Missiology

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新約時代の宣教


 新約時代の宣教は、旧約時代の地下水が一挙に地上に吹き出した宣教です。胚芽に過ぎなかったものが誕生し、育って行く宣教です。

A. 他の民による宣教

 神の祝福をすべての民族に及ぼすという使命は、旧約時代のイスラエルの失敗により、改めて他の民、つまり教会に与えられることになりました。(マルコ12:1〜9) 祝福をもたらす器は、イスラエルという血族共同体から、キリストの血による新しい共同体へと変えられたのです。教会は、はじめから、イスラエルに代わるものとして、使命を負わされるべき者として立てられているのです。

 キリストはその公生涯において、神の福音を語る一方、福音の完成すなわち十字架での死に向けて、確実に歩みを続けられました。しかし、キリストの活動のもう一つの大切な部分を忘れてはなりません。それは教会を建てることです。肉体を取ったキリストは、実際には教会を建てる働きはなさいませんでしたが、弟子たちを訓練し、教会の胚芽を形成し、共同体の基礎をお据えになりました。キリストは弟子たちを訓練し、彼らに福音を語らせ、具体的に教会を建て上げさせて行くことによって、御自分が完成なさった贖いのみ業を継承し、贖いのみ業の適用をまっとうさせようとなさったのです。教会を建て上げるという働きは、まだ弟子たちにとっては未知のことでしたが、キリストは確実にそれを念頭において訓練をなさったのです(ヨハネ10:16,11:52)。キリストの訓練の基本は、へりくだって互いに愛し合うという、共同体の中での生き方の原則を学ぶことと、キリストの権威を持って神の国の到来を告げ、人々を神の国に招き入れる活動を、実践を通して学ぶことでした。

 そのような確実な訓練を与えた上で、キリストは弟子たちに対し、先に述べた宣教の大命令をお与えになったのです。しかも、キリストがこの命令をお与えになったとき、キリストは「弟子たちに対して」お与えになったのではなく、やがて生まれようとしている、「教会の胚芽」である弟子たちにお与えになったのであり、教会にお与えになったのです。

B. 唯一の器  

 福音伝道の働きは、教会だけに与えられた使命です。他のどのような個人にも団体にも、あるいは被造物にも与えられていません。福音を伝達するということだけならば、教会よりもっともっと優れた団体、組織あるいは機関と言うものがあったはずです。またみ使いたちの方がはるかに効果的に、すばやくその働きをやり遂げる事が出来たはずです。なぜ、かくも弱々しい教会が、しかも、かくも弱々しい教会だけが、キリストが命を賭けて完成された大切なお働きを、任せられたのでしょうか。ここに、人知では計り知れない神の叡智と、教会に対する驚くべき信頼とが現されています。神のみ心の深さを完全に知ることは出来ませんが、たとえわずかでも窺い知る努力をしてみましょう。

 子なる神は、神としての姿を捨て、人の姿を取り、人として生まれ人として生き、人としての苦しみと悲しみ、人としての痛みと病を体験し、人間関係の悲しみと喜びを味わって、人として十字架で死んで下さいました。キリストは、徹頭徹尾、ご自分を人間と同等の立場に置くことを大切にされたのです。それによって、人間に同情し、痛みを理解する事が出来るようになってくださったと、へブル人への手紙の著者は言います。しかし、これは人の弱さを知っている著者の表現であると考えられます。子なる神は、いちいちご自分ですべてを体験しなければ、理解出来ない方ではないはずです。むしろこれは、強いままの神では恐ろしくて近づけない人の弱さ、弱い自分の痛みや悩みなど相手にしてもらえないだろう、理解してもらえないだろうと決め込んでしまう、人間の愚かさのために、そのような人間の弱さのために、あえて見せてくださった神の心遣い、神の思いやりに違いありません。福音はそのような思いやり、痛みをもって完成されたのです。[1]

 だとするならば、その福音を語り伝える役割を担う者も、同じように痛みと悲しみを体験している者でなければなりません。痛みによって完成された福音は、痛みによって語り伝えられなければならないのです。キリストは「父が私をお遣わしになったように、私もあなた方を遣わします」とおっしゃいましたが、ただ人間だけが、ご自分を人間と同等の立場に置き続けられたキリストと同じように、人間と同等にいることが出来るのです。キリストが、弱々しく頼りない教会を、教会だけを敢えてこの大切な任務に当らせてくださったのは、まさに、教会が弱々しく頼りにならない、痛みと悲しみを知る存在だからなのです。私たちの痛みには理由があります。私たちの悲しみには使命がかかっているのです。教会が弱さも痛みも知らない強く勇ましい存在になっては、使命を果たす事が出来ないのです。

 また、キリストが教会だけをお選びになり、任命してくださったのは、教会だけが救いを体験しているからです。教会だけが神の贖いの愛を主観的に、自分のものとして体験しているから、すなわち知っているからです。キリストは福音を単なる頭の理解として、知識として語るのではなく、体験として、証人として語るべきものと考えておられるのです。贖いの愛を自ら体験した者だけが、本当の意味で贖いの愛を語り伝えることが出来るのです。

 福音伝道は、非常に人間的な働きです。生身の人間の生身の声で、はじめて真実に語られるものであり、印刷された文字、録音された声、通信機器によってもたらされた知識としての福音では、本当の意味では福音になりきっていないのです。端的に言って、福音とは、キリストが私たちの罪のために贖いとなって死んでくださったという事実ではありません。私たちの罪のために死んでくださったキリストは、死んだだけではなく蘇えり、いま話しをしている「私」と共にいて、私を愛し、私を受け入れ、守り、支えていてくださるという事実であり、このキリストがいま、話しを聞いている「あなた」の救い主になってくださると言う事実なのです。福音伝道が、プロテスタントの主知的神学に毒されて、単なる過去の事実の伝達となってしまい、いま生きておられるキリストが紹介出来ていないのは、非常に残念なことです。

C. 遠心的宣教

 すでに述べたように、旧約時代の宣教は求心的宣教でしたが、新約時代の宣教は遠心的な宣教です。教会に与えられた命令は、イスラエルに与えられた命令のように、住むことでも留まることでもなく、全世界に出て行くことでした。教会が愛の共同体として存在し、世の光としての存在を明らかにするのは大切です。教会が素晴らしい人々として尊敬され、うらやましがられ、美しい建物と魅力的なプログラムで、周囲の人々を教会にいざなうのも良い事でしょう。しかし、教会に与えられたキリストのご命令は、外に出て行く事です。出て行く事なしには新約時代の宣教とはなり得ません。人々を引き寄せるだけでは、本当の意味で新約時代の神の民とはなりきれていないのです。

 教会に与えられた、出て行くという使命は、エルサレム教会だけに与えられたものではなく、エルサレム教会から産み出された子教会、宣教地にある教会も同様に負っているものです。豊かな「キリスト教国」の教会だけが出て行くのではありません。貧しい宣教地の教会も、まったく同様に出て行くべきものなのです。なぜなら、どのように小さな弱い地方教会であっても、キリストのみ体である教会のすべての資質を潜在的に内包しており、宣教の使命を帯びているからです。個々の教会は普遍的教会の一部分ではなく、普遍的教会そのものの、地域的な現れ、表現だからです。もちろん、個々の教会の力によって出て行ける距離も範囲も異なるでしょう。具体的に送り出す働き人の数も異なるでしょう。あるいは、まだまったく出て行ける状態ではない教会もあることでしょう。しかし、出て行く使命を担っていることは自覚していなければなりません。そして、出て行けるときを目指して成長しなければなりません。

 教会は、旧約時代のイスラエルのように、全民族の祝福になるという使命を忘れて、祝福を自分たちだけに与えられた特権と考えてはなりません。教会は確かに祝福の交わりであり、愛の交わりであり、この世において神のシャロームが実現すべきところです。しかし、教会は存在する事を目的として存在しているのではありません。つまり自己のために、自分自身のために存在している互助団体ではありません。あくまでも神の祝福の器、神の贖いのみ業の継続としての福音宣教に携わり、罪人を悔い改めさせ、神のみ国に連れ来たるために、すなわち、外部の者のために存在しているのです。もし教会がこの事実を軽視して、ただ自己の存続のためにのみ力を注いで行くならば、栽培されたオリーブの木であるイスラエルを切り取られた神は、接木されたオリーブの木である教会をも切り取ってしまわれるでしょう。

D. 預言の民

 ペンテコステの日に、ペテロはヨエルの預言を引用して、今や息子や娘、しもべもはしためも預言をするときが来たことを告げました。聖霊がすべての人に注がれるために、彼らも夢を見、幻を見るというのです。旧約時代にはごく限られた特定の人々にだけ与えられたこのような能力、あるいは働きが、いまや、聖霊が注がれた結果として、聖霊が注がれたすべての者には、たとえ、どのように身分の低い者たちであろうと、分け隔てなく与えられるというのです。

 ここで聖霊が注がれた人々というのは、教会そのもの、つまりすべてのクリスチャンを指すのか、聖霊のバプテスマを受けた者だけを指すのか、明確ではありません。しかし、現在でこそ、聖霊のバプテスマは特別な事と考えられ、ある種のクリスチャンだけの主張と体験であると理解されていますが、本来、初代の教会では、すべてのクリスチャンが聖霊のバプテスマを体験するのが、通常と考えられていたことを考えるならば、聖霊が注がれた者とは、すべてのクリスチャンを指すと理解して良いはずです。

 基本的に、新約時代の神の民は全員、聖霊の注ぎを受け、夢を見る事も幻を見る事も出来ます。それは、旧約時代のように特別な人々に限られたものではなくなりました。しかし、ここで強調されているのは夢や幻を見る事ではなく、預言をする事です。夢も幻も預言に繋がってこそ役立つものです。また、夢や幻によらない預言も当然考えられます。つまりここで言われていることは、新約の神の民は全員、直接聖霊のお取り扱いを受けるという事実であり、全員が預言をすると言う事実です。夢を見幻を見なければ預言出来ないという事ではありません。なぜなら、ここで言われている預言とは、いわゆる聖霊による超自然的啓示を語ることだけではなく、神から預かった言葉を語ると言う意味だからです。旧約時代の預言者も、夢を見、幻を見た事でしょう。しかし、夢を見ず、幻を見なくても、彼らは託された神の言葉を語りました。つまり預言をしたのです。

 新約時代の神の民、すなわち教会は、共同体として神の言葉を託されています。また、その構成員であるクリスチャン一人一人は、主の証人としての言葉を託されています。教会は、全体としても個人個人としても、託された主の言葉を語る、すなわち預言をするのです。使徒の働きの著者であるルカの記録には、この預言が、特に贖いの働きにかかわる言葉の預言、すなわち、伝道であると言おうとしている意図が汲み取れます。福音は、組織された教会として、一部の聖職者たちだけによって語られるべきものではなく、彼らをも含めた、すべてのクリスチャンたちによって語られるべきものです。

 そういうわけで、新約時代の宣教は福音を語る宣教です。旧約時代のように、ただ祝福の中に生きることによって、イスラエルに神がおられると言う事実を告げるだけではありません。教会はイスラエルの祝福を継承するものではありますが、それだけではなく、み言葉を与えられている、語るべき福音、メッセージを与えられているのです。

E. 伴いたもう聖霊

 新約時代の宣教の最も大切な特質の一つは、聖霊が伴ってくださると言う事です。先に述べたように、キリストは世の終わりまで私たちと共にいてくださると、約束してくださいました。もちろんこのキリストの臨在は、聖霊による臨在であり、神が共にいてくださると言うのと実質的に変わりはありません。

 ところが、旧約時代の神の臨在、あるいは受肉のキリストの臨在と、聖霊の臨在とは大きく異なるところがあります。旧約時代のイスラエルは、「ヤーウエがその内に住みたもう民」として知られていましたが、イスラエルの中においてさえ、神の臨在は非常に特別な事であり、限られた意味での臨在でした。基本的に旧約の神は、幕屋と様々な儀式と犠牲が示すように、罪人からは遠く離れた潔い神であり、おそろしい神であり、人でも獣でも近づく者はかならず死ななければならない神でした。

 またキリストは、神のみ姿のままでは人を近づける事も人に近づく事も出来ない神が、神のみ姿を捨てて人となることによって、人と共にいることが出来るようになってくださった神、インマヌエルでした。したがって、キリストが人と共にお住みになるという事は、基本的に、人が人と共に住むのと変わらない、神の特質を捨てた「交わり」でした。ヨハネはキリストの胸に頭をうずめて甘えたことでしょう。それは、まったく人間的な行為で、それ以上の交わりは出来なかったのです。

 しかし、新約時代にはキリストの贖いが完成し、神殿の幕が人手によらないで切り裂かれ、神と人との隔てが取り除かれたために、神はもはや恐ろしくて近寄れない神ではなく、恐れなく近寄れとお招き下さる神となってくださったのです。また、神の姿を捨てて人と共に住んでくださる神ではなく、栄光の神のみ姿そのまま、全知全能の栄光の神として、人と共に住んでくださる。しかも、人の内に住んでくださる神となってくださったのです。それが聖霊です。

 キリストご自身がおっしゃったように、キリストが去って行かれることは良い事でした。それは聖霊が来てくださるからです。それが、「内に住んでくださる」という表現で語られているのです。共に住む、あるいは内に住むという表現は、物理的な距離とはまったく関わりがありません。あくまでも交わりの親密さ、交わりの距離の事です。物理的な意味では、旧約時代においても、神はすべての場所に、つまり人間の内側にさえもおいでになったからです。聖霊が内に住んでくださるという交わりの体験は、ヨハネがキリストの胸に頭を埋めた体験より、もっともっと深い、親密な交わりなのです。

 新約の神の民は、伝道という使命を果たすためにこの世に派遣されましたが、この神の民にはまったく新しい意味で、特別な意味で、神が共にいてくださり、内に住んでいてくださるのです。したがって、教会の伝道の働きは教会だけの働きではなく、共にいてくださる聖霊と共同の働きであり、内側から励まし、力となってくださる聖霊による働きです。教会が存在するところはでは、いつどこにおいても常に聖霊が働いて下さるのです。こうしてみると宣教とは、教会の働きというよりむしろ聖霊のみ業であり、聖霊の働きであると理解したほうが良いのかも知れません。教会が宣教を推進するのではなく、聖霊に用いていただいているに過ぎないのです。そのように考えると、教会は、何者をも恐れずに与えられた使命を遂行して行く事が出来るのです。



[1] カトリック教会内の通俗的マリア信仰によると、雄々しい男性として人の弱さに同情したまわないキリストに比べ、か弱い女性としてマリアは人の弱さに同情し、同情を持って執り成してくださる方と言うことになっています。

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