頼む時は、余程相手をしっかり知って、本当に出来るかどうか確信がなければ、遣ってもらわないことです。しかし、宣教師として、フィリピン人の働き手を育てるためには、このフィリピン人の安請け合いを上手に利用して、まず遣ると言わせ、言った者を励まし助け、褒めたりなだめたりすかしたりしながら、遣り通すことが出来るようにしてあげることが大切です。すると、実際、出来るようになるのです。

11.あけっぴろな自己顕示欲

 フィリピン人は情熱的です。あらゆることに情熱的ですが、最も血が騒ぐのは選挙と言えそうです。上は大統領から下は小学校の級長の選挙まで、実に騒然としたものです。いつかの大統領選挙の後で、ニュースが報じられました。「今回の大統領選挙は非常に平和的に行われ、全国の死亡者はわずか70人に留まりました。」確かに、どこの国でも選挙は盛り上がるものですが、フィリピンのは特別です。

 400年におよぶスペインの君主的植民地政策と、アメリカから突然押し付けられた民主主義的植民地政策がもたらした、ねじれた国民感情と「激情的面子文化」が、フィリピン独特の選挙熱を生み出したものと考えます。そしてこの国民的選挙熱が教会の中にもそのまま持ち込まれます。コリントの不道徳が教会の中に持ち込まれたために苦労したパウロのように、フィリピンの教会はこの世俗的選挙熱のために非常に苦労しています。

 現在はないことを望みますが、30年ほど前のわがアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の選挙においても、札束が飛び交い、危うくピストルの弾まで飛び交うところでした。教区の選挙でも、清き一票が20ペソ(1,000円程。当時の労働者の1日の給料)で売られました。地域教会の中では救われてもいない土地のボスが、顔と金に物を言わせて、気に食わない牧師を追い出すようなことは珍しくありませんでした。開拓間もない教会が、会衆政治形態こそ聖書的だと教えられて選挙を遣ろうものなら、たいていの場合、とんでもない苦労をすることになります。役員になりたい者が賄賂を使うのは極めて当たり前です。いくらかでも条件の良い教会を探して、自分のものにしようと画策している牧師が、役員と共謀して開拓牧師を追い落としにかかるのも、倫理的にはともかく、システムの上では承認されているのですから、熾烈な争いになります。教会員も牧師たちも傷つき、教会の成長は滞ってしまいます。

 このような文化を、私たちはどのように判断しいかに取り扱うべきか、聖書的にかなり難しい問題です。ただ、その中には極めて基本的な人間の欲望が潜んでいることだけは確かです。すなわち、人の上に立ちたい、力をふるいたい、有名になりたい、面子を保ちたいというような、自己顕示欲です。私はこの天真爛漫とも言える程に開けっ広なフィリピン人の自己顕示欲を、二つの取り扱い方である程度制御していくことに成功したように思います。ひとつは、彼らの自己顕示欲意を積極的に捉え、彼らが様々な奉仕に進んで参加し、能力を発揮させるはずみ車にしたことです。彼らを認め、評価し、褒め、彼らの欲望を満足させることです。フィリピン人は出来ないとか知らないと言うことが嫌いですから、下手でも未熟でも、認めて上げ褒めてあげさえすれば、悪びれず一生懸命に働きます。褒めて満足させる一方、さらに高い目標を与え、自分の無力さに気付かせ、祈りと謙遜を学ばせるのです。二つ目は、周りにいくらでもある「悪い手本のよい見本」から学ぶことです。自己顕示欲のために起こっている周囲の争い、分裂、いがみ合いなどを例に取り上げ、具体的に何故そのようなことが起こるのか話し合い、聖書の教えと照らし合わせ、特にキリストの謙卑の姿を高々と挙げ警告することです。自分の能力は自分のものではなく、主が教会の徳のため、教会の益のためにお与えくださったものであることをしっかりと確認し合い、互いに仕え合うことが出来ることを喜びとし、誇りとすることを学び取るようにしたのです。

 1984、5年のことでした。私たちは近くのバギオ市で開拓を始める決心をしました。実はこの人口20万人(当時)の街には1950年前後に開拓された私たちの教団の教会がひとつあったために、この町で私たちが開拓を始めることは出来ませんでした。フィリピンのアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団には、存在するアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の教会の半径7キロメートル以内では、開拓を始めてはならないという決め事があったためです。アメリカがフィリピンを植民地にした時、宣教を開始した7つの団体が互いに争うことを避けるために、フィリピンを7つの地方に分け、それぞれ不可侵条約を結んで働きを進めた歴史的出来事にならったらしいのです。しかし、山岳地の中心にあるバギオ市で、私たちの働きの基地ともなるべき教会がないのは、非常に不利でした。どうしても開拓を進める必要を感じて、私は教団総理と教区長とバギオ教会の牧師に掛け合い、非常に苦労して彼らを説き伏せた上で同意をもらい、とうとう働きを始めることに決定しました。しかし、もうひとつどうしても解決しておかなければならないことがありました。それが、自己顕示欲の問題でした。

 私は当時の協力伝道者たちを呼び寄せて話し合いました。「近々、バギオ市で開拓を始めたいと思う。責任者はM先生になってもらおう。しかし、私たちが協力してバギオ市で開拓を始めたならば、この人口と経済だ。2年以内には教区で一番大きく強い教会になることは間違いない。そこでだ、みんなにも理解してもらいたいし、M先生にはしっかり答えてもらいたいことがある。バギオ市の開拓が教区で一番大きな教会に育ち、経済的にもある程度の力を付けると、教区の年配の指導者たちが必ずこれに目を付け、横取りしようと画策して来るだろう。まずそのことを始めから予測して仕事を始めて行くことだ。次に、そのようになった場合、M先生には絶対に戦ったり争ったりせず、黙って教会を辞任して、次の開拓に向かって欲しい。我々は自分の教会を建てようとしているのではなく、主のために働くのだから。あの、井戸を掘り続けて決して争わなかったイサクを手本にしてほしい。もし、それが出来ないというならば、バギオ市の開拓は始めない。どうだろう?」

 M先生ははっきりと答えてくださいました。「私たちは自分の教会を建てるのではない。教区の指導者たちが欲しいというならば、自分は争わずに次の働きに向かいます。」

 その答えを確認して、私たちはバギオ市の開拓を始めました。「最後の頌栄」を歌っている時やっと一人の出席者があったというような、困難な開拓時期を通って、2年後には近くの大学の学生たちを中心とした英語の集会に250人、一般の人たちが集うイロカノ語の集会には、100人を超す人たちが集まり始めました。予想していたように、教区の年配の牧師たちが、あれこれと若いM牧師に言いがかりをつけはじめました。3年目にはバギオ市の教会はさらに大きくなり、経済的にもかなり確実な基盤を作り、近隣に働きを拡大して行こうとしていましたが、教区の年配の牧師たちの羨望はますます膨張し、教区長までも引きずり込んで教区の監督責任を盾に、M牧師の追い落としを図るようになりました。さすがに宣教師である私には直接手を回すようなことはありませんでしたが、これ以上、M牧師がバギオ市での開拓を継続するのは、あらゆる面から判断して好ましくないと思われるようになりました。そこで私はM牧師一家をレストランに招いて食事をしながら言いました。「どうだい? そろそろ、最初に約束した『時』が来たとは思わないか?」 M牧師は言いました。「僕もそう思います。来週の日曜日に、私は別れの説教をして、次の開拓目標地に向かいます。信徒には、教区内の牧師たちの争いについては何も言いません。ただ、『自分のバギオ市での働きは終わったので、新しい開拓のビジョンをもって再出発をします。お祈りの支援をお願いします』と言います。」

 M牧師は、次の日曜日に私に言った通りの説教をしてただちに辞任し、その週の内にバギオ市を離れ、最も開拓が困難と言われている土地に小さな家を借りて、一から開拓を始めました。M牧師は特別に能力があったわけではありませんが、私と最も長い間働き、私の働きと理念を最もよく理解してくださった人物です。彼は私と共に少なくても6つの教会を建て、さらに多くの開拓伝道所を始めた人物です。彼も、非常に自己顕示欲が強い人間でした。彼の兄弟たちも少なくても3人以上が牧師になっていますが、それぞれ、自己顕示欲のために失敗を繰り返しています。しかし、彼はその弱点を良く知って、それを克服して行ったのです。

12.聖餐を受けることができません

 フィリピンと言う国は多民族、多言語、多文化国家です。ある人に言わせると127の原語があるとのことですし、他の人は76だと言います。いずれにしても大変な数です。その中でも、私たちが活動の対象としたイゴロット族は、得意な文化を持っていました。イゴロット族もまた、さらにいろいろな部族に細分化されますが、イゴロット族全般に言えることは、言葉の数、語彙が少なく表現が直接的である、言い換えれば遠まわしな表現や、飾った表現がないということでした。ですから時々思わぬ出来事にぶつかります。

 私たちは宣教師として、毎年山岳地の教職たちを招いて、一週間にわたる修養会を開いていました。一週間とは言っても交通の不便な土地のことで、実質は3日半に過ぎませんでしたが、毎年、とても有意義な時間になっていました。ある年の修養会でのことでした。私たちは、教区内で軽視され、忘れ去られそうになっていた聖餐式をすることにしました。70人ほどの参加者の90パーセントはイゴロットたちでした。

 聖餐のためのパンとぶどう酒が配られて、全員が厳粛な思いに捕らえられていた時、突然、ひとりの伝道者が立ち上がって発言しました。「兄弟姉妹。私は残念ながらこの聖餐を皆さんと一緒に受けることが出来ません。どうか、一緒に聖餐を受けることが出来るように助けてください。」その座にいた者は全員、何事かと固唾を呑んで次の言葉を待ちました。私も非常に驚いていました。実は、彼は、私が赴任して以来、ずっと私の通訳としてあらゆるところを一緒も回り、苦楽を共にしてきた人間だったのです。非常に能力があり、しっかりした人物でしたが、それがために、かえって教区長の家系と、それに媚を売る伝道者たちにいつも冷たくあしらわれ、はみ出し者として屈辱の日々を送っていたのです。

 「兄弟。あなたの言いたいことを言ってください。私たちは兄弟を助けたいと思います。」数人の声に励まされて、彼は続けて口を開きました。「佐々木先生・・・」私は突然自分の名前を呼ばれたことに驚嘆しながらも、次の言葉を待ちました。「あなたは今まで、私にお金を下さったことがありますか?」私はあまりにも単刀直入なその言葉にさらに愕然としてしまいました。とっさに、私の頭を彼の貧しい生活の様子が駆け巡りました。7人か8人かの子供を抱え、ボロを着てやつれ果てている奥さんの姿もまぶたに浮かびました。私が、彼にお金を上げたことは一度もなかったのです。「彼は今、愛のない宣教師、思いやりのない宣教師として、私を責めようとしているのだろうか。しかし私は、彼を同労者として尊敬し、同労者として働いて来た。彼は私のヘルパーでも雇い人でもなかった。彼は私の協力者であって互いの働きを尊敬し合っていたはずだ。だから、お金など上げようと思ったこともない。ただ、一緒にバスに乗れば私が運賃を出し、一緒に食堂に入れば私が払った。それだけのことだ。」

 名指しされた私は、彼の意図がわからないまま、思った通りのことを言いました。「K先生。私はあなたを同労者と考えて一緒に働いて来ました。あなたが私の雇い人やヘルパーであると考えたことは一度もありません。従って、あなたにお金を差し上げたことは一度もありません。ただ、旅行の時のバス代と食事代は私が出したと思います。」すると彼は言いました。「兄弟姉妹。いま佐々木先生の言われたことをお聞きになりましたか?」いったい彼は何を言おうとしているのかわからないまま、集まった教職者は「ええ。聞きましたよ。」とつぶやいたものです。

 彼はさらに口を開きました。「では重ねてお尋ねしますが・・・・、T先生。あなたはどうして『Kは佐々木先生から多額のお金をもらっているから、いつも彼と協力をしているのだ』と、他の先生たちにお話しているのですか?」突然質問の矛先が変わり、名指しされた教区長の弟のT牧師は、しどろもどろに答えました。「いや。私はそのようなことを言った覚えがありません。」「では・・・」K先生はさらに言葉を継いで言いました。「V先生。先生は確かにT先生がそのように言っていると、私にお話してくださいましたね。あれは本当でしょうか?」名指しされたV先生は言いました。「確かに私はそのように言いました。私は間違いなくT先生からそのように聞いたからです。」「A先生。あなたも同じことを私に話してくださいましたね。それは本当でしょうか?」彼の続けての質問に、A先生も答えて言いました。「ええ。本当です。私もそのようにT先生から聞いたのです。」 

 その時、T先生の兄である教区長は言いました。「T。お前の罪だ。謝りなさい。」兄にビシッと釘を刺されてしまったT先生は、しおれて立ち上がり言いました。「済みませんでした。私の思い違いでした。確かめもせずに誤ったことを言いふらし、ご迷惑を掛けたことをお詫びします。」 そこでK先生は言いました。「兄弟姉妹。私を助けてくださってありがとうございます。T先生が誤りを認めてくださったことで、私のわだかまりも消え失せました。私は喜んでT先生を許します。そして一緒に聖餐をいただきたいと思います。」

 私は今までこれほど劇的で感動的な、またその本質に迫る聖餐式をしたことがありません。多分、これからもないでしょう。イゴロットの直接的な表現、言葉の数の少なさがこのようなあからさまなやり取りを許したのでしょう。興味深いことに、これらの会話はすべて英語で行われたのです。かなり自由に英語を操りながら、やはり土地の言葉の文化に強く影響されていたのです。しかし、なんと素晴らしいことでしょう。少なくても、聖餐を通して深い確執とわだかまりの一部は氷解したのです。そして、聖餐の尊さが高められたのです。私は、聖餐をこのように真剣に教会論的に捕らえて実行したK先生を、ますます尊敬するようになりました。言葉を美しく飾り、回りくどい言い方をしてはっきり物を言わない日本人。「臭いものには蓋を」し、「見ざる聞かざる言わざる」を決め込み、「寄らば大樹の陰」とばかりに日和見主義に陥る日本人には、決してありえないと思える出来事です。ただ残念なことに、この和解は、聖餐の意味を充分に理解出来ず、教会の本質についても曖昧な考えしか持っていなかったT先生や教区長にとって、一時のがれの休戦に過ぎなかったようです。私が日本に帰国してからのK先生は、教区からは完全に遊離させられ、結果として、倫理的にも低くなってしまったということです。ただ幸いなことに、新しく教区長になったかつての私の協力伝道者が、今、何とか彼を立ち直らせようと努力をしているとのことでした。

13.小さな村に三つのアッセンブリー教会

 良くても悪くても、フィリピン人にとって一番大切なのは家族です。親子兄弟の繋がりの強さは言うまでもありませんが、彼らの家族の感覚には、むしろ一族郎党と言った方が良いほどの、大家族が含まれます。婚姻や「ゴッドファザー」の仕組みが、さらにこの絆を複雑にしまた強めます。

 先に説明したように、フィリピンのアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団には、存在する同教団の教会の半径7km以内には、新たに開拓を始めてはならないという規則があります。恥ずかしいことですが、牧師が喧嘩をしないためです。しかし、フィリピンの家族感覚を考慮すると、むしろ小さな村にさえ、三つも四つもアッセンブリー教会を建てるのが効果的だと判断します。

 フィリピンの田舎では、開拓伝道のために特伝をしますと、たちまち100人くらいの人々がやってきます。もともと宗教心が強い国民であり、カトリックの信仰に馴染んでいながら、司祭の不足のためにカトリック教会の恩家を受けられないでいる人々ですから、むしろ、200人と言った方が良いでしょう。教会も、聖書も、お祈りも、賛美歌も、神様も、イエス様も、彼らは違和感なく受け入れることが出来ますので、実際、特別伝道会のような短期の伝道でも、多くの人々がキリストを救い主として受け入れる決心をします。そして、フィリピン伝道の難しさはそこから始まります。

 伝道会の直後の日曜日の礼拝会には100人の人々が集まります。次の日曜日には70人くらいが顔を見せます。来なかった30人は、先週集まった人々の顔ぶれを見て、自分の家族と仲の良くない家族、選挙や商売などで張り合っている家族の人間が大勢いることに気付いて、来るのを止めてしまいました。次の集会には50人ほどが集まります。70人の中に4つの家族がいて、どう見ても自分の所属する家族が劣勢と判断して、来なくなった人が20人いたのです。残った50人の中に3つの大家族があります。これらの家族はそれぞれ無言で新しい教会の中で勢力争いを続けます。そして、ついにひとつの家族が残るのです。その時、教会は、せいぜい30人止まりになっていることでしょう。20人にならないのは、自分の家族を優勢に保つために、さらに新たに連れられて来た者たちがあったことと、どこの家族からもたいしたことはないと見くびられている人物や、一匹狼のような人も僅かながらいるからです。

 こうしてこの教会は、たとえば「白鷺村のアッセンブリー教会」となるのですが、実質は白鷺村にあるゴンザレス家族教会に止まるのです。そして大方の場合、家族の中で力を持っている者が役員に選ばれ、赴任する牧師は、この大家族の宗教的面倒を看る、雇われ牧師となるのです。役員に選ばれたボスがしっかりとした信仰告白をし、健やかな信仰の成長を遂げ、倫理的にも真っ直ぐであれば問題は少ないのですが、そんなことはまずありえません。そこで、フィリピンの田舎の教会はいつまでたっても成長しない、経済的にもボスの哀れみにすがる他はない、貧しい教会となるのです。一度ゴンザレス教会となった教会には、ペレス家族に属する者も、フエルナンデス家族に属する者も、まず、顔を出すことはないからです。

 そこで考えられることは、白鷺教会をやめて、白鷺村にアッセンブリー・ゴンザレス家族教会とアッセンブリー・フエルナンデス家族教会、さらにアッセンブリー・ペレス家族教会を建てると良いということです。あるいは、白鷺教会ゴンザレス家族集会、白鷺教会フエルナンデス家族集会、そして白鷺教会ペレス家族集会を建てればよいのです。フエルナンデス家族に属するフィリピン人は、すぐ隣にあるアッセンブリー・ゴンザレス家族教会に出席するよりも、5km離れたアッセンブリー・フエルナンデス家族教会に出席するのが普通です。ですから、ひとつの村や町にひとつのアッセンブリー教会では、絶対に効果的な伝道と教会形成は出来ないのです。むしろ、ひとつの村に三つ四つのアッセンブリー教会を建て、それぞれが曲がりなりにもクリスチャンとして成長して行けば、やがて、教会とはすべての人為的相違を超えた和解の共同体であることも理解し、それを実践して、家族と言う隔ての壁を打ち破って、ひとつになって行くことも不可能ではないと思うのです。

 もちろん、このようなフィリピン人の家族を中心とした行動形態は、都会になるほど希薄になり、家族を超えた行動形態が現われてきます。しかし、彼らが出身地の田舎に戻ると、田舎の行動形態に戻るのです。フィリピンにおいても都市化は誰にも止められない波として押し寄せています。しかし、都市で教会に行き信仰の成長を遂げる者の多くは、地方で信仰を持ち、ある程度の信仰成長を見せてから、都会に流れて行くというパターンが多いことを考えると、家族観念を取り入れた伝道と教会形成の大切さは、無視出来ないものです。

14.羞恥心

 羞恥心と言うのはすべての民族に共通だと思いますが、どのようなことに恥ずかしさを感じ、何を「恥」とするかは、文化によって随分異なるようです。そして多くの場合、宣教師が現地の人に「恥をかかせられた」と思わせると、それでその人との関係は終わりになって、二度と再び、伝道のチャンスはおろか、簡単な会話さえ交わせなくなって、お付き合い自体が壊れてしまいます。ですから、現地の人がどんな場合にどれほど恥ずかしいと感じ、何を「恥」とするか、わきまえていなければなりません。

 私たち日本人にとっては、恥ずかしく感じると言うことと「恥」とすることに、あまり本質的な違いがありません。カトリックの文化とは言え、聖書の教えとは程遠い位置にある一般のフィリピン人の「恥」の概念も、基本的に日本人と類似したものと言えます。これらの国の人々は、「恥」をあくまでも人間関係の中の恥、あるいは人間自身の中の「恥」と捉えます。多分、絶対に聖く正しい人格神の存在を認めていない文化では、どこにおいてもかなり共通しているものと思われます。しかし、これらの人々の間にも、普通、いくつかの種類の「恥」を見ることが出来ます。ひとつは単純に、お客として着いたテーブルで、コーヒーカップをひっくり返してしまったとか、人通りの多い道で転んでハイヒールを飛ばしてしまい、裸足で歩かなければならなかった、あるいはパーティー会場で、着物が裏返しだったことに気付いたというような場合の、恥ずかしくて真っ赤になってしまうあの「恥」です。もうひとつは、自分の存在が否定されたり、名誉が傷つけられたりしたときに感じる、怒りを伴う「恥」です。さらにまた、自分の信念とか良心に反することを行ってしまった時に、自分自身に対する怒りと嘆きを伴う「恥」もあります。

 プロテスタントの影響を強く受けた文化では、この上に、絶対に聖く正しい神との関係における「恥」があります。この文化で育った者は、人間関係における相対的な倫理も、常に絶対の神との関係に置き直して考える傾向を持っています。すなわち、兄弟に対して犯した罪は、同時に神に対して犯した罪であると理解されるのです。この場合の「恥」は、神との関係における罪意識を伴った「恥」となります。もちろん、たとえプロテスタント文化の中で育ったとしても、あえて神の存在を認めないような人は、敢えて意識して、日本人のような「恥」の感覚に止まることもあるでしょう。しかしそのような時でも、彼らの中には、絶対的な善悪の基準の中で「恥」と言うものを考える傾向を持っています。このような文化においての「恥」は、神に対する悔い改めと、悔い改めに伴う償いの生活によって、取り去られるものです。

 ところが日本やフィリピンなどの、絶対の善悪の基準を持たない、人間社会の相対性の倫理の中で生きている者の「恥」は、別の方法で解決されなければなりません。恥を取り除いてくださる絶対的な存在者がいませんから、自らの手で、恥をそそ濯がなければならないのです。いったん傷ついた名誉ならば、懸命の努力によって回復させる方法があります。他者に自尊心を傷つけられた場合は、復習することによって立ち直ろうとします。自分自身に恥じることを行ってしまった場合や、誤解によって名誉を奪われてしまったような場合は、死を持って償い、また、取り戻そうとさえします。

 あるフィリピンの上院議員が、収賄罪で有罪判決を受けて議員の席を奪われそうになった時、彼は文字通り叫びました。「自分は絶対に有罪判決を認めない。上院議員も辞めない。もし、誰かがそれを無理強いするなら、死を持って抗議をする。議席を奪われるよりは、名誉の死を!」このような感覚は、文化を超えて多くの人々に共通なところがあるとは言え、実際に抗議の死を選ぶ、あるいは抗議を装った死を選ぶのは、フィリピンや日本のような、人間関係に基準を置いた「恥」の文化だからだと思われます。

 アメリカの中では、コーヒーカップをひっくり返したり、シャツを裏返しに着たりした時、あるいは、道路で滑って転んでハイヒールが取れてしまったのを、大勢の人に見られてしまったなどと言う時には、普通、「I am embarrassed」という言葉を使います。もうひとつの「I am ashamed」と言う表現も恥ずかしいという意味ではありますが、これは非常に強い言葉で、多くの場合、「罪意識を持って恥じ入る」という意味です。ですから、単純な失敗や間違いに対して「ashamed」という言葉を用いることはありません。ところが、日本人は、それらを同じひとつの「恥ずかしい」と言う言葉にまとめてしまい、少しばかり意味を強調するには「恥じ入る」という表現をして、「良心に触れて恥ずかしく感じる」と言うほどの意味を加えます。そして、恥ずかしいことをしたことも、恥ずかしいことで誰かを傷つけ迷惑をかけてしまったことも、「すみません」「ごめんなさい」と言う言葉で謝ってしまうのです。

 しかし、アメリカでは「すみません」と言う表現にあたる「I am sorry」と言う言葉は、自分に非があって迷惑をかけた時、悪いことをした場合、罪に関係した場合にだけ限って使い、自分に非がない時にはあまり用いません。用いるとしたら、必ず、その後に「for」とか「about」加えて、「・・・・・をかわいそうに思う」とか「・・・・を残念に思う」という表現にします。そうすると自分の非とは関係のない表現になります。たとえば、転んで、おでこにたんこぶを作って泣いている小さな子供を慰めるために、「かわいそうに痛かったでしょう」と言う場合や、亡くなった人についてお悔やみを言うような場合に用いられます。ですから、先に述べたように、日本人がアメリカへ行って自動車事故を起こして、日本にいる時と同じ感覚でまず「I am sorry」と言ってしまうと、自分の過失を認めたことになり、大変不利になるということです。

 ところが面白いことに、フィリピンの英語では、すべてが「ashamed」になってしまいます。「なんか、こんなことを頼むのは恥ずかしいな」と言う時も、「ashamed」です。突然人前でプロポーズされて「ashamed」となるのです。よほどきちっとした英語の教育を受けた人でなければ、フィリピンでは「embarrassed」と言う言葉を用いません。それは、フィリピンがキリスト教国と言われながら、聖書の教える絶対の神と絶対の聖さという意識が、希薄なためであると考えられます。

 ところがまた面白いことに、英語の「shame on you」と言う表現は、「ashamed」と出所を同じとする「shame」という言葉が使われていていますが、こちらはとても軽い意味で、「まあ!なんてこと!」とか「あなたのせいよ!」とか、「あなたの失敗よ!」と言った程度の、ほんの少しだけ非難の意味を込めた表現なのです。時には、からかい半分に言えるものです。まじめに『恥を知りなさい』などと訳すと、大概の場合、意味がきつすぎることになります。しかし、英語の通じるフィリピンで冗談半分にでも「shame on you」と言おうものなら、大変なことになります。フィリピンではこの言葉は、たとえようもないくらいきつく、人格を傷つけ名誉を損なう侮辱の言葉になるのです。たぶん、フィリピンにある多くの言葉の中に、このような表現があるのだと思います。 

 さて、それでは日本人はどうでしょう。日本を「恥の文化」と分析した人がいますが、この恥はあくまでも「embarrassment」あって「shame」ではありません。とは言え、たとえ絶対の神とか、絶対の善悪の基準などと言うものが、日本人一般には存在しなくても、「信念に恥じる」とか「良心の呵責を感じる」と言うような、日本人には多いと日本人が信じているのに反して、むしろ稀な現象は、どちらかというと「shame」に近いものであり、神が人間にお与えになった神に似た姿の、ひとつの現われであると考えることが出来るでしょう。

 そのような日本人が、もっとも一般的に恥ずかしいと感じるのは、生理現象に関わる事柄です。たとえば、最近は会社や公衆の場のトイレに入っても、わざわざ水の流れる音のBGMが入っていたりします。ご存知の通り、用を足すときの音を恥ずかしがる人が多いからです。逆にその音を聞かされて不快なものと感じる人も多いのでしょう。従って日本では、他人に失礼に当たらないように、不快感を与えないように振る舞うことに、非常な神経を使います。そして、他人に対して失礼に当たることを言ったり行ったりする「無神経さ」は、非常に恥ずべきことと評価されるのです。

 ところが、日本以外の色々な国を訪れてみても、そのようなところにあまり神経を使わない方が多いように感じます。フィリピンなどでは、若い女の子が、同年齢の男の子たちがワイワイ騒いでいるすぐ横のトイレに、堂々と入って行きます。躊躇しているのを見たことがありません。トイレットペーパーを手にひらひらさせながら、男性の前を横切ってトイレに入る女性も何回も見ました。この情景はあまりにも面白いために、日本人男性の商社マンとスペイン系フィリピン女性の恋を縦糸に、日本企業の開発途上国での働きを描いた、深田裕也の「熱帯商人」という小説でも取り上げられているほどです。もしも、日本人女性がそのようなことをしたら、たちまち「はしたない」「ハスッパ」な女として軽蔑されてしまうでしょう。

 このような感覚は、国や文化によってかなり異なっています。日本のトイレは御不浄といわれ、汚(けが)れたものです。日本のトイレは使用されていない時には、ドアが閉じられています。しかしアメリカ人の家庭のトイレは(水洗に限り)使用されていないことがわかるように、いつもドアが開けられています。小さな家に行くと、食堂から便器が見えるというようなことさえあります。御不浄という感覚はあまりないようです。生理現象には肝要なのです。アメリカでも、イギリスでも、学校や公衆のトイレでは、ひとつひとつの座式便器には、ドアが付いていない場合が多いため、初めて行った日本人は度肝を抜かれます。トイレに入って隣同士、大声で話し合っている女性もいます。由緒ある家の美しいお嬢さんでさえも、生理現象にはとてもおおらかです。

 フィリピン人の裕福な家庭と言うのは、日本の裕福な家庭とは格が違って、テニスコートやスイミングプールの付いた広い庭がある家に住み、トイレットもそれぞれの部屋についているだけではなく、化粧室」と訳されるにふさわしく、若い女性のものでも10畳ほど、夫婦の部屋のものなど20畳程度の広さがあるのが普通です。不思議なことに、このように豪華なトイレを使用している妙齢の女性が、プライバシーもあまり守れず、恐怖を覚えるような惨憺たる様相の、デパートや会社のトイレを平気で使用していることです。水洗式のトイレを使っている都会の子が田舎のトイレを怖がって使わないとか、自分の家では座式の便器を使っている子が、日本式の学校のトイレが使えないなどと言っている日本は、つくづく、適応性のない国民だと思うことがあります。フィリピン人は使い分けが出来るのです。

 確かに、フィリピン人は貧富の差の激しいところに住んでいるために、使い分けが出来ます。これが出来ない日本人は、とんでもないところで恥をかいたりかかせたりします。たとえば、裕福なフィリピン人たちは、戦前の日本と同じように、家にたくさんの使用人を抱えています。多くの場合は食べさせて小遣いを与えるだけで、賃金もなく働かせています。まるで家畜のように取り扱い、私たち日本人の感覚からすると、とても見るに忍びないほどです。一般の卑劣な金持ちがそのようにするのではなく、立派なクリスチャンたちも同じようにしているのです。それほど裕福ではなく、ごく普通の家庭でも、フィリピンでは共働きが多いため、子供の世話をする乳母代わりの若い女の子を雇います。この取り扱いが、また、多くの場合、私たちからすると、非人道的とさえ思えるものです。私が学んだ神学校のフィリピン人女性教師の家を訪問したときなど、その使用人に対する取り扱いを見て、「彼女はクリスチャンなのか?」と疑ったほどです。ところが、その彼女が、他の人たちに対しては非常に優雅な淑女になるのです。

 どんなに苦学生でも、一般のフィリピン人に比べると裕福な私たちは、フィリピン人の社会通念に従って、お手伝いさんを使わなければなりませんでしたが、彼女に使用人の扱い方について尋ねたことがあります。彼女は若いにも拘わらず、小さい頃からお手伝いさんとして色々な外国人の家で働き、多くの宣教師にも仕えて来た経験を持つ、とても良い娘でした。「少しでもお金を貯めて大学に行くんだ」と頑張っていました。彼女によると、お手伝いさんの取り扱いの善し悪しは、クリスチャンであるかないかにはあまり関係なく、むしろ、どこの国の人間であるかによるとのことでした。彼女の仲間たちの間では、それが共通認識となっていて、一番行きたくないのは、中東の国々から来た人の所、それから、中国人、そしてヨーロッパ人、それから韓国人、その後にアメリカ人。何と、一番いいのが日本人なんだそうです。中東の人はお手伝いさんを奴隷のように使い、中国人は家畜のように扱うそうです。ヨーロッパ人は、はっきりと身分を差別して厳しく取り扱い、韓国人は命令と要求がきついそうです。アメリカ人は親切でいろいろ助けてくれ、使用人も人間として見てくれるけれど、優越感が強く、いつも使用人を見下しているように感じると言うのです。

 それに比べ日本人は、使用人に親切にするだけではなく、同じ人間として見てくれて、心遣いをしてくれるという評価です。日本人としては穴があったら入りたいほどですが、わからないでもありません。ほとんどが中流階級となり、使用人など抱えたこともない日本人は、使用人の取り扱い方がわからず、日本の家政婦さん程度に「丁重に」扱うからです。食事中にお手伝いさんがテーブルの周りで働いているのを見ると、気の毒になってしまって、つい「こっちに来て一緒に座って食べなさい」などと言いたくなります。そして・・・・・、フィリピン人たちのお手伝いさんの取り扱いは、ヨーロッパ人より良くてアメリカ人より悪いそうです。「じゃ、韓国人くらい?」と聞くと、「韓国人は、やはり、ものの要求がきつくて・・・」という答えでした。

 しかし、どんな差別にも苦労にも、激しい労働にも耐えられるお手伝いさんたちが、どうしても耐えられないと思うことがあるそうです。それは、アメリカ人やイギリス人が良くやることで、わざと部屋の中に小銭を落としておいたり、どこかの隅っこに置き忘れたかのようにしておいたりして、お手伝いさんが正直な人間かどうかを知ろうとする、見え透いた小細工です。そのようなことをされたお手伝いさんは、非常に惨めに感じて、「よ〜し、向こうがその気なら、こっちだって」と思ってしまうのだそうです。彼女たちはここで、非常に自尊心を傷つけられ、『恥をかかされた』と感じ、それが激しい怒りに変わるのです。

 フィリピン人が最も恥と感じるのは、自分の名誉、あるいは自尊心を傷つけられることだと思います。彼らは誇り高い人種です。へりくだると言う美徳を、あまり見たり聞いたりしたことがない人々です。数多くあるフィリピンの言葉に、「へりくだる」と言う意味の言葉が果たして存在するのか、尋ねてみたいと思います。ですから、詫びるとか誤るとか言うことが嫌いです。何でもすぐ「すみません」と言ってしまう日本人とは大違いです。これは、お手伝いさんのような人たちでも同じです。日本人なら簡単に「すみません」と誤ってしまい、それで終わりのことでも、フィリピン人は決して「すみません」とは言いません。多くの宣教師がここで失敗してします。アメリカでも、子供たちは「すみません」と言うように訓練され、「すみません」と謝るまでは厳しく罰せられ、一言「すみません」と言うと、そこで許され、しっかりと抱き寄せてもらえたのです。その点は、日本よりもよほどけじめがあります。

 ですからアメリカ人宣教師は、きちっと謝らせて始末をつけることを大切にします。当然、自分たちの家で働く、貧しく家庭の躾も満足に受けられなかった「小さなお手伝いさん」を、彼らなりに可愛がり、その証としてしっかり躾をするために、失敗すると必ずそれを指摘し、謝らせようとします。しかし、フィリピン人は決して謝らないのです。フィリピン人たちは、自分が犯した間違いのために恥じ入ることはありません。それは誰でも犯すことで、自分を許せるからであり、さらに、みんなで我慢をし合い、許しあえるのです。しかし、その誤りを大げさに指摘され、他人に詫びなければならないというのは、自分の尊厳を傷つけられることで、絶対に出来ないのです。アメリカ人は、「どうしてこの小さな身体に、こんな頑固さを蓄えているんだろう?」といぶかり、フィリピン人は、「どうしてアメリカ人は、このような小さな失敗を、おおらかに許せないのだろう?イエス様は赦し合うようにとお教えになっているのを、この宣教師は知らないのだろうか?」と、その人間性に失望するのです。そんな時に、彼女たちは、部屋の隅に置かれていた小銭を思い出し、自分の仕える主人は、基本的人間性に欠けると判断してしますのです。

 ですから、けじめをしっかりさせようとするアメリカ人宣教師の家で働くお手伝いさんは、ほとんどの場合長続きがせず、次から次に入れ替わるのです。長続きするお手伝いさんは、割り切って、さっさと「すみません」と言うことを学んだ、要領のいい人たちです。そうすると、宣教師たちには素直でとてもいい子だと可愛がられ、プレゼントをもらい、あわよくばアメリカまでも連れて行ってもらえることを、ちゃんと心得ているのです。

 裕福なフィリピン人たちの間でも、たとえどんなに大きな罪を犯しても、それを犯したと言う事実自体、あるいはそれを知られたこと自体で恥と感じる人はあまりいないようです。いくらでも言い逃れをすることが出来るからです。最後の最後まで裁判で争います。彼らが恥と感じて、絶対に認めたくないのは、自分が罪を犯したと、公に認められ断罪され、立場を失い、面子を失うことです。罪を犯したかどうかと言う事実よりも、それを認めなければならないか、あるいはたとえ有罪の判決を受けたとしても、最後まで否認し続けることが出来るかどうかに、彼らの関心は集中するのです。

 日本人も、たとえ罪を犯してもそれを隠そうとしたり、「知らぬ存ぜぬ」で切り抜けようとしたりします。しかし、日本人はたとえその罪を認めようが認めまいが、「世間をお騒がせした」ことを詫びるのです。日本人に取っての犯罪は、犯罪それ自体ではなく、それが人々に知るところとなり、世間を騒がせたこと、すなわち穏やかだった世間、「和」の世間に、波風を立てたと言うことなのです。ですから、犯罪者が悪いのではなく、それを暴いて公表した人間が悪いのです。内部告発など、悪の最たるものとなるわけです。ですから、最近内部告発を励ますために作ったはずの日本の法律が、かえって、内部告発がしにくいように定められてしまったなどと言う、信じられないほどおかしなことが起こるのです。最近だけでも、内部告発の遅れや不発は、厚生省、郵政省、警察、公団、公社、三菱、UFJと挙げ出すと切りがありません。でも悪いことをした人物は、犯罪それ自体が有罪の判決を受ける前に、「世間をお騒がせした」と、さっさと謝ってしまい、有罪の判決には「だんまり」を決め込んでしまうのです。それが日本人の「恥」からの逃避です。

 フィリピン人は、自分が罪を犯したとか、失敗を犯したと認めさせられることを、最大の侮辱と考え、面子が潰されたと考えます。伝道者でも、牧師でも、面子のためには最後まで戦います。ですから、私の協力伝道者たちの取り扱いにも、気をつけなければなりませんでした。自分の弱さと足りなさと罪深さと言うものを、神のみ前で認めるだけではなく、人の前にもそれを認めることが出来る、「成長したクリスチャンになる」ことを、私たちは共通目的として学び、相互訓練を続けていたのです。そのような過程を通して後、初めて、協力伝道者たちは謝ることが出来る人間になったのです。・・・・・たとえ僅かでも。

 さらに、すでに今まで幾度か触れて来たことではありますが、フィリピン人は家族を大切にします。家族がこの世界で一番大切だと考えています。ですから、多くのフィリピン人は、家族のためにならば命を捨てることが出来ます。それはまた、家族のためならば犯罪をも厭わないことです。小さな罪を犯すことで家族を助けることが出来るならば、彼らは喜んで罪を犯します。家族のために罪を犯してまでも助けようとしないのが、もっと大きな罪なのです。また自分は罪を犯さないで、ひとり良い子として天国に入って、家族を苦しみの中に置いておくことは許されない罪なのです。ですから、最大の価値であり、心の負い目を負っている家族のためにならば、たとえ地獄に落ちても良いと考えるフィリピン人がたくさんいるのです。(フィリピンはカトリックの国であるため、都合よくそのような人が行く煉獄という場所があると考えられている) したがって、フィリピン人の最も恥とするもうひとつのことは、親不孝者、家族を省みない者というレッテルを貼られることです。泥棒と言われるよりも、人殺しと言われるより、言われたくない言葉です。これは、「盗むな」という教えを、状況とも、事情とも、文化とも習慣とも一切関わりなく、まったく普遍的な倫理として理解している人には、なかなか解りにくい事柄です。アメリカ人の恥は、謝れば赦してもらえる罪に関わるもので、取り除くことが出来るものです。フィリピン人の恥は、どんなことがあってもぬぐえないものです。多分、唯一の例外は、復讐をして不名誉を挽回し、恥を消し去ることでしょう。日本人の恥はどこかに転嫁することによって、薄く出来るものです。

15.結婚と性風俗

 一般的に、私たちのキリスト教はアメリカのキリスト教の影響を強く受けています。それは、ピューリタン精神とホーリネス運動の遺産を継承していると言うことです。そのために、聖書の教え以上に厳しい倫理を要求しているところがあります。もちろん、伝道者たちの集団が、自らの規律として厳しい基準を定めるのはそれなりに理由のあることであって、別に非難すべきことではありませんが、それを「聖書の教え」として、一般の信徒たちに無差別に強要するのは間違っているでしょう。そのようなもののひとつに、結婚、離婚、姦淫、不品行など、性に関わる問題があります。

 確かに、キリストがお教えになった性倫理はとても厳しいものでしたし、パウロの性倫理も厳しいものでした。しかしその一方でキリストは、旧約時代の性倫理に関しては、神がかなり寛容であったことを認めています。当時の人々の理解力の低さや弱さのために、神は忍耐を持って容認しておられたというのです。(マタイ19:3−12) もしそうだとしたら、旧約聖書も預言者も持たずに生きている、現代の多くの人々は、同じように、神の寛容さの中にいないのでしょうか。パウロは「神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます」と語りましたが、(使徒17:30)彼の言う「今まで」とは、パウロがこれを語った紀元50年頃のことでしょうか。それとも、福音が明確に提示された時のことでしょうか。旧約聖書を読むと、神は、同性愛や獣姦を人間の道に外れたものとして厳しく扱っておられる一方、一夫多妻に関してはおおらかに許しておられます。しかし、姦淫は貪りとして、すなわち他者の所有に欲望を抱くという貪りの罪として厳しく罰せられ、婚姻を伴わない奔放な性交渉も厳しく咎められています。しかし、それが結婚に至るものであれば、かなり寛容に扱われたように読み取れます。

 一夫多妻と言う習慣が、女性の基本的人権を侵すものであると言うことは、現在の私たちの理解ではよく分かることであり、聖書からもそれを論証することが出来るでしょう。しかし、旧約時代には、神はそれを容認しておられたのです。社会全体がそれで機能していたと言う事のために、神はそれを容認することが出来たのです。ダビデがバテシバを自分のものにした時、神はナタンを通して語っておられます。「もしもっと妻が欲しければ、与えたであろうに、どうして他人の妻を取ったのか。」現代の私たちの倫理観からすると、その前のアビガイルの場合でも、とても許せるようなものではありません。アビガイルもアビガイルで、夫が死んでしまったとたんに、待ち構えていたように、いそいそとダビデの妻になってしまいます。しかし、先のナタンの言葉によると、これも神がなさったことなのです。モーセの律法では姦淫や不品行は厳しく罰せられるものであった一方、売春婦たちは存在していましたし、キリストはそのような種類の人々を哀れみ、いつくしんでおられました。

 終戦直前に生まれ、時には「男女七歳にして」などという、それまでの日本の性風俗からすると、まるで木に竹を接いだような教えを聞かされて育った私の世代からは、現在の日本の性風俗は、まるで外国にいるようですが、もともと、「男女7歳」などと言う堅苦しさは日本のものではなく、明治政府によって無理やりに押し付けられたものだったのですから、あるいは、今見る日本の姿が本当の日本なのも知れません。明治時代の「男女七歳にして」の儒教的教えは、ピユーリタン主義のキリスト教にはとても良く馴染みました。それで、少なくてもこの部分だけは、表面上、「高い倫理的基準を持つ日本人」に合致したのです。しかし本質においては、日本人はおおらかな性風俗を持ち続けていたために、合致した部分は上ずったものに終わってしまいました。現在の私たち伝道者は、ただ単に厳しい立場を維持することによって、現実の問題と必要から逃避してしまい、人々の救いに触れられないでいるように思えるのですが、いかがでしょうか。

 旧約時代においては、神は、かなり忍耐深く、乱れた性風俗を容認しておられたという事実を、重く受け止める必要があります。奔放な同性愛が当たり前になっていたソドムとゴモラの場合は、この神の容認の範囲を超えたものだったのでしょう。性風俗は、単に性の営みと言う面だけから語られるべきではありません。家族とか、結婚とか、地域社会とか、色々な視点から考察されなければなりません。性は、文化の重要な一面なのです。

 たとえば、現在でも一夫多妻制を続けている国や地域はたくさんあります。回教国では、普通4人まで妻を持てると言われていますが、場所によっては8人でも10人でも持てますし、15人と言う例もあります。裕福で妻たちを充分に養い、満足させることが出来れば、何人持とうとかまわない回教国もあります。そのようなところに宣教をする場合、私たちはその制度に対して、また、多くの妻を持っている男に対して、さらにはひとりの夫を共有する多くの妻たちに対して、そして社会全体に対して、どのような態度を持つべきでしょう。ひとりの妻だけを残して他の妻を離婚させると、離婚された妻たちは、たちまち食べられなくなります。離婚された妻を他の男性と結婚させるべきでしょうか。聖書はそれを許しているでしょうか。社会は許しているでしょうか。ひとりの夫の一人だけの妻になった者も、果たしてそれで幸せになれるのでしょうか。社会が一夫多妻制の上に成り立っていると、その制度に反して生きることは並大抵ではありません。

 奴隷制度と言うものがまだしっかりと残っていて、社会の中で重要な役割を果たしていた頃、パウロは奴隷制度に対して直接戦いを挑むことをしませんでした。神のみ前には奴隷も自由人もないことを高々と歌い、愛を持って取り扱い、特にクリスチャンの奴隷に対しては、兄弟として接することを教えることにより、奴隷制度の根幹を揺るがしたのですが、直接の戦いを挑むようなことは避けています。一夫多妻制と奴隷制のどちらが非人間的であるかは知りませんが、パウロの態度はそのようなものだったのです。

 また、姦淫と言う概念も、聖書の時代の姦淫と、たとえば、私が働いていたフィリピンの山岳部の奥深くでは、意味合いが違います。急流にさえぎられ、滅多に外部の人間が訪れて来ない山奥のある地方では、昔から、訪ねて来る外部の者に女房たちを提供するしきたりがありました。これは、単に客人をもてなしているのではありません。何世代にも亘って、小さな部落の中で近親結婚を繰り返さざるを得なかった人々は、外部の血を入れなければ、部落全体の住民たちの力が衰えてしまうことを、経験的に知っていたために、強い子種を得ようとして妻たちを提供したのです。それは夫にとっても妻にとっても望むことであり、多くの場合、部落全体が話し合って、どの女房を提供しようかと決めたのです。

 私がこの地方の教会を訪ねた時には、予め、事情を心得ている年配の牧師に注意をされたものです。この集落では、女房たちではなく、処女をあてがうのだそうです。それは、身ごもった子が、間違いなく外部の血を受け継いだ者だと、分かるためだとのことでした。下手をすると何人もの処女があてがわれるし、旅人が逃げ出さないように、集落の出入り口は、屈強な男たちに固められていると言うのです。ましてや、私は「優秀な日本人」だと言うので、出発前はずいぶん脅されたのですが、幸い、クリスチャンと牧師たちが集落の長老たちと予め話をつけ、ガードをしてくださったとかで、無事仕事を終えることが出来ました。年配の牧師は私をからかっただけかも知れませんが、笑い事ではありません。

 しかしこのような話は、何も、フィイリピンのこの山奥の集落に限ったことではありません。ついしばらく前までは、日本の田舎の閉鎖社会でもあったことです。そして、このような習慣をただちに悪と決め付けることが出来るでしょうか。実際、近親結婚を繰り返して行くと、様々な障害が現われてくるのは良く知られている事実ですし、人里離れた小さく貧しい集落では、外部から訪れて来て定着する者もなく、そのようにして自分たちの共同体を守るより他に方法がなかったのです。

 さらに、結婚と言うものの概念も、土地と文化によって異なることを知っておかなければなりません。日本でもつい最近までは、いわゆる足入れ婚なるものが残っていました。今でもその習慣が尾を引いている地方が方々にあります。細かいところは異  なっているとは思いますが、要するに男女が一緒に住んで、性生活を含めて通常の家庭生活を営むのですが、子供が出来るまでは結婚と認められないのです。ある一定の期間子供が出来なければ、二人は分かれなければなりません。子供が出来なければ結婚が成立していないのですから、二人はまた他の男女と生活を共にすることになります。家と言うもの、あるいは労働力と言うものを非常に大切にした社会では、ある意味でよく出来た習慣です。イスラエルの文化では、夫が死んで子供がなければ、夫の兄弟によって夫のために子を設けるという手段が取られていましたが、この場合、夫の兄弟が独身既婚に係わりがなかったようで、今の私たちにはちょっと考えられない方法でした。実際には、もっと細々とした決め事があったらしく、ルツ記などを読むと、その辺りが幾分想像出来ます。ナオミがボアズとルツの間を取り持つために、ルツに教唆した内容など、とても現代のキリスト教倫理ではお勧め出来ないものですが、とにかく「めでたしめでたし」で終わっています。

 現在、足入れ婚の習慣が残っている地域は、世界中にたくさんあります。私たちはこれに対してどのような態度を取るべきでしょう。結婚観が聖書の結婚観と異なっているのです。とは言え、私たち普通の日本人の結婚観も、聖書の結婚観とは同じではありません。現在の日本の結婚観では、法律的には、当事者たちが役所に書類を提出すれば成立するのです。たとえ一緒に住み、子供が出来ていても、つまり事実婚が成立していても、法律的には、不成立なのです。反対に、一方が刑務所に収監されていて肌を触れ合うことが出来なくても、書類さえ整えば結婚が成立します。しかし、もし、そのような役所と言うもの、あるいは、書類上の手続きが存在しない、未開の文化だったらどうするのでしょう。旧約聖書の結婚観では、男女がひとつの天幕に入って一夜を過ごすと、結婚が成立したと看做されるのが普通でした。つまり、聖書では「知った」という言葉で示されている肉体の結合が、結婚の成立と看做されていたと考えられます。パウロが「遊女と交わる者は遊女と一体になる」と言ったのと、原則的に同じです。

 だとすると、つまりこの原則を現在の日本に適用すると、結婚として役所に届け出る男女の大部分が、すでに結婚を済ませているだけでなく、他の男女と済ませているということになります。何しろ私の住む長崎県でも、高校卒業時の性体験率は70%に迫ろうとしているのです。聖書的な見地から厳密に見ると重婚です。私たち教職の間では、離婚暦のある者は教職になるのが困難だそうですが、現在の日本では、20歳過ぎで救われた男女の過半数は、すでに結婚歴があり、一緒に住んでいないので離婚暦もあることになります。彼らは、少し規律を緩めても、伝道者になろうとするならもう結婚出来ないことになります。なぜなら、それは、離婚をした者の、あるいはした者同士の再婚になるからです。もう少しひねくれて考えると、社会的にも法律的にもまじめに結婚して、まじめに生活をしていたにも拘わらず、どうしても困難な理由があって離婚した者は、現在の私たちの間では、再婚を許されず、あるいは非常に困難となりますが、散々無責任に放蕩の限りを尽くし多くの女と遊んだ男、あるいは男と遊びこけた女が救われて、それぞれ結婚しようとしても何の支障もないことになります。

 私は現在の教職制度に、今、異議を唱えようとしているのではありません。ただ、私たちの結婚の概念も、必ずしも聖書的ではなく、自分たちの文化を重んじ、文化の中で保守的な立場を保っているに過ぎない、と言っているのです。それを理解すると、私たちは他の土地の他の文化の中での異なった結婚観にも、ある程度、寛容な態度を持つことが出来るようになります。足入れ婚が当たり前の文化に行くと、現代の日本人は驚いてしまいます。そして、「何と不道徳な」と思うかも知れません。あるいは「何と寛容な社会なのだろう」と思うかも知れません。しかし、そこにはそれなりの厳しい規律もあるはずです。モンゴルでは今でも足入れ婚が当たり前で、「結婚」と「同棲」が同じ言葉であるために、クリスチャンの結婚観を教えるのに苦労すると、N宣教師は伝えて来ていますが、「離婚」と「同棲を辞める」という言葉も同じなのかも知れません。確かに、そのような習慣のある文化での性風俗は、乱れがちではありますが、ある意味で、クリスチャン文化が最も浸透していると言われるアメリカよりは、乱れていないことを喜びたいものです。文明国日本よりも乱れていないことに、胸をなでおろしましょう。日本でも「一緒になる」は結婚なのか同棲なのか分かりませんし、「分かれる」のが離婚か同棲をやめることなのか、区別がつきません。自分の文化から見ると、とんでもないと思われることにも、それなりの理由があると言う事実を、もう一度確認しておきましょう。大切なことは、自分たちの文化を押し付けるのではなく、いかにより聖書的な結婚観を持ち、より聖書的な結婚と家庭を成立させることが出来るかであり、そうすることによって、社会全体を改善することが出来るかです。

 結婚に関する神の基本的御心は、簡単にまとめることが出来ます。@神は人間を、基本的に、結婚すべきものとして創造された。A結婚はひとりの男と、ひとりの女の間で行われるべきものと定められた。Bひとたび結婚した者は、生涯その結婚を全うすべきものとして定められた。C結婚を成立させるものは、「知る」という言葉で表現された、男女の性交渉である。D結婚した夫婦が、人間社会を成り立たせる最小単位と考えられた。これらの基本的事柄から、いろいろな禁止事項や戒律が派生して来ました。   

16.幽霊

 どこの国にも幽霊はいるようです。実在するのかどうかは別にして、いるようです。私は生まれつき音感が鈍く、訓練してもなかなか鋭くならず、幾度も悔しい思いをしました。音感がないのです。音感の鋭い人には本当驚かされます。生まれながらにそのような感覚が備わっているのです。私はまた、霊的な事柄にも鈍感で、幽霊などと言うものには、ついぞお目にかかったことがないのです。しかし、私がお目にかかったことがないからと言って、存在しないと言う証拠にもなりません。

 伝道者として訪れた土地の多くは、面白いことに幽霊の生息地として有名だったのですが、そしてまた、幽霊と戦ったことさえ何回もあるのですが、私はお目にかかったことはないのです。ペンテコステ系の伝道者たちの中には、何もかも悪霊のせいにして、「悪霊よ。出て行け」とやってみたり、神社の鳥居をくぐるのを恐れたり、お地蔵さんを目の敵にする人がいたり、お寺に入ると悪霊を感じるなどとおっしゃる方もいますが、私はどちらかと言うと、自分の教会の講壇をねぐらにしている悪霊の方を恐れるタイプで、神社にもお寺にも何も感じないのです。ましてや、悪霊が留守中の家族を襲うとか、家に位牌があるから悪霊に憑かれるのではないかなどと、恐れることはありません。

 私たち、啓蒙思想と合理主義の落胤である現代人、少なくても現代日本人は、一般に、科学的に証明されないものの存在を否定してしまいます。クリスチャンである私たちは、神の存在さえ否定してしまうことはありませんが、神が今、私たちと共に生き、働き、私たちの祈りを聞き、実際に助けてくださると言うことには、はなはだしい疑いを抱きます。祈りは単なる気休めになっているのです。ましてや幽霊の存在など、まったくの迷信であると片付けてしまいます。しかし、多くのアニミズム社会では、幽霊は現実のものとして恐れられているのです。合理主義の申し子のような日本文化でも、基本的にはアニミズムのもとにあり、結構幽霊の存在を信じている者がいますし、信じていないけれど恐れている人はさらにたくさんいます。聖書の世界も基本的にアニミズムの世界観であり、キリストの弟子たちもアニミズムの世界観を持っていました。旧約の神の人たちの多くもアニミズムの世界観を持っていました。それを変えるようにとか、捨てるようにと言う命令はどこにもないのです。ただ、その中で私たちの神だけを絶対の神として恐れ、礼拝し、仕えていたのです。

 私は幽霊の存在の是非を論じようとしているのではありません。ただ、存在しようがしまいが、幽霊を恐れている人がいるという事実を重要と考えているのです。合理的科学主義者の西欧の宣教師たちが、どんなにそれは迷信だと言っても、フイリピン人は、自分の生首を両手に捧げもってさまよう女性の幽霊、アスワンを恐れ、真夜中に歩き出したり踊りだしたりするサントニーニヨを怖がります。  日本のテレビ番組では、夏になると必ず幽霊などの怪奇現象を取り扱います。


  子供の頃のキリストをイメージした偶像。フイリピンに最初に到着し、キリスト教文化をもたらした西洋人、マジェランが所持していたもののレプリカ。4、50cmの高さで、王冠を被っている。


 世の中には、そのような怪奇現象がたくさん存在するようです。私が長い間住んでいたバギオ市の郊外には、日本でも有名になった、素手で手術をして色々な病気を治す男が、大金持ちになって住んでいました。日本からも、アメリカからも、ドイツからも、病気の人々が飛行機をチャーターして、押しかけて来ていました。彼は確かに有名になりましたが、彼のような仕事を生業としている人間は、フィリピンにはたくさんいます。私たちの聖書学校の入り口に住んでいる男の所にも、毎日病気を治してもらいたい人たちが、列を作っています。私はそのような手術が本物であるか、まやかしであるかと言うことを語ろうとしているのではありません。本当に治ったという人々がたくさんいて、男は大金持ちになっていると言う事実があるのです。

 私たちは、開発途上国に行けば行くほど、このような事態に遭遇します。ペンテコステの福音を信じる者として、好むと好まざるとに拘らず、これらの事実に立ち向かわなければならないのです。自分ひとりの問題ならば、無視することも出来ますが、多くの人々がこれに影響され、ほとんどの場合は苦しめられているという事実があるのです。迷信だと言って無視することは、それらの人々に何の解決にもならないのです。福音の使者として、これを放っておくことは出来ません。そして、対決しなければならなくなるのです。

 沖縄にいた時のことを少しお話しましょう。隣村にひとり住まいをしていた、当時60歳にもう少しで手が届くほどの女性が、私たちの伝道によって救われました。彼女は、沖縄では「かみんちゅう」と呼ばれる女性で、 先祖代々、占いなどをして「人助け」をしながら生計を立てる家系に生まれ、5歳のときから、自分でも占いをしてきました。若くして夫に死なれ、ずっとひとりで生きてきたということで、その辺りでは結構知られている女性でした。救われた時は、現役のかみんちゅうでした。


  「神人」と書く

 ですから、夕暮れになって、近くの家で開いていた聖書の勉強会に連れ立って歩いて行く時など、「先生。ちょっと待ってくださぁい。あそこで、私にお話したいと言って、招いている人がいらっしゃりますので、ちょっと寄って参ります」と言ったかと思うと、道のない暗闇に分け入って行こうとします。「どこに誰がいるんですか?」と目を凝らして聞くと、彼女は闇の中を指差して答えます。「ほら、あそこにお二人が待っていらっしゃる。戦争でお亡くなりになった日本兵サー。」「そんな日本人は、もう古い人たちだから、放っておいて、早く聖書の勉強に行きましょう。私も時間がありませんから。もしどうしても行きたいのなら明日にしたらいいでしょう」とまあ、こんな会話を交わすことも時折ありました。

 この女性が、ある時、薄暗くなった小さな部屋にしょんぼりと座っているのです。「どうしたの?」と聞くと、「辛くて、辛くて」と、ほとんど涙を流しそうです。「辛いことがあったんだ?」続けて尋ねると、話してくださいました。「私の神さまが、このところ毎晩、夢枕に立たれてさぁ・・・・・。」「ちょっと待って! 『私の神さま』って、どんな神さま?」と私。「あっ。すみません。私が長い間お仕えして来た神様が・・・・。」「なるほど、貴女が以前にお仕えして来た神様だね」とだめを押して、「それで、その神様が夢枕に立って?」と促すと、彼女は続けました。「毎晩、毎晩、恨み言をおっしゃるんですよぉ。『私はお前の家を代々守って来た。お前の家系は私のおかげでいつも豊かだったはずだ。お前もまた、5歳の時から私に使えて来た。私もそれに応えて、お前を守り、占いが出来るようにして来た。それなのに、何故、今になって私を捨てて、他の神の所に行くのか。私は一度だって、お前に悪いことをしたことがあっただろうか。それなのに、何故、私を裏切るのか』と。もう、私はこのところずっと眠られなくてさぁ・・・・・。何てお答えしたらよいのか。本当にこの神さまは、私に何ひとつ悪いことはなさらなかったし、いつも助けてくださったからネ。私がこうして生きているのも、この神さまがいてくださったからさぁ。」

 「これはまた、困った。何と答えたらいいのだろうか?」私は祈りながら、彼女の訴えるような目を受け止めていましたが、時間稼ぎに尋ねてみました。「ところでその夢枕にお立ちになる神さまは、どのようなお姿をしていらっしゃるのですか?」彼女が説明した姿は、ちょうど中国の絵に出てくる仙人の姿を想わせるものでした。その説明を聞いているうちに、ふっと、良い答えが浮かんできました。私の神様の助けがあったのだと思います。「ではきっと、今晩もその神様は夢枕にお立ちになるでしょうね。そうして、同じようにまた恨み言をおっしゃることでしょうね。では、その時、このようにお答えなさい。『神様、本当に長い間ありがとうございます。あなたさまがおっしゃる通り、あなたは私の家を先祖代々から守り、そのなりわい生業を助けてくださいました。私が5歳の時から私を守り、占いの時には必ず答えを教えてくださいました。あなたは、本当にお優しく、私に何一つ悪いことはなさいませんでした。本当にありがとうございます。でも、ひとつだけお聞きしたいのです。キリシターの(キリストの)神様は、私が信じてお仕えするならば、永遠の命を与えてくださると約束してくださいました。つきましては、私があなた様にお仕えし続けたら、あなたは私に永遠の命を下さることが出来るのでしょうか?』」

 2週間ほど経って、私は再び彼女を訪ねました。玄関口で朗らかに私を迎えて、彼女は言いました。「神様はあの晩も夢枕に立たれたさー。それで、先生に言われたとおりに、神様に申し上げたさー。そうしたら、神様は悲しそうなお顔をなさって、黙って、スーッと、お消えなさったよぉ。それから、もうおいでにならないサー。」沖縄では、これと同じような経験をいくつかしたものです。

 その頃毎週訪れていた結核病院でのことです。病室で神様を信じ始めていた女性が、ある時、とても惨めな表情で私にすがって来ました。「どうしたの?」と聞く間もなく、彼女は話し出しました。「毎晩、ベッドの横に、子供の幽霊が出るんです。この幽霊は、沖縄の名前で「・・・・」と言うんですが(残念ながら覚えていません)同じ部屋の人たちも見てるんです。沖縄の言い伝えでは、この幽霊には「・・・・・・」という木の葉を取って来て、その幽霊を払うと追い払えると言われているので、試してみたのですが全然だめなんです。」私は短くイエス様の権威と、そのみ名による権威について教え、言いました。「今晩その子供の幽霊が出て来たら、『主イエスのみ名の権威によって命ずる。幽霊よ。去れ。二度と再び現われるな。』と命じなさい。そうしたら、幽霊はもう出なくなります。」次の週、彼女はすっかり明るくなって言いました。「いっぺんに利いたさあーッ。」同室の女性患者たちも口をそろえて言いました。キリシターの神様はたいしたものだネーッ。」

 「こっくりさん」と呼ばれている遊びがあります。たいがいは遊びで済むのですが、時として、ふざけて「こっくりさん」で遊ぶ子供たちに、取り返しがつかないほど大きな精神的ダメージを与えることになります。ある時、教会に来ていた中学2年の女の子が、学校で流行った「こっくりさん」で遊んでいたのですが、その霊に取り憑かれてしまいました。いつも一緒に教会に来ている女の子に連れられて、私のところに来たときは、もう、完全に異常な状態でした。顔つきから、容姿全体、声までもすっかり異常になっているのです。ほかにも2人の女の子がこのような状態になり、学校中が大騒ぎになっているそうで、この女の子だけは、友人に無理やりに私のところに引っ張って来られたのです。

 彼女は、すっかり凶暴になっていました。また、突然、彼女が知る由もない私のプライベートな事柄について話し出したかと思うと、ふっと意識全体が途切れてしまったように、心が空中にさまよっているような様子になります。「おい!どうした!」と声をかけて、頬を平手で軽く叩くと、意識が戻ってきて言うのです。「今、宮古島の誰誰々さんと話していたさァ。」会話をしていると幾度も幾度もそのような事が繰り返され、さらには凶暴になり、ヒステリックに騒ぎ立てたかと思うと、放心状態になってしまいます。カウンセリングの状態ではないと感じた私は、主イエスのみ名によって、彼女に取り憑いている悪霊に向かって命じました。「この子から出て行け!」すると、私の霊的感覚では、黒い霧のような姿をしたものが彼女から少し離れ、じっと戻る機会を窺っているかのようでした。私は、主イエスのみ名によって命じ続けました。命じるたびに、悪霊の臨場感が遠くなり、とうとう100m程も遠くから、こちらを見ているように感じられるようになりました。その頃には、私もかなり疲れ、「今日はこのくらいにしておこう」と思うようになり、ほとんど正気に戻った女の子に「明日またおいで。悪霊に話しかけられても、絶対に答えてはならないよ」と告げました。女の子は素直に、「はい」と答え、連れてきた友人の手を借りて帰って行きました。

 次の日、二人はまたやって来ました。昨日とほとんど同じ状態に戻っていました。「語りかけてきた声に答えてしまった」のだそうです。またいろいろと聞きだし、キリストのみ名によって悪霊に命じました。すると悪霊は、昨日よりは抵抗する力を失ったかのように、遠くまで離れて行ったように感じられました。1時間ほど後に帰って行く時には、女の子はほとんど正常に近いくらい、明るくなっていました。一緒に遊んで同じような状態になった子供たちは、それぞれ親たちが病院に入院させたとのことでした。しかし、私のところに来た女の子は父親もなく、貧しかったために、あまり面倒を見てもらえていなかったのです。

 三日目に来た時の彼女は、まるで青ざめて、狐のように釣りあがった目をして、とても凶暴になっていました。無理やりに押さえつけながら、主イエスのみ名によって命じて悪霊を遠ざけて帰らせました。帰りには明るい笑顔を取り戻していました。しかし、また次の日も、その次の日も同じことをくり返し、とうとう1週間に及びましたが、悪霊の存在感はなくならず、彼女の異常さも消えませんでした。学校の先生たちは、他の生徒たちが絶対に「こっくりさん」で遊ばないように、厳しく監視して、この女の子にも常に目を光らせていたようですが、一旦凶暴になるとどうすることも出来ずに、教会に連れてくる友人に任せていたらしいのです。ですから、彼女はとんでもない時間に、私のところにやって来たりもしていたのです。とにかく、私の経験ではこの悪霊はなかなかしつこい奴で、いつまでも彼女を離れたがらず、取り憑こうとしていたようですが、10日ほども経つと、ついに力尽きたか、この悪霊の存在感はどんどん薄れて行き、ついに、彼女も正常な状態に戻ることができました。

 このようなことは、フィリピンでも繰り返して経験しました。トリニダドと言う町で開拓伝道を始めた時のことです。二人の聖書学校を卒業したばかりの青年を励まして、借家を探してもらったのですが、私たちの手の負えるような金額で借りられる家はありませんでした。困惑していた時、ちょうど手ごろな建物を紹介されたのです。「こんな所に、こんな家が、こんな値段であるなんて!?」と、早速借りようとした私たちが家を眺め回していたとき、近所の住民たちがやって来て言うのです。「それは幽霊屋敷だよ。」「そこに住むと碌なことがないよ。」「そこに住んだ人はみんな、すぐに出て行ってしまったよ。」そこで、私たちは考えました。「しめた。これはもっと安く借りられそうだぞ。幽霊屋敷なら、だれも借りたがらないから、交渉の余地ありだ。」私たちはすぐに持ち主のところにとって返して、交渉をし直しました。「私たちは牧師だから、幽霊なんか怖くない。幽霊を追い出して、綺麗な家にしてあげましょう。私たちが幽霊を追い出して数年住むと、人々の噂も収まるだろうし、あなたは次の借り手に対して、『幽霊なんて存在しないよ。ちゃんとここに住んでくださっていた人たちがいるんですから』と言えるでしょう?」

 結局私たちは、この家を非常に安い家賃で借りて用いました。「どうせ出てくるんだったら、美人の幽霊がいいね」などと冗談を言いながら、私たちは何日も待ったのですが、とうとう美人の幽霊も美人でない幽霊も姿を現しませんでした。ところが、近所の人々は、何時若い伝道者たちが逃げ出すかと、何回も様子を窺いに来ていたらしいのですが、結局、何事もなかったことにがっかりしたのか、やがて顔を見せなくなりました。私たちは冗談とは裏腹に、「幽霊と言われる悪霊よ。お前がこの家に取り憑いているならば、今、キリストのみ名の権威によって命ずる。直ちに出て行け。二度と戻るな。」と命じたのです。この出来事ですっかり味をしめた私たちは、開拓伝道をするときにはまず幽霊屋敷を探すことにし、実際、それからも幾度か幽霊屋敷を借りたのですが、幽霊そのものにはお目にかかったことがありません。

 ある日の午後、バギオ市の小学校の先生たちがふたり、私を訪ねてきました。話を聞くと、彼らは車で一時間半ほどのところにあるダム湖で、三つのクラスを引率してピクニックをしていたところ、突然、集団パニックに襲われて、大多数の子供たちがヒステリックになり、倒れたり叫んだり泡をふいてひきつけを起したりしたのだそうです。恐ろしくなり、近くのカトリック教会の司祭を招き、悪霊追放をしてもらったけれど効き目がなく、途方に暮れていましたが、時間がたつにつれて軽い症状の子供たちは正常に戻ったので、車でバギオ市に連れ戻って来たのだということでした。しかしまだ、重い症状の10人前後の子供たちが、そのまま取り残されているためこれから再びそこに行かなければならないのだけれど、バギオに戻ったとき、学校の先生たちから、アッセンブリー教会の宣教師のことを聞き、是非助けていただきたいと思ってお願いに来たというのです。

 このことを、土地の事情に詳しい教区長にお尋ねすると、あのダム湖の放水路周辺の水辺は、とても綺麗でついピクニックなどをしたくなる場所だけれど、よくこのようなことが起こるため、地元では、近寄らないようにしていると言うことでした。せっかく頼みに来た先生たちを無視することも出来ず、また宣教地のこのような問題にも興味がありましたから、出かけて見ました。7、8人の子供たちがぐったりと倒れ込んでいました。あまりにもヒステリックになって暴れ、ついに力尽きて放心状態になり、今は眠っているらしいと言うことでした。私は、その子供たちに手を置いて祈り、すぐに帰って来ましたが、次の週、先の学校の先生方が改めて御礼に来ました。その後、生徒たちは平常であると言うことでした。私が祈ったことに関係があるのかどうかはわかりませんが、このようなことが起こる文化の中で、私は働いていたという事実が残ります。

 悪霊の働きがあるのは間違いのない事実でしょう。しかし、何もかも悪霊のせいにするのも、聖書的根拠がありません。幽霊なるものが実在するかどうか、よく分かりません。信じていても信じていなくても、あまり私たちの信仰には関係がないように思います。キリストの12弟子も幽霊は信じていたようですが、彼らの信仰からは枝葉のことでした。ただ、それを恐れてはならないことだけは確かです。アニミズムの強い開発途上国で働く宣教師は、このような幽霊や悪霊の働きと、常に戦う姿勢を持っていなければなりません。たとえそれが空想のものであろうと事実であろうと、それを信じている者や、それに苦しめられている者にとっては、リアルなのです。
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