Missiology

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教会の宣教


 教会とは、その名が示すように召された存在です。(教会の原語はエクレシアで、「呼び出された」という意味)悪魔の支配するこの世から召されて、神の支配、すなわち神の国に入れられ、神の国の市民になりました。しかし、神は教会をただちに完全な神の国に入れることを良しとしないで、キリストが完成された贖いのみ業を伝道という形で継続させるために、改めてこの世に送り返して下さいました。一人一人の人間としては、救われた後も、救われる前から住んでいた町に住み、同じ仕事場で働き、同じ食べ物を食べ、同じ人々と付き合って生きていたとしても、クリスチャンは皆、霊的な意味で、霊の世界の現実では、神の国から、王であるキリストの大使として使わされているのです。教会は神の国から遣わされた大使として、この悪魔の国で生きます。

A. 準備・装備

 神は、教会がその使命を遂行出来るように、装備をあたえてくださいました。教会を丸腰でこの世に派遣され、徒手空拳で悪魔と戦うようにと命令されたのではありません。神は、教会に二種類の装備を与えてくださいました。それは賜物と権威です。

1.賜物 

 宣教の使命を遂行出来るように、神が教会にお与えになる賜物の第一は人間です。人間こそが最大の賜物です。人間はみな、悪魔の支配の中で自分のすべての能力を用いて悪魔に仕えていました。しかしその人間が、キリストの血の代価によって買い取られて、神の国に属する者となりました。そしてこの人間は、ありのまま丸ごと、主のみ体である教会に聖霊によってバプタイズされ、教会の一部、主のみ体の一部となりました。この場合、バプタイズされた人間は、キリストのみ体の「役立たずの肢体」となるためにバプタイズされたのではなく、あくまでも機能する部分として、機能することを期待されてバプタイズされているのですから、バプタイズされた人間そのものが、教会に与えられた賜物なのです。生まれながらの能力や資質、性癖も、後から習得した能力も、引き継いだ遺産も、人間にまつわる一切のものが丸ごと買い取られ、潔められて、丸ごと賜物として教会に与えられたのです。Iコリント書とエペソ書において、パウロは、教会に与えられた賜物としての人間の、主だった役割、良く目立つ役割を列挙していますが、彼の論調は、むしろ目立たない者、小さな者の大切さを強調しています。

 さらに神は、教会に聖霊の超自然的な賜物をお与えになります。人間に付随する自然の能力や資質、あるいは学び取った学力や習得した技能も、キリストの血潮に買い取られて賜物として教会に与えられますが、それだけではなく、それらの能力や資質を超自然的に増し加え、さらには、まったく新しい超自然の霊的能力、たとえば奇跡を行う力だとか、癒しを行う力、悪霊を追い出す力をお与えになります。ただし、聖霊による超自然の賜物の理解は、少しの例外を除いては、教会の中で長い間忘れられていました。それは、啓蒙思想に単を発した合理主義の中で構築されたプロテスタント神学が、聖霊による超自然の働きを現在においても認める考え方を排斥してしまったためです。この超自然の賜物の神学を、理解においても実践においても回復し強調して来たのが、ペンテコステ運動であるといえるでしょう。

 賜物には多くの種類があり、すべてが直接福音伝道に関わるものとは限りません。むしろ、教会内の相互愛、あるいは教会の自己存続に関わるものが多いとさえ思われます。しかし、もし教会全体が福音伝道を存在目的として、これに取り組んでいれば、すべての賜物は宣教に関わるのです。したがって大切なのは、賜物が個人のクリスチャンに与えられたものではなく、教会という共同体に与えられたのだと言う事実をしっかり認識し、それぞれの個人は、その賜物の管理者だと考えるべきことです。

2.権威 

 教会に与えられた装備のもう一つは、権威です。教会の胚芽期、すなわち生まれる前の教会であった、福音書に記されている弟子たちも、キリストから権威を与えられて奇跡的な働きをしていました。しかし、甦られたキリストは、改めて、まさに生まれつつある教会に向かって、すべての国民を弟子とする事をお命じになったとき、ご自分が「一切の権威」を与えられたと言う事を宣言したうえで、命令しておられます。ここには、派遣される教会に権威が与えられたと言う記録こそありませんが、教会の派遣とキリストの権威が直接関係している事が明らかです。そして、パウロが教会を意味する言葉として使う「キリストの体」、「キリストの全権大使」あるいは「キリスト」などと言う表現は、教会にはキリストの権威が与えられている事を示唆しています。あるいは、厳しく解釈して、この権威はあくまでもキリストにのみ属する権威で、教会はそれをまったく委譲されていないと考えても、宣教する教会には常にキリストが伴っていてくださり、共に働いていてくださると言う事実を考察すると、実際問題としては大差がなくなります。(マタイ28:20,マルコ16:20、使徒3:1〜16) 事実、奇跡的な働きは聖霊の超自然的賜物よるだけではなく、キリストの権威による場合も多いことを理解すべきです。

 初代の教会の宣教を見ると、必ずしもしっかりした宣教理念を持っていたわけでも、整った宣教組織を築いていたわけでもないのですが、非常に力強くしかも効果的に行っています。それは初代の教会が聖霊の賜物を自由に活用し、キリストから付与された権威を自覚し、それを効果的に駆使していたからに他なりません。また、現代のペンテコステ諸教会が、彼らに付随するあらゆる不備と愚かさにも拘わらず、すべての教会の中で最も力強い宣教を継続し、もっとも目覚しい成長を遂げている理由も,そこにあると考えられます。[1]

3.力

 教会は、宣教の使命を遂行するために、賜物と権威という装備を与えられただけではなく、その装備を充分に活用することが出来るように、力を付与されています。(ルカ24:49、使徒1:8) 私たち伝統的ペンテコステ信仰に立つ者は、この力が父から約束されていたものであり、聖霊が臨まれるとき、すなわち、聖霊のバプテスマを受けるときに与えられるものであると信じています。またこの力は、それをいただくまでは出て行かずに、エルサレムに留まっているようにとキリストがお命じになったほど、福音宣教のためには非常に重要で、欠く事が出来ないものであると理解しています。

 確かに、ペンテコステを経験した後の弟子たちは、それまでの弱く、頼りなく、まったく不甲斐ない弟子たちとは打って変わって、本物の信仰の勇者になりました。弟子たちが勇者になったのは、ある人たちが言うように復活のキリストにお会いしたからではありません。復活のキリストが信仰の力になったのは事実ですが、実際は復活のキリストにお会いした後も、弟子たちは恐れて逃げ隠れしていたのです。それが、ペンテコステの日を境にまったく変わってしまったのです。私たちは、このペンテコステの日の経験が、現在の私たちにも当てはまるものであると考えています。それが、ペンテコステ信仰です。そしてこの信仰は、20世紀の世界宣教の最大勢力でした。また、21世紀の世界宣教の最大勢力であり続けるであろうと予測しています。

 では、この力とは具体的に何を意味しているのでしょう。「力」と訳されている言葉はダイナマイトや、ダイナモ(発電機)の語源となっていることは良く知られていますが、キリストがお語りになった力が、物理的な力であるはずがありません。むしろこれは宣教の原動力となるような、人間の心の奥底の力です。勇気、励み、忍耐、意欲、やる気、情熱などという言葉に関係のある力です。実際、ペンテコステ後の弟子たちの姿の特徴は、これらの言葉で表現されるにふさわしいものでした。賜物も権威も素晴らしいものです。しかしそれを用いる勇気、意欲、情熱が不足していては、宝の持ち腐れとなってしまいます。

 では、聖霊のバプテスマを体験していないクリスチャンは、賜物を持っていても、みな、宝の持ち腐れにしてしまうのでしょうか。少なくても、現在においてはそのように言うことは出来ません。聖霊のバプテスマを受けていなくても、生来の大胆さ、積極さ、情熱などを駆使して、賜物を効果的に活用しているクリスチャンがたくさんいます。それは、彼らが聖霊のバプテスマを経験していなくても、自分たちの内に聖霊を宿していることには変わりなく、その聖霊によって励まされているからです。

 キリストが、上から力を着せられるまでは都にとどまるようにお命じになったときは、まだ、聖霊がおいでになっていなかったときです。まだ、クリスチャンの内にお住みになっていなかったときです。本来、クリスチャンは聖霊の助けなしにはまったく無力な存在であるだけではなく、このときの弟子たちは、キリストの死と復活をまのあたりにして、まさに失望と混乱の中にいたのです。しかしペンテコステの日にいたって、聖霊は約束された通りに臨んでくださり、人々にバプテスマの経験を与えてくださると同時に、教会の中に、すなわち一人一人の内に住み始めてくださったのです。ですから、この聖霊は現在、たとえバプテスマという経験をしていないクリスチャンのうちにも、間違いなく住んでいてくださり、励まし、力づけ、賜物を用いさせていてくださるのです。

 では、聖霊のバプテスマを受けていなくても、聖霊に励まされ、賜物と権威を用いて宣教に励むことが出来る現在の私たちは、聖霊のバプテスマを必要としていないのでしょうか。私たちペンテコステの信仰に立つ者は、現在も、ペンテコステ経験が非常に重要であり、福音宣教のためには欠く事が出来ないものであると信じています。それはペンテコステの日の経験が、単に、聖霊の内住の始まりだけではなかったと考えるからです。

 一部のペンテコステ系の人々は、聖霊の内住が聖霊のバプテスマに先立つと言うことを強調するために、最初の聖霊の内住、すなわち教会の誕生をヨハネ20章22節にあったと主張しますが、私たちは、教会の誕生は、すなわち聖霊の内住はペンテコステの日に起こったと理解しています。[2] つまり、ペンテコステの日は聖霊の内住の開始であり、聖霊のバプテスマの最初の例であったと言うことです。

 ペンテコステ系の人々の感覚的な誤解は、聖霊のバプテスマを物品の贈り物のように考えている事です。つまり、力という「品物」を包装紙に包んで贈っていただく事のように考えている事です。しかし、聖霊のバプテスマは聖霊の内住と、基本的に同じ性質のものであると考えるならば、よりよく理解出来るでしょう。聖霊の内住とは、神との深い交わりです。人間を超絶し、その絶対の聖さのために、罪ある人間と交わる事は絶対に不可能であった神が、神の姿を捨て人の姿を取りインマヌエルとなることにより、人と共に住んでくださいました。そしてそのインマヌエルが人の罪のために贖いの犠牲となり、その血潮によって人の罪を洗い清めてくださる事により、人が、神に近づくことが出来るようにしてくださり、絶対に超絶した聖い神が、人の内に住んでくださることが出来るようにしてくださったのです。

 内住は、神と人の交わりの高嶺です。しかし、聖霊のバプテスマはその高嶺の中の頂点の一つです。それは交わりの中でも、特異な高さと深さと広さと内容を持った交わりです。そして、これはさらに継続すべき親密な交わりへの入り口でもあります。

 従来ペンテコステ系の人々は、聖霊のバプテスマを力の付与のためであると考えてきました。つまり、聖霊のバプテスマの目的は、宣教のための力を与えることであると理解して来たものです。ですから、現代のペンテコステ系の人々の多くは、聖霊のバプテスマには必ず異言が伴うと主張して、異言を強調して来たにも拘わらず、異言そのものにはあまり意義を見出せないでいるという、矛盾に陥っています。いま、伝統的なペンテコステ派の人々の多くは、異言を単に聖霊のバプテスマに付随する事柄に過ぎない、どちらかと言うと、あまり大切ではないものという取り扱いをしているのです。

 しかし、聖霊のバプテスマを力の付与のためと、理解する必要はないと考えます。むしろ、聖霊のバプテスマの結果の一つ、結果の中の非常に特徴的なものの一つ、特に宣教と言う観点からすると、まさに最も大切な結果あるいは産物が、「力」であるということだと思われます。ルカは、福音書の最後の部分では明らかに継続する文書、使徒の働きを念頭に置いて書いていたことでしょう。また、使徒の働きは明らかに宣教を前面に出した文書です。ですから、ルカ文書において力が強調されているのは当然です。しかし、パウロの文書を見る限り、聖霊のバプテスマ自体が強調されておらず、むしろ神との交わりの経験が語られています。

 神との交わりと言う視点から見ると、異言の大切さは、正統に評価されます。パウロは、現代のペンテコステ派の人々より、異言の価値を正当に認めているように読み取れます。パウロに取って異言を語るということは、決して単に付随的な、あまり意味のない事ではありませんでした。むしろ、神との交わりにおいては非常に価値のある賜物で、すべてのクリスチャンが彼と同じように、たくさんの異言を語るようにとパウロが望むほどだったのです。

 つまり、宣教の力は、聖霊のバプテスマと言う「力の贈り物」をいただくことによって与えられると言う、従来の考え方ではなく、聖霊のバプテスマという神との交わり、むしろ神の側から圧倒的に近づいてくださるという、交わりの経験が、クリスチャンたちを感動させ、奮い立たせ、勇気を与え、動機を与え、恐れを取り除き、大胆にさせ、宣教に邁進させるという意味の「力」であると理解されるべきです。そう理解する事によって、聖霊のバプテスマを経験していない人々の素晴らしい宣教の働きをも、正当に評価出来るといえます。その上で、聖霊のバプテスマという得意な交わりを体験した人々の、尋常ならないまさに特異な力、熱心、情熱、賜物の効果的な活用もまた、良く理解出来るのです。

 パウロが第三の天と表現した神との交わりの体験が、果たして聖霊のバプテスマの体験であったか、あるいはそれを超える交わりであったか不明ですが、その交わりの恍惚的体験が、彼の宣教の力となっていたことは、疑いのない事実であったと考えます。教会には賜物と権威と言う装備が与えられ、さらに、その装備を最大限に用いるための力が与えられるのです。

B.派遣

 伝道的な説教者はしばしば、IIコリント5:17を用いて「クリスチャンになると言うことはすべてが新しくなる事であると」大げさに強調します。なるほど、酒癖が直ったとか、喧嘩っ早いのが変わったとか、優しくなったなどということはあるでしょう。しかし、現実には同じ家に住み、同じ食べ物を食べ、同じ職場に勤め、同じ家族と生活し、ほとんど何も変わってはいません。あるいは、人生観が変わった、価値観が変わったなどという、すぐには目に見えない大きな変化も起こったことでしょう。ただ、「すべてが新しくなった」というのはいささか大げさにすぎるように思います。これは、変化と言うものを日常の生活の中に見ようとする、単純な間違いですが、霊的な次元においては、まさに、「すべてが新しくなった」という表現が最も相応しいと思える変化をしているのです。

 まず、私たちを取り巻いている環境の変化です。教会とは召されたものです。この世から召されて神の国に入れられた私たちは、もう、この世には所属していません。私たちは、かつては悪魔が支配するこの世において、この世に生まれた者として、当然悪魔の支配を受け、肉によって生き、悪魔に仕えて亡びに向かって歩んでいました。あらゆる局面から、すなわち社会形態、政治体制、経済機構、宗教、哲学あるいは地域社会の習慣、伝統など、人間の文化そのものから悪魔の圧倒的影響を受け、どの様に努力したところで、所詮、罪の中に、罪人として、罪を犯し続けながら生きる以外に道はなかったのです。しかしいまは、この悪魔の支配から召し出され、解放されて、神の支配、すなわち神の国に入れられ、肉によってではなく、御霊によって生かされ、御霊によって歩むようにされています。

 これは主に、私たちの内なる人の変化によってもたらされます。罪のために神から離れてしまった人間は、神との正しい関係を放棄してしまいました。その結果、命の神からの命を失ってしまったのです。人間の命とは単なる生物学的な命とは異なり、まさに、命の源である神との正しいい関係によってもたらされる、完全なシャロームなのです。神の聖い命を失った人間は、肉によって善に対しては無力になり、悪魔の支配によって操られて生き、亡びに向かって歩む以外にはなすすべがありませんでしたが、今は恵によって、神の命に預かり、御霊によって生かされ、キリストの姿に似る者となるように成長させられ、永遠の命に向かって歩む者とされているのです。こうして神の国、神の支配が、個々人の内面に及ぶ事になり、物理的にはまだ悪魔の支配の中に生きながら、悪魔の支配に属さず、かえって、神の国の兵士として悪魔と戦いながら生きているのです。

 第二に、私たちの身分、すなわち神の御前における私たちの立場、神と私たちの間の関係の変化です。私たちは生まれながらに、悪魔の子であり神に敵対する怒りの子、亡びの子でした。しかし、今や私たちは神との和解を与えられ、神の子としての身分を授けられ、神の愛の対象、慈しみの対象であり、永遠の命を与えられた神の世継ぎなのです。私たちのためにはみ国に住むべきところが準備されており、新しい天と新しい地にまで住まわせていただけるのです。まさに想像を絶する変化という以外にありません。

 しかし教会は神の子とされみ国の民とされただけではありません。私たちはいまや、神の信任を受けた者、神の祝福の器として立てられた者、和解の福音を委ねられ、キリストの大使としてキリストの権威を与えられてこの世に遣わされた者、キリストが父から遣わされたように、キリストによってこの世に派遣された者なのです。悪魔の支配の下で神に敵対していた亡びの子が、いまや神の器、キリストの信任を受けた大使として生きているのです。「すべてが新しくなった」という言葉が不充分なくらい、新しくなったのです。パウロは、この「新しくなる」という概念を、キリストの救いと和解の務めという、宣教論的視野の中で語っているのです。

1.派遣の原理

 教会が派遣されていると言う事実を、原理として最も明確に示している聖句は、キリストご自身が二度くりかえしておっしゃったみ言葉です。(ヨハネ17:18,20:21) 一度は大祭司の祈りの中で父なる神に対する祈りの内に、もう一度は、弟子たちに対する語りかけの中でおっしゃっていますが、内容は基本的に同じです。その中でキリストは「ように」という言葉をお用いになりましたが、ある人たちは、この言葉を単に「遣わすという行為が類似していること」と理解し、それ以上の意味を見出しません。しかし私たちは、宣教に関わるほかの聖書語句との調和という面から、つまり組織神学的に、このキリストのみ言葉にはやはり、もっと深い意味があると考えるべきであると判断します。つまりキリストは、「ように」という表現で、教会は、キリストが派遣されたと同じ原則で派遣されるということを、おっしゃったと理解するものです。キリストは理由もなしに派遣されたのではありません。そこには動機があり、目的があり、手段があり、様態がありました。教会の派遣は、これらの点においてキリストの派遣と同質のものであると、キリストはおっしゃっているのです。教会がキリストの大使であり、キリストの権威と委任を受けて派遣され、キリストの体として存在するとするならば、キリストと同じ原則で遣わされるというのも納得出来ます。

a.派遣してくださった方

 これらのみ言葉の中でまずはっきりしているのは、教会がキリストによって遣わされているという事実です。教会を遣わしてくださったのはキリストであり、他の何者でもありません。教会自身の野望によるものでも、計画によるものでも、協議によるものでも決定によるものでもありません。偉大な指導者や政治家の発案によるものでもありません。たとえ、教会の歴史の中で、政治や通商の手段としてあるいは手先として、宣教の働きが利用されたという暗い過去があったとしても、遣わしてくださったのはキリストであるという事実は変わりません。

b.派遣の権威 

 それはまた、キリストの権威による派遣であり、すべての権威を越えた、最終権威、最高権威の決定です。従って教会は、たとえどのような人物、あるいは国家・政権によって派遣を妨げられ、止められようと、絶対に屈しないのです。また、教会が自らの弱さや間違いあるいは失敗のために、いかに失望し落胆しようとも、それでこの派遣されている事実を無効にしたり消去したりはしないのです。またこの派遣はキリストによるものであるために、絶対に取り消されたり変更されたりすることのないものです。様々な人々が教会の存在価値を問うこともあるでしょう。教会が、自らの存在に意義を見出せないような事態も起こるでしょう。宣教の働きを投げ出したくなることもあるでしょう。[3] しかし、教会は周囲の言葉や状況にではなく、キリストの権威にその使命の基盤を持つのです。

c.派遣の場所 

 それでは、教会はどこに派遣されているのでしょう。これはまた、どこから派遣されているのかという問題につながります。使徒1:8のみ言葉などとの関連から、エルサレムから全世界へという単純な考え方が有りますが、少なくてもこのキリストのお言葉においては、物理的な距離とか地理的な場所と言うことより、むしろ、もっと原理的に霊的次元の事柄と捉えた方がよいでしょう。大祭司の祈りの中で、キリストは「世」に遣わすと言及なさいましたが、ヨハネの、「世」という言葉の使用例から考察して、これは、神の国や天に対峙するものとしての、「世」であると考えるべきだと判断されます。つまり教会は、ひと度、この世から召されて神の国に属する者となり、神の国に国籍を持つ者となったにも拘わらず、再びこの世に送り返された者であると言うことです。ただし、このような理解は使徒1:8に見られる物理的・地理的場所の派遣を否定するものではなく、むしろその物理的・地理的場所への派遣の土台となる理念と考えるべきでしょう。教会は始めから派遣された者、使命を与えられて送り出された者として、この世に存在しています。この世界での派遣は、この基本的派遣の具体的適用にすぎません。教会が、派遣された者、使命を与えられてこの世に存在している者としての自覚を失ったとき、教会は本当の意味での教会ではなくなってしまうのです。

 教会が具体的に世界に向けて出て行く、あるいは宣教師を遣わすという場合、まず基本的に、自分たちがすでにこの世に遣わされている者であるという、自覚が必要です。具体的に他の土地へ出て行くと言うことは、この世に遣わされているという霊的事実を、単に、現実的に適用しているだけのことであると悟るべきです。この現実的適応においてお働きになるのは聖霊です。バルナバとサウロを、アンテオケから宣教へと遣わしたのは、アンテオケ教会ではなく、聖霊です。

d.派遣の動機

 キリストをこの世にお遣わしになった神の動機は、純粋な愛でした。(ヨハネ3:16)神は、ご自分を離れて死んだ者となり、悪魔の所有となってしまった人間が、そのまま悪魔の支配のもとで苦しみ続け、永遠に失われてしまうのを、絶えがたい事と感じてくださったのです。これは神に似せて作られた人間に「本源的な尊厳」が有ったから、すなわち、人間に神の愛を受けるべき価値があったからではありません。かえって人間は、神に敵対する者として、反価値的存在となっていたのです。神はひとたび創造した人類を消滅させ、まったく新しい人類を造り直すこともお出来になったのです。それをなさらなかったのは、私たちに神の愛を受けるべき価値があったからではなく、ただ、神が無価値な者を愛するという、理屈に合わないことをしてくださったからです。この、理屈に合わない愛を「恵」と言います。

 私たちの宣教の動機もまた、神の愛に根ざしたものであるべきです。人間の価値に根ざしてはなりません。世界の多くの人々の中には、私たちから見ても、価値を持たないと思えるような人間がいます。虫けらのように生まれ、虫けらのように死んで行く人々がいます。犯罪者もいます。社会の敵、人類の敵と考えられている人間もいます。しかし、私たちはそのような人間の救いを願い、福音を伝えるために出て行きます。彼らの為に、自分の命さえ捨てます。それは彼らに本源的価値があるからでも、自分より優れた者だからでもありません。さらにまた、私たちが彼らを愛しているからでもありません。そうではなく、神が彼らを愛しておられるからです。私たちは神が愛しておられる者を、神が愛しておられる者である故に、愛そうと努力するのです。神の愛に感じ、神の愛に動かされるのが宣教です。それゆえに宣教は神の愛を体験した者の働きなのです。

e.派遣の目的

 神がキリストを派遣した目的は、悪魔の支配の中に失われている人間を、ご自分の支配すなわち神の国に取り戻し、破壊された交わりを回復して永遠の命を与え、滅んでいる人間を救うためでした。人間のすべての問題の根本的な解決のためでした。単に病や貧困あるいは人間同士の争いや差別、抑圧や搾取からの救いではありません。あるいは精神的に安らぎを与えるとか、平和で繁栄した社会を打ち立てるためでもありませんでした。

 教会が派遣された目的も、キリストの派遣の目的と本質的に同じです。教会は、悪魔の支配の中に苦しめられ亡びに向かって突き進んでいる人々を、神の国に招き入れ、永遠の命を得させるために、この、悪魔の支配する世に遣わされているのです。それこそが教会のミッションであり、存在の理由です。  

 では教会には他の存在理由がないのでしょうか。教会がこの世に派遣された目的は他にないのでしょうか。たしかに、教会の働きあるいは活動と言われるものには、色々あります。しかし、教会が教会として正しく存在するために、絶対に必要な活動と言うものは多くはありません。それは福音派の教会中では、普通、あるいはにまとめられて理解されて来ました。まず上、すなわち神に対する活動で、礼拝です。次に内、すなわち教会自身に対する活動で、交わりです。それから外、すなわち外部の者に対する活動で、伝道です。にまとめる場合は、内に対する活動を教育と交わりに分け、WIFEという言葉で表現します。すなわち、Worship(礼拝)Instruction(教育) fellowship (交わり) Evangelism(伝道)です。しかしこれらの活動の中で、教会がこの世の中にあってこそ可能な活動、すなわち、教会がこの世に存在し続けなければならない理由はと問うと、伝道だけになってしまいます。他の活動は永遠のみ国でこそ完成されるものです。ですから、伝道こそが、教会がこの世にいてこそ可能な働き、この世に存在させられている理由なのです。キリストは教会に福音伝道の使命を与えて、この世に遣わしてくださったのです。すでに述べたように、教会以外にこの使命を与えられたものはありません。教会だけがこの使命をおびています。したがって、宣教とは教会の宣教のことなのです。

@ 社会派と福音派

 ところが、社会派と言われる教会、あるいは福音派の中でも社会派的傾向を持つ教会は上記の3つあるいは4つの活動の他に、社会活動と言うものを加えます。これは外に対する、すなわち教会の外部の者に対する働きを伝道と社会活動の2つに分ける考え方です。

 啓蒙思想や合理主義に強く影響された近代キリスト教会の多くは、聖書の記述で合理的に理解出来ないものの信頼性に疑問を投げかけ、それらを排除して行きました。結果として福音そのもの、キリストの救いの独自性、唯一性まで否定され、伝道自体の必要性が否定されるまでになってしまいました。そのような教会が伝道の他に、この世界に対する働きかけとして意義を見出したのが、流行の人本主義(ヒューマニズム)と調和する慈善活動でした。しかしすぐに、社会悪の犠牲者を助ける単なる後始末的な慈善活動に限界と疑問が生じ、貧困や抑圧を産み出す社会悪を廃絶するための運動に、意義を見出すようになって行きました。さらに、社会悪に反対する穏健な啓蒙的活動にも限界を感じ、実際に社会悪と戦う戦闘的活動へと移行し、ついには武力さえ容認するような、先鋭的教会を産み出すにいたってしまいました。

 このような社会派の教会の流れに対して、かたくななまでに聖書の無謬性を主張し、キリストの福音の唯一性を信じて、伝道活動に力を注いで来たのが福音派と言われる教会です。福音派の教会には、「堕落した」社会派の教会と一線を画すために、あえて社会活動からは手を引いて伝道一筋に打ち込ん出来ました。たしかに、先に挙げた教会の活動を3つ、あるいは4つに分類して把握しようとする試みにも、社会活動と言う観点がまったく欠けているのが明らかです。いま、福音派の多くの教会は、福音伝道に全力を注いで来た反面、社会の実情、人間の「全体的救い」に目をつぶり、魂の救いとやがてもたらされる未来の神の国をのみ強調し、現在この時点この世に存在する神の国を、ないがしろにする誤りを侵して来たという自責の念にかられ、トラウマに悩まされています。  

 福音主義陣営の教会のこのような後ろめたさに訴える結果となったのが、1974年にスイスのローザンヌで開かれた伝道会議で、重要な役割を果たしたイギリスの著名な学者、J・ストットの主張です。彼はこの会議を契機にして、教会がこの世に遣わされた目的、すなわち使命は、伝道と社会活動の二つであると主張し始め、瞬く間にその考えを福音派の中に浸透させるのに成功しました。日本の福音派教会内においても、現在、彼の主張はほとんどなんの批判も無く受け容れられて、多くの教会が社会活動に勢力を注ぎ始める論理的土台となっています。彼の理論を受け容れることによって、伝道が困難な日本において自らの力の無さに落胆していた教会が、日本の経済を背景にして貧しい国々の人々を支援する働きに、新しい活路と自らの存在意義を見出したのです。

 ストットの主張には、「解放の神学」の影響があります。解放の神学は1960年代に、政治的にも社会的にも不安定な中南米において、抑圧と貧困の中で暮らしている人々の解放の為に興った、カトリック教会内部社会派の人々の神学また実践的闘争運動で、武力闘争までも正当化するに至ったものです。ストットはこの運動に関わりを持っていた急進的な人々との交流の中で、自らの理論を構築して行きました。彼は、教会の使命すなわちミション、教会がこの世に遣わされた目的を、この世に対する働きかけと正しく理解しました。ところが、教会のこの世に対する働きかけを伝道と社会活動の二つに分け、それらを一本の車軸の両側にある二つの車輪のようなものと考えて、教会がたとえどの様に伝道に勢力を注いでいても、もし社会活動を行っていないならば、その教会は本来の教会の姿を失っているのだと主張する事によって、聖書の主張から離れてしまったと言えます。

A キリストの派遣の目的に社会活動が含まれていたか

 ここで問題になるのは、キリストの派遣の目的に、社会運動が含まれていたかどうかと言う点です。なぜなら、私たち教会は、キリストが派遣されたように派遣されているからです。キリストの派遣に社会運動が目的として含まれていたならば、私たちの派遣にも社会運動が含まれているということです。

 まず注目したい事実は、キリストの派遣の目的が直接言及されている聖書の言葉の中には、社会活動についてはなにも触れられていないということです。主ご自身がイザヤ書から引用して朗読なさった、「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた、捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれる事を告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵の年を告げ知らせるために。」というみ言葉は、社会派の主張の根拠として挙げられますが、ここで言われていることは社会活動による赦免や解放ではなく、霊的な意味での解放でした。それがために、ローマ帝国の圧制と差別からの政治的軍事的解放を願っていた、当時の人々の期待を裏切ることとなり、それがキリストを十字架に付けろと叫ぶ動機ともなっていったのです。(ルカの福音者4章18、19節)

 聖書の中には、主がこの世においでになった目的が社会活動であるということを示す、明確な記述は一つもありません。一方、主がおいでになった目的が失われた者の救いであるという事は、表現を変え、言葉を変えて、幾たびも明確に繰り返されています。社会活動をキリストの派遣の目的に加える主張は、聖書の直接の教えからの主張ではなく、神学的考察、すなわち、人間の思索の結果生まれたものです。しかし、キリストの派遣の目的が人々に永遠の命を与える事であると言うことは、議論の余地の無い明快な直接の教えとして繰り返されているのです。

B キリストと慈善的社会活動

 では、キリストは社会活動をまったく行わなかったかというと、そうではありません。キリストは、その目的である永遠の命を与える贖いの福音にかかわる活動とは関係なく、病の者を癒し、悪霊に憑かれた者を解放し、飢えている者には食べさせています。実際、キリストの一行は、日頃から貧しい者に施しをするのを習慣としていたようです。キリストは、ある種のクリスチャンたちのように、伝道の手段として、つまり、釣り針が隠された餌として、そのような慈善活動をしたのではなく、心底から、愛の行為として、伝道とは繋がらない慈善を行っておられます。それにも拘わらず、キリストはそのような社会活動を「目的化」する事を、厳しく禁じておられるのです。(ヨハネ6:26)

 5つのパンと2匹の魚で、5千人が養われるという奇跡を見た弟子たちは、昂奮の極みに達していました。このような奇跡は、キリストがローマの軍隊と戦うためにイスラエルの軍隊を組織し、戦闘を繰り広げるとき、絶対有利な兵站作戦を展開出来る、つまり困難な食料補給の問題を一気に解決出来るものであり、貧しいイスラエルの、絶対多数の人々の必要を満たし、完全な信頼と服従を勝ち取る事が出来るものでした。そして、キリストの弟子として、そのような活動に参画で出来ると言うことは、非常な名誉と誇りになるはずでした。しかしキリストは、亡びるパンのためにではなく、永遠の命を与えるパンの為に働くようにと、きつく釘を指されました。慈善活動を自分たちの主な活動としてはならない、目的としてはならないことを、そして、命をもたらすパンに関わる活動に、使命を持つべきことを明確にされたのです(ヨハネ6:27)。では、このようなキリストの社会活動を、いかに理解すべきでしょう。教会は慈善的社会活動に対して、どのような態度をとるべきでしょう。

 私たちはキリストの派遣の目的を、贖罪愛による人々の救いと考えます。一方、キリストの社会的慈善活動を、一般愛の発露と考えます。キリストの派遣はあくまでも、十字架の贖いという手段を通して人類を救おうとなさる、神の贖罪愛によるものですが、神の一般愛は贖罪愛よりも広いものです。神は天地を創造し、自然の調和をお慶びなり、様々な生き物を生かし、住まわせ、さらには人間をお造りになり、幸せに生きることが出来るように、必要なものをすべて備えて下さった上で、命であられるご自分との交わりを、喜びの頂点、命のみなぎった状態として整えてくださったのです。これが神の一般愛です。贖罪愛は、この一般愛が罪によって妨げられてしまったために、それを回復なさろうとする神の特殊な愛なのです。人間の罪の為に、この贖罪愛の遂行なしには、一般愛は妨げられたままになってしまうからです。

 キリストの派遣の目的はこの特殊な愛の遂行のためです。しかし、それはさらに広い一般愛の自由な発露を回復するためなのです。ですから、キリストは贖罪愛を目的としてこの世においでになったとはいえ、決して、一般愛を失ったのではなく、まさに、愛そのもの、完全な愛として来て下さったのです。従って、キリストがその目的である贖罪愛の遂行の途上、惨めな人間の姿に直面されると、当然、その一般愛が、憐れみという情を起こさせ、さらに具体的な慈善活動となって表現されて行ったのです。慈善的活動は愛であるインマヌエルの自然の行為でした。しかし、インマヌエルはこれを目的にインマヌエルとなってくださったのではなく、人類を罪の縄目、悪魔の捕囚、永遠の亡びから救い出すために、インマヌエルとなってくださったのです。

 キリストの弟子の集団である教会も、当然、このキリストに倣います。慈善活動を自分たちの目的、存在理由とはしません。それは教会の使命ではありません。しかし、神の愛によって生かされ、ほとんど失いかけていた自らの愛を取り戻させてもらい、さらにそれを強めてもらった今、教会は、世の中の惨めな人間の状態に遭遇すると、それを見過ごしには出来ません。自らの愛という性質の為に、彼らの助けの為に何かをしようとするのです。教会は、慈善事業を進めるために、惨めな状態にいる人々を探し出そうとはしません。福音の業を進める途上、失われた者を尋ね出す途上において遭遇する、惨めな状態の人々に助けの手を差し伸べるのです。キリストは、失われた者を尋ね求めて町々村々を尋ね歩かれ、その途上で会った病の人々を癒し、悪霊に憑かれた者を解放し、飢えた者には食べ物をお与えになりましたが、決して、病の人々を探し、悪霊に憑かれた者を尋ね、貧しさに打ちのめされている人々を見つけ出すために巡回なさらなかったのと同じです。

 キリストの命令と模範を、まだ生々しく記憶に留めていた初代教会も、慈善活動に手を染める事はしませんでした。贖われた者の共同体である教会の中では、キリストが教えられた相互愛の実践として、互いに助け合う共済活動、福祉活動を盛んに行っていました。教会が行った初めての組織作りも、教会の相互援助の働きを効果的に行うために行われました。パウロは異邦人の教会を励まして、飢饉に襲われたエルサレムの兄弟姉妹の困窮を助けるために献金をさせ、それを、危険をも顧みず自らの手でエルサレムまで届けています。ところが、そのような働きを、教会の外部にまで拡大する事はなかったのです。教会の内部で、キリストが彼らを愛してくださったように互いに愛し合う事は、キリストご自身によってキリストに従う者の共同体に与えられた新しい戒めとして、しっかり守られていました。しかし、教会外の者を愛するということは、旧約聖書で命じられている、「あなたの隣人を愛しなさい」という広い意味での一般愛の教えの適応以外には、キリストによっても命じられておらず、初代教会も、それに力を費やす事はありませんでした。

C キリストと正義の社会活動

 では、キリストは社会悪に対してどのような態度をお取りになったでしょうか。社会派の教会が主張するように、貧しい者、差別されている者、抑圧されている者の味方となって、貧困や差別や抑圧のもととなっている社会悪に対して、敢然と戦いを挑んで行かれたのでしょうか。人間の思索の結果である神学的な見解ではなく、単純に聖書を読む限り、社会悪に対して戦いを挑めというキリストの命令を見つけることは出来ませんし、キリストが社会悪と戦ったと言う記述も、無理な解釈を施さないかげり見出す事は不可能です。聖書全体を通しても、教会は社会悪に対して戦いを挑まなければならないという教えや示唆は、どこにもありません。

 社会派の人たちが好んで引用する、旧約聖書の「正義」あるいは「公議」の追及は、神の国イスラエルと言う共同体の中でのこと、いわば、代行神聖政治でのことであり、現代の世界にそのまま適用する事は正しくありません。また、キリストを正義、神の義の執行者として見、教会をその代理として見るのも正しくありません。なぜなら、正義の執行者、神の公義を現す者としてのキリストは、第一降臨のキリストではなく第二降臨のキリストであり、教会が大使としての役を負っているのは第二降臨のキリストではなく、第一降臨のキリストだからです。教会はキリストが遣わされたように遣わされているというとき、模範となったキリストは、およそ二千年前、馬小屋の中で生まれ、飼葉桶の中に寝かせられた謙卑のキリストであり、やがて雲に乗ってみ使いのラッパの響きと共においでになる、栄光のキリストではありません。救いのキリストであり、裁きのキリストではないのです。

 キリストの時代のローマ帝国は、征服した国家や民族に対し、当時としては比較的人道的な取り扱いをしていたとは言え、現代の日本人の感覚からすると、とても過酷な取り扱いであり、差別や抑圧は日常のことでした。そのような中で、キリストはローマ帝国、あるいはその軍隊に対し反旗を翻し、アジテーションを行ったことも無ければ、密かな反対運動を行った事もありません。かえって、「強いて一里行かせようとする者には、共に二里行くように」と、無抵抗の服従を教えておられます。ローマの傀儡だったサドカイ派祭司階級の人々に対して、あるいはローマの手先だった税金取りに対して、さらにはローマ軍の兵士たちに対して、キリストは圧制者、抑圧者、植民地主義者、あるいはその飼い犬というような非難をしてはおられないのです。

 キリストは政治的また軍事的救い主として、大衆の期待を一身に受けていながら、政治的な活動も軍事的活動も一切避け続け、王として立てられるのを嫌い、避けて行かれたというだけではなく、政治論争にも加わりませんでした。「カイザルのものはカイザルへ」とおっしゃって、政治・軍事などのこの世の事柄は、自分の関心事ではない事をはっきりとお示しになったのです。

 キリストの直接の教えと模範を、まだまだ生き生きと覚えていた初代の教会も、正義の戦いには加わっていません。ローマ帝国の圧制に対しても祈りと服従を教えるだけで、戦いの「た」の字も出てきません。当時一般的であった奴隷制度に対しても、教会は反対を唱えることなく、直接的には、かえってその習慣に従うように教えています。それでいながら教会は、奴隷制度を根底から覆すであろう愛と、キリストにあっての平等を教えて行きました。現代から見るならばかなり厳しい性差別の現状の中でも、当時の社会通念を認めそれに従うことを是としながら、本質的には、神にあっては男も女も無いことを明確に教えています。教会は、当時の世界の非人道的罪、不義、抑圧的政治、貧困を助長する経済機構などには、まったく沈黙しています。本当のところ聖書は、外部の人を裁くのは教会の仕事ではなく、神の仕事である事を教えています。教会はやがて世界を裁き、み使いをも裁くことになるのであるが、今はそのときではないと言われているのです。(Iコリ5:12〜6:3)

 教会はまた、しばしば、現代の預言者であると言われていますが、それは旧約時代の神政イスラエル国家における預言者の義の叫びを、自分たちのものにしたい人たちの主張です。しかし、残念ながら、私たちはいま神政国家に生きてはいません。もし当時のイスラエルの預言者の姿を現代に適応するというならば、教会の中において行われるべきです。教会は、新約時代の神の国の、この世における具体的顕現なのですから、その中においてこそ神の義が滞り無く執行されるべきだからです。

 教会の歴史を少しでも調べるならば、教会が神の義を自分の手に取って、自分こそ正しく、正義によって世事を裁く者であると勘違いした時ほど、恐ろしい時代はなかった事がわかるはずです。教会は、世界に対して正義を執行する命令も力も与えられていないだけではなく、社会的政治的経済的問題に関しては、何が正義であるか正しく判断する能力さえ与えられていないのです。それにも拘わらず、与えられているかのように思い違いをし、誤った正義を振りかざし、大きな犯罪を重ねて来た事実を、謙虚に認めなければなりません。

D 派遣と宣べ伝える福音の内容

 キリストはこの世に派遣され、福音を宣べ伝え、贖いのみ業を完成なさいました。教会が宣べ伝える福音は、キリストが宣べ伝えた福音と少しばかり異なります。というよりむしろ、キリストが語られた福音よりも一段と内容の濃い福音です。キリストがこの世においでになった第一の目的は、福音を語るためではなく、語るべき福音を完成させるためだったのです。キリストが、贖罪の福音の内容を完成して昇天された後、その福音を語ることによって、キリスト贖いの働きを継続するのが教会の役割でした。ですから、キリストが贖いのみ業を完成した後の福音は、キリストがお語りになった福音に比べて、より具体的であり、多くの奥義、すなわちそれまで明らかにされていなかった、多くの真理を含んでいるのは当然のことでした。

 現在、教会が語る福音の内容は単純なものではありません。しかしその非常に奥深く高度な福音を、教会は最大限に単純化して語ります。教会が最大限に単純化して語ると、福音とは一体どういう内容を含んでいるのでしょうか。日本の福音派の間では、昔から「神、罪、救い」というみっつのポイントが、福音の内容を要約するものとして語られてきました。確かに、神意識に基本的な問題がある日本において、真の神に関わる知識が、本当の福音には欠かせません。また、神意識の欠陥から、本当の罪についての意識を持っていない日本人には、何としても、正しい罪の認識あるいは罪の自覚が必要です。それらがあってこそ、初めて、救いの必要性に目覚め、キリストの贖いと言うみ業を通しての、神が提供してくださる無代価の救いの素晴らしさが理解出来、その愛の贈りものを受け入れる事が出来るからです。

 しかし、伝統的なプロテスタントの神学とその適用である宣教の働きにおいては、神についての知識、罪についての知識、キリストの贖いについての知識が強調され、それらが間違い無く理解され受け容れられたとき、人はクリスチャンになることが出来ると考えられて来ました。「キリストがあなたの罪の身代わりになって死んで下さったと信じるならば、あなたは救われます」という言い方は、私たちの間でも馴染みの深い表現で、伝道の場で当たり前のように語られていますが、はたしてそれは正しいのでしょうか。これははたして本当の意味で福音でしょうか。キリストが自分の身代わりに死んでくださったという「事実」を信じる事が、救いとなるのでしょうか。

 救いは事実を信じる事にあるのではありません。西欧の合理主義的物の考え方からすると、事実は真実であり、真実に救いがあると考えられるのですが、東洋的な考え方からすると、大切なのは事実ではなく人物です。救いは、自分の罪のために身代わりとなって死に、甦り、いま自分を救おうとしてここにいてくださる、キリストというお方に信頼する事によって与えられるのです。救いは知識や情報を信じる事にあるのではなく、キリストという人格を持ったお方を信じる、信頼する、頼る事にあるのです。プロテスタントの神学と伝道方法が、知識の伝達、情報の伝播に重きをおいて、キリストという生ける救い主を紹介することには、あまり注意を払ってこなかったのは、非常に大きな失敗であると言わねばなりません。

 福音の内容は、人間に理解出来るような浅薄なものではありません。たとえどれほど賢い人間にも、福音の本質を理解する事、神の御心の奥深くまで計り知る事は不可能です。一方、どの様に知的に欠陥のある人でも、生けるキリストというお方に信頼するならば、そのキリストというお方に救っていただけるのです。キリストが十字架の上で死んでくださったのは、人間が自分の救いのため重ねる努力が、すべて空しいためです。空しい努力を重ねる必要が無い様にと、十字架が立てられたのです。福音の内容を理解する事は素晴らしいことですが、それを救いの条件と考えるのは、恵による救いを、業による救いに取りかえることなのです。

 そういうわけで、伝道とは救い主であるキリストを紹介することです。私たちの語る福音は、私たちを愛するあまり、私たちの罪のために身代わりとなって死に、甦り、私たちが頼りさえするならば、いつでも救いのみ手を差し伸べようとして待っていてくださる、キリストというお方を紹介する事なのです。福音とはキリストが何をしてくださったかと言う情報の伝達ではなく、いま、救おうとして待っていてくださるキリストに信頼するようにと勧めることなのです。

E 伝道と洗脳

 ある人たちは、福音はただ提示されるだけであるべきだと主張します。「キリストに信頼するように勧める」という行為は、私たちの伝道の使命に含まれていない。福音を語るのが人の働きで、人の魂を動かし、救いを受け入れさせるのは神の領域であると考えるからです。しかし、このような考え方は、思索としては面白いのですが、聖書の教えるところとは異なっています。聖書は、伝道に関係して、勧める、励ます、説き伏せると言うような意味の行為を、当然のように認めているからです。福音を語るのは人間の行為で、魂を動かすのは神の働きと考えるのは、伝道を人の働きと神の働きに二分化する間違いです。伝道とは聖霊が人間を用いてなさる働きであり、本質的に聖霊のみ業でありながら、人間が相当深いところまで関わって行くのです。ですからパウロも、あたかも自分が救う者であるかのような表現をしています。 (ロマ11:4、Iコリ9:22)

 では福音を語る者は、聞いている人間がキリストを信じるようになるためには、どのような事をしても良いのでしょうか。実際、伝道会などの場では、決心者の数をふやそうとする主催者側の思惑から、しばしば、かなり強引な手法も用いられて、批判の対象になっています。一体どこまで、人為的な伝道の努力が、正当なものとして認められるのでしょう。たとえば、ビリー・グラハムの伝道会では決心を募る場が必ずありましたが、そのような決心を募る手法そのものに反対する人がいます。あるいはその場では必ず「ジャスト・アズ・アイ・アム」がバック・ミュージックとして用いられていましたが、それをむやみに感情に訴えるものであると考えて、反対する人たちもいます。しかし、多くの大衆伝道者たちは、もっともっと激しい、感情的な招きを行い、扇情的な音楽を用い、心理的トリックとも考えられるような手法さえ用いて、聴衆の決心を促しています。

 この件に関しては、具体的な線引きは困難ですが、理論的な判断は可能です。それは、「主を信じる決意は完全な自由意志によって行われるべきであり、洗脳が用いられてはならない」ということです。物理的にあるいは心理的に、自由意志を拘束したり強制したりする事によって、判断能力や選択能力を損なわせ、予め、信じるという決定しか出来ない状況を作り出して、信仰の決心をさせてはならないと言うことです。それは、神が人間に自由意志をお与えになり、それを尊重しておいでになるという基本原則に反するからです。神は、罪を犯すという自由意志さえ、人間にお与えになっているのです。洗脳による信仰決心はいかに強力であったとしても、クリスチャンの信仰決心にはあってはならないものです。ですから、洗脳に繋がるような、あまりにも感情的な、あるいは脅迫的な、また扇情的な信仰決心の促し方は、たとえ「効果的」ではあっても、避けなければなりません。

f.派遣目的の遂行手段

 キリストがこの世においでになった目的は、悪魔の支配に苦しめられ、罪の中に死に、永遠の亡びに向かって突き進んでいる人間を、神の国に入れ、命を与え、永遠の命を持つ者とするためでした。この目的を貫徹するために、キリストがお取りになった手段は、十字架による贖いの死です。三位の神のご計画は、キリストが軍事的に世界を平定し、政治的に改革し、経済的に改善し、病を絶滅し、農業を発展させ、その教えを持って人心をとらえ、恒久的な平和と繁栄をもたらす事によって、人類を救うなどというものではなく、贖いという完全な自己放棄、自己犠牲の手段によるものでした。

 キリストの自己放棄と自己犠牲は、実は、その派遣の時にすでに始まっていました。全能の神の姿を捨てて、虫にも等しい小さな人間の姿になってくださること自体が、この上ない自己放棄であり自己犠牲です。十字架による身代わりの死は、この自己放棄、自己犠牲の継続にすぎず、十字架は降誕と切り離して考えられるべきではなく、降誕も、十字架と関わりの無いところで語られてはならないものです。

 神の愛は、人間の救いというみ業を起こさせました。そしてその救いは贖いという手段によって遂行されました。神の救いは、単に、「神の愛」の範疇で理解されるべきものではなく、「神の贖いの愛」、贖罪愛の中で理解されなければなりません。神の絶対の聖さが満足させられない方法、納得し得ない方法での罪人の救いはあり得ないために、なんとしても贖罪が必要だったのです。罪人の救いにおいて、神の絶対の愛と絶対の聖さとが、共に満足させられなければならなかったからです。

 宣教とは、神のこの贖いの愛の延長線上にある業です。贖いの愛の継続であり、贖いの愛の適用です。人は神の一般愛によって救われるのではなく、あくまでも贖罪の愛によってのみ救われるのです。教会は、神のこの贖罪愛の働きを委託され、委任されているのであって、一般愛の公布のために立てられたのではありません。教会が社会活動、慈善活動、ボランテイア活動などに携わって、社会にあるいは人類に貢献するのは悪い事ではありません。しかし、私たちは和解の福音の使者です。和解の福音のために立てられています。和解は贖罪があってのみ可能なのです。

 そういうわけですから、教会もまた、贖罪の精神である自己放棄と自己犠牲によって宣教の働きを推し進めます。たとえどのような形であれ、教会は自己獲得のために宣教の働きを進めてはなりません。一般に流布している教会成長運動、繁栄の福音の神学、宣教における勝利主義などをはじめとして、私たちの馴染みとしている考え方や方法論にも、おおいに自己批判の目を向けなければなりません。私たちの教会には、他者の命を救うために自分を犠牲にして行く精神が、はたしてまだ生きているでしょうか。自分たちの教会を大きくし、美しくし、有名にするというヴィジョンはあるかも知れませんが・・・・・。キリストが人類の救いのために天の位と神の姿をお捨てになって、人間としてこの世に来て下さり、十字架で犠牲となってくださったように、豊かな自分の国を後にして貧しい国に行き、そこで、あまり立派と思えない人々のために自分を犠牲にして生きることが、今の私たちに出来るでしょうか。

g.派遣の様態

 この点については、すでに「B.聖句からの考察」の「3.ヨハネ20:21」の説明などで、手短に触れましたが、改めて、もう少し深く考察して見ましょう。

 派遣されたキリストの生き方は、人と共に住み、人と共に生き、人として生きた生き方です。一言で言うと、人とアイデンテイフアイした生き方です。「その有様は人と異ならず」と口語訳聖書は訳しています。一般人としての姿を保たれたキリスト、市井のキリストの姿は、聖書を読みながら容易に想像する事が出来ます。

 キリストは、ご自分の故郷では尊敬されませんでした。イエスがキリストであると信じる者がいなかったのです。家族の中にさえ、ほとんどありませんでした。なぜなら、彼らはみな、少なくても4人の弟と2人の妹の世話をして、いつも腹をすかせながら、早世した父ヨセフに代わって必死に働くイエスを見ていたからです。まだ年季が入っていない大工だというので、あまり注文も無く、作ってもあまり良い値では買ってもらえず、やっと儲けた金は幼い弟や妹のためにほとんど使い尽くし、寒い冬にも裸足のまま、上っ張り一つで我慢し通したイエスを、良く知っていたからです。あるときには見るに見かねて、そっと食べ物を分けてやらなければならなかったイエスを、他のときは病のために動けないほどの体を無理に押して、働き通した働き者のイエスを、近所の者たちは昨日の事のように覚えていたのです。ペンテコステ派の人の多くは、病を癒されたキリストが、病に苦しんだ事があるという考えには納得出来ないようですが、聖書によると、キリストは病を知っていた方です。これは病を体験していたと言う意味です。キリストは罪こそ犯されませんでしたが、すべての点において、ごく貧しい一般の人たちと変わらない生活をなさったのです。

 イエスの育ちを知らなかった他の土地の者ならいざ知らず、このようなイエスの姿を良く知っていた近所の人々は、彼をキリストと信じる事はとても出来なかったのは当然のことです。彼は、どのような困難な場合にも、神としての力を自分のために用いる事はありませんでした。というより、事実は、神としての力も権威も放棄してこの世においでになったのです。言葉をもって天地万物をお造りになった神が、当時の未発達な道具を用いて、額に汗を流し、手にたこを作り、埃まみれになりながら、粗末な農機具や家具を製作しておられたのです。隣近所の人たちと同じ家に住み、同じ物を食べ、同じ習慣を守り、文字通り、喜怒哀楽を共にしておられたのです。キリストは、人々の「ために」生きてくださっただけではなく、人々と「共に」生きて下さったのです。

 キリストはなぜこのような生き方をなさったのでしょう。贖いを成し遂げることだけがキリスト降誕の目的ならば、敢えてこのような困難な生涯を送る必要は無かったはずです。王宮に生まれ、酒池肉林の毎日を送っても、人々の身代わりになって死ぬことは出来、贖いの業自体は完成したはずです。しかし、キリストは敢えて一般の大衆と共に生き、共に苦しむ道を選んでくださいました。それは人としての苦しみと痛みを自らの体験とするためであり、そうする事によって、人の苦痛というものを本当の同情を持って理解し、仲保者としての役割をまっとうするためでした。ヘブル人への手紙の著者はそのように説明しています。

 すでに述べたことですが、全能の神であられる方は、自ら体験しなければ理解出来ないという、人間的な限界を持っていません。したがって、同情する事が出来るようにという目的で、あえて一般大衆とアイデンテイフアイする必要も無かったはずです。むしろキリストは、自ら痛みを体験した者ならば、痛んでいる者の痛みを理解出来るはずだと思い込む、人間のごく一般的な心情を汲み取ってくださり、あえて、本来不必要なこと、すなわちまったくの庶民、下層階級の貧しい人間の一人として生活してくださり、寄る辺のない者たちが恐れることなく、直接、近づいて来る勇気を持てるようにしてくださったのです。

 このような生活態度、徹底した自己放棄と犠牲、弱者への思いやりから生まれる彼らとのアイデンティフィケーションが、この世に派遣されている教会の生きるべき姿であるべきです。特に、派遣されている教会の最も先鋭的な部分である宣教師は、このキリストの姿を常々意識しながら、生活しなければなりません。先進 国から遣わされている宣教師の最大の弱点が、自分が遣わされている人々とのアイデンティフィケーションが保てないという事実です。現地の人々のために働く宣教師はたくさんいますが、現地の人々と共に働く宣教師は少ないのです。



[1] ペンテコステ教会およびその影響によって誕生したカリスマ運動、さらには最近の第三の波運動などを含めると、現代ペンテコステ運動が始まってから、ちょうど百年たった2千年の時点で、およそ5億人がペンテコステ系のクリスチャンであると言われています。中には、当然、不純分子も含まれるとはいえ、このような急激な発展は、他のどのような運動にも類を見ないものです。愚かさという点では、現代ペンテコステ運動の初期に見られた、異言の理解がありました。当時の人々の多くは、異言がこの地上のどこかに実際に存在している人々の言葉であり、宣教の働きのために教会に与えられた能力とであると考えました。それで、宣教師を送り出しさえするならば、彼らは神から異言の賜物をいただき、すぐに宣教地の言葉を話す事が出来るようになると信じ、実際、多くの宣教師を送り出しています。もちろんそのような宣教師のほとんどが、宣教地において、自分たちの誤りを認めざるを得なくなったのは、説明するまでもありません。異言は普通英語でタングと言われていますが、神学的にはグロッソラリアと呼ばれ、その中には確かにゼノラリアと呼ばれる、この地上のどこかで、人類によって用いられている言葉を語るものが含まれますが、大多数のものは、実際に人類の会話としては用いられていない言語です。異言は、宣教のための賜物ではないのです。

[2] Full Life Study Bible の挿入説明参照

[3]20世紀の後半には、NCC系の諸教会が様々な機会に、宣教の働きの不要を主張し、中止を提唱し、宣言してきたことは良く知られています。

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