How to Be a Missionary

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宣教師論



 宣教師は、なんと言っても宣教論を最も忠実な形で実践に移していく人々、あるいはそのようにする必要のある人々でしょう。牧師も伝道者も、教師も事務員も一般信徒もみな宣教において重要な、なくてはならない役割を担っていますが、宣教師、特に異文化の福音未到達地帯で活動する宣教師は、まさに宣教の先鋭であるわけです。ここではそのような宣教師の働きや姿について、筆者の体験をもとにした断片的考察をまとめてみましょう。

 ただし、ややもすると、自分の体験談は自慢話に聞こえてしまうところがあります。どうか、自慢話としてではなく、実例としてお読みください。

A.アイデンティフィケーション

 福音を伝える者が、福音を聞く者と同じ立場に立ち、同じ気持ちを持ち、同じ痛みと苦しみを感じる、すなわちアイデンティフィケーションを持つということが、福音宣教にどれほど大切であるかと言うことについては、すでに少しばかり触れました。このアイデンティフィケーションを最も徹底した形で、しかも最も麗しい形で実行なさったのがキリストであることについても、すでに触れました。キリストは罪人を救うために、罪人の一人と数えられることをさえ「よし」とされたのです。その姿は人と異ならず、悲しみの人で病を知っておられました。基本的に人の味わう苦しみをすべて味わってくださったのです。

 教会はこのキリストの使者として、キリストが遣わされたように、この世に遣わされています。そして宣教師は、教会がそのような原則で遣わされていることを最も深刻に受け止め、キリストのみ姿に似るように努力しながら、福音を宣べ伝えるのです。すなわち宣教師は、遣わされた土地の人々とのアイデンティフィケーションを作り上げるために、最大の努力を払い、そのアイデンティフィケーションを媒体として、心を通わせ、福音を語るのです。アイデンティフィケーションが出来ていないまま福音を語っても、多くの場合、表層的な言葉、あるいは単なる「音」に終わってしまい、福音の内容が意味を持って、聞く者の心に到達することがないのです。

1.チキンスープ

 私が宣教師をしていたフィリピン北部の山岳地の人々は、マレー系の原住民でイゴロットと呼ばれていましたが、色々な意味で一般のフィリピン人とは異なる文化を持ち、それを誇りとしながらもまた劣等感を抱いているという、複雑な心理状態で生きていました。険しい山肌に貼り付くように、極貧の中にいる彼らの食生活は特に乏しいもので、サツマイモを主食として、あとは、大豆に似た豆と僅かな山菜があるだけでした。米は、急な山肌に猫の額にも満たないほどの棚田がぽつぽつと見えるだけで、滅多に口に出来るものではなかったのです。平地ならどこにでもあるバナナやタピオカ、アボカドやココナッツを始めとする豊富な果物も、ここにはほとんど何もありませんでした。彼らにとってのご馳走は、いつでも家の周りに放し飼いにしているニワトリです。

 このニワトリの料理が、また、とてもユニークなのです。ピニクピカンと呼ばれているのですが、まず、そのへんを走り回っているニワトリを捕まえ、細い棒でピシピシと叩き続け、充分に内出血をさせて血を流さないようにして殺します。それからそのまま火であぶり、羽根と羽毛を燃やし、皮膚全体が軽く焦げるようにします。そして、ここが大切なのですが、軽く焼けて少しばかり黄色になりかけたニワトリの体から、焦げた羽の煤を「軽く」叩いて払います。綺麗に払い落としたり洗ったりしてはなりません。それからそれをぶつ切りにして、腸の中の物を除いては、すべて一緒に煮込みます。足も頭も心臓も肝臓もみな一緒です。それをグツグツと煮て、たいていは塩と生姜で味付けをするだけです。そのスープには焦げた羽毛や煤が、叩き落とせなかったまま混じっています。焼けた羽の独特な「香り」がこのスープの最大の特徴であり「うま味」と言うわけです。このスープを、ホウロウびきのコップやココナッツ殻の器に入れてそれぞれに配ります。焦げた皮下脂肪がたっぷりと流れ出し、スープの表面を覆っているために、湯気がまったく出ないのですが、とんでもなく熱いままです。不注意に飲むと、口の中に大やけどをしてしまいます。熱帯のフィリピンとは言え、底冷えのする山岳地では熱いスープが好まれるのです。

 イゴロットは誰でもこのチキンスープ、ピニクピカンが大好きで、まさに自慢の料理です。しかし、よその土地から来て、初めてこのスープを口にする人は、みな顔をしかめます。匂いが強烈ですし、見てくれも良くありません。最近は多くのイゴロットたちも平地に出て、平地の人々のチキンスープも知っています。平地のスープのほうが食べ易く、見てくれもいいことを充分承知しています。しかし、何と言われようが、この味で育ったイゴロットにはこれが一番なのです。そしてまた彼らの間では、これが最も一般的なもてなしの料理なのです。ちょっとした来客や祝いの時には、必ず作られます。私たちが訪問すると必ず、朝早く、ニワトリの悲鳴が聞こえます。(一般的にクリスチャンは、棒で叩いて内出血させる伝統的なやり方をやめて、首を切って血を流してから料理します。残酷であるということと、血は食べないようにという先輩の宣教師の教えを守っているようです。クリスチャンが料理したものと、一般のイゴロットが料理したものでは、肉の色や味に、微妙な差があります。)

 実は、イゴロットたちを訪れる平地の伝道者や牧師たちの多くは、このピニクピカンで「ふるい」にかけられてしまいます。彼らはまず間違いなくこのスープで最初のもてなしを受けますが、それに対して、彼らがどんな反応を示すかが、誇り高く、そして劣等感にさいなまれて傷つき易い、イゴロットの大きな関心事なのです。黙って、黙々とスープを平らげる人は合格。一言でも批判がましいことを言ったり、食べられないなんぞと言ったり、顔をしかめたりした者は失格。食べ残した者も失格。一度失格すると、どんなに説教が上手で、良い話と教えをしたところで喜ばれません。再び同じところに来ることさえ難しくなります。実際、多くの伝道者や宣教師が、再び訪問出来なくなった話はたくさんあります。しかし、もりもりと食べてお替りを求める者や、「こいつは旨い」などと言って、隣の人の分にまで手を出す者は、大いに喜ばれて歓迎され、たいした内容のない説教まで褒められてしまいます。

 現地の人々が食べているものを喜んで食べる、批判がましいことを一切言わず、とにかく食べる。何かわからなくても、それが何であるかなどと言うことは絶対に訊かず、とにかくまずおいしそうに、ニコニコと食べる。食べ終わってから、「ああ旨かった。ところで、これは何の料理?」と訊くのはかまわないのです。現地の人が出してくださる食べ物は、すべて美味しそうに食べる。少々お腹を壊しても食べる。お腹は壊さなくても、食べないことによって人間関係を壊してしまっては、元も子もありません。お腹くらい壊しても、苦しいことではありますが、たいていは数日で治ります。いったん壊れた人間関係は、ちょっとやそっとで修復出来るものではありません。

 筆者と長い間協力して働いていた平地の伝道者M先生は、筆者の宣教理念をよく理解して、しばしば共に山岳地の教会を訪れました。彼はなかなか器用で、料理の腕もちょっとしたものでした。始めのうちはイゴロットの作るピニクピカンを、「我慢して」美味しそうに食べていたのですが、その内に、だんだん臭いが鼻に付いて我慢が出来なくなってしまいました。そこでたまりかねた彼は、ある時、ニワトリを捕まえて今にも料理しようとしている男たちに、(この地域では、客人のための料理は男の仕事)言いました。「いつも美味しいピニクピカンをありがとう。これを食べるのが山に来る楽しみの一つなんですよ。でも、いつも皆さんに食べさせてもらってばかりでは気の毒だから、今回はひとつ、私に料理させてもらえませんか。皆さんに私の田舎の料理も食べてみてもらいたいんですよ。」彼はまんまとニワトリを手に入れ、自分の好みのやり方で料理をしてしまいました。そして、皆に振舞って喜ばれたのです。彼はイゴロットたちに頼み込んで、わざわざピニクピカンの作り方を教えてもらい、さらには自分の田舎料理の方法を伝授さえしたのです。彼が多くのイゴロットに愛され受け入れられたのは、言うまでもありません。そして、彼はイゴロットの間でも、時々は自分の好きなニワトリ料理を食べることが出来たのです。

 アメリカ人の宣教師訓練生がこの話を聞いて言いました。「好きでもない物を好きと言い、美味しくもない物を美味しいというのは嘘ではないか。しかもイゴロットを騙して自分の好きな食べ物を作るのは卑劣である。私たちは正直であるべきである。」なるほど、「白は白、黒は黒」のアメリカ人ですね。この訓練生に与えた私の評価は、「現在のままでは宣教師になるべきではない」と言うものです。宣教師はすべからく嘘つきでなければなりません。同じものを食べることが出来る。これがアイデンティティを作り上げる第一歩です。

2.食べること、受け入れること、受け入れてもらうこと

 随分昔、私がまだクリスチャンになっていなかった頃、近所のおばさんから「わがままな宣教師」について聞いたことがありました。詳しいことは覚えていません。しかしだいたい以下のような話でした。

 戦後、北海道の小さな港町にやってきたこの宣教師一家は、熱心に伝道していたのですが、肉が手に入らないためにとても苦労をしました。彼らは魚が食べられなかったのです。いくらでも安く手に入る魚には見向きもせず、当時としては高くてなかなか手に入らなかった肉、しかも牛肉を捜し求めて、随分手を尽くしていたようです。それだけならばまだ良かったのですが、近所の漁師のおかみさんたちが親切に持ってきてくれる色々な魚を、さも、迷惑そうに受け取って(アメリカ人は正直で、すぐ顔に出して感情を表現します)、そっと捨てていたらしいのです。このような姿が、だんだん土地の人たちとのギャップを大きくして、とうとう、嫌われ疎まれ、さらには嘲られようになってしまいました。数年後、彼らは「どこか、牛肉の手に入る都会に移って行ってしまった」と言うことです。

 今のように、どこでも、牛肉が魚よりもずっと安く手に入る日本に来ていれば良かったのですが、可哀そうに、この宣教師一家は、多分、魚など食べることがない肉食の文化から来たのでしょうね。本当に同情します。しかし、きっと、この宣教師は、肉が手に入る都会に行ったとしても、日本人と心を通い合わせるところまで行くことは、出来なかったのではないかと思います。

 食べ物は、もっとも人を喜ばせまた悲しませます。良い意味でも悪い意味でも人の感情に強烈に作用し、関係を築き上げ、また壊します。日本人同士でも、人をお招きして食事を差し上げる時は、非常に気を使います。お招きを受ける時も同じです。出されたものを食べないということはとても失礼なことになりますし、出されたものを食べてもらえなかった時は、料理が喜ばれなかったというよりも、むしろ自分が受け入れられなかった、あるいは自分の家が、自分の育ちが拒絶されたように感じます。ましてや、外国人をお招きするとなると、大変な気遣いをすることになります。たとえば、西欧の客人をお招きをするとなると、「日本的な食べ物にしたいけれど、刺身はどうだろう。お寿司は食べられるだろうか。味噌汁は喜んでもらえるだろうか。むしろ一層のこと牛肉のステーキのほうが良いのではないだろうか」と悩みます。そこまで心配して出したものを食べてもらえないと、「もう二度と西欧人はお招きしない」と考えてしまいます。食べ物は文化と深く関わり、異民族間の関係作りに非常に重大な影響を与えます。そして訪問を受け入れる側が、何かの理由で劣等感を抱いている場合は、ことさらに微妙なところがあります。食べ物を食べてもらえなかったことで、すぐさま、自分たちが見下されたと感じてしまうのです。「どうせ、われわれの出した物なんて、食べてもらえないんだよ」と言うことになって、心を閉じてしまうのです。

 そういうわけで、土地の人が食べているものを食べることの出来ない宣教師は、まず土地の人に受け入れられることは滅多にありません。土地の人たちと人間的接触をあまりすることがない技術宣教師や、もっぱら成長したクリスチャンと関わる神学教師などと言う働きならばいざ知らず、大衆に福音を語り、救いに導き、教会を建て上げて行くいわゆる一般宣教師には、土地の人々の食べている食べ物を食べる、しかも喜んで食べるのが絶対必要条件です。土地の食べ物が本当に好きになるなら、それに越したことはありません。

 開発途上国の、しかも田舎に出かけますと、衛生状態があまりかんばしくありません。食べ物や水にはとても苦労をします。現在、多くの国々ではペットボトル入りの水が手に入り、かなり田舎でも、土地の人々がペットボトルから水を飲んでいますので、宣教師には大助かりです。しかし、食べ物などは全体的に不衛生な場合が少なくありません。だからと言って、現地の人々が出してくださる食べ物を食べないとなると、たちまち土地の人々に拒絶されてしまいます。自分たちが食料を準備して行くと、土地の人々とは交わりが出来ず、一体感も生まれません。反対に疎外と差別が生まれてしまいます。たくさんの食料は持ち込めませんから、長期の働きも不可能になってしまいます。

 結局、現地の人々と分け隔てなく交わり、一体感を保ち、長期にわたって働くためには、現地の人たちが食べている物を食べるのが、絶対必要条件になってしまいます。腹痛も下痢も、数日間寝込むことも覚悟の上で、食べることです。食べて病気になって仕事が出来なくなっても、現地の人々に迷惑をかけることになっても、食べないよりは食べた方がずっと良いのです。迷惑をかけても、懲りずに再び訪れる。そしてまた食べる、そして病気になる。そんなことを数回繰り返すと、現地の人々はその態度に感動します。そこまでして来てくれることに感謝します。そのようにして心が通うのです。立派な説教や講義よりも、よほど大切な働きが、腹痛と下痢で出来るのです。その内に、お腹も慣れてきます。お腹が慣れなければ、現地の人のほうが慣れて、他の食べ物を準備したり、自分の食べ物を持ってくるようにと言い出したりします。格好の良い宣教師にはならないことです。結局、宣教とは人間関係を構築することです。

 ただし、このようなことを始めから無防備に行うのは賢いことではありません。自分の体がどこまで堪えられるのか、予め、知識を持っておくことが大切です。筆者の個人的体験からお話をしましょう。筆者は教団の正式な宣教師になる前に、宣教師になることを目指して自主的に留学し、フィリピンの首都マニラで生活をしておりました。そして、自分は多くの宣教師が入れないような奥地にまで入って、福音を宣べ伝えるのだと決心した時、まず手始めにやったことは、マニラの水を沸かさないままで飲むということです。

 その時まですでにマニラには3年ほど住んでいたのですが、たちまち下痢に見舞われました。それでも薬や医者に頼らず、自分の体の治癒力に期待し、生水を飲み続けました。およそ57キロあった体重は、たちまち48キロを切るようになりました。しかし何とか生活のための仕事と、日本人教会の牧会と、神学生としての学びを続けることが出来ました。私は自分の体の抵抗力と治癒力を試していたのです。結局、下痢は6ヶ月少々続いて止みました。体重も少しずつ回復してきました。私の体の抵抗力、治癒力が、フィリピンの細菌やばい菌にある程度打ち勝ったのです。それからの私は、フィリピンのどのような場所に行き、どのような食べ物を出されても、現地の人たちと一緒にそれを食べることが出来るようになりました。

 自分の体の治癒力と抵抗力を試している時に、やはりこれ以上は無理だと感じたら、医者に行けば済んだことですし、その結果、また他の形の宣教師活動をすることが出来たでしょう。しかし、私は現地の人々と一緒に食べる宣教師になったのです。それによって、多くの宣教師が入り込むのを躊躇する土地に入り、福音を語ることが出来ました。私は、説教が上手だったから、あるいは教えるのが上手かったから、あるいはお金を持っていたから、現地の人たちに受け入れられたのではないと思っています。現地の人と一緒に食べることが出来、一緒に眠ることが出来、一緒に手を汚すことが出来たからだと思っています。

 パウロは、「肉を食べることが他人を躓かせることになるのならば、自分は肉を食べない」と言いましたが、私は、「犬を食べないことが現地の人々の躓きになるならば、犬を食べると」言います。犬は、私たちの宣教地では最高のご馳走でした。犬を出されるのは、これ以上期待出来ないもてなしなのです。これを食べられないのは、彼らのもてなしを拒絶することであり、彼らの生活を見下し、食文化を軽蔑することなのです。その結果、彼らにも拒絶されることになるのです。

 まだ、宣教師になる思いを胸に神学校で学んでいる時の出来事です。私が宣教師になることを目指していると聞いた、親切なアメリカ人の教授が一冊の本を貸してくださいました。アメリカの大きな宣教団体に所属するお医者さんで、長年、多くの宣教師の健康の問題を取り扱ってきた専門家が著者でした。その本の出だしの部分で、彼は次のように語っていました。「宣教師を志すすべての者に、絶対に遣ってはならない三つのことを教えます。それは出所のわからない水は絶対に飲まないこと。次に、出所のわからない食べ物は絶対に口にしないこと。第三は・・・・・・」第三を読む前に、私はこの本を読むのをやめてしまいました。しばらくしてこの本をお返しした時、教授は「いかがでしたか? 役に立ちましたか?」とお訪ねになりました。私は答えました。「もしあの最初の部分に書かれている、絶対にしてはならない三つのことを守ろうとするなら、絶対に宣教師になどなろうとしないことです。」せっかくの親切を、このような言葉で裏切るのは良くないことではありますが、私は、宣教の専門家のお医者さんがこのようなことを言うのに腹を立てていたのです。

 確かに、宣教師は自分の健康を管理しなければなりません。不注意が命取りになることもあります。「望まない早期帰国」と言う結果になることもよくあります。お医者さんとして、そのような事態をたくさん観察してきた著者は、宣教師とその家族の問題だけではなく、宣教団体や教会の失望、あるいは経済的損失なども考慮して言われたということはよく分かります。しかし、宣教師とは、やはり原則的に、生きるために出て行くのではなく、死ぬために出て行くのはないでしょうか。

 他の神学校で学んでいる時のことですが、宣教学に関係のある科目の教室で、教授が言われました。「もし、デビッド・ブレイナードが自分の身体のことを良く考えて、働きを継続していたら、彼は、もっともっと多くの素晴らしい働きをすることが出来たはずだ。かれは晩年、『馬を酷使しすぎた』と書いているが、あれは馬のことではなく、自分の肉体のことである。」私は単純に反論しました。「宣教をデビッド・ブレイナードひとりの働きとして捕らえると、もっともなご意見だと思いますが、宣教は神のみ業であり、ブレイナードは神のみ手の中の多くの駒のひとつに過ぎないのではないでしょうか。神はその駒をあのようにお用いになりました。そして彼は若くして死にました。しかし、彼の残した日記を読んで宣教師になろうと決心した若者は数知れません。彼が70歳まで生きて、素晴らしい働きをたくさんやり遂げたとしても、それほど多くの人々を動かすことは出来なかったはずです。神は、彼を、人を動かす道具としてお用いになり、ブレイナードは、自分に与えられた使命を果たしたのです。」

3.現地の人々と一緒に住む

 宣教師が、現地の人々と心を通わせるために出来る色々なことの中に、現地の人々と一緒に住むということがあります。残念ながら、仕事をやり遂げることを常に最優先にしている欧米の文化(work oriented)から来た宣教師は、仕事さえしっかりと出来ればそれでよいと考え、一緒に住むなどと言うことの大切さには気付かない場合が多いようです。しかし、人間関係の大切さを先に置く文化(human oriented)の国々から来た宣教師には、わかってもらえるかも知れません。

 たとえば、欧米の宣教師が開発途上国に来ると、あるいは欧米でなくても、韓国や日本の宣教師が開発途上国に遣されると、現地の一般住民に比べると大変豊かな生活をすることになります。また、開発途上国の治安は、たいてい宣教師たちの母国に比べて劣悪です。そこで勢い、宣教師たちは治安の良い、いわゆる高級住宅地に住居を求めます。筆者が実際目撃したフィリピンのマニラの例では、地域全体が高い塀と銃で武装したガードマンに守られ、外部の者は通用門で身分証明書を提示して、許可を得てからでなければ塀の内部にさえ入れないような、最高級住宅地に、多くの宣教師が寄り添って住んでいました。その上、多くの場合、一軒一軒の家もまたガードマンや鉄条網で警護され、何重にも錠が賭けられているといった具合でした。
 それほど極端ではなくても、宣教師たちはそれぞれの町の中でも、閑静な地域の、立派と言われる種類の家に住んでいるのが普通でした。大方の家は、外部からの侵入者を防ぐために、最上部に割れたガラスをセメントで埋め込んだ上、鉄条網でおおわれた高い塀で囲まれて、まるで要塞のようです。塀の中には大きな番犬が飼われていることもしばしばです。銃を持ったガードマンが雇われていることさえあります。

 確かに、フィリピンは開発途上国の中でも治安の悪いことでは悪名高いのですが、それでも、これは行き過ぎのように感じます。独身の若い宣教師たちの中には、積極的に現地の人々と生活を共にしようとする意気込みも見えるのですが、結婚して家族を持つと、どうしても過度に防御的になってしまいます。心配すると、まさにきりがないのです。多くの宣教師が、現地の人々に比べてあまりにも金持ちであることが、まず、問題なのでしょう。

 筆者の場合は、教団から正式な宣教師として派遣された当時、妻と3人の子どもがいましたが、現地の教会の教会堂の横の部屋を借りて住みました。その教会の牧師は同じ屋根の下の会堂の後ろの部分に住んでいました。「ちょっと狭いけれども、ここに住んでみないか」という牧師の誘いを、喜んで受けたのです。現地の建物ですから、あれこれ不平を言えばきりがありませんでしたが、台所もトイレもあり、生きて行くには問題がありませんでした。私たちは、現地の牧師、しかも教区で最も信頼を置かれている教区長と、同じ屋根の下に住めることを特権と考えて、それから、14年間そこに住み続けました。家賃は考えられないほど安く、大いに助かりました。そのかわり、大工を雇ったり、自分でも金槌と鋸を持ったりして働いて、いくつも部屋を建て増して充分な広さにもしました。建て増した部分はすべて教会の財産にするという契約でしたし、建て増しをするときは必ず、同じ屋根の下に住む教区長の住居の改善も一緒にしてあげていましたから、教会も教区長も喜んで自由にさせてくださいました。費用は、サポートの中の住居費から充分に出せる範囲でした。

 筆者の住居はしばしば大きな集会の第二会場にもなりました。居間の部分に広いガラス戸とブラインダーをつけて、いざと言うときには会堂と繋ぐ事が出来るようにしたためです。その結果、いろいろな人たちが入れ替わり立ち代り訪れてきました。我が家には番犬はいませんし、塀も鉄条網もガードマンも不在です。玄関の錠もひとつだけです。欧米の宣教師仲間からは、無用心この上ないと注意もされたものです。確かに我が家には簡単に押し入ることが出来たでしょう。しかしそれよりも、善意の人や、福音を必要とする人々が、簡単に我が家に「押し入る」ことが出来た点が重要なのです。

 近所では強盗や殺人が絶えませんでしたが1、  私たちはあまり心配しませんでした。本当のところ、そこに住んでいた14年の間、外部から侵入され物が盗まれたということは一度もありません。土地のワルたちも、彼らに顔の利く有力者たちから、「あの日本人に危害を与えたら、ワシらがただでは済まさんぞ」ときつく止めを刺されていたのです。彼らは教会にこそ来ていませんでしたが、私たちの現地の人々に対する活動を見聞きし、知らないところで私たちを保護してくれていたのです。


1  オーストラリアから来た若いYWAMの宣教師夫婦が、私たちの住んでいたところから5キロほどの街中に住まいを定め、現地の人々と仲良くなろうとして、色々な人々を家に招きいれていたことがありました。通りに面していたこの家は、玄関の錠こそたくさんつけていましたが、塀もなく、誰でも簡単に訪れることが出来ました。次の日曜日には、私たちが開拓した教会に来て話してくれるという約束だった、ある金曜日の早朝、彼らは強盗に押し入られ、二人の幼い子どもたちの目の前で殺されてしまいました。神様が彼らの努力と犠牲に報いてくださることですが、彼らの場合、土地の有力者を無視して、あまりにも性急にだれかれなしに家に招き入れたことと、土地の人々から見ると、贅沢な暮らしぶりに見えたことが、強盗を呼び込むことになったと思われます。また家があった地域が高度に都会化して、地域社会が崩壊していたことにも問題があったと思われます。私たちが住んだのは、「田舎」で、地域社会が機能していました。とは言え、私が洗礼を授けた人たちの中は、後で強盗やあだ討ちのために殺された人が3人もいます。


 現地の人々と共に住むということで、私たちは、現地の人々の日常の生活様式を間近に学び、それを真似ることが出来ました。ひっきりなしに教区長を訪ねてくる現地の伝道者たちと、ワイワイガヤガヤと話し合ううちに、私たちの居間も現地の伝道者たちのたむろするところになりました。勢い、彼らの教会との接触も多くなり、共に行動し、共に働く機会が増えました。現地の教会のさまざまな実情も、信徒たちから直接聞くことが出来るようになりました。そのような経験を重ねると、やがて少しずつ、彼らの観点から物事を観ることが出来るようになりました。彼らがどのような強さを持ち、どのような弱さに悩んでいるか、いかなる必要を抱え、いかなる可能性を秘めているかと言うことも、時間をかけてじっくりと話し合うごとに、輪郭がはっきりしてきました。何よりもまず、彼らが私たちの家に気兼ねなく入ることが出来るということが、宣教師と現地の人々と言う隔て、あるいは日本人とイゴロットと言う隔てを、ある程度、埋めて行ってくれたのだと思います。私たちは「ある程度」、共に生き、共に働く者として、互いに認識出来たのです。また「ある程度」、共に喜び、共に悲しむことが出来るものとして、「ある程度」、互いに受け入れることが出来たのです。

 私が最初に赴任した時、それより2年前に同じ教区に赴任していたアメリカ人の宣教師がいましたが、私にとっては、彼が反面教師となったところがありました。私たちの活動費全体よりも多い家賃を払い、「割れたガラスと鉄条網の高い塀」に囲まれた立派な家に住み、広い庭には大きなシェパードが放し飼いになっていました。塀の門には呼び出しのベルの押しボタンが付いてはいたのですが、ほとんどの場合故障していて役に立ちませんでした。宣教師は現地の伝道者たちに、「うちを訪ねて来る時は、ポリス・ドッグがいて危険だから、まず電話で予約を入れて来てくれるように」と言いわたしてありました。ところが、私も実際に幾度か彼を訪ねたのですが、彼に会うのは至難の業でした。まず、私たちが住んでいた教区長の牧会する教会は、教区で一番立派な教会でしたが、当時、電話がありませんでした。本当のところ、電話のある教会は、教区内にひとつもありませんでした。公衆電話なるものも私たちの教区には存在しませんでした。というより、私たちの教区の教会がある地域の大部分は、まだ、電化さえされていなかったのです。しょうがなくて彼の家を訪ねるのですが、ベルは鳴らない上に、塀から家までの距離が遠すぎて、どんなに大声で呼んでも聞こえません。その内に、庭で飼われていたシェパードがけたたましく吠え出すのですが、宣教師やその家族が顔を出してくれたことはありませんでした。結局彼は、現地の伝道者とはまったく接触しないまま、聖書学校で教える自分の仕事の準備に忙しく生活していたのです。

 始めのうちこそ、彼も聖書学校で教えて欲しいと頼まれたり、いくつかの教会から招きを受けたりして、礼拝会などに赴いていたようです。しかし、彼の聖書学校での教えや教会での説教は、評判が良くありませんでした。現地の実情をまったく知らずに話していたからです。私も彼の説教を聴いたことがあるのですが、しっかり神学教育を受けてきた宣教師に相応しく、内容自体はなかなかのものでした。しかしアメリカ人のための説教ならまだしも、電気も電話も水道もガスもないようなところからやって来ていた聖書学校の学生や、そのようなところにある教会の大多数の人々には、空念仏としか聞こえなかったのでしょう。やがて、「佐々木先生はいいねえ。日曜日ごとに招かれる教会があって」と、言うようになって来ました。そして結局、彼は、この土地での働きに失望して、「大都会」の働きに移って行きました。

4.宣教師の所有物 (1)

 宣教師が、現地の人々とアイデンティフィケーションを持てなくなる理由は色々あります。食べ物、住居、言葉など、どれを取っても重要な要因ですが、もうひとつ宣教師の所有物があります。

 一般的に豊かな国から来ている宣教師たちは、現地の人々がうらやむような「贅沢な」暮らしをしています。もちろん、それでも豊かな国から来た宣教師たちの大部分は、大きな犠牲を払って、母国の楽な生活を捨てて宣教地に来ているのですが、その事実は、現地の人々には理解出来ません。現地の人々はあくまでも宣教師たちの現地での生活ぶりを見るのです。天のみ位、絶対の権力と栄光を捨てて人となってきてくださったキリストに対し、私たちの教会の多くが、臆面もなく、「イエス様お誕生日おめでとうございます」と言って、お祝いをする程度ですから、宣教師が故郷に捨ててきた多くの犠牲に思いを及ぼすことが出来る者がいるなどと、期待する方が間違っているのです。

 とは言え、現地の人々もまた、まったく理解出来ないのではありません。宣教師たちには食べられない物があることも知っていますし、少々贅沢と思われるような住居に住んでも、あまり文句は言いません。現地の経験豊かな伝道者が、中古の自転車を買うために長い間祈りながらお金を貯めている中、赴任したばかりの若い宣教師が真新しい車を買ったとしても、それだけで宣教師に不満を持つことも、あまりありません。現地の伝道者たちが固い木のベッドや床にそのまま眠っている中で、宣教師たちの家には高価な調度品が並んでいても、そんなことで宣教師に悪感情を持つことも、まずありません。その程度の贅沢を楽しんでいる人たちは、現地にもいるからです。

 ところが所有物のために、現地の伝道者や信徒たちが我慢出来なくなって、宣教師たちとの間に大きな溝が出来てしまうことがあります。それは多くの場合、持ち物を現地の人々と共有出来ない、宣教師たちの態度に始まります。宣教師たちの多くは、個人主義の強い文化から来ています。「自分の所有物」という意識を強く持っています。また、神さまに任せられた「経済」という賜物を、大切に管理することの重要性をしっかりと教え込まれてきています。ですから、宣教師は自分たちの所有物、あるいは自分たちの管理の下にある金品に対して、厳しい監視の目を向けています。あまり高価ではなく、現地でも簡単に手に入る物に関してはさほどではありませんが、高価な品物や現地では手に入らない品物は、滅多なことでは現地の人々に使わせたり、貸し出したりするようなことはありません。

 しかし、開発途上国の人々の多くは、共同体文化の中で生きて来ました。互いに助け合って生きるのが基本です。所有物の感覚も個人の所有と言うより、共に生き共に働く人々の共有の感覚が強いのです、一応、所有者があったとしても、所有者が使っていない時は、共同体の仲間たちはいつでもそれを使うことが出来るのです。さらに、たとえばフィイリピンのような植民地感情の残っている所では、土地の所有者と小作農の習慣が、一般に染み込んでいます。そのような所では、小作農はいつも地主に搾取されているようではありますが、いざ、小作農やその家族に困ったことが起こると、地主が面倒を見てくれるのです。金も出してくれるし、物も分けてくれ、病院にも入れてくれ、仕事の世話もしてくれ、喧嘩の仲裁にも入ってくれ、結婚の時には費用を出してくれ、何から何まで世話をしてくれます。だから小作たちは過酷な条件の中でも、地主を大切にして生きているのです。金持ちが貧乏人の世話をするのは当然なのです。貧乏人が金持ちに世話をしてもらうのは、お情けにすがるのではなく「権利」なのです

 ところが多くの宣教師たちは、現地の人々とアイデンティティを持つことを軽視しているために、現地のこのような文化背景を知る事も理解することも出来ません。「壊してしまったらこの国では手に入らない」大切な品物を、現地の伝道者や信徒などに使わせたり貸し出したりすることはあり得ないことです。「故障しても直せないし、修理のお金も出せない」貧しい現地の人々に、高価なものを使用させることは出来ないのです。現地の人々を思いやる宣教師は、現地の人々に罪を犯させないために、自分の所有物を彼らに用いさせないのです。その結果、「主の御用のためと言っても、しょっちゅう自分の家族のピクニックのために使っている車なのに、私の家内の出産の時には頼んでも貸してくれなかった」、「教会の信徒の急病のために頼んだのに使わせてもらえなかった」というようなことになるのです。せっかく主の御用のために奉げられた品物が、最も大切な人間関係を壊すきっかけとなってしまったのです。宣教師と現地の人々の隔たりを広げてしまったのです。ましてや、「私たちは主にあって兄弟姉妹、神の家族です」などと「聖書的なこと」を言っていながら、協力伝道者の世話を見ることが出来ないような宣教師は、大家族制度の中で共有生活を基本にしているフィリピンでは、決して受け入れられることはありません。宣教師は自分の権利を行使するが、貧しい現地の協力伝道者の「権利」を、無視していることになるからです。

 確かに、現地の人々が車を故障させたり傷をつけたりしてしまうと、彼らにはそれを修理する能力も金もありません。しかし、現地の人々との人間関係の構築、アイデンティフィケーションの確立は、車一台よりももっともっと大切なものです。もしも、車一台壊すことで、現地の人々の信頼と感謝を勝ち取り、発電機一台失うことで現地の人々と心を通い合わせることが出来るなら、それは充分価値のあることです。筆者の車も、色々な所有物も、随分現地の人たちに使ってもらいました。壊れもしましたし、無くなりもしました。しかし、始めからそのようなことも予測し、計算した上で貸し出し、使わせていたために、宣教師としての心が傷ついたり、怒りに震えたりするようなこともありませんでした。かえって、「大丈夫。心配するなよ。君は主の栄光のために生き、働いているのだから。この自動車はまさにそのためにあるんだよ。そのために使われ傷ついたのなら、大いに目的を果たしているのだから」と慰めて、修理代を請求するなどと言うこともしませんでした。現地の人々は、壊したというだけで、充分心に痛みを感じているのです。

 そのような出来事を重ねていくうちに、一緒に働いている、一緒に主に仕えている、一緒に苦労しているというアイデンティフィケーションが出来て行くのです。借りた物を壊したりなくしたりした当人だけではなく、そのような話を伝え聞いた多くの現地の人々の間にも、アイデンティフィケーションが広がっていくのです。車を壊されても、金がないためにすぐには直せないような時は、嘆いてはなりません。それこそ、さらに大きなチャンスです。宣教師が金持ちで、すぐに直してしまっては、彼らの心にあまりアイデンティフィケーションは構築されません。何日間か数週間、不平も不満も一切口に出さず、宣教師も不便な一般の交通機関を使い、歩いて仕事をするのです。そして、一般の現地の伝道者や信徒の生活の苦労を、自ら体験してみるのです。現地の人々の不便さに心から同情をし、そのような不便を省みず働いている彼らに感謝をするのです。するとそのような姿を見て、現地の人々は、宣教師たちに感謝をすることが出来、主にあって兄弟であることを感じることが出来るのです。

 フィリピンで、現地の協力伝道者に所有物を使わせない宣教師は、決して尊敬されません。修理代を請求する宣教師も尊敬されません。愚痴を言ったり怒ったりする宣教師も、仲間とは思ってもらえません。そのような宣教師は、植民地時代の地主よりも劣って見えてしまうからです。ましてや、私たちは主にあっては兄弟姉妹、神の家族なのです。痛みを負い合うのが当然なのです。宣教師が現地の人々より多くのものを持ち、豊かに暮らしていること自体に、現地の人々はあまり不平を言いません。しかしその便利さ、その豊かさを現地の兄弟姉妹と分け合えないことに、幻滅してしまうのです。

5.宣教師の所有物 (2)

 山岳奥地で手広い伝道をしていたわりには、私たちの車は貧弱なものでした。1,600CCの普通車で、私たちは、四輪駆動車も入り込めない奥地まで、幾度も乗り込んでいました。本当のところ、私たちの回りには、四輪駆動車を持っていながら、舗装された立派な道しか走らない宣教師たちが何人もいました。四輪駆動車の性能を試すために、観光地人の寄せのために造られた長い階段を、わざわざ登って見たという宣教師もいました。その色しかなかっただけの話で買った、真っ赤な普通車をとことんまで乗り詰めていく私たちを、現地の人たちは「キチガイ宣教師」と呼んでいました。どう呼ばれようと、私たちは奥地に出かけなければならないし、四輪駆動車を買うだけのお金もなかったのですから、指定のサイズより大きなタイヤをはかせ、でこぼこ道でも腹をこすらないようにするなど、色々な工夫を重ねながら、こうするより方法がなかったのです。

 しかし念願がかなって、ついに私たちも四輪駆動車を買うことが出来ました。赴任してから10年後のことです。しかも当時、ベンツを超えて最高の人気を誇っていたパジェロです。フィリピンに持ち込まれた最初の百台の中の一台で、滅多に実物を見ることが出来ない代物でした。日本では売られていなかったハイルーフで、リヤカーを引く大きなフックが格好よく付いていました。お祭りのような騒ぎをして、私たちは処女航海ならぬ処女運転で、山の奥に向かいました。

 ところが途中で、山岳奥地にある私たちの教会の信徒たちが歩いているのに出くわしました。当然、乗せてあげるのが礼儀です。するとまた他の信徒たちが仕事仲間たちと歩いていました。これも乗せてあげました。結局、処女航海のパジェロは運転手の私をも含めて29人を乗せて、険しい山道をウインウインと平均時速8キロほどで走り続けました。もちろん、こんなに多くの人間はパジェロの中に入りきれません。ある者は後部にぶら下がり、ある者はボンネットの上に座り、残りの者は屋根にも登っていたようです。ピカピカの新車がたちまち赤土に汚れ、引っかき傷とへこみがそこここに付きました。ボンネットに座った男は、持って来たシャベルをボンネットに杖のように上に立てています。山岳奥地の人々にとっては、車とは美しく光らせておく物ではなく、利用する物なのです。しかも、助け合って利用する物なのです。私が新車のパジェロを大切にするあまり、歩いている信徒とその仲間たちを乗せなかったり、汚れるから、傷が付くからと注文をつけたりしていたら、私たちは現地の人々と一緒に生きようとしない、自分さえ良ければそれで良いという、わがままな宣教師と言われて、受け入れてもらえなくなっていたことでしょう。車より人間関係が大切なのです。

 このパジェロは、山に行くたびに、私の通訳者の薪を運ぶトラックに変身しました。信徒の野菜をマーケットに届けるトラックにもなりました。協力伝道者のお使いに借り出されていました。これが綺麗に洗われていたことは滅多にありません。何しろ舗装もされていない物凄い山道を走っているのですから。この車で、たま〜に子どもたちを学校に迎えに行くと、娘が言いました。「お父さん。恥ずかしくないの? こんな汚い車で?」そこで私は聞き返しました。「この山の上で宣教師をやっていて、綺麗な車にしておくほうが、恥ずかしいとは思わないか?」幸い娘はこの答えに満足したようでした。

 宣教師を辞め日本に引き揚げてから数年後、私はこの山岳奥地を訪ねることが出来ました。早朝の底冷えの中、土地のコーヒーをすすりながら、信徒たちが言いました。「もう佐々木宣教師のパジェロに乗れないのは残念だな。M先生は『乗れ』って言ってくれるんだけど、カーペットを敷かれちゃー、俺たちの泥足では乗れないもんなあ。」フィリピンを去る時、私がパジェロを安く譲った宣教師は、この車を愛し、板金塗装をした上でピカピカに磨き、とても大切にしていたのです。そのために山の信徒たちは距離を感じてしまったのです。

6.お金 (1)

 普通、宣教師たちは現地の一般の人々よりはお金持ちです。特に、開発途上国に赴任した宣教師は、突然、自分が大金持ちになったと錯覚するほどです。数日もすれば、その国にはまた、物凄い金持ちたちがいることにも気付きますが、それでも、一般的には、宣教師たちは金持ちです。住む家も、家財も、食べ物も、着る物も、乗り回す車も、現地の大多数の人々には手の届かないも、羨望の的となるものです。その中で、宣教師たちは自分たちの生活の費用や活動の費用に関して、どのような感覚を持っているべきでしょう。このお金に対する感覚が、しばしば宣教師たちと現地の人々との隔てとなり、交わりの障害となってきたことは、紛れもない事実だからです。

 普通、多くの宣教師たちは、金銭の取り扱いについては、ある程度の指導と訓練を受けて来ています。ほとんどの場合、先進国の経済の中で、きちっとした帳簿を付け、予算を作り、決算を行うことぐらいはわきまえています。あるいは宣教団体の指導によって、すべての領収書を保持しておくようにされている場合も少なくありません。このような習慣は、勢い、その日暮らしで現金などをあまり持たない生活をしているような人々の中に入ると、大変細かく厳しい態度に映ります。また、目的に従って予算を作り、出費項目をきちっとして、流用を避けるやり方は、一日一日とにかく生きて行く、貧しい人々の生活感覚からすると理解出来ません。

 現地の一般の人々、あるいはそれよりさらに貧しい生活を強いられている、現地の伝道者の生活は、お金が無くなれば、預金も現金も、ポケットの中も、へそくりも、それこそ逆さまにしても鼻血も出ないという、無くなり方なのですが、宣教師たちの貧しさは、まだまだあちらの口座にこういう目的の金があり、こちらの口座には使い残しているこういう金があるという貧しさなのです。多くの場合は、しばらく待てば母国の教会からサポートが到着するという貧しさです。特に、宣教師の場合、生活費と活動費が分けられていて、現地の伝道者に対するサポートなどは、活動費に属します。活動費が少ないからと言って、「信仰によって生きることを教える」という名目で 現地の伝道者の生活費をぎりぎりまで切り詰めておきながら、自分たちの生活費はしっかりと確保しておくということが普通です。しかしこのようなことでは、現地の伝道者と本当の意味で心の繋がり、アイデンティフィケーションを持つことはまず不可能です。現地の伝道者の多くは、金銭にかけては生活費、伝道費などと分けて考えるだけの余裕を持っていないのです。今日、病気の信徒を尋ねるためにバスに乗って遠くまで出かけると、明日の食べ物がなくなるという現実の中で生きているのです。

 これらの貧しい現地の伝道者と共に働くためには、同労者として、互いに心から信頼して働くことが出来るためには、宣教師はどのような心がけを持ち、どのような金銭管理をすべきでしょうか。活動費の項目内でやりくりするだけでは、現地の人たちの理解を得ることは出来ないでしょう。宣教師も、生活をかけて伝道しているのだという現実が目に見えなければ、毎日の生活を賭けで伝道をしている現地の伝道者と、心をひとつにすることは出来ません。

 宣教師をしていた頃の私の所には、時折、現地の伝道者が一緒に仕事をさせて欲しいと言って来ました。ある者は、私たちの活動を見て、それに魅力を感じて学ぶ姿勢で言って来ました。他の者たちは、宣教師と楽しそうに働いている協力伝道者は、「ざぞかしたくさんのサポートをもらっているのだろうな」と、サポートを期待してやって来ました。どちらの場合も、私は次のように言いました。「私と一緒に仕事をしても、サポートは期待しないで欲しい。今一緒に働いている人たちも、ほとんどは金銭的サポート受けずに働いてもらっている。ただ、サポートを受けている、受けていないに拘わらず、私と協力して働いている伝道者が、飢えで死ななければならない時は、私も飢えで死ぬ時だ。それだけは約束しよう。それでも私と共に働きたいと思うなら、一緒にやってみよう。」ほとんどの自薦の伝道者は、これで失望して帰ってしまいました。数人の例外もありましたが、そのうちの一人が、いま、教区長をしている人物です。

 私の場合、開拓伝道の働きをしておりましたが、開拓に付き物の、建築費がまったく計上されていませんでした。日本の教会の中に、海外伝道に対する情熱がまだまだ充分でなかったため、予算は出来るだけ切り詰めなければならない現状でした。ですから、開拓教会の集会の場所を確保するのが、開拓を成功させるか失敗に終わらせるかの、最も大きな山場のひとつでした。あるいは、多くの協力者と働くということは、しばしば緊急な事態に対応しなければならないということでもありました。奥さんが異常妊娠で入院したとか、子供が怪我で入院したと言った類です。このようなことに対処する費用と言うのは、私たちの活動予算にはまったく含まれていません。自分の家族の緊急の場合には、少なくても緊急費と言うものがあり、当座の必要に対処出来るようになっていましたが、それが現地の伝道者にはないのです。

 そこで、私は、自分の生活費の中から、いくらか余裕の出来る時に蓄えておき、緊急の必要や、建築費に充てていました。協力伝道者の痛みに少しも動じない宣教師は宣教師ではありません。痛みを共にしない宣教者は、宣教師としてはまだ足りません。痛みを共有してこそ同労者です。これは現地の協力伝道者が知らないことです。しかし、宣教師のこのような生活態度は、言わず語らず、どこかで現われて来るものです。協力伝道者たちは、宣教師が有り余る予算の中から、自分に痛みの伴うことのないサポートをしているのではなく、一緒に痛んでいるのだと、何となく察知してくれるものなのです。そのように察知してくださった伝道者たちの私に対する態度は、そうではない伝道者の態度とは異なるものになりました。そして、そのようなことは以外に早くすべての協力伝道者に伝わるものです。

 ですから、私にサポートの値上げを要請した伝道者はひとりもありませんでした。自分のサポートを少し減らして、あちらの伝道者に回してやって欲しいと言ってきた者は、一人ならずありました。私たちは、すでに自分を犠牲にして精一杯やっていると理解されていたのだと思います。もちろん、今思えば、あの時に支援しておいてあげれば良かったとか、あの場合はもっと同情してあげるべきだったと言うことはたくさんあります。宣教師はどのように努力しても、現地の人々の痛みを理解してあげることは出来ません。自分は理解していると思わずに、理解出来ないでいるという緩やかな態度が、現地の人々に対する寛容さを生み出すのです。

 私たちは、出来るだけ費用を切り詰める手段として、時々、子供の学校を安い方に替えるということをしていました。円とドルとペソのレートの加減で、ドル払いの学校とペソ払いの学校では、大きな差が出来ることがあったためです。それで子供たちは、ある時はマニラの学校の寮に入って学び、ある時は自宅からバギオ市の学校に通っていました。協力伝道者の何人かは、なぜうちの子供たちが学校を替えるのかを知っていました。私たちが子供たちに理由を説明していましたから、子供たちが無邪気に伝道者たちに話していたのです。金持ちの日本人宣教師だと思っていた者も、そのような話を聞いて、私たちに同情してくださいました。

 そのような時、私の住む所から、険しい坂道を1kmほど這いずり降りた場所に、遠くの部落からひとつの家族が引っ越して来て、小さな藁小屋を建てて住み込んでいるという噂が聞こえてきました。注意して聞いて見ると、どうやら、私たちが伝道している山奥の、全戸数9という小さな集落から来ているらしいというのです。当時そのうちの6戸がクリスチャン家庭でした。そこに行くには6時間車に乗って、さらに馬も通れない険しい山道を、合計18時間歩かなければなりませんでした。私の足では、3日の行程です。そこから、幼い二人の子供を連れた夫婦が数ヶ月前にやって来て住み込んでいるけれど、仕事もなく、難儀をしていると言うのです。火事で焼け出されたらしいのです。そのような報告は受けていないので、どうやら、私たちが知っているクリスチャンではないようで安心をしたのですが、私の同情は変わりませんでした。

 そこで私たちは子供と相談しました。「どうだ。こんなに困窮している家族が近くにいるんだ。何か食べ物でもわけてあげようと思うけれど? ただ、自分たちが少しも痛みを感じないでするのではよくないし、うちにはそれほど余裕もない。そこで、一週間に一度、みんなでご飯を食べないで、その分のお米をあげるのは? それだけではもちろん足りないから、それの何倍も上げるけれど、少なくても、自分たちも一緒におなかをすかせてみよう。」あの貧しい集落を訪れたことがある私の子供たちは、何にも分からない末っ子を除いては、賛成してくれました。そこで私は米一袋30kgを買って差し上げることにしました。

 しかし、問題はどのようにして運ぶかです。住み込んでいる教会の信徒に頼んで運んでもらうことにしたのですが、フィリピン人の約束は、まず守られることはありません。三日間も米袋は私の部屋に置かれたままです。私は風邪気味で、30kgの米を担いであの険しい道を降りることは出来ません。ちょうどそのような時、協力伝道者がひょっと顔を見せたのです。「やー。ちょうど良かった。チョッと運んでもらいたい物があるんだ。自分でやろうと思っていたのだけど、風邪気味で無理だから、お願い出来るかな。」私は、事情を簡単に話し、「誰からとは伝えないで、ただ、あなたたちのことを聞いた人からの贈り物だ」と言って、置いて来て欲しいとと頼みました。この伝道者はすぐに出かけて行きました。そして何時間も後に帰って来ました。あまりにも悲惨な生活の様子に・・・・・・持って行った米を炊く鍋もなかった・・・・涙が出て、そのまま町に出て行って、自分の乏しい財布の中から鍋釜を買ってきて差し上げたのだそうです。「日本人の宣教師が、『豊かでない』生活費の中から我々の同胞を助けているのに、自分が知らん顔は出来ませんから。」額の汗をぬぐいながら、この協力伝道者は、ぼそぼそと言いました。

 結局、この家族は私たちの開拓教会の信徒たちから、色々な家庭用品の提供を受けて、何とか暮らせるようになりました。しかし、そこに住んでいた二年あまりの間、一度も私たちの教会や家庭集会に顔を見せたことはありませんでした。あまりにも田舎かから来たために、「都会人」である私たちの教会の人々に恥じて、姿を現さなかったのです。そういうことですから、仕事もなかなか見つけることは出来ませんでした。しかし、その後彼は自分の集落にもどって、そこで教会に出席するようになりました。

 今この集落は、住民のほとんどが私たちの教会に集うようになっています。

7.お金 (2)

 宣教師をやっていると、「あァ、もっとお金があったらなァ」と、つくづく思うことがあります。しかし、「お金を持ってなくて良かったなァ」と、しみじみと感じることもあるのです。

 1980年代の初め頃、協力伝道者のひとりが、山の幹線道路の横の崖で砂利を採っていました。私たちと一緒に手造りの教会堂を建てた後、彼は自分の技能を発揮して、牧師館を建てようと、コンクリートを捏ねるために、砂利を集めていたのです。ところが、そんな彼を助けようと一緒に働いていた若い男が、突然崩れた大量の土砂の下敷きになってしまいました。15分ほど後になってやっと助け出された彼は、意識がないまま、近くの(と言っても車で一時間、車を探すまで1時間)貧弱なクリニックに担ぎ込まれましが、何の治療も出来ないまま、一週間後に目を開いた時には、まったく身体を動かすことが出来ず、一言も話すことが出来ない、いわゆる「野菜」の状態になっていました。

 その出来事をかなり後になってから知った私たちは、彼のためにあらゆる手を尽くしました。この時つくづく思ったことは、「もっとお金があったなら、立派な医者にも見せ、もっと人間らしい取り扱いが出来るのになァ」ということです。自分の家を持っていなかった彼は、少しでも薬に近い場所へと言うことで、私たちの住んでいたところから10kmほどの場所に移って来て、ビニール袋とダンボール箱を細い材木の切れ端に打ちつけた、小さな小さな小屋に住んでいました。とうとう我慢出来なくなった私は、絶対にしないと決意をしていたことをすることにしました。マニラに住む大金持ちの友人に彼の姿を見せて、彼の「クリスチャン愛」に訴えることです。私は多くの宣教師とは違い、何んだかだと理由をつけては彼に金を出させるようなことは、絶対にしないと決めていました。それが彼との付き合いを永続させていた理由でした。自分は乞食ではないと思っていたのです。しかし、この惨めな状態に、私はこの金持ちを用いようと決意しました。大金持ちの友人は、「どうしてもっと早く自分に言ってくれなかったのか」と私を責めながら、早速ベンツを回してくれました。そして、マニラで一番高い医療技術を持つ病院に数ヶ月も、入院させてくださったのです。しかし、あらゆる検査と治療の結局、何の回復もないまま退院したとき、彼が受けた宣告は、酸素の欠乏のために脳が大きなダメージを受けていて、回復の見込みはまったくないということでした。私たちは途方に暮れてしまいました。

 彼はまだクリスチャンではなく、奥さんが教会に来はじめていただけでした。それなのに、時間があるからと言って、まったくの親切から牧師の手伝いに来てくださっていたのです。彼には二人の子供がありましたが、事故があってから数ヵ月後、今でも良く覚えているのですが、2月の29日に、もうひとり男の子が生まれました。私たちは日本から送られてくる古着を、比較的金持ちのクリスチャンたちに売った売上金で、彼が家族と一緒に住めるように、小さな家を建ててあげました。少なくても、奥さんが畑で仕事をし、安心して夫と子供を残しておくことが出来る場所を作ったのです。そして、開拓教会の全員にお願いして、毎月、愛の献金をし、彼に送ることにしたのです。ところが、しばらくすると、まだ若い奥さんは夫を捨てて、子供たちを連れて他の若い男の所に行ってしまいました。遠くから出稼ぎに来てここに居ついた彼には、頼る家族もなく、一人家に残され、近所の人々やクリスチャンが交代で世話をするという、惨めな状態になってしまいました。

 そこで私たちは、比較的都会にある開拓教会の牧師と話をつけ、その父親の教区長にも中に入ってもらい、その教会の敷地に改めて彼の家を建てることにしました。そして、その教会が彼の世話をするように約束を交わしました。彼が生き続ける限り、彼はその家に住むことが出来、彼が死んだなら、その家は教会のものになるという条件でした。幸い、彼の親戚たちが交代で一緒に住み込んだりしてくれました。その内に彼は、少しずつ話し出すことが出来るようになりました。私が訪ねていくと、一生懸命に話そうとして、全身が激しくけいれん痙攣し出すのですが、それでも彼は止めようとしませんでした。一言、一言、長い時間をかけて、イロカノ語で彼は話しました。イロカノ語は解らないと言うことにしていた私も、このときはすべてを理解することにしました。それからしばらくすると、絶対に回復しないと言われた身体機能が、少しずつ回復し始め、ベッドの上からブランコのように垂らした棒に捕まって、上半身を持ち上げる練習をするようになりました。そして、いつの時点の事かはよく分かりませんが、彼はしっかりとしたクリスチャン信仰を持つようになっていたのです。

 そのような時、他の男の所に行ってしまった奥さんが、その男と薪を取りに山に行って、倒れてきた木に頭を打たれて即死してしまいました。その時、彼は一言だけ私に言いました。「主が彼女を取ってくださったのです。」その時から、彼の元には3人の子供が戻って来て、一緒に住むことになりました。彼は非常に喜んで、この頃から身体もますます強くなり、英語もどんどん上達し、信仰も成長して行きました。不思議なことに、これだけ長い間寝たきりなのに、床ずれはまったく出来ませんでした。私は、床ずれが彼の死を早めるのではないかと、秘かに心配していたのです。

 やがて私は宣教師の働きを止め、日本に引き揚げて来ましたが、私たちの開拓教会は、それからも彼を支援し続けました。私も毎年一度か二度、フィリピンを訪れる時には、必ず彼を訪問しました。訪問するごとに彼は強くなり、明るくなり、英語が上手になり、とても幸せそうでした。ところが、数年前、あの2月29日に生まれた男の子、彼がことのほか可愛がっていた子が、自動車事故で亡くなってしまったのです。私が訪れた時、彼はこのことについて、「主が与ええ、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」と言っただけでした。イゴロットはまるで痛みを感じないように、じっと我慢をする人々ですが、彼のこの言葉には、思わず涙がこぼれそうになりました。

 神様は、どうしてこのようなことを、次から次と彼にお許しになるのか、私には説明が出来ません。しかしこれらの出来事は、彼を確実に救いに入れ、いくつもの教会の繋がりを強め、信徒一人一人の愛の行いを目覚めさせ、クリスチャンであることがどんなに素晴らしいか、周囲の多くの人々に教えたのです。今は、彼の子供たち、母親、姪、甥、さらに親族の何人かが救われています。特に、長い間彼の世話をしていた姪は、いまや聖書学校を卒業して、伝道者としての道を歩み出しています。

 宣教師として私は、自分の生活費の中から、いつも本当に僅かな支援をして来ました。彼の悲惨な姿を見るたびに、いつも、「もっとお金があったなら」と思わずにはおれませんでした。しかし一方では、色々なクリスチャンたちが、いつも何かにつけて彼を訪ねる私を見ていました。やがて、青年会や婦人会の人たちを始めとして、だれ彼となく彼を訪ねてくださるようになったのです。今年、私が彼を訪ねた時、驚いたことに、彼は家にはいませんでした。車椅子に乗って身体障害者支援の施設に行ったというのです。私は彼を追ってその施設に行きました。市役所の敷地の中にある、涙が出るほど貧しい施設ですが、市が、クリスチャンたちの助け合いを知って、何とか人道的支援施設をと始めたのだそうです。彼とクリスチャンたちの助け合いの姿が、乏しいながら、公共の支援施設の設立に影響を及ぼしたのです。彼は、数人の障害者と共に、紙細工を作っていました。とても売り者に物になるようなものではありませんでしたが、身体を動かして何かを作っているのです。そっと遠くから見ている私に気付いた彼は、物凄い勢いで車椅子を操ってやって来ました。「プレイズ・ザ・ロード!」これが、彼の口からほとばしり出た言葉です。

 宣教師は、自分が豊かであることで、貧しい者を遠ざけてはなりません。また、自分が金を持っているということで、人を引き付けてもなりません。金は人間関係を作ることも出来、壊すことも出来るのです。しかし、金を持っていないからこそ出来る働きもあるのです。お金を持っていない宣教師は、貧しい者と共に嘆き、悩み、痛み、共に呻くことが出来るのです。キリストも全能の神でありながら、まったく世の力を持たない方としておいでになり、弱く、小さく、貧しい人として、弱く、小さく、貧しい人々と共に住んでくださったのです。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。しかし私には枕するところがない」とおっしゃった方の、お姿に似るように努めるのが宣教師です。大金持ちは事業家とはなれても、宣教師になることは難しいでしょう。

8.強さを見せない

 険しい山肌の道なき道を、毎日5時間も8時間も歩き続けて一週間。私たちはぼろきれのように疲れ果てていました。毎晩3時間以上に及ぶ集会と、それに続く色々な相談事。眠る時間がありませんでした。午前2時、3時にやっと高床式の床に横になると、たちまち南京虫に襲われます。一時間ほども格闘するうちに、一番鶏が、一メートルも離れていない耳元で、勢いよく鳴き出すのです。

 「今晩こそ何としても眠るぞ」と決心していた矢先、ややこしい問題が持ち上がり、私たちは、全9戸のこの集落を、緊急に脱出しなければならない事態になりました。午前0時きっかり。通訳者と私は、現地の3人の若者をお供に、松明も灯さず、犬に吠え立てられないように細心の注意を払いながら、集落から抜け出しました。星明りに見え隠れする、現地の若者たちの案内だけを頼りに、昼間でさえ馬も通れない険しい坂を、一気に下り始めました。足元が不確かなため、三歩あるいて滑り、五歩あるいては転ばなければなりませんでした。幸い、荷物は若者たちが背負ってくれていましたが、たちまち手足は擦り傷と打ち傷だらけになりました。山歩きには慣れているはずの通訳者も、さすがに緊張しながら私の後ろを滑り降りていました。

 一時間も過ぎた頃、やっと松明を灯すことが出来るようになり、ほっとしたのもつかの間、突然、小さな沢に出ると、今度は急な登りです。蔦にすがってよじ登り、また降り、それからまた登り、結局、四時間あまり歩き続けて、東の空が僅かに白み始める頃、急に足元が安定してなだらかな道にたどり着きました。1,500メートルほども降って来たのです。私の疲労は極限に達していました。膝頭がガクガクと震えて、立っているが精一杯という有様でした。しかし、やっと輪郭がはっきりしてきた若者たちの姿を見て、私は安堵に胸を撫でおろしました。私と同じように、疲れきった足取りで歩いていると見えたからです。「さすがに彼らも疲れているんだ。どうやらここからは、しばらくはゆっくり歩けるな」と、私は踏んだのです。

 期待通り、若者たちは後姿に疲労感をにじませながら、まったく無言のまま、ゆっくりゆっくりと歩いてくれました。彼らの姿を追いながら、私は、彼らとの奇妙な一体感を味わっていました。「自分ひとりが喘いでいるのではない。彼らも一緒なんだ。自分ひとりが苦しんでいるのではない。彼らも苦しんでいるのだ」と思えたのです。私を危険から遠ざけるために、彼らもこんなに痛んでくれているのだと思うと、大きな感謝と勇気が溢れてきました。ふと気が付くと、彼らはどういうわけか、全員、長さ三メートル、直径も25センチは超えるかと思われる太い竹を担ぎ、その上に私たちの荷物を背負い込んでいました。

 朝もやの中で、私たちは車座になって朝食のサツマイモとニワトリの肉を食べました。私は汗と泥にまみれた靴を脱ぎ、軽いゴム草履に履き替えました。現地の若者たちはもちろん始めから裸足です。険しい山道を歩く時は、どう見ても裸足の方が有利です。地面の凹凸に沿ってしっかりと踏みしめることが出来るからです。しかし、ヤワな私の足ではこの山道をものの三分も歩けません。たちまち鋭い岩に切り裂かれ、潅木の棘に刺されてしまうに違いありません。子どものころから裸足に慣れ、私の足よりは一センチほども分厚くなった彼らの足を、感嘆の声を殺して見つめたものです。しかし、さしもの彼らも、今回だけは疲れ切っている様子だったのです。

 「よし! 行こうか?!」。少し休んでから、私は無理に元気を装って皆に声をかけました。若者たちは黙ってゆっくりと立ち上がり、今度は私たちの後ろに回って着いて来ました。自分の荷物をみんな持たせてしまっていることに、少しばかり後ろめたさを感じながらも、先にたって進むと、やがて奔流の轟きが腹に響いてきました。響きが少しずつ大きくなるのを感じながら十分ほども進むと、目の前が突然開け、急流が現われました。細い道はその中に消え込んでいたのです。浅瀬になっているとは言え、多分、腰くらいはありそうで、三十メートルほど向こうの岸には、また細々と道が続いています。

 疲れてきって、ゴム草履を脱ぐのも面倒くさく、私は奔流の中に足を踏み入れました。岩だらけの川底を裸足で歩くと、とても痛いことを知っていたからです。ところが、三歩と進まないうちに、ゴム草履が急な流れにさらわれて、アッと言う間に運ばれて行ってしまったのです。「ア〜ア〜ア、しょうがないな。」声を上げながらも、私は諦めていました。「どうせ20ペソ(当時約80円)の草履だ。なくなったってたいしたことはない。」

 突然、後ろから着いてきていた若者の一人が、荷物を放り出して奔流の中に飛び込み、驚く私の横を、物凄い勢いで渡り始めました。「エッ! どうしたの?」といぶかる私に、通訳が言いました。「彼は草履を追いかけて行ったんだよ。300メートルくらい行くとまたこの川を渡るから、そこまで先回りをしようとしてるんだろう。」たちまち川を渡りきり、走り去る彼の後姿を唖然と見つめながら、私は自分の愚かさに腹が立つやら笑い出したくなるやら、申し訳ない気持ちになるやら、本当に複雑な思いでした。私にとっての80円は小さなお金です。6時間にわたる真夜中の厳しい山歩きの疲れに比べると、無視出来るほどの物でした。しかし、赤貧のイゴロットたちにとって、まだ真新しいゴム草履は、とても高価な物だったのです。 流れを渡ってさらに進むと、道がまた流れの中に消えるところで、あの若者が大きな石に腰を掛けて待っていました。足元には私の草履がきちっとそろえて置かれていました。こんな物のために何百メートルも走らせてしまったことに申し訳なく、何と言ったらよいのかわからなくなってしまった私は、ただ大げさに、「助かった。助かった。」と喜んでみせました。若者ははにかんだように黙って、白い歯を見せていました。

 彼らはまったく疲れてなんかいなかったのです。ただ疲れ切った私を気遣って、自分たちもあたかも疲れたかのように、歩いてくれていただけなのです。私が勝手に「彼らも疲れているんだ」と決め込んで、それを自分の励ましとしていたのが、完全な思い違いであったことがわかりました。本当のところ、彼らには食事の後の休息も不要だったのです。後から聞いた話ですが、彼らが担いでいた太く長い竹は節がくり貫かれた入れ物になっていて、平地の町で塩を買って運ぶためのものだということでした。私たちを町まで送り届けたら、それにびっしり塩を詰め込んで、その足で、すぐに自分たちの集落に取ってかえすというのです。私は驚嘆を隠しながら話を聞きました。

 彼らは自分の強さを誇らず、私の弱さに合わせ、弱い者のようになってくださったのです。私は、「親切とは強さを見せないことである」という、どこかで読んだ言葉の意味を理解しました。彼らは、弱い私にアイデンティフアイしてくれていたのです。この時私は、イゴロットの前では絶対に自分の強さを見せないと決意したのです。彼らと共に痛むことから始めようと決めたのです。

9.誰と一緒に過ごすのか

 宣教師は、自由時間を誰と一緒に過ごすのか。まったく些細でプライベートなこの問題が、多くの宣教師のアイデンティフィケーションという大問題に大きく関係しています。

 宣教師の一番の敵は宣教師だと言われながら、宣教師たちはやはり自国から来ている宣教師たちと、一緒に集まるのが好きなようです。他国に来た宣教師は、何から何まで異なる中で生活し、精神的にも肉体的にも社会的にも文化的にも、まさにあらゆる面で、適応して行かなければなりません。中でも独特な文化や習慣に根ざした人間関係は複雑怪奇で、外来者にはとても理解出来るものではありません。現地の牧師や伝道者あるいはクリスチャンたちとの、本来、暖かい愛の交わりであるべき付き合いも、宣教師にとっては、苦痛以外の何ものでもないことにさえなりかねないのです。

 心理学者たちによると、人間のストレスの大部分は、新しい物事に対する適応から来るのだそうです。人間が基本的に保守的なのは、この適応を嫌うからです。ですから、何から何まで新しい適応を求められる宣教師にとっては、まさに、周りの物事すべてがストレスの原因となるのです。そういうわけで、宣教師たちがいくらかでもストレスを解消するために、古いなじみの文化を楽しめる、同じ国から来た宣教師仲間と群れたがるのも、無理はありません。

 ですから、宣教師たちが休暇などの自由時間を、誰と過ごすかが問題となるのです。現地に溶け込み、現地の食べ物にも慣れ、同労者たちとも良い関係を保っている宣教師は、精神的にも安定して、情緒不安などの宣教師病にも陥りません。しかし、現地に旨く適応出来ない宣教師、また適応しようとしない宣教師は、情緒的に不安定になり、いつも同じ国から来た宣教師たちと交わりたくなります。そのような宣教師たちが互いに寄り集まると、まず言葉が通じ、冗談も通じます。共通の懐かしい話題も豊富です。精神的に開放され、健康になったように感じます。しかしその開放感は、たちまち現地のあらゆる事柄に対する不満と不平、批判と揶揄と嘲笑に変わっていきます。同じような不満と批判を分け合い、宣教師たちは、互いに安心して思います。「自分の考えていたことは間違っていなかった。自分が感じていたことは正しかった。自分の方がまともだったのだ。他の宣教師たちも同じように感じていたのだ」と。こうして宣教師たちは、ますます現地の人々と物事に批判的になり、いよいよ現地に溶け込めない人間になって行ってしまうのです。

 私が14年にわたって間借りをしていた教会の牧師は、よく言っていたものです。「宣教師は鶏糞のようなものである。薄く散らばると肥料になってたいへん役に立つが、一箇所にまとまると何の役にも立たない。ただ臭いだけだ。」役に立たない宣教師だから集まるのか、集まるから役に立たなくなるのか。ともかく、宣教師は現地の人々と一緒にいることを、心から喜べ、リラックス出来、楽しめなければなりません。自由になる時間があれば、宣教師仲間のところに行くのではなく、現地の人間たちと交わる機会を作るのです。現地の人々と二流三流の食堂で食べ、ゴキブリとヤモリの出るホテルに泊まり、汚い部屋で話し込み、土地の果物やお菓子をおやつにするのです。そのように出来る宣教師が、精神的に健康で安定した宣教師なのです。そして、そのような宣教師を、現地の人々は求めているのです。

 現地の人々が最も求めている宣教師は、宣教団体が最も送り出したいと願っている宣教師とは異なっています。宣教団体は、聖書大学と神学校を卒業し、できれば修士号だけではなく博士号も持ち、説教に優れ、教える能力を持ち、指導力を発揮し、管理にも長けている人物を作り上げて、宣教師にしようとします。しかし現地の人々は、自分たちと一緒に食べ、一緒に眠り、一緒に手を汚して仕事をし、自分たちの毎日の生活の痛みや苦しみに同情し、自分たちの話を理解してくれる宣教師を求めているのです。そしてこのような宣教師になることは、一般的に言って個人主義の進んだアメリカ等の人々には非常に難しいことです。彼らは、自分の生活は自分の生活として守り、他人の干渉を許さないところがあるからです。その点、共同体社会で育った宣教師たちの中には、僅かながらとは言え、現地の人々とアイデンティフィケーションを持つことが出来る者が、出てくるはずです。

10.子どもたちを妨げてはならない

 フィリピンは子沢山の国です。私の子どもの担任だった先生は、小柄でとても若々しく、可愛らしい声をした美人です。頭も冴えている上に優しく、どこから見ても魅力的な女性でした。「私の窓の下でギターを弾きながら、トウ・ヤングを歌ってくれた昔の恋人と、文部省の会議でパッタリ出合ったの。お互いに、すぐに気が付いたのよ!」と、目を輝かせて話してくださいました。しかも彼女は14人の子どもの母親だったのです。そのうちのひとりは私たちの教会で救われて、教会学校の先生になりました。

 しかし、このような女性は例外で、たいていは7、8人、あるいは10人11人と子どもを産んでくたびれて行きます。貧しいための栄養失調、栄養失調のための皮膚病と下痢、そして、ろうそくのような鼻水。水不足のために洗濯をしてもらったことがないボロ服、雨季には雨水に当たることも出来るけれど、乾季になると水浴びもままならず、埃と泥にまみれた身体。こんな子どもたちが、何を始めても、それこそわんさと集まります。

 小さな空き地や公園で聖書の勉強会を始めると、たいてい、若い奥さんたちが5人6人と顔を見せます。すると、ひとり当たり平均3人の幼い子どもたちが付いてきます。ひとりはおっぱいにくっついて、もうひとりは腰の横に抱かれて、もうひとりはお母さんのスカートをしっかりと握ってやってきます。その内に、身の毛もよだつ光景が展開されます。母親たちが聖書を読んで話し合っている間、ひとり当たり3人の子どもたちは、やがて泣き出します。喧嘩をします。おしっこをします。ウンチもします。ついてきた犬がそれを食べようとします。それを母親が追い払います。やがて聖書の勉強に集中したい母親たちは、犬を追い払うのも、ウンチを片付けるのも面倒臭く、持ってきた「煮しめたような」布切れか、新聞紙をかぶせたままにしておきます。這い這いしている赤ん坊がそれをかき混ぜ、やがて私の足元にやって来て、ズボンにしがみついて立ち上がろうとします。ここで顔をしかめたり大声を上げたりしては、この母親たちと一緒に聖書の勉強は出来ません。聖書の勉強が済むと、そのままおやつになることもあるのですが、さすがに手を洗いたい気持ちです。

 イエス様は、「子どもたちが私のもとに来るのを妨げてはならない」とおっしゃいましたが、その子どもたちとは、少なくても、今の日本のような、清潔な服を着た栄養満点の子どもたちとは違ったでしょう。ほとんど裸足だったに違いありません。おしめをしていた子など、いたでしょうか。慢性栄養失調の子どもたちもいたことでしょう。当時のイスラエルは、現代のフィリピンよりもっと貧しく、物資もありませんでした。洗濯石鹸もなかったでしょう。シャワーを浴びられる子どもは何人いたことでしょう。とにかく、汚くて臭くて、今の私たちならば、思わず、「あっちに行ってて!!」と言いたくなるような子どもたちだったに違いありません。そのような子どもたちに対して、イエス様は「私のところに来るままにしておきなさい」とおっしゃったのです。

 戦後間もない、昭和23年ごろに撮られた自分の写真を見ながら、今のフィリピンの子どもたちよりまだみすぼらしい格好をしていることに、改めて驚きました。天と地をお創りになった主が、人となり、人と共に住み、人と共に痛んでくださったという事実が身にしみました。宣教師とは、キリストが遣わされたように遣わされている者です。キリストが、「子どもたちが私のところに来るままにしておきなさい」とおっしゃったならば、宣教師もまたおなじ精神をもって生きるべきなのです。

11.ノラの話

 我が家に仔犬がやってきた! マニラの宣教師が「仔犬が生まれたからいらないか」と言うので、動物好きの家内がすぐに「ワーッ。是非欲しいわ」とばかりに飛びついたのです。ところがただで下さるのかと思ったら、シェパードとボクサーの一代雑種だとかで、400ペソも取られてしまいました。当時の金で1万6千円。フィリピン人伝道者の一か月分の給料の倍に相当します。「宣教師は贅沢だなー」と思いながらも、「これで我が家にも犬が来て、お隣さんの教区長の犬に腹を立てる回数も減るだろう」と、打算的なことを考えていました。

 幸い気立ての優しいメス犬で、図体が大きくなっても、誰にでも尻尾を振って近づいて行く、「番犬にはならない」犬に育ち、みんなに可愛がられていましたが、「盗まれないように番犬を飼わなくちゃ」と冗談も言われました。「おいしそうな犬だ」と言うのです。私たちは「ノラ」と名づけて可愛がりました。野良ではなく可愛い女の子の名前のノラです。ところが誰かが盗もうとして毒を盛ったか、ジステンバーにでもかかったか、この犬が死にそうになりました。幾度も獣医に連れて行って、何とか命は取り留めさせたのですが、それからはずっと病気がちな犬になってしまいました。幾度か倒れ込み、その度に点滴をしたり、投薬をしたりしていたのですが、とうとう私たちはノラに言いました。「ノラ、可哀想にね。でも、日本人の宣教師に飼われてしまったのが、お前の定めだね。もう私たちは、これ以上お前の世話をすることは出来ないよ。イータン叔母さんがね、しばらく姿を見せないと思っていたら、乳癌で死にそうなの。もうお乳が崩れて臭くなっているのに、お金がないから、一度もお医者さんに行くことが出来なかったんだよ。この教会の婦人会で、一番忠実な信徒だったのに、今、一人ぼっちで、家で寝てるんだよ。イータンおばさんを放っておいて、お前を獣医さんのところに連れて行くことは、宣教師としては・・・・・、できないものね。」子供たちも、事情を知って納得してくれました。宣教師は、現地の人々と痛みを分け合う者でなければなりません。

 この話には続きがあります。当時私たちは、バギオ市に住んでいる唯一の日本人家族と、親しくお付き合いをしていました。この家族は、アヒルを部屋の中で飼って、子供たちのベッドで一緒に寝かせるほどの動物好きで、両親は、将来は3人の子供を獣医にすると宣言していたのです。そのご主人が我が家のノラを見て、「これはいい犬ですよ。ほら、蹴爪が付いているでしょう。これが証拠です、それから、口の中が真っ黒でしょう。これも証拠です」と、散々誉めそやし、私たちが払った400ペソも決して高くはないと、思わせてくれていたばかりでなく、私たちが日本に帰国している間はノラを引き取り、散々甘やかせていてくれたのです。「おおい。俺の残しておいたケーキはどこに行った。」とご主人が言うと、子供たちは「ノラにやったよ」と答えるのだそうです。子供たちがケーキを食べてしまうとご機嫌が斜めになるご主人も、ノラにやったと聞くと納得したのだそうです。

 このご主人があるとき突然やって来て、「ノラを引き取らせてください」とおっしゃるのです。伺うと、私の子供たちが遊びに行って、ノラの治療を諦めたこととその理由を話してしまったらしいのです。「宣教師としてそのようにお考えになるのはわかります。むしろ当然だと思います。しかし私は宣教師ではありません。犬が好きで好きでたまらない人間です。ノラが元気になるまで引き取らせてください。」バスタオルにくるまれたノラは、奥さんと子供たちに抱きかかえられ、ご主人の運転する車で連れて行かれました。こうしてノラは、数年間生き延びることが出来たのです。

12.家内の不満 (1)

 私の家内はあまり不平を言いません。特に、伝道者として頑張っている限り、きついだの貧しいだのと言って、不平をもらしたことはありません。早く救われるようにと秘かに祈っていた父親が突然亡くなり、その知らせの電報が14日もかかって届いた時も、じっと我慢をして、一言も泣きごとを言いませんでした。

 そのような家内ではありましたが、一度だけ不満を漏らしたことがあったのです。それは夫婦で10日前後の山岳奥地伝道に出かけた時のことです。私たちは通訳と案内の現地の伝道者を伴って、朝早く車で出発しました。車で6時間くらい進み、あとは毎日、3時間から6時間ほど、馬も通れないような険しい山道をひたすら歩いて、集落から集落を回りながら働きを進めるのです。3時間ほどドライブをして、私たちは道端の小さな食堂で朝食を取ることにしました。海抜2,000メートルを超えるこのあたりの朝は、さすがに冷え切って、吐く息が真っ白になります。

 私は食堂に入って、現地の伝道者が最も好きな食べ物を見繕って注文したのですが、出された食べ物を見て家内が言いました。「こんな食べ物ではなくて、もっと普通のにして欲しかったわ。だって、もう、食べ物らしい食べ物を食べられるのは、これが最後なんだから。」私は言いました。「現地の人と一緒に食事をする時には、現地の人が一番喜ぶ食べ物を選ぶのが、宣教師としての心構えだ。自分はいつもそのようにやって来たし、これからもやって行く。」それでもまだ、家内は、棚に並んでいるシナモンロールを恨めしそうに見やっていました。「ここでこの食べ物に不服があるならば、これからの10日間、もっともっとひどい食べ物になるのだから、とても一緒に行動は出来ない。だから、今すぐにバスに乗って帰るように。」私はそのように言い渡し、有無も言わさず、出発しそうになっていたバギオ行きのバスに乗せてしまいました。

 一緒にいた現地の伝道者たちは、突然バスに乗って帰ってしまった家内を見て驚いていましたが、「申し訳ないけれど、突然大切なことを忘れていたのを思い出したので、あわてて帰らなければならなくなったんだよ」という、私の説明に納得したようでした。後から考えると、ちょっと可愛そうな気もしないではないのですが、私は現地の人を優先し、現地の人の立場で行動するという原則を貫こうとしていたのです。これからの10日間、とても料理とは言いがたい、貧しい食事で我慢しなければならないことを知っていた家内が、せめて最後の食堂で、自分の口にも何とか合いそうな食事をしたいと願ったことを、責めようとは思いません。しかし、そのような心では一緒に行動して欲しくなかったのです。

 このようなことはありましたが、家内は不満を言ったことがないのは本当です。しかし、ある意味では、いつも不満を言っていたというのも真実です。「どうしてこんな中途半端なところで宣教師をしているの?」「どうしてもっと奥に入って、本物の宣教師らしい宣教師にならないの?」「こんなところで楽に暮らしながら、時々奥地の伝道者を訪問するだけでいいの?」家内はこのような恐ろしいことを平気で口にしていました。そして言うのです。「電気も何にもないところで、庭には大きな木がたくさん生えていて、太い蔦が絡んでいて、・・・・・・でも、アイスクリームがなければ絶対にだめよ。」

 家内は本当に、私たちがもっと「宣教師らしい」宣教師になれるように、望んでいたのでしょう。しかし、便利な東京の下町で比較的甘やかされて育った、自分の限界ということも知っていたのでしょう。それが、「アイスクリーム」だったのです。当時、私たちが住んでいたところは、電気こそ数年前から通っていましたが、しばしば停電になる上に電圧の変動が大きくて、電気製品はすぐ壊れてしまうような状態でした。もちろん水道も、電話もないところでした。助かったことは、プロパンガスが普及し始めていたことでした。

 こんな中で、私は自ら大工となって住居を増築して、家族5人が不服なく住めるような空間を作りました。しかし、私たちの居間の壁の一部は、以前外壁だったセメントブロックがむき出しのまま残っていました。粗悪なブロックは、黙っていてもポロポロ、サラサラと崩れ落ち、いくら掃除をしてもすぐに床が砂だらけになりました。家内は砂を掃き集めるたびに、「この壁を何とかして下さいよ。それから、そちら側の壁も何とかしてくださいよ」と言い続けたものです。もう一方の壁は、ベニヤ板を貼り付けただけの、壁と言うよりはしきりに近いものでした。「そんなに綺麗にしてしまったら、せっかく物怖じせずに入ってきてくれるイゴロットたちが、自分の泥足を恥じて入って来れなくなるじゃないか」というのが、私のいつもの決まり文句でした。

 しかし、散々「何とかして下さい」と言われ続けて、とうとう重い腰を上げた私は、まずセメントブロックの壁を、古い木材を利用して芸術性豊かなモザイクの壁に仕上げました。ちょっと手間隙がかかりましたが、これは思わぬ効果を生み出し、訪れてくる人たちが、みんな褒めてくれたほどです。それから、ベニヤ板には暖かい色のペンキを塗り始めました。すると家内が言うのです。「そんなに綺麗に仕上げてしまったら、イゴロットのお客さんたちが入って来られなくなるわぁ。」「てやんでぃ! お前がうるさく言うから始めたことじゃないか。」やいのやいのと散々楽しく言い争った後、結局、美しく仕上げてしまったのですが、イゴロットのお客さんが少なくなってしまったようにも、感じないではありませんでした。

13.便器 (1)

 フィリピンのトイレは汚い。ちょっとやそっとの汚さではありません。しかしこれは何もフィリピンに限ったことではなく、ほとんどの開発途上国が同じです。タイも、インドネシアもマレーシアも、ミャンマーも、中国も、韓国もそうでした。モンゴルではもっぱら草原でしたので、知りませんが、聞くところによると、大変なものらしいのです。これはアジアだけに限ったことではなく、だいたい世界中同じでしょう。ヨーロッパ諸国だって、つい数世紀前までは想像も出来ないほど汚かったのです。ベルサイユ宮殿にトイレがなかったのは有名ですが、何もベルサイユ宮殿に限ったことではありません。あのご婦人方の優雅に広がったスカートは、そこここで用を足すことが出来るように、あのように鯨の髭で広げた形になったのだそうです。そして、臭いを消すためには、香水が欠かせなかったと言うわけです。多くの建物にトイレがなく、人々は「おまる」で用を足し、人のいないのを見計らって街路に捨てたと言うことです。2階3階に住む人は、「天水」と声をかけて、下に人がいないのを見計らって窓から撒き散らしたと言う話です。日本では昔から水洗便所がありましたし、都市では汲み取りもきちっと行われていました。お百姓さんがオワイを買い取って肥料にし、取れた野菜などで支払っていたのです。綺麗好きな日本人は、むしろ例外だったのです。この綺麗好きの日本人は、いわゆるウオッシュレットなる、尻を水洗いすることが出来る便器まで作り上げてしまいました。モーセの律法の中に野糞の方法が定められているのは、必要欠くべからざることだったからでしょう。

 近代のフィリピンの歴史は、便器の歴史でもありました。日本人よりも綺麗好きに成長した、ピューリタン文化のアメリカがフィリピンを植民地とした時、彼らが最も苦労したことのひとつは、1年の半分は雨がなく、乾燥しきってしまうフィリピンで、いかにして清潔なトイレを作るかと言うことです。とにかく彼らは、涙ぐましい努力を重ね、大金持ちの間で使える物は作ることが出来ましたが、一般庶民の間に普及させるには完全に失敗してしまいました。

 貧しい一般の家庭でも使える便器、すなわち安価で簡単に作れ、水をあまり必要としない、どこでも誰でも使える便器の登場は、1960年代の終わりまで待たなければなりませんでした。RRMという、  田舎の生活環境を変えようとする、ボランティア団体の人々の努力の結果です。現在でもこの人たちが普及させた簡単なトイレが、いたるところで見られます。ただし、多くの場合、あまりにも汚くて、私たちの使用に耐えるものではありません。とにかく物凄いのです。そしてフイリピン人たちはそれに慣れていて、あまり気にしていないのです。


  Rural Reconstruction Movement 戦前中国の田舎を改善しようと、アメリカのルーズベルト大統領の奥さんなどが中心になって起こした運動が、中国の共産化のためにフイリピンに移されたもので、大きくはないが、田舎の実情に合った非常に良い働きをしてきた。


 バギオ教会を開拓して1年後、私たちは木造4階建ての大きな建物を手に入れました。同じ教区で働いていたT宣教師の活動費で購入した物です。広い3階の部分は、500人くらいは楽に収容出来、狭い4階でも200人は簡単に入れることが出来ました。これによって、私たちの働きは飛躍的に伸びたのですが、ご他聞にもれず、トイレの有様は酷いものでした。これを何とかしなければと痛切に感じていた私は、マニラに出かける途上、アメリカ空軍基地のある町に立ち寄って、軍の払い下げ物資を物色し、とうとう立派な陶器の便器をたくさん見つけました。中古とは言え、アメリカ製の大きな立派な奴でした。私はかなりの金をはたいて、男性用の便器3つと女性も使える座式の便器を2つ買い込み、勇んでバギオ教会に運び込んで、協力牧師のM先生に言いました。「おおい。いいものが見つかったぞ。僕からのプレゼントだ。すぐにでも取り付けようではないか。」 

 ところが何事においても協力的だったM先生が、「我々には、そんなものはいらない。今のままで充分です」と言ってにべもなく、まるで取り付く島がないのです。「しかし、今のままでは汚くて・・・・」という私に、彼はきっぱりと、「フィリピン人にはあの方がいいのです」と言うのです。私にはどうしてもわかりませんでしたが、フィリピン人のしっかりした牧師が言うのです。フィリピン人を知らない私が、それ以上我を張るのは良くないことです。「じゃ、取り付けたほうが良いと判断されるまで、これは向こうに置いておこう」と、物置に運びこみました。その後、この高価な便器を再び見ることはありませんでした。トイレは、それから20年たった今も同じです。トイレに行くたびに、私はアイデンティフィケーションを思い出すのです。フィリピンで本当にフィリピン人らしく生きるには、汚いトイレに文句を言わないことです。

 しかし、最近のフィリピンの変化は、トイレに現われています。レストランやデパート、ホテルやガソリンスタンドのトイレが「物凄く」綺麗になっているのです。高校を卒業するまでフィリピンで宣教師の娘として育ったJ先生は、20年ぶりに、私たちと一緒にフィリピン旅行に行きました。そしてガソリンスタンドのトイレを借用して興奮して戻ってきました。「佐々木先生。トイレが、トイレが、トイレが綺麗なんです。とっても綺麗なんです。」しかし、田舎のトイレはまだまだ昔のままです。トイレを上手に使うこと。多くの国に出て行く宣教師が、絶対に学ばなければならないことです。それにしても、バギオ教会にもそろそろ綺麗なトイレが出来ても、罰は当たらないと思うのですが。

 ところが、イゴロットのトイレは平地の人たちの物に比べると、とても綺麗です。1年のうちの半分は乾季でまったく雨が降らない中でも、山の上の多くの土地では、僅かでも流れる水を使うことが出来ます。それで彼らは、相当以前から、彼らの独創による水洗便所を作っていたようです。そこまで行かなくても、昔の日本の田舎のようなしゃがみこむ便所がそこここにあります。汚いことは汚いのですが、座式の便器よりは肌に触れないだけ健全です。とは言え、多くの場合はトイレが存在せず、藪の中と言うことになります。頃合を見計らってトイレに立つと、気配を察した放し飼いの豚がまずすぐに後を追ってきます。それをすばやく察知した犬が、豚を追い払って着いて来ます。ですから、犬と豚を追い払いながらの、あわただしい用足しになることがしばしばです。今はさほどではありませんが、以前は、この山の上の働きに女性を連れて行くことは、なかなか大変で、「いざとなったら木の上に登れ」などと言ったものですが、今は、小さな小屋のトイレが、しかも多くの場合、貯め置きの水を使えるトイレが出来ています。いずれにしても、トイレの汚さに文句を言わなくなるのが、宣教師の成長のひとつです。このようなことの改革は、現地の人々の心を痛めることなく、ゆっくり、ゆっくり始めなければなりません。私たちは福音の宣教者であって、公衆衛生の普及員ではないのです。

 あるとき、カリフオルニア教区の偉い牧師が、私たちのところを訪ねて来られました。宣教師を送り出す仕事に関わっているとかで、実際にフィリピンの現状と言うものを、自分の目と身体で知りたいということで、私たちと一週間の車の旅をしました。教区長と現地の伝道者も含めて私たち6人の一行は、一緒に飲み食いし、一緒に教会堂や牧師館に寝泊りしながら、アメリカ人宣教師たちが滅多に行かない奥地にまでも入り込みました。道中、話題はしばしばアメリカ人宣教師の働きの批評に及びました。えらい牧師が色々尋ねて聞き出そうとしたからです。現地の伝道者たちは、ここぞとばかりに、アメリカ人宣教師の生活態度には柔軟性がなくて、現地の人々と働くことが出来ない。このようなところまで来る宣教師はいない。一緒に食事も出来ない宣教師がほとんどであると説明して言いました。「本当のところ、先生は宣教師ではないけれど、こんなところまでやってきた初めてのアメリカ人ですよ。」すると、このアメリカ人牧師はわが意を得たとばかりに、「自分はどんな食べ物でも現地の人たちと食べられるし、どんな所にでも泊まることが出来る。すべてのことにおいて、現地のあなた方と同じように生活が出来る。そしてそれは宣教師の絶対必要条件である。自分は今フィリピンにいる。だから自分は今、フィリピン人たちとすべての面で同じように行動しようとしている」と宣言したものです。聞きながら、アメリカ人との付き合いの長い教区長は、にやにやと笑いながら、私に目配せを送ってきました。私は、「何か悪巧みを考えているな・・・・・」と思いながら、目配せを返しました。

 長い平坦な道を数時間も走って、やっとガソリンスタンドにたどり着きました。みんなガヤガヤと車を降りて、コンクリートの壁に向かって立小便をし出しました。大体どこでも、ガソリンスタンドには便所があるものですが、当時のフィリピンのガソリンスタンドのトイレは、ゴキブリだって恐れをなして入らないと思われるもので、使用に耐えませんでした。だから、少なくても男は、壁に向かって立小便が普通のことだったのです。「トイレがないのか」と叫ぶあの先生に向かって、教区長が叫び返しました。これがフィリピン人のやり方だ。トイレは使わない。」結局小便をし損ねたアメリカの先生は、「降参。降参。やっぱりこれだけはフィリピン人にはなれない」と、自分の思い上がりを謝ったものです。そしてとうとう我慢が出来なくなり、町を出て林の中に入ったとき、車を止めてもらってそそくさと木陰に入って行きました。

 当時のフィリピンアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の総理が、私の家で言った言葉を思い出しました。「アメリカ人には腎臓の障害を抱えた人が多いが、フィリピン人にはほとんどいない。あれは、アメリカ人はトイレを見つけるまで我慢をしなければならないからで、フィリピン人はいつでもどこでも出来るから健康だ。」そのセオリーが正しいかどうかは別にして、当時のフィリピンでは、どこまで行っても小便臭かったのはそのためです。

14.便器 (2)

 マニラからバギオに引っ越してきた私の母校APTS(元FEAST)は、フぃリピンの中では別天地です。アメリカ人が手塩にかけて建て上げ、磨き上げて管理しているのが良くわかります。この神学校の目標理念の一つがアジア化ということです。「アジアの人々のためにアジアの文化を考慮して」、「アジアに宣教するためにはアジアの神学を」と、掛け声だけを聞くとまさに勇ましく、少々やかましいくらいです。

 ある時、アジア宣教のための国際会議で、このAPTSの代表者たちが、自分たちのアジア化の理念を高々と歌い上げているのを聞いた私は、かなりの皮肉を込めて言いました。「なるほど、皆さんのアジア化の理念は素晴らしいものです。良くわかりました。そしてアジアの一員として、私もその理念には大賛成です。しかし皆さんが『アジア化、アジア化』と言って建築されたあのAPTSの施設に足を踏み入れると、アジア人の男だったらすぐわかります。『ああこれは、西欧人がアジア人のためにとアジア人抜きで勝手に考えただけであって、本当の意味でのアジア化にはなっていないな』と。」少なからず自尊心を傷つけられた、APTSを代表していたアメリカ人たちは、私に尋ねました。「それはどういうことですか?」そこで私は言いました。「APTSの施設に入って、まず、最初に行くところはトイレです。何しろ、他にまともなトイレがないのですから、APTSまで我慢をしていくのですから。しかし、トイレに入ったアジア人の男性はみんな、男性便器の高さに閉口するのです。あれは西欧人が自分たちの足の長さにあわせて取り付けたもので、アジア人が使用することを考えた結果ではありません。」

 突然、アメリカ人の一人が言いました。彼は献金の訴えが上手なために、いつも色々な建築など、金のかかるプロジェクトを引き受けている宣教師で、この時も、私たちが持ち出した宣教師訓練場と言う発想を取り入れて、APTSの敷地内に、250人以上が寝泊りし、食事もし、集会や学びも出来る6階建ての建物の建築を、自分のプロジェクトとして進めているところでした。「佐々木先生。いいことを言ってくださった。実は私も男性用便器が高くて困っていたんだ。私の心はアメリカ人だけど、足の長さはアジア人だから。」みんなドッと笑いました。そういうわけで、この宣教師訓練を第一目的とした新しい建物の男性用便器は、短足の私にも使いやすいように出来ています。

 アイデンティフィケーションと言うのは、自分の一方的な押し付けで出来るものではありません。単なる思いやりや気配りで出来るものでもありません。その人たちのようになったつもりで考えても出来ません。まったくの始め、第一段階の前から、現地の人たちの感覚や視点、発想や意見というものを真剣に取り入れてこそ、可能になるものです。今私が住んでいる町にも、最近、身体障害者のための公衆トイレがそこここに建てられ始めました。しかし私たちの教会に通っている身体障害者は、そのトイレを使うことが出来ません。彼女によると「あれは、健康な人が想像する身体障害者のためのトイレで、本物の身体障害者が使えるトイレではありません」と言うことです。「あのトイレを考えた人たちが、ただ頭で考えるだけでなく、せめて自分たちも何日か車椅子に乗って、障害者の体験をしてみれば良かったのに。」多くの宣教師たちが、現地の人々のためを思って親切にしてくださることは、ちょうどこの身体障害者用のトイレットのような物になるのです。

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