Missiology

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使徒の働きに見る福音の進展


 宣教論を理解するためには、必ず使徒の働きを学ばなければなりません。著者は、明らかに宣教論的視野と意図を持って、この書を記しているのみならず、聖書自体が宣教の書とはいえ、宣教論的意図を持って書かれている書は他にないからです。

A.地理的・人種的進展

 使徒の働きには、地理的な進展と人種的な進展が明白に記されています。

1.エルサレムとユダヤ・純粋なユダヤ人集団 

 教会は、ペンテコステの日にエルサレムで誕生しましたが、ある意味で、教会は誕生以前から存在していました。胚芽としての教会、すなわち弟子たちの集団でした。この弟子たちの集団の圧倒的多数は純粋なユダヤ人であり[1]、しかも、イスラエル出身のヘブル語を日常語とするユダヤ人が中心でした。この集団が聖霊の降臨と同時に、聖霊の宮としての教会となり、宣教の使命を託された共同体となったのです。

 教会として誕生した共同体は、すぐさま、かなり多くの人々を仲間に取り込んで行きますが、その内の相当多数の者が、デイアスポラとよばれる諸外国に住んでいたユダヤ人たちでした。彼らはユダヤ人でありながら、イスラエルに住んでいたユダヤ人とは異なり、当時のローマ帝国の一般共通語であるギリシヤ語と、それぞれが住んでいた土地の言葉を語り、さらに母国語であるヘブル語をも理解し、かなりの国際感覚を備えた人々でした。愛国的ではありましたが、外国の文化や習慣に対しても適応して、理解と寛容をもって生活し、イスラエルに生まれ育ったユダヤ人が持っていた、狭い国粋主義に捕らわれないところがありました。純粋なイスラエル出身のユダヤ人グループを胚芽として始まった教会は、国際感覚をそねたデイアスポラのユダヤ人が大勢集まる、ペンテコステの日に誕生することになり、やがての普遍的教会への大変身の準備をしていたのです。

2.サマリヤとエチオピア・混血人への進展

 8章にはいると、福音はユダヤ人と外国人との混血人へと進展します。サマリヤはアッシリア人との混血で、その由来は旧約聖書に記されている通りですが、当時の純粋なユダヤ人から見ると、ユダヤ人と認めたくないユダヤ人だったことがはっきりしています。[2] 特に彼らが、エルサレム以外での、すなわち神殿以外の神礼拝を認めていることについては、我慢がならないことでした。本来、ユダヤ人とユダヤ教は一つであり、ユダヤ教とエルサレムの神殿礼拝は一つだったからです。

 そのサマリヤ人に福音を伝えると言う仕事は、血筋こそ生粋でも文化においては生粋ではない、デイアスポラのユダヤ人、ピリポによって始められました。血筋も文化も生粋のユダヤ人には、サマリヤへ赴くことは容易ではなかったのでしょう。たとえ、キリストがサマリヤへ行って福音をお語りになったという先例があったとしても、まだまだ民族的優越感を振りかざしていた彼らが行ったのでは、福音が福音として語られなかった可能性さえあります。しかし、デイアスポラのピリポには、異文化の人々、異なった民族に対する蔑視が少なかったために、隔てなく福音を語ることが出来たのでしょう。

 この同じピリポは、続いて、聖霊に導かれてガサの荒野へ赴き、エチオピア人の宦官に福音を伝えます。この宦官は黒人ではありましたが、先にも触れたように、シバの女王によるソロモンの子孫だった可能性が非常に高く、ユダヤ教徒として、あるいは少なくても、神を敬う人と呼ばれる種類の人物として、エルサレムの神殿に参拝しての帰途でした。[3] ピリポは彼が黒人であったことに頓着しなかったようです。当時黒人ということでの差別はなかったのかも知れません。[4] しかし、一般のユダヤ人ならば、睾丸を失った者に対しては、当然、宗教的差別意識を持っていたはずですが、ピリポの態度にはまったくそれが見られません。もし彼が、ユダヤ人とは認められていない、単なる神を敬う人であったとするなら、最初の異邦人クリスチャンは、この後に出てくるコルネリオではなく、彼であったことになります。[5] ただ、この宦官はそのままエチオピアに帰国してしまい、ピリポも他の弟子たちが滞在していたエルサレムには行かなかったために、「異邦人の改心」の噂は、弟子たちの間に広まらないままになった可能性があります。

3.イスラエル内の異邦人

 10章に至り、コルネリオというローマの駐留軍の百人隊長の改心がおこります。しかし、多分ローマ人であったこの異邦人の回心のために、神は、慎重な準備を整えなければなりませんでした。この準備なくしては、コルネリオに福音を語ることは不可能であり、また、コルネリオの回心後も、教会に大混乱が起こったであろうことは、まず、間違いないからです。

 神の周到な準備は、血筋においても文化においても生粋なユダヤ人であったペテロの、誤った、人種・民族に関する先入観と誇りを取り除くことでした。神は、様々な汚れた動物を屠って食べるように、くり返してペテロにお迫りなることによって、いまや、異邦人も受け入れられるべきときであることをペテロに示唆する一方、コルネリオの方にも働きかけられ、ペテロを探し出して連れて来るように指示なさいました。生粋なユダヤ人が異邦人に福音を語ることは、そのような神の準備と命令がなければ不可能なことだったのであり、教会側の思い付きや熱心で行われたのではありませんでした。

 また神は、このカイザリヤという町での働きを、エチオピア人への伝道を終えてカイザリヤへ向かったピリポにお任せにならず、わざわざペテロに任せたと言うことでも、周到に手を回しておられたことがわかります。この働きは、是非とも、弟子たちの中の最長老と自他ともに認めていた、ペテロにやってもらわなければならなかったのです。もし、これが、ピリポのような12弟子でもない弟子によって行われたとすると、教会全体の反発は、ペテロの場合より一段と強かったと、容易に想像がつきます。たとえ聖霊がそのようにお導きになったのだと説明しても、それぞれの体験としてペテロが説明するのと、ピリポが説明するのとではまったく異なります。11章で、「割礼を受けた者たち」が無割礼の者にたいする反感を横に置いて、「神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ」と納得することが出来たのは、まさに、最も尊敬されていたペテロが自分の体験として、生粋のユダヤ人としての自分の名誉を賭けて説明したからです。このように、異邦人への福音の進展は、完全に神の先導で始められました。

 しかし一方、コルネリオは異邦人ではあったけれど、神を敬う異邦人でした。割礼を受けて正式なユダヤ人にはなっていなかったけれども、心ではユダヤ人の神を神としてあがめ、律法にも忠実に生きていました。ユダヤ人にとっては、ユダヤ人イコールユダヤ教徒であり、ユダヤ教徒でありながらユダヤ人でないということはあり得ず、その逆もなかったのです。ですから、コルネリオは心では立派なユダヤ教徒でありながら、ユダヤ教徒であり得ず、あくまでも異邦人であったわけです。しかし、そのような人間の世界では中途半端で、まだ救いの範疇には入れられていなかった彼も、神には、すでにしっかりと受け入れられていたのです。すなわち、伝道という面から見ると、コルネリオの回心は、ペテロの訪問とは拘わりなく、別のところで行われていたのです。コルネリオの物語は回心の物語ではなく、福音の異邦人への進展を、教会が事実として受け入れるための、神の努力の物語なのです。神が教会を説得しているのです。

4.イスラエルを越えて・異邦人社会へ

 聖霊の降臨があった後も、教会は、「全世界に出て行ってすべての造られた者に福音を宣べ伝えよ」というキリストの命令を充分理解しませんでした。教会は、イスラエル国内に留まり続け、主に同族のユダヤ人に福音を伝えるだけで満足し、異邦人に働きかけるなどと言うことは、神に強制された例外的な事にすぎませんでした。そのような状況を変え、教会にイスラエル国境を越えさせ、異邦人に福音をもたらすようにさせたのが、迫害という外からの圧力でした。教会は、聖霊による励ましと押し出しという内部の要因だけでは、まだ、外に向かって出て行くほどには成長していなかったのです。

 エルサレムを中心に起こった迫害のために、信徒たちの多くが、特に、もともとデイアスポラとして外国に住んでいた信徒たちの大部分は、イスラエルを後にして、自分たちの土地に帰郷しなければならなくなりました。彼らはその途上、行くところ行くところで、また、自分たちの土地についてからは周囲の者たちに、証をし続けました。彼らの証のほとんどは、同族のユダヤ人たちに対して行われていたのですが、中にはユダヤ人という枠を越えて、一般にギリシヤ人と呼ばれた異邦人にまで、語りかける者が出てきました。そのようなことをした信徒は、やはり異邦人の中で生まれ育ち、異邦人に対する偏見と反感を、あまり持ち合わせていなかった者たちでした。主はそのような証を祝福し、大勢の人々が信じて主に立ちかえるようにしてくださったのです。こうして、シリヤのアンテオケに、エルサレム教会に次ぐ第二の教会が誕生しました。この教会は普通異邦人の教会と呼ばれますが、実情は、ユダヤ人を中心にして、かなりの数の異邦人が混入していたものと考えるのが妥当でしょう。

5.アジア・ヨーロッパの異邦人世界 

 13章からは、異邦人への使徒、パウロを中心とした宣教の記録になります。パウロはデイアスポラとして、異邦人に対する偏見の少ない人間として育ちながら、徹底したユダヤ人のエリート教育を受けるという、稀な環境で人間形成をした人物です。また、彼の才能を発見し、先輩として世話をしながら使徒たちに彼を紹介し、最初の宣教旅行へは彼を伴って、主用人物として旅だったバルナバもまた、キプロスという異邦人社会で育ったレビ族のユダヤ人で、当時の大祭司などと親戚関係にあった、エリートでした。

 パウロとバルナバは、当時の異邦人社会で伝道するには、理想的な資質を備えていたのです。彼らが訪れた世界は、異邦人の国家でありながら、主要都市においては必ずと言って良いほどユダヤ教の会堂があり、宗教行事がとりおこなわれると同時に市民組織としての機能も果たしていました。パウロとバルナバは、他の土地から訪ねて来たユダヤ人には、会堂で話す機会が与えられるという習慣を利用して、ユダヤ人エリ−トとしての教養を背景に、神の国の福音を存分に語ることが出来たのです。そしてまた、改宗者や神を敬う人々は言うまでもなく、偶像礼拝者である異邦人たちとも、彼らの文化的背景と心情を理解する者として、有意義な会話を交わし、福音を語ることも出来ました。

 もし、神がお遣わしになった福音の使者が、イスラエル出身の、文化的にも生粋のユダヤ人だったとするならば、異邦人社会の習慣にある程度順応していた、会堂のあり方に厳しい批判の目を向け、異邦人に対しては人種的文化的優越感を持って、福音を語るどころか、偶像礼拝者となじって対決して行ったのではないでしょうか。パウロもバルナバも、また、その後の旅行の同伴者も、みな、生粋のユダヤ人信徒ではありませんでした。唯一の例外は、バルナバの甥に当るジョン・マルコでした。彼は、最初の伝道旅行を途中で放棄し、パウロとバルナバを残して帰ってしまいます。一般にこの事は、金持ちで、甘やかされて育った若者マルコが、伝道旅行の厳しさに絶えられなくなって逃げ出したかのように言われていますが、多分、真相はまったく別のところにあったと思われます。

 マルコは、当時の大祭司とも親族関係にあった貴族であり、金持ちでした。ペンテコステの日に120人の弟子たちが集っていた屋上の間のある家は、彼の母が所有していたのではないかと言われています。当然イスラエルの首都エルサレムの出身で、方言しか話せなかったキリストの弟子たちの多くとは違って、きれいなヘブル語を話すことが出来る数少ない弟子の一人でした。彼はしばしば「若者」と紹介され、パウロよりずっと若かったように言われていますが、実際はパウロと同世代であっただけではなく、キリストの福音に関してはパウロよりずっと先輩にあたりました。地上にあったキリストを知らなかったパウロに比べ、キリストと親しく行動を共にし、キリストの教えと訓戒を直接自分の耳で聞いていた、バリバリの弟子、エリート弟子だったのです。途中で逃げ出したとは言え、キリストの裁判の場所にもついて行こうとした、数少ない弟子の一人でした。随分あとになってから、自分の叔父であるバルナバの根回しによって、やっと弟子たちの仲間に入れてもらった、いわく付きの新参者、本人の口によれば、「月足らずで生まれたような」パウロとは、おのずと違うのだという自負もあったはずです。また彼は、サドカイ派に属する高度な教育を受けていたと考えられ、パリサイ派の高度な教育を受けていたパウロとは、色々な面でそりの合わないことがあったはずです。

 個人的な先輩感情や、サドカイ派とパリサイ派の違いはともかく、マルコにとって赦せなかったのは、旅行に出かけてからまもなく、伝道旅行の主導権が、自分の尊敬する叔父のバルナバからパウロに移ってしまったことです。(13:13) さらに赦せないのは、パウロが語る福音でした。パウロが語る福音を注意深く考察すると、イスラエルの優越性と特権、エルサレムにある神殿の必要性が否定されるものであることに、血筋においても文化においても生粋のユダヤ人であったマルコは、いち早く気付いたはずです。神殿礼拝の必要性を否定することになるパウロの説く福音は、神殿を守る祭司の家系に属し大祭司を親戚に持つマルコには、特に許すことが出来ない大問題でした。そして、デイアスポラである叔父バルナバは、生粋のヘブル人であるマルコほど、パウロの語る福音に危機感を抱いていないのにも、我慢がならなかったはずです。こうして、ユダヤ主義者マルコは異邦人伝道に付いて行けず、引き返してしまったのです。異邦人伝道は、離散したユダヤ人、デイアスポラによって推進されたのです。このように考えると、パウロが第二宣教旅行への出発にあたって、マルコを同伴することにあれほど激しく反対した理由がわかります。途中で投げ出すような、「やわ」な青二才のマルコを嫌ったのではなく、ユダヤ主義の残滓をまだ抱えていたマルコを、割礼問題で大揺れに揺れたばかりの、ガラテヤ地方の教会に連れて行くのは、益にならないと判断したからです。

 パウロは3回の宣教旅行によって、ヨーロッパにまで足を運び、さらにはローマにまで至ります。そして、主要な都市に次々と教会を建てて行きました。ある教会はユダヤ人会堂によって福音の準備が出来ていたために、比較的容易に建てあげられました。他の教会は、ユダヤ人の影響がほとんどない異邦人社会、異教世界だったため、神の概念や罪の概念などという、極めて基本的な教えから始めなければならなかった上に、低い倫理観や風俗習慣の問題なども絡み、かなりの時間と労力を必要としましたが、ともかく、異邦人世界において、数多くの教会が誕生したのです。

 しかし、異邦人社会に教会が建てられたのは、パウロの働きにだけによるものではありません。本当のところは、名もない信徒たちが、自分たちの行く先々で証をし、福音を語り、建て上げて行った教会の方が、はるかに多かったと思われます。宣教に果たしたパウロの貢献は、その実際伝道の実よりも、普遍的福音と普遍的教会の理解を徹底させ定着させたところにあったのです。

B.教会形態の発展

 使徒の働きには、教会の形態について興味深い発展の跡が記されています。ここに記されている様々な教会のあり方は、あくまでも教会がそのような形で存在したというだけで、今日の教会もそのような形態を取るべきだということにはなりませんが、教会は、そのような形でも存在し得るのだということは、言えるでしょう。

 使徒時代の教会を理想的教会として語り、それをモデルとして教会造りに励む人たちがたくさんいますが、それは正しくありません。使徒時代の教会は、確かにいろいろな面で優れた教会でしたが、欠点も弱点もある教会だったのです。ただ、神の御心の中にある本来の教会が、当時のグレコローマン文化とそれぞれの土地の事情の中で、柔軟性をもって、姿を現したと言うことが出来ます。当時の教会は、あくまでも当時の実情に適応した教会であり、現在の私たちの実情に合うか合わないかは別問題なのです。

1.エルサレムの教会 

 エルサレムの教会は、誕生時点で120人の会員を持つ、特殊な教会でした。また、同じ日のうちに3千人が加えられる大成長を遂げています。その他にも、キリストの弟子で、ペンテコステの日には屋上の間にいなかった多くの者たちという予備軍もいました。たちまちの内に、教会の人数は成人の男子だけで5千人を超え、さらに成長し続けました。当時のエルサレムの人口が、3万人から多くて5万人であったことを考えると、大変な数です。成人男子5千人という数は人口にすると優に2万人を越すと考えられます。尤も、教会が誕生したときはちょうど五旬節の祭りの時期であり、国内外から多くの参拝者が訪れ、エルサレムの人口は2〜3倍に膨れ上がっていたと想像出来、そのことから、回心者の大部分は成人男子であったということも考えられますが、それにしても大変な数です。

 これほど多くの信徒たちは、一体いつどこに集まり、クリスチャンとしての礼拝と交わりを保ち、教育を受けていたのでしょう。また、どのような管理と指導体制があったのでしょう。

a.活動の場所と時

 当時のエルサレムには、これほどの人数の人間が一度に集まり、独自の宗教活動をすることが出来るような場所はありませんでした。今日の多くの教会のような、一堂に集まっての公同の礼拝会は、物理的に不可能だっただけでなく、治安上も不可能だったのです。イスラエルは、当時のローマ帝国の中でも最も不穏で、常に反乱の危険性を内蔵していた地方でした。その首都で、それほど多く人間が定期的に集まることは、統治者側からすると認めることが出来ないものだったはずです。従って、当時の信徒たちは、主に家々で集まり、それぞれの交わりを行い、礼拝は神殿で行っていたと考えられます。当時の教会は、神学的にも幼く、まだまだ神殿での礼拝を当然のように考えていたことが窺い知れます。さらに、エルサレムは城壁に囲まれた狭い町ですから、多くの人を収容することが出来る民家も限られていました。したがって、周辺の町、例えばベタニヤなどでの集まりも考えられます。

 そのころのユダヤ教では、会堂での活動が欠かせないものになっていましたが、狭いエルサレムでは会堂としての建物を建てることが困難でしたから、少しでも大き目の家は、週2回、土曜日と水曜日は会堂として用いられていたと想定出来ます。[6]

 初期の信徒たちはみな敬虔なユダヤ教として、それぞれ会堂での活動をしていました。彼らはキリストの弟子となって「この道の者」と呼ばれるようになっても、それまでの会堂での活動をすぐさま止めたわけではなかったようです。そうする必要性がなかったからです。彼らの中には、多分、会堂として使用されていた大きな家の持ち主だった者もいたことでしょう。会堂の中で「長老」と呼ばれる有力者だった者もいたことでしょう。そのような信徒たちはすぐに、ナザレのイエスを救い主と仰ぐ信仰者の新しい交わりのために、自分たちの家を解放したり、有力者の力を発揮して、会堂として用いられていた家を、自分たちの新しい交わりのために用いることが出来るように、調停したりしたことでしょう。

 ただし、彼らの主な集まりは会堂の活動と重なることを避けて、土曜日と水曜日以外に行われたと思われます。聖書の記述などから考察すると、土曜日の安息日があけた日曜日が、最もふさわしい日だったに違いありません。安息日の土曜日は行動が厳しく制限されており、それぞれの会堂での活動だけで、目いっぱいだったわけですが、安息日が明けた日曜日の夜、すなわち、現在の私たちの土曜日の夜になると、行動も自由で、一番、都合が良かったわけです。[7] それで、どうやら教会は誕生のすぐ後から、日曜日を活動日として来たと考えられます。しかし、日曜日の日中は普通の労働の日ですから、当初は信徒の活動には利用されなかったと考えるべきです。日曜日の日中がクリスチャンの活動日となったのは、数世紀を経て、太陽の神に対する敬信から、日曜日がローマ帝国の休日と定められた後のことだったというのが、妥当な理解でしょう。

 しかし、それにしてもエルサレムでの信徒の数はあまりにも多すぎ、よほど柔軟な臨機応変のやり方でなければ、到底、統制の取れた一つの教会として存在することは出来ませんでした。彼らは、日曜日以外でも、また、会堂に供されていた家だけではなく、いついかなる場所でも、可能性があれば、おおいに利用して行ったことでしょう。初期の信徒たちはみな、忠実なユダヤ教徒として会堂での義務を果たした上で、自由な意志で、定まった儀式や形式を持たずに「この道の者」としての活動をしていたために、非常に柔軟性に富んでいたのです。

b.管理体制

 柔軟性は、管理体制においても言えることです。現在の牧師や伝道者のような「聖職者」は存在しませんでしたし、資格というようなものも定まっていませんでしたから、誰がどの仕事をしてはならないというような制限も、常識で考えられる最小限度に押さえられていたことでしょう。指導者たちの頭目は当然ペテロでした。しかし、彼は絶対権力を行使した指導者ではなく、他の12弟子からなる最高指導者の一団を、まとめる役を負っていたにだけにすぎなかったと、考えるべきでしょう。

 信徒の数は、たちまちの内に数万人に増えたと考えられるのですから、教育と指導とまとめる役を、12人の弟子たちで行うのは不可能です。毎日、昼夜を問わず、どこかで信徒の集まりが行われていたと思われます。そこで考えられるのは、聖霊のバプテスマを受けた120人、あるいはキリストと3年ほど行動を共にした生え抜きの弟子たちが、集団で、何百もあったであろう家庭集会などの指導に当ったと言うことです。

 さらに、教会があたかも新しい会堂の一派のような形になって、在来の会堂から分離するようになって来たとき、力を現して来たのは、以前から会堂で中心となって指導して来た、長老たちであったろうと考えられます。このような人々が、12使徒たちの指導と管理を受けながら、四六時中活動していたのでしょう。

 この事には、注目すべき点が幾つかあります。まず選ばれた人たちが、どうやらすべて差別されていると感じていた側の、ギリシヤ語を話す人たちであったことです。差別などという微妙な問題は、しばしば、差別している側に差別をしているという自覚がなく、差別されている側にはひどい被害者意識があるものです。被害者側から見なければ見えない無意識の犯罪が、時として、意識されて行われる犯罪よりも、たちが悪いのです。この事では、そのあたりの人間の感情や弱さというものが、良く理解された対策がたてられたと言えます。

 またこのような人選は、少数の者たちの好みによるのではなく、「全員」の参加によって行われています。かなり、民主的な人選です。ただし、この事を例に取って、教会役員の選出は教会員全員の直接選挙によるべきだと主張する、会衆派の人たちの議論には誤りがあります。なぜなら、ここで「全員と」(新改訳)、「一同」(新共同訳)、「会衆一同」(口語訳)などと訳されている言葉には、「一人残らず全員」という意味がないからです。実際、数万人いた当時の信徒全員が一人残らず7人の選出に加わったなどと考えるのは、物理的にも不可能でしたし、当時のイスラエルの人々に、現代のような個人の尊重を土台とする民主主義は、まだ芽生えていなかったのですから、むしろ、当時存在していた会衆の大部分の代表者たちが参加する、極めて広範囲で公平な選出が行われたと理解すべきでしょう。

 さらに注目しなければならないのは、まず使徒たちが「御霊と知恵に満ちた、評判の良い人」と、選ばれるべき者たちの資質を定め、さらに7人と限定し、その上、役割までも設定していることです。現代の民主主義とは程遠いものです。使徒たちの間には、すべての信徒が主の前に平等であるという意識がなかったとは思いませんが、すべての信徒が同じ責任と権利を有していると考えていたと、想像させるものはありません。むしろ信徒の成長に応じた役割、責任、権利の行使というものを考える、現実主義者であったようです。また、使徒たちがこのように指導した背後には、教会がまだ胎児であった頃の事で、12使徒の欠員を補う必要が生じたとき、ペテロがその選出方法を提案したように、再びペテロの提案があったのかも知れません。マッテヤを選んだ方法も、多分かなり民主的だったと想像出来ますが、二人まで絞り込んだ後は決戦投票をせず、くじ引きという手段を選んでいます。これは自分たちの文化に従い、その後にしこりを残さない、たいへん知恵に満ちた方法だといわざるを得ません。教会が誕生前から分裂の気運を持っていたのでは、どうしようもありません。

 ともあれ、教会は、配給物を公平に分配するという役割を受け持つ、「執事」の一団を設立したことによって、最初の組織化を行いました。とはいえ、この役割が厳密に彼らだけに負わされた役割ではなかったようですし、また、それからまもなく、エルサレム教会は迫害のために散らされて行ったわけですから、いつまでも続いた組織でもありませんでした。また、選ばれた側も、福祉活動だけに専念していたのではなく、伝道活動にも非常に熱心だったことは、7章におけるステパノ、および、8章におけるピリポの活躍を読むと明らかです。

 エルサレム教会の管理体制で、見逃してはならないものに、主の兄弟ヤコブの、指導者としての突然の登場があります。エルサレム教会の霊的な指導、また外部にたいする伝道の指導は、かなり長い間ペテロのもとにあったと考えられますが、教会としての管理指導は、使徒ヤコブが殺され、ペテロも殺されかかった12章の事の頃、すでに主の兄弟ヤコブの責任となっていたように読み取れます。ここにも、初代教会の柔軟性が現れています。キリスト在世当時はキリストを信じようとはしなかった兄弟ヤコブが、僅か10数年で、エルサレム教会一番の実力者として、みんなに認められるようになっているのです。自分たちの中で誰が一番偉いかと、何回も争った弟子たちの面影はもうありません。

 ペテロの霊的指導者としての地位は揺るがないものであったにせよ、ヤコブの管理者としての地位も、相当強いものであったと考えられます。この当時の教会はまだエルサレム教会だけであり、イスラエル全土に広がっていたであろう信徒たちの群れは、各地で会堂のような活動を続けていたと考えられますが、ヤコブはそれらの群れすべてに、かなりの影響力を持っていたのでしょう。[8]  

2.初代教会の政治形態

 エルサレム教会の姿を学ぶうちに、指導者たちについても触れてきました。初期の教会には12人の使徒がいて、そのなかでペテロが一目置かれる存在だったようです。それから、教会内の福祉の働きに携わる7人が選ばれ、さらにしばらくたつと、使徒たち以外の「ユダヤにいる兄弟たち」(11:1)や、「長老たち」(11:30)といわれる指導者たちが登場してきます。15章になると、長老たちの役割がかなり明確になっていたようで、「使徒たちや長老たち」という表現が用いられるほど大切なものとなっています。(15:2,6、23)。

 誕生間もない教会は、使徒たちの合議によってものごとが運ばれていたと考えられます。ペテロはこれらの使徒たちの中にあって、スポークスマン的な役割、あるいは議長的な役割を果たしていたと考えるのが妥当でしょう。福祉活動のために選ばれた7人の役割すぐに中断し、その復活はかなり後のことになるようですが、長老という働きはユダヤ人の会堂の働きを教会の中に取り入れたもので、その後、時を経るごとにその役割の重要性は増して行きます。ユダヤ教の会堂の長老は、教え、管理、指導など、会堂運営の全般に責任を持つもので、会堂の形態を取り入れた教会の中でも、当然そのような働きをするようになって行きました。この長老の役割が確実に制度化して行く中で、主の兄弟ヤコブが、ちょうど使徒たちの中にあってペテロが果たしたように、長老たちの間でも特別に責任ある役割を担っていたのでしょう。このようにして、教会には、自然発生的ではありますが、ある種の政治形態が芽生えて行きます。だれかが理念を持って教えたのでも、強制したのでもなく、その場その場の状況に適した形が、選ばれて行ったと考えるのが自然です。

 初期の教会において、使徒たちの働きと責任の分野と、長老たちのそれの間に軋轢がなかったのが不思議なくらいですが、一つは、それぞれが御霊に満たされていたということと、もう、彼らの働きと責任の分野が異なっていたということが理由として考えられます。使徒たちは一つの場所に留まらず、巡回を主にして宣教と群れの設立に力を注ぎ、長老たちは、個々の会衆の管理と教育指導に努力をしたのでしょう。

 このように見てくると、初代の教会の政治形態は、集団指導型に近いものだったといえるでしょう。全信徒が政治に参加する、教会内民主主義の会衆政治は、少なくても聖書の中に見ることは出来ません。個々の会衆の中においても、会堂においては複数の長老というのが一般的でしたから、初期の会衆の中でも同じ形態が取られたことでしょう。

 しばらく後になって、パウロが自分で開拓した教会に対して取った指導者のとしての態度は、個々の群れの長老たちの上に立つ権威者でした。ここに、後の時代の監督政治に繋がる要素がないとは言えませんが、パウロが行使したのは監督としての権威ではなく、神に立てられた使徒としての権威でした。ペテロがパウロのような群れの上に立つ権威を主張したことはありません。しかしパウロとて、自分の関わらない群れにたいして権威を主張したことはなく、自分が開拓した教会に対してさえ、最終的には使徒と長老たちとの合同会議に委ねています。エルサレム会議は(15章)パウロのそのような態度から生まれています。

 もしパウロが、教会の一致などと言うことを真剣に考えていない、現代の多くの個人主義的宣教師のようであったなら、自分の開拓した教会内で起こっている問題について、他の弟子たちと協議をするために、わざわざエルサレムまで出かけていくことはなかったことでしょう。この運動に加入したのは確かに遅れてはいましたが、彼には甦りの主と出会ったという絶対の体験がありました。福音の直接啓示も含めて、他の弟子たちにはない、霊的経験もしています。教育と言う面ではほかの弟子たちが束になってもかないません。その上、異邦人伝道は、キリストからの直接の派遣であり、エルサレム教会の承認を得てその下で働いていたのではありません。そしてすでに、おおいに成功して、実績がありました。さらにはローマの市民権という、当時の世界で活動するためには最高の特権さえも持っていました。彼は、エルサレム教会のユダヤ主義者たちを無視して、働きを推し進めて行くことが出来たはずです。文句を言われたら、彼はエルサレム教会とは袂を別ち、パウロ独自の教会を始めて行くことも出来たはずです。しかしパウロは、兄弟たちとの協議を選択したのです。

 このようにして見ると、初代の教会の政治形態は、現在の私たちが用いる言葉で表現すると、長老形態というのが最も近いところでしょう。誕生時のエルサレム教会においても、さらに発展して多くの地域教会が出来て来た場合も、あるいは多くの地域教会の個々の政治の場合も、長老形態に近かったと言えます。それは、カトリック主義の監督政治からは程遠く、近代個人主義を土台とする民主主義を教会に持ち込んだ、会衆政治とも関係のないものでした。

 一方、新約聖書には、「監督」という教会の役割が記されていて、これが後の時代に至ってのカトリック教会の監督政治に発達し、現代のさまざまな監督政治形態を取る教会の、ある種のよりどころとなっているのは良く知られていますが、使徒の働きにおいては、この言葉はただ一度用いられているだけです。パウロのこの言葉の用法を調べて見ると、「長老」という言葉と互換性のある言葉として用いられており、「長老」と同じ役割である事がすぐにわかります。「長老」というのはユダヤ的な表現で、どちらかというと年を経た経験のある人物を重んじるという、地域社会の人間関係重視の言葉ですが、「監督」はギリシヤ的な、役割、機能を重視した表現です。したがって、長老と監督という異なった役割があったのではなく、同じ一つの役割が、あるときは長老と呼ばれ、他のときには監督と呼ばれていたと理解するのが妥当です。使徒の働きに用いられている唯一のケースである、20:28を良く見ると、この監督と呼ばれる役割を担った人々は、一つの教会(エペソ)に複数存在した事がわかります。そして、彼らに託された働きが、群れを牧することであった、すなわち、現在で言う牧師に近いものであったこともわかります。

3.教会の意味

 教会の形態を考えるとき、使徒の働きに記されている「教会」と言う言葉の定義義が、現代の教会の定義とだいぶ異なっている点に、気をつけなければなりません現在、私たちが教会というと、普通、地方教会と普遍教会に分けて考えます。しかし、使徒の働きを始め、新約聖書に記されている教会は、そのような二つの分け方で説明出来るようなものではありません。

 すでに述べたように、エルサレム教会は一つの会衆ではありませんでした。多分、何百という集会があり、ユダヤ人の会堂を模した会衆があり、それらを有機的に一つの交わりとする組織があり、たくさんの指導者があった事でしょう。エルサレム教会とはそのような教会であり、現代の私たちが慣れ親しんでいる、一つの教会堂、一人の牧師、一つの礼拝会というものではなかったのです。

 また、教会がエルサレムの城壁を越え、イスラエル全国に広まった時点でも、まだ、一つの地方教会として認識されていたのではないかと思われます。9:31に記述されている、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地に築き上げられた教会は、単数形の教会であり、たくさんの教会が築き上げられたのではなく、一つの教会が築き上げられたのです。おそらく何十、あるいは何百という集会が方々にあり、それらの集会を組織化した「この道の人」たちの新しい会堂も、かなりたくさんあったに違いありません。しかし、教会としては、一つと認識されていたわけです。

 エルサレム教会以外の教会が、個別の教会と認められるのは、教会が異邦人の地に進出し、そこに弟子たちの交わりが出来あがった時です。(11:26) パウロが宣教旅行で建て上げた教会の多くは、当時のユダヤ人の会堂を模したものであること以外は、あまり良くわかりませんが、エペソ教会だけは大きな都市にたくさんの群れを持った教会であり、多分、周辺都市に娘教会とも言える会衆を建て上げつつあったと理解出来ます。(20:28) このような多くの会衆を有機的に一つと見て、エペソ教会と呼んでいたのです。同様のことは、コリントやローマといったほかの大都市でも充分に考えられる事です。(ロマ16:4,5、Iコリ14:23)

 つまり当時の教会は、地方教会と普遍教会という区分で理解されるようなものではなく、少なくても、家の教会などと呼ばれて地方教会を形成していた多くの教会、あるいは教会とまで認識されていなかったであろう、小さな会衆や集会がたくさん存在した事が明白です。教会全体の大きな交わり、家の教会あるいは会衆という中くらいの交わり、そしてそれより小さな交わりが、近代アメリカ型の年齢別・性別による区分ではなく、地域別、職業別、あるいは血縁や親族関係による区別のような形で、存在していたのでしょう。現代の私たちが慣れ親しんだ教会の形に比べると、それは非常に適応性豊かな形であり、大きな地方社会のあらゆる階層の人々にも、浸透する事が出来る形であったと言えます。このような形を取るに至った理由はたくさんあったことでしょうが、当時のローマではキリスト教が非公認宗教であり、迫害の対象であり、教会堂という不動産を所有する事が出来なかったという理由も、かなりの比重を占めていることでしょう。当時の教会は、教会堂のない教会だったのです。

C.福音理解の発展 

 使徒の働きの中には、福音の理解の発展も記されています。

1.国家主義的理解

 使徒の働き1章の時点で弟子たちが理解していた福音は、現代の私たちが理解している福音とは相当異なっていました。彼らはまだまったくのユダヤ人であり、ユダヤ的な神の国の待望、すなわち、イスラエルという国家の復興を福音と理解していました。(1:6) それに対して、主は、イスラエル国家の復興とは関わりのない、「地のはてまでのキリストの証人」という主題を提示なさっていますが、この時点では、弟子たちにそれを理解した様子がまったくありません。

 この、神の国の到来とイスラエル国家の復興を結び付ける思想は、初期のエルサレム教会の共通認識であったと考えられます。ただ、目に見える地上国家の復興という、極めて政治的要因を含んだ神の国の思想が、ペンテコステの日のペテロの説教を契機に少しずつ薄れて、政治的な要因のない、目に見えない神の国、国家主義的要因の少ない、霊的な神の国に移行して行っているように読み取れます。実際、3章のペテロの説教には、単なるイスラエルの回復という思想を越えたものがあります。(3:20〜21) とはいえ、もしこの時点で、誰かが「あなたたちが待ち望んでいる神の国とは、どのようなものですかと」と質問したならば、「キリストを王とした、イスラエル国家の再興です」という答えが、返って来たに違いありません。

 このような基本的理解をもとにしながらも、彼らは純粋なユダヤ人ではないサマリヤ人の回心を認め、自分たちの仲間として受け容れる柔軟性を持っていました。キリストを信じるときの「共通体験」が、執拗なまでの熱心さで長年にわたって保持し続けた、彼らの狭い国家主義さえも和らげていたと考えると、キリストを信じる信仰が、個人に及ぼしたインパクトの強烈さ、鮮烈さに改めて驚かされます。そのキリストを信じる共通体験の鮮烈さは、やがて、コルネリオという異邦人、すなわち、イスラエル国家の復興という思想を共有しない人間さえも、受け容れて行くようになります。ローマの軍人であったコルネリオは、イスラエルの神を信じる敬虔な人物ではありましたが、正式にユダヤ教徒となってはいなかっただけでなく、国粋的なユダヤ教の神の国思想と相容れない、宗主国の軍隊に属する人物でした。こうしてみると、当時の信徒たちに取っては、キリストを信じる共通体験、そしてそれが目に見える形で現されたペンテコステ体験は、まさに割礼に代わる神の認証と受け取られるほどのものだったのでしょう。とは言え、コルネリオの回心は、あくまでも例外的な事として受け入れられていたと考えられます。弟子たちの集団が、この時点で、ユダヤ国家主義を捨てたのではないからです。

2.国家主義に反する思想の芽生え

 弟子たちの集団の大部分がまだまだユダヤ国家主義に捕らわれていたとき、福音を、そのような国家主義を超えるものとして理解し始めた者、あるいはむしろ、理解し始める入り口に立っていた二人の人物がいました。それは伝道者ピリポと最初の殉教者ステパノで、共にイスラエルの枠を越えた国際感覚を持つデイアスポラでした。

 伝道者ピリポの場合は、思想的な理解というよりはむしろ、異邦人世界で育ったという経験から来る、感覚的なものではなかったかと考えられます。彼は、サマリヤに赴いて福音を語り、さらには、エチオピアの宦官に福音を語ります。彼がそのようにしたとき、ペテロのように、神からの幻とみ声によって、ユダヤ主義を緩和させられ、心の準備をさせられる必要はありませんでした。彼は、躊躇なく異邦人に福音を語り、宦官がペンテコステ的体験を共有していないにも拘わらず、洗礼を授けているのです。

 ステパノの場合は、もっと思想的、神学的な要因を含むものでした。ステパノの説教は、結局のところ、神殿の不要性を説いて終わっています。というより、神殿の不用性を説いて中断させられています。聞く者に、これ以上聞きたくないと怒らせたもの、これは国家反逆罪で死刑に当ると判断させたのは、彼の神殿不要論だったのです。神殿が不要だというのは、神殿があってこそ成り立っている祭司職をはじめとする貴族社会に対する挑戦であり、ローマの傀儡政権であった彼らを多いに憂慮させるものだけではなく、神殿を中心に成り立っていたユダヤ教を崩壊させる危険性を持ち、さらには、一般に信じられていたイスラエル国家の優位性をも否定する事にも繋がり、神の国の建立、すなわちイスラエル国家の再興の望みにも傷を付けるものでした。ステパノの説教が中断させられていますので、はたしてステパノが、どこまで福音の普遍性に気づいていたかは不明ですが、神殿が不要であるという主張は、そのまま福音の普遍性という大切な理解に繋がって行くものでした。しかし、この神殿不要論は、ステパノの独創性によるものではありませんでした。在世当時のキリストが、すでに、サマリヤの井戸のほとりにおいて、この上ないほど明確にお教えになっていることであり、大多数の弟子たちが、まだその教えを理解出来るところまで成長していなかっただけの事です。

 さらに、ステパノのことから始まった迫害で、エルサレムを離れたデイアスポラの信徒たちの中には、異邦人にも福音を語る者がいました。(11:19〜21)使徒の働きの記録では、彼らが一体どのような福音を語ったのか、明らかではありませんが、大変興味をそそられます。本来、ユダヤ人が信じた神の国の福音は、自国の復興の福音だったはずですから、それを異邦人にも福音として伝えるには、彼らの福音理解に、かなりの進展、あるいは変化があったと考えなければなりません。大勢の異邦人が信じたという結果から見て、差別意識に富んでいたユダヤ主義の福音はすでに影を潜め、相当普遍化された内容の福音となっていたと考えられます。そして、そのような理解を可能にしたのは、デイアスポラたちだったのです。また、異邦人が同じ信仰の仲間になったというニュースを、エルサレム教会の指導者たちが、この時点で、すでに受け容れる事が出来るようになっていたという事実にも、驚かされます。コルネリオの回心とそれに関わるペテロの体験が、エルサレム教会に、多数の異邦人の救いという事実を、認めさせる事に繋がって行ったのでしょう。そして、エルサレムの指導者たちが、この新たな異邦人信徒たちの指導のために遣わしたのが、デイアスポラの一人、バルナバでした。異邦人の回心という事を偏見なく理解出来る、素地を持っていたのはデイアスポラであり、最も肝要な心を持っていたのがバルナバだったのです。

3.パウロの出現と普遍的福音の理解

 一方、神は、このような福音の新たな理解、すなわち福音の普遍性の理解をさらに徹底させるために、非常に優秀なもう一つの器を選んでおられました。それがパウロです。

a.普遍的福音の理解の源

 パウロの福音理解は、彼自身の説明によると、神からの直接の啓示によるものですが、すべてを直接の啓示による理解と考える必要はありません。神はパウロに直接の啓示を与える前に、彼がその啓示を理解する事が出来るように、もっと普通の方法で、予めパウロに働きかけておられたと考えられます。

 パウロがデイアスポラであったという事実は、ここでも大変重要です。かりに彼が、純粋なユダヤ文化の中で育まれた者であったとするなら、たとえ神からの直接の啓示があったとしても、それを理解する事もまた受け入れる事も、かなり困難であったことでしょう。また、パウロはデアスポラでありながら、エルサレムにおいて、当時のパリサイ派エリート学徒として、最高の、徹底したユダヤ主義の教育を受けています。これが、彼の福音理解を単なる啓示の受け売りで終わらせず、深く旧約聖書の神学に根差したものとしたのです。

 さらに、彼が熱心な教会の迫害者となっていた事実も、この道の者たちに対する強い関心の度合いを示すものであり、ひいては、福音の理解に対する激しい欲求へと繋がるものでした。彼の人生にとって、ステパノの殉教とその説教の内容は、決してないがしろに出来ないものであったと考えるべきです。パウロは、ステパノの説教の中に、普遍的福音の芽生えを見て取っていたはずです。だからこそ、彼は血眼になって迫害を推し進めていたのです。さらにまた彼は、神からの直接啓示を受ける前に、サマリヤ人たちの集団回心、エチオピア人の回心、そしてコルネリオの回心についても、聞き及んでいた可能性もあります。

 しかしパウロの福音理解の準備を決定的にしたのは、ダマスコ途上でのキリストとの出会いと、その後に続くアナニヤとの会見でした。ここで彼は、彼自身の意思とはまったく関わりなく、異邦人への器として選ばれ、立てられている事を知ったのです。彼は嫌おうなしに、キリストと自分との関係、キリストとユダヤ人との関係、キリストと異邦人との関係、さらには自分と異邦人との関係、そして、ユダヤ人と異邦人との関係についてまでも、考えさせられたのです。彼が、異邦人に福音をもたらす器として選ばれたという一点からして、キリストに従うと言うことが、ユダヤ主義を超える事であることをはっきりと理解したはずです。このようにして、神は、パウロの中に充分な準備を整えさせた上で、福音の普遍性に関する直接の啓示をお与えになったのです。

b.普遍的福音の内容

 パウロが述べ伝えた福音は、至るところで大きな問題を巻き起こしました。福音に敵対する人々との軋轢と抗争もさることながら、ある意味でもっと熾烈だったのが、すでに福音を受け容れていたはずの人々との、福音理解に関する戦いでした。[9]

 パウロはユダヤ教の教えを深く理解した上で、キリストの福音が、ユダヤ教の民族主義を超える広がりを持ったものであることを理解していました。彼は、神が、ユダヤ人を通して、すべての民族に祝福を与えようとしておられることは認めましたが、すべての民族は、ユダヤ人にならなければ祝福されないとは、考えませんでした。彼は救いの条件はユダヤ人も異邦人も同じであり、キリストを信じる信仰によると理解し、そのように説教し、そのように指導したのです。

 ところがそのような説教によって信仰を持った若いガラテヤの教会に、エルサレム教会からユダヤ教の残滓を大切に持ち続けていた人物が訪れてきて、人が救われ神の国の祝福に入るには、キリストを信じる信仰だけでは不充分であり、ユダヤ人にならなければならないと論じたのです。すると、瞬く間に、多くの者がその教えに流され、異邦人に対し、ユダヤ人になる事を強制し、その印に、割礼を受けるようにと強要したのです。このようなことになったのには、それなりの理由がありました。

 ガラテヤ地方に建てられた教会の信徒たちの多くは、みな、異邦人の土地に生きていながら、幼い頃からユダヤ教の会堂で育った、ユダヤ人でした。ダビデの子孫から生まれる救い主の到来を待ちわびていた人々でした。ですから、彼らは、今の日本人などと比べると、まさに、いとも簡単に、イエスを待望の救い主と信じて、クリスチャンになることが出来たのです。パウロはそのようなユダヤ人の中から長老たちを任命しては、次の伝道地へ向かいました。

 長老に任命された人たちの多くは、かつて、その土地の会堂で長老や指導者だったに違いありません。彼らには、キリスト教と言う新しい宗教に入ると言う意識はなかったはずです。ただ、ナザレのイエスがダビデの子であるというニュースを信じ、同じように信じた人々の集まりである、「教会」と呼ばれる新種の会堂の管理と指導を任されたと、理解したはずです。ですから、わずかの時間で長老に任命されたと言っても、ことさら目新しいことをするわけではなく、困惑することもありませんでした。ただ、この教会と呼ばれる会堂には、イエスをキリストと信じるということ以外に、もう一つ特色がありました。それは、ユダヤ教の律法の厳守を、異邦人で福音を信じた者に要求しないということです。パウロは、ユダヤ主義を越えた普遍的福音の理念を実践して、異邦人には割礼を受けさせてから正式に会堂の一員にさせるという、ユダヤ人の律法と伝統には固執せず、同じ神を信じ、同じ救い主を信じると言うことだけで、正式な会員として受け容れたのです。

 このようなパウロのやり方に疑問を持ったり、不審に感じたりした者も少なくなかったことでしょう。事実、パウロの宣教は、一般のユダヤ人たちの間に強い反感を呼び起こし、激しい迫害を招いていたのです。それは彼が、ユダヤ主義を越える普遍的福音の宣教をしていたからです。パウロの異邦人宣教でのユダヤ人からの迫害は、エルサレム教会が受けた迫害とは、理由が異なっていたのです。とはいえ、彼の語る福音を信じたユダヤ人たちは、イエスという人物が待望の救い主であるという喜びのおとずれを重視するあまり、少なくてもはじめの内は、彼の語る福音の普遍的側面、ユダヤ教の中心部を破壊することになる要因を、軽くみなしていたのかも知れません。あるいは、パウロは短い期間の滞在で忙しく、割礼の問題を取り扱わなかったと、勝手に判断した者もいたかも知れません。割礼を受けさせるなどと言うことは当然の前提であり、たとえ、パウロ自身が割礼を授けなかったとしても、それは、後に残された長老たちの指導の責任だと、考えた者がいたかも知れません。

 想像はたくましく出来るのですが、ともあれ、エルサレムからユダヤ主義者たちが訪れて来ると、パウロが去った後のガラテヤの諸教会では、長老たちをはじめとして、大部分のユダヤ人信徒たちが、たちまち彼らの教えになびいて、異邦人の信徒たちに割礼を強要し始めたのです。なにしろ、パウロは使徒の中では月足らずで生まれた、一番小さな者だったのですから、エルサレムから来た先輩信徒たちの言うことの方が、重みを持って受け取られたわけです

 ともあれ、ユダヤ教の会堂で育った人々がキリストの福音を信じたならば、直ちにすばらしいクリスチャンになる事が出来ました。彼らは、聖書も神も良く知り、道徳的にも立派であり、会堂の組織、活動、礼拝などにも慣れ親しんでいたのです。パウロがやったように、わずかの期間に長老を選んでそこを立ち去る事も出来ました。しかし、彼らには彼ら独特の弱さがありました。それがユダヤ人の優越感であり、ユダヤ主義、割礼の問題だったのです。パウロはこのガラテヤ諸教会の問題を通して、信仰に入ったばかりの者を教会の指導者として任命した自分の誤りに気付き、弟子のテモテに、信仰の初心者を指導者に立てないようにと指導しています。(Iテモテ3:6) 

 本当のところ、ペテロやバルナバなども、福音がユダヤ主義の中に留まらないということに対する理解は持っていたはずですが、パウロほどの認識、あるいは問題意識を持っていませんでした。ですから、彼らはガラテヤ書でパウロが言うように、妥協的態度を取ってしまったのです。しかし、パウロは問題の本質をよく理解していました。まさに、キリストの福音が狭いユダヤ主義に捕らわれて、ユダヤの民族宗教の一派に終わってしまうか、全世界のすべての民族を対象とした国際宗教に発展するか、すなわち、キリストの福音が普遍的福音となり得るかどうかと言う瀬戸際だったのです。パウロはこの問題を割礼という面から論じ、律法と福音、行いと信仰という対比で論じていますが、実は、これは、ユダヤ人となるかならないかという、人種的文化的問題でもあったのです。ユダヤ人になると言うことと、ユダヤ教徒になると言うことは、まったく同じことだったという事実を頭に入れておかねばなりません。

 そういういきさつから、パウロはガラテヤ書を書き、さらに使徒の働き15章に記されている、エルサレムでの会議の召集を求めたのでしょう。幸い、この会議において、ペテロもヤコブもパウロとバルナバの主張を認め、割礼が不要であるばかりか、救いのためには他のどのような働きも不要であることを認め、共に参集した指導者たちを説得してくれました。大変大切な事は、この会議に集まった者たちは、この決定がただ単に人々の合議による決定ではなく、聖霊も共にこの決定のために働いてくださったという事実を認めている事です。聖霊はこの会議の話し合いだけではなく、生まれて間もない教会の歴史を通して働き続け、導き続けてくださったのです。



[1]聖書は純粋なユダヤ人以外の者がいたとは語っていませんが、いた可能性は否定出来ません。

[2]II列王17:24〜41

[3] 著者は、この宦官が果たしてユダヤ教徒になれたのかどうか疑っています。旧約聖書の律法から考えて、睾丸を失った者がユダヤ人になるのは、不可能ではなかったかと考えるからです。

[4]最初の異邦人教会で、指導者として認められていた人物の一人、ニゲルは黒人でした。

[5]異言を伴う聖霊の降臨が、使徒の時代の福音の民族的進展に関わって与えられたのであり、現在はあり得ないと説く反ペンテコステの立場の人々は、コルネリオを最初の異邦人改心者とみなしていますが、もし、この宦官が最初の異邦人ならば、彼らの主張は崩れてしまいます。

[6] <紀元70年の時点で、エルサレムにはおよそ400の会堂があったという記録があります。

[7] ユダヤのカレンダーでは、日没から日没までが1日であったため、当時の日曜日の夜は、現在の私たちの土曜日の夜となります。

[8]11:31の言及では、イスラエル中の教会はまだ単数形で表現されています。これは、当時、各地に広まっていた会衆も、あくまでも一つの地方教会と認識されていたとかんがえるべきでしょう。ガラテヤ1:12、2:12の言及によると、当時、ヤコブがエルサレム教会の指導者と目されていたことがわかります。これは、南ガラテヤ説を取ると、使徒の働きの11~12章からあまり離れていない時期です。

[9]ここからの議論は、南ガラテヤ説に立って進めて行きます。南ガラテヤ説は20世紀になってから有力になった説で、イギリスの歴史地理学者W.M.ラムゼーによって提唱されたものです。この説では、ガラテヤ人への手紙のあて先を、パウロが第一宣教旅行で開拓した諸教会であると考えます。そうするとガラテヤ人への手紙はパウロ書簡のうちで最も初期に書かれたものとなり、使徒の働きで言うとエルサレム会議の直前、第14章と15章のあいだ、紀元45年から47年頃に書かれたと言うことになります。この説が出るまでは、一般的に、現在北ガラテヤ説と呼ばれる考え方が受け入れられていました。それによると、ガラテヤ書の内容がローマ書の内容に類似しているところから、62年か63年頃に書かれたと推測されて、パウロは、第二宣教旅行の中でガラテヤ地方を訪れ、教会を建設したと考えられています。問題は、ガラテヤ地方がはたしてどの辺りかという点にありました。伝統的な説であった北ガラテヤ説では、これをかつてガラテヤ民族が住んでいたアジア中部の高地、現在で言うとトルコ西部の高地と考えました。しかし、ここにパウロが訪れたという記録がないことと、ガラテヤ書で論じられているような問題が、エルサレム会議後、紀元60年代になって起こったとは考えられないことが難点とされています。南ガラテヤ説は、ガラテヤ民族が住んでいた地域ではなく、ローマ帝国がガラテヤ地方と呼んだ地域であったと理解します。そうすると、パウロが第一宣教旅行で訪れ教会を設立した、現在のトルコ中南部の町々がこの中に含まれ、論じられている問題も、使徒の働きの歴史的記述と合致します。

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