How to Be a Missionary

Welcome to our homepage


文化を理解する


 宣教師に最も必要な資質として、派遣された土地の文化を理解することが挙げられます。これが出来なければ、土地の人々とアイデンティフィケーションを持つことも、ままなりません。そのためには、その土地の風土気候を含めたあらゆる環境、歴史などを学ぶことが有益です。また、社会学の文献を読み、小説や芸術などに理解を持つことも助けになるでしょう。しかし最も大切なことは、現地の人々、土地の人間と交わることです。

1.じっくりと観察して、性急な判断は避ける

 異なった文化に入れられた人間の最初の反応は、驚きです。自分が育った文化と異なった考え方や物事の進め方に驚くのです。それが魅力的な場合は、それに学び、積極的に取り入れようともするでしょう。しかし、宣教師として出て行くとなると、ほとんどの場合、「より高度なクリスチャン文化」を携えて行くことになります。また、西欧や日本の宣教師となると、「より発展した文明を背景にした文化」を持って行く事になります。つまり、意識していようがいまいが、文化的優越感を秘めて宣教地に生きるのです。

 このような場合、気をつけなければならないことは、自分たちの文化に劣ると思える習慣や考え方ややり方に対して、寛容と忍耐を働かせ、たとえそれが悪と映り罪と感じられても、性急な判断は避け、まずそれを受け入れ、じっくりと観察し、なぜそのように考え、そのように行動するのか。どうしてそのような習慣が出来上がったのか、考えてみることです。すると、馬鹿馬鹿しく理屈に合わないと思えるようなことにも、実は立派な理由があり、おかしな習慣にも正当な背景があることがわかって来て、尊敬の気持ちさえ湧いて来るのです。観察することを忘れ、性急な判断をもって批判したり裁いたりすると、現地の人々を傷つけ、心を閉ざさせてしまいます。

 ある時、海岸の藁葺き屋根の家に若い漁師を訪ねました。一晩中漁をして明け方には戻って来る漁師たちも、そろそろ起き出して寝癖の付いた髪の毛を手櫛でなで上げている頃です。孟宗竹に似た太い竹を2センチほどの幅に割り、綺麗に皮をむいて、3ミリほどの間隔を置いて敷き詰めた床では、年子で生まれた二組の双子たちが裸で遊んでいることでしょう。奥さんは夫の朝食(?)の準備を終えている頃合です。この漁師が悪友たちとギャンブルに出かける前に捕まえて、福音を語らなければなりません。最近クリスチャンになった奥さんが、おっぱいが足りない幼子たちのミルク代をギャンブルに使ってしまわないように、夫に話して欲しいと牧師に頼んでいたために、私たちは連れ立って出かけたのです。

 ところが、不思議なことに、真っ黒に日焼けした若い漁師はすでにギャンブル用のニワトリを、抱えては落とし抱えては落とし、鍛えている最中でした。「おやあ、今日は早いですね。漁はどうしたんですか?」 尋ねる牧師に漁師は答えました。「いや、何ね。夕んべは久しぶりに大漁(good catch)だったんで、早く引き揚げて来たんですよ。それで早く寝て、早く起きたってわけです。」「ああ、そう。それは良かった。今日はちょっと会ってお話がしたくて・・・・。」

 会話を聞いていて、私は不思議に思いました。「大漁だったから早く引き揚げてきた」という意味がわからなかったからです。大漁ならば頑張ってたくさん獲って、遅く帰って来ることになるだろうと思ったのです。ところが彼の大漁は、獲った魚の数は変わらないで、早く引き揚げてきた大漁なのです。「赤ん坊のミルク代が足りないとこぼしている奥さんのためにも、時間をかけてもっとたくさん獲って来ればいいものを」と私は考え、「怠け者のフィリピン人は、これだからしょうがない」と心の中で思ったものです。

 バナナの葉に乗せられて竹の床の上に転がっていたキハダマグロを、日本流に刺身にさせてもらって、たらふく食べながら漁師に尋ねました。「どうして大漁ならもっとたくさん獲って来なかったんですか?」珍しい日本式の食べ方に感動していた漁師は、私の心の中の軽蔑などに少しも気付かずに、朗らかに答えました。「たくさん獲っても、この小さな町では売りさばけないし、一日置いてしまっては、もう売り物にはらんからね。」私は思わず、質問したことが恥ずかしくなりました。熱いフィリピンの電気も来ていないこの町では、たくさん獲っても保存が出来ないのです。小魚ならば塩辛も作れそうですが、トローリングで、南サワラやマグロやカツオを獲っているこの漁師には、一日分の漁があれば、それで仕事は終わりだったのです。でも、一匹だけ余分に釣った分が、私たちの刺身になったというわけです。「この頃じゃ、日本の大きな漁船がやって来て、どっさり獲って行ってしまうんで、俺たちの漁もしにくくなって来たけれどなァ・・・・。」続ける彼の言葉に、罪意識を感じてしまいました。根こそぎ獲れるだけ獲る、日本の漁業の「進んだ」方法しか頭になかった私は、自然の中で、自然を大切に生きているフィリピン人の生活の「素晴らしさ」を、理解していなかったのです。今考えてみると、このような慎ましい漁の仕方をしていれば、日本の漁業も、世界の漁場を荒らして枯渇させてしまうこともなかったと、思い当たるのです。

2.変な道路工事

 たくさんのフィリピン人たちが、粗末な道具を持ち出して新しい道を作ろうとしていました。聞いてみると、国道から数キロ離れた所に住む、大金持ちの農園経営者の道だということでした。「それにしても、いささか方向が違うんではないですか。彼の家はあっちのほうでしょう?」私は、スペイン人の血を引く大地主の顔を思い出しながら尋ねました。すると、近くでセメントを捏ねていた男が言いました。「この道は、まず、最初に俺の家の近くまで行くんだよ。それから、奴の家にも回って行くんだ」と、20リットルの油缶で水を運んでいる男を指差しました。「その後に、他の連中がまとまって住んでいるところへ枝道を作って、それから、大地主の所まで行くのさ。」

 何とまあ、無駄なことをするものです。真っ直ぐの道を作れば工事はよほど簡単で、経費も少なくて済みます。しかし、これがフィリピンの「悪名高い」大地主のやり方です。自分のために道を作るのに、わざわざ遠回りして、他の小さな百姓たちにも役に立つようにしてやっているのです。個人主義の発達した国では考えられないことです。大地主は自分の社会的立場をわきまえて生きているのです。また小作農や小さな土地を耕す百姓たちは、そのような大地主の横暴にじっと耐え忍んで生活しているように見えながら、実は大地主を信頼し、彼らの人情に頼って生きていたのです。大地主の家で働く男も女も、地主の農場や納屋から自由に持ち出して、食べたり使ったりすることが出来る物を知っていました。それは一緒に生きる者の権利とも言うべきものでした。金持ちの宣教師たちが、フィリピンのお手伝いさんたちを雇うと、冷蔵庫の中の物が無くなると不平を言うのは、このような貧しいフィリピン人の権利を理解していないからです。

 確かに、このような感覚は、私たちから見ると前近代的と思われるものです。しかし、戦前の日本はどうだったでしょう。今のフィリピンは大地主と財閥によって牛耳られています。私が始めてフィリピンに渡った頃は、貧富の差が激しくて、5パーセントの金持ちたちが、95パーセントの金を持っていると言われたものです。道には乞食が溢れていました。マニラの大通りの交差点に車を止めると、たちまちたくさんの物売りが押しかけて来ました。新聞売り、花売り、ガム売り、タバコ売り、飴玉売り、車拭きの雑巾売り、多くは子どもたちです。大半は焼けて解け出しているアスファルトの上を裸足で走り回っていました。赤子を抱えた女の乞食もいました。盲目の男を連れた女の子もいました。今は、車にエアコンが付いて窓が閉まったままですので、交差点の物売りや乞食はあまりいなくなってしまいました。どこに行って、どのように生活しているのでしょう。小さな子どもたちを抱いて、路上で眠っている女や男をたくさん見かけるのは、今も同じです。

 大地主と財閥はフィリピン経済の、と言うより社会全体の癌です。しかも歴代の大統領全員が、これと戦うと宣言していながら誰も成功していないのです。まともに戦った者さえもいません。大体、大統領も議員もみな大地主で、財閥に関係している者も少なくないのです。わざわざ、自分が損をするような戦いをする者はいません。確かにフィリピンは遅れています。しかし、だからと言って、私たち日本人が誇るべきことではありません。日本には今、大地主も財閥もなく、貧富の格差も最小限に保たれているのは事実です。ところがこれは、日本人の功績ではないのです。日本人が勤勉だからでも、差別をしないからでもありません。多くの日本人が嫌っている、占領軍司令官のマッカーサーが、強権をもって有無も言わさず、財閥解体と農地改革を行ったことによるのです。

 マッカーサーは、戦前フィリピンに滞在していたとき、何とかしてフィリピンの社会構造を変えようとして、農地改革と財閥解体という二つの大事業を計画していました。しかし太平洋戦争が起こり、それが不可能になったのです。ところが、戦後、連合軍司令官として日本に来ることになった彼は、フィリピンで計画したことを日本で実行したのです。もしマッカーサーが農地改革と財閥解体を行わなかったならば、日本は今もフィリピンのような状況にあった可能性が高いのです。日本の農家が、曲がりなりにもやる気を出し、自立してやって来られたのは農地改革のおかげです。国民の経済格差が低く、たとえ幻想であったとしても、国民の大部分が自分たちは中流階級だと言えるのも、財閥が解体されたからです。マッカーサーがやらなかったならば、戦後の首相の誰一人として、これをやり遂げることが出来た者はいなかったのは、まず間違いはありません。

 フィリピンのような植民地時代の地主制度が残っている文化では、その文化を理解し、その中で育まれた人心を理解し、受け入れなければならないのです。進んだ文化から来たという優越感を、宣教師は捨てなければなりません。アメリカ人はアメリカの文化を遺産として引継ぎ、日本人も日本の文化を遺産として引き継ぎました。今生きているアメリカ人個人の功績でもなければ、ひとりの日本人が立派なわけでもありません。同じように、すべての人々は、それぞれの文化を引き継いでいるのであって、その人たち個人の責任でも、功績でも、罪でもないのです。変な道路工事にも素晴らしい理由があるのです。

3.貸した物を返してくださいと言ってはならない

 物の貸し借りには、それぞれの文化によって、随分と異なる感覚とやり方があります。そしてまた、これは人間関係に大きく、また微妙に影響して来る、大切な習慣です。これを上手に使うと、宣教師の人間関係はとても素晴らしいものとなり、間違ってしまうと、取り返しのつかないことになってしまいます。日本のやり方はアメリカでは通用しないでしょう。アメリカのやり方もフィリピンでは通用しないのです。また同じフィリピンでも場所や部族によって随分異なります。それぞれの文化のやり方を、身をもって会得して行かなければなりません。

 フィリピンに渡って間もなくの頃、親しくしていた神学生の奥さんが遊びに来ました。帰り際に、折悪しくスコールがあったため、私の家内は、「傘を使ってください」と、壊れにくくて美しい、フィリピン女性の垂涎の的であった、日本の「安物の」傘を貸してあげました。ところが友人の奥さんは、なかなか傘を返してくださいません。それから毎日顔を合わせているのにまったく知らん振りで、傘のことはおくびにも出しません。スコールは毎日午後になると必ず降ります。家内は、傘がないためにいつも不便をしていました。少しばかり先にフィリピンに渡っていた私は、家内に「決して、返してくれって言わないようにね。」と教えていたために、家内はじっと我慢をしていたようです。ところがある日のスコールの中、家内の傘が目の前の通りを、スイスイと歩いて行きます。「まあ! 私の傘!」悔しそうにつぶやく家内に私は言いました。「そんなにあの傘を使いたいなら、今度、彼女から借りて来たらいいんだよ。そして返さなければいつまでも使えるよ。」フィリピンでは、返してくれと言うことは、借りて返さないよりずっと悪いことなのです。

 フィリピンには貸し借りに付いて、一般に4つの原則的な分類があります。第一は借りても返さなくて良い物。第二に借りたら借りたその物を返さなければならない物。第三に借りたら別の物でお返しをする物。第四に借りたら絶対に返せない物です。多分、これは多くの文化でも大体同じではないかと思うのですが。それぞれ四つの間の区分けが異なっているだけです。

 日本では借りても返さなくて良い物というと、ごくごく小さな物、たとえば鉛筆を借りてその鉛筆を返しますが、使った芯は返しません。消しゴムを借りても磨り減った分を返すわけではありません。電話を借りても、会社の電話や長距離の場合ならいざ知らず、普通は料金を払いません。フィリピンではこの範囲がかなり大きくなって、傘や小道具類に及びます。また、貸し借りの間が非常に親しいと、もう少し大きな物まで、たとえば農機具とか衣服にまで及びます。借りたら借りた物ではなく、他の物でお返しをするのは、米などの食べ物や、多量に使った調味料があります。ただし、この場合、多くはすぐに返すようなことはしません。相手が必要になった時、喜んでお返しをするのです。また、共同体の中では、互いに貸して返すことを求めないことによって、平均化するのです。日本においても、このような感覚はまだたくさん残っています。また、借りても必ず返す物の中には、たとえば車だとか高価な機械などが含まれるでしょう。また、馬や水牛などの農耕用の家畜、あるいは農耕用の大きな道具等も含まれます。

 さらにこの上に、フィリピンには絶対に返すことが出来ない負債と言うのがあります。これは「心の負債」とでも言うべきもので、日本の義理に似ていますが、義理よりも心情のこもった、真心が見えるものです。たとえば、誰かが絶対に返せないような借金を肩代わりしてくれたとか、命を助けてくれたというような場合、あるいは長い期間に亘る積もりに積もった親切、それらは絶対の心の負債となり、この負債は、時が来たならば命を賭けてでも返すべき物ですが、たとえ命を捨てても返せない物なのです。フィリピン人たちは一般に、親に対する感情、感謝をこの「心の負債」で表現します。ですから、フィリピンに老人施設は存在しません。自分の親を他人に預けるような「親不孝」は、絶対にしないからです。日本に身を売っているフィリピン人女性の多くは、このようにして、故郷の親を養っているのです。フィリピンに宣教師として行く人は、このようなフィリピン人の貸し借りの倫理を心得ていなければなりません。少なくても、彼らが借りたまま返さないのは、多くの場合、彼らの倫理が低いからではないということぐらいは、理解しなければなりません。

 私たちが開拓した教会のひとつに、古くからのクリスチャン夫婦が加わってきました。借金で田畑も家も取られ、5人の子どもを連れて着の身着のまま故郷を離れ、山の中の鉱山町にやって来ていたのですが、彼らの借金はまだ半分以上も残っていたのです。厳しい借金の取立てに、一家心中でもするか、一番上の娘を売るか、皆で乞食をするかという話に、担任牧師と私たちは主の助けを求めて祈ったものです。日本のお金からするとたいした額ではないのですが、ぎりぎりの生活費と活動費で働きを展開していた私たちには、すぐにはどうすることも出来ませんでした。

 ところが、この話を私から聞いたのか、誰か他の人から聞いたのかは分かりませんが、同僚の独身女性宣教師のT先生が、自分の生活費に余分が出来ていた分を貯めておいたからと言って、残っていた借金の額を私に手渡し、この家族に「私からだと言わずに渡して欲しい」とおっしゃるのです。「後でお礼なんて言われるのは嫌だからね。それにそんなことをしても、宣教師として、良いことをしたとも思わないし・・・・。」そこで私はしょうがなく、「神さまがあなたたちの祈りを聞いてくださったようですよ。このお金で借金を全部始末してください」と、お金を手渡して念を押しました。「誰がこのお金を出してくださったかは言えませんが、私ではないことだけは確かです。」

 それからしばらくして、私は何人もの信徒たちに教えられました。「あの夫婦は佐々木先生には『心の負債』があると言っていますよ。」「そしてあの夫婦は、私たちの教会の一番の長老です。みんながお世話になっています。彼らの負債は私たちの負債です。」「先生が困った時には、命を捨てますからね。」実際のところ、そんなに綺麗なことを言う人間は、綺麗ごとを言うことに長けている人間たちで、本当に私のために命を捨ててくれるとは思いませんでしたが、あの夫婦だけは、いざとなったら命を捨ててくださっただろうと思います。私が金を出したと誤解していたようだからです。

 誤解でなくて本当に、信徒たちが、宣教師に「心の負債」を感じるほどになれば、その宣教師のはたらきは素晴らしいものです。心の負担は、何も大きなことをしてあげる必要はないようです。むしろ常日頃から、その人たちのことを思い、気にかけ、影に日向になにかと面倒を見てやることの方が、大切です。

4.ありがとうを言えない人たち

 私が働いていた対象の人々は、イゴロットと言われる山岳民族でした。イゴロットの中にもたくさんの部族があり、それぞれ言葉も習慣も異なっていましたが、イゴロットとしての共通文化も持っていました。私は主にカンカナイという部族の間で働いていましたが、面白いことに彼らには挨拶の言葉がありません。「おはよう」も「こんにちは」も、山岳地を取り巻く平地の大部族の言葉を借りて使っていました。「ありがとう」も「アイラブユウ」も、元々、彼らの言葉には存在しないのです。「結婚の申し込みはどうやってするの?」とからかう私に、彼らは「そこは、『目は口ほどに物を言う』って奴ですよ」と笑っていましたが、とにかく、挨拶がないのですから、無愛想この上ありません。何でも実直に思ったまま、と言うより、唐突に、朴突に表現するのが彼らの会話です。

 ですから、彼らの文化背景を知らない人にとっては、カンカナイ部族はとっつきにくい、と言うか、取り付く島もない無愛想な人々です。男も女も限りなくおしゃべりで明るく、開放的な付き合いを楽しむ多くのフィリピン人の中にあって、イゴロットははにかみ屋で、静かな人たちですが、カンカナイはその中でも特にしっとりした人々です。一般のフィリピン人たちでも、この大きなギャップに着いて行けないことがありますが、フィリピン人たちは解放的で友好的だと思い込んでいる宣教師などが、何の予備知識もなくカンカナイ部族と接触すると、たちまち、誤解してしまいます。「どうしたんだろう、彼は怒っているのだろうか。自分は何か悪いことをしたのだろうか。自分を嫌っているに違いない。挨拶もしてくれなかったし、握手もしてくれなかった」と言うわけです。さらに、「失礼な奴らだ。挨拶もろくにしないし、せっかく助けてやったのに、ありがとうも言わない」と腹を立てしまいます。

 私たちが赴任して間もなくの頃、まだ自分の車を持っていなかった私は、教区長が持っていたアメリカ製の大きなバンを借りて、100kmほど離れた山の教会を訪問しました。距離こそたいしたことはありませんが、およそ、8時間の物凄いドライブです。あと10kmも行けば教会に着くと思われた頃、10人くらいの女性たちがでこぼこの泥道を、水溜りを避けながら歩いていました。中に、覚えている顔がひとつふたつあって、クリスチャンたちの一行が教会に向かっているのだとわかりましたので、皆、車の中に押し込んでドライブを続けました。おとなしいカンカナイ部族とはいえ、女性ばかり10人ほどです。ワイワイと結構賑やかでしたが、私に「ありがとう」と言った人は一人もなく、挨拶をした者さえありませんでした。ますます悪くなる山道を1時間ほど進み、やっと教会の前に着くと、女性たちはガヤガヤと降りて行きました。やはり挨拶をした者も、ありがとうと言った者もありませんでした。カンカナイ部族の特徴をすでに学んでいた私は、「やれやれカンカナイ部族だ」と心の中で苦笑いをしたものです。「泥足で汚れた車内を掃除するだけで大変だぞ。」

 そんなことがあってから数週間後、同じ屋根の下に住んでいる教区長がベランダ越しに顔を見せて言いました。「さっき、山のクリスチャンたちがやって来て、佐々木宣教師に土産だと言って、教会の玄関にジャガイモをふたつみっつ置いて行ったようだから、後で取って来てください。」「お〜い、山のクリスチャンがジャガイモをふたつみっつ玄関に置いて行ったって。取って来て置いて。」私に言われた家内は、竹ザルを手にそそくさと出て行きましたが、間もなく殻のザルを手にしたまま戻って来て言いました。「何がふたつみっつよ。あなた、行って見て来てくださいよ。」仕事の邪魔をされた私は、心の中でぶつぶつ文句を言いながら、教会の玄関に来て驚きました。30kg入りの袋が二つ、ドカッと置いてあるのです。

 教区長のドアを叩いて私は言いました。「あれがふたつみっつですか?」「そうだよ。あれがイゴロットの『ふたつみっつ』で、イゴロットの『ありがとうだよ』。この前、山の教会へ行った時、彼らを車に乗せたでしょう? 皆『宣教師の車に乗せてもらった』って喜んでいたよ。・・・・・それから、説教も悪くなかったって。」

 イゴロットには「ありがとう」と言う言葉はありません。「ありがとう」の言葉はいくらでも言えますし、すぐ消えてしまいます。イゴロットの「ありがとう」は、すぐには消えない別の方法で表現するだけなのです。宣教師たちの中には、いわゆるリップサービスをする人たちが多いのですが、多くのイゴロットは、このリップサービスに幾度も傷ついているのです。イゴロットにはリップサービスは不要です。大切なのは、彼らに必要なものは何か。必要なことは何かとよく観察して、それを具体的にやっていくことです。

 非常に友好的に見える人々も、非常に非友好的に感じる人々も、そのような第一印象で判断することは禁物です。そのように判断をする自分の文化背景、自分の基準、自分の物差しで判断しているだけで、正しい物差しはその人々の中の文化にあるからです。

5.泥棒

 多くの開発途上国では、一般的に泥棒が多いのが悩みです。世界で最も泥棒の少ない国で育った日本人には、唖然とするようなところがたくさんあります。貧しい故の泥棒もさることながら、泥棒の定義の問題、つまり、社会的な通念の問題があります。

 私が留学したフィリピンの神学校の寮での出来事です。説明の必要もないかと思いますが、この神学校は学生のすべてが聖書学校を卒業し、しかも数年の牧師伝道者としての実績を持った者たちでした。ところがこの神学校の寮は、いつも泥棒の問題で悩まされていました。外部から侵入してくる泥棒ではなく、内部の泥棒です。舎監のアメリカ人の先生は、幾度も学生たちを集めては「泥棒をしないように。他人の石鹸や歯磨き粉、便箋や封筒、傘やズボンを、断りなしに使わないように」と注意をしていましたが、一向に効き目がありませんでした。

 非常に、非常に貧しい、フィリピンやインドネシアの田舎、あるいは南太平洋に浮かぶ島々から来た学生の中に、少しばかりヨーロッパ系の学生やシンガポールの学生が混じっていました。比較的豊かな国々から来たこれらの学生たちが、自分たちの所有物がいつの間にか他の学生たちに使われてしまっていることに、いつも不平を言っていたのです。ある時、またも学生全員に召集がかかり、「泥棒はしないように」という警告が出されました。この時、私はとうとう我慢が出来なくなって言いました。「この神学校に泥棒はいないし、盗みなど存在しません。」舎監や豊かな国から来た学生はいっせいに反論してきました。

 個人主義が発達している豊かな国の学生たちは(シンガポールはアジアで最も個人主義の発達した国です)、自分の個人的所有物と言う感覚で生きていますが、共同体感覚で生活してきた多くのアジアや太平洋諸島の学生たちには、個人的所有物に対して異なった感覚を持っているのです。特に、家族の中においてはほとんどの物が共有で、皆が自由に使うのです。兄貴が買って来た物は弟も妹も使えるし、親が買って来た物は家族全員が使用します。石鹸も、タオルも、靴も、ズボンもスカートも、場合によっては歯ブラシもパンツも共同です。互いに少しずつ迷惑を我慢し合いながら、全体としては経済的に生きているのです。品物によっては家族の範囲を超えて、親戚一同、あるいは集落全体の共同の所有と考えられる物さえあります。もちろん、誰が買ってきた物か、誰に所有権があるかは皆が知っています、しかし、余程のことがないと、所有権などを主張することがないのです。

 私たちの神学校では、いつも、いわゆるアメリカ人のリップサービスで、「互いに愛し合う神の家族です」と言われていました。純朴なアジアの田舎や南太平洋の島々からやって来ていた神学生たちは、この言葉をそのまま字義通り信じていたのです。おそらく彼らは、土地に入り込んで土地の人々の習慣をある程度理解し、それを尊重していた素晴らしい宣教師たちに育まれ、個人主義の汚染をあまり経験しないまま生きてきたのでしょう。  それが突然、個人主義の塊のような人々の中に入れられ、その事実に気付かないまま共同体生活の豊かさを実践していたのでしょう。「みんな、神の家族である」としばしば強調されています。一緒に同じ寮の中に住み、同じ部屋に住み、同じ食事をしています。共同体文化の中で生きてきた人々にとって、お互いの持ち物を共同使用するのは当然のことでした。むしろ、それをさせないような雰囲気があることに、彼らは強い不満を持っていたのですが、アジア人の奥ゆかしさ、あるいは英語の不充分さから、それを我慢していたのです。


 一般的に言って、現地の人々と直接の交わりを持つ機会の多い宣教師は、聖書学校や神学校などで働く宣教師よりも、現地の文化に対して鋭い感覚を持ち、より深い理解と同情を持っています。


 個人主義の塊の文化から来た人たちは、「聖書は盗んではならないと教えている」と主張しました。そこで私は聞きました。「皆さんの盗むということの定義を教えてください。盗むとはどういうことですか。」するとアメリカから来ていた舎監は答えました。「私の定義は聖書的な定義です。それは他人の所有物を許可なしに使用したり、取ったりすることです。」他の個人主義者たちは、そうだというように頷きました。そこで私は言いました。「それは聖書の教えではないでしょう。聖書の世界は、基本的に共同体社会です。従って共同体文化の倫理が教えられています。聖書は『畑の借り入れは角を残して行うように、落とした穂は拾わないように、収穫に間に合わなかったいわゆるうら末な成りの葡萄は収穫しないように』と教えています。貧しい者がそれを取ることが出来るように残しておきなさいということです。イエス様の弟子たちは、他人の麦畑を通りながら、麦の穂を手で取ってモミをすり落として食べました。しかしこの行為は泥棒として非難されてはいません。共同体感覚のイスラエルでは許されていた行為だからです。聖書の泥棒の定義は、『自分が取る権利のない物を取ること』です。共同体文化と個人主義文化とでは、自分が取ったり使用したり出来る範囲がまったく違うのです。」共同体文化と言うものに馴染みのない人たちは、この私の言葉をまったく理解できないようでした。

 そこで私は一計を案じ、共同体文化で育った学生たちと、個人主義文化の学生たちを一緒に部屋に招き、話し合いました。共同体文化の学生たちは、豊かな学生が貧しい学生の必要に役立つのは当然だと考えているようでした。石鹸や歯磨き粉、便箋や封筒、あるいは切手やかゆみ止めの薬(蚊や南京虫用)などは断りなしに使うのが正しい倫理であるということです。また、傘や靴、ズボンなどは断ってから使うそうですが、二回目からは断りなしに使うそうです。もし石鹸などを断って使ったり、二回目にズボンを借りるのに断りを入れたりすると、それは所有者に対し大変な失礼に当たるということでした。「お前はいちいち断りを入れなければならないと考えているのか。俺をそんなにけち臭い人間だと考えているのか」と言うことになるのだそうです。  

 この話を聞いて、個人主義の社会で生きて来た学生たちはとても驚き、真剣に耳を傾けていましたが、どうしても納得出来ないようでした。しかし少なくても、この神学校に泥棒は存在しないということには、彼らも同意出来たようです。

 フィリピンの田舎では、多くの場合、他人の畑や庭にある果物を食べるのは自由です。しかし、かごや袋を持って採ってくるのは泥棒になります。ある地方では手に取って食べるのは良いけれど、集落の境界線から持ち出すのはいけないそうです。それぞれの土地によって、かなり異なっているために、それぞれの土地の習慣と感覚を知る他はありません。また農機具なども、普通は一言声をかけますが、留守の場合は自由に使って、またもとの所に戻しておけば問題はないということでした。ただし、面白いことに、私が働いていた地域のイゴロットたちには、このような共同体感覚は少なく、個人の所有の感覚が強いように思いました。ともあれ大切なことは、宣教師は自分たちの文化に培われた倫理で、現地の人々の行為を裁かないということです。ゆっくり観察し、行為行動の理由を確かめることが肝心です。

6.賄賂

 賄賂は開発途上国ではごく一般的なことです。上は大統領や政府の高官から、下は路上の物売りまで、すべて賄賂です。少なくてもフィリピンではそのように言えそうです。賄賂を罪悪と断定して、これを糾弾することは比較的容易です。しかし、それでは物事が旨く進みません。社会の中での賄賂の機能を良く心得て、賄賂の背後にある人間関係の動きも理解しなければなりません。たとえ心得ることも理解することも出来ないとしても、せめて、寛容な態度を持つ必要があります。

 確かに、賄賂は社会悪です。社会が旨く機能していない証拠でもあり、さらに大きな犯罪への玄関口であるとも言えるでしょう。時々、あまりにもしつこい賄賂社会に、大見栄を切ってどやしつけたくさえなります。出入国や滞在に関わる書類でも、法人の申請手続きでも、正常な手続きをしたままでは、何ヶ月経っても埒が開かないのです。係官の机の上に申請書類が山と積み上げられるだけです。しかしここで、収入印紙をもう1、2枚貼るような気持ちで、係官に直接税を納めると、一番下の方にあった書類が、たちまち一番上の方に移るのです。フィリピンのように、国家全体が経済的に破綻して、公務員の給料をまともに払うことが出来ないような社会では、公務員を始めとする労働者たちへの賄賂は、「手数料」とさえ理解出来るのです。彼らの給料では、とても生活が出来ないのがはっきりしています。他の仕事を持っていたり、僅かでも耕す土地を持っていたりするなら、裏庭の菜園を作って暮らしの足しに出来ますが、それさえ出来ない人々がたくさんいます。政府は、彼らが生活出来ないのを心得ていても、給料を上げることが出来ないのです。1980年代、フィリピン政府は小中学校の先生たちを対象に、裏庭菜園運動というのを行ったことがあります。学校の先生では賄賂も取ることが出来ないため、学校の先生たちが何とか生活に潤いを持てるように、野菜つくりを勧め、そのために共同の土地を世話したりさえしたのです。

 軍人たちは安い給料を補うために、銃口に物を言わせます。警察は小さな違反を見つけては小金をせびります。フィリピンで、公務員に「イチャモン」を付けられたら、彼らの不足した給料を補っていると考えると良いのです。政府を通さず、直接払っているのです。彼らがいなければ困ることもあるのですから、おおらかになることです。

 昔、そう、戦後間もなくの日本で、闇米を禁止していた頃、どのように窮していても闇に手を出すことをいさぎよ潔しとしなかった裁判官が、とうとう飢えで死んでしまったと言う事件がありました。多くの日本人は、さすがに裁判官だと感じると同時に、そこまでやらなくても良かったのに、馬鹿なことをすると感じた者も少なくなかったはずです。

 私が宣教師をしていた頃は、日本の教会からたくさんの古着が送られて来ていました。多い時は一つの船でダンボール箱100個を超えることもありました。これが年に数回はあるのです。少ない場合は郵便局まで送られて来ましたが、多い場合は80kmほど離れた港の税関まで、手続きのために出向かなければなりませんでした。私は出向くたびに迅速に手続きを行い、さらにバギオ市の郵便局までのトラックも、税関側に出してもらっていました。ところが、同じように母国から古着などの救援物資を送ってもらっていた西欧の宣教師たちは、その物資を受け取ることが出来ないで何度も事務所に足を運び、何十もの書類を整え、数ヶ月もかけてやっと受け取り、運送も自分たちが手配をしなければなりませんでした。それでも受け取れたのはまだ良い方で、受け取れないままに倉庫に眠った物資が山と詰まれていました。そして、その荷物のために保管料を請求されるといった有様です。そのあげく、結局、廃棄処分と言うことにしなければなりません。厳しいキリスト教倫理観を持っている西欧の宣教師は、貧しいフィリピンの税関で働いている人たちのシステムと生活を知らなかったか、知っていても「罪を犯すことが出来なかった」ために、荷物をみんな失うということにさえなったのです。その品物は? 数ヶ月もすれば、闇市に出回ることでしょう。

 私が最初に税関に行った時には、すでにフィリピンに4年間以上も生活していましたから、フィリピンのお役所の事情を良く心得ていました。税関の職員は、うず高く積まれた古着のダンボール箱ひとつひとつを、全部あけて検査をしなければならないと言います。朝9時に仕事を始めました。ひとつひとつ開けて検査をし、また、箱の中に押し込みます。35度をかなり超えていると思われる倉庫の中の仕事です。たちまち職員たちは全員汗だくです。私は、冷房の効いた上役の部屋へ戻り、ガラス張りの壁を通して職員の働きを横目で見ながら、彼と無駄話に時間を費やしました。むだ話が出来るのがフィリピンの役所です。横目で見ていなければならないのは、彼らが品物を隠して持ち出さないためです。10時半頃に私は言いました。「ところで、この近くでソフトドリンクは売っていますか? みんな働き詰めで大変でしょう。誰か、ソフトドリンクとおやつを少しばかり買って来るように、使いを出してくださいませんか。一緒に一休みしましょう。」ポケットの中から800円ほどの金を出し、上司に呼ばれてやって来た女性秘書に渡しながら言いました。「あなたもボスと一緒に、おやつにしましょう。適当に見繕って買って来てください。氷も忘れないで。」

 一リットル入りのコーラ瓶5本とフィリピンのおやつを、袋いっぱいに買って来た秘書とボスを連れて、私は汗だくになっている職員たちの所に行きました。「やー。本当にご苦労様。どうですか。おやつにしましょうよ。ボスも、こっちの荷物に腰掛けて、どうぞ。」冷たいコーラに一息ついた職員たちは一斉におしゃべりを始めました。仕事は案の定はかどっていません。彼らは始めから、まじめに仕事をしようなどと思っていないのです。

 私は自己紹介をして、イゴロットのために働いている宣教師だと伝えると、彼らはみんな、「へー! なんでまたイゴロットなんかのために」と驚いています。「だから、この古着はイゴロトのための救援物資なんですよ。」職員の何人かは、イゴロットの貧しさについて話し合っています。「ところで・・・・・。」私は聞きました。「みなさんも家族がいるでしょう? こちらのお若い方。あなたは何人家族?」恥ずかしがっている当人の横の、「おばさん職員」が代わって答えました。「彼は新婚なのに、もう二人目の子どもが出来そうなの。『できちゃった』なのよ。」「じゃあ、そうおっしゃるあなたは? 美人だから、早く結婚したんでしょう?」と水を向けると、「私は子どもが6人。私の世代では多い方ではないわ。でも、もうたくさん。」すると横にいた男が、「彼女のご主人はパイプカットさせられたんだ。かわいそうに。」と茶々を入れ、大笑いになりました。「彼女はカトリックを改宗したんだ。」誰かがさらに突っ込みを入れます。「私は今でもカトリックだけど、ローマカ・トリックではなくて、フィリピン・カトリックよ。」おばさんも負けてはいません。フィリピンでは、初対面の人と敢えて家族や結婚や性的な話もして、親しさを増すという風潮もあるようです。カトリック教会はすべての家族計画に反対していますが、カトリック国のフィリピン政府は、家族計画を推奨して無料の手術も行っているのです。

 「6人は大変ですね。でもご主人も働いているんでしょう?」「夫は公立学校の先生をしているけど、給料が安くて、あまり助けになりません。いいのは優しいところだけ。」フィリピン人は平気でお惚気を言います。「他の皆さんも、みんな、子どもはたくさんいるんでしょう?」と水を向けると、「最高は彼だね。13人。」「へー! それは凄いですね。でも私の子どもの学校の担任の先生は14人ですよ」と私。いい加減話が弾んだところで、「皆さんそれぞれ大変なんだ。どうだろう、そこのボスの秘書さん。ここにいる全員、ボスも含めて8人ですね。全員の名前と家族の名前、年齢、性別、体の大きさをリストアップしてくださいませんか。多分100人くらいになりますね。この古着は貧しいイゴロットに贈る物ですが、皆さんもここで、この荷物が早くイゴロットのところに着くように一生懸命協力してくださっているし、政府からの給料が充分でないことも知っています、たくさんは無理ですが、それぞれ自分の家族一人一品と限って選んでください。私からというか、日本の教会から、皆さんへのプレゼントとしましょう。」

 それからひと時、全員、家族のために一番良い古着を探そうと大騒ぎになったのは、言うまでもありません。当時のフィリピン製の服は品が悪く、購入して最初にしなければならないのは、ほつれを繕うことでしたから、品の良い日本製品はたとえ古着とは言え大人気だったのです。お昼頃には120個以上あったダンボールすべての検査が終わりました。と言うより、税関の職員は目的を果たして、それ以上検査の真似をしなくても良くなったのです。私も最低限の費用でダンボールすべてを受け取ることが出来、バギオ市まで80kmのトラック代を払わなくて済んだのです。  

 暑いフィリピンの気候です。みな薄手の可愛い服を選んだようです。全体から言うと、ダンボール一個弱に付き、一枚の薄手の衣服が税金となりました。後でボスがそっと私に耳打ちしました。「所長にも一番良さそうな物を一つ、選んでやっても良いですか? 平和的解決のために。」「ああ、もちろんそうしてください。」私は所長に紹介され、顔見知りになりました。「これからも何か問題があったら、いつでも私に言ってください。すぐ解決しますから。イゴロットのために働くなんて、たいしたものだ。」所長は大いに喜んでくださいました。結局、この税関には13年間お世話になりましたが、職員たちに古着を分けてあげたのは2回だけです。後は、いつもおやつを振る舞い、一緒に談笑し、トラックを用意してもらって、送り届けてもらっただけです。

 私が船荷をいとも簡単に受け取っているのを見たほかの団体の宣教師が、不思議そうに尋ねました。「どうしたらそのように簡単に受け取れるんですか。私なんか、もう何週間も書類作りに走り回っているんですよ。「フイリピン人を友達にして、仲良くなり、ちょっとだけ罪を犯すことです。」という私の答えに、その北欧から来ていた宣教師はいささか驚いたようです。


  ちなみに2004年10月21日付けの朝日新聞によると、世界の汚職を調査しているあるNGOの発表では、最も清潔なのはフインランド、次はニュージーランド、そしてデンマーク、アイスランド、シンガポールと並びます。イギリスが11位、ドイツが15位、アメリカは17位、フランスは22位、イタリアは42位、ロシアは90位、そして日本は24位だそうです。フイリピンは入っていませんでした。

 ダンボール箱が10個20個の場合は、みなそのままバギオ市の郵便局に送られてきました。ここでも、ひとつひとつ開かれて検査をされるのが通常の手続きです。しかし私宛の荷物は、いつもフリーパスです。担当の職員3人と局長に、きちっとクリスマスプレゼントをしていたためです。ダンボール箱が紛失したり、抜き取られたりしてしまったこともありません。私にとっては、一箱あたり3千円から4千円も払って日本から送られてくる荷物を、受け取り損ねたり抜き取られたりすることは許せない大きな罪でしたが、貧しいフィリピンの公務員に、フィリピンの習慣に倣って贈り物をし、彼らに抜き取りの罪を犯させないほうが、小さな罪であり、私の罪にしておけたのです。
 このバギオ市に、かつて私が卒業した神学校が引っ越して来ました。ところが困ったことに、郵便局には余分な私書箱がありませんでした。配達してもらうと、何週間もかかるのが普通です。私の家内の父が亡くなった時の電報は、14日目に配達されました。その上、紛失が多く、危険です。何人もの白人宣教師が雁首をそろえて、幾度か掛け合いましたがまったく相手にしてもらえず、神学校では大変困っていました。どこで聞いたか、神学校の校長は私に電話をかけてきて言いました。「ブラザーササキ、郵便局の人たちと親しくしておられるそうですね。実は、こういうわけで困っているのですが、何とかならないでしょうか。」「そうですか。それはお困りでしょう。わかりました。掛け合ってみましょう。」私は早速郵便局に出向き、局長に合って事情を話しました。「あの神学校は私たちの学校なんですよ。ひとつよろしくお願いしますよ。」「なんだ、そうだったんですか。問題ありません。随分たくさんの郵便物があると聞いていますから、3フイート四方で1フイートくらいの深さの箱を作って、持ってきてください。秘書箱室の中においておきましょう。神学校の担当者が来たらそのままお渡ししましょう。私書箱番号はありませんから、そうですね。『特別配達』としましょう。」私は校長に電話をかけました。「箱を作って、10ドルくらいの賄賂、そう、みんなで楽しんで食べられるような、たくさんのお菓子と一緒に持って行ってください。局長がみんなに分けて、顔を立てることが出来るように。小さな罪を犯しましょう。」そういうわけで、「スペシャル・デリバリー」というおかしな名前の私書箱が、この後何年間も、この神学校の私書箱になったのです。

7.流用・着服

 たとえクリスチャンでも、その文化や習慣によって、随分考え方が異なり、倫理観が違ってくることはすでに明らかだと思います。私たちが「クリスチャンでなくても一般の世の中だって当然」と思っていることが、クリスチャンどころか牧師伝道者の間でさえ、通用しないのです。そして、そのようなことにいちいち腹を立てたり、躓いたり悩んだりしていては、宣教師たるもの仕事が出来なくなります。日本の牧師たちだって、すでに述べたように、「長いものには巻かれろ」「臭いものには蓋をしろ」の日本文化の罪に気付かずに、平気で世渡りをしているではないですか。
 開発途上国で極めて一般的なのが、流用と着服です。大統領から裸足のストリートキッドたちまで、これに手を染めない者はまずいません。牧師も同じです。これは「役得」と考えられているのでしょう。ある地位と立場を得ると当然それに伴ってくる物と、理解されていると考えられます。たとえばフィリピンの場合、日本からの援助物資が、届け先に着く前にみんな蒸発してしまうことなど当たり前でした。NGOなどの慈善団体が送ってくる金品は、ほとんど間に入った者たちのポケットに入ってしまいます。赤ちゃんのミルクがウイスキーやビールに代わってしまうといった具合です。日本で慈善活動をし、金品を集めては開発途上国に送っている、無邪気な人たちにはお気の毒ですが、多くの場合、それらは目的の人々はおろか、目的地にさえも到着しないのです。北部の主要幹線道路を車で走ると、冗談と思える話が冗談ではないことがわかります。高速道路のコンクリートがしっかりしてまだ痛んでいない周辺には、たいてい貧しい木造や竹製の民家が並んでいます。ところがコンクリートの質が悪く痛んだ道路の周辺には、セメントブロック製の家が立ち並んでいます。道路工事を請け負った者たちがセメントを横流ししたためです。一度など、道端でセメント一袋が14ペソで売られていました。一袋40ペソの時代です。苦労して教会堂を建てようとしていた私は、思わず、14ペソのセメントに手を出したくなった程です。
 このような習慣や倫理観が、クリスチャンになったからと言って一朝一夕で変わるものではありません。クリスチャンといわれる人たちが、孤児院や幼稚園を経営して、パンフレットや新聞を発行して、アメリカの教会に大量に送ります。「大きな心と小さな頭を持った、アメリカのクリスチャンたち」が、  同情して金品を送り届けてきます。30人の孤児しかいないのに100人と報告し、どこかの小学校の運動会の写真を、自分たちの孤児院の写真と偽るなどはまだ良いほうで、一人の孤児もいないのに、たくさんのお金を集めている孤児院もあります。これらは流用と着服が行き着いたところです。1人1ケ月30ドルという支援金を集めて、実際は15ドルで済ませている聖書学校も、特別ではありません。3万ドルの予算の聖書学校の校舎が、1万ドルで出来上がり、あとは不明と言うのも驚くことではありません。日本でも、300万円の予算で献金を募った宣教師が、400万円集まったからと言って、残りの100万円は自分のものだと主張したことがありましたから、あまりフィリピン人のことばかりは言えないかも知れません。

  小さな心と大きな頭を持った人々よりは余程立派で、心からの尊敬を込めて、わが教区長の表現をお借りします。


 バギオの町に教会を建てようと働きを始めた私たちは、教区長の尽力もあって木造4階建てという、古い校舎を入手しました。購入資金の大半を出してくださったのは、当時協力して働いていた日本からの宣教師T先生です。日本の諸教会からの献金でした。

 ところが、この購入その他の会計報告がいつまでたっても出てきません。総責任者の教区長には何回も請求し、とうとう激しく怒らせてしまいましたが、やはり報告は出てきません。そんな時、当時、理事長だったI先生が日本から訪れてくださり、この建物を外からながめながらおっしゃいました。「この建物の会計報告はどうなっているの?」 私はお答えしました。「もしきちっとした会計報告が欲しければ、私ももう少し強く押してみますが、教団のほうでも、私が宣教師を辞めさせられて日本に帰ることも、想定して置いてください。」理事長は「ふーん」と言って、納得されたようです。わたしが会計報告を要求する時の教区長の怒りは並大抵ではなく、「この教区から、宣教師を辞めて出て行け」と口走るほどだったのです。でもこの「わが教区長」は、フィリピンの伝道者の中では最もしっかりとした倫理を持ち、教区長の中でも最も信頼の出来る人物でした。だから、私はこの教区長と働くことを選んだのです。そしてその選択は間違っていませんでした。とにかく、私は14年間、彼と同じ屋根の下に住み、親しく共に仕事をしたのです。

 とうとう私は、この教区長の「不正」に我慢が出来なくなったことがありました。この教区長の権威は非常に大きく、伝道者たちの「殺傷与奪の権」を持っていたと言っても過言ではありません。誰もこの教区長に「物申す」ことは出来ませんでした。実際、この教区長が教区長でいる限り、この教区では働けないと言って去って行く、若い伝道者が後を絶ちませんでした。その点、日本から来た宣教師である私は、たとえ彼の怒りを買い、この教区から出て行かなければならなくなっても、宣教師を辞めさせられたり、教職籍を返上させられたりする必要はありません。また、様々な働きで密着して協力して来ましたから、実際、互いに信頼し合い、かなりきつい事も言える仲になっていました。彼のたび重なる、行き過ぎたネポティズム(親族重用主義、血縁主義)などに、かなり厳しいことを言って辞めさせたこともありました。そういう訳で、誰も言うことが出来ない「目に余る」流用・着服を、教区から追放されることも覚悟して警告すべきかどうかとずいぶん思い悩み、とうとう、当時、海外伝道部長であったN先生に手紙を書き示唆を求めました。N先生の返事は簡単なものでした。「君は福音を宣べ伝えるために遣わされたのであって、同労者の倫理問題を指摘するために遣わされたのではない。」おかげさまで、私のこの土地での宣教師の働きは、追放されないまま継続することが出来ました。

 あるとき、この教区長が一人のアメリカ人を連れて、突然、私の居間に現われました。「佐々木先生。お客さんを連れてきましたから、どうかお話をしてください。」それだけ言うと、教区長はさっさと引き返してしまわれました。事情が分からないまま、とにかく挨拶を交わして座っていただき、家内がそそくさと紅茶をいれようとしている音を聞きながら、私は尋ねました。「それで、ご用件は何でしょうか?」客人は話し出しました。

 「実は私は、テキサスでアッセンブリー教会の牧師をしているKと申します。今回、香港で会議があって出席したのですが、予定が切り上がって早く終わったために、フィリピンに立ち寄ったものです。前から、一度フィリピンに来たいと思っていたために、良い機会でした。それは私たちの教会が、15年前から毎月500ドルずつ、フィリピンのアッセンブリー教会の孤児院をサポートしていますので、是非一度その孤児院を見たいと思っていたからです。それで、突然でしたが、幸い会議で一緒だったフィリピン人の伝道者に助けられ、住所を頼りにここまでやって来たのです。そして、隣の建物がその住所に当たることが分かったのですが、今日は誰もいらっしゃらないようで、鍵がかかっています。孤児院らしいものもありませんので見回していると、隣の建物がアッセンブリー教会であることに気付き、お訪ねしたのです。ところが先ほどの牧師は、自分は教区長であり、孤児院に関わる話も良く知っているけれど、自分からは話したくないとおっしゃるのですよ。そして、隣に日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の宣教師が住んでいるので、彼なら中立の立場でお話しすることが出来るだろうから、良かったら、彼に話を聞いて欲しいとおっしゃるので、ご迷惑とは存じますが、お邪魔した次第です。」

 そこで私は言いました。「もしあなたが本当に真実の話をお聞きになりたいのなら、お話をしましょう。ただし、その結果、あなたがどのように悲しい思いをなさるかは、私の責任ではないことを、始めから理解しておいてください。」「分かりました。どうかお話しください。」彼の緊張した顔に向かって私は、自分の知っていることをすべてお話しました。

 「こちらに来てください。この窓のすぐ下の建物が、孤児院と言われている建物です。ときどき多くの子供たちがやって来て、色々な活動をしているようですが、孤児院と言うのは実在しません。また、これはアッセンブリー教会の所属でもありません。この施設の所有者は、もとアメリカ・アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の女性宣教師で、戦後すぐにこの地域の開拓伝道をした方です。始めはとても素晴らしい働きをしたそうですが、不道徳な行為のために宣教師を辞めさせられることになってしまいました。しかし、夫を亡くした女性だった彼女は、アメリカに帰っても行くところがないために、フィリピンに残る決心をしました。ところが、教団の宣教師を辞めさせられてフィリピンに残るためには、フィリピン人の男性と結婚する以外に方法がなかったために、彼女はそれを選び、自分たちが建てた教会の土地の一部分を奪うようにして取って、自分たちの住居を建てたのです。それが、あなたが最初に見た建物です。それからの彼女たちは、この地域では私たちの働きに敵対し、妨げとなってきましたが、アメリカではアッセンブリー教会として宣伝をし、資金を得てきたのです。現在、彼らは山の上にひとつかふたつの教会を持っていますが、孤児院はありません。ただ、この建物にも孤児院と言う看板は立てています。時にはどこからか子供たちを集めて集会もします。あなたは、今回、突然訪ねて来られたために、空港で子供たちの出迎えも、下の建物での歓迎会も経験することが出来なかったわけです。スポンサーはみな、連絡をしてから来ますからね。するとこちら側では、その辺にたくさんいる子供たちを集め、少し小遣いを与え、歓迎会などの準備をするわけです。この辺の子供たちは、誰でもクリスチャンソングの10や20は知っていますし、彼らはみな、明るく歌が旨いので、訪ねてきた人たちはみな例外なく感激するようですね。現在この孤児院には70人の孤児がいることになっています。一人当たり毎月30ドルということで、スポンサーを募っていることも知っています。必要ならば、まだまだ詳しくお話できますしが、もっとお聞きになりたいですか? 教区長がこのことを話すのをためらっているのは、あの女性宣教師が、彼の恩師に当たるからです。ここの土地の人は、たとえどのようなことがあっても、自分の恩師の悪口になるようなことは言わないのです。」

 かわいそうに、テキサスからわざわざ訪ねておいでになった宣教師は言いました。「いいえ。もう充分です。そして、今お話してくださったことが真実なのだと言うことは、すぐに分かります。下の建物には、子どもがいる気配がまったくありませんから。それにしても、私は帰国して、自分の教会にどのように報告したらよいのでしょう。信徒たちが真実を知ったら、大変なことになります。このプロジェクトを始めたのは私の前任者で、とても尊敬すべき方で、まだ近くの教会で牧師をしておられるのです。」私はすっかり同情してしまいました。「多分あなたの教会は、海外の働きには大きな関心を持っておられたけれど、海外宣教部を信頼していなかったのでしょう。だから、直接の情報を信じて直接の支援を選んだわけですね。」結局この客人は、やはりどのような問題に発展しようとも、これは公表する以外はないと考えたようです。「もし私が、あなたの証言を必要とするときには、協力していただけるでしょうか?」彼は真剣に尋ねました。「もちろん、そのようにいたしましょう。しかし、まず、その前任の牧師とお話し、最善の解決策を見つけるのがよいでしょうね。」私は同情しながら、別れの握手をしたものです。

 倫理と言うのはとても難しい問題です。宣教師たちのなかにでさえも、とんでもない不道徳に陥るものがいます。現地の倫理観と宣教師の倫理観の違いは、さらに非常に困難な問題です。宣教師が、これは正しい倫理観だ、聖書的な倫理観だと考えていることが、実は文化的な要因に大きく影響されていることが多々あるのです。いつか日本の教職修養会でお話になったアメリカの講師が、会場の教職たちが自分の奥さんと一緒に座っていないのに気付いて、奥さんと一緒に座るのは妻を愛するという聖書的な教えの実践であるから、日本の男性教職者はすべからくもっと奥さんを大切にして、奥さんと一緒に座るべきだと強い口調で語り、他ならぬ奥さんたちの失笑を買ったことがありました。文化の違いに敏感になると共に、違いにおおらかになることが大切です。しばしば表面的相違は、隠れた奥の部分で共通の感覚や共通の考え方を持っていることがあるのです。

 個人の倫理観と言うものは、その文化背景によって培われるところが大きく、個人の罪とか責任に帰すことが出来ない部分が多くあります。たとえば、日本人である自分が非常に高度な倫理観を所持していたとしても、自分の自慢や誇りにはなりません。ただ、儒教の倫理観があった日本に生まれ育ったということに過ぎず、本来の高度な儒教的倫理からすると、恥ずかしい程度の倫理観しか持ち合わせていないのかも知れません。同じようにアメリカ人が自分の高い倫理を、個人として優れていると思ったり、個人の徳と考えたりするなら、それも間違いです。ピューリタンの倫理が支配する文化背景に、生まれ育っただけに過ぎないのかも知れません。そして、本来の厳格なピューリタン倫理からすると、堕落した人間である可能性さえあります。一方、私たちが低い倫理観しか持ち合わせていないと見下し揶揄する、多くの開発途上国の人々は、ただ単に高度に発達した倫理を持った思想、あるいはその思想を背景とした文化に行き当たらなかっただけかも知れず、実際、低い倫理観の文化背景の中で、努力して非常に高い意識を保持している可能性だってあるのです。

 それはちょうど、現代の倫理観を持って5世紀も10世紀も昔の人々の倫理を裁いてはならず、自分たちの文化を持って旧約時代の文化を評価してはならないのと同じです。今生きている私たちからするならば、アブラハム、イサク、ヤコブの倫理は陳腐です。ダビデの倫理も、ソロモンの倫理もひどいものです。彼らが素晴らしいのは彼らの文化の中で神に対する信仰をもって、あそこまで高度な生き方をしようと望み、また実行したことです。現代の民主主義の倫理に照らして素晴らしいのでも、新約聖書の倫理基準に従って高度なのでもありません。そして、そのような文化背景の中にありながら、そこに与えられた神の基本的命令は、現代のどのように高度な倫理にも劣らず高く、尊いという事実です。旧約時代の信仰の勇者たちは、神の基本的教えを、自分たちの倫理観で解釈し、適応し、最高の方法で守ろうと努力したのです。

 私が宣教師として会った多くの現地の人々は、倫理的に「低い」人々でした。一般の人間も、牧師伝道者も押しなべて「倫理的欠陥」を抱えていました。しかし多くの場合、それは個人としての彼らの責任ではありません。文化の問題です。ですから、個人を非難するのは当を得ていません。私たちは低い倫理の現状を見るよりも、低い倫理の文化にいながら、高く生きようとしている人々を賞賛すべきです。特に、牧師伝道者たちは、聖書の崇高な倫理に行き当たり、自分たちの倫理を見直そうと真剣に取り組んでいます。むしろ、悪戦苦闘しているといえるでしょう。そして、その見直しと悪戦苦闘の過程の中での、理解の仕方や判断の仕方、選択のしかたや決定の仕方が、それぞれの文化に影響されてしまうのを、避けることは出来ないということなのです。

 間違ってはいけないのですが、私はここで「状況倫理」を主張しているのではありません。人類に与えられている神の基本的な戒めは普遍的なものです。しかし、その理解と適応は、文化背景によって異なり、実行の仕方も異なるということです。宣教師が持ち行くべきものは、基本的な神の戒めであって、自分の文化で解釈され、理解され、実践されている、「神の戒めの適応」ではないということです。

8.価値観

 人間は、自分が大切に感じている物事を大事にします。お金を大切だと考えている人はお金のために時間と労力を費やし、健康を大切だと考えている人は健康に気を使います。そして、何が大切かということ、すなわち価値観は、その文化によって随分異なるのです。根本的な価値観と言うものは、世界観によって決まるとは言え、日常生活における価値観は、むしろ文化や周囲の状況に影響されるものです。貨幣を用いる文化では、お金を大切にするのはほとんど普遍的で、これは欲望が普遍的である証拠と言えるものですが、多くの人々はお金よりも大切なものを持っています。たとえば、ひと昔前の日本の男性には「仕事」と言う人が多かったでしょう。家庭と言う人も結構多かったようです。現在では、家庭と仕事が逆転しているはずです。これは、時代によって、環境によって人間の価値観が変わるということを意味しています。

 戦後の貧しさを、身をもって体験して来た私などは、袋から紐から、何でも引き出しの中に仕舞って置くとまでは行かなくても、何でも大切に長い間使うことに意義を感じています。先日やっと、4年間使用して来た携帯電話を、新しい機種に交換することにしたほどです。若い人たちに「遺物だ」などと笑われながら、いとおしんで使っていたのです。少々傷つきよごれていても、使い込んだものに価値を感じる世代だからです。

 貧しいフィリピンの中でも一段と貧しいイゴロットたちにとって、最も大切なのは・・・・少なくても、最も大切なもののひとつは食料です。食べるということはどこの文化でも大切ですが、作物の少ない山岳地に住むイゴロットにとっては、切実に大切なのです。彼らにとって最高級の食べ物は犬肉です。豊かな日本の太りすぎの犬どもとは違って、フィリピンの犬はたいてい痩せこけています。しかし、少しやせ気味の犬のほうが、脂っこくなくて良いのです。日本では昔から「赤犬」が良いと言われていたものですが、フィリピンではどのような色でもかまいません。ただ、黒い中型犬が最高級として喜ばれます。真っ黒な犬の場合、生き血を飲むこともあるほどで、いささか迷信めいた空気が漂います。

 この犬が、現地の人々と一緒に住むことを選んだ私たちの、毎日の頭痛の種でした。教区長が必ず犬を放し飼いにして、大きくしては食卓に載せていたからです。一匹がいなくなるとすぐ、どこかの牧師がご機嫌伺いにまた一匹持って来ます。私たちのフラストレーションは、この犬どもが撒き散らす糞にありました。教区長と一緒に住んだ14年間ずっと糞害に憤慨し続けていました。ある時は、「毒をもって毒を制す」とばかりに、私たちも大きな犬を買って放し飼いにしてみましたが、糞害に対する嫌悪観は無くなりませんでした。

 実を言うと、フィリピンは一般に非常に不潔です。少々オーバーに言うと、当時のフィリピンは、飛行機がマニラの空港に着くとすぐ小便の匂いが漂い、どこまで行こうと、どんな所に行こうと、それが消えなかったものです。どこの路地にも犬の糞や家を持たない人たちの糞が落ちていました。荒野のイスラエル民族には、糞をする時の法律も定められていましたが、ほとんどの路地裏までアスフアルトで固められたマニラでは、それも通用しません。上手にそれを避けて通るのはなかなか難しく、どうしても触れてしまいます。雨が降ると、解けて流れ出しています。ですから、家の中でも靴を履いたままの文化には、最後まで慣れませんでした。それが、こともあろうに、我が家の庭も糞だらけになるのです。私たちは普通の日本人として、庭は花で飾ろうと一所懸命になったのですが、花壇と放し飼いの犬はどうしてもそりが合いません。私たちにとっては、1年に数回の犬の肉より毎日の花が大切なのです。つまり、ここで価値観の争いが起こったのです。イゴロットはあまり花には関心を示しません。花より団子ならぬ、花より犬です。私たちは宣教師です。そのような所に、自分たちの価値観を主張せず、イゴロットの価値観を受け入れようと心掛けたのですが、精神衛生上、非常に悪かったと判断しています。

 普通、フィリピン人たちが最も大切にしているのは家族です。家庭ではありません。家族です。しかも今の日本のような核家族ではなく、お爺ちゃんお婆ちゃん、いとこはとこ、叔父さんのおばさん、おばさんの叔父さん、そしてその子どもたちや孫たちまで含めた家族です。これがフィイリピンの社会を構成している土台と言うか、基本単位なのです。フィリピンの社会はこのような血縁と婚姻によって織り上げられる、色彩豊かな布のようです。

 もちろん、家族の中でも直接血の繋がっている親子、兄弟姉妹の大切さは何にも勝る物です。つまり、フィリピン文化においては、直接血の繋がっている家族こそ最大の価値を持つものなのです。貧しい上に、国民に絶大な力を持つカトリック教会が家族計画に反対しているために、8人、10人の子どもがいる家庭では、当然のように、上の子どもたちが下の子どもたちの面倒を見ます。義務教育の小学校を出る前から働き、下の子どもたちを高校や大学に行かせている長男、長女も少なくありません。売春宿の若い女の子たちは、ほとんどが弟や妹の面倒を見、病気で働けない両親を助けているのです。いちど、深夜の道端にうずくまっていた女の子を助けたことがありましたが、心臓病を持ちながら売春を続けているということで、肌に紫斑が出来ていました。自分の心臓病の手術もしたいけれど、それより、妹や弟が大学を出て、いい仕事についてくれるのが夢だと、語ってくれました。痛々しくて、涙が出ました。

 フィリピンにおいては、昔の日本がそうであったように、そして現在の日本も外国人の女性には許していて国際機関に非難されているように、人身売買がたくさんあります。12、3歳の女の子とたちが、口減らしのために働きに出されます。そして、うまく行けば僅かな小遣いを弟や妹に送ります。このような中にあっては、家族の危急を救うため、泥棒をすることさえもある程度許されます。特に裕福な者から盗むという悪は、もっとも価値のある「家族」を救うという善のために、帳消しになるのです。刑法の上では犯罪であっても、社会通念としては、かなりの程度許容されるのです。とうぜん、ネポティズムも許されるだけではなく、ネポティズムをしないことが、家族を大切にしないことであって、社会通念に反する罪悪なのです。嘘をつくことだって着服する事だって、贈収賄をすることだって、家族と言う最も価値の高いものの火急を救うために行うならば、かなりのことは許されるのです。日本だったならば、同情はするが犯罪は犯罪と言う辺りが、同情の比重をずっと大きくし、犯罪の比重をずっと小さくしてしまうのです。

 ある時アメリカ人の若い女性が、宣教師訓練生として私のところに学びに来ていました。彼女は未婚の母に育てられ、と言うより放ったらかしにされ、缶詰めの缶を開けてそのままフオークで食べ、鍋で煮た物を鷲づかみに食べるような子ども時代を生きて来ました。それが救われて、主のために働きたいと願い、宣教師を志願してきたのです。彼女が私たちの教会で行った愛についての説教は、なかなかたいしたものでした。ところが、彼女は徹底した個人主義者だったのです。と言うより、他人に思い遣りを掛けることを知らない人間でした。いつも腹をすかせ、他人との争いに勝たなければ食べることが出来なかった生い立ちが、そのようにさせたのかも知れません。自分の責任で生きるというのが、彼女の哲学のようでした。ですから、彼女の説教は愛の定義については学ばせましたが、愛の行いについては学ぶところがなく、愛し合う喜びも、愛し合う悲しみも、愛する動機も、愛する力も、愛する意欲も関係のないものでした。

 ちょうどその頃、サポートをしてくださっていた日本の教会には内緒にしていましたが、私の家にはお手伝いの娘が来ていました。18歳くらいでしたでしょうか。もともと私の家にお手伝いさんなど不要だったのですが、貧しいこの国では、いくらかでも余裕のある人は、貧しい者を助けるためにお手伝いさんを雇うという、社会的責任があったために、私たちも「豊かな日本人」として、お手伝いさんを雇わなければならなかったのです。でも、こんな事情を日本の方たちが、理解してくださるとは思えなかったために、内緒にしていたのです。

 私たちがどんなに勧めても、誘っても、決して私たちと同じテーブルに着こうとしなかったこの娘は、自分の僅かの給料のほとんどを、田舎の両親に送っているようでした。言わず語らず、様子でそれと知っていた私たちは、何とか彼女の経済を助けてあげようとしました。給料を上げることは、他の家のお手伝いさんたち、たとえば同じ屋根の下の教区長の家で働くお手伝いさんとの兼ね合いから、出来ない相談でしたので、野菜を分けてあげたり、そっと米を持たせたりしてあげたものです。本当のところ、私たちは彼女が少ない給料のほとんどを両親に送ってしまってから、どのように食べていたのか、同じ屋根の下の小部屋に住んでいたにも拘らず、ただただ不思議でなりませんでした。

 ある時、彼女の両親が相次いで彼女を訪ねて来ました。お母さんはひ干だら鱈のように白く乾いてやせ細っていました。次の週にやって来たお父さんは、陽に焼けて真っ黒で、身欠きにしん鰊のようでした。二人とも肺結核のために、長い間働けず、たくさんの弟たち妹たちが山あいの畑を耕していたらしいのです。らしいのですというのは、イゴロットである彼女は他のフィリピン人とは異なって、自分の家族のことを話すことはなく、あれが欲しい、これが欲しいと、家の物を持ち出すこともありませんでした。これだけのことさえ、彼女からではなく、彼女を紹介してくれた人に聞いたことなのです。弱々しくに歩いている両親を見、その世話をしている彼女のつらさを思うと、居ても立ってもおれなくなりました。

 その父親が帰って行ってから1週間ほどのことでした。申し訳なさそうに身をよじらせてやって来て、彼女は、両親の薬代のために給料の前借りを願い出ました。私たちは給料の前払いをして、それを持って数日故郷に帰って来ることを勧めてあげました。「よく働いてくれてありがとう」と、両親へのお土産を買うようにいくばくか余分のお金を渡し、弟や妹のためにも何かを持って行くように、心づけをしてあげました。教区長によると、彼女は身を売らずに済んだだけでも、あるいは、食べさせてもらえるだけでなく、僅かでも給料がもらえるだけで、充分幸運だったのだそうです。

 私は、コーヒーを運んで来た彼女が去って行くのを目で追いながら、愛の説教をした宣教師訓練生に言いました。「彼女は、あなたのように愛についての説教は出来ないけれど、あなたの何倍も愛を知っている。あなたの何倍も愛している。彼女は、自分の親兄弟のためなら、いつだって命を捨てることが出来る。だからと言って、あなたを責めているのではない。あなたは愛を知らずに生きて来たし、今も知らないで生きている。あなたには、自分は食べなくてもあなたに食べさせようとしてくれた人がいないし、あなたも、たとえ飢え死にしてでも食べさせてやりたいと思う人も持っていない。それはとっても悲しいことだね。」

 この宣教師訓練生は、結局、宣教師になることが出来ませんでした。愛を説明することは出来ても、愛することがわからなかったのです。私の家のお手伝いさんは、うれしいことにその後クリスチャンになり、クリスチャン青年と落ち着いた結婚をしました。彼女の両親がどのようになったのか、私たちは知りません。あるいは何か聞いたかもしれませんが、覚えていないのです。貧しいフィリピンたちと一緒に住んでいると、このようなことが日常茶飯事になってしまって、その場その場で対応するだけで、記憶にも残らないのです。ある程度非情になっていなければ、生きて行けない世界です。

 多くの西欧の宣教師たちは、実にしばしば、次々とお手伝いさんを替えて行きます。ほとんどの場合は仕事が出来ないからではなく、冷蔵庫の中の物が知らないうちに消えていくとか、子どもの古着が、いつの間にかお手伝いさんの弟や妹の服になっているということが原因です。普通は、あまり高価な物ではありません。ある宣教師などは、わざと部屋の片隅に小金を落としておきます。お手伝いさんがそっと隠し持って行くと、宣教師はそのお手伝いさんを首にするのです。悪いことに、宣教師はクリスチャンの愛を実行しようとして、お手伝いさんに対して言うのです。「あなたは単なるお手伝いではなく、私たちの家族の一員です。何でも困ったことがあったら言ってくださいね。」

 フィリピンの貧しい家庭ではすべてが共有です。お手伝いさんには、新しく白人の金持ちの家族が出来ましたが、一方には病気の親があり、満足に食べられない弟や妹がいるのです。冷蔵庫の中に有り余っている物を持って行って、何が悪いのでしょうか。「断りもなく持って行くのは泥棒だ」と言いますが、もし本当に家族ならば、お願いさせるほど鈍感な方が悪いのではないでしょうか。助けてくださいと言わせるほど非情な方が悪いのではないでしょうか。本当に愛する者は、相手がお願いしてくる前に気付くはずではありませんか。「あなたは私たちの家族の一員です」と言われて、そのように思い込んだために、とんだひどい目にあったお手伝いさんたちに、心から同情します。とは言え、実際に我が家の冷蔵庫から、明日の楽しみに買っておいた魚や肉が、いつの間にか消えてしまっていたら・・・・・・腹が立ったことでしょうね。幸い私たちは、フィリピン滞在中、合計5人のお手伝いさんに来てもらいましたが、そのようなことは一度もありませんでした。
目次へ    次ページへ

Copyright © 2007 Masaaki Sasaki All right reserved.