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Missiology

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聖霊の宣教

 

 世界宣教の使命は、確かに教会に与えられたものです。しかし神は、教会だけが孤立無援のままこの使命を果たす事が出来るとは、お考えになりませんでした。神ご自身が、臨在したもう聖霊、内に住みたもう聖霊として、最後まで関わり続けてくださるのです。キリストが、敢えてまったく信頼に足りない弟子たちに、ご自分が命にかえて完成なさった福音をお委ねになることが出来た訳は、聖霊が常に臨在し、彼らを助け、守り、導き、力を与えてくださることをご存知だったからです。いくら教えても悟らない不肖の弟子、いつまでも誰が一番偉いかと争い続けていた、程度の低い弟子、最後の場面では、みなキリストを捨てて逃げてしまった、臆病者の弟子。キリストはこの弟子たちを信任して、福音を委ねてくださいました。それはただ、聖霊が伴ってくださると言う事実の故に可能だったのです。

A.宣教の戦略

 聖霊はパウロの宣教を導き、東へ向かう事を禁じ、西すなわちヨーロッパへと進ませてくださいました。もちろん、当時、名もない「宣教師」たちが世界各地に潜入していったことですから、アジアやアラビアにも福音は当然伝えられていたはずです。あるいは伝説が語るように、トマスは本当にインドまで行ったのかも知れません。しかしパウロの宣教は、他の人たちの働きとは比較にならないほど重要な、中心的役割を果たしていました。この聖霊のお導きは、後々の宣教、キリスト教の世界史的発展に大きな影響を与えて行きます。

 聖霊は地球的広がりと、数千年に及ぶ時間的広がりを視野に入れて、宣教の戦略をお立てになり、それを実行なさる方です。一つ一つの戦術は教会が立て、せいぜい十年の計画は宣教団体が立てます。しかし歴史の中で宣教を動かされるのは聖霊です。全世界に福音をもたらそう、すべての部族の中に弟子を造ろうと努力するのは教会です。しかし、大きな歴史の流れの中でそれを実現に至らせてくださるのは、聖霊なのです。教会はこの聖霊の戦略を信頼してこそ、安心して戦術的働きに従事出来るのです。

 ですから、宣教に関わる聖霊の働きは、必ずしも常に教会の働きに伴うものに限られているのではありません。聖霊の働きはもっとダイナミックで自由なものです。聖霊は、教会が宣教の使命を果たせないような状態の時にも、教会とは別に、独自の働きをもって宣教の活動をなさいます。神が歴史というものを支配しておられるのならば、民族の動き、国家の興亡、文化の形成と伝播にも深く関わっておられます。このように一見福音伝道と関わりのないようなものが、実は、やがて教会が福音を伝えるときに、人々の福音受容に大きく影響してくるのです。聖霊は教会に先だって宣教の準備をしておられると言うことがます。

 また、エチオピアの宦官やローマの百卒長コルネリオの場合のように、教会が福音を携えて赴く前に、聖霊が特定の人にお働きになり、救いのために状況を整えてくださるということもあります。エチオピアの宦官がソロモンの子孫であったと言う背景も、コルネリオが神を敬う異邦人であったと言うことも、聖霊の支配の中で起こったことです。これと同様の事が、近代宣教史の中でも、そこここで起こっています。まったくの福音の未開地にも拘わらず、宣教師が到着したときには、すでに、福音が語られさえすればただちに信仰を持つ、心の準備がととのっている人間がいて、それが伝道の大きな力になったということです。聖霊が予め準備を整えていてくださっていたのです。

 あるいは現代においては、教会とは関係なく、一般の書物やメデイアを通して語られるみ言葉や福音を通して救われる者さえ随分起こっています。これは、聖霊がそのようなものを利用して、お働きをなさっていると言うことです。ただし、たとえそのようなことが起こったとしても、それは例外的な事柄であり、教会が宣教の使命を与えられている唯一の器である事実に変わりはありません。

B.宣教の準備

 どのような働きにも、準備が必要です。当然、良い宣教の働きには良い宣教の準備が必要です。聖霊は、教会がその任務をまっとうする事が出来るように、準備を整えさせてくださいます。新約聖書の用語から言うと、キリストがペテロとアンデレをお招きになったとき、彼らは網を繕っていたと言う場面で、「繕う」と翻訳された言葉が、ここでいう準備の事です。この言葉は、「整える」とも「装備する」とも「修理する」とも翻訳出来る言葉で、エペソ書の4章では、教会の指導者たちが信徒たちを指導訓練して、奉仕の働きが出来るようにする活動をこの言葉で表現しています。要するに、仕事が出来るようにきちっと準備しておく活動のことで、もともとは、外科医が骨折などを治す場合に用いられていた言葉です。

 聖霊はまず、人々を救いに至らせ、救われた人間をキリストのみ体にバプタイズして、ばらばらの個人ではなく、有機体として、共同体としての教会を形成させます。(Iコリ12:13) これが最初の準備です。宣教の使命は個人にではなく、共同体である教会に与えられているからです。

 また、この聖霊によるバプタイズと言う言葉の選択に、パウロの特別な意図があるように思われます。まずだれが教会に加えられるかということ、すなわち誰が宣教の使命を負うようになるかということは、個人個人の意思や望みとは関係なく、あるいは教会の願いやプログラムとは別に、役員会や牧師の思惑とは関わりなく、聖霊の意思によるものであることが明白です。さらに、人間が教会に加わるという事は、加入とか参加ではなく、バプタイズというもっと深く強い、不可分の有機的加入であることを意味しているように理解出来ます。ですから、本来、教会と関係のない、教会の外のクリスチャンなどというものは、理念的にも実際的にもあってはならないものです。そして、このバプタイズされたすべてのクリスチャンは、み体の「機能する」部分となるべくバプタイズされていると考えられるべきです。機能のない、役に立たない肢体などというものも、本来ありえないものです。

 こうして教会は、共同体としても個々のクリスチャンとしても、聖霊の宮として聖霊の住まわれるところとなり、キリストのみ体として、キリストのみ心を遂行していくものとなります。内にお住みになる聖霊は、個々のクリスチャンの霊的成長と、教会全体の共同体的な成長を促し、キリストの御心、教会の使命をまっとうして行けるように整えてくださいます。(エペソ4:11〜16)さらに聖霊は、日々、キリストに似た者になるように教会を潔め、神との交わりを深めさせ、神のみ言葉を理解させ、意欲を与え、動機付けを与え、その他あらゆる働きを持って、教会を使命の遂行に相応しいものに育て上げてくださいます。聖霊の教会に対する働きかけは、すべて、教会の使命遂行のための準備に関わっているのです。

C. 宣教の実践

 聖霊は教会に動機を与え、幻を与え、使命感を明確にし、宣教の働きのために出て行かせます。また、聖霊は教会が行くところにはどこへでも伴い、共に働いてくださいます。聖霊は教会を教え、行く先を導き、あるいは禁じ、止め、励まし、大胆にし、福音の理解について教会を教え導き、語るべき言葉を与えて下さいます。語るべき言葉というとき、少なくても二種類あると考えられます。一つは、迫害などにより、人々の前に引き出されるとき、聖霊が語るべきことを教えて語らせてくださるということであり、もう一つは、福音を語らせてくださる、すなわち預言の言葉を与えてくださると言うことです。(ここでいう預言とは直接の啓示によって語ることではなく、神から預かっている言葉を語ること、福音を語ることです。)

 さらにまた、教会が甦りのイエスの権威、み名の権威をもって語り、命令するとき、その権威を実際に効力のあるものとしてくださり、罪人の心を打ち、奇跡を行い、病を癒し、悪霊を従わせて下さるのもイエスの霊である聖霊です。

 さらに、聖霊がお働きにならないならば、たとえ教会が福音を伝えたとしても、聞いた者は福音を理解することも、受け入れることも出来ません。教会は福音を語り、福音を伝える努力をします。教会は、言葉の障害、文化の障害、知的理解の障害などを越えて、福音が伝達されるように、あらゆる努力を重ねます。聞く者とアイデンテイフイケーョンを保てるように、寝食を共にします。より良いコミュニケーションのために、説教学をも学びます。そのような努力は非常に大切なものです。しかし、福音を聞いた者が信仰を持つために、決定的な役割を果たして下さるのは聖霊です。聖霊が罪を自覚させ、裁きの恐ろしさを理解させ、罪が赦される願い、清められる願いを起こさせてくださるのです。

 このようにして、聖霊は人知では計り知れないところで、人知を超えた働きをして、人々を神の国に新たに生 まれ変わらせてくださいます。そして、その生まれ変わった者を、キリストのみ体である教会にバプタイズして、賜物として与え、使命のために機能する肢体として下さるのです。こうしてみると、宣教は教会の任務ではありますが、あくまでも聖霊のみ業であり、教会は聖霊に用いられているに過ぎないのです。

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