Missiology



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グローバル化と宣教



 ポストモダンが思想的、精神的世界の現代であるとするならば、それから少し遅れて語られるようになって来たグローバル化は、情報、流通、交通、経済の「世界一元化」と、そこから出現する文化と思想の混合、あるいは平均化のことです。

 交通の発達と情報の発達が、世界を小さくしてしまいました。つい百年前、どんなに急いでも一ヶ月、あるいは数週間はかかった世界一周が、わずか一日で出来るようになりました。地球の裏側の事がリアルタイムで伝えられるようになりました。本人の映像を見ながら、世界中の人たちとお喋りが出来るようになります。このグローバル化は、見る者の立場によって異なった評価を得ていますが、宣教学的にも、真剣に対応しなければならない重大な問題です。まさに想像を絶する世界が、想像を絶する早さで近づいているのです。世界はまさに爛熟期に入っています。熟した柿がまさに木から落ちそうになっている世界、主の再臨がいよいよ近くなっている世界であり、宣教の急務を実感します。

A.グローバル化と倫理

 2003年6月、カナダのバンクーバーにおいて、福音派団体の宣教に関わる働きに携わっている人たちが、50数ヶ国から200人以上も集まり、宣教会議を開きました。そこで取り上げられた大きな問題の一つが、「グローバル化の中での宣教」ということでした。討論の中で、グローバル化の倫理性の問題について、議場から質問が出されたのですが、驚いたことに、発題者を始めとして討論に加わった者のほとんどが、グローバル化を倫理から切り離して、というより、倫理とは関わりの無いものとして考えていたことがわかりました。彼らは、グローバル化はナイフやハンマーと同じく、それ自体、白でも黒でもなく、用い方によって白にも黒にもなるという、単純なというべきか、無関心なというべきか、あるいは盲目的加害者とも言うべき心理状態しか、持ち合わせていなかったようです。このような国際会議の常ではありますが、会議の主催者が欧米の白人であり、参加者の大半が欧米の白人であり、発言者の殆どが欧米の白人である限りは、グローバル化も、欧米の白人の目から見たグローバル化、あるいは欧米白人と肩を並べて、グローバル化によって恩恵を期待出来る、有利な立場の人々から見たグローバル化として、捕えられてしまいます。グローバル化によってますます搾取されて行く発展途上国の人々とでは、受け止めかたがまったく違うのです。

 グローバル化は単に情報や交通機関の発達の問題ではありません。それが、現代資本主義という人間の欲望を満足させる事を基本にした、経済思想と経済ネットワークの中で進められ、ほとんどの場合、経済帝国主義のアメリカによって牛耳られているという現実を、しっかりと見なければなりません。国々は絶対に、自分の国の利益を最優先にしてものごとを進めようとします。資本主義は弱肉強食です。いま一番強いのはアメリカです。アメリカは、あらゆる分野において、自国に都合が良いように物事を進めています。様々な経済条約や規定、自由貿易にしろWTOにしろ、その他の様々な通商条約にしろ、すべて自国に都合が良いように作成して弱い国々に押しつけ、自国に都合良く解釈して適用し、自国に不利になれば脱退してしまいます。アメリカ以外の国々でも、機会さえあれば同じことをします。そのような、人間の欲望を丸ごと肯定した物質文明、現代資本主義文明の結果と道具がグローバル化なのです。[1] 

 グローバル化は、現在非常に深刻な問題である経済格差をますます広げて行きます。いまでも、毎日数万人もの弱者が、強者の犠牲になって飢え死にしています。公平な経済取引を名目に、強者は何の心の痛みも感じないまま、知らないうちに、9.11のニューヨークのテロで死んだ人々よりも多くの人々を、毎日殺しているのです。グローバル化は美しい顔を持ちながら、死者の数をうなぎ上りにさせているのです。日本が現在のアメリカのような絶対の強者として君臨し、グローバル化を進めていないことは幸いです。わがまま勝手なアメリカではありますが、アメリカで良かったと心から思います。これが日本だったら、他の国々だったら、事態はもっともっと深刻だったことでしょう。ただ、日本もまた、アメリカの後ろにくっ付いて、おこぼれにあずかっているヨーロッパ諸国と同じく、おこぼれにあずかれることを喜んでいる国であることは、恥ずかしい限りです。

 さらにグローバル化は、強者の文化を押し付ける結果になります。グローバル化とはアメリカ化であると言った人がいますが、否定出来ない面がたくさんあります。もちろん、いまや世界の多くの国々で読まれるようになった日本のマンガやアニメなどに見られる逆グローバル化現象といわれるものも散在します。しかしそれさえ、大きな意味でのアメリカ文化の流れに乗った現象に過ぎません。

 日本はアメリカと共に、強者の陣地に属しています。弱者の痛み、弱者の苦しみ、弱者の悲しみ、弱者の恨み、弱者の反発、弱者の怒りがわかりません。宣教学的に問題なのは、福音が、このようなグローバル化と一つになって、弱者の世界に伝えられることです。アメリカにおいては、ペンテコステ派の人々は他の多くの福音派の人々と同じく、保守的な人々で、アメリカの価値を信じている人々です。ペンテコステ派の宣教師たちの多くは、無邪気にアメリカ文化の優越性を信じている人々です。ペンテコステ派のかなりの部分は、今のアメリカの繁栄は神の賜物だと単純に信じている、善男善女です。グローバル化の邪悪性などにあまり関心を持たない性質の人々です。福音宣教のためならば、「悪魔とさえ手を結ぶ」ことをよしとするところさえある人々です。グローバル化の推進力である最先端の技術と機器を用いて、いかに効果的に福音を伝えることが出来るか、ありとあらゆる手を用い、努力を続けることでしょう。

 アメリカ的福音が、アメリカ的グローバリズムの一部として世界に伝えられるとしたら、福音にとって不幸なことであり、そのような福音を聞かされる人々にとっては悲惨なことです。ベトナム戦争の末期からしばらくの間のアメリカは、自信を失ったアメリカでした。アメリカ人宣教師たちの多くは、自国に対する誇りを表に出すことなく、福音を伝えることに専念しようとしました。いまや、アメリカ人は自信を取り戻し、歴史も文化も異なった国々にアメリカ型民主主義を押し付けるという、民主主義に反することを人権の名の下に行なっています。自分たちが定義した人権という言葉を、グローバル化の流れの中で用いさえすれば、すべてが正当化されると考えているかのようです。そして、そのような思考方式が、福音にも適応される危険性があるのです。自信を取り戻した宣教師たちは福音の名の元に、すべてを正当化させないとも限りません。

 このようなアメリカ型ペンテコステ運動のいびつな精神が、たとえば、急速な経済発展と驚異的な教会の成長を経験した韓国にも飛び火をして、非常に傲慢なペンテコステ運動を産み出してしまった事は、深く反省しなければなりません。30年間にわたる日本の不当な支配に苦しめられ、やっと独立を勝ち取ったかと息つぐ間もなく、国家分裂と北の共産主義国家の侵略の脅威、さらにその北朝鮮の存在で自らの存在を正当化した、独裁政権の腐敗と一般国民の貧困は、屈折した民族的優越感と劣等感が織りなす、複雑な心理状態を作り出していました。そのような国民が、アジアの奇跡と言われる経済発展をなし遂げたのです。民族的劣等感はたちまち内側に深く押しやられ、優越感が表に躍り出て、一見、自信に溢れた韓国人が出現しました。

 韓国人クリスチャンたちには、さらに自信に溢れる理由がありました。経済発展と前後して教会が急激に成長し、世界の注目を浴びるようになったからです。特に伝統的ペンテコステ運動の中心であったアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は驚異的成長を遂げ、まさに飛ぶ鳥も落とす勢いでした。そして彼らは、誇りを持って、自分たちの教会と信仰と手段を、数多くの宣教師たちと共に世界中に輸出しようとしたのです。

 韓国での教会の成長自体は素晴らしい事であり、さらにそれが続く事を望みますし、韓国のペンテコステ運動が世界各地で大きく貢献したという事実も、喜んで認めなければなりません。私たちは韓国人クリスチャンと共に喜び、神をあがめるものです。しかしまた、彼らが宣教の分野で残した弊害もまた、大きいことを指摘しなければなりません。彼らは自信に溢れ過ぎていたのです。それは劣等感の裏返しの自信で、非常に傷つきやすいものです。特に日本人からそのように指摘される事など、我慢の出来ない事であろうと思われます。しかし、主のみ業を自分の功績にしてしまう誤った自信は、まず、自分たちが長い時間祈ったから、たくさん祈ったから、断食して祈ったからリバイバルが興り、教会が成長したのだと公言して、主の働きを自らの功績にしてしまう思いあがりに始まり、様々なところに見え隠れします。神からの祝福を、自分の功績にたいする神の報いと受け取って疑わない単純な信仰は、決して非聖書的なのではなく、旧約聖書的なのですが、アメリカ文化の一端でもあり、韓国においても文化的に受け容れられてしまったのでしょう。

 傷つきやすい民族的優越感と、優れたクリスチャンであるという自覚から派生した優越感は、いたるところで、福音の宣教に名を借りた、自分の功績の追及を産み出してしまいました。幼い頃から、公に功績を賞賛する文化で育ったアメリカ人から受け継いだ福音、どのように良いことをしても、公に功績が認められなければ価値がないとさる文化で育ったアメリカ人から伝えられた宣教ですから、彼らが互いに協力し、宣教地の教会や他国からの宣教師とも力を合わせて働き、結果を自分の功績とはせずに協力者をたたえ、栄光を神に帰すという、当たり前のことが非常に難しくなってしまったのです。行く先々で、彼らはすでに存在している現地の教会や働き人たちと軋轢を作り出し、[2] それまで平和に存在していた教会の中に、また働き人たちの中にたくさんの分裂問題を引き起こしています。[3] かれらが宣教地で建てた教会には、どこの国においても韓国語の名前が付けられ、韓国の文字の看板が掲げられ、韓国式の教会形式が押しつけられ、韓国語の賛美が歌われているなどという、笑い話のよう例を見る事が出来ます。

 このように、福音が資本主義的帝国主義と一つにされて宣教されると、大変不幸な結果を生み出してしまうのです。私たちアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、アメリカ型キリスト教であることを改めてしっかりと認識し、いま、アメリカ文化と自らの信じる福音とが別のものであると言うことを、あらゆる面で確認しなおさなければなりません。幸い私たちのペンテコステ運動は、今やアメリカの運動というよりは世界の運動になっています。アジア、アフリカ、ラテンアメリカの運動になっています。しかし、それは地域と人種、言語的な意味においてとりあえずそうなっているだけであって、文化においても、思想においても、神学においても、実践においても、宣教においても世界の運動にならなければならないのです。福音は、最強の国家であったローマ帝国によってではなく、弱小国のユダヤから宣べ伝えられたのです。ローマの道路、ローマの力、ローマの通商を利用しましたが、ローマの福音ではありませんでした。そして・・・福音がローマの福音になったとき、教会は堕落したのです。

 福音は、あらゆる機器を利用し、あらゆる機会を用いて宣べ伝えられるべきです。グローバル化の手段になっている機器も通商も利用されるべきです。しかし、それらと一つになってはなりません。福音が世俗的なグローバル化の一端として、聞く者に受け取られてはならないのです。宣べ伝える側に、その事に対するはっきりした自覚、明確な認識が必要なのです。そして強者としてではなく、むしろ弱者として、弱者と共に生きる者として、弱者の目で世界を見、弱者の目で福音を理解し、語って行かなければならないのです。今後、強者の人口はどんどん少なくなり、弱者の人口はますます増えつづけることでしょう。ペンテコステの福音が、繁栄の福音のような強者の福音ではなく、アメリカン・ヘリテイジのような福音ではなく、[4] 圧倒的多数の、弱者の福音にならなければならないのです。ペンテコステの神学は、19世紀後半の社会情勢への適応としての神学から、21世紀の世界の社会情勢へ対応する神学、21世紀の人々に語りかける神学にならなければならないのです。

B.グローバル化とメデイア

 グローバル化で最も特徴的なのは、通信情報、メデイアの分野の革命的発達です。そしてペンテコステ運動の特徴の一つに、上手にメデイアを用いて来たことが上げられます。それは印刷物から始まり、ラジオ、映画、テレビと続き、ビデオ、フアックス、通信衛星を用いての国境を超えた同時放送、電子メール、ウェブサイト、DVDとあらゆる分野に及んでいます。ペンテコステ運動は、今後もこれらの非常に効果的な情報通達手段を用いて、宣教の働きを推し進めて行くことでしょう。世界のメデイアの多くが、裕福なアメリカに買い取られ、その時間やスペースが裕福な(いまや裕福になった)ペンテコステの人々に買い取られて行くことでしょう。

 グローバル化に乗って、今後、世界の言語はどんどん少なくなり、幾つかの主要言語だけが、ますます多くの人々に用いられるようになっていくでしょう。すると、メデイアを通しての伝道はいよいよ効果的な手段となり、さらに多用されて行く事でしょう。あと少しで、世界中の大多数の人々が「自分の言葉」で福音を聞くことが出来るようになるのは、まず間違いのないことでしょう。現在の北朝鮮に見る短期間の例は別として、メデイアというものを国境でとどめることは不可能です。中国がすべての宣教師を追放し、国家を封鎖していた時でさえ、多くの中国人は、ペンテコステの人々が中心となって設立したFEBCを通して、福音を聞き続ける事が出来ました。すべての宣教師が追放されているミャンマーでも、メデイアの伝道を抑圧する事は不可能です。イスラム国家においても、福音の電波を完全にとどめる事は出来ません。

 一方、アメリカやヨーロッパなどの先進国から、貧しい開発途上国へ出て行く宣教師の数は減少する事が考えられます。宣教師という働きから、「二つのG」が完全に消滅してしまい、「ただ一つのG」しか残らなくなるからです。[5] また、先進国の楽な生活と開発途上国の困難な生活のギャップがますます大きくなり、先進国の生活に慣れてしまった人が、開発途上国で生活し、そこに住む人々と共に生きる事は、非常に困難になると考えられるからです。こうして、西欧的ペンテコステ運動の宣教はますますメデイア化し、生身の人間が消えてしまう傾向が出てきそうです。たしかに情報提供としての世界宣教は、もしそれが宣教と認められるならば、あとわずかで達成されるでしょう。しかし、宣教とは単な情報提供ではありません。

 福音が天使たちにではなく、人間に託されたと言うことを考えなおして見ると、福音とは生身の人間が生身の生活を通して、足と口を用いて語るものでなければならないと言うことが明白です。情報提供としての宣教も大切であり、その価値は充分に認められなければなりません。時には、情報として届けられた福音を用いて、神は人々を救い、み業を行なってくださることでしょう。しかし、福音は人間の生の声によって伝えられなければならないのです。この点において、西欧ペンテコステ運動の弱点がますます明らかになって行きます。しかし幸いな事は、ペンテコステ運動はもはや西欧の運動ではないと言うことです。全世界の国々に、ペンテコステ運動が、宣教の運動として伝わっているのです。全世界のペンテコステ教会が、それぞれの活力をもって人の口から伝えられる福音を伝えて行くことでしょう。貧しく痛めつけられている国の福音の使者は、同じ境遇に投げ込まれている隣の国、隣の民族、隣の部族に、心からの同情と痛みを持って、メデイアを駆使して声高にではなく、囁きをもって心に語りかけて行くことでしょう。

 もし、伝統的な西欧ペンテコステ運動が、圧倒的なメデイアを通して基本的ペンテコステ信仰の基礎を、すなわちその福音主義的な聖書観に立つ、現代に生きて働きたもう神の神学と、異言を伴う聖霊のバプテスマを浸透させて行く一方で、貧しい国々のペンテコステ運動が人の口を通した福音宣教を進めて行くことが出来れば、かなりバランスの取れた、効果的な宣教が行われる事になります。宣教地のペンテコステ運動にはつきものの宗教混合の傾向にも、歯止めとなることでしょう。

 しかし、西欧、特にアメリカのペンテコステ運動のメデイアによる宣教、あるいはそのようなペンテコステ運動を模倣したと思われる、アジア、アフリカ、ラテンアメリカのペンテコステ運動のメデイア伝道は、これまで、しばしばかなり怪しい、非聖書的な教えを強調する人たちによって進められて来た事実を、重く見なければなりません。繁栄の福音、レーマの神学、現象主義の御利益信仰、勝利主義的な教会観、好戦的な保守主義、そしてそれらに伴う様々な醜聞が教会内だけに留まらず、一般社会でも取り上げられるほどになりました。西欧ペンテコステ運動のこのような「陰の部分」が、これまでと同じように表面化し、自由経済という馬に乗り、民主主義という衣を着た帝国主義とあいまって、貧しい開拓途上国に伝えられていくとすると、ペンテコステ運動は良くて偽善の宗教、悪くすると経済帝国主義の手先と成り果て、貧しい国々の一般大衆の敵となってしまいます。 

 宣教地において、そのような福音のイメージがメデイアを通して定着してしまうと、生活を通して口をもって語る宣教、生身の人間を通しての地道な宣教は、非常な困難に陥れられてしまうのです。先進諸国の、特にアメリカのペンテコステ運動に関わる人々の、正しい福音理解に期待する以外にありません。[6] そして、多分それは空しい期待に終わる事でしょう。そういうわけで、これからしばらくのペンテコステ運動による世界宣教は、グローバル化の中での富める国のメデイア伝道と、貧しい国々の生活を通しての伝道のあいだの、に大きなギャップに苦しむことになりそうです。世界経済のあり方に対して語る神学、貧富の差の拡大について語る神学、グローバル化の傾向に対して語る神学、弱い絶対多数の人々に対して福音として語りかけられる神学が、緊急に必要です。アジア、アフリカ、ラテンアメリカの神学者たちに期待し、そのために祈り続けることが大切です

C.同一性と多様性

 グローバル化は必然的に同一性に向かいます。世界が均一化され、平均化すると言うことです。しかしそのような均一化、同一性は、矛盾しているようではありますが、多様性を認めるという同一性を含みます。世界中どこでも同じ製品が手に入り、同じ食べ物を食べ、同じニュースを見聞きし、同じ交通手段、同じ通信手段を用いるようになる一方、たとえば、先に述べたように貧富の差はますます広がり、それがまた、多くの多様性の中の一つとして容認されるというような、逆方向の同一性が認められるでしょう。

 同一性の中には世界全体を被うような同一性から、地域や、民族や、宗教などに大別されて行く同一性が出てくるでしょう。同一性が形成されて行く過程には、寛容性と非寛容性が同居し、離合集散が繰り返され、それぞれが世界観、価値観、人生観などを、根底から問い直さなければならないような事態が生じてくるでしょう。とはいえ、このようなことは小規模ながら歴史の中で繰り返されて来た事です。 

 たとえばアメリカの歴史を見ると、最初は、自らの宗教的確信を絶対としていた人々が、母国の宗教的迫害を逃れ、自由を求めて新大陸に渡って来たことによって開拓されたのですが、やがて、母国では互いに認め合う事が出来なかった、異なった宗教的立場の人たちが、迫害のために自由を求めて渡って来たという同じ理由のゆえに、互いの存在を容認し合えるという同一性を確認するようになりました。それは、やがて宗教と国家を分離する政策を共有するという同一性に至り、[7] さらに、基本的人権の意識に結びつく同一性が形成されて行きました。そこから、宗教だけではなく、人種や文化、言語、あるいは政治的信念を超えた、個人の自由と言う共通の理想が掲げられるようになりました。それまでは、宗教や人種あるいは強権という共通要因によって形成されていた国家が、初めて、個々の基本的人権を認め、自由を保障するという理想によって、国家が形成されたのです。

 ですからアメリカ合衆国とは、人種、文化、肌の色、言語、宗教などのあらゆる相異に捕らわれず、個人の基本的人権と民主主義を旨とする合衆国憲法を受け入れ、これを理念とする者によって形成される国家なのです。かつてアメリカは、長い間、どのような国家に生まれ、どのような教育を受け、どのような政治体制に育ち、どのような宗教を持ち、どのような個人的信念を持ち、どのような嗜好をもっていようとも、迫害を逃れてアメリカに渡って来た人々が合衆国憲法に同意するという前提で、国民として受け入れて来たのです。したがってアメリカという国家にとって、合衆国憲法が掲げる基本的人権と民主主義は、人種、言語、文化、宗教、政治信念、その他のいかなるものより崇高な理念であり理想なのです。ひとたびこのような理想を掲げた国民は、その理想を世界のどの国家、どの民族の理想より高い、超国家的、普遍的理念と考えて、この理想を旗印として、文化的侵略をもいとわないばかりか、その理想のために外国に派兵し、内政にも干渉して行くのです。

 これは、コーランと言う絶対の書物をもって国家を建設しているイスラム諸国と、顕著な対照を見せています。イスラム諸国では、国家のまつりごとをはじめ、人間生活のほぼすべての面がコーランの教の解釈によって規制されて行きます。コーランに反すると判断される考え方は絶対に受け容れられず、個人の自由や民主主義というアメリカが高々と掲げる基本的人権の多く、あるいはほとんどが無視されてしまうのです。アメリカの価値観、国家観、人間観とまったく異なったものがそこにあるのです。アメリカ国内では、このようなイスラム信仰さえ憲法によって尊重されますが、イスラム国家の中ではアメリカ人の理念は絶対に尊重されないのです。

 一方、和を尊ぶ日本的な文化もまた特殊なものです。地理的に他の民族、国家、文化から隔離されて独自の生活様式を作り上げ、その中にぬくぬくと生きて来た日本人の和の文化は、もともと相異を認めない文化でした。同じである事が基本であり、異なったものは排除して来たのです。排除し切れない異質なものは、同じと認められるまで作り変える事によって存在を許して来たのです。[8] それが太平洋戦争に負け、近代的なアメリカ合衆国憲法の人権と民主主義の理念に触れると、いとも単純に、すべての民族は同様に生きる権利を持ち、すべての文化は同様に尊重されるべきであると、軽々しい理想論を振りまわして、たとえばイスラム的な価値観や、基本的人権と民主主義の価値観を理解しないまま、安易に「世界の和」などを説き始め、アリカの覇権主義的民主主義を非難し、イスラムの非寛容性を非難するのです。日本の和の精神は、決して寛容な和の精神だけではなく、排他に基づく和の精神でもあったことに、注意をしなければなりません。自分たちと同様になれず、かといって自分たちの目の届かないところで、一切関わりなく生きる事も出来ない人々に対し、日本人は非常に過酷でした。日本人は人間である自分たちが理解出来ない人々、人間である自分たちと同調出来ない人々を、人間とみなさず、チンコロと呼び、土人と呼び、鬼畜と呼び、殺戮して来たのです。日本人の人権も民主主義も付け刃金にすぎません。

 大きな文化圏だけを取り上げたとしても、世界にはまだまだたくさんの、互いに異質な、相反する文化がたくさん存在します。文化は、互いに異なった文化に対しては非寛容なのです。すべての文化に対して寛容を謳っているアメリカ合衆国憲法も、その原則とする理念、すなわち人権と民主主義に反する文化に対しては非常に非寛容的です。グローバル化とは、このような文化の衝突、世界観、価値観、人生観の衝突のくり返しと自然淘汰が、物凄い勢いでいたるところに起こると言うことです。

 宣教学的な問題は、このような中で、私たちの語る福音をどのように位置付けるかと言うことです。かつて多くの社会派と言われる教会は、すでに半世紀も前に文化の相対性を主張して、福音をヒューマニズムの下に位置付けました。福音は多くの文化の一つに過ぎず、基本的人権や民主主義あるいは世界平和といった、ヒューマニズムの理念に仕えることにおいてのみ、価値が認められたのです。それは、人権や民主主義を是とするアメリカやイギリスの国家の価値観に合致するものでした。彼らのたどり付いた結論は、福音の宣教は不要であると言うことであり、宣教師は速やかに本国に帰るべきであるという事でした。 

 福音派であり、正統主義あるいは原理主義とさえ呼ばれる、古典的ペンテコステ運動に属する私たちは、21世紀という急激な文化の衝突の世代にあって、福音をどのように位置付けるべきでしょうか。

 私たちは福音の絶対性を信じています。私たちの神は唯一絶対であり、聖書の権威は絶対です。しかし、多くのイスラム諸国と同じような非寛容性を持つものではないのです。なぜなら、私たちは現在の世界を、神の寛容の世界、すなわち「恵みの時、救いの日」と位置付けているからです。神はその寛容のゆえに、罪人をただちに裁いて定められた永遠の死に至らせる事をせず、猶予期間を置き、「恵みの時、救いの日」として、人々が救われる事が出来る期間を与えてくださったのです。また、神は人間の自由意思を尊重し、人間に選択の自由を残してくださいました。ですから、キリスト教信仰の強制と言うことは、どのような形であっても、絶対にあってはならないのです。それが迫害や脅かしによる物理的な強制であっても、あるいは洗脳や誘惑のような心理的な強制であっても、自由意思を人間にお与えになり、選択の自由を残された神のみ心に反する事になるからです。神がすべての人々、すべての文化に対して寛容であられるゆえに、私たちもまた、寛容であり続けるのです。

 もちろん私たちの神は寛容だけの神ではなく、恐ろしい裁きの神です。しかし教会は、すなわち私たちは、神の裁きを、自分たちの手に取ってはならないのです。裁くのはあくまでも「復習はわれにあり」とおっしゃる神であり、裁きの時もまた未来に属するのです。現在の私たちに許されているのは、神の寛容をもってあらゆる罪人の存在の権利を認め、あらゆる文化の存在の自由を受け入れながら、絶対の福音を明確に提示して行くことであって、神の義の使者として、世界を糾弾し断罪する事ではないのです。ましてや、福音に敵対する文化や宗教を敵視し、それに物理的戦いを挑んで行くものではないのです。私たちの戦いは血肉に対する戦いではなく、この世の君に対する戦いであり、明確な福音の提示による戦いなのです。それは福音の強制ではなく、あくまでも聞くものの自由意思を尊重した提示でなければならないのです。

 くりかえしますが、私たちは福音に敵対する者たちの存在を許さなければなりません。しかしそれは、一般のヒューマニストたちが言うように、彼らが人間として本源的な尊厳と価値を持ち、本源的に存在の権利を有するからではありません。あくまでも神の憐れみのゆえに、本来亡びなければならないにも拘わらず、来るべき裁きの日まで、一定期間、救いのための恵みの日としての猶予を与えられ、存在する事を「許していただいている」からなのです。人間の尊厳は、すでに罪によって失われているのです。もちろん、神に似せて造られた姿が完全に失われたのではありませんが、罪は、人間の尊厳を神のみ前から失わせたのです。神が人間を愛し続けて下さるのは、人間が神のみ姿の片鱗を残しているからではなく、ただ、神の一方的な憐れみによるのです。

 福音は本来普遍的なものであり、パウロがそのために命を賭けたように、特定の民族や文化に拘束されてはならないものです。福音はすべての民族、国家、文化の中で、たとえその民族、国家、文化が、キリスト教に敵対する宗教やイデオロギーに支配されていたとしても、その不条理の中で宣教されなければならない性質のものであり、それらをまず破壊してから、宣べ伝えられるべきものではありません。


[1]   著者は討論者の中でただ一人、グローバル化が人間の倫理性と切り離せないものであり、現代の犯罪的資本主義の手段として進められている現実がある限り、非常に犯罪的であると論じて、欧米白人以外の参加者たちから大きな拍手をもらいました。また、後になって、グローバル化を深刻な倫理の問題として捕えている人たちも、欧米白人の中にも少数ながらいたことがわかりましたが。発題者の一人で、難民の救済活動をしながら伝道をしている女性もその内の一人でしたが、他の発題者たちの勢いに押されて、気後れし、自分の意見を明確に主張出来なかったことを残念がっていました。
[2]    この問題は、AGAMA (アジアと太平洋を取り巻く国々のアッセンブリー教団が、協力して宣教を推進しようという、目的で設立した交わり) においても幾度も取り上げられました。一つの対策として、AGAMAのなかに委員会を組織し、AGAMAレコメンデーションとして声明文を作成し、機関誌に掲載してきました。著者はこの委員会で声明文の下書きを作成したのですが、これを読んだ韓国の純福音教会の外国宣教部長は、「自分たちの間違いを痛切に理解した。今後そのような事が行なわれないように、自分たちが送り出す宣教師を教育したい。また、今までのことを主にあってお赦し願いたい。」と、アガマの代表者たちの前で謝罪し、「そのような宣教師が皆様の地域にいたならばお教え下さい。注意をし、教育し、それでも変化がなければ韓国に呼び戻します。」とおっしゃってくださいました。彼は次の年の会議でも同じように詫びたのですが、韓国の純福音教会では、外国宣教部長の任期は一年ですので、その後、彼に会う機会が無いままになっています。1980年代の後半の事です。
[3]    韓国のキリスト教会は一般的に分裂を繰り返す教会であり、最も大きな長老派だけでもおよそ400の団体が存在するほどです。そのような性質は、宣教地においては非常に迷惑であることは、あえて説明の必要もありません。
[4]   1970年代から1980年代にわたって、アメリカのアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団が開設した、テレビ伝道プログラム「PTL」の主宰者が造り上げた、非常に贅を尽くした本部施設の名。アメリカン・ヘリテイジとはアメリカの伝統、あるいは遺産とも訳せるもので、彼らの考え方の中には、ペンテコステの福音とアメリカの伝統文化の混同が見られます。このプログラムは当初非常な成功を見、英語が通じる世界の諸国で放映され、また日本のように英語が通じない国々でも、英語版の焼き直しが作成されました。ただし、やがて主宰者の不道徳が発覚し、プログラムは閉鎖されました。
[5]    むかしから、宣教を推進させてきた「三つG」というものがあったと言われています。それは gold, glory, gospel(金、栄誉、福音)ですが、植民地政策が過去のものとなった現在、gold は消え去り、世俗メデイアが反乱する中では未知の世界から帰還するglory も失せ、残るのは純粋な宣教の使命であるgospelだけとなりました。
 
[6]    戦国時代から徳川幕府時代へ至るカトリックの宣教が、大迫害によって終焉した一つの理由は、カトリックがスペインの植民地主義の手先として活動している事を、家康に知られたからであると言われています。イエズス会の宣教師であったロイス・フロイスは心底ではスペインを嫌っていましたし、純粋な宣教の情熱を持って働いていた人物でした。イエズス会の本部やバチカンに対しては、日本がどのように優れた国であり、日本人がいかに礼儀正しい愛すべき人間であるかと言うことを書き記し、カトリック化に期待を寄せていますが、植民地化の手先となっていたドミニコ会の宣教師たちとは折り合いが悪く、植民地化を望むスペイン国王に対しては、日本が遠隔の貧しい国で植民地にしても何ら益することが無い上に、日本人は野蛮で好戦的であると書き送り、植民地化の野望に水を差そうとしています。現在、植民地政策はありませんが、それよりもさらに過酷な経済搾取が合法的に行なわれているのです。宣教師たちはおろか、本国でメデイア伝道に携わる者たちにも、現代のフロイスとしての宣教理解が求められているのです。
[7]    政教分離を最初に唱えたのはロジャー・ワグナーというバプテストの教職者でしたが、これは、近代民主主義の黎明とも言える出来事でした。
[8]    たとえば日本は外国人を「外」の人間として排除してきました。大東亜共栄圏の野望を実現しようとしたときは、侵略したすべての国で日本語を強制し、朝鮮や台湾では日本名に改名する事を義務付けました。
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