How to Be a Missionary



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私が出会った宣教師たち


 自分自身が宣教師であったことも関係して、私はずいぶん多くの宣教師たちに出会いました。その多くは実に素晴らしい人たちでした。決して完全な人ではありませんが、それぞれとても立派な、学ぶべきところをたくさん持った人々です。私はこのような人たちとお付き合いをし、あるときは一緒に働くことができたことを、宝のように大切にしています。

1.私を育ててくださった宣教師

 私は16歳のときに救われました。北海道の片田舎の、小さな小さな教会での出来事です。当時、この教会の牧師をしておられたのは23歳の独身牧師で、この牧師を支援しながら働いておられたのがアメリカ人宣教師のH先生でした。当時は知るよしもありませんでしたが、ずっと後になって、先生の若いころのことを良くご存知の宣教師に会い、いろいろとお聞きする機会がありました。先生は「アメリカの立派な教会で副牧師として働き、信徒たちから大変慕われ、尊敬され、次の主牧師にと望まれていたのに、あえて約束されていたも同然の名誉ある将来を捨てて、宣教師となって北海道に出て行った」ということでした。

 ある新年のことでした。初詣の人々に伝道しようと、先生は私たち青年を数人引き連れて神社に出かけました。非常に冷え込んで、いわゆる「しばれる」早朝の提灯の光の中で、私たちはトラクトを手渡していました。手袋を脱いだ手がかじかんで、トラクトがうまく渡せません。口の周りの筋肉がこわばって、うまく話すことさえできませんでした。そのような中、H先生は、次々とやってくる振袖姿の若い女性向かって、「どうぞ、お嫁になってください。どうぞ、お嫁になってください」と、お願いして回っているのです。もちろん、「どうぞ、お読みになってください」とおっしゃっていたのですが、どう聞いても、「どうぞ、お嫁になってください」としか聞こえませんでした。その証拠に、若い女性たちはみな同様に「きゃ!」と言って後ずさりしていたものです。幸い、このプロポーズを本気で受け取った女性はいなかったようですが、忘れられない出来事でした。

 聖書学校の学生のころ、夏季休暇になると私たち北海道出身の者たちは、H先生のお手伝いを命ぜられ、伝道をしながらいくつかの市を回ったものです。当時の伝道の方法は、空き地に天幕を張って特別伝道会という集会を開き、人々を招くものでした。その頃の北海道の教会は、どれも開拓初期の小さなもので、まるで物置小屋のような建物を借りて、集会を持っていたものもありました。私たちは全員、そのような所に泊り込んで働いたものです。もちろん、H先生とそのご家族も一緒です。小学校に入ったばかりの男の子と、幼稚園の女の子の世話をしながら、奥さんは、毎日私たちの食事のお世話をしてくださいました。満足な鍋や釜もありません。七輪の火が唯一の熱です。来る日も来る日も、パンケーキということもありました。でも、学生たちは誰一人として不平を言いませんでした。一番上等な部屋とはいえ、H先生ご一家は、中二階と呼ぶ屋根裏の部屋で寝泊りし、私たち男子は会堂代わりの粗末な部屋で、荒削りの板でこしらえたベンチに寝、女子は台所の板の間で寝ていたのです。

 毎年夏になると、私たちはこのようにして一緒に2ヶ月をすごしたものです。今思うと、本当に貧しい食事でした。しかし私たちは、この食事をH先生の一家と一緒に食べていたのです。ほとんど休日らしい休日もありませんでした。H先生の子供たちでさえ、親と一緒に遊べる時間はあまりなかったようです。男の子は、よく私たちと一緒に、トラクト配布に、また、訪問に出かけたものです。先生は常に北海道への重荷を負いながら、全生涯を注ぎ込んだ方です。まだまだ貧しかった戦後の日本にやってきて、貧しい私たちと文字通り寝食を共にしてお働きになり、その姿を通して、宣教師のあり方の基本を、私に教えてくださった方です。

2.戦わなかった宣教師

 聖書学校を卒業して3年目、私は当時アメリカの施政権の下にあった沖縄に、宣教師として派遣されました。沖縄が海外であるという理解も、自分が立場上宣教師であるという事実も、あまり受け入れたくはありませんでしたが、ともかく、海外伝道部から宣教師として認められて赴任したのです。

 私は、当時の総理からは、「費用は沖縄にいるアメリカ人宣教師がすべて持つことになっている」と言い渡され、海外伝道部長からは、「沖縄にいるアメリカ人宣教師は、いろいろ問題がある人物だから、たとえ生活費は彼に出してもらったとしても卑屈にならないように、また、彼の言いなりになる必要もないのだから、沖縄にある現地の伝道者たちの交わりに加わって、彼らと一緒に働くように」と指示されて、沖縄の土を踏むことになりました。

 しばらく後ではっきりわかって、確認もしたことですが、実は、この宣教師と教団の間では、佐々木へのサポートは月60ドルで、教団と宣教師が等分の責任を持つという取り決めが交わされていたのですが、どういうわけか、教団側が一方的に約束を守らなかったのです。私の記憶にはまったく残っていないのですが、聖書学校時代のクラスメイトによりますと、この総理が受け持っていた授業の中で、私は、「教団からのサポートは、どうしても受け取らなければならないのですか」と質問をしたというのです。鼻っぱしだけは強かった、私らしい言い方なので、たぶん、本当にそのように言ったのでしょう。そして、それを覚えておられた総理が、「その気構えでやってみたまえ」と、あえて試練を与えてくださったのかも知れません。教団と宣教師との約束が、当事者たち全員の中で確認された後からも、教団からの支援はなかったからです。

 とにかく、私たち夫婦は、宣教師と教団が定めた半分の支援で、沖縄の開拓伝道に当たらなければなりませんでした。さすがに宣教師はこの事態を放ってはおけず、私に個人的な働きをさせて、10ドルの副収入を得させてくださいました。陰に日向に、この宣教師ご夫妻は私たちの生活が成り立つように、見守ってくださっていたようです。一方、私たちは意地と信仰で生き抜いていました。

 そんな中、本来日本本土で働くように派遣されていたこの宣教師が、沖縄で働かなければならなくなった経緯について知ることになりました。それまで私たちは、この宣教師が教団名義の不動産を私物化してしまったために、もうあの土地と家屋は教団のものではなくなったのだという、残念な噂を幾度か聞かされていました。この「間違った行為」のために、彼はアメリカの海外伝道部からは日本に派遣されたにも拘わらず、日本本国では受け入れられず、日本の教団によって沖縄に「左遷」されてしまったということになっていたのです。しかし本当はまったく異なっていました。この宣教師はその不動産のために、当時何年にも渡って毎月70ドルを払い続けていましたが、さらに20年近くも、払い続けなければならないことになっていたのです。1ドル360円の時代でも、70ドルは小さい額ではありません。「教団のためになることでしたらかまいません」というのが、宣教師の言い方でした。   

 ただ、それにしてもこの宣教師が納得できなかったのは、この不動産が教団の財産目録に載っていなかったことです。ですから財産目録を見る教団の先生たちは、「あの宣教師は、やはり噂どおり不動産を私物化したのだ」と思い込むに違いありません。私は、当時先任の宣教師として沖縄におられたN先生と、特別伝道会の講師としてお招きしていた新進気鋭のY先生と共に、この宣教師が保管していた登記簿謄本の写しを見せてもらいました。そしてその不動産が誤りなく、日本アッセンブリーズ・オブ。ゴッド教団の所有になっていることを確認したのです。そこで私たちは、当時代議員になって間もなかったY先生にお願いして、この事実を総会で正していただきました。結果として、次の年の財産目録にはきちっと教団の財産として載るようになったのですが、この宣教師が教団の不動産のためにずっと支払いをし続けたことには、変わりがありませんでしたし、この宣教師が教団財産を私物化したという不名誉な噂は、その後もしばらくの間囁かれていたようです。

 この不幸な出来事の細かいやり取りは、今となっては知る人もないことではありますが、ものごとすべてにけじめをつけ、きちっと整理をして進めていくこの宣教師のやり方は、まだまだ、「やあやあ、なあなあ」で進めていく日本のやり方になじめなかった、というより、日本人の間では受け入れられなかったのだと思います。そのような中で、誤解が誤解を生み、こじれにこじれて、日本の教団としてもやむを得ずの処置としたものだと想像しますが・・・・・・それにしても残念な出来事です。

 これらの事を通して、私がこの宣教師から学んだことは、いかなる場合でも人と戦わないということです。いかに不利な立場に陥れられようと、損失をこうむらせられようと、名誉を傷つけられようと、泣き言を言わず、うらみもせず、すべてを主にお任せして行くということです。この宣教師も当初は戦ったのかも知れません。不当な取り扱いに腹を立てなかったとも言いません。しかし、私が共に仕事をした頃には、すべてを水に流したかのように、事実を述べるだけで不平を漏らさず、70ドルを払い続けながら、関わった方々のために祈り続けていたのです。この宣教師は、結局、沖縄滞在期間を含めて18年間日本にいたことになるでしょうか。人間的な尺度からすると、彼の残した業績は決して大きなものではありません。しかし、少なくても彼は私に、自分のためには「戦わない」という、大きなことを教えてくださったのです。

3.己を低くして仕えた宣教師

 教区長が、青年たちとバスケットボールに興じていた、若いアメリカ人巡回宣教師に言いました。「やあ、いいボールを持っているなあ。そのボールをこの教会に置いていかないか?」これは、ある程度年を食ったずる賢いフィリピン人が、ものが欲しいときに使う手です。フィリピン人は、よく、「あれが欲しい、これをくれないか」とねだります。しかも、微妙に匂わすのです。いちいち聞いていてはキリがありませんが、無視することもできません。これに上手に応えられなければ、良いお付き合いができないのです。

 私たちの教区長はイゴロットであり、カトリック文化と植民地根性に汚染された平地の人間ではありませんから、そのような物ねだりは彼の本来の習慣ではないのですが、長い間アメリカ人から物をねだる平地の同労者たちと付き合ううちに、かなり、彼らのやり方に倣ってしまったところがあります。ただしこのときはたぶん、本当にボールが欲しかったのではなく、この、フィリピン中どこでも駆け巡り、すべてのフィリピン人に愛されているM宣教師を、本物かどうか試してみたかったのだと思います。

 イゴロットの実直さを知っているM宣教師は、こともあろうに、フィリピンではもっとも誠実であると評価されている、我が教区長に突然このように言われ、一瞬、当惑した表情を浮かべましたが、すぐさま満面の笑みを浮かべて、「このボールが役に立ちますか?それではどうぞ」と言ってボールを差し出しました。「やあ!ありがとう。」教区長は当たり前であるかのようにボールを受け取って、家に入って行きました。 

 夕暮れの中で、その日、私はM宣教師と長いこと話しこみました。彼はまともな聖書の学びも、神学の学びもする機会がなかった、信徒からたたき上げた宣教師でした。他の宣教師たちが、それぞれ、聖書学校の教師だとか何々プロジェクトの長だとか、いろいろな肩書きを持って都会に暮らしているのに反して、独身のまま、小型トラックにアルミの箱を載せたようなキャンピングカーを走らせながら、田舎周りを続けていました。ハイスクール(日本の中学校に相当)以上の学校では英語を用いる環境から、多くの者が英語を使えることを良いことに、あまり現地の言葉を覚えない宣教師が多い中、行く先々の部族の言葉を次々に覚えて用いく彼は、たちまちのうちに、多くのフィリピン人に受け入れられていたのです。

 彼と話し込むうちに、自分の名誉や地位や立場に拘泥せず、人からほめられることも仲間内に認められることも求めず、ただひたすら現地の教会の益のために、福音宣教のために、主のご栄光のために尽くしている姿に感動させられると同時に、彼のセルフ・イメージの確かさに、舌を巻いてしまいました。彼は、淡々と、自分のしている働きについて語り続けたものです。その多くは、フィリピンの地方を回りながら、自分がいかに失敗し、みんなの物笑いになり、茶化され、冷やかされてきたかという話でした。立派にやり遂げた働きとか、成功したプロジェクトの話はひとつも聞きませんでした。ちゃらんぽらんなフィリピン人にどれだけ騙され、裏切られ、煮え湯を飲まされてきたかということも、実に楽しそうに話してくださいました。彼は、そのようなフィリピン人を、少しも憎んだり恨んだり軽蔑したりしてはいませんでした。ただ、「自分はアメリカ人として、まだまだ彼らのことを理解することができないでいるだけで、たぶん、彼らには彼らなりの正当な理由があるんだろうな・・・・・。もっともっと親しく付き合っていくうちに、わかってくると思うんだけど・・・・」ということでした。そして、「そうなったら、いよいよ、アメリカ人の宣教師仲間からは理解されなくなるね・・・・」という私の言葉に、「いやあ!まったくその通り!」と朗らかに笑ったものです。

 私は、彼が同僚の宣教師から高い評価を受けたり、褒められたりしているのを聞いたことがありません。現地のフィリピン人たちでさえ、彼の働きをあまり高く評価はしていませんでした。しかし、彼は草の根の伝道者たち、草の根の教会、草の根の信徒たちには最も愛され、受け入れられている宣教師でした。彼らは言うのです。「彼は別にたいした働きはできないよ。でも、彼は俺たちのことを大切にしてくれるし、俺たちの行き方ややり方を理解し、受け入れてくれる。そして、俺たちに助けが必要なときには、いつでも最善を尽くしてくれることは間違いない。」

 彼が同僚の宣教師たちと一緒にいるのをあまり見たことはありません。いつも現地の人々と遊んでいるか、食べているか、仕事をしているか、とにかく現地の人々の間に溶け込んでいるのです。それは家族を持っていた私がどんなに頑張っても不可能なことでした。彼が説教したり教えたりしているところを見たことはありません。その代わり、都会の過ごしやすい環境の生活を後ろにして、発電機と映写機とクリスチャン・フイルムを持って、田舎の教会を巡り歩き、励まし続けていたのです。当時、私が宣教師として活動していた山岳奥地に、たとえひと時、たとえ一部にでも、自分の働きとして入り込んだ宣教師は彼だけと言えるでしょう。重い発電機と映写機を現地の人々に背負わせ、自らもフイルムを担いで、私が、聖書さえ重すぎて、置いて行きたいと思った山道を辿ったのです。

 彼は自分が指導者になろうとか、自分のプロジェクトを推進しようとか言うような考えは、毛先ほども持ったことがないようでした。あくまでも現地の教会、現地の伝道者の励みになり、力になり、助けになれればそれで良いと考えているかのようでした。見るところ、彼個人としては、アメリカ人的個人主義をしっかりと持っている人物でしたが、その個人主義をフィリピンに押し付けようとはしていませんでした。アメリカの教会のやり方や、アメリカのプログラムを移入しようともしていませんでした。フィリピン人にも手が届く、身の丈大の働きを目標にして、後押しをしていただけのようでした。私は、そのような彼から、あくまでも主に仕えていく宣教師の姿を学び取ったのです。

4.公平に考えた宣教師

 私は日本人です。かなり日本人らしくないところもありますが、日本人です。海外に行くとだれでも経験することですが、自分が日本人であることをつくづく思い知らされます。感じ方、考え方、判断のしかた、物事の運び方、何から何まで、やはり日本人なのです。フィリピンというかつてのアメリカの植民地に働いた宣教師として、私は非常に多くのアメリカ人宣教師とお付き合いをすることになりましたが、彼らから受けた影響というものを無視することはできません。そのひとつが、公平に考えるということです。

 フィリピンに留学して3年目、私は当初入学した学校の必要単位をほとんど取ってしまい、余った時間をもうひとつの神学校での学びに向けていました。そこで受けた授業のひとつが「伝道論」という科目でした。担当教授はP先生で、アメリカの南バプテスト神学校で教えておられたのですが、この授業のために特別に来てくださっていたのです。彼はビリー・グラハムの協力者で、日本の伝道に関しての学びが専門ということで、いろいろ興味深いお話をしてくださったのですが、日本人である私からすると、日本人や、その日本人を日本人たらしめる日本文化に対する理解が、決定的に欠けていると感じて、どうしても違和感を禁じえませんでした。

 何としても日程の都合がつかないとかで、この先生は授業を終えると試験問題だけを残して、先に、帰国してしまわれたのですが、その試験というのが、彼の3冊の著書のうち1冊を選び、授業で習った事柄を用いて批評するというものでした。私は彼の日本伝道に関する著書を取り上げ、それを酷評しました。そのころ私はすでに、早く宣教師になるためにこの神学校での学びを中止しようと考えていましたので、試験の点数はどうでも良いという気持ちになっていたからできたことです。「まあ、しっかりと読み、がっちりと批評しておいたので、たとえ意見は違い、怒らせたとしても、及第点はもらえるだろうと踏んではいたのです。

 しばらくして、点数が送り返されてきました。私の点数はAプラス。間違いではないかと思うくらい驚きました。あれほど酷評し、「机上の空論」とまで書いた批判的な文章に、著者自身がAプラスをつけてくださったのです。私は、この教授の人間性の深さというか高さというか、とにかく、大きさに降参したのです。たとえ自分と異なった意見を持ち、自分のやろうとしていることに反対したとしても、そこにしっかりとした考えと意見を持った上でそうするのならば、それを正当に評価して、個人的な感情や差別を持ち込まないという彼の姿勢は、それからの私の模範になりました。

 私たちの教区に来ていたアメリカ人宣教師が、教区の働きの妨げになり続けたために、教区の指導者たちは、宣教師会に対して、この宣教師を別の場所に移してのしいという申し入れをすることになりました。ただ、フィリピン人が直接それを言うと角が立つというわけで、日本からの宣教師という中立的立場で、私にその役をやってほしいという要請がありました。あまりうれしい役ではありませんが、教区の立場もよくわかった私は、要請を受け入れ、宣教師会議長にお会いして教区の申し入れをお伝えしたのです。当然といえば当然ですが、宣教師会議長は、私が、その宣教師に対して個人的な悪感情を持っているのではないかと、疑ったようでした。かなり厳しいあからさまなやり取りがありました。教区長に電話を入れ、私が間違いなく教区の要請を受けて彼を訪ねてきていることを確認した後、彼はやっと穏やかに話し始めることができました。

 それから、彼は非常に注意深く私の話を聴くようになりました。私の話に曖昧な点があると、それを厳しく指摘し、説明を求めました。その態度は冷静な中立者というところです。おかげで私も、個人的な感情を抜きにして、事実を明確に述べることができたといえます。わたしは、「流石に宣教師会議長をやるだけのことはある人物だ」と感心したものです。そしてこの人物とは、その後も多くの場所で会い、多くの話し合いを持ちましたが、おかしな感情のもつれはまったくありませんでした。常に公平に話し合いを進めることができたのです。アメリカ人の若い教職を、日本の宣教師訓練生の女性と結婚させ、改めて日本からの宣教師として派遣するという、海外伝道部が採った前代未聞の方法も、すでに、アジア太平洋地域の長になっていたこの人物との信頼関係があったために、非常に円滑に可能となったものです。これらの宣教師から、私は、感情に左右されずに公平に判断し、公正な決断をするという大切なことを学んだのです。

5.自分の分を果たした宣教師

 その宣教師は、専門的には大変難しい名前があるのだそうですが、とにかく、上手に発音ができずに、ゆっくりしか話せないという障害を持っていました。はやとちりの私が、初めて彼に会ったとき、「少し知能の遅れた人に違いない」と考え、そのような人が、どうして宣教師になっているのかと、不思議に思ったものです。後で、彼と一緒に働くようになった人に聞いてみると、頭の回転も速いほうではないということでしたが、そんな彼が、フィリピンの南端のミンダナオ島で、非常に良い働きをしているという噂を、何回も耳にしたものです。宣教師としてよい働きをするのは、有能ですべての面において健康な人間である必要はないのです。

 彼は田舎町に、普通の宣教師ならば決して住まないような家、つまり、質素な木造で、ハエや蚊はおろか、ゴキブリやヤモリ、雀から蝙蝠、蛙から蛇、さらに近所の人々や協力伝道者たちまでが出入り自由の家を借りて住み、地方伝道に情熱を傾けていました。彼は、自分で伝道のプログラムを作ったり、大きな仕事の計画を立て上げたりすることはなかったということですが、いつも現地の協力伝道者の考えやプランを聞きだした、それに協力する形をとりながら、そっと、企画立案に参与していたらしいのです。らしいのですというのは、彼は南の端、私は北の山の上で働いていたために、互いに相手の働きを実際の目で見たことはなかったためです。私の情報は、その大部分が、当時フィリピン・アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の総理をしながら、あちらこちらと巡回していたH先生に聞いたものです。

 その総理が感心して言いました。「彼は非常に良くやる。協力伝道者たちも彼を高く買っている。彼の一番良いところは、自分の働きをしないで、あくまでも現地の人々の働きをすることだ。しいて言えば、彼が発電機を持って歩かず、普通の伝道者でも手に入れられる石油ランプを持って歩けば、それはもう、最高なんだけれど、そこまでは要求できないな。発電機以外は、現地の伝道者が自分たちだけでできる働きなんだ。宣教師の働きは、現地の伝道者に出来ないことをするのもひとつだが、現地の伝道者に出来る働きの模範を示すことが、もっと大切なはずだ。」

 フィリピンのようなカトリック土壌では、都会で華々しい働きをし、成功者と認められ、立派な指導者として崇められる宣教師はたくさんいます。しかし、地方において名もなく活動する宣教師も必要なのです。この宣教師に与えられた能力は、多くの有能な宣教師たちに比べると、小さなものだったかもしれません。しかしはっきり言えることは、彼が自分に与えられた能力をしっかりと用い、自分の役割、自分の分を責任を持って果たしていたということです。

 ともすれば宣教師同士競い合い、争い合う世界にいながら、自分の分をわきまえ、不平を言わず、不満も語らず、賞賛を受けても高ぶらず、軽視されても腐らず、主のみ前に生きるこの宣教師の行き方は、私の鏡となりました。日本人のように、少なくても表面上は謙遜の美徳を現して、あからさまに誇ったり、自分の功績を高々とかかげるようなことはしない文化ではなく、互いに褒めあい、賞賛し合い、表彰し合い、功績を称え合う文化、大切なことをやるより、人に認められることをやるほうを選ぶという文化に生まれながら、それを求めないというのは、並大抵のことではありません。

6.身分の低い人たちと交わった宣教師

 M先生は私の母校である神学校の校長をしておられました。アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の中でも有数の学者であり、超教派的にも良く知られた方で、私のようなドサ周りの宣教師とは、まさしく格の違う方でした。ところがこの先生は、学校を訪ねる私の姿を見かけると、いつもオフィスの中に招き入れてコーヒーをご馳走してくださいました。図に乗った私は、しばしば神学的な問題や牧会的な問題を持ち出しては、ご意見を伺い、ずいぶん学ばせてもらったものです。

 当時の私は、この神学校では煙たがられていました。アジア化を叫びながらいささかアジア離れをしていたこの学校に、私が厳しい批判を繰り返していたのを、多くの教授たちが聞いていたからです。特に、バギオ教会の牧会を心配していた私は、日曜日になるとこの学校からやってくる大勢の学生たちや、教授たちに少なからぬ不満を抱いていました。何の予告もなしにやってきては、大声で異言を語ったり預言をしたりするのはまだ何とか我慢ができたとしても、わがまま顔に、説教をさせて欲しいだの、何か奉仕をさせて欲しいと言い出したり、若い教会の至らないところを指摘して、不要に信徒たちを戸惑わせたりするのには、堪忍袋の緒が擦り切れそうになっていました。そこで私は学校に申し入れたのです。「日曜日にバギオ教会に出席することは歓迎しますが、いつでも好きなときにやってきて、好きなことを言って、やりたいことをするのは止めにしてください。もし、この教会に出席するならば、指導者にふさわしく、責任のある参加をしてください。すなわち、他の信徒と同じように、毎週忠実に出席し、その上で責任ある奉仕をしてもらいたいのです。また、異言も預言も適切に控えてもらいたいと思います。教会の会員である信徒がそのような賜物を用いるようになることを期待して、一生懸命に牧会しているところに、それぞれの国の将来の指導者にもなろうという非常に優秀な神学生たちや、彼らを教えるさらに偉大な博士たちがやってきて、そのようなことをしたのでは、ほとんどの者が靴ではなくゴム草履でやってくる、中には裸足のままの者もいるといった具合の、信徒たちが萎縮して伸びる信仰も伸びなくなってしまうからです。」この申し入れを受けた神学校側は痛く傷ついて、バギオ教会には来るのを控え、自分たちの出席できる礼拝会を新たに作ったと聞いています。

 とにかく、あまり歓迎されなくなっていた私を、M先生はいつも笑顔で招き入れてくださいました。そればかりか、私の山岳奥地の働きに興味をもって、わざわざ・・・・相当なお歳にも拘わらず、少なくても山岳奥地の入り口の教会まで、出かけて来たりしてくださったのです。学位というものに縁のない伝道者は、どうしても学位のある伝道者に対して卑屈になってしまいがちですが、アメリカ型の教育システムに慣らされ、学位というものを異常に重んじるフィリピン人にとっては、なおさらのことです。その心の壁とでも言うべきものをご存知の上かどうか、とにかく、先生はそのようなものを無視して、低い者たちとの交わりを大切にしてくださっていたのです。

 この神学校の初代の校長であったK先生とも、ちょっとしたきっかけで親しくなることができました。先生は鋭い分析能力をもった辛辣な評論家であり、非常に高い管理能力で知られ、また大変忙しい人でした。しかし彼は、フィリピンを訪れるとわざわざバギオまで足を伸ばし、私のところにまでも来てくださるようになっていました。会うたびに、私たちは激しい論争をしたものです。それは神学をはじめ、いろいろな方面に及びました。私たちに共通だったのは、激しく論じ合い、そこから互いに良いものを引き出し合い、それに学ぶという姿勢だったように思います。

 たとえば先生が、「これからすぐに東京へ行き、中央聖書神学校でカウンセリングの特別講義をすることになっている」とおっしゃったとき、私は、「日本ではアメリカ流のカウンセリングはあまり役に立ちませんよ」と、挑戦したものです。「日本人はアメリカ人をはじめとする多くの国の人々と違って、なかなか自分のことを話さない人々です。アメリカのカウンセリングは『話す』ということを前提に成り立っています。話さない人を前にして、カウンセリングは何をすることが出来るのでしょう?」「私は長い間アジアにいて、あまり自分のことを話さない人たちとも生活をしてきた。その辺は充分に心得ている。」「日本人の『話さない度合い』を他のアジア人と同等にお考えになっているのでしたら、それはまったくの間違いです。日本人は話して解決の糸口を探すカウンセリングより、『黙って座ればピタリとあたる』占いや八卦の方を好むんですよ。」

 結局、先生は次の週に中央聖書神学校でお教えになったのですが、「ササキとの議論を大いに参考にしたよ」ということでした。また、その特別講義に座った同僚の先生方にお尋ねすると、とても素晴らしい授業だったとのことでした。「私たちは共に、ときには、あえて本来の自分の意見でないことを、自分の意見として論じ合うことさえしたものです。彼の議論には容赦がありませんでした。私も遠慮をする必要がありませんでした。ただ、彼はそのようにしながら私を認めていることを伝え、私に自信を持たせて下さろうとしていたのだと思います。彼もまた、自分より低いものを大切にし、積極的に交わりを持ち、育てようとしていたのです。最後にK先生にお会いしたとき、先生はおっしゃいました。「ブラザー・ササキ、私はもう充分に年をとってしまった。私の時代は終わった。これからは君たちの時代だよ。しっかりやってくれたまえ。」そのとき私は決意をしました。「自分には、先生の博学を受け継ぐことも、多くの人々が認める管理能力を引き継ぐこともできない。しかし、自分より低いと思われる人々を大切にし、その人たちと積極的に交わっていく態度だけは、必ず継承して行こう。」

7.何にもできない宣教師

 30数年も前、当時、沖縄で開拓伝道をしていた私たちのところを、しばしば訪ねてくださる、M先生という女性の宣教師がいました。ちょうど私の母親と同じ年齢の寡婦で、宣教師とは言っても、アメリカ軍人を対象にした教会の秘書として来ていた人で、秘書としての能力はあったのでしょうが、聖書や神学の訓練はまったく受けていない、信徒上がりの方でした。私がちょうどまた彼女の長男と同い年とかで、私たちと一緒に田舎の開拓伝道に出かけることを、何よりの楽しみとしていたようですが、子供たちと遊ぶ以外は教えることも説教することもできない人でした。

 しかし彼女は、あまり訪ねてきてくれる人もいない僻地の伝道を続けていた私たち、特に妻にとっては大きな慰めと励ましになっていたのです。彼女が訪ねてきてくれるだけで、私たちは一人ではない、忘れられてはいないのだと感じ、勇気をもらったのです。彼女はアメリカ人の女性には珍しく、はにかみ屋さんで、自分が表に出て何かするということは本当に苦手だったらしく、いつも、私たちの考えに同調し、どこにでも着いてきては、目立たないように、なにかと手助けをしようとしてくださったようです。

 彼女は、その後しばらくして、東京へ行き、教団の本部の近くに住み、宣教師会の事務をなさっていたようですが、数年後、彼女が帰国するときには、

 中央聖書神学校の学生たちが、彼女のためにお別れ会を開いたという噂を耳にしました。そのようなことをしてもらった宣教師は、後にも先にも彼女だけだったのではないでしょうか。たぶん、例の調子で学生たちを可愛がり、なにかにと面倒を見ていたのでしょう。そのつつましい態度が、学生たちの共感を呼んだに違いありません。

  彼女は、自分自身で大きなことを達成したり、立派なことをやり遂げたりしたわけではありません。しかし彼女は、潜在能力を持ちながら充分に力を発揮できないでいる者や、将来性のある者を励まし支援することによって、教会が大きな働きを成し遂げるための、影の力になっていたのだと思います。私は彼女の姿に、いわゆる第二バイオリンの働きを喜んでこなす、謙遜な生き方を見ました。そして思ったものです。「自分も何もできない宣教師で終わって良い。第二バイオリン弾きとしての自分を自覚し、第二バイオリンを弾くことを喜びとして生きて行こう。」

8.正しいことをするのを恐れない宣教師 

  ずいぶん前のことになりますが、当時フィリピンの山岳地で働いていた私のもとに、わずかの期間ではありましたが、一人の宣教師訓練生が預けられました。すでに結婚をしていて2人の子供もあったのですが、先輩のM宣教師をたよって働きを始めようとしていたため、そのM宣教師から私に託されたのです。

 彼はM宣教師の働きを尊敬していましたので、彼から推薦を受けた私の働きにも非常に興味を持ち、実際の働き場にまでついてきたものです。ただし、アメリカとは言え電気も水道もないとんでもない田舎で育ったというこの青年も、フィリピン山岳奥地の生活ぶりにはとても着いていくことができず、散々苦労を重ねたものです。私たちは車の中で、そして山歩きの途中で、そして南京虫のガサゴソうごめく木製のベッドの上で、伝道につき、宣教につき、教会につき、ずいぶんと話し合ったものです。

 彼はその後10数年にわたって、私たちの隣の小さな教区で宣教師活動をしていましたが、1990年、カンボジアへの働きの道が開かれたとき、最初の二組の宣教師としてそこに赴き、まさに土台作りの働きに当たることになりました。私たちは、彼らがとても良い働きをしているという噂を聞き、喜んでいたものですが、私たちも日本に帰国することとなり、開拓伝道に従事すると同時に海外伝道部員として任命され、さらには部長を仰せつかることになりました。そして、日本からもカンボジアに宣教師を派遣しようと考えたとき、まず現地の事情を知るために、あの宣教師と連絡をとろうとしたのですが、どうしたことか何としても彼の所在がわからないのです。他の親しい宣教師たちに尋ねても、芳しい返事がなく、「はなはだ腑に落ちないこと」と首をひねっていたものです。

 そうこうしているうちに突然彼のほうから連絡があり、再びカンボジアに戻ったということでした。話によると、彼は、カンボジアに宣教に関する理念で上司と折り合えず、アメリカに帰国させられていたというのです。ただ、「最近になってその上司が役を離れたために」、再び赴任したということでした。日本人宣教師の可能性についての私からの問い合わせについて、彼は、その話自体は素晴らしく大歓迎だが、まず、インドシナ半島の責任者と話を通して欲しいと言ってきましたので、紹介されたメール・アドレスに打診してみました。するとこの責任者からは、「日本からの宣教師は、原則として大賛成ですが、ひとつの条件があります。それは、たとえどこの国からの宣教師であっても、カンボジアではひとつのアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の宣教師として働くということです。もしこの条件を受け入れられないとするならば、私たちはさらに話し合いを続けなければなりません」、という趣旨の返事が来たものです。そこで私は、それはかねがね私が主張してきた原則と同じであり、まったく問題はありません」と連絡をしたものです。

 するとまた、責任者からメールが入りました。「知らぬこととは言え、まことに申し訳ありませんでした。カンボジアの宣教師にあなたのことを尋ねたところ、あなたが彼の指導をした人で、ひとつの国にひとつのアッセンブリー教団という理念も、もともとあなたから出たものであることを知りました。喜んで、日本アッセンブリー教団からの宣教師と一緒に、カンボジアの宣教のために働きたいと思います。」

 宣教師と現地の教会との関係は難しいもので、あるところではまったく宣教師が現地教会を牛耳っています。あるところでは、反対に、現地教会が宣教師に絶対の権力を持って命令しています。さらに他のところでは、平和的共存のために、宣教師の団体と現地教会とが二つの異なった法人格を取得して、良く言えばそれぞれ独自に、悪く言えばそれぞれ勝手に活動しています。当時、アメリカの宣教師の上層部では、さまざまな理由から、それぞれの国において独立した法人格を取得し、現地の教会あるいは教団の承認や同意を得られなくても、自分たちの働きを推進できるようにしようと考えて、いくつかの国ではかなりの摩擦を起こしていたのです。確かに、宣教師の立場から考えると、そのようにしたくなるような実情もそこここにあったのでしょう。しかしこれは、現地の教会にとっては屈辱的なものであり、現地主義という宣教の原則に反するものであり、何よりも本来の教会の姿を歪曲するものであると言わなければなりません。積極的に推進すべきものではなく、できるだけ避けるべきものです。

 カンボジアにおいては、世界で最初の試みとして、あらゆる国からの宣教師がひとつの教会として働きを進めるために、ひとつの教団組織をもって協力していくという原則を、貫き通そうとしていたのです。このような宣教理念、あるいは教会論的な発想を持って、単なる効率論、あるいは便宜上の議論から出てくる、「宣教師会の法人化」に反対する宣教師はたくさんいます。しかし、愚かなことではあったかも知れませんが、間違っていると考えることには、勇気を出して身を挺してまで反対し、正しいことを貫き通そうとしたこの宣教師の態度は、私の模範となったのです。

9.失敗を宝とする宣教師

 1994年、私たちがフィリピンから帰国し佐世保の開拓伝道に励んでいたころ、近くにあるアメリカの海軍基地で働く軍人たちのために、一組のアメリカ人宣教師が派遣されて来ました。ご主人はすでに57歳で、初めて宣教師となるにはとうの昔に「旬」を過ぎていました。奥さんは確か、さらにふたつくらい年上だったはずです。ですから、当然、日本語は話せず、日本食も食べられず、「しょうもない宣教師」の部類に入るべき人たちでした。ところが、彼らは、少なくても私が出会ったアメリカ人の中で最も素晴らしい人たちであり、宣教師としても最も尊敬できる方たちとなったのです。

 彼らはまず、アメリカの軍人たちやその家族、あるいは軍属のために来たのであって、日本人への働きのために来たのではありません。しかし彼らは、「自分たちを含めて、いま日本に来ているという事実の背後には、単に政府によって遣わされたとか、組織の上部から派遣されたという以上のことがあるのだ。自分たちは、神によって遣わされたのだという理解と自覚を持って、この場所で証人としての使命を果たすのだ」と語り、日本人への働きにも積極的に加わろうとしました。そして、彼らはアメリカ人たちに非常に愛されただけではなく、米軍基地内でもとかく蔑視されがちなアジア、アフリカ、ラテン・アメリカ系の人々にも、深く慕われるようになりました。そしてまた、すべての日本人クリスチャンにも敬愛され、感謝されるようにさえなって行ったのです。私は、彼らほど幅広くの人々から信頼を勝ち得た宣教師を知りません。

 彼は55歳になるまでは、大型トレイラーの運転手として働いていた、一信徒に過ぎませんでした。奥さんも、来日直前まである大会社の秘書を務めていたという、一信徒でした。本格的な聖書や神学の学びをしていませんので、その説教は、聖書の引用こそ驚くほど多かったのですが、きわめて原則的なことを語るだけでした。教えも、日曜学校の延長に過ぎなかったのです。しかし、彼らのいた6年間、この米人を中心にした会衆はとても活発で、人数もどんどん増加し、日本人の出入りも多かったのです。

 彼らが、このように幅の広い人々に受け入れられ、尊敬されるようになった理由は、彼らの優しさというか、思いやり、あるいは弱い者や小さい者、痛んでいる者や行き詰まっている者に対する、同情にあふれた態度にあったと思うのです。その態度は、あらゆる人間的な差別の壁を打ち破ったものでした。たとえば、海外伝道部の仕事でしばしば開拓伝道途上の小さな教会を後に、遠くに出かけなければならなかった私のために、いつも、頼まれなくても進んで働いてくださいました。車を運転できない家内のために、わざわざ30分もかけて迎えに来て、途中で信徒たちの家に立ち寄って彼らを車に乗せ、1時間かけて家庭聖書勉強会に連れて行ってくださることなど、「いつものこと」でした。「大変でしょうから」と断っても、「自分に時間がある限り」と駆けつけて下さったのです。しかも、日本語も出来ず通訳もいない中では、これという奉仕もままならず、彼らは単なる傍観者として座るだけでした。ときには、デユエットで一曲歌うくらいの参加がきる、それだけことで満足していたのです。しかしそのような態度は、一言の日本語も話せず、日本食をまったく食べられない彼らのハンディキャップを、補って充分に余りのあるものでした。

 彼らのこのような態度はどこから生まれてきたのでしょう。それは、単なる聖書の学び、宣教学的理解の適用、あるいは牧会学的配慮をはるかに超えるものでした。実は、彼ら夫婦には、それぞれ大きな挫折の過去があり、その失敗が、彼らをそのように育てたのではないかと思うのです。

 ご主人は、17歳のときまでは非常に素晴らしいクリスチャン青年でした。ところが、そこから脱落し、転落して行ったのです。ふしだらに堕落したまま結婚し、何人もの子供を得てから離婚をし、子供たちを一人も満足に育て上げることができませんでした。そして、40を過ぎてからやっと本心に立ち返って悔い改め、主の下に帰って来たというのです。それから、素晴らしい女性にめぐり合って再婚し、日曜学校で教え、定年で退職してからは献身して主に仕えたいと願いましたが、アッセンブリー教団では離婚と再婚をした者が宣教師になることはおろか、教職にさえなれないために、彼は、正式の宣教師としてではなく、正式の宣教師の下で奉仕をする信徒宣教師として、自費で日本に来ていたのです。

 奥さんのほうも、挫折を味わっていました。幼い頃から宣教師になるという幻を持っていながら、自分の優柔不断さのために、それを実現することができずに、社会的には立派な職業に就き、教会でも献身的に良い奉仕をする信徒として過ごしていましたが、

 心のうちでは、主に従いきれなかったという痛恨の思いを抱いて、40を過ぎるまで独身で生きてきたのです。やがてご主人が、信徒宣教師として日本に行く可能性について祈り始めたとき、彼女は改めて悔い改めの祈りをして、遅ればせながら、ご主人と共に宣教師として献身することを決意したのです。

 彼らは、人間の弱さや不甲斐無さを自分自身の人生で体験し、自分たちが曲がりなりにも宣教師になることが出来たのは、ただただ主の哀れみと寛容によるものだと理解していました。ですから、弱っている者、痛んでいる者に心から同情し、彼らが何とかして立ち直ることができるようにと、忍耐深く励まし、待ち続けることができたのでしょう。自分たちの言葉に「寛容」という単語がないためか、アメリカ人には寛容という御霊の実を身につけている人は少ないのですが、彼らは共に、その少ない部類に入る人たちでした。彼らには、自分がどれほどの者であるとか、これだけのことをしてきた人間だなどという誇りは、微塵もありませんでした。ですから、彼らは主の御用とあれば、どんなに小さな働きであろうと、目立たない働きであろうと、補佐的な働きであろうと、さげすまれるような働きであろうと、誠実に、喜びをもって行っていくことが出来たのでしょう。

 そのように考えると、彼らの痛恨の経験、失敗の体験は、いまや非常に大切な宝となっているのです。彼らふたりにとって宝となっただけではなく、犠牲ではなく哀れみをお求めになるキリストの代理としての教会、キリストのみ体である教会の、なくてはならない宝となっているのです。崇高なピューリタン精神と、メソジストの厳格さとホーリネスのきよめの流れを汲む私たちの教会には失われがちな包容力を、彼らの存在によって保つことが出来ていたのです。私は、取るに足らないような人々のためにも、黙々として仕える彼らの姿に、失敗を宝とする大切さを学んだのです。
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