Missiology



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宣教の定義

                                            2004年2月3日〜7日
                                         東京・駒込・中央聖書神学校
                                                講師:佐々木正明


 宣教論を進めるにあたって、まず、宣教という言葉の定義を明確にし、同じ土俵で相撲を取ることが出来るようにしましょう。

A.字義からの考察

 宣教という言葉は、英語のミッション(Mission)の日本語訳です。英語のミッションは、ラテン語のミッシオから派生したとの事です。ラテン語のミッシオは、ギリシヤ語新約聖書のアポステローの翻訳として用いられた言葉です。アポステローは、使命を与えて派遣すると言う意味で、この名詞形のアポストロスは、日本語新約聖書においては「使者」、もしくは「使徒」と訳されています。

 そういうわけで、ミッションは「派遣された使命」、あるいは「派遣された目的」と理解されるようになり、ミッショナリーという言葉は「使命を与えられて遣わされた者」、すなわち聖書で言う「使徒」と同じ意味で用いられるようになりました。[1]

  一方、聖書をよく学ぶならば、遣わされたのは使徒たちだけではなく、すべての召された聖徒によって構成される教会そのものが、使命を与えられてこの世に派遣されているという事実に気付きます。したがって私たちは、宣教とは「教会がこの世に遣わされるにあたって与えられた使命」、「教会がこの世に遣わされている目的」、「本来み国に属するべき教会が、いまだにこの世に留まり続けている理由」と理解します。

B.聖句からの考察

 宣教の意味を明らかにしている聖書語句に注目し、考察してみましょう。

1.キリストのみ言葉 

 教会をこの世に派遣したキリストは、その派遣のお言葉の中で、宣教の基本的な要因を幾つか述べておられます。

a.(マルコ16:15)[2]

 「それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」

 このみ言葉ではまず、教会の使命、すなわち宣教は「全世界」を対象にしたものである事が解ります。キリストの活動自体はイスラエル国内に制限されていましたし、イスラエル人以外に対する働きは、むしろ例外的でした。とはいえ、そこにはキストの働きの普遍性が、すでに胚芽として示されていました。キリストは教会に対して明確に使命を与えるに際して、福音の普遍性をも、あらためて明確になさいました。これはマタイとルカが記録したキリストの宣教命令においても、「あらゆる国の人々」、「地の果て」という言葉で表現されています。

 次に、宣教の手段が明らかにされています。それは出て行く事です。マタイは「行って」と記しています。ルカの記録では「地の果てまで」という言葉、ヨハネの記録では「遣わします」という言葉が、それぞれ出て行くことを示唆しています。出て行くという事は、単にメッセージを送る、あるいは手紙を書くということとは異なります。そこには語る者と聞く者との共通の生活、生活、痛み、喜びと悲しみがあるからです。

 次はすべての人々を対象に、わざわざ出かけて行く目的、使命、すなわち宣教の内容が明らかにされています。それは「福音を語る」事です。原語では単に語るのではなく、むしろ公に宣言するという意味あいがあります。福音とは、キリストの十字架による贖いの業によってもたらされる、救いの賜物です。

b.マタイ28:18〜20 

 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

 このみ言葉では、宣教の対象が「あらゆる国の人々」となっています。ただし、この翻訳は誤解を生みます。原語では「あらゆる部族」という意味の言葉が用いられており、現代の国家という意味はありません。ある宣教学者たちはこの原語を「ピープルグループス」と解釈して、単に、人種的言語的あるいは歴史的部族という理解にとどめず、現代の複雑な社会の中の、様々な人々の集団単位と考えるべきだと主張しています。世界中を探しても、単一民族国家というのは存在しません。宣教単位は国家ではないと言う事だけは明白です。

 次に、このみ言葉では、宣教の目的が「ひとびとを弟子とする」ことであるのが明白に述べられています。このみ言葉の中で命令形の動詞は「弟子とする」だけである事に注目しておきましょう。あとの、「行く」「バプテスマを授ける」「教える」などの動詞は分詞の形で用いられ、命令形の動詞の内容を遂行するための手段として示されているものです。すなわち、宣教とはただ単に出て行くことでも、洗礼を授ける事でも、教えることでもなく、あるいは福音を宣言することに留まるのでもなく、それらすべての事を通して、弟子を作るという目的を持つと言うことです。

 また特に大切なことは、遣わされる者がキリストの「いっさいの権威」によって遣わされていると言う点です。したがって遣わされるに当って与えられた権威も、かつて弟子たちが町々に遣わされたときに与えられた権威とは異なる、もっと高い権威であったと考えられます。

 さらにこのみ言葉は、宣教には常に、どこにおいても主が伴ってくださることを約束しています。マルコの福音書の最後には、弟子たちが出て行って福音を語ったさきざきにおいて、主が彼らと共に働いてくださり、み言葉に伴うしるしをもって、彼らの語った福音を確かなものとしてくださったことが記録されています。宣教は教会に託された働きではありますが、教会が自分の力だけで奮闘するべきものではありません。必ず、主が共にいてくださり、共に働いてくださるのです。

c.ヨハネ20:21(17:18) 

 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」

 このみ言葉では、私たちの宣教が、本質的にキリストの宣教と同質であることが示されています。私たちはキリストが父から遣わされたと同様に、キリストによって遣わされたのです。

 それはまず、「目的」において同じです。キリストが遣わされた目的は、贖いの業を通して人々を救うことです。単なる一般愛の遂行、たとえば貧困の解消、疫病の撲滅、抑圧への戦いなどというものではなく、贖罪愛の遂行である点が大切です。教会はキリストが遂行なさった贖罪愛を、伝道という形で継続するのです。

 次に、遣わされた姿、「様態」において同じです。キリストは人々と同じ姿になって、人々と同じように生き、同じように喜び、同じように悲しみ、同じように痛み、同じように苦しんでくださいました。これは偶然そうなったという種類の事柄ではなく、キリストが決然として、そのように選択なさった事柄です。つまり、キリストは救おうとなさっている人々と、完全に同じ生活を、敢えてしてくださったのです。日本語では翻訳出来ませんが、アイデンテイフアイしてくださったと言う事です。

 そのためにキリストが実行してくださったのは、神と等しくあるという天の栄光を横に置くということ、完全な自己放棄です。そして卑しい人々と共に住むと言う謙遜です。贖いの愛の遂行という目的のために、キリストはそのような生き方をしてくださいました。それがまた、キリストのみ体としてキリストの使命を継続する教会の生き方でもあります。

d. ルカ24:46、 使徒1:8

 こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。さあ、わたしは、私の父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい」。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

 このみ言葉には、出て行く範囲、またそれに加えて意気地というものが示されています。そこいらに、ちょっと出かけてくるといった安易な出かけ方ではありません。野を越え山を越え、荒野を通り砂漠を過ぎ、海をわたって行く、困難を乗り越える使命感、忍耐力の必要性が、言葉の陰に隠されています。

 次に注意したいのは、「キリストの証人として」という資質です。証人には目で見た人という意味があります。つまり他人の体験として聞き及んだ事ではなく、自ら体験した事を証言するというわけです。ですから、宣教とは誰にでも出来る事ではなく、教会だけに出来るのであるという事実を明らかにしています。なぜなら、真実な意味でキリストを体験しているのは、教会以外にないからです。また、証人という言葉の原語には「殉教者」という意味もあり、まさに命を賭けなければ出来ない働きである事も示されています。

 また、教会はキリストの証人であり、キリストがどの様に生き、どのようなお働きをなさったかという証人であって、他の何者の証人でもないということです。第一義的な意味において、このキリストは現在わたしたちが神学的に理解しているキリストではなく、このお言葉を聞いた弟子たちが直接お付き合いをしたキリストです。馬小屋で生まれ、飼葉桶の中に寝かせられ、エジプトに逃避し、大工のせがれとしておよそ30年、ナザレという片田舎で貧しい生活を送ったキリストであり、3年半にわたって神の国の福音を語り、弟子たちを教え、十字架に掛けられ、不遇の死を遂げ、3日後に甦り、40日間彼らと共にいてくださったキリストです。教会はこの第一降臨のキリストを知っていたのであり、栄光の雲に乗ってこられる裁き主としてのキリスト、すなわち第二降臨のキリストを知っていたのではありませんし、神学的考察によって作り上げられた、全人類のために人道的な働きをするキリストでも、社会改革をするキリストでもありません。

 さらには、このような宣教の働きを推し進めて行くには、人間的な力では不充分で、上からの力によらなければならない事が示され、この力が、予め約束され、用意されていた事実が語られています。またこの上からの力は、「聖霊があなたがたの上に臨まれる」という事に、深く関わっていることがわかります。

 このみ言葉はまた、宣教の内容についても言及しています。「キリストの名による罪の赦しを得させる悔い改め」という、贖罪的な働きの徹底した継続です。社会派の宣教学者たちが主張する、いわゆる文化命令などと言うものは、小指の先ほども出てきません。

2.パウロの言及

 使徒パウロも宣教の意味を示す言葉を語っています。

a.IIコリント5:18〜20 

 「これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちの与えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世を御自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解の言葉を私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。」

 ここでパウロは、私たち教会に委ねられた務め、使命、すなわち宣教について語っています。私たちに与えられたのは「和解の務め」であり、私たちに委ねられたのは「和解の言葉」です。もちろん、この和解はキリストの贖いのみ業を通しての神との和解であり、その神との和解を基盤にして可能となる人間の間の和解、キリストのみ体を建て上げる過程での和解であり、人本主義的な和解ではありません。

 またパウロは、遣わされた教会が使い走りの小僧のような使いではなく、重要な役割を与えられた使者、すなわち使節あるいは大使、言い方によっては全権大使とも訳されるべきものであったことを教え、教会の重要性を示しています。ある人たちは「代理」と訳したがっているほどです。

b.エペソ4:11〜16

 「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストの体を建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全に大人になって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。(12〜13節のみ)」

 パウロは、キリストのみ体という彼の得意の教会論を進める中で、体のあらゆる部分が相応に働く事によって、全体がキリストの満ち満ちた身丈まで成長すべき事を示しています。教会がキリストの身丈まで成長することを目指し、パウロは産みの苦しみを続けていました。(ガラ4:9) パウロの宣教の働きは、単に教会を設立するところで終わるものではなく、その完全な成長を目標としていたものであることがわかります。また、この表現からも判断されるように、パウロの宣教理念の中には、頭の指示にしたがって機能する体、頭であるキリストの働きを推進する教会という意識が、含まれていたと考えるべきでしょう。

 パウロは、教会がこの世においてキリストを代理するものであることを、非常に強い言葉で表現しています。論を進める中で佳境に入って筆が走るとき、パウロは、キリストのみ体というべきところを、一足飛びに「キリスト」と言い切ってはばからなかったのです。「キリストによって遣わされた」、「キリストのように遣わされた」、「キリストの証人として遣わされた」というだけではまだ足りず、パウロは、教会がキリストの代理としてキリストの権威を帯びて遣わされ、キリストの代理として生きているという事を明らかにしたのです。(Iコリント12:12、コロサイ1:24)

3.ペテロの言及 Iペテロ2:9〜10

 使徒ペテロもその短い手紙の中で、宣教に関して重要な意味の言葉を残しています。

 「しかし、 あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださったかたのすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。あなたがたは、以前は神の民でなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。」

 ペテロは、本来イスラエル民族に与えられた、「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民」という呼称を、教会に適用することによって、新約時代の教会が、様々な意味で旧約時代のイスラエルに取って代わるものであり、その祝福された立場と働きを継承する者であることを示し、特に、「すばらしいみわざを宣べ伝える」働きを強調しています。教会が新約時代のイスラエルであり、イスラエルは旧約時代の教会であるという神学は行き過ぎであるとしても、キリストも明確にお教えになったように、教会はすべての民族の祝福となるという、イスラエルの使命を引き継いでいるのです。

C.宣教と伝道

 キリストが教会をこの世に派遣された目的は、父がキリストをこの世にお送りくださった目的と同じです。それは贖いの愛による救いの実践です。キリストの場合には、贖罪の完成としての十字架であり、教会の場合は、その十字架によって完成された贖罪愛の伝達、すなわち伝道です。伝道にも様々な定義がありますので、理解をしておかなければなりません。

@福音を宣言する

 J・ストットが主張する定義ですが、彼は聖書が用いている伝道に関わる数多くのみ言葉の内、「宣教」と「福音」という二つの言葉のみを取り上げ、そこからこの定義を主張しています。他にたくさんある伝道にかかわるみ言葉を無視する理由が示されておらず、彼の好みに合わせた定義といわざるを得ません。また彼は、伝道とは福音を宣言すること以上でも以下でもなく、それ以外の努力、たとえば救いに導くなどという働きは神の分野であり、人間はそれを侵してはならないと主張しています。これもまた、彼の理論であって聖書の教えるところではありません。

A福音を伝える

 語るだけでは伝えられたという保証にはなりません。伝わるように語らなければ意味がありませんから、この定義は@に比べると優れているといえるでしょう。しかし、聖書全体の教えから見ると不充分です。

B救いに導く

 一般に最も広く受け入れられている定義ですが、これは伝道と牧会という働きの二分化を前提とした、便宜上の定義で、聖書の定義ではありません。 

C洗礼をほどこす

 伝道を「徹底させる」という意味で、このような定義をする人がいますが、聖書の教えとは関係がありません。

D教会に加える

 教会にバプタイズするのは聖霊の働きですが、目に見える教会に具体的に加えることを言っています。洗礼と教会員になると言う事を分けて考えている人たちの、立場の一つですが、聖書の教えには無関係です。

E弟子とする  

 教会成長学徒の主張ですが、全体の考え方が西欧個人主義の流れの中にあり、共同体としての教会の理解に欠けるため、いきおい、個人としてのクリスチャンの成長に重点がおかれ、聖書が本当に強調する共同体としての、あるいは有機体としての全体の成長という事が、ほとんど無視されています。しかし、本来、体から切断されたままでの、肢体の成長などと言うものはあり得ないのとおなじように、教会に繋がらない信徒の健全な成長などと言うのはあり得ないのです。このような弱点は抱えているとはいえ、この考え方は色々な点で考慮すべき定義です。この弟子化の手段としていくつかの訓練方法が考えられます。 

ア)フオーマルトレイニング  
イ)インフオーマルトレイニング
ウ)ノンフオーマルトレイニング (フオーマルとインフオーマルの長所を取ったトレーニング)
エ)アンフオーマルトレイニング 

 フオーマルなトレーニングを与えるに充分な資質と能力を備えているにも拘わらず、あえてインフオーマルに留まるトレーニング。キリストやパウロは、非常に徹底したアンフオーマルトレーイニング《徒弟制度》を選んでいます。       

F教会全体を、キリストの満ち満ちた身丈にまで成長させる

 この考え方で言うと、伝道には、福音を語るための準備作業から、教会がキリストの満ち満ちた身丈にまで成長するまでの、あらゆる努力が含まれる事になります。したがって、教会設立、あるいは教会に結びつけるという視野が含まれていない伝道の試みは、本当の意味での伝道には足りないものであると言うことになります。

 以上の定義の中で、聖書全体から見て最もふさわしいのはFです。とはいえ、宣教とはすなわち伝道であると言い切ってしまうのには、これらの言葉の通常用法から困難な面も出てきます。宣教という言葉も伝道という言葉も、一般的にはかなり曖昧に用いられて来た経緯があるからです。例えば、伝統的なキリスト教国で、クリスチャン人口の比率が非常に高い地域で伝道する教会も、伝道と言う働きをしているという事実においては、まったく問題がありません。そこに救われなければならない人間がいる限り、また、キリストのみ体が建てあげられなければならない状況がある限り、伝道の働きには意義があります。教会がそのために努力をしている限り、その教会には存在価値があります。しかし、もしそれで満足しているとしたら、この教会は宣教の働きをしているといえるでしょうか。

 宣教という言葉には、やはり、遣わされて出て行くと言う意味が、強く含まれています。クリスチャン人口が多く、たくさんの教会が林立している状態の中で満足し切っていては、この地域にある教会、キリストのみ体は、伝道はしていたとしても、遣わされて出て行くという一面を失っていると言わざるをえません。この世界に、まだ福音が伝えられていない地域があり、まだキリストのことを知らない人々の集団がある限り、宣教に使命を与えられている教会は、そこに出て行き、福音を語り伝える義務があるはずです。これらの教会が、自分たちの地域においていかに熱心にまた効果的に伝道をしていたとしても、自分たちの地域の向こうに住んでいる、福音に接したことのない人々を無視しているとしたら、キリストの宣教の命令を果たしているとは言えません。ここに、伝道と宣教の部妙な違いがあります。そして、現在の多くの教会にとって、いわゆる福音の未開地に対する伝道こそが、最重要課題であるという議論の正当性があるのです。


[1]   ただしミッショナリーという言葉、あるいは日本語の宣教師という言葉も、大航海時代の植民地政策に関わる負の遺産を引き継いでいるため、時と場合によって、使用には注意深さが必要とされます。

[2]   宣教論的には大変重要なみ言葉ではありますが、この部分は初期の権威ある写本には含まれていないため、( )の中に入れてあります。しかし、どのような経緯で初期の写本に含まれなかったにせよ、また、霊感を受けているかいないかは別として、このみ言葉を、キリストご自身がお語りになったものと受け取るには、問題がないと考えます。

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