Missiology

Welcome to our homepage


宣教の神


 宣教とは、徹頭徹尾神のみ業です。たとえ人間の果たす役割があったとしても、それは神に用いられているにすぎません。

A.宣教の起源

 失われた人間を、訪ね出して救おうとなさったのは神です。創世記2:9に象徴的に語られているように、「あなたはどこにいるのか」と尋ね、探してくださったのは神であり、人間が神を捜し求めたのではありません。宣教の起源は、人間を愛してやまない神の心にあります。

 宣教の働きは、人間の思想や哲学や思惑によって創められたのではありません。世界の始まる前から神が計画し、時が至って神が実行に移してくださったものです。これは本質的に神のみ業であり、神の事業です。人間の企画や運動ではありません。宣教の働きは、人間が聖書の思想を理解し、その思想を運動として起こしたという類のものでもありません。神が起こしてくださり、人間はその運動に組み入れられたにすぎません。

 したがって、宣教の動機はあくまでも神の愛の中にあり、人類愛の中にはありません。宣教は人が人を救おうとする運動ではなく、神が人を救おうとする運動です。人間が人間を哀れむ心によって行われるものではなく、独子をさえ惜しまずに贖罪の犠牲としてまで罪人を救おうとなさる、神の憐れみによって行われるものです。宣教の働きに携わる者は、神の贖罪のみ業を本当の意味で自分の体験として、この神の憐れみを自分の内に持っていなければ、真実の宣教の働きをしているとはいえません。

  そしてまた、宣教の働きは神の熱心によって遂行され、貫徹されるものです。神が計画され実行に移される働きが、頓挫する事はありません。いかなる困難があり障害があろうとも、必ず完成されるのです。個々の宣教の働きには、いたるところに失敗があり、過ちがあり、挫折があります。しかし、この働きが人間の心から発生したものではなく、人間の頭から捻出されたものでもなく、神の強烈な愛から生まれ、神の熱心によって遂行されるものである限り、宣教自体は、あらゆる敵対勢力を打ち破って、必ずまっとうされるのです。

B.宣教の書

 聖書は救いを求める人間の業の記録ではなく、救いを与えたいと願う神のみ業の記録です。しかしそれ以上に、聖書そのものが宣教の書です。神は人間を救おうというみ心を聖書に啓示し、人間に贈り与えてくださったのです。

 確かに聖書は真理の書であり、あらゆる真理が隠されています。そこには天地の創造から新天新地の創造まで、どのような大河ドラマも及ばない雄大なスケールの物語が展開されています。さらにその物語の創作者であり演出者である神が、時と場所を超越した方として自己出演します。しかもそれがフイクションではなく、ドキュメンタリーとして語られているのです。更に人間の創造と堕落、イスラエルの選びとその歴史、血湧き肉踊るような英雄物語からロマンスまで織り込まれ、人間の性質について余すところなく描き出しています。そして、キリストの十字架の死を通しての贖罪の完成という、思いも及ばない神の救いの提供がものの見事に語られています。

 多くの作家たちが聖書を用いて小説を書き上げました。多くの画家たちが聖書を画題にして描きました。多くの音楽家が聖書によって啓発されて名曲を書き上げました。多くの哲学者が、心理学者が、科学者が、聖書によってその考え方の基本を教えられました。神学者たちは聖書を学び、組織神学をはじめ、様々な神学を打ち立ててきました。しかし、神が人類に聖書をお与えになった目的は、そのようなところにありませんでした。神は、人類を救おうとして、その救いのみ心と方法を啓示しようとして、聖書をお与えになったのです。聖書は神の語りかけです。聖書の中に宣教が教えられているのではありません。聖書が宣教の書なのです。

C.遣わしたもう神

 私たちの神は宣教の神、遣わしたもう神です。神は人類の救いのために 様々な人をお遣わしになっています。旧約時代にはモーセをはじめ、多くの神の人が遣わされました。預言者たちも遣わされました。み使いたちも遣わされました。この時代の派遣については、キリストがその喩え話の中で言及している通りです。(マルコ12:1〜5)さらに、受肉前のキリストも幾度か遣わされています。旧約聖書に登場するみ使いたちの中には、人々の礼拝を受け容れた「特別な」み使いがいました。人々の礼拝を受け容れるのは、神か悪魔のどちらかだけですから、このみ使いは受肉前のキリストであったと考えられています。

 キリストご自身も、ご自分の喩え話の中ではっきり語っておられるように、また、遣わされたお方です。マルコ12:6〜9) キリストは超絶した神の位から、虫に等しい人間の位までの無限の距離を越えて遣わされ、罪人の一人と数えられて下さったのです。失われた羊を求めて捜し歩いた数多くの羊飼いたちの中で、もっとも遠い道のり、もっとも困難な道のりを越えてくださった方です。神と人間との無限の隔たりという道のりを、越えてくださったのです。そしてキリストの場合、遣わされたという事は、遣わされ続けているという毎日の生活にまで及んでいました。キリストは空の鳥のような巣を持たず、野の狐のような棲家も持たず、枕するところがないまま、町々村々を訪ね、失われた者を探して巡り歩かれました。このキリストの派遣が、その後に続く弟子たちの派遣、教会の派遣の原型となったのです。(ヨハネ20:21)

 教会の派遣には、遣わされた教会の意欲よりも、お遣わしになった神の強い意志が良く示されています。教会は、明らかにキリストによって派遣されました。聖霊の力もいただいていました。しかし、キリストの派遣の命令、使命と権威の委譲とを理解しないまま、教会はエルサレムに留まり続けていました。そこで神は、迫害を用いて、教会が全世界ヘ向けて出て行くように仕向けられたのです。

 本格的に異邦人伝道に取り組む働きもまた、人の考えではなく、神のご意志によりました。異邦人のための器であるパウロは、自らの意欲で異邦人伝道を思い立ったのではありません。神が一方的に異邦人の祝福をご計画なさり(ガラテヤ3:14)、そのための器として、神が一方的に彼を選び整えられたのです。実際の派遣に当っても、アンテオケ教会が宣教の幻を持ってパウロとバルナバを送り出したのではありません。神が積極的にことをお運びになって、アンテオケ教会はただ単に、聖霊が彼らを送り出すままに任せたにすぎません。[1]

D.三位の役割

 父なる神は、すべての事柄において、源、創始者また主導者としての役割を果たしておられます。当然、三位の神がすべてのことの根源に関わっているのですが、創造者、絶対者として表舞台に出てこられるのは 父なる神です。贖いのご計画とその遂行においても、また、贖いの計画の一部である宣教においても、父なる神は創始者、統治者としての役割を果たしておられます。また父なる神は、おもに旧約時代を登場の舞台とされ、キリストが登場する中間の時代と新約の時代には、一見、表舞台からは退いておられるかのように伺えます。しかし、キリストをこの世に派遣されたのは父なる神であり、贖いの働きの実行に深く関わっています。

 これに対し子なる神は、贖いのご計画を遂行するためにこの世に派遣された方、贖いの業の実行者としての役割を果たしておられます。子なる神は、受肉以前にも神からの使者として幾度かこの世に遣わされていますが、直接、贖いの働きに関わるのは、人の子イエスとしてこの世に遣わされたときに始まります。また、子なる神の贖いの業に対する関わりは、十字架の死によって完全にキリストとなってくださった後も続きます。キリストは甦り、今も私たちと共に生き、贖いの働きの一環である宣教の働きを、共に推し進めていてくださるのです。しかし、今キリストが私たちと共に生き、共に働いてくださっていると言うのは、あくまでも、キリストがお遣わしになった聖霊においてのことなのです。

 聖霊なる神も、天地の創造の時から役割を持って活動しておられました。旧約時代にも様々な形で人間と  関わり、さらに受肉の神がこの世で活躍しておられたときには、彼に力を与える働きをなさいました。神の姿を横に 置かれた神として、キリストは神の力をも放棄していたのですが、バプテスマの時に聖霊をお受けになり、聖霊の力 によって神の業をお始めになったのです。しかし、聖霊なる神の宣教に関わる働きの主な舞台は、キリストによって 、「別の助け主」としてこの世に遣わされた時からのことになります。聖霊は今私たちと共にいてくださる神であり、「キリストの霊」としてキリストご自身であり、「神の霊」として神ご自身であられるのです。この聖霊なる神が、現在  の私たちの信仰生活のあらゆる分野に直接関わっておいでになるのですが、贖いの業としての宣教を成し遂げる ことが、その重大な役割となっています。


[1]   ときおり、アンテオケ教会が積極的に異邦人伝道に乗り出し、二人を派遣したかのような説明を聞きますが、原語では、「二人が出て行くに任せた」と言う意味の、消極的表現が用いられています。

Copyright © 2007 Masaaki Sasaki All right reserved.